本章では、インドネシア社会に表出する高齢化対策の特徴を明らかにする。その際、関 連する次の3 つの要因、1)民主化、2)急速な人口高齢化、3)国際機関による制度設計、
に注目する。
それに先立ち、第1節では、インドネシアにおける医療と福祉の概念を整理する。次に、
医療や福祉と少なくとも関連がある社会保障制度の整備過程について説明し、本調査地の 人びとの社会保障加入状況を確認する。第 2 節は、高齢者福祉法が整備されていく過程を 追う。第3節では、多様な主体による高齢者を対象とする支援活動を概観する。
第1節 医療・福祉制度の対象に据えられる高齢者 1-1 インドネシアにおける医療と福祉の概念
(1)医療
医療(および福祉)の概念は社会・文化的な背景によって異なり、したがって、世界的 に統一された明確な定義がなく文脈により多義的である。
インドネシア社会では、近代西洋医療、 中国医療、 アーユル・ヴェーダ、 アラブ・イ スラーム医療、 ジャワに伝わる伝統的な生薬ジャムゥ(jamu)および家庭でおこなわれる セルフ・ケアなど、複数の医療システムが多元的・多層的に存在している[Jordaan 1985;
吉田 2006]。また、医療や福祉に関連するサービスを提供する主体は多様であり、公的制 度において提供されるものと制度の外で提供されるものがある。
インドネシアと西洋医学の出会いは、ヨーロッパ人が交易の拠点として東南アジア各地 に商館を建てた17世紀に遡る。商館に常駐するヨーロッパ人医師が王侯貴族や現地のエリ ート階層の治療を行っていた。インドネシアでは、1600年代中葉頃からカリマンタン、ジ ャワおよびマカッサルのスルタンやその家族がヨーロッパ人医師に治療を依頼したという。
エリート階層以外が西洋医学に接するようになるのは、1800年代初頭に始まるオランダ植 民地以降である[大木2002: 111-112, 115]。
近年のインドネシアにおいて、近代西洋医学は確かに支配的である。しかし、決して呪 医のような伝統医療に従事する者がいなくなったのではなく、人びとは多元的・多層的な 医療資源を選択的に利用している。なお、制度的側面に注目する本章では近代西洋医学を
53 中心に話を進めたい。
以下では、インドネシアにおける医療の定義を確認する。しかしながら、インドネシア の医療とは何か、という大きなテーマではなく、インドネシアにおいて、制度的にはどの ような医療が提供されているのか(以下、保健医療サービス)という観点から説明する。
インドネシア保健省によれば、保健医療サービス(pelayanan kesehatan)とは、健康増 進を目的とした活動、治療から治癒までの一連の活動、機能回復を目的としたリハビリテ ーション活動および伝統医療に基づく治療である。ここで述べられる健康増進を目的とし た活動とは、具体的には予防・健康教育である。また、リハビリテーション活動とは、一 般に障害を抱える人が社会復帰できるようになるための身体的・心理的な訓練であり、西 洋近代医学の概念に基づいている。さらに、伝統医療に基づく治療とは、主にインドネシ ア社会・文化に根差したジャムゥによる治療を指している。
次に、保健医療サービスを行う施設は、病院(rumah sakit)地域保健センター(pusat kesehatan masyarakat: puskesmas)およびコミュニティ・ベースの施設(例えば、地域 保健活動を実施する施設など)である[Kemenkumham RI 2009a]。病院は、主に近代西 洋医学に基づく治療を行う施設であるが、上で述べたように伝統医療を排除するものでは ない。他にも病院の下部組織としてクリニックや医師、ビダン(bidan)48、プワラット
(perawat)49などが自宅に開業する診察室がある(図2-1)。また、地域保健センターとは、
村落レベルに設置された医療施設であり、1968年に治療費を低価格に設定した一次医療施 設として体系化された(図2-2)。
また、医療従事者とは、政府規則(1996年第32号)50によると、「保健医療分野の教育 を受けて、保健医療分野で働く全ての人であり、特定の27職種は保健医療サービスを行う ための資格を必要とする」。しかし、インドネシアでは医療従事者に対する国家資格制度51が 整っていないため、ここで述べる資格とは、専門の教育機関を卒業し、州あるいは県に登
48 ビダンとは、近代西洋医学に基づく看護教育を受け、妊娠、出産、家族計画を基本とす る医療サービスを行う医療専門職を指す。
49 プラワットとは、近代西洋医学に基づく看護教育を受け、医師の指導監督の下、医療行 為を行うまたは補佐する医療専門職である。
50 医療従事者に関する政府規則1996年第32号(Peraturan Pemerintah Repiblik Indonesia Nomor 32 Tahun 1996 tentang Tenaga Kesehatan)。
51 2007年から医師国家試験が開始された。その他の医療専門職は専門学校や大学を卒業す
ると資格が得られる。
54
図2-2 地域保健センター ジョグジャカルタ市近郊にある地域保健 センター。平日の14時まで外来診療を 行っている
図2-1 診察室
クロンプロゴ県でビダンが開業する診察室。
病院や地域保健センターの診察時間外である 夕方から診察を開始する
図2-3 ポスヤンドゥ(1)
