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ラヴェル(1907)

名曲の深層を探る 学生たちの作品もしばしば歌った。こ うして作曲家や作家、画家たちが集う なごやかな雰囲気のなかで、さまざま な作品が演奏されたり、詩の朗読が 行われたりした。モダンダンスの創始 者、アメリカの若い舞踏家イザドラ・

ダンカンが踊ったこともあった。その とき、ピアノで即興の伴奏していたの は、若き日のラヴェルだった。

 気の張るほかのサロンと違って、ド・

サン・マルソー夫人のサロンでは、み な伸び伸びしていた。ラヴェルの先生 であるフォーレは、メサジェと一緒に ピアノの前に座り、即興で連弾演奏す ることが大好きだった。コレットによ れば、フォーレとメサジェは連弾しな がら、どちらが奇想天外に即興演奏 のは兄貴分のサン・サーンスであった。

フォーレは 1896 年にパリ音楽院の作 曲の教授に就任すると、こんどは自分 がラヴェルやフロラン・シュミット、ジ ャン・ロジェ・デュカスなどの弟子たち をサロンに連れて行き、積極的に紹 介した。そのサロンのひとつがルネ・

ド・サン・マルソー夫人が開いている サロンだった。音楽が大事にされるこ のサロンには、フォーレ、ドビュッシー、

ヴァンサン・ダンディ、アンドレ・メサ ジェなどがよく訪れた。

 毎週金曜日に開かれていたド・サン・

マルソー夫人のサロンでは、すばらし い夕食がふるまわれたあと、内輪のコ ンサートが始まった。夫人は自身すぐ れた音楽家で、フォーレが連れていく

コレット

Philharmony December 2012 家の名前が挙げられるたびに、礼儀 正しく耳を傾けていたが、ラヴェルの 名前が出た途端、なりふり構わず大 声を出してしまった。ルーシェは「ラヴ ェルが引き受けたとしても、長いこと かかることを承知しておく必要があり ます」と彼女に釘を刺した。ラヴェル はこの仕事を引き受けたが、それから が大変だった。

 まず、台本そのものがラヴェルの手 元に届くまでに時間がかかった。1916 年に最初に送られた台本はついにラヴ ェルのもとに届かなかった。第一次世 界大戦中、志願して軍隊に入ったラヴ ェルは輸送兵として激戦地ヴェルダン の近くに配属されていたが、台本は郵 送される途中、紛失したのである。

 1918 年になってようやくラヴェルは 台本を手にするが、すぐに仕事にかか れる状態ではなかった。彼は大戦中 に最愛の母を亡くし、戦争のプレッシ ャーともあいまって、まともな作曲活 動ができなくなっていた。

 コレットはラヴェルから連絡がない ので心配して、1919 年のはじめに問 い合わせの手紙を送る。それに対し て、ラヴェルは 1919 年 2 月、メジェ ーヴから返事を書き、音信不通であ ったことをあやまり、健康状態が思わ しくないと弁解している。

「実際、すでに着手しています。紙に 書いてはいませんが、メモもとってい ます。修正さえ考えています……。心 配御無用。カットではありません。反 対です。例えば、リスの語りはもっと できるか競い合っていたという。「どう

だ! こうくると思っていたかい? 

やってみろ、仕返ししてやる!」などと 言いながら、二人はピアノの鍵盤を叩 き続けた。

 このような温かい雰囲気のなかで、

ラヴェル青年はといえば、クールで皮 肉めいた雰囲気を漂わせていた。ド・

サン・マルソー夫人はラヴェルの歌曲

《クレマン・マロの墓碑銘》を自分のサ ロンで歌ったことがあったが、そのと きのラヴェルの反応について、夫人は 日記にこう記している。「彼(ラヴェル)

は自分の作品を聞いて喜んだのかしら。

わからない。なんて奇妙な人でしょう。

才能に恵まれ、いたずらっぽさがある」。

 1900 年頃、新進作家コレットは、

15 歳年上の夫、アンリ・ゴーティエ・

ヴィラールに連れられてド・サン・マル ソー夫人のサロンに行き、初めてラヴ ェルに会った。夫は一世を風ふうした 小説家・音楽批評家だった。そのとき、

コレットの目に映ったラヴェルの第一 印象は、「よそよそしく超然としてい た」というが、それも不思議ではない。

 その後、1906 年にコレットは夫と 離婚する。彼女は食べて行くために ダンサーになり、ムーラン・ルージュで 踊ったりもした。やがてコレットは「我 が娘のための喜遊曲」のあらすじを 書き上げ、オペラ座の支配人ジャック・

ルーシェに見せる。コレットによれば、

これはルーシェからの依頼だったとい うが、ともかく、ルーシェはこのあら すじを気に入り、作曲家の人選が始ま った。コレットは、ルーシェから作曲

名曲の深層を探る 展開できないでしょうか。森について リスがしゃべりそうなこと、そして、そ れがどのように音楽に役立つかご想像 ください!

