動 の 指 導 者 で あ っ た蒲 生 を 味 方 につ け、 二 人 三 脚 で 進 め られ たで あ ろ う。
ラ ウ ン トリーの 来 日 は、 ま さ に時 宜 にか な って い た と いえ る。
他 方 、 蒲 生 は第 二 高 等 学 校 を 経 て 、1907年7月 に河 原 田 よ り2年 早 く東 京 帝 国大 学 法 科 大 学 政 治 学 科 を 卒 業 し28、1911年 か ら1923年 ま で東 京 電 気 で 管 理 職 と して 勤 め る間 、 労 働 災 害 防 止 運 動 を 中心 とす る安 全 運 動 を 指 導 す る ほか 、1917年 に設 立 され た安 全 第 一一 協 会 な どの 安 全 運 動 推 進 団 体 で も 活 躍 して い た29。
河 原 田 と蒲 生 の 人 脈 的 接 点 は よ くわ か らな い が30、そ の思 想 的 接 点 は、
河 原 田の 目指 す 労 資 協 調 と蒲 生 の 取 り組 む 安 全 運 動 が 、 それ ぞ れ 労 働 者 福 祉 と い う共 通 点 を も って い た こ と に よ る。 つ ま り、 河 原 田 は産 業 福 利 運 動 を通 して 労 資 協 調 を 実 現 し、 蒲 生 は産 業 福 利 運 動 を 通 して 安 全 運 動 を 発 展 させ よ う と したの で あ る31。
と は いえ 、 労 資 協 調 は容 易 に実 現 す る もの で はな か っ た。 実 際 、 河 原 田 自身 が 産 業 福 利 運 動 を 立 ち上 げて か ら10年 以 上 が 過 ぎ た1936年7月 の 全 国 安 全 週 間 に際 して の ラ ジオ 演 説 に お いて 、 次 の よ う に述 べ て い るか らで あ
る。
〔 工 場 鉱 山 の災 害 に 付 て の 防 止 問 題 よ り〕 更 に大 き な 問 題 と して 産 業 界 に於 け る社 会 的 安 全 の 問 題 が あ ります 。 ど う した ら労 働 者 側 と資 本 家 側 とが 渾 然 一一 体 とな つ て 産 業 の 発 達 に遭 進 し得 るか と云 ふ 問 題 で あ
ります 。32
つ ま り、 約10年 前 に この 「 問 題 」 を 解 決 す る た め、 河 原 田 は産 業 福 利 協
会 を 発 足 させ 、 活 動 を 始 め たの で あ っ たが 、 依 然 と して 、 この 「 問 題 」 は 当事 者 で あ る 河 原 田 の 期 待 どお りに解 決 さ れ ず に い た こ と を 物 語 って い る。
容 易 に実 現 しな い労 資 協 調 に執 念 を 燃 や す 河 原 田 は、 この と き産 業 福 利 協 会 の 理 事 長 で はな く、協 調 会 で 「実 質 的 に運 営 の 中 心 を 担 った 」33常務 理 事 と い う役 職 に就 いて い た。 そ して 、彼 は、「 協 調 会 は此 度 組 織 、 内容 を 改 め ま して、 産 業 福 利 運 動 の普 及 徹 底 と云 ふ こ とに遭 進 を 致 した い」34との 思 いで 、 協 調 会 と い う組 織 を 動 員 して 労 資 協 調 を 実 現 す るた め に再 度 、 産 業 福 利 運 動 を 盛 り上 げ よ う と画 策 す る。 この 画 策 と は、 産 業 福 利 協 会 を 協 調 会 に吸 収 して 協 調 会 産 業 福 利 部 を 新 設 し、 同時 に、 か つ て の 同志 で あ る 蒲 生 を 抜 擢 す る こ とで あ っ た。 そ して 、 これ は1936年4月 に実 現 す る35。
