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第4次メルケル大連立政権の発足と「国民政党」の危機状況

(1)SPDの党勢衰退と消極的選択としての大連立

本稿冒頭においても述べたように、2017年連邦議会選挙の結果は、それまでも指摘されていた CDU/CSUとSPDの勢力衰退をこれまでにない形で示すものとなった。2017年連邦議会選挙の結 果、連邦議会には6つの政党が議席を獲得することになったが、これは1953年以来のことであっ た。しかも、1953年の場合とは異なって、連立形成の見通しに関して極めて不安定な状況が生じ た。

このような両大政党の支持率低下は必ずしも 2017 年連邦議会選挙において初めて生じたもの ではなく、長期的な社会的変化を背景としたものでもあった。特に、ドイツを含む西欧諸国が第 二次世界大戦の痛手から復興して物質的に豊かになり、さらに工業社会から次第に多様で分散的 な情報・サービス産業を中心とする社会へと変化していくにつれて、社会民主主義を基本理念と する綱領を堅持するSPDは、次第に工業労働者層を中心とする党の基盤となっていた社会文化的 ミリューを失っていった。選挙における党の重要な支持基盤の一つであり人材の供給源でもあっ た労組の組織率は 1980 年代までは 35 %前後で推移していたが、ドイツ統一直後から急速に低下 し、2016 年には 17 %にまで低下し、労働協約拘束率も大幅に低下した。それと連動するように、

1970 年代には 100 万人を超えていた SPD の党員数も 1990 年代以降減少が加速して 2000 年代には 70万人台となり、2016年には43万人にまで減少した。 (72)

確かに、1959年の有名なゴーデスベルク綱領はSPDが労働者階級の政党から国民全体の政党へ と転換し、「すべての人々にとっての自由、公正、豊かさ」の実現を目標とすることを宣言した。

また、1969 年の FDP との連立によって「社会自由主義的」方向性が打ち出され、ブラント政権 下では高学歴の若者を支持者として取り込む試みがなされた。しかし、1982年にSPDが政権を失 い、エコロジー的左派がSPDから分離して緑の党が結成されると、SPD内では党再建のための路

線をめぐるイデオロギー的対立が再び激しくなった。ブラントが去った1980年代後半以降、党首 が頻繁に交代するようになったことは、その一端を示していた。

このような状況のなかで、1990年代末にSPDの新たな指導者として登場したゲルハルト・シュ レーダーは、「新自由主義的レッセフェールの 20 年間は過ぎ去った。しかし、1970 年代流の財政 赤字や大規模な国家による介入のルネサンスがそれに代わるものではあってはならない」として イギリスのブレア政権の「第三の道」と類似した「新中道」路線を打ち出した。この政策面での 刷新のイメージと人気の高い指導者によって 1998 年連邦議会選挙における SPD の得票率は 40 % を上回るまでに回復し、緑の党との「赤緑」連立政権が誕生した。 (73)

しかし、シュレーダー政権の下で実施された「アジェンダ2010」を中心とする経済・労働・社 会保障政策面での構造改革は、その後の財政状況の改善、経済成長率の回復と失業率の低下、税・

社会保険料負担の抑制等に貢献したものの、新たな支持者の獲得にはほとんどつながらない一方 で、改革によって生じた負担増の側面に対する組織労働者を中心とするSPDの伝統的支持者から の大きな反発を招いた。その結果、シュレーダーを「新自由主義者」と非難するラフォンテーヌ 元党首を中心とする SPD 左派の一部が離党し、PDS と合流して左翼党を結成したことによって、

SPDの左に新たなライバル政党が登場することになった。

シュレーダー政権崩壊以降、SPDは、事実上「アジェンダ2010」において行われた改革を撤回 あるいは再修正し、中低所得者層や社会的弱者に配慮した「社会的公正」をより強調するという 方向に向かっていったが、左翼党とも緑の党とも異なるSPD独自の理念や政策が何であるのかを 明確にすることができなかった。シュレーダーが 2004 年に SPD 党首を辞任した後、2009 年まで 4人の党首が次々と交代したことや、2009年から2017年まで久々に長く党首を務めたガブリエル の打ち出す政策がジグザグ・コースをたどり、彼が支持の低迷から 2 回の連邦議会選挙において 自ら SPD の首相候補になれなかったことは、SPD のこの方向喪失を象徴的に示すものであった。

2017年連邦議会選挙を前にして、欧州議会議員としてブリュッセルを活動拠点としてきたシュル ツがガブリエルによって突如首相候補に指名され、党大会で100%の得票率で承認されたものの、

