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はじめにソ連の崩壊と冷戦の終結から15年、東アジアは歴史の岐路にさしかかっている。東南ア ジア諸国連合(ASEAN)とその域外諸対話国は、地域内の紛争処理と信頼醸成を担う制度的 なメカニズムの構築と維持に向けて、すでに一歩を踏み出している。ある著名な地域安全 保障のアナリストが言うには、東南アジア諸国が「平和的な相互交流の確かなパターン」
を発達させ、「共有利益」を追い求め、やがては長続きする地域的安全保障共同体へと至る
「地域アイデンティティー」を模索することが、この進化の理想的な帰結である(1)。しかし、
地域内で大国間競争が復活する場合には、これらのメカニズムはそれに耐えきれない恐れ も十分にある。安全保障をめぐる国際政治とアジアの関係がいまだ不明瞭なときにあって、
日中間の緊張が深まり、中ロ間の戦略的な結束が回復し、そして米国を中心とする同盟と 連合のネットワークが強まっている。「東アジア共同体」のヴィジョンは、もっともらしく 聞こえはしても、いまだもってつかみどころがない。
オーストラリアの政策立案者らは、伝統的な同盟に依存する立場と、東アジアの相互依 存の拡大を支持する立場の間を行き来しながら、この複雑な地域安全保障環境と向き合っ てきた。1980年代後半と
90
年代前半のホークおよびキーティング両労働党政権は、包摂の 政治を採用することで、アジア太平洋の共同体建設には欠かせないと思われたアジア太平 洋経済協力会議(APEC)やASEAN地域フォーラム(ARF)の枠組みづくりなど、重要な制 度化の指標を打ち立てるのに寄与した。ハワード政権は、任期(96年春から)の大部分を通 じて、米国との同盟の「蘇生」に優先権を与えた。その結果、ハワードとその側近たちは、オーストラリアを媚びる「保安官代理」(もとはハワード自身の言葉―訳者注)そのものだ と罵る地域内の批判者たちの攻撃にさらされた。しかし、最近のハワード政権は地域の安 全保障に対する見方が以前よりも洗練されてきた。例えばハワード政権は、2005年
12
月に クアラルンプールにて開催された第1回の東アジア・サミットに参加を認められる代わり に、東南アジア友好協力条約(TAC)に署名した。またハワード政権は、中華人民共和国が、地域と世界における主導権をめぐってワシントンの将来的なライバルになるとみている米 国の政策とは、ますます距離を置きつつある。オーストラリアは他の東アジア諸国と同様、
東アジアのみならず、世界全体に対してもいかに向き合っていくべきなのかについて、重 要な分岐点に立たされている。
本稿では、オーストラリアがいかにしてこの難問を解決していくのかが検討される。ハ ワード政権とそれに続く諸政権は、東アジア共同体建設の目標と進化にかかわっていくに あたっては、「リスク外交(diplomacy of risk)」を強いられると、ここでは論じられる。東ア ジア内で貿易、外交、および戦略の面で巧妙な政策を追求することによって純粋に地域的 なアイデンティティーを保つのと同時に、米国にとって信頼できる安全保障上のパートナ ーであり続けるには、オーストラリアは絶妙な均衡を保つ必要がある。米国がアジアの共 同体建設プロセスに対して支持と関与とをいまだに確約していない時期とあって、この均 衡はいっそう複雑になっている。
以下では、この政策上の難問が、主な3つの局面に沿って検討される。まず初めに取り上 げられるのは、アジアの安全保障をめぐる政治と、進行中の東アジア共同体の建設プロセ スに対して、ハワード政権のとっているアプローチがいかに生み出され、いかに調節され てきたのかである。次いで、それらのプロセスのなかでより重要な役割を果そうとしてい るオーストラリアが、具体的にどのような障壁に突き当たっているのかを簡単にみていく。
