• 検索結果がありません。

一 ー

ドキュメント内 棲神 第62号 (ページ 92-119)

、大。怖

以。地。ー、

ν 事110J1, 

掌。女0 g‑' 

( 92 )  安静結坐 ︑﹂

具−− 如

ν是大勢威力− ︑

放回 二済 衆

生− ︑

種々

願悉 令− 一満

一 云 云

︵大正蔵︑国像︑第四巻︑三

五三頁C

ー寸

﹂悠者

とある︒この経は大蔵経にその名 の見えない経典で︑且つ又︑仏教

のパンティオγに存在しない牛頭

1  天王などの名があるから︑中国の

宋時代の新作といわれ︑鎌倉時代の編纂の阿婆縛抄にも﹁新渡の続

山内

﹂と いわ れて いる か

ら︑藤原時代に我が固に伝

った

もの

推定されている︒然して間組はこの経の生れた時に

︑兜 鉱山 地沙 門天 像が 紋

uTや成立していて︑二種の昆沙

門天像があったことである︒

この両者の差は︑普通形のそれは︑写真

2

の如く邪鬼をふんまえ︑躍動的で左右が不整合であるのに対し︑兜肱形

は地 天が 出仰 げる 形で

︑正 面性

︑やや硬直化が目立つが︑頭に臥凪のついた冠をかむり︑膝まで垂れた左前の金鎖の鎧

をつけ︑腕には海必簡手といわれる金制汁をつづった卯状の納をつけている︒特に杵泌形のダイナミック性は西城教

埠の壁画にまで及んで︑その特徴を示している︒

兜時

臥毘

沙門

天の

背景

︵肉

眼悩

兜駿 見沙 門天 の背 景ハ 高橋

この傾向は日本にまで及び︑兜抜形は羅城門楼上に置かれたという︑京都の東寺の像と他の普通形の昆沙門像の対

比でも明らかであるう︒ちなみに︑この東寺の像が実に西域的なのに比して︑兵庫県の達身寺のそれは普通形の毘沙

門天の服装に同化し︑紀州道成寺では更に一歩この傾向を進め︑大宰府の観世音寺のものになると︑両足が地天に支

bえられるのを除いて︑何ら異なる所がなくなって来る

従って︑この兜践形が左柾や正面性等後述の如き西域風の特 o v

徴をもっ所から︑その成立の場所が推定される︒否その場所だけではなく︑その場所でこうした像を作り出した思想

的変化が︑なぜもたらされたかが注目されねばならない︒

即ち︑普通毘沙門天像が︑邪鬼をふんまえている︒邪鬼側からすれば︑﹁他動的にふんまえられている﹂ものから

写真1の如く﹁主体的に﹂毘沙門天を﹁捧げもっている﹂ところに﹁思想的深化﹂

﹁立

場の

飛躍

﹂が

示さ

れて

いる

のと

考え

る︒

( 94 ) 

そもそも見沙門天のルl

ツは

lルフットやマトゥl

ラの

スト

lパの欄楯の柱に彫られているヤクシヤ・ヤクシ

ーのように︑大地の生命力に対する信仰に根ざす︒大地の生命力の表現が聖樹であり︑その人格化がヤクシヤ・ヤク

シーである︒この一体化を表現したユニークな彫刻がある︒写真4の如く表から見ると盛満なヤクシl像だが裏面は

植物の茎や花である︒これは男性のヤクシヤでも同

b v

写真5の如く巨大なヤクシヤの両足の聞に木の芽が崩え出て

これは写真3の如く豊満な女神が足を木の幹にからめ︑

像﹂

から

も理

解さ

れる

いる

から

であ

る︒

手で枝をつかんでいる

﹁樹

と夜

叉の

一体

兜級 協沙 門え の相

マ ト ウ ー ラ ヤ ク シ ニ ー マ ト ウ ー ラ 博 必

兜絞

毘沙

門天

の拘

H

︿

マ ト ウーラi ヤ タ シ ヤ

96 ) 

