日本の地方国立大学の1つ、岩手大学を中心とする産官学連携は、地域志向とタスク・フォース志 向がきわめて高く、特に 1999 年からのフェーズにおける政策過程において、セクター超越型リエゾン 戦略の発現が、明確に見い出される。地域産官学連携の1つの選択肢としての、ベストプラクティス モデルを示していると思われる。
本章では、「岩手県の産官学連携」に焦点を当て、その 15 年間にわたる政策過程、とりわけ 99 年か らの「セクター超越型リエゾン戦略」の顕著な発現の過程を分析する。
1.なぜ岩手モデルなのか
はじめに、なぜ岩手モデルがベストプラクティスとされているのか、岩手の産官学連携の優位につ いて、改めて根拠となる実観的理由を整理しておきたい。
(1) 共同研究の健闘
第2章ですでに述べたとおり、共同研究件数は、大学の産官学連携の進捗動向をみる1つの指標と なる。岩手大学は、地方大学のなかで全国でも高い实績を誇っており、大学の規模・学科構成などか らみてもその数字の伸びは驚異的である。
(2) 中小企業創造的活動促進法認定企業数の健闘
この数字も第2章で述べたように、地域中小企業の参加意欲、および地域ぐるみのプロモーション の1つの指標となる。岩手県の県内中小企業は、2002 年 1 月末時点で 109 社が認定を受け、その数字 は全国都道府県で 17 位、過去2年の伸び率でみれば全国 10 位と高い位置にある。
(3) 国の大型プロジェクトの大量獲得
大学と県は、地域技術振興のための国の大型プロジェクトを、続けざまに獲得してきている。
1993 年:旧・科学技術庁の生活地域流動研究(年間約1億円×3年)、1996 年:同・地域先導研究
(年間約1億円×3年)、1998 年:新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の地域コンソーシ アム事業(年間約1億円×2年)、1999 年:地域結集型共同研究事業(年間約4億円×5年)と、途 切れる暇がない。また、1996 年には、国が手がけた最初の地域科学技術コーディネート支援事業であ る、旧・科学技術庁の地域研究開発促進拠点支援事業(通称:研究成果育成型 RSP 事業/人件費含め て年間 4 千万円×4 年間)の当初採択7都道府県の1つにも選ばれる。近年も、2001 年補正予算地域 新生コンソーシアム事業5件、2002 年地域新生コンソーシアム事業4件、同年、北上川流域エリアが 都市エリア事業に採択と、大量獲得を続けてきている。
(4) 地域産官学民連携のベストプラクティスとしての高い評価
岩手大学の地域共同研究センターを中心とするリエゾンの組織化や、INS(岩手ネットワークシステ ム)という異業種交流会的なネットワークの活動は、地域のキーパーソンをネットワークし、多様な 社会的連携活動を展開する独自性に富んだもので、全国から高い注目と評価を集めてきた。
こうした評価は、卖なる風評だけではない。『平成 9 年度版中小企業白書』では、岩手大学の産官学 連携のリエゾン機能が、全国のベストプラクティス事例の1つとして紹介された。さらに、99 年5月 には、INS を対象とした研究調査プロジェクトが、旧・文部省の「21 世紀型産学連携手法の構築に係 るモデル事業」の指定を受け、500 万円の補助金を受ける。産官学民の有志によって結成されたネッ トワークの意義に対して、国の産官学連携行政がオーソライズの姿勢を示したものである。
99 年 11 月には、岩手大学地域共同研究センターの増築部分が竣工する。センター設置は、全国 29 番目と後発だったが、増築部分の設置(共同研究強化予算の認可)については、全国で5番目であっ た。一連の成果が、高く評価された結果である。
2.岩手モデルの政策過程
岩手の今日の産官学連携の優位を遡ってみると、その起源は 1987 年頃からのインフォーマルな産官 学の人的交流のネットワークに辿り着く28。セクター超越型リエゾン志向の起点を、岩手ネットワー クシステム(INS)という産官学民ネットワークの萌芽のうちに見い出し、それ以降の過程を辿ってゆ くことにする。
2−1.第1期:産官学民それぞれの思惑の交錯と融合(1987〜1999)
[1]萌芽〜孵化期:(1987〜1991)
岩手県のポジションは、日本のなかでも決して経済的に優位でもなく、大学工学部の地位もヒエラ ルキー優位ではない(関係者は「务位である」と自認している)。このような岩手の産官学連携は、ど のようにして「ベストプラクティス」としての地位を確立してきたのだろうか。その政策過程を振り 返ってみたい。
日本の地方における今日の産官学連携の潮流が、地域主導で始まったことは、先述したとおりであ る。1987 年には、富山大学をはじめとする3大学が地域共同研究センターを設置した。この時、日本 の地方大学の意識、足並みは様々だった。同じ 1987 年、岩手大学では工学部の若手教官たちのあいだ で、こうした潮流のなかで、大学や大学人の意識の遅れに危機感が高まっていた。立ち上がったのは、
清水健司(現・工学部教授)ら、30 代前半の工学部の若手教官たちだった。ここに同じく 30 代前半 の県庁職員、中小企業の技術者などが加わり、ごく小規模でインフォーマルな産官学ネットワークが 形成された。
