所得税法 59 条・所得税法 60 条は,これらの条文の背景を説明しなければ,その理解が 困難である。そこで,第一では理論的背景について説明を行うこととする。
1 所得税の世界においては,サイモンの所得の定義(1)からすれば,資産の値上がり(資産 の市場価値の増加額)は所得であるから,課税されるべきことになる。別の言い方をすれ ば,所得についての厳格な課税理論に従えば,納税者の資産の市場価値の増加額は,毎年 これを査定し課税すべきものとなる。
2 しかしながら,これは実務上困難であることから,「譲渡所得に対する課税は,資産の 値上がりによりその資産の所有者に帰属する増加益を所得として,その資産が所有者の支 配を離れて他に移転するのを機会に,これを清算して課税する」(最高裁昭和 47 年 12 月 26 日第三小法廷判決・民集 26 巻 10 号 2083 頁等(2))こととされた。
3 「その資産が所有者の支配を離れて他に移転するのを機会に,これを清算して課税す る」というが,その資産が所有者の支配を離れる対価として金銭等を得る有償譲渡の場合 に課税するのは問題ないとして,その資産が所有者の支配を離れても,その所有者は対価
(1) 「租税法入門」増井良啓 2014 年 有斐閣 P47 ~ P51 等参照
(2) この判決は,昭和 47 年の判決であるので,以下に述べる改正の経緯とは時系列的には整合しない。すなわち,
この判決は現行所得税法 59 条・所得税法 60 条の譲渡所得についての考えを示したものであり,次に述べるそ れ以前の譲渡所得についての考えを示したものではない。しかしながら,それ以前の譲渡所得についてもあ てはまる考え方であり,また,判決として譲渡所得課税の趣旨を簡潔に述べたものであることから,敢えてこ こに引用した次第である。
〔研究ノート〕
として何も得ない(相続・贈与等の)無償譲渡の場合に課税するのは,問題ではないかと いう指摘がある。別の言い方をすれば,「(そもそも)所得税は,所得の担税力に着目した税 金であるから,資産の値上がり益も,現実に譲渡が行われ価値が実現し,担税力(金銭,物,
又は権利その他経済的な利益)が生じたときに課税すべきである」という指摘である。
4 しかし,無償で所有者の支配を離れる場合に課税しないこととするのは,「譲渡所得に 対する課税を無制限に延期すれば,納税者は本来ならば課せられるべき負担の相当部分を 免れることができるから,無制限延期はこれを防止する必要がある」(昭和 25 年ショウプ 使節団,日本税制報告者第 1 編第 5 章 B 節)として,「これを防止するもっとも重要な方法 の一つは,資産が相続又は贈与によって処分された場合に,その増加を計算してこれを贈 与者又は被相続人の所得に算入せねばならないものとすることである」(昭和 25 年ショウ プ勧告使節団,日本税制報告者第 1 編第 5 章 B 節)として,無償で所有者の支配を離れる場 合であっても課税することとし,相続又は贈与等による無償譲渡の場合のいわゆる時価課 税(3)が昭和 27 年に法制化された。(以下「昭和 27 年度税制」という)
5 ところが,この税制は理論としては格別新しいことではないが,このような譲渡所得概 念の拡張は一般に理解しにくい面があり,納税者にも税務職員にもなじみにくく,その執 行に対して心理的抵抗を生んだ。即ち,重い相続税又は贈与税の負担の上にさらに負担を 過重する結果となり,しかも現実に金銭化されないのに(現金が入ってくるわけでもない のに)所得として課税することは,納税者のみならず課税官庁にも理解しにくい(4)という ことから,相次ぐ税制改正によりその内容の緩和が図られ,昭和 27 年度税制は,現在では その痕跡をとどめるだけのものとなっている。
6 ここで,相続又は贈与による譲渡について,昭和 27 年度税制(相続又は贈与による譲渡 の時価課税)と現行の所得税法 59 条・所得税法 60 条について,設例により説明すること とする。(相続であれ贈与であれ,課税の仕組は同じであるが,より分かり易い相続を例に とって説明することとする。)
〖設例〗 被相続人が 20 ××年死亡して相続が開始された。被相続人の所有財産に土地が あり,この土地は相続人に相続された。相続人がその後売却した。この土地の被相続人の 取得価額は 700(相続税評価額も 700 とする。(5)以下,同じである。)であり,相続開始時の 時価は 1000 であり,売却時の譲渡価額は 1500 である。また,譲渡費用については無視する こととする。(参考図 参照)
(3) 「時価課税」は,法令用語ではなく,実務上使われている用語である。無償又は低額で譲渡されたような場合,
