開府、儀同三司、特進、試鴻臚卿、粛国公食邑三千戸賜紫贈司空諡大鑑正号大広智大興善寺三蔵沙 門不空奉詔訳
(p.67b)その時、金剛手菩薩(1)は毘盧遮那仏の大会座におり、(p.67c)座から立ち上が り合掌し、恭敬して[毘盧遮那]仏に申した。
「世尊よ、私は将来[現れる]末世の雑染世界における悪業[を積む](2)衆生のために、
無量寿仏の陀羅尼を説き、[身口意の]三密門を実践し、念仏三昧を証[得]し(3)、浄土に
[往]生し、菩薩の正位(4)に入らせよう。[ただし]わずかな福徳しかなくて、智慧と方便
[の双運]が無ければ(5)、かの仏国土[極楽世界]に[往]生できない(6)。それゆえこの教 法に依って正念をもって修行するならば、上品上生[の状態]で極楽世界に確実に[往]生 し(7)、[菩薩十地の]初地を獲得する(8)。
阿弥陀仏儀軌書における往生観の受容と統合
─『無量寿如来観行供養儀軌』を事例として─
中御門 敬 教
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カマラシーラによる経量部説批判とダルマキールティ─認識因果論の吟味─、高橋弘次先生 古稀記念論集『浄土学仏教学論叢』/(2004b)ジュニャーナガルバの自己認識批判とシャー キャブッディ─一切法無自性と聖教─、印度學佛教學研究52-2 /(2008a)後期中観思想(離 一多性論)の形成とシャーキャブッディ(上)、佛教大学文学部論集第92号/(2008b)同(下)、
印度學佛教學研究56-2
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というのは、(卓越性の生起した原子の積集である)青などは原子の形象であるが、円さな どではない。[円さなど形色の]原子は成立しないからである。青などの形象も知識である。
そうであれば、[青などの卓越性を有した顕色の]原子[の積集]が対象(yul)となろうとい うことが意図されている(PVTŚ P258a7-b1, D209a7-b1)。】
[続いてはPVⅢ255以下多数が同時に把握されないなら、部分と全体も同時に把握されない ことになり、垂肉などと別に牛が把握されることになり矛盾するとの論議の展開]
略号
AAA: Haribhadra, Abhsamayālam4kārālokā Prajñāpāramitāvyākhyā ed. by U Wogihara, 1973
BASK: Śubhagupta, Bāhyārthasiddhikārikā
BhK:Kamalaśīla, Minor Buddhist Text I. and Ⅱ., ed. by G.Tucci, 1979.
MAK, MAV, MAP:Śāntaraks4ita, Madhyamakālam4kāra-kārikā MA-vr4tti, Kamalaś īla, MA-pañjikeā d. by M.Ichigo, 1985
Māl: Kamalaśīla, Madhyamakāloka, P No.5287, D No.3887 PV :Dharmakīrti, Pramān4avārttika
PVP: Devendrabuddhi, Pramān4avārttikapañjikā, P No5717, D No.4217 PVTŚ:Śākyabuddhi, Pramān4avārttikaīkā, P No.5718, D No.4220 SŚPT: Kamalaśīla, Āyasaptaśatikāprajñāpāramitāt4īkā, P No.5215 TS :Śāntaraks4ita, Tattvasam4graha
TSP: Kamalaśīla, Tattvasam4graha-pañjikā 参照論文
一郷正道(1997)カマラシーラ著『中観の光』和訳研究(6)、京都産業大学論集第27巻第4号人 文科学系列第4号
岩田 孝(1981) Śākyamati の知識論、フィロソフィア第69号/(1982)Devendrabuddhiの知 識論、佛教學第13号
沖 和 史(1973) Dharmakīrtiの《citrādvaita》 理 論、 印 度 学 佛 教 学 研 究、21-2 /(1975)
《citrādvaita》理論の展開─Prajñākaraguptaの論述─、東海仏教第20輯/(1982)無相唯識と 有相唯識、講座・大乗仏教8─唯識思想
戸崎宏正(1979)『仏教認識論の研究』上巻
菱田邦男(1993)『インド自然哲学の研究』山喜房佛書林刊 御牧克己(1988) 経量部、岩波講座東洋思想第八巻、インド仏教Ⅰ
森山清徹(1985) Kamalaśīla の唯識思想と修道論─瑜伽行中観派の唯識説の観察と超越─、
佛教大学『人文学論集』第19号/(1987)カマラシーラの無自性論証とダルマキールティの因 果論、佛教大学研究紀要通巻71号/(1993)後期中観派と形象真実論・形象虚偽論─
Śākyabuddhiとの論争と修道論─、渡邊文麿博士追悼論集『原始仏教と大乗仏教』/(2004a)
