序論
第2部では、これまで示したベルクソン哲学及び徳倫理学の理解に基づいて、ベルクソ ンの生命の哲学を徳倫理学として再構築する基礎作業に取り掛かりたい。
第3章では、ベルクソンの『物質』における身体論と、それを現象学的に引き継いだと いえるメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(以下『知覚』)を中心として、本論が徳倫理 学の基盤とする「生きられる身体」のあり方を示す。本章では、ベルクソンとメルロ=ポ ンティの身体論を相補的なものとして論じるが、一般的には、メルロ=ポンティはフッサ ールの現象学的方法論をフランスに導入した草分けとして、当時既にフランスで一定の地 位を築いていたベルクソンとの違いが指摘されることも少なくない。例えばドイツにおけ るフランス現象学研究の第一人者であるヴァルデンフェルスは、「フランスの主導的な現象 学者たちは、圧倒的に[ベルクソン主義から]一線を画すことに心を砕いている。それは まさしく、自らが取り違えられたくない思惟との意図せざる近さゆえかもしれない
〔Waldenfels (1983)[17]〕」1と述べる。しかし、この「意図せざる近さ」は、それでも「近
さ」には違いないのであって、実際メルロ=ポンティとベルクソンの著作を付き合わせて 読解してみると、両者の違いは――「ベルクソン一流の直観」に対する「現象学」という
――ある種の方法論的な意味においての違いであり、知覚や身体、生きられる経験といっ たテーマ群や、唯物論でも観念論でもない第三の方向を目指すという大きな枠組みは共通 していることは明らかである2。要するに、とりあえずは異なる方法論を取っているとされ る両者が、「意図せざる近さ」を有するという点に、両者の哲学の本質的な親近性を見るこ とができる。メルロ=ポンティ自身も、初期の現象学的方法論からマルクス主義との関わ りを経て、彼独自の存在論の試みである『見えるものと見えないもの』の草稿を書き始め たと言われる1959年の講演で次のように述べている。
〔1930 年頃、ベルクソンの影響はそれほど大きくはありませんでした。…〕もしも 私どもがベルクソンを読み込み、彼について熟考していたならば、必ずやある哲学 の方へ、さらに言えば、ブランシュヴィックによって方向づけられていた哲学より
1 次の記述も参照。「フッサールの次のような言葉が伝えられている。「われわれは真のベルクソン主義者 である」――真のベルクソン主義者、この言葉は近さと遠さを同時に示している。われわれの経験の意味 を総合的な働きから成立させ、この意味を解釈し、領域的に区分し、純粋な本質態へと転化させる哲学、
そしてそのために生に対するある種の距離を要求する哲学[現象学]は、連続的に流れる生のプロセスを 頼りにし、直観をその対象と一致させ融合させて、宇宙との直接的な共感から自らの力を引き出すような 直観主義[ベルクソン主義]とは折り合いが悪い…」Waldenfels (1983)[16]。
2 『眼と精神』の「訳者あとがき」では訳者が次のように指摘している。「〔メルロ=ポンティが「身体」
の探求に取り掛かったきっかけは、ベルクソンの影響が大きい。…〕ただし、ベルグソンにおいては、身 体は時間の空間化、精神の物質化の原理でもあり、言わば精神の堕落の原理ともなっていた。したがって、
メルロ=ポンティの課題は、身体の発想をベルグソンに学びつつ、それを世界内存在へと純化していくこ とにあったと思われる。…」Merleau-Ponty (1985)[351]。
もはるかに具体的であり、はるかに反省的ではない哲学の方へと引き寄せられてい たことでありましょう。実際には残念ながらベルクソンは、われわれの世代にはあ まり読まれておりませんでしたので、私どもは、彼がわれわれに教えることもでき たでありましょうかなりの部分を知るために、実存の哲学を待たねばなりませんで した。これはきわめて確かなことでありますが、――そして今日ますますはっきり してきたことでもありますが――もしも私どもがベルクソンを入念に読んでおりま したならば、それから10年あるいは15年が経ち、私どもが実存の哲学の功績だ とみなすようになったさまざまな発見〔「受肉」、「(「反省的」ではない)哲学の方法」、
「他者」といったテーマ〕を、彼は私どもに教えてくれていたことでしょう。
〔Merleau-ponty (1966) 311[99]〕
この述懐が示すように、意識的に継承したのではないにも関わらず、現象学という哲学 的方法論への厳しい反省を踏まえた上で知覚や身体といったベルクソンと重複する一連の テーマへ自ずと辿り着いたメルロ=ポンティの哲学は、初めからそれらのテーマを共有し ている他の「生の哲学」よりも一層根本的な次元でベルクソンの哲学と響き合っていると 言えるだろう。その点からも、両者に共通する中心概念である「身体」――「生きられる 身体」――について、両哲学の成果を付き合わせて検討することは、「身体」のより多面的 で重層的な理解を可能にする作業であることは間違いない。