準備不足のままの連邦議会選挙戦においてすぐに有権者からの支持を失ったこと、党首辞任後も 外相と副首相を兼務していたガブリエルがナーレスとショルツによって短期間のうちに失脚させ られたこと、さらに2018年4月の党大会でシュルツの後継党首に選出されたナーレスが、党首選 にあたってそれまで無名であった党内左派の候補者ランゲと争って 66.4 %の得票率しか獲得でき なかったことも、党の明確な路線とそれを体現する強力な指導者の欠如を物語っている。

緑の党や左翼党は SPD から支持者を奪うことによって勢力を拡大したという面もあったため、

連邦議会選挙におけるこの三党から成る「左派陣営」全体の得票率は緑の党が登場した1980年代 以降常に 40 %を上回っており、特に 1998 年から 2005 年までの 3 回の選挙においては 50 %を上回 る「構造的多数派」を形成していた。さらに、2013 年連邦議会選挙においては、「左派陣営」は CDU/CSUとFDPから成る「右派陣営」を得票率では下回ったものの、FDPが議席獲得に失敗し

たため、合計議席数では過半数を獲得した。しかし、SPDは旧東独の独裁政党であった社会主義 統一党(SED)の後継政党という側面を持つ左翼党との連立を基本的に否定してきたため、実際 には緑の党及び左翼党との「赤赤緑」連立政権を樹立することができず、その後も党勢衰退に歯 止めをかけることができなかった。その結果、2017年連邦議会選挙においては「左派陣営」全体 としても38.6%の得票率しか獲得できず、シュレーダー政権時代の「赤緑」連立政権はもちろん、

SPDが左翼党との連立拒否の方針を変更したとしても「赤赤緑」連立政権を樹立することはもは や数的に不可能となり、「左派陣営」におけるSPDの主導的立場は失われた。

このように党勢の衰退が深刻化したことに対して、SPD は政権から離れ、統治に配慮した妥協 の必要がない野党という立場で本格的な党内議論を行い、今後の党再建の方針を確立することを 決意した。しかし、その数か月後には SPD は再び CDU/CSU との連立交渉を行うという方針に転 換し、しかもそれは極めて短期間のうちに全体としては順調に進行した。確かに、ジャマイカ連 立事前協議が失敗に終わった 2017 年 11 月下旬から SPD の党員投票によって CDU/CSU との連立 協定が承認されるまでには3か月以上の時間がかかった。しかし、実質的な連立事前協議と正式の 連立交渉自体はそれぞれ1週間程度で終了した。この点は、1か月以上かかっても交渉が大きく進 展せず、相互不信を最後まで取り除けなかったジャマイカ連立事前協議との大きな相違であった。

大連立を再び形成するための実質的交渉がこのように円滑に進行した背景には、すでに2005年 と2013年の2回にわたる大連立政権においてSPDがシュレーダー路線から転換する一方、後述す るように CDU/CSU も野党時代の新自由主義的路線から社会的公正や同権化を重視する路線へと 比重を移していく過程において、多くの政策、特に社会保障政策や労働市場政策に関しては両党 の実務レベルでの政策調整が繰り返し行われてきたという事実があった。これらの政策分野に関 して連立交渉において取り上げられた問題の多くはそれまでも大連立政権内で議論あるいは実施 されてきたことの延長線上にあり、その点で合意形成は必ずしも困難ではなく、最後まで残った 対立点の解決は新政権樹立後に先送りされた。

第二に、本稿冒頭でも述べたように、財政・経済・労働市場の状況が極めて良好であり、SPD や CDU/CSU 内の社会政策重視派によって要求された予算支出や給付拡大をもたらす政策を実施 するための財政的余地が生まれていたことも両党の交渉が比較的短期間で終了した背景となって いた。SPDが左派を中心に要求していた高所得者に対する負担増は税収が順調に増加しつつある 状況の下では強い説得力に欠けており、社会保険給付の拡大は長期的には大きな財政的問題をも たらす可能性があったが、短期的には就業者の増加による社会保険料収入と積立金の大幅な増加 や連邦補助金の増額によって財源を調達することが可能であった。

第三に、大連立以外には事実上連邦議会多数派を形成できる組み合わせがないという事実が あった。このことは、必ずしも CDU/CSU 側だけが大連立を強いられたということを意味しな かった。SPD側が連立交渉を破綻させた場合、同党はFDPと同様に自らの将来に対する不安だけ から安定した政府を樹立する責任を放棄したという印象が生まれ、SPDにとってさらに致命的な

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