第2章 忘れ去られた名曲、ミヒャエル・ハイドンのレクイエム(MH155)
第2節 ミヒャエル・ハイドンのレクイエムの成立とその初演
ここではミヒャエル・ハイドンの《レクイエム ハ短調 Requiem c-moll 》、正式名称《大 司 教 ジ ー ギ ス ム ン ト の た め の 追 悼 ミ サ 曲 Missa pro Defuncto Archiepiscopo
Sigismundo 》(MH155)の成立について、事典項目等に書かれている内容のみを簡潔にま
とめる。
シャーマンによるミヒャエル・ハイドンの年代別主題総目録1 によれば、レクイエムが 作曲されたのは1771年12月31日ザルツブルクにおいてであった。本論文の第1章第1 節でも概説したように、ハイドンは1763年の夏にザルツブルクで宮廷作曲家と宮廷楽団 楽長の地位を得て、1768年8月17日には宮廷オルガニスト フランツ・イグナンツ・リ ップ Franz Ignaz Lipp(1718-98)の娘で大司教の楽団のソプラノ歌手でもあった マリ ア・マグダレーナ・リップ Maria Magdalena Lipp(1745-1827)と結婚する。2 1770年 1月31日、2人の間に唯一の子であるアロイージア・ヨーゼファ Aloysia Josepha が生 まれるのだが、翌1771年1月27日、1歳の誕生日を迎える前に亡くなっている。生涯を 通じて唯一のわが子であったアロイージアを失った深い悲しみが、この年の暮れに作曲さ れた彼のレクイエムに大きく影響していることは間違いない。
1771年12月16日、ハイドンにザルツブルクでの地位を与え、モーツァルト父子の演 奏活動も支援していた大司教シュラッテンバッハが死去する。シュラッテンバッハの死が ハイドンにとってもモーツァルトにとっても、そしてザルツブルクの音楽界にとっても大 きな変化をもたらしたことは第1章第2節で述べた通りだが、そのシュラッテンバッハの 死に際して作曲されたのがこのレクイエムであった。大司教が12月16日に死去した後、
12月31日には完成されていたので、僅か2週間で作曲したということになる。MGGに は、このレクイエムの作曲がハイドンにとっての「教会音楽家としての実を証明する機 会」であったと記載され、3 また以下のようにも記されている。4
恐らくザルツブルク大聖堂への初めての大きな教会作品であり、初演にはイタリア
1 Sherman and Donley, op. cit., p.63.
2 本論文5頁参照。
3 Manfred Hermann Schimid, Petrus Eder und Gerhard Walterskirchen. “Haydn, (Johann) Michael.”
in MGG, Personenteil 8, S.1098.
4 Ibid.
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旅行から戻ったばかりのモーツァルト父子も参加した、この壮大な《死者のための ミサ曲ハ短調(MH155)》は、ミヒャエル・ハイドンをザルツブルクの教会音楽作 曲家の頂点に据え付けた。
クロルとフェッシングによると、埋葬とミサが行われたのは1772年1月2から4日の 間とある。1 また、作曲完成から初演までの時間が少なかったために3人の写譜者が手分 けをして、合唱とオーケストラのパート譜をリハーサルまでに完成させたという記述もあ る。初演された正確な日付は把握できないが、モーツァルトは1769年11月27日にザル ツブルク宮廷楽団の第三ヴァイオリン奏者に任命されているので、モーツァルトがヴァイ オリンパートとして演奏に参加したことは間違いないだろう。ちなみにレオポルト・モー ツァルトは1763年から死ぬまで宮廷副楽長の地位に就いていたので、父子でヴァイオリ ンパートを演奏したと思われる。1772年1月初頭、つまりモーツァルトが16歳の誕生日 を迎えるほんの少し前と言う、思春期から青春期真っ只中の感受性豊かなこの時期に、ミ ヒャエル・ハイドンのレクイエムから深い精神的な感銘を受け、それが深層心理に深く刻 まれ、20年後の自身のレクイエムの大きな要素となったと考えるのはごく自然なことだろ う。ザルツブルク大聖堂の音楽監督であるヤノシュ・チフラ János Czifra(1951-)は、
筆者が行ったインタビューで以下のように述べている。2
モーツァルトはハイドンのレクイエムの様々な音楽要素を「手本」にしたのではな く、20年前に演奏した衝撃的なハイドンのレクイエムが忘れられない遠い「記憶」
の中にあり、その「記憶」が自然に甦って来る中で自身のレクイエムを作曲したの だろう。
ここまでミヒャエル・ハイドンのレクイエムの成立とその初演についてまとめたが、彼 のレクイエムのその後についても少し見てみたい。ミヒャエル・ハイドンの葬儀の際
(1806年)に演奏されたのは、彼の死により未完となった《レクイエム 変ロ長調
MH838》であった。その未完部分は1771年の《レクイエム ハ短調 MH155》から音楽
1 Gerhard Croll and Kurt Vössing. Johann Michael Haydn. Sein Leben, Sein Schaffen, Seine Zeit. Wien:
Paul Neff Verlag/ Pabel-Moeewig Verlag Kg, 1987, p.63.
2 筆者は2012年2月6日、ザルツブルク大聖堂練習ホールにてチフラ氏にインタビューを行った。
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素材を取って完成されたという。1 また、MH155は兄ヨーゼフ・ハイドンJoseph Haydn(1732-1809)の葬儀でも演奏された。ポーランドは以上の事実を踏まえた上で、
後に行われたハイドン兄弟のための数々の追悼ミサではモーツァルトの《レクイエム ニ 短調 KV626》が演奏されていることに注目し、以下のように述べている。2
このことは、ハイドンのレクイエムハ短調とモーツァルトのレクイエムの比較を 促進することとなる。2人のハイドンとモーツァルトの親密な個人的関係と、音楽 家としての関係ゆえに、これら2作品の上演は必然であり不可避でさえあった。
同時代に同地域で生きた作曲家として、彼らが互いに影響していたのは当然であり、また それは彼らに限ったことではない。この時代、あるいはそれ以前にオーストリアで活躍し た名作曲家と呼ばれる、ヨハン・ヨーゼフ・フックスJohann Joseph
Fux(1660-1741)、ヨハン・エルンスト・エーベルリンJohann Ernst Eberlin(1702-62)、フロリア ン・レオポルト・ガスマンFlorian Loepold Gassmann(1729-74)、アントン・カイエタ ーン・アードルガッサーAnton Cajetan Adlgasser(1729-77)などから、彼らが受けた影 響も計り知れない程大きいはずだ。しかし、ミヒャエル・ハイドンとモーツァルトのレク イエムの関係が現在に至るまで研究されてきたことは、これまで述べてきたような作曲と 初演の経緯が必要条件であったのではないだろうか。もしモーツァルト父子がイタリア旅 行から戻るのが遅れ、ハイドンのレクイエムの初演に立ち会う事ができなければ・・・あ るいは初演には立ち会っても演奏には参加していなかったら・・・と考えると、モーツァ ルトのレクイエムが大幅に異なるものであったと考えざるを得ない。
1 Poland, op. cit.,p.113.
2 Ibid.
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