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のもの【共働因(lhan cig byed pa, sahakārin)(PVTŚ P258a7)】から卓越性(phul byun ba,
atiśaya)131)の生起した多(なる原子)が知の因である。その場合、矛盾が何かあろうか
( PVⅢ223abc)。(PVP P230a8)何故に全体性が知られようか132)。
[反論]
何と相似(ʼdra ba, sārūpya)するのか。
[答論]
感官などののように133)[同時に知の因である](PVⅢ223d)。例えば、自体と感官と意など が個々に区別される(多なる)結果すなわち知を生起(PVP P230b1)することはない。後に 相互に集合したもの[諸原因]からそれ(結果である知)が生起する如し。そうであっても、
[卓越性の生起した]諸原子[の積集]が[知の]因である点で矛盾はない。
[反論]
先に超感覚的であったもの(atīndriya)134)(原子)は後にも対象と(PVP P230b2)ならない。
[答論]
それは、[卓越性の生起した原子の積集という]因の存在以外に別の[全体性という]所取
(grāhya)というものは何もない(PVⅢ224ab)。そうであれば、因であるその対象(卓越性 の生起した原子の積集)に関して知がある形象をもつとき(PVⅢ224c)、ある対象の自性に 対応したその知にとってその色(卓越性の生起した原子の積集)が(PVP P230b3)所取であ るといわれる( PVⅢ224d)。というのは、[知を]形象を与え得る(rnam par ʼjog par nus pa)135)因自体が対象である(PVP P230a5-b3, D197a2-6)〉。
【形象を与え得る因自体(卓越性を有した諸原子の積集)が対象である(PVP P230b3, D197a6)ということに関して、
[反論]
原子の形象を有した知自体が認識ではないのか、あるいはどうして原子が自己の形象を与え 得るのか。
[答論]
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131)skye phul byan4 bar gyur pa na / man4 po bloʼi rgyu ni ʼgyur ba la / deʼi tshe ʼgal ba dag ni ci shig yob /(PVP P230a7, D197a3-4)
132)個々の原子には能力がないから知覚されないが、原子の積集には卓越性が生起し(感官)知の 因となる。したがって、知の因として全体性を要請する必要はない
133)dban4 po la sogs bshin /(PVP P230a8, D197a4)
134)dban4 po las bdas pa(PVP D197a5), dban4 po las ʼdas(P230b1)
135)rnam par ʼjog pa を形象を与えることと読んだが、確定(vyavasthāna)の意の可能性もある。
しかしPVⅢ(204) は対象の二条件(知の因であることと知に形象を与えること)を述べるものと 解釈される故、形象を与えることと読んだ。cf. 戸崎(1979)p.38, 320, 御牧(1988)p.237
P258a8 ran4 gi rnam pa ʼjog par nus par ʼgyur ,D209a7 ran4 gi rnam par ʼjog par nus par ʼgyur
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となろう(PVⅢ222b)。そうなろう(PVP P230a1)というのは知(buddhi)に存在している
[無分割な]多様な(citra)形象の形象の如くなろうということである。まず分けられる部分 からなる全体性の自性を把握する知も無分割となろう。多様性を自性とする(PVP P230a2)
[全体性の]顕現が完全なものになろう【部分色を妨げる(覆う)としても全体性の自性は 完全である(avikala)から(PVTŚ P258a1)】という意味であるなら、[多様性が単一なものに]
変化する(ʼgyur ba)のでもない。したがって、それ(全体性)は単一ではない。
[反論]
それぞれの部分の自性を別々に把握することが述べられないのか。
[答論](PVP P230a3)
もし、そうであれば、その場合、諸の部分が把握されるなら、例えば部分の自性を有した知 が顕現するその如くに、全体性(avayavin)の自性も別々に(tha dad par)自性によって把握 されよう。というのは分割される(tha dad can, vivekin)(PVⅢ222c)とは色などの諸の部分 の自性を分けることによって知が区別して捨て去る127)なら(bor na)という意味である。
無分割(tha dad med can, avivekin)(PVⅢ222d)とは[分割される部分とは]別の[無分割 な]全体性の自性は見られない(PVⅢ222cd)[ということである]。[全体性の自性は]部分
