ここからは、第3章で提示した生きられる身体のあり方に基づいて、そのような生のあ り方におけるよき生とはどういうものかを論じていく。第2章で示した通り、本論文では よき生とは何かを考察するためにアリストテレスの倫理学における「人間の機能」という 概念を用いるが、本論に入る前に、その「人間の機能」概念を用いる意味を改めて確認す るとともに、「生きられる身体のあり方」と「人間の機能」との関係について整理しておき たい。
第2章では、マッキンタイアの『美徳なき時代』における倫理思想史の理解を引きなが ら徳倫理学の現代的再興の必要性を論じたが、そのような試みが必要となっている背景に あるのが「事実」と「価値」の分離であり、「事実」の「客観」化と「価値」の「主観」化 である。マッキンタイアが批判するその主張を一言で言えば、「それに価値がある」とは「あ る人がそれを価値があると思う」と同じであるから、ものごとがそれ自体で何か価値があ るという議論は全くナンセンスであり、「それに価値がある」とは、そのような一見客観的 であるかのような主張をしている当人の主観的な価値観を密輸入しているに過ぎない、と いうことである。そのとき、何に価値があるのか、即ち何が「よい」のかは、その「よさ」
を感じる当人の感覚次第ということになる。そのような立場に立つと、「よき生」とは、「あ る人がその生をよいと思うような生」ということになり、「よき生」の探求とは、「人はど のような生をよき生だと思うのか」、そして「そのような生をできるだけ多くの人が実現す るにはどうすればよいのか」という問いとして理解されることになる。そのため、「よき生 とはそれ自体どういう生なのか」という問いは置き去りにされてしまう。そのような状況 を前提とした上で倫理学を試みようとすれば、その「ある人がよいと思う」ことを「別の 人がよいと思う」ことと調整すること、さらには多数の人々がそれぞれ「よいと思う」無 数の事物の関係を調整することが倫理学の役割だということになる1。功利主義とは、その ような方向で倫理学を推し進めて行こうとする代表的な思想だといえるだろう。それが主 観化された諸価値の調整を任務とする以上、複数の参加者の利害行動を考察するゲーム理 論や、生物としての人類が「よいと思う行動」をどのように形成してきたのかを考察する 社会生物学と親和的なのは当然である。マッキンタイアが指摘していたように、倫理学に おける「直覚主義」や「情緒主義」とは、そのような前提を受け入れた上で、無謀にも「よ さ」そのものを問うときの必然的帰結である。
1 ピーター・シンガーが「なぜ道徳的に行為すべきか」という問いへの回答として提示する「自己を超え て広がる大義〔a cause larger than the self〕」(Singer (1995) 216[325])や「宇宙の視点〔the point of view of the
universe〕」(Ibid. 229-[348-])は、まさにそのような主観的価値の集合全体を俯瞰して捉える視点である。
マッキンタイアがアリストテレスの「人間の機能」を援用するのは、この事実と価値の 分離を「機能」概念によって乗り越えるためである。あるものが機能的な存在なのであれ ば、その事物のよさは、ある人がその事物をよいと思うかどうかに関係なく、その事物が その機能をよくはたらかせているか、またはたらかせうるか、という点にあるということ になるから、単に「主観的」な感覚に回収することはできなくなる。第2章でも挙げた例 だが、ナイフの機能はものを切ることにあるから、ナイフの「よさ」とはそのナイフが物 を切るという機能をどれほどよく果たしているかという点にある。そのように「よさ」を
「機能」概念によって捉えれば、ある人がどれほど「私はこのナイフがよいナイフだと思 う」と言ったとしても、そのナイフが全く切れ味の悪いナイフだったとすれば、その主張 はナイフのよさとは区別されるその人の主観的な思い込みを述べているに過ぎず、その主 張はナイフのよさ自体とは関係のないものだと正当に言えるだろう。このとき、「このナイ フの刃は鋭くて切りやすい」という「事実命題」と、「このナイフはよいナイフだ」という
「価値命題」は全く自然に連結することになり、事実と価値の分離は成立しない。マッキ ンタイアは近代の倫理学者について、「…彼らは、いかなる道徳論証も機能概念を含まない ということを当然のこととみなしている〔MacIntyre (1985) 58[73]〕」と、この機能概念を 道徳論証から排除したことが近代倫理学に共通した過ちだと指摘し、その背景にある無色 透明の「個人」としての人間理解を批判している。「「人間」が機能概念であることをやめ るのは、すべての役割に先立ってそれと切り離された個人〔an individual〕として人間が考 えられるときだけなのである〔Ibid. 59[73]〕」。