この当時、岩手大学工学部と地域のあいだには、連携意識はほとんど皆無だった。「地域の企業の間 で、工学部が何かの役に立つなどとは想像もされていなかった」と、関係者は口を揃えていう。県政 の側では、同年、北上川流域がテクノポリス指定を受け、86 年には県高度技術振興協会(テクノ財団)
が設置された。時代の流れは、「工場誘致」から「高度技術集積志向」へと着实に変容しつつあり、地 域の内発的発展の重要性を問う声が徐々に高まっていた。
最初の1〜2年間は、産官学それぞれ 10 名ずつくらいのメンバーが集まって、年2回ほど外部講師 を呼んでの勉強会・セミナーなどが開催されるようになる。若手グループが、こうした異業種交流会 的な活動を行う一方で、大学工学部では地域共同研究センターの設置を求める声が上がりつつあった。
森邦夫(現・工学部長)、岩渕明(現・工学部教授、INS 事務局長)らの工学部教官がリーダーシップ をとって、学内調整、学外への働きかけ、構想のとりまとめが推進されていく。
1989〜90 年頃には、こうした動向を受けて、フォーマルな官学の政策連携が大きく動き始める。90 年、県では「岩手県科学技術振興推進指針」が策定される。県庁職員らと知事の議論によって、ほぼ 手作り的に内製されたこの指針には、連携、コーディネーターの必要性など、その後の岩手モデルが
28 もちろんそれ以前からの経緯、例えば、中村儀郎'現・名誉教授、INS会長(、森邦夫'現・工学部長(らによって「岩手のオン リーワン技術」にまで育てられた、有機高分子トリアジンチオールのいち早い産学共同研究の先導的成功例の布石などとも多大 な連関性があると思われる。
辿ってきた政策のポイントがすでに挙げられている。
同年、岩手大学からの要請を受けて、県は企業の産学連携参加を動機づけるための「岩手県産学官 共同研究促進補助事業」を創設する。90 年からこの制度の補助金を受けて、毎年5社程度の企業が産 学連携に参加し始める。
[2]成長期(1992〜1998)
発足から5年間の萌芽・孵化期を経て、1992 年、産官学若手世代の交流会は、「岩手ネットワーク システム(INS)」という名の下に、任意団体として新たなスタートを切ることになる。様々な議論を 経て、INS と岩手大学地域共同研究センターの展開との相互連携を深め、INS の人的ネットワークを地 域産官学連携の拡大に戦略的に活用していこうという合意が固まる。会長には、地域の大型プロジェ クトのリーダーなども務めている、中村儀郎・名誉教授が就任した。INS のメンバーは 150 人を超え、
環境問題で社会的時宜のあった CO2研究会を皮切りに、様々な技術的・社会的テーマを掲げた研究分 科会が組織され始める。同時に、地域共同研究センターの設置へ向けて、「共同研究件数の確保」が学 内教官にプロモーションされ、INS のネットワークを通じて多くの地域企業に参加が呼びかけられ、
共同研究のテーマが模索された。当初の目標は、「まず 20 件は確保しよう」というささやかなものだ ったが、91 年にすでにその目標はクリアされていた。先述した県の補助金制度創設や、工学部教官が 自主的に地域企業からの技術相談のリエゾン機能を形成するなどの努力による成果である。
一方、92 年には、県テクノ財団に、産官学リエゾンを意図した「研究開発センター」が設置される。
岩手大学名誉教授(元・工学部長)の丹野和夫氏が、初代センター長を務め、また県庁から出向した 人材らの活躍もあって、テクノ財団(現・いわて産業振興センター)と岩手大学工学部の連携が強化 され、前述したような国の大型プロジェクトの立て続けの獲得が展開されていくことになる。この時 期のテクノ財団に、官主導の地域リエゾンのタスク・フォース的な組織の萌芽がみられる。
1993 年には、岩手大学に地域共同研究センターが正式に設置される。センターは 98 年までの5年 間を第1フェーズとして、ともかく共同研究の拡大にまい進することを初期目標に掲げる。共同研究 件数は中央からの主要評価指標の1つであり、まず数字を挙げることが必要だったのである。件数は 毎年項調に伸びてゆき、その8割程度は INS 会員の参加によるものだった。「他大学が、奨学研究テー マ5本のうち1本を共同研究にというマインドなら、うちは5本のうち4本を共同研究にという意気 込みだった」(岩渕教授)。
同年、県は神奈川県に次いで全国2番目となる「科学技術振興审(現・科学技術課)」を設置し、地 域科学技術振興の主体的な政策展開に力を入れ始める。「地域振興において、点の展開から面の展開へ の転換が求められていた」(相澤徹・科学技術課課長)この頃から、県土に分散する多極構造のネット ワーク化が一挙に推進され始める。すでに 92 年に設立されていた釜石・大槌地域産業育成センターを 皮切りに、94 年には国のオフィスアルカディア構想の採択を受けて、北上市や県、民間企業等の出資 で(株)北上オフィスプラザが、95 年には一関高専の共同研究センターとして、県单技術研究センター が設置される。96 年には、花巻市が花巻市起業化支援センターを立ち上げ、民間出身のマネジャー佐 藤利雄氏の活躍もあり、「地域インキュベーションセンターのベストプラクティス」として、広く全国 にその名が知られるようになっていく。かくして、盛岡、花巻、北上、釜石・大槌、両磐という、多 極間を結ぶ連携ネットワークが組織化されていった。
このフォーマルな連携の裏側には、INS のメンバーの活躍も見逃せない。95 年頃から、INS はこう