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  トリーアでもとりわけ歳古りているのはモーゼル橋 ブリュッケである。なんとも法外、世の常ならぬ大きさの石造建築で、いずれにせよローマ時代の造営になる。既にかの皇帝ネロがケルンに至る全ての地方を征服するためこの橋を  115

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渡って出征した由。橋の迫 持が連結している場所ごとに列柱があり、これらは橋の胸壁のずっと上まで聳 え立っている。以前はその先端には異教の神神の立像が飾られていた、とのことである。かつて聖者アルヌルフが良心の呵 責を感じ、たまたまモーゼル橋 ブリュッケを渡っていたので、川の深みを見下ろし、高価な指 環を指から外し、「我が罪が許されるものと考えてよろしければ、この指環をまた取り戻せますように」と叫びながら、それを神の全能と慈悲に委 ねきってモーゼルの流れに投げ込んだ。数年ならずして聖者アルヌルフはメッツの司教になった。ある日のこと一人の漁師が司教館の厨 房に大魚を一匹持って来た。料理番がそれを主人の食 膳のために調理していると、なんともびっくりしたことに、魚の内臓の中に見事な指環を発見したので、それを司教の許 に差し出した。司教はそれが自分の物だと分かった。どうやら例の魚がこれを食べ物だと思い、落ちて来た時呑み込んで、そのまま体内に留 めておいたのである。

聖者アルヌルフはこうした恩寵の徴 しるしを目の当たりにして謙虚に神を誉め讃え、邪念をことごとく棄て去り、恩寵に相 応しくふるまった。

九〇  天罰覿   一六七三年フランス軍がトリーアを攻囲した折、彼らはこの都市周辺の修道院を悉 ことごとく破壊し尽くした。人人は軍司令官に対し、このような不 埒を働かないよう哀訴嘆願の限りを尽くし、神の家〔=教会〕や神聖な僧院に瀆 神の所業をなす者の末路はろくなことはあるまい、と仄 めかした。しかし軍司令官いわく「これはわしには関 わりのないこと。かくあれかし、と思 し召して、命令なさった国王陛下の問題だて。今夕までこの修道院が灰の山にならんければ、悪魔がわしをひっ攫 うがいい」。司令官は丁度ある橋の上に留 まっていたのだが、こう言った途端、乗

馬が突然跳ね、橋の胸壁を跳び越えるなり、乗り手もろともモーゼル川に転落した。川中で、乗り手は下に、馬は上に、と折り重なり、人馬ともども頸 をへし折った。

  この司令官の後任もやはりここへ馬で来た。哨 兵が警告して声を掛けた。「ここは馬に乗ったまんまだと安全とは申せません。敵はこの地点に照準を合わせとります」。

「あはあ」と司令官は笑った。「敵さん、おれの尻 を撃ちおるがよかろう」。

この瞬間稜 堡の上から銃声が轟 とどろき、司令官は一声高く絶叫すると、馬もろともにくずおれた。弾丸はまさに彼が口走った通りの箇所に命中、そこに留まらずに飛び出して、馬の頸を貫通したのである。

訳注(1)ダルムシュタット Darmstadt. ヘッセン州南部の都市。ライン河右岸を河と平行して走る重要な交易路だった ベルクュトラーセ街道点だった。それがこの都市の繁栄の要因でもあったが、三十年戦争の間は軍隊の通り道となり、荒廃に繋がった。

ル。(2) Malter. ツ、位。り、 一八四一年までヘッセン大公領で通用。(3) Hessen-Albus. ン・」〔=「」〕西貨。ン・

(4) das böse Hundert. な百「厭わしい百」 しゃく

(5) Kränzchen. 茶会婦人たちが定期的に開く小さな集い。 クレンツヒェン

の間に封建的主従関係があったわけではないが。 た。合、(6) Burglehen. 城扶持「ブルクレーエン」は通常「城の封土」の意。封建制度の下、王侯が配下の貴族に与えた領地=扶持であり、貴

