廿 二
へ○○OOOOOOOOOOO △ △ △ △ △回講話會
︹繁殖せぎる軍劉胞動物み就て︑佐伯亮齋君o女
四月廿日午後六時内科講堂ゐ開く︒講話部委員一卵之實よ軍細胞動物よして繁⁝殖せざるもの喬0
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長木村放授はある事情に依う出席せられざウし∨巴論及せられだウo然れ共一旦精虫巴結合すれ
一
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以て小川致授代うて開會Y報せ少るo へば分裂して胎見どなる︑余のもの之此結合前を○
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OOOOOO △ △ △ ム ヴ肩脚骨縮出に就て︑東良卒君o此題ゐ就て演せ〜指・をものなり巴説くζ巴精密〇
二
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らる\筈なうしも︑氏が営て開かれたる外科學︹川端清隆君登壇︑前佐伯氏の説に亡全然賛同Y
會に臨まれたる際の道中︑曾場の景況︑演題等﹈表する能之ざるものなりε諭Y起し抑も卵巴精 ⌒
き戚ありき〇 一巴同盟して一大株式會耐Y作うたウεすれば既 W を細に話され︑我等叉實に此會よ列席し居る如一虫ピの結合前後を匿別する例の甲商店あ0て乙 ︹
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左 側 盲腸くルニヤa就て︑北川健三君o盲腸の ふ甲商店は全く借滅して株式曾肚n新生せしも
固定せらる︑乙ピは他の腸管より強きY以て比 のなリピの事Y大に駁し日く︑甲は滅せしああ
ら宇して経過中に唯其形を攣せしもの渉0ピ辮 げられたるに拍手の内遺憾の念も混eたりきo 難 攻 撃された冨o 先よ米澤啓君n第三高等學校巴の蓮動競技に關
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多葦未窪警用むし其例を量﹄は當云無慮二頁流石に廣き講堂﹄錐の§なか
デ覧暴喋上診豊は治饗覧せらる︑こ⁝の人憂う議する所あ︷・麦ξ記墨
學的光線雁川よ就て︑太田精一君︹︒X光線 し大に訴ふる所あうて賛同を需め閉會後も一部〜
地 裁剣所に於ける事件のあるものよ鷹用せしも うへぐO の に
して前馨師診漸書に依れげ三の創ロ他に⁝㊧在東§§窓會記事
擦 過
○○○○ △△△△ へ 述べ嵩眞敷枚を覧よ供せタれたウ へ々εして相接・ア︑日く日本外科學會︑曰く東京 へ を証明するを得た0ε︑終ゐ雁用の際の注意Y⌒に遊び墨堤に彿∵払o恰も學曾の開かる︑もの績 ソ
ふ・然るに照圭垂せしに塵ハ+余個⁝鷺陽春差毛響はや笑ひム士女匡野
傷ありて既に十入個の弾九を摘出せう巴云の
小川敷授o吾入の切望し居う一堅學會︑曰く皮慮病梅毒學會︑曰く傳染病研究 兄弟の説︵承前︸︑
し此題ユ就ての先生n既に時間の迫り居ればピ 所同窓會ε︑爲に吾十全曾員にして上京するも 〜
、
曾 祀母︑組母︑母︑姉妹の一胎乃至双品詔胎 の少なら走且つ特別會員野田忠廣氏嚢きあ官命 せし英國ユあうし例Y示され後降壇︑閉會を告 Y帯びて厭州硯察の所先日無慈蹄朝せられたる ︵會報︶ 尭
︵曾報︶ 山6
により同氏を歓迎せんがさめ四月四日を期して 入場︑次で職員入場︑各席定まるや木村本校長
第 九回同窓曾総會を祠田三河屋a開けウ︑曾す
る老蹄朝者野田忠廣氏Yはeめ︑上京者木村孝
藏︑東艮卒︑藤井伊之吉︑米村吉太郎及某の五
氏 の外︑在※同窓會員を加へて二十二名にいた れう〇一同爲眞師工藤ユ趣きて撮影し畢ウて六 時開會す︑當番幹事小粟君開會の辞を遠ぺ野田︑
木
ジき麟ガ誘緬竃騨臓
村両氏の謝辞談話あ了卓Y挾で互に往事を回兀辞姦績言れな︒讃後懇の爲め二株
心得代理は徐々ピして登壇せタれ恭しく奉賀のの
竹樹を病理講堂ピ内科講堂︾嬰る室敷地
〜 に植義皇室の無限に警ゆかんを暫三
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ブ両陛下︑白季殿下︑白王李妃殿下︑皇孫
〜
親王殿下の萬歳を三唱して退散したクoひ
●雑誌部編輯曾 は四月二十三日午後第一時よ 〔ハ
部元次郎君は目下東京ユ砺ら書︑園崎純次郎君
.
