第三章 ラマン散乱スペクトルの温度依存性
3.2 実験
3.3.3 ラマン散乱スペクトルによる温度測定
限られた狭い空間でサンプル温度制御する場合,周辺装置部品への熱ダメージによる損傷を防 ぐため,サンプルだけでなく周辺装置の温度計測も重要になる.ラマン散乱スペクトルによる温 度測定法は,ラマン散乱スペクトル測定が非接触非破壊測定であり,励起レーザー光を絞り込め ば(数 µm 程度)小さなサンプルでも測定が可能であることが優れた点である.欠点としては,
サンプルのラマン散乱強度が弱いと長時間測定が必要になるため時間分解能が低下すること,ま たそのサンプルのラマンスペクトル温度依存性が既知でなければならないこと,更に,そのスペ クトル範囲で測定を妨げる強いシグナル(レイリー散乱,黒体輻射,蛍光発光など)がないことな どがあげられる.
一般的にはラマン散乱測定によりサンプル温度を測定するにはストークス散乱だけでなくアン チストークス散乱の測定が必要になるが,アンチストークス散乱強度は弱く長時間の測定が必要 になってしまう.しかし,そのラマンスペクトルの温度依存性が明らかになっている物質に対し てはアンチストークス・ストークス散乱強度比から求めるのではなく,そのラマンシフト,半値 幅の温度依存性から温度を求めることができる.ただし,半値幅の測定は測定装置がピークの半 値幅に対して十分高い分解能を有している必要があるため,ラマンシフトの測定の方が有用であ る.
ここでは,シリコンのラマンピーク(室温にて521 cm-1)及びSWNTsのG-bandの温度依存 性を利用した温度計測例を挙げる.
レーザー照射による SWNTs 温度分布測定
集光したレーザー光による加熱はそのスポット内で温度分布が生じる.特に,基板の上に垂直
配向したSWNTsのサンプル[77]に対してレーザー加熱した場合,どのような温度分布が生じるか
はその熱伝導率に関わる問題でもあり興味深い.ここでは,石英基板上に垂直配向した SWNTs にレーザー光を垂直に入射した場合に生じる平面内の温度分布を,G-bandラマンシフトの温度依 存性を利用して求めた.
1500 1600 1700
Raman Shift (cm–1)
Intensity (arb. units)
(a) original spectrum
(b) :after aser heating (2.6 mW)
(c) :5.3 mW (d) :7.0 mW (e) :8.8 mW (f) :10.0 mW (A)
1560 1580 1600 1620
Raman Shift (cm–1)
Intensity (arb. units)
original spectrum (a) (x0.4)
(a)–(b) (b)–(c)
(c)–(d) (d)–(e)
(e)–(f) (B)
1500 1600 1700
Raman Shift (cm–1)
Intensity (arb. units)
(a) original spectrum
(b) :after aser heating (2.6 mW)
(c) :5.3 mW (d) :7.0 mW (e) :8.8 mW (f) :10.0 mW (A)
1560 1580 1600 1620
Raman Shift (cm–1)
Intensity (arb. units)
original spectrum (a) (x0.4)
(a)–(b) (b)–(c)
(c)–(d) (d)–(e)
(e)–(f) (B)
Fig. 3.24. (A) G-band spectra after each laser irradiation. The decrease of the G-band intensity indicates the SWNTs were burned by laser burning. (B) Differential of the G-band spectra in Fig. 3.24(A).
石英基板に垂直に生成した長さ約1 µm程度のSWNTsサンプルを用い,大気中において顕微ラ マン散乱測定装置にて実験を行った.実験は,ラマン測定とレーザー加熱を交互に行い,加熱に よるスペクトルの変化を調べた.ラマン測定の励起レーザーと加熱用のレーザーは同じ488.0 nm
のCW-Arレーザーを用い,ラマン測定時にはレーザーパワーを1.3 mWと一定にし,レーザー加
熱では2.6,5.3,7.0,8.8,10.0 mWとレーザーパワーを増加させていった.レーザースポット内
でのレーザー強度はガウス分布を持ち,更にスポット外への熱伝導が生じるため,レーザースポ ット内では中心から外に向かって温度が低下する温度分布が生じる.よって,レーザーパワーを 上げていくと,スポット中心から外に向かって順にSWNTsが燃焼温度に達し,消失していくこと になる.最終的に顕微鏡観察により直径6 µm円形にSWNTsが消失していることが分かった.
Fig. 3.24にレーザー加熱によるG-bandの変化(A)及び,それぞれのシグナルの差(B)を示す.Fig.
