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ウェルナー・シュタインハウス 広島大学講師

ドキュメント内 表紙 背6ミリ/杉 東 (ページ 86-114)

要旨:この論文では、まず、考古学的資料と文献史料が交錯しているという点で日本によく似ている、海外特に 中央・北ヨーロッパの原史・古代史の研究や課題の視点から、沖ノ島が日本列島の国家形成の過程にどのような 関係を持っていたのかを考察したい。さらには、儀式・宗教と、支配・国家形成との一般的な関係についても考 察していきたい。

儀式は、宗教や祭祀と結びついて、国家形成の過程で重要な役割を果たすものである。これらは、原史・古代 の社会でよく見られるように、政体や国家制度の中において、それらを安定させ確立させる秩序形成の要素とし ても作用する。また、日本列島での国家形成を考える上で最も考慮すべき点は、大陸との交流である。こうした 交流は必然的に海路を使わなければ行えなかったことから、大陸との交流が頻繁に行われた時期に、沖ノ島の祭 祀がこの国家形成の過程に付随する儀式として行われ、この過程を支えていたと考えることも可能である。

さらに、国家形成の過程における儀式的・宗教的要素について考える場合、日本列島にそれ以前から存在して いた整合的なシステムを持たない土着信仰や慣習などのプライマリー宗教よりも、普遍的な要求を持ち、経典を 備えた仏教などのセカンダリー宗教の方が、実際にはその影響力が大きかったということも考慮に入れておく必 要がある。

キーワード:国家形成、初期国家、祭祀・儀式、宗教、神聖性のある王権、国家的祭祀

はじめに

年と 年にドイツで開催された日本考古学の 大展覧会において、神体島沖ノ島は、傑出した祭祀遺 跡のひとつとして紹介された。このことは、日本考古 学の全展示品の中でこの遺跡の持つ重要性を強調する ものである(弓場 )。また、今尾文昭氏の論文「Göt-terwelt und Kult」(カミとカミまつり)でも、日本列島 の祭祀遺跡におけるこの遺跡の重要性について詳しく 書かれている。この論文では、沖ノ島はさらに大きな コンテクストに取り入れられており、沖ノ島での儀式 が古墳時代の埋葬儀礼や古墳、そこに埋葬された人々 とどういう関係にあるのかが考察されている(Imao 4、p. )。また、飛鳥・奈良時代以降に中央集 権国家が成立することを踏まえた上での、古墳時代の 社会構造とその発展についても考察している。

沖ノ島の祭祀や祭祀遺跡は常に、この島で行われた 祭祀儀式の支配とその継承、管理がどうなされたのか

ということと関連して語られる。決まって言われるこ とが、中央権力がこの島の祭祀儀式を支配し挙行した というもので、これは後に、その地の有力氏族の宗像 氏による沖ノ島祭祀の挙行へと繋がっていくことにな る。「国家的祭祀」として要請され挙行されていたとい うことが、この島の超地方的で傑出した遺跡について 論議する際には大変重要となってくる。

こうした言明や仮定は、これまでの文献に目を通し ただけで、あながちうそではないことがわかる。この 神体島沖ノ島とその遺物の重要性は、「国家」との繋が り(国家的祭祀)、つまり、地域を超えた繋がりのなか でのみ、その意味が評価され、理解されることができ るのである。

この論文では、まず、考古学的資料と歴史学的資料 が交錯する日本の状況に似た海外の原史時代・古代の 研究や課題の視点から、沖ノ島はどのくらい日本列島 の国家形成の過程に関与してきたのか考察したい。ま た、儀式・宗教と、支配や国家形成との関係について

⑤ ‐ ( )

も詳しく解明したい。

あらかじめいっておきたいのだが、今の段階ではも ちろん古墳時代初頭からから歴史時代初期までの国家 形成の過程や、当時の政治体制について新しいモデル を提示することはできない。初期国家の構造から成熟 国家に至るまでの発展については、明確に解明されて いるわけではないため、日本国内にしろ、海外にしろ、

歴史学者や考古学者の方から国家形成の過程という非 常に複雑な論議を詳細に行うことはない。むしろ、研 究中の分野での重要テーマとか、モデル、紹介、その 問題性や国家の概念などについて実例を挙げ、個々に 討議をおこなっている。しかしながら同時に、歴史学 の側でも考古学の側でも、双方の手段(方法)や資料を 使いながら、前述の問題を説明できる範囲や可能性に ついて熟考はしているのである。

