経済社会的な指標から都市のアメニティを測ろうとする試みは、たとえば「豊かさ指標 (新国民生活指標) 」や生活満足度を問う意識調査など多くあるが、ここで都市のアイデ ンティティと呼んだ意味での<都市のイメージ>と関わらせて捉えてみる必要はないだろ うか。
都市空間を媒介項に文学を読み直そうとする試み[前田、 1982]や、都市空間をテクス
ト論的に解読しようとする試み[吉見・ 1987・ 1992]は、都市はそれを知覚する意識や 身体ないし構造論的無意識との関連で捉えられること、つまり<生きられた空間としての 都市>、 <歴史的記憶を埋め込んだ都市>として考えられなければならないこちを示唆し ている。社会というものがそれ自体空間的な存在であり、また空間が社会性を内包してい るとすれば、経済社会的な指標は、歴史的時間の堆積から構成された都市のアイデンティ ティの裡に再埋め込みされなければならないだろう.抽象化された指標がアメニティの諸 機能をハードな「絵図」として掃きだし、人びとが共有している<都市のイメージ>を解 体することもありうるのだから。
文学的都市論ないし都市記号論の試みは・わが国では機能論的な都市学への疑念が昂じ
‑た70年代半ばに登場したが、アメニティという言葉もそうである。それゆえ、アメニティ が「地域固有財」である[宮本、 122貢]ということがもし根底的に捉えられるならば、
アメニティの構想には、大仰にいえば、都市空間の■ゲニウス・ロキ由enius loci).・を観取 しそこに埋め込まれた可能性をひきだすような、一種の幻想的感性の介入が必要だという ことになろうか。
[3] 「金沢」の原型空間 (1)
さて・ …空間はシニフイアンである■t (ロランリヤルト) 。 「街全体は、ふたつの川と三 つの丘とにまたがってぼんやりと眠っている体であった。 」という、都市・金沢の表情を 言いあらわした有名な成句がある(中野重治『歌のわかれ』 ) 。 「ぼんやりと眠って」い たのは主人公の自意識か街なみなのかはともかく、懐旧的な心持ちが強く進取の気象を欠 くとされる金沢(人)の気質を思わせる。あるいは、地味な色彩の街.明度も低く、.彩度 もない暗く鈍い町並み、銀灰色の葦が眼前に浮かぶ人もいるだろうか。このただ見事な表 現のとおり、すでに市域は拡大し郊外化が進んでいる現在でも、ひとがなお固有に「金 沢」と呼ぶのは、 「ふたつの川」 、浅野川と犀川の外縁を含め両河川に挟まれた旧市域の ことである。たしかに、風景は文化的アイデンティティの確かな指標である[ベルク、 ll 頁] 。 「金沢」が今なお固有のアイデンティティを保持しているものと思われ、新市域の 郊外居住者も隣接市町居住者さえも、この場所との繋がりに因んで「金沢人」を自覚する ほど都市性の磁場をなし続けていることには、この風景が与って空間的な落ち着きを与え ているところにある。
地形としては、並行して流れる両河川のそとに卯辰山麓、寺町台地があり、そして河川
のあいだに発達した段丘が小立野台地となり(その先端に旧金沢城が位置し)段丘下に扇 状地を形成している。これだけのことが、果たして金沢の固有性を共示しているというの も、この両河川に縁別れた空間に、永らく金沢の都市的生活が凝集してきたからlであ
る。
金沢市の人口は、明治の初めに1/2万人(1871)というが(4割が武士階級) 、市制が敷 かれたときには9万4千人(1889)という。 1945年(昭和二十)に20万人、 60年代前半に 30万人、 70年代後半に40万台に達している。この人口の伸びは、合併編入した隣接町村分 を勘案すると極めて綾やかなもので、あたかも中都市としてのあり方を変えないために変 わってきた・といった推移である。中村氏は、 1960年時点を取り上げて、金沢市人口およ そ39.万人のうち75・3%にのぼる22.5万人が、市面積の4.1%にすぎない16kh'の人口集中地 区、すなわち城跡を中心とする半径2km余の狭い空間に集住し(人口密度は1万4千人/
kid) 、集積利益を日常的に享受する都市形態を維持してきた。それが金沢における都市化 の特徴であり・金沢における都市的生活様式の原型であるとされている[中村、 1986a、
119、 1986d、 66] 。
しかしながら、この旧市域が一個の慣性系として自存していたのはそれまでであり、 60 年代半ばからは件裂するような都市のスプロール化に見舞われる。金沢大学文学部社会学 研究室が実施した調査[1983、 7頁]の一節では、 「1955年の人口は277, 283人であ り、そのうち旧市街には221, 841人(人口比で80.0%)が住んでいた。ところが1975年 には、人口395, 263人のうち、ほぼ旧市街地に一致する中央地区には109, 537人(27.8
%)しか常住していない。 」と指摘されている。ちなみに1985年時点では、人口集中地区 人口334, 630人、その面積49.4平方キロ、人口密度6, 773.9人/kh'である。賛言すれ ば、 1973年から1978年の5年間にこの中央地区に戦前からあった住宅が4110戸も減少して いる[二宮編、 453] 。もちろん、それを騰まえればこそ、 「金沢における都市的生活様 式の原型」だと云われるのである。