蒲 生 が、 「 其 〔 産 業 福 利 協 会 の〕 事 業 の 凡 て を継 承 し拡 充 す る」 た め に
「 特 設 」 され た産 業 福 利 部36の 副 部 長 と して 「 産 業 福 利 の 精 神 」 を機 関 誌
『 産 業 福 利 』 に発 表 した の は、 そ の 直 後 の こ とで あ っ た。 す な わ ち、 か つ て 河 原 田が 産 業 福 利 協 会 を 発 足 直 後 に発 表 した 「 産 業 福 利 の 精 神 」 は、 そ の ま ま産 業 福 利 部 に 「 継 承 」 され 、 産 業 福 利 部 の 基 本 理 念 と して 宣 言 され る に至 っ たの で あ る。
河 原 田が 「 産 業 福 利 の 精 神 」 を 発 表 した1927年2月 当 時 、 河 原 田 は社 会
局 労 働 部 長 と して 、 産 業 福 利 協 会 の 理 事 長 の 職 に あ り、 協 会 の 事 実 上 の 責
任 者 を 務 めて い たが 、 他 方 、 蒲 生 は社 会 局 嘱 託 と して 産 業 福 利 協 会 の 理 事
で は な く幹 事 に 過 ぎな か った37。 これ に 対 し、 蒲 生 が 「 産 業 福 利 の 精 神 」
を 発 表 した1936年5月 当 時 に は、 協 調 会 の 常 務 理 事 で あ る河 原 田 の も と
に、 蒲 生 は 協 調 会 の 産 業 福 利 部 副 部 長 と い う要 職 に 就 い て い た。 も っ と
も、 産 業 福 利 部 に は、 社 会 局 監 督 課 長 の 北 岡寿 逸 が 部 長 の 席 を 占 めて いた
が 、 当時 、 彼 は洋 行 中で 、 しか も国 際 労 働 機 関 帝 国 事 務 所 長 に転 出が 内定
して い た の で38、産 業 福 利 部 の事 実 上 の 責 任 者 は蒲 生 で あ った 。 実 際 、 北
岡の 転 出を 受 けて 、 翌 年 に は蒲 生 は部 長 に昇 格 し、 名 実 と も に、 蒲 生 は産 業 福 利 部 の 責 任 者 とな っ た。
産 業 福 利 運 動 に お け る思 想 的 共 通 点 を もつ 河 原 田 と蒲 生 が 、 最 初 は産 業
オル ガナ イザ
福 利 協 会 に お いて 、 次 に は協 調 会 産 業 福 利 部 に お いて 、 河 原 田が 組 織 者 、
イ デオ ロ ク
蒲 生 が 理 論 家 と い う 同 じ役 柄 を 演 じる 中、 同名 論 文 「 産 業 福 利 の 精 神 」 の 執 筆 者 の み 入 れ 替 わ っ た と い って も よ い。 この 入 れ 替 え の 理 由 は、 何 で あ ろ うか 。 ま た、 な ぜ 河 原 田 は 自分 の 名 前 で 「 産 業 福 利 の 精 神 」 を 発 表 した の で あ ろ うか 。 さ らに は、 な ぜ 、 約10年 後 に蒲 生 は 「 産 業 福 利 の 精 神 」 を 掲 載 したの で あ ろ うか 。 実 は、 これ らの 疑 問 は、 互 い に関 連 が あ る。 以 下
に、 これ らの 疑 問 に対 す る答 え を2点 に整 理 して 説 明 しよ う。
まず 、 河 原 田が 、1927年2月 に、 講 習 課 目 「 産 業 福 利 の 精 神 」 の 「 講 演 速 記 」 と して 論 文 「 産 業 福 利 の 精 神 」 を 発 表 したの は、 それ に先 立 つ 講 習 課 目 「 産 業 福 利 の 精 神 」 を 担 当 したか らで あ る と い う よ りも、 む しろ産 業 福 利 協 会 の 事 実 上 の 責 任 者 が 河 原 田で あ っ た こ と に よ る。 産 業 福 利 協 会 の 理 念 を説 く 「 産 業 福 利 の 精 神 」 の 台 詞 は、 協 会 の 主 役 た る河 原 田が 語 る必 要 が あ っ た。 上 司 の 長 岡 は 会 長 と して 産 業 福 利 協 会 に 深 い理 解 が あ っ た が 、 「 新 人」 に 過 ぎず 、 河 原 田 と蒲 生 の合 作 で 練 り上 げ た 産 業 福 利 協 会 の 理 念 を語 る に は経 験 が 浅 く、 いわ ば舞 台 な れ して いな か っ た。 しか も、 産 業 福 利 協 会 は 河 原 田 が 部 長 を 務 め る第 一一 部(労 働 部)が 覇 権 を 握 って い た39。他 方 、蒲 生 は語 る実 力 は あ って も、当時 、産 業 福 利 協 会 の 理 事 で はな か っ た た め、 その 資 格 に欠 けて い た。 蒲 生 は シ ナ リオ を 書 く役 目 に徹 した
と いえ る。
次 に、 蒲 生 が 、1936年5月 に、 河 原 田が 既 に発 表 した論 文 「 産 業 福 利 の
精 神 」 を 再 び機 関 誌 に掲 載 したの は、 新 設 され た産 業 福 利 部 の 事 実 上 の 責
任 者 が 蒲 生 で あ る こ とを 組 織 の 内外 に示 す 効 果 を 計 算 お そ ら く河 原 田
の 計 算 で あ ろ う して の こ とで あ っ た。 それ ゆえ 、 河 原 田で はな く、 蒲
生 の 名 前 で 発 表 す る必 要 が あ っ た。 河 原 田 は、 当時 、 協 調 会 全 体 の 責 任 者 で あ り、 産 業 福 利 部 だ けの 責 任 者 で はな か っ た。 加 え て 、 蒲 生 が この 論 文 の 実 質 的 な 執 筆 者 で あ っ た こ とか ら、 蒲 生 に掲 載 を 拒 む 理 由 もな か った で あ ろ う。 逆 に、 も し蒲 生 が 実 質 的 な 執 筆 者 で な けれ ば、 実 直 な 性 格 で 文 才 の あ る蒲 生 が 、 河 原 田が か つ て 執 筆 した論 文 を 借 用 す る こ と は考 え られ な い。 あ る い は、 「 産 業福 利 の精 神 」 とい う同 じ題 名 の論 文 を掲 載 す る な ら、
蒲 生 は改 めて 書 き直 したで あ ろ う。
お わ りに
以 上 に お いて 、 河 原 田稼 吉 と蒲 生 俊 文 の 同名 論 文 「 産 業 福 利 の 精 神 」 の 実 質 的 な 執 筆 者 は蒲 生 で あ る こ とを 論 証 した。 また 、1927年2月 に河 原 田 が 自分 の 名 前 で 載 せ たの は、 彼 が 産 業 福 利 協 会 の 事 実 上 の 責 任 者 で あ った か らで あ り、 ま た、1936年5月 に蒲 生 が 同 じ論 文 を 再 び雑 誌 に掲 載 した の は、 今 度 は、 彼 が 産 業 福 利 部 の 事 実 上 の 責 任 者 とな った こ とを 公 に示 す 必 要 か らで あ っ た。
と は いえ 、 産 業 福 利 協 会 は、 内実 と して 、 河 原 田 と蒲 生 の 意 気 投 合 にお いて 成 立 したの で あ り、 協 会 の 理 念 と して の 「 産 業 福 利 の 精 神 」 は、 文 章 と して は蒲 生 が 大 部 分 を 執 筆 した にせ よ、 その 成 立 過 程 にお いて は両 者 の 合 作 で あ っ た と い って よ い。 産 業 福 利 協 会 発 足 直 後 に、 理 論 家 で あ る蒲 生 の 書 い た シ ナ リオ を 、 組 織 者 で あ る河 原 田が 舞 台 上 で 読 ん だ つ ま り、