3.24(A)において,スペクトル(a)は始めに1.3 mWの励起レーザーで測定したG-bandであり,スペ
クトル(b)~(f)はそれぞれ2.6,5.3,7.0,8.8,10.0 mWのレーザー加熱を行った後に測定したスペ クトルである.レーザー加熱の強度を上げていくことによって加熱後測定されるG-band強度が減 少していき,この減少分はレーザースポットの中心から燃焼していったSWNTsからのラマン散乱 に対応する.つまり,Fig. 3.24(B)におけるスペクトル(a)-(b)は2.6 mWでのレーザー加熱で消失し
たSWNTsからのラマン散乱に対応し,スペクトル(b)-(c)はその外側のエリアのSWNTsからのラ
マン散乱にあたる.SWNTsが燃焼していった様子の概念図をFig. 3.25(A)に,また石英基板上に垂 直配向したSWNTsのSEM像をFig. 3.25(B)に示す.スポットの中心近くに存在していたSWNTs
からのG-bandのラマンシフトはFig. 3.24(B)で分かるように低波数側に現れ,更にスポットの外側
に行くに従い高波数側にシフトしていく.このことからG-band ラマンシフトの温度依存性より,
スポット中心温度が高く外側に行くに従い温度が下がっていることとが確認できる.但し,この 温度分布はレーザー加熱時ではなくラマンスペクトル測定時における励起レーザー(1.3 mW)に よって生じたものであることに注意する.
Fig. 3.25(A)におけるそれぞれのエリアの温度をG-bandのラマンシフトから求め,更にG-band強
度量からその時消失したSWNTsの量(各エリアの面積)を算出した.但し,G-band強度の温度 依存性を考慮し,更に最終的に消失したSWNTsの範囲は直径6 µmとした.その結果をFig. 3.26 に示す.ここでは,SWNTsが消失したことによる温度分布の変化は無視した.
(a)-(b) (b)-(c) (c)-(d) (d)-(e) (e)-(f) quartz substrate vertically aligned SWNTs
Raman excitation laser spot
(A) (B)
(a)-(b) (b)-(c) (c)-(d) (d)-(e) (e)-(f) quartz substrate vertically aligned SWNTs
Raman excitation laser spot
(a)-(b) (b)-(c) (c)-(d) (d)-(e) (e)-(f) quartz substrate vertically aligned SWNTs
Raman excitation laser spot
(A) (B)
Fig. 3.25. (A) Schematic diagram of the laser heating SWNTs sample. (B) SEM image of the vertically aligned SWNTs on the quartz substrates.
Fig. 3.26にあるように,レーザースポットの 中心から外へ向かって温度が減少していく温 度分布が明らかになった.温度分布をガウス分 布と仮定すると(Fig. 3.26 における実線),レ ーザースポット中心温度は約 400 ℃となり,
SWNTs の燃焼温度(500 ℃前後)より若干低
かった.1.3 mW以上のレーザーパワーでの照 射によって,スポット中心部がSWNTs燃焼温 度に達し消失していった結果と一致する.
このように,レーザー加熱によりレーザース ポットの中心から順々にSWNTsを焼くことに
よって生じるラマンスペクトル(G-band)の変化から,G-bandのラマンシフト及び強度の温度依 存性を用い,ラマン励起レーザー照射時に生じている温度分布を求めることが出来た.
シリコン AFM プローブの温度計測
本実験装置は AFM サンプル台上でのサンプル加熱が可能であるが,その際 AFM プローブや AFM ピエゾスキャナなどの周辺部品の上昇温度を把握することは非常に重要である.ここでは,
シリコンヒーターの温度を変えながら,その時のAFMプローブ(50x100 µm)の温度変化をラマ ンスペクトル測定により行った.AFMプローブは窒化シリコンコーティングされたシリコンから なり,通常のシリコンのラマンスペクトルを計測することができるため,AFMプローブ背面にラ マン励起レーザー(488.0 nm)を照射しそのラマンシフトから温度を計測した.Fig. 2.11で示した ように,AFMプローブからのラマンスペクトルからその温度を計測することに成功した.ラマン 散乱スペクトルを用いればAFMプローブという小さな部品の温度を計測することも容易であり,
ラマン散乱による温度計測が非常に有効な手法であることが示されたと言える.
SWNTs 塗布面の温度分布計測
ラマンスペクトルによる温度計測法は有効な温度計測手段であるが、必ずしも温度測定対象が ラマン散乱を生じる訳ではなく,ラマン散乱を起こすとしてもサンプル毎にその温度依存性を調 べる必要がありそれは容易なことではない.その際には,測定サンプル表面上にSWNTs を分散 させ,このSWNTsの温度を測定することで間接的に測定面の温度分布を計測することができる.
SWNTsのラマン散乱は,非常に強い共鳴ラマン効果によりその量が少なくても十分なS/Nのス
ペクトルを得ることができる.更に真空中では原理的にはSWNTsの蒸発温度までの温度範囲で 温度測定が可能であり,大気中でも500 ℃前後まで酸化(焼失)せず安定に存在するため,高範 囲での温度測定で可能である.また,この時に測定される温度分布の平面分解能はレーザースポ ット径(数µm程度)で決まる.
0 1 2 3 4
0 100 200 300 400
Radius (µm)
Temperature (°C)
Fig. 3.26. Temperature distribution of vertically aligned SWNTs on the quartz substrates caused by the Raman excitation laser irradiation (1.3 mW).