日本の研究でも英米のアプローチが優勢の傾向にあ るが、ここで、今一度中央ヨーロッパ、ことにドイツ 語圏の研究に焦点を当てたい。ここでは、ハルシュタッ ト期やラ・テーヌ期の文化や社会がどのようなもので あったかという点や、中世前期の研究領域において、

日本と同じような問題に直面している。中世前期の例 を挙げると、中世の国家群はどのように成立したのか であるとか、支配はそのように組織されたのか、また 儀式や宗教はどのような役割を果たしていたのか、ま た地域的に異なる政治的・社会的様相をいかに定義で きるのかということなどである。こうした研究でもま た、ちょうど日本列島の古墳時代以降を扱うときと同 じように、原史・古代の社会の解釈上で考古学と歴史 学が交錯している。

ヨーロッパの中世前期の研究分野では(Althoff 他)、ここ 年、儀式の力について、つまり儀式と社 会的・政治的権力との繋がりについて研究する傾向が 数多く見受けられる。まず、はっきりさせておかなけ ればならないのだが、普遍的に通用する容易な説明方 法は存在しない。個々の空間や時間に応じて、また個々 の社会や文化の状況に応じてそのつど研究しなければ ならないのである。

宗教と権力をめぐっては、特にヨーロッパにおける キリスト教化の過程と、日本列島における仏教伝来を、

国家形成の過程における重要な要素と影響として取り

上げるべきである。この場合、直接類推を行うことは、

非常に問題があるので避けるべきである。しかし、当 地で行われている議論からすぐさま普遍的で適合性の ある解釈がなされることがないにせよ、歴史的過程と 理解されている社会の変遷や形成過程、権力や統治に 対する儀式と宗教の関係などを理解する上で手助けに なるだろう。

.古代日本の国家の枠組みの条件

− 国家とはなにか。−

⑴ 古代日本の国家

国家形成過程の最終段階の様子が一般にどのように 理解されているかについて、ここでは、ドイツでの展 覧会プロジェクトの際のシンポジウムで、飛鳥・奈良 時代を紹介するプレゼンテーションを行った田辺郁夫 氏の考えを要約して紹介したい。

一般に、日本列島での国家形成過程の末期にあたる 新しい時代の始まりを示すのに、 つの要素があげら れる。ひとつが、法に基づいた中央集権国家の出現と 成立で、古墳時代に成立していた連合、つまり、各地 域の首長の連合という構造にかわり、天皇を中心とし た中央集権国家の成立へと繋がっていくものである。

国家の支配は、法令と、それに基づいた官僚構造の成 立を基礎に成し遂げられた。このモデルとなったのが、

中国の刑法と行政法であり、そのため必然的に、中国 の文字が受け入れられ、広く一般に広がっていくこと となった。

日本が隋王朝( 〜 )に同等の関係を求めたこと や、統一国家であることを始めて意識したことの証拠 としては、そのことにふれた日本の文献や中国側の反 応を引用することができる。

考古学の方でも、およそ 年から 年頃、飛鳥(現 在の奈良県)の地に中国を手本に中央集権国家の永続 的な「宮」の建造、建築が行われたことがわかっている。

また、天武天皇の時代頃になると、国の中央の組織が 集結してくる。この頃から、天皇の称号が使われ始め、

法令が完成し、官僚制度が強化されてくる。 ・ 世 紀の考古学では、こうした過程を「宮」やその周辺の発 掘を通して印象深く説明している。

⑤.国家形成からみた沖ノ島

新しい時代の始まりを示す つ目の要素は、仏教を 取り入れたことである。さまざまな遺跡や遺物から判 断して、仏教は 世紀初頭にはすでに朝鮮半島からの 渡来人によって日本列島に伝えられていた。 世紀末 には、国家が最終的に仏教の受け入れを決定し、仏教 寺院の建設が組織的に行われていくことになる。

仏教の持つ世界観や国家観が、中央集権国家のイデ オロギーに適していたため、仏教が受け入れられたの であるが、このことは、先祖や祖先、自然界の神と結 びついていたそれまでの信仰観念を放棄することにつ ながっていった。日本列島での仏教の受け入れは、個 人の救済を目的としたものではなく、むしろ国家の安 泰を意図してなされたものであった(田辺 、p.

