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ドキュメント内 清澄寺草創考 (ページ 33-40)

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とあ り︒ 叉﹁ 償綱 補任

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一二

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O︶も組ぼ同一ではあるが︑内容は多少粗暮である︒

右の如く営時の借綱にもその名は見えぬのである︒若し道鏡の如きは清水氏のいへる如く︑﹁年表﹂に依れば孝謙帝

の天平賀字七年︵八年前︶始めて少僧都に住ぜられたのである︒若しその註に

河内閣入︑弓削氏︑天智天皇孫志基親王第六子也︒義淵借巨弟子︑初簡ニ葛木山↓修ニ如意輪法︵苦行無レ極︒高野天

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とあるに依て︑話時総修の中如意輪法︑宿限秘法等の行はれたととも明かでめる︒且つ

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の文に依れば遺鏡は天智帝

の玄孫であり︑随って箪なる自家でなく皇胤であったのである︒とれ先年久米博士等の道鏡皐胤論の典擦でるらう︒

叉此の年竪民和尚も律師に任ぜられたのである︒忽年道鋭は大臣締師とたり︑更に翠天平紳護元年には大政大臣師側

となり.mr二年法王位を授けられたが︑光仁帝の賓亀一冗年には下野の薬師等の別頑として配流せられ︑三年配所に於

て入滅したのであるが︑営時の律師の中には不思議の名は見えねのである

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M︿東闘の寺としては営時下野の薬師寺は

東岡の戒壇院で有名であったが︑他に比すべき名刺も無かった様である︒

清澄寺草創考

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更に開︒て賞時の民昔日は如何といふに︑山崎の玄宗の開元四年ハ七一六︶善無長三臓が始めて長安に来り︑同八年金剛

智︑ 不出 誌が 相弐 いで 洛陽 に楽 り︑ 十一 年︵ 七一 三一

︶金 剛智 始め て﹁ 金剛 頂粧

﹂間 容を 出し

︑十 三年

︵七 二五

︶無 畏﹁ 大日 粧﹂ 七谷 を出 し︑ 十問 年. 耐火 に﹁ 蘇本 地経

﹂三 位句 を出 した ので ある

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つ前出の大日程の課後無長が一行のためにこれを講

授し︑それを筆録したのが﹁大日辞疏﹂二十傘でるる︒然るに十五年未だ再治に至らやして寂した放に弟子智艦︑温

古舘

一寸

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治し

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義糟

L十四巻で︑前者は東皆︑後者はムリ軒の依用する所である︒而して大円程第七の供養法に就

ては︑新羅の情不思議法師が︑無長の口設を聞いて疏二審を作り︑世にとれを不思議の疏ともいふのである︒併しそ

の製作の年月は判明せぬが︑一行と粗ぼ同一時代と見るべきであらう︒即ち同疏に依れば大意︑来由︑題目︑随交の

問門に約して供養法の巻を解し︑第二来由の格に

所謂小子者︑阪披ニ品目無長三織和上一即是小僧不思議多季︑商コ諮和上︵所ι

法要

︑随 分抄 記︒

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とあるに依て口拾の筆録・なるとξ

明か であ る︒ 叉下 線− の最 後に 叉可 レ云

︑甚 深無 相法 劣慧 所レ 不レ 堪︑ 母レ 陪ニ 彼等 一故 殺存 ニ有 相詑 一此 文法 人新 雑闘 零妙 之ヰ 寸樟 不思 議︑ 随分 穿撃 願一 一此 文見 一滴 知ニ 於本 不生 理中 誰一

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とあるが︑此の不思議は新維の零妙寺の併といふ外知る由が・なく︑叉僻者中不思議なる名は我草山の政公の外︑未だ

寡分にして無長の弟子新羅の不可思議あるを知るのみである︒

市して此耽の連作を組依開皇十五年︵七二七︶とすれば︑光仁帝の賀亀二年︵七七一﹀に先づとと五十年で︑此の時は

仁明帝の承和六年︵八三九︶闘行の﹁霊厳寺和尚請来日録L

︵ 自

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には見え・ないが古来より園行請来と侮へる︒且つ

首時慈血寛大師同入荷後恰かも第二年に営るのである︒且つ此の承和とは清澄寺縁起に所謂承和年中慈畳再興の年に営

るのであるが︑慈費はホ唐十年である故に︑此の間慈莞が清散を再興する謬はない︒若し﹁一花亨稗書﹂一犯者無畏の偉

を出し

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と述ペ︑古来或は無長の来朝の事ありと停ふるも︑史上何等の事賓なく

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つ次 下に

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とある如く︑弘法入唐以前既に大日経の倖来があったのを︑課者の来朝の誤ったのでるらう︒﹁傍通縁起﹂下に

