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おわりに  ——「家族」と「自己責任」についての若干の考察

第 4 章 「ネットカフェ生活者」の析出に関する生育家族からの考察 53

4.5 おわりに  ——「家族」と「自己責任」についての若干の考察

先行研究は、相対的に低い社会階層的背景にある者が「フリーター」として析出されがちであることを 指摘している*6。妻木進吾は、「フリーター」である当事者が生まれ育った家族の状況に着目し、生育家族 の困難が不利が不利を呼ぶ形で、彼/彼女らの不安定就労層としての析出と滞留を促していることを明ら かにしている。

フリーター層全体のボリュームが拡大していく中で、相対的に重みを失い、ますます見えづらく なっているのは、低階層を出自とするフリーターである。· · · ·これまで記述してきたのは、生育 家族における様々な困難が、そこで生まれ育った若者自身の困難——低学力や低学歴、不安定就 労——へと変換/移転され、不利が不利を呼ぶ形で困難が重層化していくプロセスであった。そ れは、社会的不平等、貧困が世代を超えて再生産されるプロセスを意味する。「フリーター」として の彼/彼女らの現在は、そのような不安定・貧困階層に生まれ育った若者が、労働市場の底辺へと、

選択の余地が非常に狭められた状況で送り出されているという、彼/彼女らが抱える困難の一断面 としてある(妻木, 2005, p.63)。

妻木が指摘するのは、彼/彼女らにとって生育家族が、読み書き能力から学歴まで、そうした社会生活 を円滑に営む諸条件を蓄積する場と成り得ていないということである。逆に蓄積された不利な状況と結び つくかたちで、彼/彼女らは「フリーター」に「なる」。

本稿で行った検討から確認されたのは、まず「ネットカフェ生活者」の多くにおいて、経済的困窮およ び激しい家族間の葛藤がある生育家族の下で育った経験が語られたということである。そして注意すべき はこうした困難が、ある一時点からというよりも、彼/彼女らの幼少期から現在に至るまで連綿と続いて いるという事である。それが意味するところはここまでにおいて示したとおりである。つまり、こうした 種々の困難が彼/彼女らの進学や職業生活へのスムーズな移行に影響を与え、また社会に出た後には生活 上の困難を援助するにはほど遠い家族の状況、家族との関係性が彼/彼女らの現在の生活を「孤立」した ものへと促しているのである。安定的な雇用から排除され、福祉制度からも排除された状況において、家 族の援助を受けられない彼/彼女らは、他の報告が示唆するように、過剰な程に「自立」した生活をせざ る得ない状況に追い込まれている*7

彼/彼女らにとって家族はセーフティネットとは見なされていないし、事実上その様な機能を期待でき るような状況にもない。野宿者問題においてもしばしば耳にする「家族が面倒をみればいいではないか」

という意見は、彼/彼女らにおいては無意味である。

*6例えば耳塚寛明は若者の雇用についての調査研究において、「同じ高卒者の中でも、1990年代末期に、一層多く非典型労働 市場へ参入したり無業者となったのは、相対的に低い社会階層的背景を持った者たちだった」と述べている(耳塚, 2002, p.147)。

*7本稿で取りあげた以外の事例においても多く聞かれたのは、安定的な仕事が見つかるまでは実家とは連絡したくない、帰りた くないという意見であった。長期の失業状態から同居する親との確執が生まれ、暴力の果てに家出をした事例48の男性(20 代後半)は、「ちゃんとした仕事をして、お金を貯めてから実家に帰りたい。それまでは絶対に帰りたくない」と述べている。

また、実家には住んでいるが、調査当時において家にほとんど帰らなくなったという事例34の男性(20代前半)は、「仕事 がなくなったことはまだ家族に話していない。仕事がないと、家族とも話しづらい」と答えている。実家に帰るときも彼は仕 事をしてきたように装いながら家に入るのだという。この様に、家族に依存して生活することを快く思わない人々において は、一方では恐らくは本人を心配して問いかけているだろう家族の言葉が、強迫的な「自立」への圧力としてはたらいている のかもしれない。

むしろ、この様な日本社会において多くの人々に受け入れられている意見に見いだされる家族依存的志 向性こそが、彼/彼女らを過剰に「自立」した生活に追い込んでいるのではないか。日本の社会制度は家 族福祉に多くを依存することを前提に構築されている。生活保護制度においては「家族扶養義務」条項、

