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介 に 見 ら れ

る 根 深 い 誤 解 に つ い て

(

本論 で参 照す るの はす べて

、西 田幾 多郎 20 08 年改 版『 善の 研究

』岩 波 文庫 であ る。) 岩波

文庫 の表 紙に は、

『善 の研 究』 の要 約と して 次の よう に記 され てい る。 主観

と客 観、 精神 と物 質な どを いか に統 一す るか とい う哲 学上 の根 本問 題の 解決 を、 直接 に与 えら れた 純粋 経験 に求 め、 そこ から 出発 して 知識

・ 道徳

・宗 教の 一切 を基 礎づ けよ うと した

。 同書

に付 され た下 村寅 太郎 によ る解 説に も、 次の よう にあ る。 本書[

『善 の研 究』] の根 本思 想は 純粋 経験 によ って 知識

、道 徳、 宗教 の一 切を 基礎 づけ よう とす る強 靭な 思惟 によ って 貫か れて いる

。 この

よう な「 基礎 づけ る」 とか

「根 拠づ ける

」と か「 包括 する

」と かと いう の は、 西田 を語 る類 書の ほと んど すべ てに 見出 され る、 悪質 の誤 解で ある

。こ の よう な表 現を 平気 で書 きつ ける 者は 西田 をわ かっ てい ない と断 じら れて ま ず至 当で ある

。以 下、 この こと につ いて

、一 般の 読者 の注 意を 喚起 した い。

そも そも

、何 かを

「基 礎づ ける

」と いう よう な表 現は

『善 の研 究』 に見 られ ない

。西 田も 自ら その よう に評 した こと は、 管見 の限 り、 ない よう に思 われ る 本文 に目 をと おせ ばす ぐに 分か るが

、西 田は 何か に基 礎を 与え よう とし てい るの では なく

、あ る特 定の 境地 を探 究し よう とし てい るの であ る。 言わ れて いる のは

、そ の境 地が すべ ての 学問 的行 為に 付随 すべ きで ある

、と いっ た程 度で ある

。 さて

、「 基礎 づけ

」と 言わ れた とき

、読 者は ふつ うど のよ うな もの を考 える だろ うか

。例 えば 数学 を「 基礎 づけ

」よ うと した ラッ セル

‐ホ ワイ トヘ ッド に よる

『プ リン キピ ア・ マテ マテ ィカ

』は

、述 語論 理か ら自 然数 の命 題を 演繹 的 に導 出す る( こと を通 じて

、パ ラド クス を解 く) こと を目 指し たも のだ った

。 この よう に、 疑わ ない

「公 理」 を定 め、 必ず そこ から 始め て定 めら れた 手続 き のも とに 命題 どう しを つな げて いく こと が、

「基 礎づ け」 のイ メー ジの 一つ で ある

。し かし

、こ のよ うな こと は『 善の 研究

』で は一 切行 われ ない

。何 かを 導 出す ると いう よう な手 続き はな く、 むし ろ行 われ てい るの は演 繹的 思考 を破 壊す るこ とで ある

。 これ に関 連し て、

「疑 いえ ない

」と いう こと も誤 解さ れる

。ふ つう

、あ る命 題が

「疑 わし い」 とい うと きは

、そ れは 共有 して いる 前提 から は演 繹さ れな い ある いは その 命題 から 演繹 され るも のが 別に 支持 して いる 命題 と矛 盾す る、 とい うよ うな 可能 性を 意味 して いる

