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ky o to te k ke n
この「方程式」の解き方には論理的な問題がある。命題「S+V」に対する理由Rは、Sに対する述語になっ ている。(私は会社に行く「S+R1」)
したがって、「S+R+V」は、「[S+R]ならば[S+V]」を書き下したものである。ところで、この構造をも つ命題を「逆の意味にする」には、逆・裏・対偶の三つを考える必要がある。
元の命題:[S+R]ならば[S+V]
逆:「[S+V]ならば[S+R]」
裏:「[S+R]でないならば[S+V]でない」
対偶:「[S+V]でないならば[S+R]でない」
ここで、[S+R]と[S+V]とにそれぞれ真偽を割り当てると、(真真)(真偽)(偽真)(偽偽)の四通りである。
そこで、この四つの場合について、元の命題と逆裏対偶の四つの命題の真偽を調べると、表①のようになる。
① ②
表①に従うと、内海は裏を作っている。仮に対偶をつくる場合、元の文と真偽が完全に対応してしまうため、
「解」にならないと考えられる(現状を再確認している)。では、「解」とは何か。それは表①の第三行に当たる。
すなわち、理由が真で結論が偽(好ましくない)の場合に、その命題の「意味を逆」にして真偽を反転させること である。したがって、逆をつくっても人生方程式を「解く」ことができる。例えば、「うつ病になるのだが(なら ば)会社に行く」も「解」である。
これが人生方程式の解になっているのだろうか。こう考えてみよう。命題とその対偶は同値なので、対偶を とってその裏を作れば逆になるから、対偶を認めることが本質的には重要である。つまり、「うつ病にならな いなら、(少なくとも)会社には行かない」という認識から始める。この現状を打開するためには、どうすれば
「うつ病になるときに(ならば)会社に行く」ことができるかを考えてみる必要もあるはずだ。
より立ち入って考察すれば、裏は理由を否定しているので消極的となり、逆は理由を肯定しているので積極 的となる。因果関係を逆にしても命題の意味を逆にすることができる、というのがポイントである。「会社に 行かなければうつ病にならずに済むのに…」という思考は、上司を変えれば会社に行ってもうつ病にならない 可能性や、会社以外にうつの原因があるので(妻がうるさいなど)会社に行かなくなってもうつ病が続く可能 性を見落とす。「会社に行ってうつ病をなくすにはどうすればいいか?」と積極的に考えてみることも大切な のである。もちろん、追い詰められているのに「何とかなるはずだ」という考えに固執することの危険を見越 して、内海は裏を作ることを勧めているのだろうが。
理由が複数ある場合、それらが「かつ」で結ばれているか「または」で結ばれているかが重要である。表①よ り、元の命題と対偶とは同じ真偽を返し、裏と逆とは同じ真偽を返すことが分かっているので、表②には裏と 対偶のみを掲げる(たとえば「1∧2裏」はR1かつR2のとき命題「S+RならばS+V」の裏を表わす)。
「かつ」は方程式とみなす命題を狭く取り、「または」は広く取ることになる(表②の第二三六七行を、「かつ」は 表①の第二行、「または」は第三行と見なす)。内海は「かつ」を選んでいるが、原理的には「または」を取ること も可能である。
例えば、独立して「上司の期待」をなくすことで、うつ病にならずに会社に行くことも仕事をまじめにこな すこともできよう。このとき、うつ病を回避するには、何も会社に行かなかったり仕事をまじめにしなかった りする必要はなかった、ということになる。
「かつ」を選ぶことで、人生方程式が使用可能な範囲がきわめて限定されてしまうことに気づくだろう。し かし、「または」を選ぶと人生方程式を利用しても解の範囲が広すぎてあまり役に立たないことが予想される。
特に、理由を思いつく限り列挙してしまうと、独立の理由がn個あれば「かつ」をとるか「または」を取るかで 方程式の解にn2通りの場合もの差が出てきてしまう。つまり、方程式を立てる前に、問題がどの程度複合的 なものかを把握することが大切なのである。そして、原因を可能なら一つに絞ったうえで、人生方程式を解く ことが望ましいと思われる。そのときは、内海の提案する「裏」と同時に、「逆」の発想も使ってみてはどうだろ うか。
ii やっほー☆ ぷらたんおん自ら注です!
この作品はフィクションです。実在の人物、団体、事件などにはいっさい関係ありません! あたりまえですね?
もうひとつ! この注は「ネタバレ」です。最初に読まないでね?