 もう1 点。古くて黒いウェッジウッ ドの茶碗とティーポットがラグタイムを 歌うのはどうでしょうか。白状すれば、

二人の黒人女に国立音楽アカデミー

(オペラ座)でラグタイムを歌わせると いうアイディアに私はうっとりするので す。……おそらく、アメリカの黒人ス ラングは使っていないとおっしゃるでし ょう。私も英語はまったく知りません が、あなたと同じようにします。何と かやります。この 2 点についてお考え をお聞かせ願えれば幸いです。」

 コレットは大喜びで返事を書き、ラ ヴェルの提案をすべて受入れ、次の ように書き送った。

「拝啓、

もちろんラグタイムですとも! もちろ んウェッジウッドの黒人ですとも! ミュ ージックホールのすさまじい突風がオ ペラ座のほこりを巻き上げることでし ょう! それいけ! ……西部劇の上 映中に、映画館のオーケストラがあな たの魅力的な《マ・メール・ロア》を演 奏していることをご存知ですか。もし、

私が作曲家でラヴェルだとしたら、そ れを知って喜ぶと思います。

それから、リスはあなたが望まれる ことを何でも申します。ひたすらニャ ーニャー鳴く『ネコ』の二重唱はお気 に召しましたか。私たちはアクロバット

も使えるでしょう。『算数』のあれは ポルカではないのですか。ご健康を 祈り、うずうずしながら、あなたと握 手いたします。

コレット・ド・ジュヴェネル」

 ラヴェルが歌詞に関して、かなり 注文をつけたことが分かる。こうして、

1920 年 2 月、ラヴェルはようやく《こ どもと魔法》の作曲に本格的に着手 したのである。

(いのうえ・さつき 愛知県立芸術大学教授、音楽学)

1939年オペラ座での上演のときの猫のコスチューム

Philharmony December 2012

るもので、第二次世界大戦中のニュ ーヨークを舞台に、4 人の孤独な人 間の姿を描く。交響曲という題が付 けられているものの自由な構成を持 ち、ステュアート・グッドイヤーに よるピアノ・ソロを伴って、様々な スタイルの音楽を混在させながら感 動的なクライマックスを築き上げる。

 クライマックスの力強さという点 では、ショスタコーヴィチの《交響 曲第 5 番》もひけをとらない。輝 かしいフィナーレを、そのまま額面 通りに肯定の音楽と受け取るべきか、

背後にアイロニーや欺まんを読み取る べきかという解釈をめぐる議論は尽 きないが、その峻しゆんれつ烈な響きは聴く人 の心を激しく揺さぶる。

 指揮のジョン・アクセルロッドは、

バーンスタインとロシアの名教師イ リヤ・ムーシンに学んだ実力者。ず しりとした聴きごたえを残す公演に なることだろう。

ロマンティックな作品に酔いしれる

Bプロ

 デーヴィッド・ジンマンが指揮す るBプロでは、ソリストに才色兼備 のピアニスト、エレーヌ・グリモー を迎える。

 前半はブゾーニの《悲しき子守歌

〜母の棺ひつぎに寄せる男の子守歌》とシ ェーンベルクの《浄きよめられた夜》と いう、ともに豊潤で濃厚なロマンテ ィシズムを湛たたえた作品が並べられる。

 1 月の定期公演には 2 人のアメリ カ人指揮者が招かれる。Aプロには 今年のN響「夏」で好演を聴かせ てくれたジョン・アクセルロッドが、

BプロとCプロには今や大家の風格 を漂わせるデーヴィッド・ジンマン が登場する。ともに意欲的なプログ ラムが組まれた。

アクセルロッドによる東西の 大作競演─Aプロ

 ジョン・アクセルロッド指揮のA プロでは、レナード・バーンスタイ ンの《交響曲第 2 番「不安の時代」》

とショスタコーヴィチの《交響曲第 5 番ニ短調》が並べられる。前者は 1949 年、後者は 1937 年の初演。第 二次世界大戦をはさんで、20 世紀中 葉を米ソの双方から照射したプログ ラムとでも言えるだろうか。

 作曲家としてのバーンスタインに は近年改めて再評価が進んでいるよ うに感じられる。N響では《交響曲 第 1 番「エレミア」》が今年 5 月に 広上淳一指揮により演奏されたばか り。生前はもっぱら大指揮者として 音楽ジャーナリズムを賑わせたバー ンスタインだが、没後 20 年以上が 経過した今、彼の作品の演奏頻度は ますます高まっているように思える。

20 世紀アメリカの代表的作曲家とし ての地位は揺るぎない。

 《不安の時代》の題はイギリス作 家 W. H. オーデンの長編詩に由来す

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