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ドキュメント内 清澄寺草創考 (ページ 40-43)

る︒何となれば弘賢は山川氏の研究に依れば真言宗醐醐三賓院の名医で︑若し﹁鵠岡八幡宮寺枇務職次第﹂に依れば︑

文和四年から八十六歳の臨永十七年まで五十六年間︒清澄寺の別問職に居り︒その他箱根︑走湯山雨模現を始め︑前

項に述べた月輪寺︑鍵阿寺等閲束十余所別頭職を索ねて居つだの廿ある︒且つ文和四年三三五五V即ち聖減七三年以

来弘賢は清澄の別叫であり︒且つ就任よりコ一十八年目の明徳三年︵一三九一三聖減一一

O

年に

c比丘議問の瑳願に依り

檀那源清貞︑比丘明了の力に依て党鑓が出来︑時の別頭前大僧.正法問大和向弘賢の錯銘が刻されたのでるる︒而して

その初に﹁慈完大師草創﹂とあって︑決して従来の傍設の如く中興はないのであるo勿論首時宗減の問題は後世の如く

厳確でなかったにもせよ︑侍殺と弘法とは法義の上に於て針立し︑就中慈売の如・きは大日経中心の弘法の東出向に封し

て金剛頂経中心の台統の雌であり︑理同事勝の内容は弘法の九顕一緒の設に封し︑偉敬の=一様一貫に法り三顕一−密の

義をなし︑殊に明年には財閥揚大戒論を著して倖救の岡頓戒を顕揚したのである︒就中安然の如きは﹁救時問答﹂第二に

於て︑弘法の十住心批判に封して五失︵一︑建ニ大日経及義醐竺二︑連コ金剛頂ハ二二︑遼=守護経叫四︑違コ菩提心論4

五︑ 連= 衆帥 説

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を掲げて︑且つ四一十門の救判をなして︑義持の一大尉救論を天台の法華開舎の意を立脚し

て大成した如き︑台東雨密はその流れ哉然として格別である︒随って後流安ぞ先庄の流を混歩るが如きととがあらう

故に清澄寺にして果して東密の不思議法師創立とすれば︑東畿の弘賢が台絡の諮畳bL以て或は中興と讃し得るも︑﹁草

創﹂の組と仰ぐ者はあり得ぬのである︒故に弘賢は錆銘に創立の事宜を如寅に記したものといはねばならぬ︒律家は

清澄寺はム口密の慈莞草創の寺であり︑且つ宗祖首時も台後の寺であったのを︑中比弘賢の頃より東・一役となった事貰を

指摘して今日本岡の真一吉の大地古跡多分︑とれ本天台宗たりしが︑中古より真言ウ一市となる故なり︑房州の清澄も議費建立の

寺にて︑天台宗たりしが中頃より高野の末寺となれり

と述べて︑清澄守の草創の事貰を明示したものである︒故に古来より清澄相停の不思議法師草創設は︑恐らくは前掲

大日経供養法巻の疏の著者不思議法帥の名に限托して︑草創を慈費以上に操0上げ︑中頃東密と左れる事貨を援はん

としたものではなからうか︑とれ上越の意の示す所の結論の様に思はれる︒

四︑慈鳳寛大師東闘停遁の史賓と遺跡

慈費大師の入唐求法の史置は︑大師の﹁入唐求法巡糟記L凶巻に詐である︑且つとれに依れば求法の順路等に就ては

元享禅堂同等の記事は多少の誤があるととも明であるが︑若し東闘停遣の遺跡に就ては今日随所とれを偉聞するが︑停

道の事置を惇ふる史置に乏しいのである︒先づその一史賓としては︑宗性の﹁日本高借倖嬰文抄﹂第一に依れぽ弘仁七

先 年

師有

=本

願一

欲レ

量百

三寝

二千

部法

華経

︵寧

=弟

子等

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=向

上野

下野

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市レ

願己

畢︒

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金︑

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一 ﹂

= ︶

と記して偉設の所闘を巣たすために︑二千部法華経を壷謁して︑上野下野の地に法華経を納めて願を巣じたとあるは

とれ大師の弘仁末の東闘停遣と見べきである︒更に

大師 弘= 法此 山入 比叡

︶未 レ有

=外 化一 不

b如 下普 向= 諸方

−蹟 利

m 有情

上︒ 大師 雌= 岡僻 譲− 不レ 忍= 霊請

−強 出= 山門

↓今 歳天

長五年也︒其夏法隆寺講=法華経↓乃至自後遺向=北土﹁弘=暢妙典弐向上﹀

等とbるに依れば︑天長の初の東闘停道を偉ふるものである︒随って大師は入時前弘仁︑天長の交東北地方に行化し

たととは桂度に信じ得られるのでるる︒とれ東闘惇道の史貸であるが︑現にその遺跡として偉ふるものは︑東北の名

剰の大牛で敦れも大師を以て草創の組と

L

て居るのでるる︒今且らく手元にるる記録に徴するに左の如くである

精液寺草創考

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精液寺草創考

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一︑ 松島 瑞巴 厳寺

︑五 十三 一代 津和 天皇

︑天 長五 年︵ 八二 八︶ 開創

︵同 寺田 各停

仁︑山形立石寺︑冗十六代清和天皇︑貞観二年︵八六

O

﹀開

創︵

同寺

泊革

コ二中等寺︑五十四代仁明天皇︑事群三年︵八五

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︶開

創ハ

平泉

志︶

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四︑ 平泉 毛越 寺︑

︵同

LL

等でとれ筆者の親しく巡拝した所であるが︒﹁若し立石宇治革﹂に依れば︑大師の開創若しくは中興に係はるものと

L

武臓の浅草寺︑黒子の千妙寺︑仙波の喜多院︑下野の日光山︑陸前の松島︑平泉の中等寺︑並に毛越寺︑恐山の固 て

通寺︑瞬振の大臼山の如き︒叉本山脚にては二色根の薬師寺︑千議山の寓松寺︑山形の柏山寺︑羽黒の寂光寺︑吹浦

の鳥海山等ぱ共主たる者

と記して居るが︑斯の如く東北の名山百利は概ね大帥の開創に拘はるのである︒とれ等の事質よりして清澄寺を以て

大師の草創となすととは︑必十しも過然ではない様である︒

要するに前項に述べた如く清澄山は︑その地相よりして求聞持法の道場として無二の地でるり︑且つ新縁起には﹁承

和三年慈費大帥東関越錫の閥清澄山に登り︑悌法相懸の霊地たり﹂といふはその事情bL裏書し︑更に﹁虚定蔵求問持法を

厳修して共成満bL祈り﹂といひ︒﹁旭森考﹂には﹁慈畳大師此践に於て求聞持の法を修し﹂等とあるのは︑求問持法所修

の道場在るとと明かである︒東北諸山の草創の遺跡といひ︑東密弘賢の錆銘といひ︑我︷一京光院の説等に依て︑求問持

誌に依り虚空識を本隼とする慈畳の再興にあら守して創立と考ふるものである︒

若し本邦の求問持法に就では既に雨停を出したの台あるが︑慈組閣入唐前既に仁明帝の承和五年︵八三八︶入唐以前︑

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