続いては、今後のオーストラリアがどのような政策の選択肢のなかから、地域共同体を建 設していくことと、伝統的な域外の友好国や同盟国との安全保障上の関係を維持していく こととの間に、熟慮の末に均衡を見出すことができるのかが検討される。オーストラリア の政策選択が賢明であれば、東アジア内での影響力を拡大しつつ、地域内のリスクに満ち た「均衡模索」外交に成功を収められるであろう。
2
ハワードの「学習プロセス」発足して数週間、ハワード政権は東シナ海における重大な地域危機に直面した。台湾の 李登輝総統に分離主義の傾向を見出し、それを憂慮した中国が、1996年3月初旬、台湾の港 町、基隆と高雄からそれぞれわずか
25マイルと 35
マイルしか離れていない地点で、ミサイ ル実験を実施したのである。1996年3月の総統選挙で、台湾の有権者たちが分離主義を公言
する李登輝に投票しないよう仕向けるのが、北京の狙いであった。米国は危機のエスカレ ーションを中国に思いとどまらせ、また台湾の中国による武力併合を防ぐための台湾関係 法上の義務に則り、台湾近辺の公海に2隻の航空母艦を派遣した(2)。このとき、アジア太平洋諸国の大半が中国の行動を公然と批判するのを控えたのに対し、
米国の軍事的な対応に確固とした強い支持を与えたオーストラリアは例外であった。イア ン・マクラクラン国防相が公式に台湾を援護する米国に支持を表明した一方、オーストラ リア外交通商省は駐オーストラリア中国大使を呼び出し、地域内の安全保障を不必要に危 殆に陥れたとの抗議を伝えた(3)。この一件は中豪間の長期的な経済関係や政治・安全保障関 係には影響を与えなかったものの、伝統的な「偉大でかつ強力な」米国という同盟国に対 するオーストラリア新政権の忠誠がはっきりと示されたのは確かである。米国の軍事介入 をオーストラリアが支持するという構図は、後のコソヴォ、アフガニスタン、そしてイラ クの国際危機でも再現され、そこではオーストラリアも戦闘ないしは支援の面で米国主導 の「有志連合」に加わった。オーストラリアが
1999年後半に東ティモール国際軍
(INTER-FET)
を主導した際、当初オーストラリア側が期待した「地に足の着いた」米軍の支持、す なわち米国の地上軍の派遣こそは実現しなかったものの、米国の情報面での貢献と、作戦 に異議を差し挟まないようワシントンがインドネシア政府に圧力をかけたことが、作戦の 成功を決定づけたとみなされた。2003年5
月、テキサス州クロフォードの牧場にジョン・ハ ワードを招待したジョージ・W・ブッシュ米大統領は、オーストラリア首相を「鉄の男」と呼び、米豪同盟を「かつてなく強固」と評した(4)。
オーストラリア外交の専門家の多くには、この愛の宴はハワードの入念な戦略の到達点 として映じた。前政権がオーストラリアの地理的な位置にとらわれて近隣文化に過度に擦 り寄ったと認識していたハワード政権は、軌道修正を画策していたというわけである。ジ ョン・ハワードとそのアドバイザーたちの見方に従えば、ポール・キーティングは、オー ストラリア戦後史の大半が「一世代にわたってオーストラリア人たちを英国びいきと無神 経に陥らせた果てしない後退の時代」であり、急速に変化しグローバル化している世界の なかで、オーストラリアの位置をめぐる「地球物理学」を無視していたと規定することに よって、避けられたはずの「アジアか欧州か」式の見方をアジアに向けたのである。キー ティングは、オーストラリアの「アジアと太平洋の国家としての運命」(5)を受け止めるよう 国民に迫った。アジア内でオーストラリアの地域的なアイデンティティーに重大な不信感 が抱かれ、またマレーシアのマハティール首相との間では個人的に深刻な対立が生じてい たにもかかわらず、キーティングはそう説いたのである。マハティール首相は、アジアの 指導者の多くが抱いていた考えを代弁したつもりで、オーストラリアを地理的には「アジ アの」国ではありながら、実際には「アジアのなか」にはない国と表現した(6)。
