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ノ   軍  関   歩

ドキュメント内 [資料紹介] 佐倉連隊関係資料 (ページ 118-139)

生係妻 籍兵      中      尉

土 屋 詳 三

千葉縣山武郡松尾町本水深五百二番地

土 屋徳蔵 土 屋とら 徳蔵 長男

明治四十一年十月十日

[佐倉連隊関係資料] 宮地正人

略  歴

 和 同昭年

  月

年年日 ±_

月月

同同同同同同同同同同同同

同同

七年

十年 九月

 年 九月

 年十二月

十一年

  年

  年

  年

  年

  年 日

三月三十一日

九九九九九五 月月月月月月

  年十二月

十二年  一日十六日十四日 一日 二日 六日 七日 八日 十日 一日

三月二十三日

三月二十三日

三月二十三日

記  事

千葉縣立成東中学校卒業

幹 部 候 補

生トシテ歩兵第五十七聯隊第六中

隊二入隊任歩兵少尉

特別志願士官トシテ歩兵第五十七聯隊附

召集將校トシテ陸軍歩兵学校二入校

修学終了退校蹄隊

歩

兵第五十七聯隊留守隊第一中隊附

派

遣隊宮崎隊附

渡満ノ爲佐倉騨出発

下関港出帆 釜山港上陸

齊々恰爾着

菊地隊附満州國本渓縣喜雀溝北方附近戦斗二於テ戦

死

任歩兵中尉

叙 従 七位       戦 死ノ状況 土 屋中尉ハ性剛毅ニシテ諮達而モ温情密ヤカニシテ禮二篤ク交友二親ミ

良ク部下ヲ慈ム爲二上下ノ信望ヲ一身二集メタリ

昭和十一年五月ヨリ留守隊附トシ編成當初ヨリ業務極メテ多端加フルニ

留守隊將校人少ノ中二教育教官トシテ訓練二内務二真摯熱誠恒二塞々ト

シテ献身的努力ヲ重ネ留守隊教官ハ勿論内務其他ノ進展二資スル虚極メ テ甚大ナルモノアリ昭和十一年九月渡満二方リ謂ツテ日ク﹁愈々念願ヲ達シ征途二上ル奉公ノ期正二到ル日頃研鐙ノ事遂二實地具現ノ時ヲ得タリ眞コトニ欣喜措ク能ハス予元ヨリ生還ヲ期セス一死以テ皇恩二報ヒンノミト﹂其ノ覚悟ノ程誠二悲壮ナリト謂フヘシ渡満早々ニシテ平頂山附近ノ戦斗ヲ初メ敷次ノ激戦二於テ常二勇敢沈毅上下ノ信頼愈々厚シ 昭和十二年三月中尉ハ追撃隊ヲ率ヒテ討匪中同月二十三日午前九時本渓縣奏馬集東方約七粁喜雀溝附近二匪首老北風ノ率ユル約五十名ノ匪團幡居シアルノ報二接シ急

