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新垣 有希子 さん 音楽院留学 留学した都市:ボルツァーノ
留学した学校:Conservatorio Claudio Monteverdi di Bolzano 留学期間:2010年10月〜現在も留学中
滞在方法:学生寮
授業料を除いた1か月の生活費:€1,000 利用した留学サポート団体:公益財団法人 野村財団
◀学校が休みになる日曜日は、
町から30分ほどの距離にある 近くの山までリフレッシュをし に行きます。
私
は学生時代からベルカントオペラを中 心としたレパートリーを歌っていたの で、自然な流れで いつかベルカントの生まれ た国へ留学したい という強い希望を持つよう になりました。イ
タ リ ア 語 で『 オ ペ ラ を 歌 う 』 と は recitare (演じる)という言葉で表現 します。オペラ歌手として上手に歌えるという のはもちろんのこと、音程付きの台詞であるレ チタティーヴォを巧みにこなし、登場人物を演 じるなど、さまざまな要素が必要になってきま す。もちろんイタリア語を使って。たまに踊っ たりもしなければいけません。作
曲家の意図した役や音楽を深く理解す るには、まずその言葉を学び、オペラ の生まれた土地の空気を肌で感じる必要があ り、留学中さまざまな都市を訪れました。ドニ ゼッティやヴェルディなどの大オペラ作曲家の 生家を訪ねたり、彼らが見ていただろう同じ景 色を眺めてみたり……自分がそこにいるという◀古楽楽器奏者の みなさんと練習を したときの1枚。
▲ジャコモ・プッチーニの作曲したオペラ「ジャンニ・
▶寮から見える私 のいちばんお気に 入りの景色です。
◀食料品は、市場や スーパーで調達して います。
◀▲ボルツァーノ市長とカリタス の協力により、東日本大震災の チャリティーコンサートを行い、
€260,000もの募金を福島に送るこ とができました。音楽を通じて日本 人と現地の人々の心が一体となった 感動的な経験ができました。
新垣さんが留学を決めてから 入学するまでのスケジュール
1998年 イタリア留学を決意 イタリア留学の必要性を感じ、大学 の講座でイタリア語を勉強し始めま した。
1999年 語学留学
1年間アルバイトで貯金をし、春休 みにフィレンツェへ語学留学。勉強 して行ったはずなのに初めは何も聞 きとれなくて、非常に苦労しました。
2008年 文化庁在外派遣員とし てローマに留学 長年の夢が叶い、1年間ローマで研 修。あっという間に1年が過ぎてし まいました。やっとイタリアでの生 活に慣れ、新たな人間関係や勉強を 中断して帰国するのは惜しいと思 い、留学を続けるためのコンセル ヴァトーリオ(音楽院)を探し始め ました。
2009年 イタリア文化会館にて 留学説明会
入試のための願書を日本から送るた めに帰国。同年にイタリア政府奨学 金試験政府奨学生に合格することが できました。
2010年 入試
コンセルヴァトーリオの入試に見事 合格。学校の隣に寮があり、光熱費 を含めて€260という破格の値段で イタリアでの留学生活が始まりまし た。学生寮は、まさに勉強するため の環境です。
留
学中は、楽しいことばかりではな く、入試の直前まで課題曲が分か らなかったり、伴奏者がいなかったり、日 本ではあり得ないことがたくさん起こりま した。始めのうちは予期しないハプニング にアタフタしていましたが、1年もすると 開き直る という技を身につけ、「伴奏者 がいないなら、弾き語りします」と言える までになりました。イタリア人からすると、まだまだ甘いらしく「こんな条件では、歌 うのをお断りします」と試験をボイコット するべきだと言われました。
い
ちばん楽しかったことは、イ タリア人の歌手と日夜を共に しながらオペラの舞台を作り上げたこ とです。イタリア語を母国語とする彼 らから自然に出てくる表現の豊かさを 肌で感じ、言葉の遊びや作曲家のユー モアにお腹がよじれるほど笑いまし た。音楽の素晴らしさ、楽しさにとど まらない、このような 面白さ は、留学中のハプニングで大いに笑って泣 いたコミュニケーションの中から得た かけがえのない学びであり、彼らの 特質(北と南でもかなり違いますが)、 文化、歴史背景を学んでこそ得られる
▶音楽院のオペラ 公演で、ロッシー ニ作曲「成り行き 泥棒」のベルニー チェ役を演じたと
▼アルテシェニカ(演技法)の 試験で、「夢遊病の女」の衣装 を着たときの写真です。
加賀 武見 さん デザイン留学 留学した都市:ミラノ、ラベンナ
留学したプログラム:Futurarium Summer Work Shop 留学期間:1995年8月〜1995年9月
滞在方法:ホームステイ、学校の寮 授業料を除いた1か月の生活費:€1,000
◀サローネ国際家具 見本市の中のひとつ
「サローネサテリテ
(Salone Satellite)」 にて。サローネサテリ テは、特に若手デザイ ナーたちが出展する場 です。