首相に就任したハワードはまず、偉大で強力な友好国との伝統的な安全保障上の結びつ きを再評価するとともに、オーストラリアが歴史と地理との間で「択一」を迫られている というキーティングの主張を拒絶することによって、均衡を失していたように思われたキ ーティングの観点と政策の修正に手をつけた。例えば
1996年の米豪閣僚協議では、ハワー
ドはANZUS
(オーストラリア、ニュージーランド、米国)同盟を支えている共通の価値と、それを永続させている地政学的な論理の双方を再確認するための包括的な「シドニー宣言」
の策定を要求した。1999年末に東ティモールで危機が表面化した際には、ハワードは、キ ーティングと退任前のスハルト大統領との間で締結された「オーストラリア・インドネシ ア安全保障維持協定(AMD)」を終了させたインドネシアの決定を嘲笑い、同協定が両国関 係全体からみれば重要性が低く、それはポール・キーティング個人とジャカルタの接近が 残した時代遅れの遺産に過ぎないと言い放った(7)。ハワードは、英国の君主をオーストラリ ア連邦の公式の元首に戴く現行制度について、その撤廃を求める国内の共和主義的な運動 に対しても、公然と拒否する姿勢を打ち出した。権力の座に就いて
10
年、ハワードは米豪 間(AUSMIN)をモデルとして、英豪間でも両国の外相と国防相による毎年の会議(AUK-MIN)
を開催するという外相の提案に快く応じた(8)。とはいえ、ハワードの外交政策が、対アジア関係を米国や英国の古い友人との関係に徹 底的に従属させていたように描くのは、決して当を得ていない。1996年3月の台湾危機によ
って中豪関係に生じたひびが間もなく修復されてからは、ハワードは中国と経済的および 戦略的なかかわり合いをもつことに対して、前任者に劣らず意欲的な姿勢を打ち出した。
この関係改善が高じて、ついには2003年10月の胡錦濤国家主席のキャンベラ訪問に至った。
このアジアの指導者はオーストラリア議会の合同会議の前で演説を行なったが、奇しくも そのわずか2日前には、同じ舞台で同じような演説をブッシュ大統領が行なっていた。ハワ ードはまた、いくつかのASEAN諸国(シンガポールおよびタイ)との間で
2
国間自由貿易協 定の締結を推進し、日本との間でも、防衛および安全保障の面でより有意義な結束を生み 出そうと熱心に取り組んだ。しかし、オーストラリアが、同国を非西洋的な環境に置かれた西洋的な国家とみなして きた地域のなかで、安全保障の参加者として受け入れられるまでには、なおも紆余曲折を 経なければならなかった。ハワードが東ティモール危機の直後に、オーストラリアを米国 の「保安官代理」と形容したことの反響は、オーストラリアの地域的な影響力を大いに傷 つけた(9)。オーストラリア政治の深刻な分裂要因であるワン・ネイション党(One Nation
Party)
と、その指導者ポーリーン・ハンソンの一時的ながらも注目を集めた台頭もまた、同様の効果を招いた。たとえ現政府が公式に容認していないにしても、かつての「白豪」政 策はまだ健在であるという近隣のアジア諸国の先入観が、この出来事によって強まらざる をえなかった。2001年のオーストラリア議会選挙の直前に起きたタンパ号事件(Tampa
Children Overboard)
によって、同国の制限的な難民および移民政策が脚光を浴びたときには、普段は水面すれすれで燻っているオーストラリアとアジアの関係が、いかに沸騰しやすい かが改めてみせつけられた。西洋との結びつき、より具体的には米国との戦略的な提携が 絡むと、オーストラリアの地域アイデンティティーはあまりにも簡単にもつれてしまうよ うである。
