4.3 シナリオと銀行の健全度
4.3.2 リスクファクターと銀行の健全度
銀行は J 種類の資産と負債を保有しているとする。単位数の概念がある債券や株式と いった資産については保有する資産の単位数を、単数の概念が無い貸出金や預金、デリバ ティブといった資産については保有する資産の元本や想定元本を「資産の保有単位数」と 呼ぶ。負債については、負の保有量を有する資産と考える。資産の保有量は時点tに決定 され、時点T までの間保有量の変更は無いとする。資産の保有量を以下のように定める。
定義4.4 資産の保有量
期間[t, T]における資産の保有量hは定数ベクトル
h= (h1,…, hJ)∈RJ (4.8)
とする。ここで、hj は資産j の保有量である。
*11経済理論に基づきシナリオとリスクファクターの関係を表すモデル(Kydland and Prescott, 1982 [25]な ど)やVAR(Vector Autoregression)やVEC(Vector Error Correction)といった統計モデルに基づきリ スクファクターの関係を表すモデル(Belini, 2017 [5]など)が提唱されている。
資産の保有量 1単位あたりまたは元本や想定元本1円あたりの資産価格を以下のよう に定める。
定義4.5 資産価格
時点T における資産価格P は、J 次元確率変数ベクトル
P : Ω→RJ,P(ω) = (P1◦X(ω),…, PJ ◦X(ω)) (4.9)
Qj :RI →RJ, j = 1,…, J (4.10)
Pj(ω) =Qj ◦X(ω), j = 1,…, J (4.11) とする。また、時点tにおける資産価格p0 は定数ベクトル
p0 = (p10,…, pJ0)∈RJ (4.12) とする。
資産価格の各成分は負の値も許容する。これは、例えば、デリバティブ取引において は、その価値が正にも負にもなり得るからである。また、実務において資産価格はプライ シングモデルに依存するが、本稿では所与のP の下、議論を進める。Pj はj 番目の資産 のプライシングモデルだと解釈できる。
資産の保有量と資産価格を用い、銀行のバランスシートを以下のように定める。
定義4.6 バランスシート
時点T におけるバランスシートBは、J 次元確率変数ベクトル
B: Ω→RJ (4.13)
B(ω) = (B1(ω),…, BJ(ω)) (4.14) Bj(ω) =hjPj(ω), j = 1,2,…, J (4.15) とし、時点tのバランスシートb0は定数ベクトル
b0 = (b10,…, bJ0)∈RJ (4.16) bj0(x) =hjpj0, j = 1,2,…, J (4.17) とする。
定義4.7 銀行の健全度の成分
時点T における銀行の健全度Z の各成分Zkは
Wk:RJ →RK, k = 1,…, K (4.18)
Zk(ω) =Wk◦B(ω), k = 1,…, K (4.19) とする。また、時点tにおける銀行の健全度z0は
zk =Wk◦b0, k = 1,…, K (4.20)
とする。
5 結論
本研究では、確率論的議論の範疇外と認識されているストレステストにおけるシナリオ 選択について再検討し、主観確率を導入することにより確率論的に表現することを試みた ものである。これは、金融リスク管理の実務において重視されているストレステストに関 しての良し悪しが現状では客観的に評価できず、また改善のための客観的な指針も存在し ない点を問題と考えたからである。本研究では、ストレステストにおけるシナリオ選択 を、合理的に意思決定をする銀行の意思決定問題として捉え、意思決定理論を応用するこ とにより、適切な設定を置けば、シナリオ選択の意思決定において期待効用理論を用いる ことができることを示した。さらには、期待効用理論から導いた合理的なシナリオ選択の 基準を提案した。以下では、本稿の結論について詳細に述べる。
2 章においては、ストレステストに参加する様々な専門家が抱く確率的信念を、主観 確率に基づく複数の確率測度が存在すると捉え、これまで既存研究で議論がなされてい なかった複数の専門家による「蓋然性があるシナリオ」の判断、すなわちエキスパート ジャッジを数学的に表現した。また、銀行の脆弱性を表す複数の指標を「銀行の健全度」
という新たな概念として導入し、既存研究で議論がなされていなかった、銀行の脆弱性を 表す複数の指標が存在する下でのシナリオ選択を数学的に表現した。リバース・ストレス テストについては、銀行のビジネスの継続可能性を脅かす状態を「ディストレス状態」と いう新たな概念として導入することにより、リバース・ストレステストにおけるシナリオ 選択を数学的に表現した。さらに、ディストレス状態に陥るシナリオの集合にコンパクト 性を仮定することで、ディストレス状態に陥るシナリオの集合を有限個のシナリオとその 近傍でカバーできることを示した。
