先行研究の検討において、Cusumano(1991, 2004)や今井他(1989)、妹尾(2001)らが 明らかにしてきたように 1970~1990 年代にかけてソフトウェア開発手法の中心にソフト ウェア・ファクトリーと呼ばれる工場型の開発モデルが存在した。この開発モデルは製造 業のライン生産方式の工場を模しており、日本のソフトウェア産業のWaterfall Modelを中 心とした分業構造と相性が良く、当時一定の成果を上げていた。しかしながら、欠点も多 く、特にソフトウェア開発の下流工程を標準化した単純労働に置き換えるような土壌の形 成にも繋がっていたのである。
本章では、日本のソフトウェア開発の下流工程が標準化した単純労働に置き換えられて いることの問題に論点をあてている。このような日本のソフトウェア開発にみられる特徴 的な分業構造を確認し、ソフトウェア・ファクトリーの貢献とその限界、さらになぜ日本 企業がこのソフトウェア・ファクトリーのような開発方法を採用しようとしてきたのかに ついて検討する。
(1) ソフトウェア産業の成り立ち
1968年にNATOが開催したソフトウェア・エンジニアリング会議で、コンピューターの 高性能化とソフトウェアの複雑化からソフトウェア危機が叫ばれ、ソフトウェア工学の必 要性が指摘された。その約20 年後、Brooks99(1986, 1995)が、ソフトウェアの開発が高 度に複雑化していくのに対し、これらをすぐに解決し、生産性を高めるような手段は存在 しないことを指摘した100。それからさらに20年以上の歳月が過ぎたが、現在もBrooksが 指摘したようなソフトウェア開発における多くの問題は解決できていない。
ソフトウェア産業が、なぜ現在のような分業構造を取るようになったのか、その要因の 一つに、ソフトウェアがコンピューターを含むハードウェア産業から分離、独立してきた 経緯が存在する。そこで、今日の受託ソフトウェア産業における開発プロセスの問題がい かなるものであるのか、なぜそうした問題が生じるに至ったのかを理解するため、本節で はまずこのハードウェアとソフトウェアの関係を整理するとともに、今日のソフトウェア がどのように発展してきたのか、歴史的背景を確認する。
99 IBMのSYSTEM/360の開発者で科学者。
100 Brooksは、その著書『人月の神話』(Brooks, 1986, 1995)において、中世ヨーロッパで
銀が魔除けの効果があると信じられ、狼男や吸血鬼、悪魔などを撃退できる武器として銀 の弾丸や銀のナイフが作られた信仰になぞらえ、ソフトウェアの開発のさまざまな問題を 解決するような「銀の弾丸」は存在しないと説いた。この主張は、ソフトウェア工学のコ ミュニティで多くの反響を呼び、ソフトウェア工学の古典として現在も読み続けられてい る。
① ハードウェアからの独立
ソフトウェア産業は、ハードウェアであるコンピューターの発展とともに成長してきた。
特にソフトウェアは、一時期世界のハードウェアの70%以上を占めたIBMの影響が大きい
(今井・安藤・白井・辻・久保・玉置・浜田, 1989; Cusumano, 1991, 2004; 杉山, 2011)。こ のようなIBMを中心としたコンピューターの発展やソフトウェアの歴史については、情報 処理学会歴史特別委員会(2010)や一般社団法人情報サービス産業協会編(2013)がまと めているほか、情報産業の価値がハードウェアからソフトウェアにシフトする研究として 今井・安藤他(1989)や杉山(2007, 2008, 2009, 2011)、朴・藤本(2016)が詳しい。
これら先行研究によると、コンピューターの歴史は、1939 年にアメリカで ABC101と呼 ばれる世界初のコンピューターの登場から始まった。1946年にアメリカ陸軍の弾道計算用 に開発されたENIAC102は、その後水爆の実験などに利用されており、当時のコンピュータ ーは第二次世界大戦などにおける軍事利用が中心であった。
1949年になると、現在のコンピューターの基礎となったノイマン型コンピューターと呼
ばれる EDSAC103が世界で初めて開発された。しかし、当時のコンピューターは、現在の
パソコンのように持ち運びが可能な程小型で性能が良いものではなく、大型で、かつ高価 なものであり、まだ一般企業に普及するようなものではなかった。
第二次世界大戦を経て、コンピューターが商用として利用され始めたのは、1950年頃と いわれている。
アメリカでコンピューターが商業的に利用され始めた1950年頃には、コンピューターは 科学技術計算を目的としており、企業の給与計算や売上集計など日常的業務のデータ処理 のほか、トランザクション処理104として利用されていた。企業の業務は、コンピューター に処理させるために標準化が進められ、OS により制御を自動化することで成果を上げて いった。