召ズ繧竃顯︶
右式は五月三日午前入時本校臨賠講堂に於て施
行
せられπうo始式の號鈴ピ共に生徒一同先づ
▲入曾 通常會員
▲ 退會 通常・曾員 内 田 龍 三
天 野 一
一
静麿
川加淺杉長野關
源 四郎 村
秀 一
濱 義 雄 森 久 治 井 俊
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小 林 三 郎 三
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●松原三郎氏の通信
︵通信︶
(三月廿四日曇︶
(前署︶去る三月二十一日暮季皇露祭をトして祠
田富士見櫻に同窓會を開き今度洋行せらる︑田
中正鐸氏送別の宴Y張り申候會する者田中正鐸
{ 小林廣璽嘉め殆ん三+名に及裟り幹事 里捗君開曾の辞を述べ祝電姦璽次で田中 〜
氏謝意を陳∵じ且既往履歴に遡り牲塒の學術⁝界の
状態︑學藝進歩の嚢︑幼年賠代の性行︑修學 ブ
の
… 馨・立志の嚢・量の禽筆陳e其既
往の
忍 耐
芸苦響現在の旺肇る雄志ε黍
〔
の
確 乎 たる抱負εハ大よ會者の胸裡を刺衝し其
〜
理想を鼓舞し72り︑一同゜杯Y翠げて田中氏巴吾
同窓曾の蔑を叉互詣汲み相き和氣洋々
〜〃
歓 樂
Y
霊して散會せう︑賠ユ駿墓の聖鐘響く乙
電九粘o當日宇都宮の渡孚貞君遠く來會し足尾
銅山の田代保二君祀電を寄せタるo田中正鐸氏 さ
︵通信︶ 六二
老三月二十三日丹波九に搭巳て横濱を出帆し遠 辻岡律君ハ大學皮眉梅毒科介補を止めて専ら吉
く西行の途に上らる︑氏別に臨んで曰く余若し 原病院へ勤務中o︵後蓉︶
生 命 だ
にあタ笛年合頃覇して蓑諸君ピ一︒横山整の通信
寛へん皇氣ま日叩る︒ ︵一千九百九十年十月二十日倫敦登︶
轟響醤忠覧の警を曇て來畠月櫻 松原三饗の手を警奢に到達せしもの
此次の総會は主事及諸敷授諸氏の上京を機竃し〜 左に掲ぐるは在倫敦同氏よ6の通信aして 花 燗 慢 の候を期して開く可さ積に御座候o 也︑紙面の都合により特に只其一部分を草今度新ふ十全會あ入會Y申込まれだる在京會員 載せる而巳○
は左の二名あ御座候o O倫敦に於ける蝿術
小 栗 熊 次 郎 君三+二牢卒業︶皮膚梅主母科撰科一小生︷⑳醤學院に入り先驚きさるハ蟷術ゐし 山田孝太郎君︵二十四年卒業︶皮膚栴毒科介補Wてそは彼の爲眞は物の眞Y爲すのみにて此の嶋
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第二馨院焼失に付金子眼科介補︑吉田高田外科衝こそハ物の眞を像ち造ウ得るものなればあり ね
介補︽共ユ第一馨院に出勤勉學中あ∧濱ロ君は 該術13蝋質を以て凡ての眞形を造6而して硬化 河 本 氏 宅
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て眼科研究の傍ら病理激室にて病理するの法あして當地に於ける斯術の元岨ハ一千 學 研 究 中渉り 入百〇二年旨邑撃目①臼ま撃己巴て瑞西の一婦人