開元同年善無畏来乃至善無長三臓・来朝之年︑雄ι

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とあるも同一意に外ならぬ︒

斯の如き無稽の傍説あるよりして︑若し清泣山の草創を相世田の人に求むれば︑或は後人此の無畏の弟子不思議を以

て配したものか︑叉は清水師の如く全然無関係の所謂修験者流に同名の人のあったのであらう︒さなくば後人漠然と

不思議法師なる人を段浩して清澄の開山に配したのであらう︒我位一寸は前述の無長・米朝説あるに依り︑今の不思議を

して清澄の閉山に隅したとも見られる︒若し彼の﹁大日経供養法次第疏﹂下には

次樟 ニ虚 窓識 轄明 妃真 言門

﹁経 日繭 時如 来復 設− 一虚 宰力

︑虚 察輔 明真 言↓ 者︑ 満如

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︑無 量法 費自 殺取 用而 無= 窮明 一故 名一 一鹿 本臓

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︒時 明者 時是 能生 之義 能律 ごみ 山誠 一能 生二 切備 事マ 也︵

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とは大日如来を﹁不可破壊一切無能勝者﹂つ無責法費自在取用市無窮喝﹂の虚宰臓と譜歎し︒叉等鹿室︑理蹴宗の語を用

清澄寺本創考

精液寺本創考

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ゐて讃歎するに見れば︑不思議院は大日如来を以て︑虚宰臓と探成した点に於て︑虚指摘窓口薩とは思想的には何等閥

係はなく︑叉とれを以て今の不思議を清泣の開山と推す理由は喜もないのであるo故に若し不思議法師なる人が某し

であったにもせよ︑左程の人ではなかったのであらうし︑或は全然居らなかったかも知れね・更に研究を裂する︒

一︑慈費大師の草創説

上越の如く清澄山の草創は︑不思議法師と侍へるが新隷の不思議法師でたいことは明かである︒随って縁起にいふ

如く不思議の行動と法験に依る一族惜の草創となるのであるが︑併し勤かし難き事賓としては虚空蔵菩薩を安置する

求問持法の道場なるととである︒叉賓亀二年が果して草創なりや否やも判然しないのである︒故に﹁房組志料﹂には

光仁帝賀亀二年︑首時創立と侍ふ︒想ふに是頃よりして︑虚空白川を置きしと見ゆ︒︵﹁地名辞典LE

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述べた所以でるる︒然るに弐の慈費中興に就ては﹁安房闘志﹂に

承和年間慈費大師亦来り︑不動明王の像を剥す︑今猶ほ寺中に存す︒︵向上︶

とあるが︑此の不動明王云kは他の詑録に見えぬ故に︑清澄の本隼は虚空臓とすればいふ迄もなく求問持法の本隼

である︒而して求問持法は元正天皇の養老二年ハ七一八﹀道慈に依て倖へられ︒その後善議︑勤操を経て弘法に停はり

更に弘法は大同元年︵八

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−ハ︶入唐再び相体したといへば︑賓亀二年︿七七一﹀に我が周に求問持法の侍来して居︒たと

とは事貨である︒而して清澄の開創が果して求問持法とすれば弘法再侍蹄朝前である︑障で遺慈相停のものでたけれ

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つ道慈の弟子善議竺功︒叉はその易子勤操笠引の相承のものでなければならぬ︒然るにその年代より見れ

ぽ普議と同一時代に属する放に︑若し果して不思議法師なる者ありしとすれば普議の孫子といふよりも︑道惑の弟子

とし・なければその時代に制崩する︒今道慈の弟子に就て見れば

讃 慈

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勤 安 操 殻

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願 書 玄 賞 暁 建 叡 敏

左の如く別に不思議の名は見へぬし︑叉よし遺慈の弟子に不思議法師なる人ありとするも︑更に求聞持法の相侍早々

無名の法師に依て︑東方の謹闘にまで弘通せられたとは考へられぬ事である︒

故によし不思議法制に依て清澄が草創せられたにしても︑求問時法を以て開創したととは信じ難い︒陪って果して

虚空臓を本隼とせしゃ否やも怪まれるのである︒されば岩村帥は﹁新縁起﹂の寺門の料理還の下に

不思議法師開創営時の清澄寺は︑極めて徴kたる山寺に過ぎざりしが︑共の後六十余年を経て︑仁明天皐の御宇承

和三年慈畳大師東関越錫の閥︑清僚に登りし底︑聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜ守︑之に悌法相躍の露地たりとし︑

錫を止めて興隆に力を翠し︑自ら一草堂に龍りて︑虚空班十且口醸求問持法を躍修して共成満を祈り︑還に併坊を建つ

ること十有二︑詞殿を遺るとと二十有五︑房総第一の

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利天台有敷の大寺となりo清澄寺の名︑漸く世に知らる

とに 亙れ り︒

左越ぺし如く不思議法師の草創は甚だ紡備であって︑u謡史大師求問持法を以て相憶の露地として問創せし如き文勢

である︒而して此の文勢に最も有力なる根擦を興へたのは.清法山に侍はる明徳コ一年︵南朝元中九年二三九一一︶の﹁古

錆銘﹂である︒即ち

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−加州千光山清澄寺者︑慈畳大師草創︑往昔有ι

︑破 壊久 語︒ 何以 驚コ 時限 一・ 此= 酸苦 喝行 脚比 丘恵 問︑ 参= 開府 宗臓 大

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