調査地のポスヤンドゥ。毎月1回、母子 および高齢者を対象とした保健活動が開催 される
図2-4 ポスヤンドゥ(2)
クロンプロゴ県平地にあるポスヤンドゥ。
高齢者サークル(paguyuban)が定期的 に集まり、体操などの保健活動を行う
55
録することを指す。なお、医療従事者は、医学・看護学・薬学などの 7 分野に分類された これら27種が専門職として指定されている52。
(2)福祉
次に、インドネシアにおける福祉の概念を確認する。インドネシア語で福祉は、クスジ ャトゥラアン(kesejahteraan)という。高齢者福祉法で述べられる福祉とは、インドネシ アの憲法パンチャシラ(pancasila)に基づき、「全ての人びとが物質的にも精神的にも安寧 な生活をおくることを達成しようとする」ものである53。
また、社会福祉法2009年第11号54によれば、「社会福祉とは、人びとが基本的な生活を おくるために必要な物質的・精神的なニーズを満たす条件であり、それにより社会的機能 を遂行できるようにすること」である。
社会福祉は、社会復帰、自立支援、社会的保護、社会保障権利擁護および法的支援の 4 つに分類されている。すなわち、インドネシアにおける社会福祉の理念は、弱者救済とい う意味合いが強い。
社会福祉を達成するための活動は社会福祉サービス(Pelayanan Kesejahteraan Sosial) と呼ばれる。インドネシア社会省によれば、社会福祉サービスとは、社会的な問題を抱え ている個人、家族および地域住民に対して、問題を克服する、またはニーズを満たすこと を目的として実施される一連の活動である[Kemenkumham RI 2009b]。また、社会福祉 サービスを行う施設は、医療および福祉関連機関の施設、この後詳しく述べる地域保健活 動の拠点ポスヤンドゥ(Pos Pelayanan Kesehatan Terpadu: Posyandu)55などである(図 2-3, 2-4)。なお、地域保健活動を実施する場所を指す場合はポスヤンドゥと記述し、ポスヤ ンドゥで実施される活動を指す時はポスヤンドゥ活動と記述する。
52 第2条第2項(Bab I I Pasal 2)。
53 高齢者福祉法1998年第13号(Undang-Undang Republik Indonesia Nomor 13 Tahun 1998 tentang Kesejahtraan Lanjut Usia)。
54 社会福祉法2009年第11号(Undang-Undang Republik Indonesia Nomor 11 Tahun 2009 tentang Kesejahtraan Sosial)。
55 Posyanduは、日本語ではポシアンドゥまたはポスヤンドゥ表記されるが、本論ではポ
スヤンドゥと表記する。ポスヤンドゥは、村落レベルの簡易保険施設であり、コミュニテ ィが運営している。都市部では一つの建物である場合もあるが、村落部の多くは、村長や 地区長などの敷地内に設置された集会場を使用する。活動は家族計画、母子保健、栄養改 善、予防接種、下痢対策プログラムが優先課題とされるが、第3章で詳しく述べるように、
村や地区により活動の優先事項が異なる。
56
次に、社会福祉従事者は、以下の3つに分類される;1)「ソーシャルワーカー(pekerja sosial profesional)56」、2)「社会福祉従事者(tenaga kesejahteraan sosial)」57および 、
3)「ボランティア(relawan sosial)」である。福祉法で述べられるボランティアは、社会
福祉に関連する職業経験の有無にかかわらず、また報酬を得るか否かにかかわらず、政府 の制度的枠組み以外において、自らの意思で活動を行う個人あるいは社会グループである58。
以上、医療と福祉に関わる概念を確認してきた。しかしながら、ここでは、医療と福祉 の領域において行われる行為は互いに重複する部分があり、また、地域の制度によって異 なることを念頭に置いておきたい。なお、調査地における医療・福祉施設数および医療従 事者数を以下の表に示す。
調査地クロンプロゴ県における病院、地域保健センターは、ジョグジャカルタの都市部 に集中している(表2-1)。なお、ポスヤンドゥ数は第3章で示す。表2-2は、医療専門職
56 高度教育における専門的な教育と訓練を受け、積極的に市民の福祉に関する問題に対応 する社会福祉従事者として実務経験を持つ者を指す。
57 専門的な教育と訓練を受け、市民の福祉に関する問題に対応する政府機関および民間機 関で働く者を指す。
58 Undang-Undang Republik Indonesia Nomor 11 Tahun 2009 tentang Kesejahtraan Sosial.
郡レベル 支所 インドネシア 2,601 (国公立1,613) 9,754 23,875
(民間988)
ジョグジャカルタ(州) 74 (国公立53) 121 318
(民間21)
ジョグジャカルタ市 19 (国公立2) 18 11
(民間17)
クロンプロゴ県 8 (国公立1) 21 63
(民間7)
出典:Kemenkes RI 2013, Dinkes DIY 2013, Dinkes Kab. Kulon Progo 2013 に基づき筆者作成 地域保健センター
医療・福祉施設数 病院
表2-1 病院、地域保健センターの数