税務上,これを恰も譲渡時の時価で譲渡したかのように擬制して課税を行うという意味である。また「時価課 税」は,譲渡所得だけでなく他の課税についても規定されている。
(4) 当時の日本人には,はなはだ理解しにくい考え方で,相続で財産を継承したり,ただで財産を贈与した時に何 故所得が生じるのをいぶかった。(「所得税法の考え方・読み方」大島隆夫・西野襄一共著 昭和 61 年 8 月 20 日 税務経理協会 27 ページ)
(5) 現行相続税評価額は,いわゆる時価の 80%程度とされているが,ここでは時価と同額とした。同額であって も時価の 80%程度であっても,以下の議論には,影響がない。
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昭和 27 年度税制(相続又は贈与による譲渡の時価課税)
(1) 相続開始時
①被相続人に対して,譲渡所得 300 = 1000 − 700 について所得税を課する
②相続人に対して,相続により取得した土地 1000 について相続税を課する
(2) 売却時
相続人に対して,譲渡所得 500 = 1500 − 1000(6)について所得税を課する
(6) この控除される取得価額は,1000 から相続開始時に課された譲渡所得 300 に対して課された所得税の金額を 控除した価額ではないことに留意されたい。
現行所得税法 59 条・60 条の税制(相続又は贈与による譲渡の課税繰延(7))
(1) 相続開始時
相続人に対して,相続により取得した土地 1000 について相続税を課する (譲渡所得 300 = 1000 − 700 については課税を繰り延べる)
(2) 売却時
相続人に対して譲渡所得 800 = 1500 − 700 について所得税を課する
要するに,時価課税を行う(昭和 27 年度税制)か課税繰延を行う(現行税制)かは,せん じ詰めれば被相続人の享受したキャピタル・ゲインに課される所得税を誰が負担するのか という問題である。前者であれば,被相続人が負担し,後者であれば相続人が負担するこ とになる。
結論として,昭和 27 年度税制,現行税制のいずれも,相続税(贈与税)とキャピタル・ゲ イン(譲渡所得)についての課税が,過不足なく行われていることはいうまでもない。
7 昭和 27 年度税制については 3 及び 5 に述べたような批判等があったが,現行所得税法 59 条・60 条についても,批判等がないわけではない。大きく分けて次の 2 点であろう。
(1)相続開始時に相続人に対して相続税が課される土地 1000 は,700(被相続人の取得価 額)と 300(被相続人の保有期間中の価値増加額)とからなる。また,土地売却時に相続人 に対して所得税が課される譲渡所得 800 は,300(被相続人の保有期間中の価値増加額)と 500(相続人の保有期間中の価値増加額)とからなる。このうち,相続人にとって 300(被相 続人の保有期間中の価値増加額)の課税が所得税法 9 条 1 項 16 号に抵触し,相続税と所得 税の二重課税の状態になっているという批判である。
これに対して,税目が異なる(相続税と所得税)ので二重課税とは言えない,即ち相続税 は無償で取得された資産についての課税(受贈益課税)であり,所得税は値上り益実現に ついての課税(値上り益課税)であるから,次元を異にするものであって二重課税ではな いという反論が行われることが多いが,(筆者のように)相続税(贈与税)は所得課税であ るとする立場からすれば,そして最近の年金課税に関する判決(8)の趣旨に照らしてみても 正しい反論とは言えない。
正しくは,300(被相続人の保有期間中の価値増加額)について,相続人に対して所得課 税が二重に(相続税と所得税(譲渡所得))行なわれていることは認めるが,そのうち譲渡 所得 300 については,理論的には本来は被相続人に対して課税すべきところを,相続人に 対して代替課税したものである。このような意味で,これは所得税法(60 条)により認めら れた特別の二重課税ということができる。
(2)もう一つは,「被相続人に課税すべきところを,相続人に代替課税したもの」として いるが,これは被相続人・相続人間のいわば私人間の租税負担の配分の問題であり,これ に税制当局で介入して,相続人の負担にしてしまっていいのかという指摘である。相続人
(7) 「課税繰延」は,「時価課税」と同様,法令用語ではなく実務上使われている用語である。課税を繰延べる即ち 延期するという意味である。本来課税すべき時期に課税しないで課税を後日に繰り延べるというのであるか ら,本来課税すべき時期や繰延べられる理由についての理解が重要である。
(8) 最高裁判所平成 22 年 7 月 6 日判決民集 64 巻 5 号 1277 頁