久保田 暁 一
(本23) この五月に大阪に住むN君が手紙をくれた。その手紙には、奥さんを昨年に亡くして以来の生活状況が簡潔に書かれ、それに関連して、近く息子のいる金沢に移る予定だと記されていた。
その夜、私はN君に電話を入れて、詳しく状況を確かめた。N君は、「心配をかけてすまない。僕は元気だし、息子にも負担をかけるつもりはない。だけど、これからの行く末を考えておくことも大事だと思うからね。」と、N君は歯切れ良い、さばさばした口調で言った。そして終わりに、「君の元気な声を聞けて良かったよ」と言って電話をきった。
数日後、N君は、金沢行きを実行した。そして金沢から手紙をくれた。私は季刊で出している個人通信の『だるま通信』を送った。それに対してN君は、励ましの意味もこめてカンパの寄金をしてくれた。
N君は、本当に律儀で気の良い友人である。機敏で容姿も整っている。その日、私は再び金
沢へ電話して、お互いに高齢だから身体に気をつけて元気に生きて行こうと励ましあった。その話の合間に彦根経済専門学校に入学し、共に学生寮の「偲聖寮」で生活した六十余年前の青春時代を懐かしむと共に、特に親しくしていた寮友─SG君、AI君、TN君らの早すぎた死別を惜しんだ。
振り返ってみると、G君は豪快で物怖じしない性格で、寮内で自由にふるまい、闊歩しながらも誰からも親しまれ、一目おかれていた。二回生の時に学生会長にも選ばれていた。卒業後、K銀行に勤め、彦根支店長になった。
I君は卒業後、地本の金沢に帰り国税局に務め、部長クラスまで進んでいる。非常に母親思いであり、よく勉強していた小柄な青年であった。
もう一人のTN君は運動競技、特にマラソンを得意とし、「オリンピックに出るんだ」と言い、いつも走りこんでいた。卒業後は建設会社につとめていた。
これらユニークな個性と力を持つ友ではあったが、早く死に、残っているのはN君と私だけである。書き遅れたがN君は、卒業後は「日商岩井繊維KK」に就職し、その人柄と能力を発揮して活躍した。最後に私だが、経専に入学して間もない昭和二十二年五月十一日、クリスチャンの姉が二十一歳にして肺結核で召天したのを契機に、キリスト教会に行くと共に聖書を手にするようになり、翌年のクリスマスに郷里の日本キリスト教団大溝教会で受洗す
るまでになった。思うに人生で大切なこととして「出会い」があるが、幾多の先賢が指摘しているように、人生途上において「いかなる書物、いかなる人」に出会うかによって、その人間の行く道が決定づけられることが多い。私の場合は、クリスチャンの姉が、若くして教師となり、清純な信仰生活を全うして、召天した姉との愛と死の出会いが、私の人生の方向を決めたと言えよう。
姉とは死別したが彦根では、経済専門学校の一学生として商業経済を学び、校内の一角にたてられた「偲聖寮」に住まいして、新しくできた友のN君やG君やI君らと親しくして生活を楽しんでいた。夜、肩を組みながら町を闊歩したり、恥ずかしげもなく寮歌を歌って歩いたりするのも楽しかった。時には仲間の真似をして、ズボンのかわりに袴をはいて得意になっていたこともある。
眼もはろばろと暁の 湖上を渡る春風に 陽と波の交響は 佳き日明けぬと告ぐるかな
佳き日明けぬと告ぐるかな これは「偲聖寮寮歌」一番の歌詩であるが、今私は、当時の稚気的だった姿を思い浮かべながら口ずさんでいる。
N君も私も早や八十四歳。もうあとがない。私は学校卒業後、いろいろ曲折はあったが、教師として一途に歩んできた。生かされてきた命である。命在る限り精一杯生き抜きたい。
私は、これまでの交流と支えを感謝しつつ、わが青春の友であってくれたN君の健康を心から祈っている。(二〇一三・八・二一)
昭和 25 年卒業の日に彦根経済専門学校校庭 にて 左はN君 右は筆者