然もこれらの像は不可思議なものをふんまえている︒人間らしいもの︑牛や馬︑ましてマカラといって︑尾が魚で

体が動物のもの︑民には植物の花や水の珪もある︒これらは︑大地の生命力︑その大地をして脱線ならしめるモンス

7vlンの雨即ち﹁水﹂を表

して

いる とい われ てい る︒

こうした不可思議なものをふんまえている像を見ていると︑明らかに将泊昆沙門天の﹁

邪山 地﹂ はこ のイ ンド の伝 統 の下 に

ある

こと

がわかろう︒然しこれに対して前述の如く︑意識的に﹁持げもつ﹂ものは臭った系統のものとい

えよ

インドの大自然から生れた夜叉信仰は︑孔雀王呪経の示すが如く︑各種族で︑恰もトーテム神の如く︑夫々部族の

主神として記られて居り︑総数二百に及ぶ夜叉を中心に彼等が生活していたことがわかる︒これはインドの生活が大

樹を中心として︑その根方で寄り合い︑冠婚葬祭等の通過儀礼を行っていて︑その生活はその土地その土地のいろい

ろの大樹と切っても切れぬものであったからであろう︒これは原始経典に随所に見られる所である︒

然し︑人聞の意識が発達して来ると︑人聞社会の状態の感情移入がこの夜叉の世界にまで及び︑主長と家来の系統

だてが行われた︑その頂点に立ったのが︑バイスラパIナ︵毘沙門天︶であった︒

長阿含第二十第四分世記経四天王品第七

﹁若毘沙門天王︒欲詣伽見延頭園遊規時︒即念提頭頼天王︒提頭頼天王復自念言︒今毘沙門王念我︒即自荘厳駕

毘沙門天王常有五大鬼神︒待衛左右︒一名般閤楼︒二名檀陀羅︒三名越摩故陀︒四名提偏縁︒五名修逸路摩︒此

乗宝

車︒

真無

数乾

沓和

神前

後囲

遇︒

詣毘

沙門

天王

前於

一面

立︒

::

:昆

楼劫

天王

::

:昆

楼婆

叉:

::

四天

王大

臣:

::

五鬼︒常随待街︒昆沙門玉福報功徳威神是︒﹂

︵長

阿含

世記

経四

天王

品︶

と︒

︵大

Il

− −

一 一

O c

起世経巻第六四天王品

︒︒

︒︒

﹁爾

時昆

沙門

大天

王︑

即亦

自著

=衆

宝現

洛ス

荘=

厳其

身ス

駕コ

種種

乗−

︑与

コ提

頭頼

昭︑

︒︒︒︒︒︒︒︒︒︒

大天

王−

︑各

将=

所属

諸天

王衆

−︑

前後

囲透

︑皆

共往

−−

詣迦

見延

多国

苑乙

到巳

在=

苑門

前九

暫時

停住

毘楼

勅迦

枇楼博叉等四

諸比

丘︑

迦昆

延多

苑中

︑自

然而

有三

ニ種

風輪

−︑

謂−

−閲

浄吹

−︑

関者

関=

彼園

門六

浄者

浄=

其園

地−

o

勤。鴎

迦。、

天。諸王。比

、 丘

此。

楼。迦

博o毘

叉。延

天o多

玉。苑

笥。宍

与。所= レ

諸o散

小。衆王。花

及。

衆o積

巻。至

害 。 手

遺。ー、因。膝

吹者

吹−

−其

園樹

−︑

ν花

0 0 0 0 0 0  

種々香気周遍普薫﹁雨時毘沙門大天王︑提頭旗陀天王︑︒︒︒︒︒︒︒︒

共入

=迦

昆延

多苑

中−

燥浴

遊戯

種々

受楽

李被園

兜政

見沙

門天

の背

景︿

高橋

兜紋

川 地

沙門

天の

河川

以ハ

高僑

︸投

浴誌

じ﹂

︿大 正

l l l

三四

O a

これは毘沙門天王が他の三天王やその作肢を従えて凶苑に遊ぶ牧民の﹁行進天王国︿写真6﹀﹂がこれを図示して

いる如くである︒

一方

︑これと時代的にも前後す

大英博物館蔵 るが

︑ガンダiラでは︑土俗神パ

ンチカとハlリティが信仰されて

いたが︑西からの外来民族は︑

〜 日 凶 教的問中行道天王図

の神である火の神フアローや︑生

98 ) 