− )。

田辺氏の解説によると、このとき、 つの点が重要 となる。法令に基づく国家の建設、国家意識の発生と 発展、文書を基礎とする宗教の導入の 点で、これら はすべて大陸との交流や影響と結びついたものである。

統一国家という意識や、官僚国家設立過程での冠位 十二階の制の導入、 年の大化の改新と結びついた 土地と人民の個人所有の廃止とそれらを公有財産とす る詔(公地公民)によって、国家システムに新しい方向 性がもたらされた。つまり、人民を統治するシステム の制度が新しくなったわけで、それが国に属する民の 共同体の統治へとつながっていったのである(Wada

、p. )。こうした意識は、貢賜制度の確立と 共に大陸の大国とつきあうなかで育まれてきた。 世 紀初頭では、大陸から称号を貰って権威をかりる以上 の必要はなかった。隋王朝が滅びたために唐王朝に送 られていた遣唐使は、 世紀初頭の 年、今後日本 と名乗る新しい政治組織の設立を告げた。この新しい 名前を告げることで、天の統治者(天王)を持つ中央集 権 王 国 と い う 意 識 を 伝 え た の で あ る(Ooms 、 p. ; )。このような形態での集権国家の成立は、

大陸との継続的な交流なしでは考えられない。大陸か らの知識の獲得とその利用は 世紀後半に最高潮をむ かえた。大陸の文化は、大陸の統治者からの下賜品と してや、学者を介して、あるいは書籍を通してなど、

さまざまな方法で日本列島に到達した。そのなかでも、

仏教の伝来は、 世紀中頃仏教僧を通じてもたらされ

たものである。こうした仏教僧は、あらゆる知識の運 搬者であり、陰陽道、易、道教、呪術までも伝えてい た。また、同時に、隋や唐の宮廷へ旅した派遣団の存 在や、直接中国と行われた接触の存在も考慮に入れる 必要がある。さらに、その数については注意深くなけ ればならないが、大陸から渡ってきた渡来人たちの集 団も、海を越えた文化や知識の移動に寄与している。

天武天皇の時代などには、大陸からの知識を中央に集 めることが、官僚国家の設立のための青写真として重 要事項であった。当時の唐王朝にならった統治路線で は、前兆の解釈や、易の術、占星術の方が、仏教より もはるかに重要であった。そのため、展望台や陰陽寮 が建設されていくのである(Ooms 、p. − )。

儀式的・宗教的側面、つまり信仰的側面に関しては、

典礼的国家の設立、とくに、天武・持統天皇による設 立があげられる。彼らは、律令国家を、教会国家・典 礼的国家(church state、liturgical state)として形作っ た。しかし彼らは、国家に典礼を持ち込んだものの、

成熟した宗教機関を持つこともなかったし、寄るべき 国家教会(state church)を作ることもしなかった。中 央で収穫の典礼を行うことで、地方の氏によって維持 されてきた膨大な数の神社や神との繋がりを形成して いたのだ。宗教的典礼は国家のために創成されたが、

その際祭祀的な目的の寄付と規則的な税が併用されて いた。聖武天皇の時代になって、仏教は国家教会の地 位を確立し、制度化された仏教ネットワークが、奈良 の総国分寺東大寺を頂点に据えた、国分寺・国分尼寺 という形で全 て の 国 府 に 広 げ ら れ て い っ た(Ooms

、p. f.; )。

現代の国家概念の基準に追随せず、率直にまとめる なら、以下のように仮定することができる。つまり、

これまで述べてきた日本列島の 世紀後半から成立し た政治体制は、疑いなく完全に成熟した国家なのであ る。

これまでは、日本列島で中央集権の官僚国家を作る のには、大陸の文化が非常に重要な役目を果たしてお り、そのため、朝鮮半島や中国への道も大変重要なも のであったと強調されてきた。このことは、必然的に、

こうした地域への接触を頻繁に持ち、文化交流も盛ん であったことを強く印象付ける沖ノ島の遺物に反映し ウェルナー・シュタインハウス

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ドキュメント内 表紙 背6ミリ/杉 東 (ページ 86-114)

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