(PVP P230a5)の自性と別である。
[見られないものであれば必ず存在しない(遍充)]
[全体性の自性は部分とは別に]この(見られない)故に。(論理的根拠)
それ(全体性の自性は)は存在しない。(結論)
[以上の推論は]同一性の無知覚(svabhāvānupalabdhi)[因に基ずくものであると]いわれ る128)。(PVP P229b3-230a5)〉
[反論]
〈他の者【ウディヨータカラ(gsal byed, Uddyotakara)など (PVTŚ P258a1)】が超感覚的な
(dban4 po las ʼdas pa, atīndriya)個々の原子を区別することは見道(darśanamārga)において ではない、同様に積集する(bsags pa, sam4cita)(PVP P230a6)としても、それ(原子)ら自 体である(無部分単一)故、全体性(avayavin)の自性が無であるなら、何らのものも見え ないという129)。
[答論]
このことに関しても個々の原子を区別し得(PVP P230a7)なくとも、個々それぞれに【集 合した状態にない個々には能力がない(PVTŚ P258a2)】【集合しているなら能力が生起す る。諸原子は刹那滅であるから130)。(PVTŚ P258a4)】相互に近接などという縁から別々
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127)cf PVP P223a2-3
128)cf. PVP P223a2-3 注(29)
129)cf TS561 130)cf TSP ad TS583
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形象は多様で知覚を自性とするものは多様に顕現する〕(PVP229b2-3)〉云々ということに 関して、多様(citra)に顕現する心は知覚(anubhava)を自性とし知を自体としていて述べら れた通りに(P257b3)(一部分を覆い得ない)単一なあり方のものであるが、多様に顕現する 外界は[単一なあり方のもの]ではないという意味である。
〈それ故に識別(rnam par phye ba)し得る[外界の]多様な(citra)ものは単一な(eka)自性 のものではないという能証124)は[外界という]特殊性を具えている125)。そうであれば、
異類(vipaks4a)に属する(多様で単一な)ものはない故、不定(anaikāntika)ではないという ことが意図されている。知(buddhi)は多様な(PVP P229b5)形象を把握するままに分析
(rnam par ʼbyed pa)されない[単一である]けれども【以上は異類法(vaidharmyavat)で ある(PVTŚ P257b5)】孔雀などはその多様性として【識別を具えて(PVTŚ 257b6)】把握さ れる。その際、青などは個々に分割【識別(PVTŚ P257b6)】して把握されるからである。
それ故に、外界は[分割し得る]多様な自性を有するが、知の[自性]は[分割し得る多様 性を有するの]ではない。その(外界の)顕現が多様であるなら、相互に分割(tha dad pa)
が把握されるからである。
[反論]126)
外界の布と孔雀などそれに関しても青などそれぞれ妨げる(覆う)なら(PVP P229b7)妨げ られ(覆われ)ないで区別して把握される他のもの(部分)も、諸の部分色であるが、全体
(avayavin)[色](有分色)でないなら、何故、多様となろうか[別々の部分に過ぎないこ とになる]。それ故、[外界の]布と孔雀などの全体性は[多様であり]単一な自性のもので ある【このことによって以下の通り、もし部分の自性に依存して識別し得る多様性は云々と いう場合、分かり切ったことをさらに証明することになるか、あるいは、もし[諸部分
(多)が]全体性の自性(単一性)に依存している(多が一である)その場合[多様性という]
能証が[外界の分割し得るという]特殊性を具えていることは成立しない[故に、不定であ る]PVTŚ P257b7-8】
[答論]
もし、その(知の)ように布などが単一な自性のものである[と学説論者がいう(PVTŚ P257b8)]なら、その時、布などの色が[全体性として]単一であるなら(PVⅢ222a)、[そ う]認めるなら、その[知の]ように[布などの色が]無分割(tha dad med pa, avivekin)
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124)cf. PVP P222b2-3 ad PVⅢ201本稿本文24), P225a3-4 ad PVⅢ208 本稿本文36)の部分参照 125)この主張を推論式で表せば、
分割し得る多様性であれば、必ず単一な自性ではない。 (遍充)
孔雀における青などは分割し得る多様性である。(論理的根拠)
孔雀における青などは単一な自性ではない。(結論)
126)以下はPVTŚ P257b6 gshan gyi yin no(他者の[見解]である)と示される故[反論]として 示す。