。し かし

、西 田が

「疑 うに も疑 いよ うの な い」 とい うと き、 それ はそ もそ も疑 うな どと いう 行為 が起 こら ない

、と いっ た 意味 であ る。 疑い その もの が生 じて いな いの に、 何が

「疑 わし い」 か、 何は

「疑 いえ ない

」か

、な どと いっ た選 別を する のは 無意 味で ある

。 この よう な論 理的 立場 を離 れ、

「基 礎づ け」 を「 説明

」の 意味 にと った らど うな るだ ろう か。 例え ば物 理学 は原 子の 化学 的ふ るま いを

「説 明」 する

。大 脳

生理 学は ヒト の意 識活 動を

「説 明」 する

。個 人の 行為 の集 まり は組 織や 社会 を

「説 明」 する

。こ のよ うに 還元 すべ きも のを 特定 し、 物事 をか なら ずそ こか ら 説き 明か すの も、

「基 礎づ け」 の一 つの イメ ージ であ ろう

。そ れで は、 例え ば 有名 な「 純粋 経験

」か ら何 かが 説明 され るだ ろう か。 一読 すれ ばわ かる とお り、 何か が説 明さ れる どこ ろで はな い。 ジェ ーム スか らデ ュー イか らロ ック から デカ ルト から ヘー ゲル から とに かく 何か ら何 にい たる まで

、こ とご とく

「純 粋経 験」 を説 明す るた めに 動員 され てい ると 言っ た方 が正 しい

。 驚く べき こと に( と、 あえ て驚 いて みた が)

、純 粋経 験さ え知 って おけ ばあ とは 主客 とか 物神 とか 知識 道徳 宗教 その 他も ろも ろが 芋づ る式 に説 明さ れる など とい うこ とは 全く 期待 する こと がで きな い。 主客 や物 神の 二元 論、 知識 の心 理主 義( 感覚 与件 から の基 礎づ け)

、善 悪の 分別

、宗 教的 感性 など など は、

『善 の研 究』 を読 むた めに はむ しろ あら かじ め知 って おか なけ れば なら ない こと であ る。 西田 はあ たか も、

「周 知の よう に、 主観 と客 観は 区別 され てい る が…

…」

「周 知の よう に、 物質 と精 神は 異な るも のと され てい るが

……

」「 周 知の よう に、 ジェ ーム スの 心理 主義 によ れば

……

」な どと

「周 知の よう に」 を 繰り 返し てい るか のよ うで ある

。も ちろ んそ のす べて を知 って いな けれ ば

『善 の研 究』 が読 めな いと いう わけ では ない が、

『善 の研 究』 を読 んだ とこ ろ でそ れら につ いて 理解 が進 むわ けで はな い。 以上 を要 すれ ば、 岩波 文庫 の表 紙は 途方 もな く絶 望的 な救 いが たさ に満 ち 溢れ てい るこ とが わか る。 出版 より 一〇

〇年 以上 の年 月を 閲し てな おか くの ごと き表 紙を 改め るこ とさ えで きな いの だか ら、 ほと んど の日 本人 は西 田哲 学を 微塵 も理 解し てい ない どこ ろか

、理 解す る必 要す らサ ラサ ラ感 じて いな いと 言い 切っ てし まっ て大 過な いで あろ う。 逆に 言え ば、

『善 の研 究』 に書 い てあ るこ とは

、た とえ 理解 を試 みる ひと がい なく ても まあ それ で認 識が 滞っ

たり 社会 がう まく 回ら なか った りす るよ うな もの では ない

、少 なく とも この 一〇

〇年 足ら ずは そう だっ た、 とい うこ とで ある

。哲 学を 必要 とし ない 国・ 日本 にお ける

、唯 一の 独創 的哲 学者 と言 われ るゆ えん であ る( それ が悪 いと 言っ てい るの では ない)

。 私は 読者 にぜ ひ、

『善 の研 究』 の次 の一 節を 味わ って いた だき たい と思 う。 万象

の擬 人的 説明 とい うこ とは 太古 人間 の説 明法 であ って

、ま た今 日で も純 白無 邪気 なる 小児 の説 明法 であ る。 いわ ゆる 科学 者は 凡て これ を一 笑 に附 し去 るで あろ う、 勿論 この 説明 法は 幼稚 では ある が、 一方 より 見れ ば 実在 の真 実な る説 明法 であ る。 科学 者の 説明 法は 知識 の一 方に のみ 偏し た るも ので ある

