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五す
︒ 以上 は能 逼の 不可 得︵ 弓害 保山 口五
︶白
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︶ 此 の 否 定 の 比 量 は 正 理 一 滴
・ 二
・ 二 一 四 に 設 か
れる
︒︵
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お制 如何 一肌 刊一 明︶ 今の 場合 には
﹁我 を封 象と する もの
﹂ぞ 否定 する 理山 とし て︑ それ を包 含す る能 溢た る
一我の行相を具すること﹂の不可得を示すのである︒之ぞ逆に言へば︐能一過卸ち一我の行相ケ具すること﹂か不可能
によ れる もの にし て︑
なる.か故に︑その所一遍卸ち﹁我を封象とすること﹂がありえないと錆すのである︒師ち周遍のより庚きものが不可
得であるから︑その中に含まるる︑周一過のより狭きものは宙然ありえない諜である︒かくして予なる観念は我を
封象とすることはありえないと論誼されたのである︒
然るに此の論説に於て困として立てに︑﹁予といふ知は我の行相を快くの!一といふ命題は果して正しいか否かが
考察されねばならぬ︒若し此の因が正しくない時は先の論誼は訣りとなるから︒故に此の困に就て註蹴は突に蓮
44
べてゐる︒備では二二二備の第三・四句が此に常る︒印ち
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く﹁
此悶は不成にあら歩︒印ち我は常住・遍在・思量
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等の徳そ具するものと許さるるに︑予といふ観念には常住性等の顕現は附せられてゐない︒却って別々に﹁我は
﹁貧
義婆
集・
我論
批刈
﹂の
研究
七七
日本 悌敬 胤午 協
AW
U年
報︵ 第九 年︶
七/¥.
45
白し.背ひくし︐痩せたり︑劇しき受にて︹苦しむ︒とといふが如く︑身韓の服態と関聯して生するが故に︑白色
等の相として顕現せるものとして認められる︒此故に身罷等の朕態ム一関聯して生守る予なる観念は身瞳等に於て
のみ認められると知られるo
﹂と 説明 して ゐる つ 発文 テキ スト には
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とあ るも
︑西 成認 の拘
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さに
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EE は不 要と 見ら れる
︒
然し此
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﹁予なる観念﹂の封象が身膿等であるといふ設は正理・勝論汲の詳さざる所にして︑既に勝論経中に此詰 ︵
1︶
の動 そ斥 けて ゐる つ印 ち三
・二
・二 一に
︑
コ ア
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ダッ タが 行く
︑
ヤジュニャダッタが行くと︑︵予なる観念は身鰹に︶遁用さるるが故に︑身韓に就て︵予
の︶ 観念 ある なり
o﹂
hh︹同司︿同仏印
30m 円 白nny
白色可白い叫山門同白立︒m
山内 門u r
印円 山門 司
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山門 伺円
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白
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山門司匂門町戸仲町田一可白
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と︑反針者の設として出すものである︒経・三・二・二こには之に封して
﹁さ れど 遁用 は疑 はし
︒﹂
E田山口品目関心町田間同一︺同︶山内山吋
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・ 二
として適用といふ以上本来的の使用法でなく.本来我に就て言はるる観念冶身障等に適用したるも
ω
と見 る
べしと主張する︒此勅に就て此の註疏中にも難ぞ設けて稗明してゐる︒郎ち寂護の立場は﹁予なる観念﹂は身韓等
に就 て一 言ふ もの とな す的 であ るが 之 に針 して
︑﹁
子
ω
身牒等﹂といふ時︑予と身躍とは別々であるから︑予なる概念は身睦等に於ては謀れる用法であると敵脊が難十るならば︑同様の訣りは一我Lに於ても亦起りうるではない
かと 反駁 する
︒更 に敵 品作 が
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予ω
我﹂といふ時予と我と別々と見らるるは分別するが錦である︑と救ふならば︑最初 の﹁ 予の 身酷 等﹂ の場 合に も同 様で ある べき にと ば答 して
︑敵 払刊 のム 仏説 巻首 尼雨 端北 九に 窮地 に陥 らし めて 此を 破す るの であ る︒
更に敵者が︑﹁﹃予は白し﹂等といふ時身憶に就ての観念が主要である如く同様に何故に我もその観念の針象と
ならぬかo﹂L
一難 中る なら ば︑
﹁我 は山 色竿 ぞ白 性ム 一す るも ので ない から
o﹂
と答 へら れる
︒此 れ二 一四 伺第 二一 何の 意味 であ る︒ 売の 一二 五倍 に以
︑
﹁予なる観念の封象として現量的に我が認めらるるならば我の有無等に闘する評論は無
きこ とと なる から
.合 理で ない
︒﹂ と示 すの であ る︒
二一五個若し我がまさしく現量によりて蓮せらるるものならば︑
此故 に︑ 廿井
︑の 存在 性等 に就 ての 詩論 は何 が震 に起 るや
︒ 此の 悌敬 側の 難は 既に 勝論 経・ 二了 二・ 一
Oに出づる設と等しいと見られる︒印ち︑
円若 し︑ 予は
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ヅダッタなり︑予はヤジュニャダッタなりと直接に観らるるならば︵他の論詮を要せざるべし ︶ ﹂
立百 円出 身ど 山宮 山口
︿佐 官回 出口
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55
円H 2
・白
己主
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苫﹈ 川口 含円
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といふ反封者の難として出してゐるものと同趣意となる︒経では他の比量による我の論説会二・二・四粧やさが不
要となるといひ︑本書では我の存在性等に就ての評論が不要となるといひて︑共に現量得の矢を蓮べたものであ
4G
る︒然るに経では失の三・二・一一に於て︑我が現量的に知られ然もその設相があって比量によっても説せらるる
時は︑他の現量と同じく︑我といふ一一観念は一厨確めらるるから比量による論誼は不要でないと嬬解してゐる︒
﹁貸
義要
性地
・我
諭批
判刈
﹂の
研究
七九
日ド 仰孜 同千 協
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H年
報ヘ 第九 年ノ
A 0 47
今本 者一 自の 場合 には 正理
・勝 論汲 の側 よ
hり
突の 加品 川︑ 反駁 が提 出せ られ る︒ 印ち 一ー 青色 等が 現量 所成 なる 時に も︑ そ
の自性より離れさる利那性等に闘する評論が汝等に湿るが如く我に闘しても同様であらうo
﹂と
︒之 に封 して 究 の二 二ハ 備が 設か れる
︒ 此の 予な る観 念は
︑決 定せ る我 とし て拙 昨今 るが 故な り︒ 決定 と噌 盆と の畳 に於 て︑ 所常 士一 能書 との 性が 立て らる
︒
印ち汝の此の反駁は正しくない︒側救設に於て青色等が現量所成なる時にもそれと離れざる利那性等に閲する
詩論は起りうる︒何故かといはば︐此の現量は無分別性であるからそれが利那性なりや否ゃを決定するもので
はないから︑利那性等は不決定であh町︑従って此に関する評論が起りうる︒然るに汝の宗に於ては我に闘する詩
論は起りえない︒何故かといはば︑予なる概念は有分別性であるから︐その針象たるものを決定し事我は決定さ
れてゐるから︑評論は起りえない︒故に汝の反駁は破せられ︑従って我の現量得は正しから﹂ヂル記される︒
弐に第三|四何の意味を考ふるに︐決定せる我なる宜物に於てそれと蹴倒せる相なる増盆の観念が起ることは
あり えな い︒ 決定 と培 盆・
翻念は矛盾慨念であるから︑瓦ひに所書と能書との関係︵広島苫土