オーストラリアの対米関係と、信頼できる地域の一員としての立場との均衡をいかに図 るかというハワード政権の「学習プロセス」において、後代の歴史家たちは、いわゆる対 テロ世界戦争(GWOT)を決定的な分水嶺として印すかもしれない。その理由はいくつかあ る。
第1にハワードは、イラク戦争に対して、形ばかりではあれ、高度に象徴的な軍事貢献を 行なえば、米国との間で念願の自由貿易協定(FTA)を結べると踏んでいた。この対米自由 貿易協定は、今度は個々の
ASEAN諸国
(シンガポールおよびタイ)や、オーストラリアの経 済的な繁栄にとってより重要性の高い北東アジア諸国(中国および日本)とも同様の2
国間 協定を求める際に、交渉の梃子として利用できる。そして、米国のパワーと、米国のアジ アにおける戦略的な利益に追随的に映るオーストラリアに対する反感から、両国をアジア の将来的な経済発展から排除したいと考えるアジアの排他的な勢力を、このような協定の 交渉によってかわすことができる。自由貿易協定アプローチの結果、ハワードは最終的に は域内の悪口をはねのけるとともに、オーストラリアを地域の「メンバー」として認めて もらうための圧力を生み出すことができた。最近マイケル・リチャードソンが評したとこ ろによれば、「……オーストラリアと東南アジアの良好な関係はそれ自体重要で望ましい目的なのではあろ うが、アジアの他の部分との間で生産的な結びつきを築くうえで、不可欠な前提条件ではない。
ASEANはオーストラリアにとって、かつて考えられていたようなアジアへの関門ではない。中
国との貿易および投資関係の拡充は、もっと最近のインドとの関係拡大とともに、この事実を はっきりと示していて、東南アジア諸国は、友人や支援者を、あたかもしつこい嘆願者である かのように追い払うのではなく、自ら進んで求めていかなければならないことを思い出させら れたであろう」(10)。テロ対策や海洋の安全保障などの分野において、オーストラリアと近隣諸国、とりわけ インドネシアとの協力が拡大していることが、ハワードの洗練の度を増している地域関与 戦略の第2の側面である。2002年10月にバリで
88人の犠牲者を出した爆発事件で逮捕され、
裁かれたイスラム過激派組織ジュマ・イスラミヤ(JI)のメンバー数名は、オーストラリア 連邦警察とインドネシア国家警察(POLRI)の間で情報とロジスティックスの面で緊密な協 力が行なわれたおかげで特定された。この協力関係は、オーストラリアを標的にしたその 後の2つのテロ事件(ひとつは2004年9月にジャカルタで起きたオーストラリア大使館爆破事件)
によってさらに拡張された。ハワードが2002年
2月にジャカルタを訪れた際には「テロ対策
に関する了解覚書」が調印され、また、バリ事件の直後には「捜査および情報に関する共 同チーム」が編制され、さらに「越境犯罪調整センター」が設立された。なお、その運用 のために、4年間で 2000万オーストラリア・ドルのテロ対策支援プログラムが組まれている。
さらに、オーストラリアとインドネシアは、2004年
2
月にバリで「テロ対策閣僚会議」を共 催するとともに、「ジャカルタ法執行協力センター(JCLEC)」を立ち上げたが、オーストラ リアはその発展と運営のために3680万オーストラリア・ドルを拠出した。そこでは域内の 専門家たちに対して、「テロリストの追跡および逮捕、法医学、犯罪現場捜査、金融捜査、脅威評価、大事件の際の安全確保支援(security support)および被害管理(consequence manage-
ment)
、刑事起訴、そしてテロ対策立法起草技術」(11)等の主要なテロ対策技術が訓練される。東ティモールの一件からこれほど短時日のうちにオーストラリアとインドネシアの間で安 全保障分野の協力が強化されたという事実は、両国がともに新たな看過し難い、9・
11