この「原型」をなすところは、現在の都市景観形成基本計画(1990)のなかで、歴史と 文化を象徴するシンボル景観区域、歴史的街並み景観区域、川筋景観区域とされていると ころと重なることからも、金沢のアイデンティティをなす伝統文化が有形、無形に濃密に 息づき都市生活に浸潤しているものと想像されるのであるこそれゆえ、新来者や短時日訪 れる観光客にとっても、いわゆる観光名所(兼六園、金沢城吐、武家屋敷跡、東の廓、伝 統工芸、加賀料理等々)は、いくつかの<点>としてではなく、 「有形無形の面的な広が
りをもつ生活空間としての都市の魅力、金沢という街のあり方」 [中村、 1986d、 64]と して感得されるのだいう。それは、この地形がもつ一種の<額縁効果>に、多くを依存し た錯覚だというべきである。
(
金沢における都市的生活様式の原型」が大きく穀れてしまっている今、観光目的に供さ れた空間がアメニティのシンボルを偏っていると云うべきではないか。因子生態学的分析 は、 「ライフサイクル因子」をもって都市圏の中心部と縁辺部の両者に、無職の高齢者が 多いことを示している[伊藤、 36] 。インナーシティ・プロブレムの深化は、 「生活空間
としての都市の魅力」を失わせている。ただ<額縁効果>が、景観保存された観光名所の 周囲に・「伝統文化の街」 「武家文化の街」を幻影させているだけである。 「いずれにせ よ、イメージを売り込み、観光客を受け入れる側も、それに惹かれて訪れる観光客も、こ れらの言葉(および映像)が喚起し、またこれらの言葉(および映像)に収束するイメー ジで『金沢市』をとらえようとし、とらえたつもりで安心する傾向がある」 [二宮編、
356] 。自己暗示はもっと深刻である。兼六園の松ヶ枝の枯れ方に目を向けないのは、大 勢連れだって歩き足許だけしか見ない「集合的に場所を消費する」観光客(∫.Urry)だけ ではない。
[4] 「金沢」の原型時間 (2)
吉田健一に、有名な『金沢』という膜臆感の作品がある。テクスト自体がそうであるば かりでなく、街なかも黄昏時に狐狸のたぐいにつままれたかといった経験として描かれて いる。裏通りの七曲、九曲するはそみちや袋小路をもつ街なみのゆえなのか、忍者寺と称 される妙立寺の「からくり」がしばしば金沢の街の換境につかわれるが、そのような金沢 をそのままエッシャー的なシンタックスで描出している。主人公は、市街を眺望できる犀 川縁の崖上に寄寓するところを得たうえで、当て所なく街なかをさ迷うのだが、そこが味 噌である。この作品が桃源的な安息感にみちているのは、主人公の(直接的に生きられ た)経験とそれが生じる場所とが、堅苦しい言い方をすれば、現象学的経験の真実(認知 地図)と、眺望によって得られる全体(都市テクスト)とが意図せず一致をみるからであ
る。
そして、両河川の<額縁効果>は、時間までそこに閉じ込めている。同じく晩年の作品 に『時間』という随想的試論に、たとえば、 ●'我々は寧ろ時間を求めてものを見るのでり、
その中にものを見る・・、という一節がある。 『金沢』はまさに、心を虚しくして想い出さず
とも、過去から延びた時間という青ざめた思想から逃れることができる唯一の場所として 描かれている。金沢では時間はゆったりと流れた。それは、近代化を超える濃密さで都市 生活が営まれていたからである。そこには、さまざまなリズムをもって循環する社会的・
〜
文化的な時間系列が重層していた。一一生きられる重層的な時間と結びついた特定の、あるい は限定された空間こそ、古来<場所>と呼ばれてきた'‑ (中村雄二郎) 。 『金沢』はまた、
街をふらつき歩く身体をもとに、いわば述簿的統合的な、体性感覚的空間を描き出してい る。伝統が息づくというのは、体性感覚的に捉えられるものである。身体の運動感覚、計 量不可能な味覚・臭覚・触覚がよみとるのが、 ( 「なれずし(馴鮮・熟飴) 」の「なれ」
が指し示す)伝統という場所である。
しかし、そのような祝祭的な時間を組み込んだ「伝統の息づくまち」はやがて見る影も ない。人口40万を超える時点で、それが臨界点だったのか、連鎖的な郊外への分裂によっ て場所は崩壊し、祝祭性を失い機能的・実用的な時間だけを残した都心が剥き出しになっ ている。それゆえ、時間をかけ自然の汚れで落ち着いた色に変わったものから、汚れを取
り去って出来立ての色に戻すことがアメニティに叶うと考える( 「特に遺跡群は近代都市 に調和した形で可能な限り公園化する」 [内藤、 1976、 56頁]という) 、旧市街再開発が 進行している。
それゆえ、 「金沢の魅力は城下町のよさを失っていないところにあるのではない。城下 町のよさを央わないような都市の発展のあり方にある。 」 [中村、 1986a、 119]とは、
願望を込めた言い方である。今や、この都市を縦に貫く直線を知らない、緩やかな塊状の 集中であった金沢に大きな変化が押し寄せている。なんとなれば、 「城下町特有の道路型 態では、道路率、公園、緑地率等都市の機能指標において、もはや現代都市としての発展 をはばむ徴候が見え始めるにいたった」 [内藤、 1976、 54貢]からである。都市における 視覚的なものの優位が拡大するほど、冗長度の低い、無機質な空間が展がることになる。
河川と丘陵、起伏の多い坂、そして裏通りの七曲がつくりだすうねりがもたらす情緒、
「金沢」の空間が育んできた体性感覚的な感性も同時に失われよう。鳥取的・視覚的な空 間統合は、質的空間を線遠近法的に上下、左右、前後を等質化し量的空間とする。都市空 間のあるいは都市の諸物の背後に嚢のように織り込まれた歴史性や方位性の情報、すなわ ち歴史的・社会的・文化的コンテクストは、視覚優位という疎外された身体にはノイズで
しかなく、それらは限りなく消去され隠蔽され、表層的には無機質な抽象空間としてしか 顕現しない。