II ■J・ ︼
∵ J r .p ・ / , I I ‑‑ ‑.
〜 A A
ヽ′ ・ iT I.,.
村 村 村
瑚 鵬 . 舵 い.小り引叫ハ句 政 永 冶 寛 嘉 明 文政1
0
年 (
1798) 2年(1849) 0年(1877) 1年(1B28)し
510戸数100(%)ili; 図4‑5‑4三津村・地敢村・範家相の持属官膚分布 50戸敬川0(形) 図4‑515ニケ村・高山村・佐屋村の持柵層分布を うけ ,また地理条件の上か らもほほ括抗 したニ ケ村 と佐屋村 とを比較 した域i,・合 ,延宝5年 (1 占 7 7)か ら慶応2年( 18 占占 )まで1 9 0年近いのに もかかわ らず ,それ ぞれの示 すカ‑ プの差 はわ ずかであ り, その進行はかな りお そい もので あったことが うかが える 。高山村 の場合において も文政
1 2年( 1 8 2 9 )の階層分解 は上記二村 の中胤程度の進行 を示 している。
つ ぎに図4‑ 5‑ 4に よって三沢村 ・地頭村 ・細裂村の近世後期の階IEl分解 をみてみ ると,特 に三 沢 ・地頭両村 において,いままでみて きた四ケ村 にはみ られない極端 な両極分解がみ られ る。三沢村 の場合 ,寛政10年( 17 9 8 )の時点において,す でに1 7 2・5 9石 の大高持 (三村彦右循門 )が 出現 してお り,その両極分解 の進行 は ,約5 0年後 の崩氷 2年( 18 49 )の地頭村の それ と比較 し て もは るかに進 んでいた ことが うかが える 。また債家相の場合,三沢 ・地敢村 には及ばないが,他の 四ケ村 と比較す るとかな りの進行がみ られ るのであ るO
いままで図4‑ 5‑ 2 , 41 5‑5,4‑ 5‑4で個別にみて きた ことをま とめると次 のよ うにな る。
つま り,高山市村の場 合 ,天保朋か ら慶応湖 にかけてその階層分解 はほ とん どみ られず ,その進行 状態 は同時期の高山村 ・佐屋村 とほぼ同 じであ るが ,地頭 .蘭家相 の場合,上記三 ケ村 に比 べ中間層 の土地酪矢がはげ しく,かな りの進行がみ られ ,また三沢村 の場合 には,その前後の時期 については 不明 であるが少 な くとも寛政10年( 17 9 8 )の時点では階層 の分解が ほぼ終了 していたことが考 え られ るのであ る。
以上の ロー レンツ曲線上にあ らわれたLji実 を持高階層構成 の具体的数字 によ っていま少 し検討 して ゆ くことにす る。
その場合 , どの階層 を もって富腿層 とみ ,またどの階層 を もって中層 ・案 出屑 とみ るかはむすか し い ことであ り,それは各村の村況及 びその地域性 を考 えあわせた上 での位 置づけでなければ意味をな さないのである。つま り,山崎隆三氏 の5 0石以上の豪段, 2 0石〜 5 0石 の宙膿, 5‑ 2 0石 の中 盟, 5石未満の賓出 とい った位置 づけは,上記七 ケ村 の勘合 ,特例 とも思 える三沢村の場合 をのぞい てま った く通用 しないのである。
そ こで次 の よ うな位 置づけを試 みてみた o く第1グル ー プ>
図4‑5‑ 4で曲線のカ‑ プの吃立 度が大 きく階層分解がか な り進んでいる三 沢 ・地頭 ・領家村 の三 ケ村 については,戸数の上で伽 2 %〜5%の上層 (持高区分の上 では10石以上 )Oj)7プg〜 12プ岩の 中層 (5石〜 1 0石 )(0 85%〜 90%の下層 (5石未満 )の三層 にわける ことに した。
< 第2グル ー プ>
図41 5‑ 2, 41 5‑5の上 で曲線の描 くカー プが比較的ゆるやかで階層分解の進行が遅 い高 山
・ニケ ・佐屋 (高山市 )村については ,Fl数の上 でh)4プZ〜 7%の上層 と03)1 2%〜 1 7%の中乳 (CD7
8
%〜 9 0ヲ岩の下層 にわけることに したOこれ を持高区分に対比 させてみ ると,仙持か o石以 上層 ,Oj)持高5石〜 10石屑 ,(O持高5石末柄層 とな る。(但 し,削 」市村 の場合 ,上記伽上桐に当 る持高10石以上層がいないため,仙上層 5石〜 1 0石 ,03)中層 1石〜 5石,(CD下層1石未満にわけ‑14ム一・・・
た 。)