以前 では、キャンベラであっても、ジャカルタであっても予期しえなかったような規模の脅威 の克服に対して、強固でかつ機能追求型の関心を共有していることを映し出している。オーストラリアは主として
2
国間で、それもテロ対策と海洋安全保障の分野を中心にASEANとの安全保障関係を全般的に高めているが、インドネシアとの 2
国間安全保障協力の深まりもこの一般的な傾向の一環である。最近オーストラリアが、JIメンバーがミンダナ オ島南部で訓練キャンプ網を拡大しているとの懸念から、フィリピンとの海洋監視訓練プ ログラムを改良したのも、この傾向を反映している(12)。2004年
6
月には、5ヵ国防衛協定(FPDA)の加盟諸国―シンガポール、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、
そして英国―が、マラッカ海峡の安全保障を促進するため、情報交換と訓練を加速させ ると宣言した。ただし、マレーシアとインドネシア(常にFPDAに疑いの目を向けてきた国)
が、外国の海軍要員による領域主権侵害の可能性に対していかに敏感であるかを考えると、
この新たな構想がどれほどの効果を上げるかはまだ不明である。両国が米軍太平洋司令部
(PACOM)の提案した「地域海洋安全保障構想」を拒否し、代わりにマレーシア、インドネ シアおよびシンガポールの海軍で海峡巡視を調整する地域中心の巡視体制(Operation Malindo)
を選択したのも、この敏感さからである(13)。同じ理由で、両国はオーストラリアが
2004年
末に宣言した「海洋安全保障水域」にも反対を表明したが(14)、それは海岸から1000カイリ の範囲内で同国に向かう船舶に対して、積荷その他の航行情報の申告を要求するという内 容であった。オーストラリアがASEANから真の域内安全保障アクターとして受け入れられ、信頼されるには、オーストラリアの政策立案者たちが自国の戦略的要請を、域内の根強い 主権に対する敏感さや、オーストラリアが米国の世界戦略に組み込まれることへの不安と 均衡させていくことが必要不可欠なのである。
ハワード政権の学習プロセスは、全体としては実質的な政策配当を生み出したようであ る。ANZUS条約を掘り崩しかねないとして長らく反対されてきた東南アジア友好協力条約 への加入に同意した代わりに、オーストラリアは2005年
12
月にクアラルンプールで開催さ れた第1回の東アジア・サミットへの参加を認められた。将来にわたるサミットへの参加がANZUS上の義務に何ら影響しないという趣旨の「了解」を ASEAN側に書かせたうえでの出
席さえ、オーストラリアは許されたのである(15)。中国の温家宝首相も、2006年3月にオース トラリアを訪問する直前に、アジアとANZUSの共存に支持を表明するとともに、「米国と 同盟を結んでいる国であっても中国の友好国にはなりうるし、オーストラリアはまさにそ のような国のひとつである」(16)と語った。これは、1996年の台湾海峡危機の直後にオース トラリアに向けられた言葉とは正反対である。そのときは、オーストラリアと日本が一括 りにされたうえで、両国は中国を封じ込める米国の戦略のなかでそれぞれ「南」と「北」の鉤爪に当たるとされた(17)。もっとも、今回の温首相も、オーストラリア訪問の
1
ヵ月前に シドニーで初めて開かれた「日米豪戦略対話」(TSD: Trilateral Strategic Dialogue)によって封じ 込め政策の調整が図られるのであれば、中国はそれを黙過しないとの警告を発している(18)。3
「共同体構築者」としてのオーストラリア―課題と難問の数々東アジア共同体(EAC)とそのなかでオーストラリアが一定の役割を果すことに批判的な 人々は、その概念自体に致命的な欠陥が含まれていると考えている。彼らが言うには、「共 同体」というのは、高まりつつある中国の地域的な優越に順応するためにASEANと韓国が 仕立て上げた見せかけにすