54 J. d’Ortigue, La musique à l’église (Paris: Didier et Cie, 1861), pp. 409-420 et pp. 469-473.
55 『新メトリーズMaîtrise, organe des intérêts de l’École de musique classique, fondée par Niedermeyer en 1853』(1900年の12月から1906年の6月まで発刊されていたようである)
は、フランス国立図書館の音楽部門département de Musique de la Bibliothèque nationale de
Franceに所蔵されているが、現在は閲覧不可となっている。
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もっともらしい逸話によれば、フランス南西部のアリエージュ Ariège 県のパミエ
Pamiersを訪れていたニデルメイエールが、当時8歳であったフォーレが教会で即興する
のを聴いて、彼に古典宗教音楽学校で勉強することを勧めたのだという。56この小話の真 偽は定かではないが、フォーレが開校したばかりの古典宗教音楽学校に入学したのは1854 年のことであった。フォーレは、9歳から20歳までの10年間以上(1854年の10月から 1865年の7月まで)を古典宗教音楽学校で過ごし、57生涯の友人となるウジェーヌ・ジー グ、カミーユ・サン=サーンスと後にアンドレ・メサジェと出会うこととなった。フォー レは、メサジェと共同で《ヴィレルヴィルの漁師のミサMesse des pêcheurs de Villerville》
(1882)と《バイロイトの思い出Souvenirs de Bayreuth》(1888)を作曲している。
フォーレは、オルガンをクレモン・ロレに、和声をルイ・ディーチュに、対位法とフー ガをグザヴィエ・ヴァッケンテーラーXavier Wackenthalerに師事し、ピアノ、単旋聖歌 と作曲をニデルメイエールから学んだ。58ニデルメイエールの死後は、サン=サーンスの ピアノのクラスに加わった。フォーレは、サン=サーンスからと同じように、和声の授業 を受けもっていたルフェーヴルからも影響を受けたようである。その上、教会音楽だけで はなく、同時代の作品やオペラを勉強する機会もあったようであった。サン=サーンスが ピアノのクラスで同時代の作品を教えたことは、知られている。しかし、古典宗教音楽学 校の生徒たちは、オペラの総譜もみていたようなのである。フォーレは、古典宗教音楽学 校での日々を以下のように回想している。
音楽?音楽は、我々に染みわたっていた。我々は、(音楽の)湯船につかるように そこで[古典宗教音楽学校で]生活していたのだ。音楽は全身の毛穴を通して入り込 んできた。休み時間、外が寒かったり雨が降ったりすると中庭ではしゃぎ回るのを やめて、学習室では多くの生徒がピアノのまわりに集まって、グルックやモーツァ ルト、メイユール、ウェーバーのオペラを読みふける姿が見られたものだった。し かし、劇音楽は、正確に言えば我々の勉強の目的ではなかったので、この「気晴ら し」は休み時間にしか認められていなかった。59