3章においては、ストレステストにおけるシナリオ選択を、合理的に意思決定をする銀 行の意思決定問題として捉え、意思決定理論を応用する方法を示した。2章においてスト レステストにおける確率測度は主観確率に基づく確率測度を想定したので、本稿ではサ ヴェッジの枠組みを用いた。その結果として、適切な設定の下では、シナリオ選択の意思 決定において、効用関数が存在し、期待効用理論を用いることができることを示した。こ こで、サヴェッジの期待効用理論により構築される主観確率に基づく確率測度がストレ ステストにおける主観確率に基づく確率測度と一致するとの前提を置いた。さらに、サ ヴェッジの期待効用理論では表すことができない不確実性回避の選好が存在する下でのシ ナリオ選択についても、ショケ期待効用理論やマクシミン期待理論を用いることができる ことを示した。マクシミン期待理論を用いることで、ストレステストに参加する複数の専
門家の主観確率に基づくシナリオ選択の意思決定においても、効用関数が存在し、期待効 用理論を用いることができることを示した。実務的な帰結としては、シナリオが発生する 確率、シナリオが発生したときのインパクトである銀行の健全度に与える影響、さらには 信用リスク、市場リスク、流動性リスク、オペリスクといったリスクカテゴリー毎あるい は銀行の健全度を表す指標毎の3つの要素の掛け算をベースに総合判断しシナリオを選択 することの理論的合理性を示すことができた。その際には、銀行の健全度を表す指標間の トレードオフも勘案する必要があることも示した。以上のように、シナリオ選択に意思決 定理論を応用することで、ストレステストにおけるシナリオ選択に一定の理論的指針を与 えることができた。
4章においては、2章、3章で展開した議論を実務に応用するための橋渡しとして、本 研究のモデルを用いたストレステストおよびリバース・ストレステストにおけるシナリオ 選択の具体的手順を示した。
しかしながら、本研究のモデルはさまざまに継続発展の余地があると考える。まず、実 務で使えるシナリオ尺度を提案し、具体的なシナリオを想定して検討することが必要であ る。そのためには、効用関数uが持つべき性質、これはシナリオ尺度が持つべき性質から 導出されると考えられるので、それらに関する議論を展開することが今後の課題の1つで ある。さらに、実証研究を交えた議論も必要であると考える。例えばストレステストに参 加する実際のリスク管理者など実務における専門家を対象にしてアンケートをとるなどす ることにより、専門家の確率的信念に関するデータを収集し、本稿のモデルを適用したと きに果たしてシナリオ選択の望ましい結果が得られるかについて検証することにより、効 用関数uが持つべき性質を検討していくなどである。
また、多期間モデルの検討である。ストレステストやリバース・ストレステストのフ レームワークは、コンティンジェンシープランやアクションプランの策定に役立てること が望ましい。しかしながら、1期間モデルでは、コンティンジェンシープランやアクショ ンプランの策定に役立てるには不十分である。なぜなら、市況環境や経営環境の変化に伴 い、銀行はバランスシートを変化していくからである。
次に、コストについての検討も必要と考える。距離をシナリオの類似性の尺度として導 入し、距離の近さをコストと見做すことができると述べた。互いに距離ができるだけ離れ たシナリオの集合をシナリオセットとして選択するようにするためには、集合被覆問題や 配送計画問題といった最適化問題を解く数理最適化が応用可能だと考えられるが、これら の具体例を考えるまでには至っていない。
さらには、本稿では、複数の専門家の意見を集約する方法を、不確実性下の意思決定理 論の中で最も有名な理論の1つであるマクシミン期待効用理論を応用することにより提案
したが、本理論以外にも複数の専門家の意見を集約する方法は様々な方法が提案されてお り、複数の専門家の意見を集約する最適な方法ついてさらなる検討が必要である。
以上のように、本稿のモデルはさまざまに発展の余地はあるものの、ストレステストや リバース・ストレステストにけるシナリオ選択について、主観確率を導入し、確率論的視 点で数理的な議論をすることができる俎上に上げたこと、さらには、意思決定理論をスト レステストやリバース・ストレステストにおけるシナリオ選択に応用する方法を提案し、
シナリオ選択という意思決定において期待効用理論を用いることができることを示したこ と、また、合理的なシナリオ選択基準を与えたことは大きな貢献であると考える。以上に より、ストレステストやリバース・ストレステストにおけるシナリオ選択に一定の理論的 指針を与えることができたと考える。