範的理論のすべての哲学を含めた形而上学の領域では、論理分析により、この領域で申し立てられている言明がまったく 無意味であるという否定的結果が得られる。それとともに、以前の反形而上学的立場からは不可能だったところの、形而 上学の根本的な克服が達せられる。」(カルナップ一九七七、一〇頁)は、四・〇〇三「哲学的なことがらについて書かれて きた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである」(ウィトゲンシュタイン二〇〇三、三九頁) の丁寧な解説である。内容はハイデガー批判。
ivコント「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」の総説(コント一九七〇、八〇~八一頁)から適宜引用。
v このような「哲学者」の典型は(人間全般について論じた)ホッブズである。ライプニッツはホッブズに、「(デカルトより
も)精確に、明晰に、優美に哲学した人」と書き送ったそうである。「十七世紀における「哲学」観からすれば、ホッブズは最 も「哲学者」らしい哲学者の一人だった」(伊豆蔵二〇〇七、一一三~一一四頁)。また、ルソー『人間不平等起源論』、ヒュー ム『人性論』はこの「人間論的転回」を意図している。「総合人間学部」の名付け親である藤澤令夫は「専門諸科学による各 領域の精密な分析的研究と共に、その研究成果をもとにして、自然と人間とがそれぞれ統一体として機能し互いに調和し あうことのできる条件を、総合的・全体的に明らか」(京大広報三六六、六〇五頁)にするのが「総合人間学部」の設置目的 だと述べている。より思想的な背景は「学問の原方向性」(『藤澤令夫著作集六』所収)などを参照。
vi「経験主義の二つのドグマ」の以下の記述を参照。「分析的真理、すなわち、事実問題とは独立に意味に基づく真理、総合 的真理、すなわち、事実に基づく真理とのあいだに、ある根本的な分裂があるという信念[…]還元主義、すなわち有意味な 言明はどれも、直接的経験を指示する名辞からの論理的構成物と同値であるという信念[…]これらのドグマを捨て去る結 果は、あとで見るように、思弁的形而上学と自然科学にあると考えられてきた境界がぼやけてくるということである。」
(クワイン一九九二、三一頁)
vii 大学における「総合人間学」部の立場についてはカント「諸学部の争い」における下級学部の位置づけを参照。「哲学部
は人間的知識のあらゆる部分におよんでいる。ただし、そうはいっても、すべての部分を内容とするわけではなく、学問の 利益を意図してみずからの吟味と批判との対象にするのである。」(カント二〇〇八、三九頁)
viii 科学史において分野の支配関係が転倒する事例は枚挙にいとまがない。一九世紀物理学はすべての物理現象は力学に
還元できると信じていた(ポパー二〇〇九、三一八頁)(マッハ『空間と時間』の野家啓一による解説も参照)が、相対性理論 は電磁気学に力学を還元させてしまった。「静止している物体に対するマックスウェルの電気力学の理論を出発点とし、
運動している物体に対する、簡単で矛盾のない電気力学に到達する[…]剛体(座標系)および時計と電磁的過程との間の関 係に関する主張」(アインシュタイン一九八八、一五頁)が相対性理論の基本的な発想である。
ix「知識と信念」の議論については『コペルニクス革命』(クーン一九八九)を参照。プトレマイオスについては第三章、特に 一三一~一三二頁。コペルニクスについては第五章、特に二七四~二八二頁。より理論的には、「(明示的なルールに対す る)パラダイムの優先」から、ある命題を学識とみるか信念とみるかの区別が発生する。
x二〇一三年三月二五日、iPS細胞研究所はJST(科学技術振興機構)の「iPS細胞研究中核拠点」に選出され、同研 究所は今後十年間毎年およそ二七億円の助成を受ける。これは政府の「再生医療実施拠点ネットワークプログラム」の一 部であり、二〇一二年度予算では二一四億円が計上、今後は計一一〇〇億円規模の継続的支援が行われる方針。(京都大学 新聞二五〇七号)
xi 知識社会学の一分野として科学社会学を提唱したマートンによる先駆的な業績『社会理論と社会構造』第十六章「科学
と民主的社会構造」の第二節「科学のエトス」(マートン一九六一、五〇六~五一三頁)による。
xiiオルテガは通常科学の性質を正しく指摘している。「今日の科学者こそ、大衆人の典型だということになるのである。し かもそれは、偶然からでもなければ、個々の科学者の個人的な欠陥からでもなく、実は科学――文明の根源――そのもの が、科学者を自動的に大衆人にかえてしまうからなのである。」(オルテガ一九九五、一五五頁)
xiiiマスターマンによるパラダイム概念の解説を利用した。「科学についての哲学を手に入れるうえでの真の問題は、社会 学的パラダイム(すなわち一組の習慣)それ自体を基礎づけている、出発点にあるコツないし方策を哲学的にどう叙述する かということ」(マスターマン一九八五、一〇四頁)
xivソーカルとブリクモンによる「著名なフランスやアメリカの知識人が書いた、物理学や数学についての、ばかばかしい が残念ながら本物の引用を詰め込んだパロディ論文」である「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」
(『知の欺瞞』所収)を、人文系のジャーナル「ソーシャル・テクスト」が受理・掲載してしまった事件を発端とする「サイエ ンス・ウォーズ」を念頭に置いている。とても政治的な問題なので、事件の経過は、『サイエンス・ウォーズ』(金森二〇〇
〇)や、訳者である田崎のHPhttp://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fn/index.html(2013/7/27現在)を参照のこと。
xv ポパーの反証主義における「反証」の基本的な骨格に注意。観察(実験)が「高い再現性を持つ厳密な」ものであること、理
論が「穴のない論理で構成され」ていることは、明確な反証を可能にするための条件。科学者はそこに努力と才能を投入す べきである。これは論理ではなく倫理的なものだ、というのがクーンの指摘。「「推測と反駁という方法よりももっと合理 的な手続きは存在しない。すなわち、大胆に諸理論を提唱し、それらが誤っていることを示すために最善を尽くし、もしわ れわれの批判的な努力が成功しないならばそれを暫定的に受け入れる」[とポパーは述べている]。レトリックを用いて説 かれ、かつ専門家間で共有されているこれらの命令のもつ威力を十分に理解しないならば、科学の成功を理解することは できないであろうと私は思う。(いくぶん異なった形であっても)制度化されたこのような格言や価値は、論理や実験だけ