教育においては他の先進国に比して圧倒的に高い家庭による学費負担に典型的に見られるような家族に 強く依存した制度が、私たちの社会を特徴づけている。個人に降りかかる様々な困難への対応を家族に対 して過剰に期待する社会において、そうした困難は社会の人々においてもプライベートに解決されるべ き——「自己責任」の問題と見なされがちである*8。だからこそ私たちの社会は様々な生活リスクについ て、「個人の問題」「自己責任」といった問題系へと回収しがちなのである。この様な観念のありようは、

当然「ネットカフェ生活者」自身をも支配している。当事者において家族の困難は単なるプライベートな 事情とみなされ、家族への依存が困難な状況においても自身の生活上の困難は「自己責任」として捉えら れるのである。彼/彼女らの生活を支えるのは、「できるだけ誰にも頼らず」「自分の力で」どうにか生き 抜くという——家族イデオロギーと通底した——自立主義的生活規範なのである。

自立主義的生活規範とは、それを「当然」とする社会だけでなく「ネットカフェ生活者」自身をも取り 巻く根深いイデオロギーである。ここに「当たり前の家族のありよう」(近代家族)を前提に対応しよう とする社会のありようと、家族に援助を求められない困難な立場にある人々との奇妙な交錯を確認できは しないか。本稿で取りあげた様々な生育家族のありようは、私たちの日常経験において決して遠いところ にあるものではない。それにも関わらず、私たちはこれからも「健全な」家族のありようを所与のものと し、「そうではない」家族のありようを視界から脱落させたまま、彼/彼女らについて議論し続けるのだろ うか。それは私たちが自らの生活リスクに対して常に高度な対応を要求されていること——家族福祉に 過剰に依存した既存の社会制度——に対して無関心でいることに他ならない。そして「家族」を媒介に、

社会と当事者がこの規範を相互に確認しあうことで生成される「自己責任」のリアリティもまた、「ネッ トカフェ生活者」を「孤立」へと追い込んでいるのではないか*9

だからこそ、今私たちに求められているのは、目の前にいる他者の抱える困難を即時的に「個人の問題」

「自己責任」と捉えることではなく、「家族が面倒をみればいいではないか」と皮相な見解を示すことでも なく、彼/彼女らとの対話を通して当事者が抱える貧困の中身について理解し、彼/彼女らの生活が様々

*8家族イデオロギーは、「自己責任」と密接に結びつく。山田昌弘は、日本社会が家族に期待する社会的機能の1つとして生活リ スクから家族成員を守る機能を挙げつつ、それが「近代社会において、家族に特権的に期待されているものである」と指摘し ている。そして「この期待を裏返せば『家族以外の人を助ける義務はない』ことを宣言しているだ。身近に生活上困った人が いても、彼(女)が自分の家族でなければ、助けなくても社会的に非難されることはない」と述べている(山田, 2005, p.27)

*9平川茂は、野宿者(「浮浪者」)が置かれている「自虐的かつ自閉的な被差別空間」の構造を、資本主義社会の業績主義・能力 主義イデオロギーの根底に潜む「自業自得」観念から説明している。本稿における議論は、この平川の論考から強い示唆を受 けている。

もちろん、現実には、わがくににおいても、「生得的属性」に基づく差別は厳存している。部落差別しかり、在日朝鮮 人差別しかり、性差別しかり、障害者差別しかり。だが、これらの「生得的属性」は「タテマエの下での潜在化の圧力」

をこうむる。「民主主義」の原理からして、被差別の側からの反差別の声を、人々は完全に無視することはできないから である。

だが、「浮浪者」差別の場合には、人々は、 同じスタートライン”から出発した「競争」の「落伍者」というラベル貼 りを行う。そして、〈底辺労働者〉たちの反差別の声を、「自業自得」として一蹴するのである。タテマエのレベルでも、

差別が 合理化 されてしまう差別、それが「浮浪者」差別なのであり、ここに「浮浪者」と呼ばれる人たちの底知れぬ

「苦境」がある(平川, 1986, p.40)。

「家族イデオロギー」もまた、資本主義社会を駆動するイデオロギーの1つである。「健全な」家族のありようが社会制度に おいても人々の意識においても前提とされているからこそ、「ネットカフェ生活者」のおかれた「苦境」もまた知覚されがた いのではないか。