このような「個人」に代わる「機能概念としての人間」を現代において改めて提示する ことができれば、人間の「よさ」をその「人間の機能」を最もよくはたらかせることが出 来るかどうかという点に置くことができるようになり、そのように人間の機能をはたらか せている生が人間にとっての「よき生」であると一般的妥当性を持って言えることになる。
それに対して、ある人が単なる感覚として「私はこのような生がよき生だと思う」と言っ たとしても、それは、上のナイフの例と同様に、「よき生」自体とは関係のない個別の「主 観的」主張に過ぎないと正当に言えることになるだろう。
このように問題を立てたとき、当然問題となるのが、「人間の機能」とは一体何か、とい うことであり、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』も、その大半が「人間の機能」を 描くことに費やされている。まず強調しておきたいのが、本論文はホモ・サピエンスとい う生物種の生物学的機能が「人間の機能」であると主張するわけではない、ということで ある。それは、人間という複合的存在の一側面である生物学的次元における機能に過ぎな い。もちろん、身体が生理的に正常にはたらいているということ自体は悪いことではない が、それが即ち人間的な意味でのよき生だというわけではない。この後第6章では生命倫 理学のトピックを論じるが、例えば生殖機能が生理的に「正常」に機能しているというこ とと「よき生」の関係は、必ずしも一義的なものではない。もし「人間の機能」の一つと して生殖を考察するのであれば、人間身体の生理的レベルでの生殖機能のはたらきだけで
はなく、そもそも生殖とは人間的な意味においてどういう営みなのかを考察することがま ず必要になるだろう。
さて、「人間の機能」を生物学的機能ではなく人間を「人間」たらしめている人間固有の 機能として捉えなければならないとして、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』におい てそれをどのように考えていたのかは第2章で概観した通りである。彼は「植物的/動物 的/人間的」という生命の階層区分や、「智慧(sophia)」と「知慮(phronēsis)」という人間 的生の次元における区別などに基づいて「人間の機能」を論じていた。それに対して本論 は、実存的側面や無意識的側面などのアリストテレス以降の哲学が問題としてきた側面が 欠けている点において、アリストテレスの言う「人間の機能」をそのまま現代に復活させ るだけでは不十分であると指摘した。それを踏まえて本論文が提示するのが、ベルクソン とメルロ=ポンティの哲学を通して描き出される「生きられる身体」という人間的生のあ り方を「人間の機能」として位置付けるアプローチであり、そのあり方自体については第 3章で示した通りである。これからそのアプローチによってよき生とはどういう生かを提 示していくのだが、その準備作業として、生きられる身体と「人間の機能」の関係につい て、一つの疑問に答えておく必要がある。それは、生きられる身体の「あり方」と人間の
「機能」とは異なるものではないのか、「機能」が「よくはたらく」というのは理解できる が、「あり方」が「よくはたらく」というのは、言葉としても概念としても無理があるので はないか、という疑問である。
通常、「機能」とは、事物に備わった、何らかの目的を達成するための手段としての固有 のはたらきを指す。例えば、ナイフの機能はものを切るという目的を達成するための「切 る」というはたらきである。ものがよく切れるナイフはよいナイフであり、なぜならそれ は「切る」というナイフの本質的機能をよくはたらかせているナイフだからである。アリ ストテレスが『ニコマコス倫理学』において人間の機能の最高のものとして挙げているの が「智慧」であるが、それは形而上学的な真を観想するというはたらきを持っている。ア リストテレスに即して言えば、そのような観想をよく行えるような智慧を有し、またその 智慧をはたらかせているような人間がよく生きている人間である、ということになる(正 確には、智慧を中心として、他の「知慮」や動物的機能(栄養摂取など)が一緒に全体と してよくはたらいている状態)2。しかし、本論文第3章の最後に挙げたような「生きられ る身体のあり方」を考えてみると、そのような「機能」の概念はそのままではうまく当て はまらないように思われるのである。
例えばそこでは、「所与性」を生きられる身体の最も基本的なあり方として挙げた。それ は、私がこの身体として生きているときの「この身体」は、私という存在の成り立ちに不 可欠であり、また私が選んだものでも作ったものでもなく、後から取り替えることもでき
2 「医学が健康をつくりだすごとくにではなく、健康という「状態」が健康をつくりだすごとき仕方で、
智慧は幸福をつくりだすのである〔『ニコマコス』1144a〕」といわれるように、智慧は目的と切り離された 単なる「手段」とは言い切れない。アリストテレスにおける「機能」概念と「手段と目的」との関係につ いては、浜岡(1996)も参照。