がアイルランドに渡らんピて航海中難般し△ 出たる若者なるべし如何ピなれば此両國の聲術
る儘當地に上陸し其妙術Y偉へたるもの巴聞け の歴史が印度や埃及や希職や羅馬の古代より系
¢o該術亡一汎胞會に竜美術巴して實に重賓な
る如きも特に我讐界ユ於て之重要欠く可からぎ
るものあピ彼の博士や學士が多年刻苦して書け
る解剖圏書は最早此一婦人の技術に塵倒せられ
さう即ち営地の欝學部に之該術を利用し實に鮮
明に身休組織病轡等を遺憾なく現はしあるY以
て叉一人の解剖圃書を携わ居るものを見ざるに
至 れう特よ近來之技術者は堅士より出だるピ見
ね驚く可き緻密なるものを運び來宣甲候我讐界
も該術を修めたる一士Y希望の至ゐ不堪候
○ 英國乃⁝馨術ε殴閂界斑猫逸の践閏界巴の關係 英國の醤術は佛國の馨街に⁝封し夫婦的ろ關係あ
るものゐして燭逸の馨術は誰し此両國より産れ
︵通桔︶ 嘱するものにして而して實に現醤術の大要も
…
亦此 両
國の覧の功に撃ぎもの多ければな
う見よ彼徽菌や種痘の襲見と云ひ防腐消毒の曇㌫ 芸ひ舞科的多くの大誉云ひ皆両國豊
…
の禮輩然り量之よ︾9る猫 逸の聲術は§學の進㌘於て最早両親よ墨
{ に曇窪しる董蓋嵩蓑かる→凡そ
現 代
養て斯學の奥妙の豊究め逢欲するの
士n燭逸の讐術を硯ざる可から壱されピ英國の
馨界を窺ふも亦得る庭あるぺし何となれば英國
〜
の馨界は其馨術を實地に雁用する点に於て未だ 其 親
たるの品性を失はざれnなり
諸 君 驚く勿れ英國の聲學修業は五ヶ年よして其 奎
︵通信︶
授 業 料は一千六百圓仕互額なう︵大學ゐ於て︶然
らは英人は如何なる利猛Y希圓して斯る長年限⁝
芭叉世界に比類渉きE額の授業料ピY投e此聲
術を脩めんピするか之吾人の疑点ならずや而し
て此疑点を解かんξ欲せば英國の讐界Y見るの
必 要
起る
英國の書術は進歩の鉾先稽銃ならざるが如しピ
難も之Y一國に雁用し妙理の間に國民の團樂定 種族の繁榮εを療衛するの点に於て之蓋し世界
に 比類あらざるぺしそは地圃Y披き歴史を繰る
ならば自ら明ならん見よ彼の掌大の英國よδ近
々二三百年の中にして南牝亜米利加の種族を分
ち亜非利加填太刺利亜に諮其他世界各國ユ優勢
汐る彼等種族細胞を播き散タし債ほ濁り英人の
体格が累代進歩の道Y取宣來クし宅云ムとを注
姦 意をるに於ては再ひ贅言を要せざるぺし 英國の馨界は其術を善艮ユ雁用し得るn國民が 讐 術 の徳Y誠ゐ明かに知るを以て也即ち自國の 丈明が此馨術により導き來0叉進み行かんピす
るを明に知り得れバ也されば英人の間ゐは皇・者
ピして術者巴して祠聖の尊威を完ふし得るもの ゾ
は彼の讐士の右に出るものみさ事は英語の初學
に於て學びたると正に相違なかるぺし英聲ハ彼
の
侯 伯子男を貫く勢あるのみならず其俸酬も莫 大なる句のをりろは小生の出席し居る學校の玄
關の掲示巴開業瞥の歌呪によりて馨知るY得べ
… し掲示當蓼於て量曇士讃す
ヂ
チナーア︵卒業ほやくの意味︶年俸七千圓 シシナーア︵梢熟錬したる意味︶年俸ニカ倒其