上記 の区分 に従 って,具体的に持 抑 こ対応 させ李 ととに よってまず第1 ・第 2グルーj'Iこついて個 別に検 討 し,その後 両者 をあわせ た考察 を してゆ でことにす る。ー
まず第1グル ープにつ いて蘭家相 では ,自村 内特許合計 が292石足 らず で,その比率 は9 7.7%, この うち㈹上層が戸数の上 で2.7射 持有の上 で日 .8%,さら書くAlた して2 D〜 5 0石の高持1戸 (a9穿 )持甫 (7・5楚), (A2)10石〜 2 0石の席持2戸 (1・8% )持高 (118声 )にわけ ること がで きる。また働 中層 では戸数(9・8% )持高( 2 4・2% ),(C)下層 では5石未 満 の商符 が戸数 の上 で8 5.9%,持高 の上 で5占・7%,それに無吊戸放く5.6%)が加 わ る。
表4‑ 5‑ 5
<第1ケル‑ プ> 三沢村持高 階層構成 (寛政1ロ )及 び入作状況
村 名 沢 村
年 代 毘 政 10 年 (179 8 )
、 ‑一一一一\ 戸 数 戸数比率 特 有 合 計 持高比率
持
育区分 1DO㈲ 以上5(50‑ 5020‑ 30】.、.100 11 00..A6 17227.C.59Id91 J
.
274..1510.‑.28 4 2.4 51.455 8.1 5..‑ 10 19 ll.8 129.41ロ1 20.4 1‑ 5 89(1) 55.4 214.9占2(1.496) 55,8
1(司未満
無 商 4不明7(21) 29.2 19.5018(ム0701) 5.1 轟 合 計 耐 1占1 100 占14,7859 96.8 履 帯 高 相 ',) 172,59
他 村 入 相 ,I) 22 7,5481 (1.2) 寺 社 閑 繊 ;/) l l 12.752 2 村 有 (I,) 100 d55,Odd 100
史 料 三 沢 村 田 畑 名 寄 椴
備 考 〔江〕 三村彦右衛 門,.TL百石滞門の持高 を合
{ ・
l r三沢村<寛政
1 0 >
村 名 戸数 持高拓) 二 2 0.526 加 谷 5 1.8771 下騒忠 12 4.082 寮 安 5 0.475 福 松 2 0.占ロム
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了
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一一 ̲一J二三二一ユニ二.̲L̲ ̲
‑1&7‑
地頭村持高階層構成(毒永2年) 村名地頭(西組)地頭(帯紐)地頭村(乗.西組′) 年代斉永2年(1849)〟〟 戸数戸数比率持高合計持高比率戸数戸数比率持高合計持高比率戸数戸数比率持高合計持高比率 5‑105日5ま187(7.404)10(4)65.714(2占987)15(5)7.198.901(54591)15.7(48) 1‑524(5)d4.711(15,065)79(lD)855907(1?.915)105(15)48.a4&1017(52978)54.5(4&) 1府未満無苗51(ll)不明12‑1505(5.785)5占(19)不明25.557(10DD8)87(50)不明41.255̲占875(15795)4.9(窄) 高合計田62205.9925149552.256721110055a249274.4 凝滞南画Iy)85.82419.992(81.78)85.824 他村人作fry)1728̲2525415a69511占4.942(22.8) 寺社関税ry)41ムー75411.502518.2562.5 その他(〟)1.9821̲9820.5 村有(,I)250.9605472.4487108725.4092100 史料地頭村田畑名寄帳(西,乗組) 楠考
〔江
〕その他は上地分,無主,村作を持高合計の内10,占8捌ま飛地八十地頭村持高階層構成(明治10)及び入作状況 村名地頭村 年代明治
1 0
年 戸数戸数比率持高合計持高比率 拷高区分1DD(田以上50...‑10021.0146,91514.158...‑5D1(1)8.557.占5占(55.55)5.8 20′..‑5042.188.4458.5 18‑2ロ94.a140̲ー0515.5 5‑1D51ー5)16,055506(20,215)22.7 1‑592(?)47.42占8504(24.487)25.9 1
臨 戦