(7) Mainz. マインツ紀元一世紀後半ローマ人が軍事拠点として築いた「モゴンティアークム」を起源とするこの都市は、十世紀に興

隆、し、 Aurea Moguntia=「金のマインツ」Goldenes Mainz)と呼ばれた。

への布教大司教兼教皇遣外使節であり、最後にはマインツ大司教、ユトレヒト司教管区管理者となった。 れ、る。人。 Apostel der Deutschen改革以降カトリック教会から「ドイツ人の使徒」と呼ばれる。六七二/六七三年、遅くとも六七五年に南西(8) Winfried Bonifacius. Wynfreth Wynfrith, Wynfrid, Wynfried Bonifatiusヴィンフリート・ボニファツィウス綴りは他に。宗教

(9) der bedeutendste in Deutschaland. ドイツで最も重要なものドイツの大司教座の中で首位。

いし)となっている。明らかに誤りである。現行の版に従う。そうでないと対比の妙が失われる。(10) und bedienten sich hölzerner Kelche,. ,, und bedienten sich goldner Kelche, 木のを用いし本稿底本では,,

(11) Hatto. ハットーハットー二世(九七〇没)。九五六─六八年フルダの大修道院長。その後亡くなるまでマインツ大司教。

(12)Er war es, ...denselben enthaupten ließ. 彼は……伯を斬首させた。DS四六八はこの顛末を詳しく語っている。

三三二〇余メートル。ほとんど常に噴火している。(13) des Aetna. Etna山。

(14) Mäuseturm. モイゼトウルム

に転訛したもの。 MautVolksetymologie)。え「が、で「 トウルム で、収(   「Wasserburg が、 後半から第一次世界大戦終了時までプロイセン王国領。(15) Posen. Poznań名「」「西つ。 し、と野蜜を食べ物としていたから、ワインとも全く無縁だったはず。(16)いなご St. Johannes. ヨハネス「洗礼者ヨハネス」であろう。イエスにヨルダン川で ザンクトパプテスマ

従」くらいが適当か。DSB五四注参照。(17) Mundschenk. お毒味役の合、る。合「 しゃくにん

(18) der Vater der Lügen. 嘘の父魔の王」のこと。

(19) An welchem Ort hast du gegessen? は、

側と貴賓が食事し、壇の近くではそれに次ぐ人人が、壇から遠ざかるに従って順次下位の者たちが食事に与る。

けられて、見せしめのため一定期間衆目に曝された。(20) Schandpfahl. 木または石でできた中世の刑罰用の柱で、町の中心の広場に設けられ、比較的罪の軽い罪人はここに括り付 ばしら

られ、信仰告白を行う儀式。カトリック教では秘蹟の一つ。 Konfirmationは、が、(21) die Zahl junger Katechumenen. 堅信礼を受けようとする子どもたち直訳「教要理」。」「

(22) Todte wandelten. Lahme wandelten死者は歩いたは歩いた」の方が自然とは思うが、原文のまま。

参照)などなど、諸聖人の遺骸の全てあるいは一部など。 ば、片、部、衣(る。(23) Reliquien. い、た。

の封建支配下にない、という意味で「自由」である。(24) die freie deutsche Stadt. 自由ドイツ都市中世に大幅な自治権を得て神聖ローマ帝国直属となった都市。周辺の王侯・高位聖職者 ランク族は現在が架かっている場所のいくらか上流にある徒歩で渡れる浅瀬を交通路として用いたようだ。 アルテ・ブリュッケ 展。退が、た。 西市()。済、融、る。で、(25) Frankfurt. Frankfurt am Mainフランクフルトフランクフルト・アム・マイン。ライン河の大きな支流マイン川の下流に位する

(26) Furt. り場徒歩で渡れる浅瀬。

Ludwig der FrommeLouis le Pieuxトヴィヒ敬虔王・帝(=ルイ敬虔王・帝)と呼ばれる。 相続した。カロリング朝フランク王国第三代国王ルートヴィヒ一世(在位八一四─四〇)西ローマ皇帝(在位八一四─四〇)。ルー(27) König Ludwig. 子。 シャルル二世。西フランク王国の後身がほぼ現在のフランス。(28) Karl der Kahle. Charles le Chauveカール禿西禿)。

ドイツ人王なる添え名がある。東フランク王国の後身がほぼ現在のドイツ。(29) Ludwig der Deutsche. 世()。

(30) Hemma. Emma ヘマ「エマ」とも。シュッセンガウ伯ヴェルフの息女。

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