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﹄ の根欠

ドキュメント内 真宗教学研究 第37号(2016) (ページ 131-150)

教学大会発表ヲ普段

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には ヱ入 品水 機械 開作 品々 絞 殺 嫌 名 女 人 及 終 欠 二 糸 綴 不 生

1

門 い 山 夕 刊 ︶

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F ︺と火薬門功徳が述べら

れて いる

︒こ こで は一 一命 者の 浄土 往生 の不

可が世毅によって一不されているが︑これ

に関して二

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三年度に﹁二乗種﹂の問

題を

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一8年度には﹁女人んの問題

を本数学ふ人会に於いて発表した︒︿え

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湾総

の本際交には会いつ一粂稔γ小生いが何紋

遺作 十一 体側 い明

︑は 設か れる のか を間 畿に し︑

世朝棋が立場とした犠識思想からその理腐

を導いてみた︒一方﹁女人﹂の問題では︑

本願文には﹁変成男子﹂で女人の不生が

説かれてはいるが︑はたしてそれだけの

理由?女人の不生を世判明が述べているの

129 

佐 々 木

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わっ た︑ 初綴 仏教

・火 殺仏 教・ 枇暗 殺間 以惣

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つの 制問 点か ら検 討し てみ た

c

これまでの﹁コ乗種しと叶女人L

への

考察 から

︑惜 い判 明は 単に 一級 典で ある 亙一

回亙寿経﹄の註釈を﹁浄土議﹄で試みたの

ではな︿︑自らが研績を積んだ伝統のア

ピダルマ教学や大乗の唯識思想をふまえ︑

その上で自らに成仏滋を確定するため関門

弥陀の浄土への験放をなしていることが

紛らかになってゑた︒すなわた濯げ太

紘一 認に は仏 みや とな った 飲綴 の媛 った

仏に成る滋が一示されているのであるG

Z W

ふし 品緩 いは 山口 議博 士の 援格 以降

︑続 一

報棋の持っていた唯識思想がその背景にあ

ると考えられてきたが︑その一端がこの

﹁二 乗種

﹂と

1女人﹂の問題で裏付けら

れた とい える

さで 大義 門功 徳に はも う一 つ﹁ 抑制 欠﹂

の問題が残っている︒そのため本発表で

は﹁根欠﹂について先の没毅の立場をふ

まえ考察してみたい︒

﹁桜欠﹂の本生は﹁余人﹂と河じく

五⁝ 闘機 市河 川悦

﹂の 本文 いい 説か れて いる

︒こ れは 貌訳 刊紙

⁝畿 浴絞 いで はや や綴 文の 第

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十⁝阪に次めようにある︒叶絞殺得仏︑

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︒ 諸根 欠陥 不問 問足 者︑ 不附 収支 覚︒

︵後

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もろ もろ の警 部雌 衆︑ 我が 名字 を間 関き て︑ 仏を 招待 るに 至る に︑ 諸根 欠陥 して 具足