無商55(8)不明2a425.285(5.481)2.2 高合計打,19410094D.21290,5 最高音持(,)94.899 他村人作ら)2181.5117.8 寺社関係い218.5211.8 その他Ly)
0.749a.1 村有(y)1001058.795100 史料地車村田畑名寄帳A地頭(西)<窟永
2>
<入作状況内訳> B地頭(乗)
<
串永2>
村名戸数持高圧∋ 下大竹8aO87 上大竹5?.1占8二
賀10.602小
角5&5?5 計172占.252A + B
地頭(酉.罪)<高永2 >
村名戸数持高6) 下大竹1512̲595 上大竹5?.ld8二
賛15ll.1D8 小角5a595 儒家517.581三
沢599.485 下大井10.8 九名22.41 小量ケ市12.627 ・成羽11,175 計51164.942 村名戸数持高拓) 下大竹74.50占 二賀1210̲50‑a 鏡家517̲581 三沢599.485 下大井1D,占 九名22.41 小屋ケ市12,.占27 成羽1
1.175 計5415aA9 C地頭<
明治10>
村 名 領 家 村
年 代 文 政 1 1 年 ( 1 8 2 8 )
戸 数 戸 数比率 持 高 合 計 持高比率
持 高区
分 川 0(50 へ. 10050 〜20 〜香)以 上5050 1 0̲9 21.798 7.5 10 〜 2〔l 2 1̲8 28.4815 9.5 5 ′} 10 l l 9.8 72,7165 2 4.2 1‑ 5 6 0 5 5.5 155.0575 5 1.8 1 (石)未 満 5 4 5 0.4 14,8795 4.9
無 高 4 5̲a
高 合 計 禍 10 8 1 0 0 291.915 9 7,7
そ の 他 (//) A.75 2.5
村 高 ♭) 1 0 0 29ad45 10 0
史 料 領 家 村 名 番 場
ll.5D‑
<第2グループ> 高山市村持高階層相成(文政12‑慶応2) 年代文政12年(1829)天保3年(1832)天保7年(1854) 戸数戸数比率持高合計持筒比率戸数戸数比率持高合計特有比率戸数戸数比率持措合計拷.高比率 持高区分100搬1上50‑1005D〜5020‑5010‑205一一1ー〕(1)2ミ7(15L5585)12.74占9̲5(り55.8lt(12.225)17.8?8I1ミ54(1)l7,8‑‑r.(1‑、124.821(5.504)I1a5
1.‑555(9)44.9n929(1&514552.552(5)61.5Ai4り5(a170548552(i)42̲871,7225(a舶855エ5 1府未満無仙16(13)
I
2?,Aー'.87.561(5.D5)5.517(15)不明52J7.057(5795)5.215(日)不明2?.4L9775(4.88王)5.2合
一‑一針ー]5'418091.05487.5521【lO90.571567.8■i一一.‑■「.i■5110010ま521l77.0 凌稀有持庄∋i945(liち585ヽ■6.912(ー2.225)ti占72Ll【I 一一
他村人作245i70527,2192&188519.41818.占55515.8 寺社関係21807tl25.011 ヽ■ T
五011 村有1【】815JI.864lop100154.8741001DD154.5271DD年代弘化5年(1846)安政5年(185ム)慶応2年(18dd) 戸数戸数比率持高合計持高比率戸数戸数比率持高合計持高比率戸数戸数比率持高合計持高比率 持高区i108向以上50‑1005D〜5020‑5D10‑205‑105(1)5.i19‑521(a502)14.155.917.?9515.051819.8414.7
1‑552(7)59.27n.1815(a,741551.241(1)54.D91.8105(4.Odd)占占̲445(5)55.787.5425(&759)64.5 1広昧満無音19(14)不明55.2a925(a.827)6.552(5)不明42.114.442(a454)10.554(5)不明42.515.6511(1.142)ll.8 合計541009&425571.87占180124.0475899801DO122.91690.8 最有高持㈲7.489(8.502)7.4898229 他村人作2525.870518.944.55.587.8815.8 寺社関係2iOll
ヽ 一一̲
25.0112ま011 その他?.a?5∫ .