を y[

も 別 つ 殖 て の 入 1J11

て ル

*・ド

た タ

こ ョ れ |

ら(の .10  か~IJ

ガ 仰

ン 〆 ラの地でAH﹂﹁判した判l︒

︿けとは同じ性絡の仙仰を一方の民肱 6  はパンチカとし︑他の民族はフ7 ロl︑叉ハlリティーをアルドグ

ショ!と凡なして一つのものを阿

方で寸前なくい仰することである︒民民族雑M

仙 の 品 川

uu刷的世界ならではの妥協的な考えであった︒これがクシャン朝で

行われていた︒この点に閲しては︑私はいろいろの論文で述べて米た︒

との綜A

け で

ある︒即ち︑

タフト パーイllU:

フアローとアノレドタショー(パγチカとハーティ〉

物λ;!)~Ii.It館~Ji.

民に︑ζれらが仏教の中にとり入

れられて米る︒火の神フアローと習

合したパンチカはインドのヤクシヤ

ヤタシ!の主民たるクベラ・パイ

スラパlナの五人の大将軍とし︵前

述長阿含世必経﹀やがて山地沙門天そ

のものと

叩符 合さ れて 民別 が分

らなく

なっ て行 く︒

一万アルドクショ!と

判介し

たハ

lリティーは︑

これ

父山

子母仰として︑仏教の中にその地位

を占 めた

︒ 引払 が特 に興 味を

もつのは︑凶方の

﹁火﹂の仰と︑インドの﹁水﹂

の神

インドはモンスーンの州によ

って

︑﹁

樹が 小い え収 股が 得

られる︒それがこすれ合って﹁

火 ﹂

﹁水←火﹂という思想系体がリグ・ベl〆以米の伝統である︒が出る︒

て%となり︑

物淡 い. 山を 降ら す︒ 砂淡 の. 山は

﹁ノ

アの

箱舟﹂ 一方砂出では︑強烈な太山酬がすべてを焼きつくす︒地上の水分を余すと己ろなく地表からえ一発させる︒これが集つ

すべての生命を洗い流すが如く供

の仰

げ中

川の

. .  

小す

が如

く︑

山% 減陀 沙門 大の 品

NM

締 ︶

尚橋

水をもたらすと同時に砂淡に生命の

﹁再 生

﹁観 活﹂ をも た

らす︒私の体験ではアフガニスタンのパルフで︑或はシリヤ

砂川

出で

︑はた又イランのシラlズからベルセポリ久への道で

この﹁火による.山﹂によって砂漠が再生し︑前にnル

た焼 け来

ベノレシャワノレ博誠

てた砂肢と全く別物と忠われる純であった︒従っ

て砂

川山

では

m v

﹁火

←水﹂の桃図が見られた︒

かくて火の神たるフアロ!と水の神ヤ

クシ ヤ

・ヤ

クシ

lが

習合してパンチカとなりクベラ・パイスラlパ1ナとなるこ

とは﹁火﹂と﹁水﹂の両文化が︑毘沙門天の中に綜合凝結さ

(JOO) 

れていると言えよう︒

こうした﹁火﹂と

﹁ 水

﹂の文化を兼ねそなえた毘沙門天が

仏教の中に確固たる地位を占めて行く︒例えばガンダ1

ラ彫

刻の﹁仏鉢供長図﹂の如く︑

一二 天王

と共に釈却に﹁鉢﹂を供

長している像のように︑仏教の中に深くかかわって米る︒

然しここで注意すべきことは︑

土木 だ武 装し てい な

いで ︑

ドキュメント内 棲神 第62号 (ページ 92-119)

関連したドキュメント