私
が「イタリアに住みたい」と考え たきっかけは、デザイン研修旅行 でミラノを訪れ、そのときにイタリア人の 陽気で明るい雰囲気とおいしい料理に心を 奪われたからです。また、美術が好きで美 大に進み、デザインを専攻していた私は、本場イタリアでデザインの現場を見せても らった際に「ここで経験を積みたい!」と 考えるようになりました。
振
り返ってみると、物事を突き詰め て考えてしまう私は「デザインと は何か」という問いに対して、「イタリア で何か新しい発見が見つかるのではない か」という期待と目標を抱いていたのだと 思います。ミ
ラノを選んだ理由は、この場所には「巨匠デ ザイナー」と呼ばれる人たちの事務所があり、そこで修行するために世界中から若いデザイナーが たくさん集まっていたからです。また、修業のあと も、ミラノを拠点に活躍しているデザイナーが多く、
▲▶ミラノの工 房の風景です。
◀ラベンナに いたときの学
▲Futurarium Summer Work Shopの課題 で提出したオブジェ「ボッチョラ」。
加賀さんの略歴
1995年にイタリアへ渡り、アンドレア・ブランヅィ事務所に在籍。のちにミラノ を拠点とし、家具や照明、服飾雑貨を中心にデザインを展開。2000年より各ヨー ロッパ企業のデザインをフリーランス契約のもと発表を続ける。おもな活動と して、フラワーベースブランドのfiorichiariプロデュース、アートディレクター DEBORAH MILANOから2007春夏コレクションの化粧品のパッケージデザイン など。富山プロダクトデザインコンペ富山デザイン賞。ポラダインターナショナル デザインコンペ最優秀賞など、受賞多数。
も
ともと友人が参加し、私はただ見学のつも りで「Futurarium Summer Work Shop」に行っ たのですが、そこにはイタリアをはじめ、アメリカ、ド イツ、オランダなど、世界中からデザインを学ぶ学生が 集まっていました。「自分のデザイン力を試す!」とい う学生たちの熱の入った雰囲気に引っ張られ、とうとう 私も参加せずにはいられなくなりました。ワ
ークショップ期間中でいちばん苦し かったのは、やはり「言葉」でした。とにかく話がわからない、伝えたいことも話せ ないという状況です。あまり外国語を必要とし ない日本での生活に慣れていた私はまったく会 話ができず、大変苦痛でした。
そ
んな中、教官から課題用紙が配られまし た。紙には「新しいIDカード」とだけ書 いてありました。説明などまったくわからない 私は、その出題意図を必死に理解し、制作しま した。私が「新しいIDカード」として提出し たのは、個人の過去と記憶データをダンボール で巻いてつくったオブジェです。作品のタイト ルはイタリア語で「ボッチョラ(つぼみ)」で した。作品の発表会では、イタリア語をカタカ ナで書いた小さな紙を用意して、それを読みま した。そうしたら、その場で大歓迎を受け、と てもうれしく感動しました。そのときに学び、発見したのは、言葉を話すことの大切さです。
理解し合い、わかり合える喜びでした。
イ
タリアに留学して、新しい価値観が身に つき、時間の使い方や味覚が変わりまし た。留学後は巨匠やトップデザイナーのもとで 経験を積み、ミラノで個人事務所を設立しまし た。それらの経歴はNews Weekの表紙でも取 り上げられ、帰国した現在は日本工学院専門学 校でデザイン教育に携わっています。多くの若 い才能に触れ、彼らのお手伝いをしている中で、イタリアで学んだノウハウがとても役に立って
▲日本工学院で、学生たちのお手 伝いをしているところ。
▲海外で暮らす 日本人として NewsWeekの 表紙に掲載され ました。
▲ミラノのデザインスタジオにて。
俵 元希 さん 大学交換留学 留学した都市:ラグーザ、カターニア
留学した学校:Università degli Studi di Catania 留学期間:2009年2月〜2010年1月
滞在方法:アパート
授業料を除いた1か月の生活費:3万5千円
日
本の大学を卒業したあと、高校の教員になることを 考えており、異文化を自分の肌で体験し、それを伝 えられるような教師になりたいと考え、留学を決めました。イタリアを選んだのは、英語圏以外のヨーロッパに行きた いと考えていて、サッカーが盛んなイタリアにしました。
留
学当初はイタリア語がまったくわからず、友だち ができても彼らが何を話しているのか、何に笑っ ているのか理解できないまま同じ場にいることがとても苦 しかったです。しかし、「自ら望んでイタリアにきたんだ」と自分を奮い立たせ、図書館に行って勉強し、がんばって 友だちとコミュニケーションを取り続けました。あのとき に親切にしてくれた友だちには、本当に感謝しています。
周囲とコミュニケーションが取れるようになってからは、
ご飯を食べたり、カフェでゆっくりしながらさまざまな話 をしました。また、イタリア人に「缶蹴り」を教え込み、
毎晩公園を走り回ったこともありました。