。実 在の 完全 なる 説明 にお いて は知 識内 要求 を満 足す ると 共 に情 意の 要求 を度 外に 置い ては なら ぬ。( 八四 頁、 強調 は引 用者) お判

りで あろ うか

。西 田の 立場 に肩 入れ でも しよ うも のな ら、 京都 大学 の 全教 員、 全学 生か ら白 い目 で見 られ るの はあ まり にも 明晰 にし て判 明で ある お前 はい った い入 学試 験ま で何 を学 んで きた んだ とい って 学生 証を 剥奪 さ れて しま うこ とは

、必 当然 的明 証の 裡に ある と言 わな けれ ばな らぬ

。こ のよ うな 不合 理没 理性 非科 学的 な本 が憧 れの 京都 大学 の書 架に 堂々 と配 置さ れ てい るな ど、 純情 素朴 な精 神を 拷問 に苛 むが ごと き所 業で ある

。京 都大 学は 西田 なる 破廉 恥学 者を 輩出 した こと を海 より 深く 反省 し、

『善 の研 究』 を学 内 から 全面 的に 追放 する こと を直 ちに 決断 する べき であ る。 私に は西 田を もっ て難 解な どと いう 人の 気が 知れ ない

。西 田は 難解 なの で はな く、 あま りに も簡 明に 過ぎ るの であ る。 読者 はひ たす ら「 西田 は実 は何 も 言っ てい ない ので はな いか

」と いう 不安 と戦 わね ばな らぬ

。学 問な らも う少

し重 みの ある 内容 を持 って もら いた い、 など とい う未 練を きっ ぱり と排 して

、 その 極限 まで 薄っ ぺら い内 容に どこ まで 食い 下が って 行け るか とい う、 そう いう 不毛 な戦 いへ の覚 悟が 西田 を読 むに は要 求さ れる

。そ して 心の 底か らこ いつ のこ とは わか らん と思 い知 らさ れる とき にこ そ、 読者 はよ うや く西 田と 握手 でき るの であ る。 この 冷酷 無情 な無 知の 知が 西田 の真 骨頂 であ り、 読者 はそ こに のみ 西田 の知 的良 心を 認め なけ れば なら ない

。こ のこ とだ けは

、ぜ ひ覚 えて おい てい ただ きた い。 あと はど うで もよ ろし い。 どう でも よろ しい が、 その うえ でど うで もい いこ とを 一つ 申し 上げ ると する なら

、「 統一

」や

「同 一」 や万 物の

「一 体」 感が

『善 の研 究』 の基 調で あっ て、 この グル ーヴ 感が 伝わ って くれ ば、

『善 の研 究』 は読 めた と自 信を 持っ てい いは ずで ある( そし て自 信を 持っ て退 学し てい ただ きた い)

。 この

意識 の統 一力 なる 者は 決し て意 識の 内容 を離 れて 存す るの では な い、 かえ って 意識 内容 はこ の力 に由 って 成立 する もの であ る。 勿論 意識 の 内容 を個 々に 分析 して 考う る時 は、 この 統一 力を 見出 すこ とは でき ぬ。 し かし その 綜合 の上 に厳 然と して 動か すべ から ざる 一事 実と して 現れ るの であ る。 たと えば[ 絵画 の] 画面 に現 れた る一 種の 理想

、音 楽に 現れ たる 一 種の 感情 の如 き者 で、 分析 理解 すべ き者 では なく

、直 覚自 得す べき 者で あ る。( 一九 九頁

、強 調は 引用 者) 喩え

をさ らに 続け るな ら、

『善 の研 究』 は薀 蓄で いっ ぱい の子 守歌 のよ うな もの であ る。 母子 の愛 にも 似て

、そ こに ある のは 火が つい たよ うに 泣き 叫ぶ 知識 欲を 寝か しつ けよ うと する

、( 見よ うに よっ ては) 麗し いひ とつ の旋 律に 他な らな い。 ねん ねん ころ りよ おこ ろり よ~♪

M(゚д゚;)ハッ!

  とこ ろで 子守 歌の 重要 性を 説い てお られ たの は、 確か

……

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