このようなコンピューター産業の発展に対し、ソフトウェア産業は、1964年にアメリカ でIBMのメインフレームが登場してから産業の体をなしたとされる。IBMは、1911年に 創業したが、コンピューター事業に参入する以前は、パンチカード関連事業に注力し、独
101 Atanasoff-Berry Computer。ABCは一部未完成で稼働実績もなかった。また、当時のコン
ピューターは真空管の配列、配線の物理的な変更により計算を行っていたため、汎用性に 欠けていた。
102 Electronic Numerical Integrator and Computer。ABCのような専門計算機とは異なる汎用計 算機。長らくENIACが世界最初のコンピューターとされてきたが、その特許を巡る裁判 により、ABCが先に存在することが認められた。しかし、このENIACが、現在のコンピ ューターの基礎となるプログラム内蔵型のEDSACの開発に繋がっていった。
103 Electronic Delay Storage Automatic Calculator。プログラム内蔵方式として現在のコンピュ ーターの基礎となったノイマン型と呼ばれるコンピューター。
104 TPS(Transaction Processing System)。関連した複数の処理を一つにまとめて処理する方
式。
占的地位を築いていた。1950年代当時はまだハードウェアがIT ビジネスの中心であり、
ソフトウェアは付属品であった。当時のIBMは、創業して以来、パンチカードの機器を販 売せず、賃貸し、その使い方や保守を指導することでレンタル料金を得ていた。IBMはこ のビジネスモデルをコンピューターにも適用し、IBMを中心としたアメリカのコンピュー ターメーカーは、ハードウェアや OS、ミドルソフトウェアを提供し、顧客固有の業務シ ステムについては顧客自身が開発するという役割が分離した分業モデルが続いていた。
1960年代になると、コンピューターの性能が上がるにつれて、大型のホストコンピュー ターの利用が進んでいった。さらに、コンピューターの稼働に対する信頼性が増すことで、
オンラインを利用したシステムが実用化された。この頃、パンチカードシステムで独占的 地位を確立していたIBMは、計算機などのコンピューターの開発にビジネスモデルの移行 が成功し、独占的地位の確保へと繋がっていった105。ただし、IBMは当時大型コンピュー ター市場で多くの利益を上げていた一方、個人用コンピューター市場には参入していなか った。そのため、IBMは個人用コンピューター市場には遅れて参入することとなり、十分 な製品開発期間を確保できず、くわえて、部品を新しく自社内部で開発、調達しようとす ると高くついたため、アーキテクチャーのみを作成し、それ以外のCPUやOSなどの開発 はアウトソーシングせざるを得なかった。その結果、OSをMicrosoftに、CPUをintelにア ウトソースすることで、それら企業の成長に寄与するとともに、特定業界ごとの製品はそ れぞれの専門メーカーが独占するようになっていったのである(Cusumano, 2004)。
1967年時点で、世界のコンピューターの70%以上がIBMのマシンに占められていた(杉 山, 2011)。しかし、一つの企業による世界市場の寡占支配は競争を阻害し、技術の発達を 遅らせる危険性がある。このような IBMによる独占的支配の状況に対し、1969年にアメ リカの司法省により、独占禁止法違反の訴訟が起こされた。この訴訟に対し、IBMは直ち に和解を行い、ハードウェアとソフトウェア、教育サービス、エンジニアリングサービス を分離する価格分離政策を発表した。これにより、ソフトウェアは無償の物から、独立し た有償な物、つまりソフトウェアはハードウェアとは独立した商品という認識ができあが ったのである。
② 日本のソフトウェア産業の独立
日本でも1970年代から1980年代にかけて、ハードウェアとソフトウェアなどの価格分 離が進展した。また、1980年代半ばには、ユーザー企業の多くが、コンピューター利用の 技術や経験を自社以外にも活かそうと、情報処理部門を子会社として独立させていった。
しかしながら、1990年代になると、コンピューターが高度に複雑化したことや、ユーザー
105 IBMのSYSTEM/360が商用的に成功した互換アーキテクチャーとなる。同一のアーキ
テクチャーを採用するコンピューター間で、同じソフトウェアを動作させることを可能に した(杉山, 2007, 2009)。