56 M.-L. Boëllmann-Gigout, op. cit., p. 857.
57 J.-M. Nectoux, “Fauré, Gabriel (Urbain),” in Grove Music Online.
58 Ibid.
59 G. Fauré, op. cit., p. 6.
« La musique? nous en étions imprégnés, nous y [à l’École] vivions comme dans un bain, elle nous pénétrait par tous les pores. Lorsqu’aux heures de récréation le froid ou la pluie
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古典宗教音楽学校で過ごした日々に、フォーレはメロディーを7曲、宗教声楽曲を2曲 とピアノのための作品を5曲―例えば、《蝶と花La papillon et la fleur》、《5月Mai》、 《愛 の夢Rêve d’amour》、《いまここにPuisqu’ici-bas》、《ジャン・ラシーヌの雅歌Cantique de Jean Racine》、《3つの歌詞のないロマンス Trois romances sans paroles》(後にピアノ4 手連弾用に編曲される)、《庭での歌La chanson dans le jardin》(後に《ドリーDolly》の
〈揺りかごBerceuse〉となる)―を作曲している。そのうちの7曲は、未出版あるいは散 逸してしまっている。また、フォーレは1865年に《ジャン・ラシーヌの雅歌op. 11》で 作曲の1等賞を、その他フーガ、対位法、ソルフェージュ、和声、ピアノと文学でも賞を 取っている。
古典宗教音楽学校がスイスのローザンヌLausanneに疎開していた1870年、フォーレ は、ルフェーヴルの求めに応じて一時的に学校に戻って作曲を教えた。その後、パリ音楽 院の院長になったフォーレは、ジーグをオルガンの教授としてパリ音楽院に迎えた。彼は、
古典宗教音楽学校で、オルガンと単旋聖歌の伴奏法を長年教えていた。
まとめ
本章では、フォーレが古典宗教音楽学校で受けた音楽教育の内容を明らかにするために、
主に初期の古典音楽学校について記述した。卒業生たちの証言によると、学校の教育カリ キュラムは、フォーレが卒業した後もほとんど変わらなかったようである。60実際のとこ ろ、ジーグは、ニデルメイエールの考えを継承するかたちで、単旋聖歌伴奏法を教えてい たし、ルフェーヴルは退職するまで和声の授業を受けもっていた。古典宗教音楽学校は、
教会の聖歌隊指揮者を育成する一方で、後に知られることとなる多くの作曲家を輩出した。
古典宗教音楽学校の卒業生には、例えばエドモン・オドランEdmond Audran(1842-1901)、 レオン・ボエルマンLéon Boëllmann(1862-1897)、アンリ・エクスペールHenry Expert
(1863-1952)、後に古典宗教音楽学校の第 4 代校長となるアルベール・ペリルーAlbert nous privait de nous ébattre dans la cour, on aurait pu voir, dans les salles d’étude, nombre d’entre nous groupés autour d’un piano et fort absorbés par la lecture d’un opéra de Gluck, ou de Mozart, ou de Méhul, ou de Weber. Mais comme la musique dramatique n’était pas précisément le but de nos études, cette « distraction » ne nous était permise que dans ces moments-là. »
60 G. Lefèvre, op. cit., pp. 3620-3621.
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Périlhou(1846-1936)、クロード・テラスClaude Terrasse(1867-1923)、フォーレ、ジ
ーグ、メサジェなどがいる。61また、モーリス・ル・ブシェMaurice Le Boucher(1882-1964)
とアンリ・ビュセHenri Busser(1872-1973)のように、ローマ賞を受賞するものもいた
(それぞれ、1906年と1893年)。
古典宗教音楽学校は、より広い土地を求めて何度も移転した。1869年には、エリゼ・デ・
ボザールのパッサージュpassage de l’Élysée-des-Beaux-Artsへ、1895年にはブローニュ
Boulogneへ、そして1922年にはパリ郊外のイシー・セーヌIssy Seineへと移ったのであ
る。1908年、古典宗教音楽学校は公式にニデルメイエール校École Niedermeyerと学校 名を変更した。
ニデルメイエール校は、ニデルメイエールの努力によって、聖歌隊指揮者を育成すると いう最初の使命を十分に果たしたと言えるだろう。ニデルメイエールは、彼の人生の後半 を教会音楽の改善に捧げたのである。彼は、聖職者、貴族と識者の協力のもと、音楽学校 創設の計画を入念に立てて、それを実現させた。教会音楽についてのニデルメイエールの 考えは、常に一貫したものであった。たとえ彼の単旋聖歌伴奏法はあまり受け入れられな かったとしても、62ニデルメイエールの情熱的な活動が教会音楽復興の分野において、多 くの結果を残したことを否定することはできない。彼は独自のやり方で単旋聖歌を徹底的 に探究したのである。
ルフェーヴルは、ニデルメイエールの教育理念を忠実に守り続けた。彼は時にニデルメ イエールが行った教会音楽に関する活動を引き継ごうとし、ポリフォニー音楽の演奏会を 再開したり、雑誌『新メトリーズ』を発行したりした。ニデルメイエール校は、ルフェー ヴルとニデルメイエール家の運営のもとで、発展していった。しかしながら、1905年に政 教分離法の成立は、おそらく学校の運営に打撃を与えることとなった。ニデルメイエール 校は、フランス革命以前のメトリーズに準えられていたために、1910年に政府からの助成 金が打ち切られてしまったのである。63ニデルメイエール校の発展は、ついに政治の変遷 と切り離すことはできなかった。
61 D. Pistone, op. cit., p. 43.
62 M.-L. Boëllmann-Gigout, op. cit., pp. 847-848.
63 G. Lefèvre, op. cit., p. 3621.
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