講 習 課 目で 説 き、 論 文 で 発 表 した に過 ぎ な い 。 こ の意 味 で 、2人 は
「 融 合 帰一一 」(文 章 番 号29)し て い たの で あ る。
と こ ろで 、 蒲 生 が 同 じ論 文 を 再 び掲 載 しな けれ ばな らな か った こ と は、
10年 前 に発 表 した 「 精 神 」 は まだ 実 現 せ ず 、 相 変 わ らず 説 き続 け る必 要 が
あ っ た こ とを 示 して い る。 これ に関 連 して 、 産 業 福 利 協 会 の 会 長 で 、 社 会
局 長 官 を 長 く務 め た長 岡隆 一一 郎 は、 社 会 局 在 任 中の 仕 事 を 振 り返 って 、 次
の よ う に 評 して い る 。
社 会 局 在 任 中 自分 の や つ た仕 事 は 〔 … 〕 今 日か ら振 返 つ て 見 る と私 の 自慢 した仕 事 が 如 何 に無 意 味 の もの で あ るか と云 ふ 事 を しみ じみ と 反 省 させ られ る。 社 会 政 策 も よ し、 社 会 事 業 も宜 しい。 然 れ ど も之 等 は社 会 の 貧 富 の 懸 隔 を 緩 和 し、 貧 乏 線 以 下 に坤 吟 す る階 級 の 生 活 を 幾 分 向 上 す る に非 ざれ ば殆 ど何 の 意 味 も為 さな い。 然 らば私 が あ る方 面 か らは 白眼 を 以 て 睨 まれ 、 社 会 の 各 所 に摩 擦 を 起 して や つ た仕 事 が 、 少 しで も社 会 の 改 良 に役 立 つ て 居 たか と云 へ ば、 残 念 な が ら今 日で は 否 と答 へ る外 はな い。 貧 富 の 懸 隔 に依 る社 会 悪 は全 速 力 の 自動 車 の 走 るが 如 く進 ん で 行 く。 我 々の 仕 事 は 自動 車 と マ ラ ソ ン競 争 を や るや う
マ マコ
な もの で 、ギ ャ ッ プは 日毎 に増 す ば か りで あ る。 卒 直 に云 へ ば、私 は 若 し之 す ら実 行 しな か つ た とす れ ば事 態 はな ほ悪 くな つ たで あ らう と 云 ふ 自 己弁 解 の 下 に、 気 休 めの 仕 事 を した に過 ぎな いの で 、 真 に労 多
く して 効 少 き結 果 に終 つ て しまつ た。40
この 一一 文 を 踏 まえ るな ら、産 業 福利 協 会 や産 業 福利 部 も 「 気 休 め の仕 事 」 で あ っ た と い って よ い。 や らな い よ り増 し、 と い うだ けの 話 で あ る。 しか
も、 「白 眼 」 視 さ れ 「 摩 擦 」 を 起 こ し、 「 労 多 く して 効 少 き」 「 無 意 味 」 な 仕 事 で あ っ た。
1925年11月 の 産 業 福 利 協 会 の 設 立 以 来 、 続 け られ て き た 産 業 福 利 運 動
は、1937年2月 に協 調 会 を 去 っ た河 原 田が 、 三 度 、 蒲 生 を 誘 い、 今 度 は産
業 報 国 運 動 へ 遭 進 す る と、1941年3月 に蒲 生 が 部 長 を 退 くや 協 調 会 産 業 福
利 部 は廃 止 とな り、 産 業 福 利 運 動 は終 わ りを 告 げ る。 河 原 田 と蒲 生 に よ っ
て 担 わ れ て い た 「 産 業 福 利 の 精 神 」 は、 河 原 田 と蒲 生 が 産 業 福 利 運 動 か ら
離 れ て しま う と存 続 で きな か っ た。 この 意 味 で 、「 産 業 福 利 の精 神 」は産 業
ドキュメント内
<論説>河原田稼吉と蒲生俊文の「産業福利の精神」について
(ページ 36-45)