遽出動湯浅軍曹ノ指揮スル治安隊ヲシテニ道溝−放牛溝ー六五四高地方

面ヨリ親ラバ部下追撃隊ヲ以テ小乾溝ー六一五高地方面ヨリ前進中午後

二時三十分頃六五四高地二於テ約三十名ノ匪團ト遭遇交戦約三十分ニシ

テ 之ヲ喜雀溝北方二撃退ス追撃隊ハ同日午後三時頃六一五高地南方約一

粁二於テ該匪約五十名ト遭遇激戦中土屋中尉ハ遂二壮烈ナル戦死ヲ遂ク

自十一年六月

至

十二年二月

交

出動回敷

戦回敷

行動延粁敷

交 戦匪延敷  六・

整 匪 敷

我損害    一〇〇 約八千粁  三四五  一二一

戦闘成果概要

五 二

〇 戦死︵含戦傷死︶  二二

負傷       三三 歯獲兵器

捕洋拳小山     塞     焼 虜砲銃銃却

一六

〇 一三 五 九 二 九 五 八 八

国立歴史民俗博物館研究報告

 第131集2006年3月

名誉ノ戦死者氏名

年 月 日

場   所

住    所階級

氏  名 一 一︑ 六︑一二

長嶺子附近戦斗

千葉縣山武郡東金町曹長

土 屋  格

ク

〃

千葉縣印旛郡千代田村

上 林 田  弘 一 一︑ 八︑=二

城門溝戦斗千葉縣東葛郡八榮村

上

柳澤光盛

ク

ク千葉縣千葉郡都村

上

牛尾 忠一

〃  九︑ 五

ク

(戦傷死︶

千葉縣夷隅郡豊濱村

上

渡邊 利助

〃  九︑ 九

麻 戸溝戦斗

千葉縣君津郡長浦村

上 石井  静

ク 一〇︑一〇

温洞溝戦斗銚子市

伍

伊藤 藤吉

〃

ク

千葉縣長生郡長柄村

上

高吉 繁信

ク

ク

千葉縣長生郡東村

上 花崎 政雄

〃 一〇︑一九

王溝戦斗千葉縣香取郡佐原町

上 成毛福三郎

ク =︑ 三浦石河戦斗

千葉縣君津郡中村

上

長谷川 勝

〃 一一︑ 七

千葉縣香取郡香取町温洞溝戦斗    ︵戦傷死︶

上 香 取 正吉

〃 一二︑一七砂金勾戦斗千葉縣君津郡中村曹長

坂井  武

〃

〃

千葉縣香取町

上

高木 保治

〃 一二︑二八窟隆山倦子戦斗千葉縣市原郡姉ヶ崎町

伍

鈴木  清

一二︑ 一︑=

包家墨子戦斗千葉縣印旛郡内郷村軍

渡 辺  俊

一二︑ 一︑一四

盤嶺溝戦斗

千葉縣匝瑳郡野田村

伍

ク

ク

千葉縣海上郡高神村

上

〃

〃

千葉縣香取郡府馬町

上

ク

浦石河戦斗千葉縣安房郡田原村中尉島村 専一

ク  一︑ 一五乾溝子戦斗

千葉縣夷隅郡偲野村

上

岩瀬 隆策

ク  一︑二二

茨城縣西茨城郡岩瀬町曹長盤嶺溝戦斗    ︵戦傷死︶

ク喜雀溝戦斗千葉縣山武郡松尾町  三︑三三中尉

公傷病死者

二 一

〃 一

「 ︑

一 一

二 一

○

、

︑ ︑

二 一

二 一 六

チ

奉

チ 天

ノ、 〃

陸

ル陸 軍病

軍

纏

萎壕 堕琶

千 千

千

葉 葉 葉

縣 縣 縣

君

銚 安

津 子 房

郡 市 郡

昭 稲

和 門

町 川

上 上 上

[佐倉連隊関係資料] 宮地正人

一  一

佐倉陸軍病院略年表︵昭和一二年六月︶ 者六十三名ヲ収療ス

(『軍

医団雑誌﹄第二入九号︑昭和一二年六月号︶

一︑明治七年五月歩兵第二聯隊第一大隊佐倉二移駐スルヤ兵舎ト共二之   二属スル病室落成シ佐倉瞥所病院ト稻ス是當佐倉陸軍病院ノ濫膓ナリ

 同年六月佐倉屯螢病室ト改稽ス軍医副萩野孝恭大隊附軍医タリ

ニ︑明治八年七月聯隊本部及第三大隊ノ移駐ト共二在來ノ病院ヲ両大隊

 ノ輕病室トシ別二聯隊重病室ノ建築二着手シ明治九年九月落成同十二

 年四月二十四日開室ス陸軍一等軍医佐藤舜海聯隊高級医官タリ

三︑明治十四年六月十九日 明治天皇三里塚種畜場へ行幸アリ七月一日

 御還幸ノ途佐倉兵管二御休憩重病室備付治療器械ヲ天覧二供シ佐藤軍

 医正御説明ヲナシ尚看病人卒ノ纐帯術ヲモ御覧アラセラル

四︑明治十八年七月十一日鎮毫螢所職員表改正二依リ聯隊高級医官ハ病

 院長二副医官ハ病院附補職トナリ同年十一月一日重病室ヲ佐倉螢所病  院ト改稽シ聯隊所属ノ重病室敷地建物諸物品人員等皆螢所病院二移管  

セラル 陸軍二等軍医正佐藤舜海螢所病院長トナル

五︑明治二十一年五月一日佐倉螢所病院ヲ佐倉衛戊病院ト改稽セラル

六︑明治二十七年九月二日佐倉豫備病院ヲ開設シ日清戦役関係傷病者八

 