J占.585)0.01.5588′ ユ
村有1DD157.002100100157.9415100100155.2644100村名ケ村佐屋 年代ulp延宝5年(1占77)慶応2年(1868) 戸数戸数比率持高合計持高比率戸数戸数比率持高合計持高比率 拷高区分1DO拓)以上5日〜10050‑502D〜5010‑2055.955.7Dd18.557.0
l l
5a19占I
125.75〜10917.a58,80550,4I5ll.858.61824.0 1〜52854.98ま71545,52555.5占0.口157.5 1耐栄職*Sll不明21.45.2472̲712不明27.?1ー4.占5fl2̲9 商合計托∋51100183.27294.9
/p
45100141.56487.9 その他(〟)9.7985.119.55512.1 村有(//)100195.07010D1DDlil.117100有山村持高階層構成 村名高山村(前組)高山村(後組)高山村(前,級) 年代文久元年(1861)〟
〟
戸数戸数比率持高合計持高比率戸数戸数比率持南合計持高比率戸数戸数比率持高合計持高比率 拷育区分100(司以上50〜1dToS0‑5020‑50455̲191120,59110.520.5912.710′・.‑20542.44175.597.占5212.9 5‑101488.5561912占.0055551L5214.559528.4 1〜575(1)182.55(1一952dO(18)160.4594(29.75155(19)占&542.7占94(51.70245.4
1
拓)未満無高8ま52518く21)10.89(5一525)26(21)1101id15(5.525)1.8 合計9952?.5821.01559.56492001DD68a94d991.2 最高高特融1881520̲59120ー591 他村人作(〟)11.9524155.2754257̲2274.9 寺社関係(〟)1D21.51510̲144ll29.一595.9 その他(;J) 村高(〟)540.849594.7859755ー占529一oo 史料酉年御免利根<入作状況>
村 名 ー戸 数 持 高 (日 高 山 市 1 1.9 52
<高山村後組> ‑′
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LIL .汁 l 「
<高山村Lll,後組>
村 名 戸 数 持 高 拓) 上 大 竹 15(1) 9.5 4 9 下 大 竹 9 7,5 15 煎 三 原 4 2.9 4 占
七 地 5 l l.5 55
大 原 さ(1) 4.17 5 高 LLJ市 5 4,2 99
布 類 2 4.12 5
二 資 1 1.0 8
山 村 1 0.435
村 名 戸 数 持 高 厄) 上 大 竹 15(1) 9.5 49 下 大 竹 9 7.5 15 束 三 原 4 2.9 4 8
七 地 5 l l,55 5
大 原 5(1) 4.175 南 山 市 4 8.2 5 1
布 賀 2 4.12 5
二 1 1.08
山 村 1 0.45 5
地頭村の場合 ,常永2年( 18 4 9 )の時点では西組 と取組 とに分かれてお り,その内訳は表4‑
5‑ 5に示 した通 りであるが,それをあわせると自村内鼻 筋合計が55 8石余 りで74・4男とかな り 低い。これは同乗 によって ,地頭村廃絶 において入作者の持荷が2 9芳余 りを しめ,しか も放有高持 (入作者三沢町嬢三郎 )の持市が17男余 りをしめてい るためであるO‑応 いまは これを除いて考 え ると
,
仙上岡が戸数の上で2・9%,持高で2 1・5男であ t),さらにCAl)50石〜 100石の石持1戸( o・5ヲg),持高 (11・903), (A2)10石‑ 20石 の布持5声 (2・4%),特有 (9・6% ),に分 けることができるO(功中層戸数比 (7.1%),持席比 (15,701),(Cl下層戸数比 (ヲo蕗 ),持前 比 (5 9.2男 )となる。また明治10年 (18 77)の椴合をみてみると,窟永 2年 ( 1849 )と 村有 を比較 した場合, 5 15石余 りふえでいるか .これは明治8年の地租改 正によるもの と考 えられ
る。しか し一体 それが どの程度の革 なのかわか らfLいため,ここでは一応参考樫度 に とどめてわ く。