続く第4章では、その「生きられる身体」という生のあり方に基づけば、「死」がどのよ うに理解されうるのかを考察する。「はじめに」で述べたように、いかなるかたちでよき生 の探求を行なうにせよ、それが死によって完全な無に帰してしまうような「生」に基づく のであれば、シシュフォスが山頂に岩を運ぼうとしては山頂を目の前にして岩が転がり落 ちてしまうように、よき生を生き切った瞬間にその生の終点である死によってすべてが無 に転化してしまい、その意味で生のいかなる「よさ」も無意味なものになってしまうだろ う。そこで、よき生の探求をいわば裏側から支えるために、死がそのような虚無化なのか どうかを問わなければならない。要するに、倫理学が生のよさを問題とするものである限 り、倫理学はその「よさ」の前提となる「生」とは何かを問うと同時に、その生の究極の 到達点であると同時にその生の裏側に常に潜んでいる「死」について、それが一体何なの か、私たちの生においてどういう意味を持つのかを論じる必要がある。プラトンが『国家』
の最終章で示しているエルの物語や、カントの『実践理性批判』における「魂の不死」の 要請も、そのような必要性に応えるための一連の試みとして理解されるべきであろう。本 章における「死」の探求においては、ベルクソンが『進化』以降に辿ったような、個々の 生命の背後に流れる「生命の飛躍」による個体の死の超克という道は取らずに、それとは 異なる道筋をベルクソンの哲学から独自に導き出すことで、よき生の探求としての倫理学 を裏側から支える死のあり方を提示する。第1章の終わりでも引いたが、ベルクソン哲学 の後継者の一人であるジャンケレヴィッチは、『死』という浩瀚な書の中で、「…要するに、
生命の飛躍は私ではないのだから〔Jankélévitch (2008) 446[486]〕」と、『進化』的な汎生命 主義への違和感を表白していた。後で述べるように、本章の試みはこの『死』の試みと本 質的な部分で重なり合っている。
第3章 生きられる身体の二元性と両義性――『物質と記憶』と『知覚の現象学』
序節
およそ私たちの生が世界の中にあり、世界において行動するものであるならば、私たち が生きるあり方は、それがいかなる形を取るにせよ、「身体において/よって/として生き る」というあり方以外には考えられない。その意味で、私たちの生とは一体何なのかを考 えることは、この身体とは一体何なのかを考えることに他ならない。しかし、改めてこの
「身体」とは一体どういう存在なのかを考えようとすると、そこに固有の難しさがあるこ とに気付く。なぜなら、生きられる身体そのものを捉えようとすれば、身体を物質の塊と. して..
、つまり客観的な対象として...
素朴に捉えるのではなく、生きられる身体そのもの....
を、
つまり世界を知覚し世界の中で行動する身体を捉えなければならず、それは目の前の客観 的対象を捉えるのとは異なった種類の認識を必要とするからである。本章では、ベルクソ ンとメルロ=ポンティの哲学を、そのような「生きられる身体」の独特のありようを捉え るものとして読解していく。
さて、本論文では「生きられる身体」という言葉を用いているが、この用語自体はベル クソンとメルロ=ポンティの哲学の中では――「持続」や「両義性」のように――特にキー ワードとして用いられているわけではない。そこでまず、本論がなぜ「生きられる身体」
という用語を用いるのかを、単なる「身体」、および「生きる身体」という言葉と比較する ことで説明しておきたい。
まず、単なる「身体」と「生き..
られる身体」の違いについてだが、前者「身体」は、そ れが自分の身体かその他の身体かに関わらず、専ら対象として捉えられた身体であり、主 体的、主観的な視点からの身体性というものを含んでいない。また、例えば「車体(ボデ ィ)」というような意味において、それが生きているか否かに必ずしも関わらない概念であ る。他方で、「生きられる身体」は、専ら生命を有し活動を行なっている身体、つまり生き ている身体のことを意味し、世界の中で知覚-行動する身体である。その意味でそれは主 体的、主観的な要素を含んでおり、単なる「身体」とは異なっている。次に、「生きる.
身体」
と「生きられる...
身体」の違いについて、この能動態と受動態の違いが示しているのは、前 者が全面的に能動的主体として存在する身体を指しているのに対し、後者においては身体 における生がその生自体を超えた次元を含み、そのような次元の能動性――「反省」的次 元――によって受動的に動かされる、という事態を含んでいるという点である。その意味 では、「生きる身体」は動物的身体、「生きられる身体」は人間的身体だといってもよいだ ろう。そして、そのような「生きられる身体」によって生きられるのは「生きる身体」で あり、「生きる身体」が生きるのは「身体」であるというように、これら三者は階層構造を なしている。そこで本論文では、それらの一番上にあって人間特有の反省的次元を含んだ 身体を主題とするという意味で、「生きられる身体」という言葉を用いている。