百十八名ヲ収療ス 開設日四百五十五日

七︑明治三十七年十二月一日東京豫備病院佐倉分院ヲ開設シ日露戦役関

  係

傷病者八百二十二名ヲ収療ス 開設日敷四百三十九日

八︑明治四十二年三月歩兵第二聯隊水戸二韓螢シ歩兵第五十七聯隊代ツ

  テ

佐倉兵螢二入リ主トシテ同聯隊ノ傷病者ヲ収容ス

九︑明治四十四年五月二十一日 皇太子殿下︵大正天皇︶歩兵第五十七

 聯隊へ行啓アラセラレタル時東宮武官ヲ當院二御差遣アラセラル

十︑昭和十一年十一月十日佐倉衛戌病院ヲ佐倉陸軍病院ト改稽セラル

十一︑昭和七年四月以降現在マデニ満州事変關係在外部隊ヨリノ還送患

国立歴史民俗博物館研究報告

 第131集2006年3月

一二

  第﹂二二連隊連隊長恵藤第四郎 講話草案

 ︵昭和一五〜一七年︶

  ︵1︶支那人と虚偽 日本兵隊「ワイ︵オイ︶︑此村に匪賊は居なかつたか﹂

支 那老百姓

メイユイ「 没有﹂﹁居ナイ﹂

日本兵隊「 居ナイ筈ハ無イ筈ダ︑今朝迄居タ筈ダ﹂

支 那 老百姓

「一ヶ月程前二来タガ其後ハ来ナイ﹂

日本兵隊「 此

野郎︑虚偽をつきやがる﹂と言ツテ一ツ頭を殴る

「ほんとうを言へ﹂﹁あの壕を見よ︑最近掘つた壕じやないか﹂

支 那老百姓

「そうです︑あれは二三日前︑八路軍工作員が来て掘らされたのです﹂

日本兵隊「

そ れ 見よ︑一ヶ月前来たが其後は来ないと言つたが偽じやないか︑二

三日前二来たじやないか︑工作員は何名来たか﹂

支 那老百姓

「二 三名です﹂

日本兵隊「 此 野郎︑偽ばかりつきやがる︑確に敵の軍隊が居た筈だ︑何百名位来

たか﹂ 支那老百姓

「八 路 軍 没有︑唯工作員だけだ﹂

日本兵隊「まだ此外道偽をぬかすか﹂

ヒドクナグリ蹴リ︑所々より血が出る

「これでも真実を言はぬか﹂

支那老百姓

「言ひます︑三百名程来ました﹂

日本兵隊「何日来たのか﹂

支那老百姓

「三日前です﹂

日本兵隊「

何日去つたか﹂

支那老百姓

「オトトイ去つた﹂

日本兵隊「

此 野郎︑始に来ないと言つて︑次に一ヶ月前と言ひ︑今又オトトイ迄

居たと言ひやがつた︑ほんとうはどれか︑ほんとうを言へ﹂

支那老百姓

「ほんとうは居ない﹂

日︑又ヒドク体刑を喰はせた後︑

「ナニい﹂

「今朝迄居たろう﹂﹁ほんとうを言へ﹂

支那老百姓

「今朝迄居た﹂

日本兵隊

宮地正人

[佐倉連隊関係資料]

「何百人居たか﹂

支那老百姓

「三百人居た﹂

日本兵隊「 何処へ去つたか﹂

支 那 老百姓

「今朝早く去つたので︑自分は寝て居たので知らぬ﹂

日本兵隊「 又 此野郎偽を言ふ︑知らぬ事があるものか﹂﹁白じようせよ﹂

支 那老百姓

「今朝三時頃去つた︑西の方へ﹂

日本兵隊「 此 野郎︑人を﹁ナメ﹂てやがる﹂﹁東へ行つた筈だ︑そうだろう﹂

支 那老百姓

「東へ行つたかも知れぬ﹂

日本兵隊「 此 野郎︑人か言ふ通り言ひやがる︑真偽を言へ︑一体どれがほんとう

か﹂

支        ブ チト  那老百姓

「わかりません︑知りません︑不知道﹂

全くこうなつちや︑どれが真実か解らなくなる︑尋ねる人も答へる人も

霧中をさまよつてゐる

ウソ八百と言ふ事があるが︑一ツ位のウソでは効果が少い︑十も二十も

否八百ウソを並べると︑其の内に一つ﹁ほんとう﹂の事があつても真実

とは思へない

誠に支那人の虚偽は徹底して居る︑之は一百姓の虚偽だが︑政治家・軍

人・商人皆悉く巧に偽をつく︑新政府側軍隊内の内註も之から起り︑調

査して見れど︑何れが真実か虚偽かわからぬ

甲

「乙

隊長は重慶側に内通して居る︑其証拠は此通りだ﹂

「甲隊長は重慶側に⁝⁝﹂ 乙 何 れも尤らしく述へたてる︑こうなつてくると両方共通敵者であると思 ふ

外は無い︑凡そ支那人は子供の時から虚偽を言ふ様に教へられ︑巧に

虚偽をついたら賞められる習慣がある︑昔清の或皇帝︑其の皇子に﹁昼

と朝と地球と太陽との距離は何れか近いか﹂と尋ねた

王 子日

「それは朝の方が近い﹂

皇帝

「何故か﹂

王 子

「朝は太陽が昼より大きく見えるからてす﹂

父皇帝大によろこび︑或宴会の席で王子の利発を紹介する為に︑再ひ王

子に対し此質問を発した

王 子日

「昼 の方が地球に近い﹂

皇帝日

「何 故か﹂

王 子日

「昼は朝より暖かいからです﹂

前言を醗し父をあつと言はせたが︑父ハ之を以て益々王子の利発を喜ん

だと言ふ話がある︑子供の時から偽言を教へられ︑勝手方だいに虚偽を つく︑重慶政府の宣伝を見れば︑敢て証拠立てる必要はない 孔 子 サ

ン

モ虚偽を教へて御座る

ドキュメント内 [資料紹介] 佐倉連隊関係資料 (ページ 118-139)

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