これによると
㈹(
8・2%)(59,7〆), さらに 仏】)として5 0石〜 10 0石の高持之戸 (1男).持高 (14・1% ),(A2)10石‑ 50石の苗持1d戸 (712〆),持高 (25・占雰 )に分けることが で き,以下03)( 16・1%)(22・7芳),(a)(75,8才 )(2 8,1ヲg)となる。
さて聞役の三沢村の場合
,
仙上JFIが戸数の上でid.罪.持高の上で3 9・5%,さらに(血 )として1 0 0石以上( 172.5 9石 )の大祐持1戸(0.6芳 ),持高 (2 7・1男)
,(」弛)1 0石‑ 38石の高 持5戸 (エ0% ),持高 (12.4%)にわかれ,つづいて㈹戸数比 (1 1・8% ).持高比(2 0・4% ) (C)戸数比 (8 416%),持高比(5 6・9% )となる。‑i,557
以上第1ブル‑プに屑す る三ケ村の場合 をみて きたが,つ ぎに第2グル‑プのニケ ,佐屋 ,南山, 高 山市村 につい てみてゆ くことにす る。
ニケ村 の場合伽上層では戸数比 (519好),持高比 (18・5ヲg) 03)中層 では戸数比 (17・i % ), 持高比 (5D.470) (0下層 では戸数比 (7 65% ),持商比 (4・6男 )であ り,以下 ,佐屋村h)
(7.0ヲZ)(2 770),03)(1 116男 )(2 4・0% ),(C)(8 1・4% )(4 012% ),商山村は (I.・ o ヲg)(15,6% ),(fM 16.5ヲg)(28・4% ),の (7 9・5% )(4712男 )となる. また高山 市 においては .文政12年(18 29 ),天保 5年( 185 2 )の場合 ,先述 の地頭村 と同様に村内 における最高葡将が入作者である7こめ一応除外 して天保7年(185 占 )か ら慶応2年 (1864 ) についてみ ると,A)戸数比 (57%〜7.8% )持高比 (13・0%〜la5ヲg),03)(5 5・7%〜 62・
8%)(5 1.2%‑dd.4% ),(0 (29.4%〜 42.5プg)(5・2%〜 11.占% )とな る.
い ままで細 かい数字 をな らべて きたが ,以上の ことをまとめてみ ると,第1グル ープのニケ,佐屋 , 苗 山村 におい ては,03)中層の戸数比率が12%〜 18男程度 に対 して,第 1グループの三 ケ村 の場合
7%〜 12男程度 であ り,中間層の土地潔矢がみ られ る。またW上層 についてみた横 合,第2グル ー プが戸数比率4ヲg〜 7男であるのに射 し,第1グループでは5%程度 であるが,その持高比率 を比べ た場合 ,第2グル ープが19男平均 であるのに対 し,帝 1グルー プでは2 6男平均 とかな り高 く, こ
の内 ,地頭,三沢村 だけでみ るな らば5占蕗と2倍近い差がみ られ る.こ うい った上層への土地集頓 が どこか らな されたかを考 えた場合 ,中 間層か らなされてい ることは上紀 の数字か らうかが えるが , それ と同程度に
( 0
下層か らな されてい ると もいえる。つ ま り,第1グループの地頭 ,三沢村 と第2ゲ ル‑プ及 び簡家相 を比較 した浪合 ,戸数比率が それ ぞれ7 5%〜 80%と85%
〜 90%であるのに 対 し持高比率 においてはそれぞれ47ヲ岩,58ヲgとなってお り,この差9ヲ岩は03)中層 での差8%とほ ほ同様 とな ってい るのである。三沢村 の場合1ヶ年 のみであ り,それ以前の史料 がないため 自然隣村 の地要 ,領家村 との比較 にな って しま うが ,この(
a)下層か らW上層 (Al)(A2)への土地袋帯の傾向は かな り著 しい ものであ ったこ とが推察 され るO地役 に南 山市村 についてみてみると, さきに もふれたが,文政12年(1829 ),天保5年 (1 8 52)につ いては最高商持が入作者 (平川村半左 衛門 )であ り,両 年 とも自村内特 高合計 は7 0
ヲ g
足 らずで,この状億は少 な くとも弘化 5年(18 4 占)まではつづい ていた.もの と考 え られ るo安政 5年( 185 6 ),慶応2年( 1‑8dd )においては9°%に上が り,この比率 は他村 の それ とはば 等 しい もの とな っている.