︑せ ずば

︑正 覚を 取ら ず

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︿ 吋

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由︸この議絞具足の顧と呼

ばれる願文は貌訳以前には兇あたらないc

しか し貌 訳以 降は 織物 訳認 知市 本会 いと サン

スクリット

WN

7本に記されている︒貌訳の

翻訳 年代 は信 仰ハ 際は 昭二 一年 と考 えら れて

おり︑ぞれが倣毅と同時代であることか

ら防 相梢 が貌 訳系 の本 磁文 を︑

i

この悶十

一願を見ていたと受けとっていいと忠わ

れる

では世相帆の﹁桜欠﹂の理解はこの本願 ︒

文か らき てい るの か︒ 後持 続良 品河 が交 場と

130 

した倫明識思惣ではどうだつたのか︒ぞれ

を考えるときには︑そもそも﹁緩欠﹂が

何故浄土の不生とされたのか︑その磯山

宏明らかにすべきであろう︒

これを縫かめるためには︑仏教の伝緩

や︑根欠がどのように見られていたかを整

壊する所から始めるべきと考える︒その

ため原始仏教ぐの根欠のあっかいを︑︑況

平安貴族連の浮土観

研究 発表 の概 館前

︷中世文学における仏教観︑とりわけ

源氏物議を中心とした﹁っくりもの訪

れ三文学における仏教思想を研究︒法校⁝

上人

・判 例柵 鳥取 十一 人に よっ て念 燃の 御教 えが

伝えられる前の仏教とはいかなるもので

あったかむ一物語一とは﹁カタリ﹂であ

り︑ 伝水 であ る︒ 人ム 吋は 本内 悩と どう 向き

合い︑救いを見出していったのかG

そし

てその閉山怒はどのようにつガタリ﹂伝え に律文厳令市中心にとりあげ︑さらにアビ

ダルγの伝絞や大乗仏教︑そして唯識や

派マはどうなのかと︑ぞのような流れで

もって考察していゑたい︒

﹁絞 欠﹂ のみ 小金 は現 代か ら見 れば 開明 ら

かに照時鴻℃ある︒そのうえ浄生という渋

界観にも遥さない︒だからこそ世殺の窓

阪を 開明 らか にし てみ たい

︒ 林

智 光 られ たの か︒ 後い い述 べる が︑

﹁物 一級

﹂と

は仏教における悶縁談であり︑方便とも

いえ る

c中設の日本文学を研究守ること

で当時め人々の仏教観にういて考察して

みた

い︒

研究発表

.文ヤと宗教文学の起り

l

カミ

いと

の対

話︿

︾阿

波の

刷出

−精 察に 呼び かけ る︵ 百人 工践 を小 心に

・叶 秋︑ つ﹂ と﹁ 訴う

・歌 の定 型化

−綴

魂の

勝戦

−像法から末法へ溺れる資族遂

・文化人支海

・怨 暗殺 の絞 り︵ 冥愛 知仙 とい う不 燃淡 な書 物︶

・﹁

灘中

立の

登場

︿加

持続

仲間

に勝

る車

買い

族−

A双山鳩

−源氏物語と仏教;後世を級︑っ1

.ガ伎の物務としての滋氏物語

−法券信仰と作中人物

−後 女成 仏と 明あ の御 方︑ 浮向 珂

・﹁ 世一 の市 中に あら ぬと ころ

﹂円 ん宇 治十 佑に

おけ

る仏

道︶

線建今

協の

ふ八

会一

である﹁浄土という

機凶作銭﹂について日本文学からのアプ

ローチで考察する為︑あえて﹁文学の起

これ りい から 記殺 して いる

⁝番 のポ イン トは 依然 上人

・相 桝樹 高聖 人

がご出世になる備の︑いわば吋真宗の夜

明け﹄ともいうべき平安時代中級1後療

におけゐ一浄土という税制汁観﹂︑﹁成仏

制限 ん﹁ 往生 緩い を掠 き泌 すこ とで ある 内

法議菩薩についての一考察

教学大会発表著書W

今年 から ぬよ おテ

i

マは

﹁仰 や小 とい う佼

制作鮫〜であり︑ニり

γi

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に沿う研究が

発表設には姿議される︒しかし︑表緩いい

ぷし たと わ給 わり 象者 は法 機義 仲慨 につ いて 考

えることとするの

抑も︑真宗大谷派の担︑親驚は﹃愚禿

紗﹄に於いて︑一代仏教を聖道門と浄土

門とに決粉し︑浄土問こそ横起の宗教と

した︒すなわち︑浄土門は他力︑他から

の椴きによって成泣し︑しかも易行道だ

という︒そして︑像力を湾︑える際には︑

知市 水の 餐麟 械が 禁政 にあ ると する

︒そ の剣 来の 繋懸 とは

︑常 国代 案教 であ る吋 仏説 無簸

寿経いが説くところであり︑そのうちの

重要な要素として1浄土﹂の存在を前提

にしているのである︒ならば︑浄土門は

﹁海土﹂という世界を抜きに成立しないc

したがって︑ぬ伊土を拠り処とする教えに

131 

山 ゑき る始 後間

﹁災 京

i

に所

隊側

する

殺ん

︑の

脱税

大関心燃はめ士であり︑均十九以テ!マに拘

わら

︑ザ ヘめ 士に つい て考 よん つづ ける こと

の釜要性は論の無いところとも一号える︒

しかしながら︑鈴我最深の一言説に以下

のようなものがある︒

法滋菩薩は昔の神話ではない︑現在

の信 の事 実明

︑あ る︒ 若し

︐念 の一 松岡 を

綴るれば一筒の神話と財怖の坊もない

ので ある

︒内 悶余 のぬ 伊上 宗は

⁝絞 め⁝ 念

令採れて︑後に機僚の波紋たる放に︑

幼稚 なる 神話 ぶ教 に閣 総ぎ ぬ︒ 法裁 船級 品絞 め務 災的 議燃 はな いの 明︑ ある

︒随

て本願と云ふも︑修行と云ふも︑成

仏と一広ふも︑浄土と云ふも︑救済も

往生も︑単なる理想に過ぎぬのであ

 