それでは‑体,この20
%
JノJJ二の掛 まどこへい ったのであろうか 。いま文政12年 と慶応2年の各個の特有 の比率 を くらペ てみ ると,文政12年伽 9.5%03)5 2.5% (a)5 5%,尿応2年h)14・7%但)64・5%(C)11.6%とな り,その善 をみ ると,A)上楢 で5%㈲中層
では12ヲg(C)下府で6% とな り,特 に鴫中層 (持高1石‑ 5石 )に吸 い上 げ られたことがわか る。高 山市村 の場合 ,飢鯉の天保7年 をのぞき,村内に わいては,上軌 中層 ,下層 とも比較的安定 した状 態 であ った ことがわかる.そして, このことは軌 山市村が,その名の示 す ように中世期か ら,東城 .上 下,高P ,成羽 ,笠岡,矢掛 .福 山,村中 な どを市場圏に もつ商品取 引場 (地方市場 )として 〃市場
‑15d‑
町 //の性格 をもっていたことの基 づけともなる。
以上 ,環川上町内の7ケ村 について ,農民層の紳成の推移 をロー レンツ曲線及び農民の階屑相成表 によってみて き7二が,一つ特色 としてあげ られ ることは,村lこよって入作率に極端 な差がみ られると い うことである。これは入作率の商い拓山市村 ,地部材への入作状況 をみてみ ると,前者 においては 文政畑か ら天保期前半にかけて ,平JH村の半左布門が1 0石以上の入作地 (平川村全体 では2 5石‑
18%あま り)を持 ってお り,また天保後期か ら弘化掛 こかけて東三原村か らの入作が20石‑ 14
%あまりあるO平川村の場合 ,近世全朋 を菰 LLて天領 であり.備中町史に よれは,文化年 間には平川
家はB 5 4石の大高籍 として確周 たる地位 を礎 い てお り. その腿民周分解は ,はば終鴛 に近づいてい
るのであるo また後者の地覇村 について も同様,中村の三沢村の壊三郎の入作地が8 1石 あまり(三 沢村全休では1 4 %程度 )ある.
この ことか ら,比較的早い時鰍 こ階層の分解がすすんでいた平川村 ,三沢村な どの大。商特が隣村 の その分解のおそい村々‑入作者 として土地典硬 の事 をのは してい ったもの と考 え られ るo
しか し,この間笛は,特 に高山市村のよ うな特殊な条件をもつ他地域の事例が稀少 なため疎音の今 後の研究課屠 としたいo
(5) 「山論 」
特に近位農民 に とって土地 (田畑 )はその生 きる粗であ り,田畑の耕作 を通 して生 き続 けて きたの であったoそれだけに その手人 は必須 の ものであ り.また市実良民はそのためにあ らゆる努力 を払 っ てきたのである。
地力回復のための肥料 として一般に用い られたのはkL肥であ り,山野 (棟場 )か ら採取す る若枝 , 下草 の類 であった。特 に,田値前 に山野か ら苅 り取 り水田に敷込む ものについては,苅叡 (‑春草 ) とよばれ その正 も多 く,例 えば筒家相の場合 「田軒共此 之亙山之柴草人中候壱反 二付三百把樫入申陳 (略 )」(蘭家相明細帳天明八年 )とある如 く,反当 り三首把前後の柴草を敷込 むことに よって田地 の培養につ とめたのである。
こうい った多良の下草 を苅 り取 るべ き裸 椴 が村の内価に存在 す るものであればまだ しも,それが村 境 に位監す る ものであった掛合 ,それをめ ぐる争 い く山論 )が しば しば起 こって くることになるぅ
ここでは,この 「革 」をめ ぐる間掛 こついて,安永 9年‑ 10年 (178 ロ〜 178 1)にかけて おこった領家相 (天領 )と七地相 (水谷氏知行所 )の持山境 をめ ぐる争論 を安永10年(178 1) の 「済 口窟 文 」(七地村他川娩氏所蔵 )によって考察 してみたいo
この一件は ,七地相の百姓の矧 JJである長常 山に.以前か ら毎年両村立会いの もとで札 を立て,両 村の境 目を決 めて い た が,その立て札 を額家相の者が取 り捨てたことに職 を発 している.
以下 ,七地村側の申 し立てをみてみ ると, 安永 9年 5月ql
「石 山 (長塔 山 )之内本平与申所者宮村之殊場 二如鮭常温 領
家
村 之者共入込練 苅取侯二付見答 メ侯 得者倣 ヲ持直逃 去 り候」
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