これは︑法畿金口薩に関わる代表的論考

一地上の救主﹂における一説であるが︑

平線な主張である︒ただし我キはこの中

で︑︵自余の浄仁宗﹂といった派閥主義

を思わせる辞勾に尽を継体われてはいけな

いの 心し ろ︑

﹁肉 料余 の浄 土宗 い会

﹁自 身い とお い換 える こと によ り︑ 鴻偽 物中 内の 生活 合

反省すべき℃はないどろうかGそのうえ

で︑コ念の儀﹂に対ずる磁波義深の務

開慨を深く理解することに意義を見出すべ

きであると筆者は考えているc

つま

り︑

信を抜きにして考えるのであれば︑寸浄

仁し もた んな る埋 想に とど まり

︑ム 中ふ く意

味のない議論に陥ると筆者も考えるとこ

ろで ある

︒問 機に

︑油 開去 は申 中肉 体的 に娘

︑え るべ 丸 いも の明

︑も

︑ま だ︑ 終然 的に 彩縦 郁怒

れるべきものでもない乙だが︑その別き

を⁝

⁝怖 じる 設に は厳 然と して

﹁存 従ず るい

と抗議わざるを得ないのである︒そして︑

この言説を再応振り返るとき︑浄土につ

いて考察することに先立ち︑その根元に

ある﹁信﹂について考察せざるを得ない

の守 ある

132 

そのため︑信を考えることを第一とし︑

その方法として︑今回の研究において曽

我量深の思索における法蔵菩薩について

考えてみたい︒というのも︑筆者は曽我

の考える︑法蔵菩薩論の根元とその内実

について︑これまで数度に渡り考察した

ところである︒根元については︑﹃観経﹄

における大悲の感得︑および二河盛田の教

説により求めることができると考えてい

る︒ところが︑明治四十五年の七月﹁我

康 永 本 ﹁ 伝 絵

は我なり︑如来は我なり︑されど我は如

来に非ず﹂と︑それまで自己と如来を対

称的に論じ考察の対象にしていた曽我量

深が︑以降は如来を法蔵菩薩に言い替え︑

考えるようになっている︒そこには︑如

来とは何か︑法蔵菩薩とは何か︑その違

いは何なのか︑という問題が残存してい

ると思う︒そして︑なぜ曽我量深は如来

を法蔵菩薩に切り替えたのか︒その拠り

処を本研究に於いて考察したい︒

の絵相に見る覚如の意図

li

琳阿本・高田本との比較よりーーー

覚如

︵一 二七

01二二五こ在世中に制

作さ れた

﹁親 驚伝 絵﹂

︵以 ド﹁ 伝絵

﹂︶ は︑

少なくとも五本が現存しているυ本報告

では︑そのうち覚如自筆の詞書とされる

二本

︑﹁ 善信 聖人 絵﹂

︵琳 阿本

︶・

﹁許 信聖

人親驚伝絵﹂︵高町本了﹁本願寺聖人親驚

伝絵

﹂︵ 康永 本︶ へ注 目す る︒

大 津 絢 子

琳附本・高田本から︑康永二二三四

三年の奥書のある康永本の成すまでに

は約五

O

年もの隔たりがあり︑その問に

覚如 は印 同守 職へ 就任 二一 一一 一

O年二﹁執

持紗

﹄︵

一一

二一

一六

年︶

︑﹃

口伝

紗﹂

︵一

一一

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会一

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︑﹃ 改邪 紗﹄

︵一 二会 二一 七年

︶に おい て︑

真宗の教義的立場︑本願寺を中心とした 信仰形成の主張︑法然

l

親 驚 如 信 の

﹁三代伝持の血脈﹂の表明および︑如信

を媒介とした覚如白身への宗義的伝承を

提示していく︒したがって康永本は︑覚

如のそうした論理構成を踏まえた上でそ

の意義を捉えていく必要があるとするの

が報告者の立場である︒

康︑水本は︑題号や段の構成︑覚如の署

名︑サイズなどから覚如の意図との関連

性が指摘されており︑報告者はこれまで

﹁六 角夢 想﹂

︑﹁ 選択 附属

﹂︑

﹁信 行両 座﹂

﹁廟堂創立﹂の絵相の校異に注目し琳阿

本・高田本との比較から覚如における康

永本の意義を論じてきた︒本報告では︑

新たな視点での絵相比較から︑康永本に

反映された覚如の意図についてさらに検

討し てい きた い︒

対象とする絵相は︑﹁六角夢想﹂!

﹁稲 田興 法﹂

︑﹁ 信行 両座

L

﹁洛 陽遷 化﹂ の四 段で ある

まず︑親鴛が救世菩薩から夢告を受け

る﹁六角夢想﹂は︑﹁救世主口薩の告命を

受けし往の夢︑既に今と符号せり﹂︵﹃真

宗聖 典﹂ 七一 二一 一員

︶と の詞 書の ある

﹁稲 田

ドキュメント内 真宗教学研究 第37号(2016) (ページ 131-150)

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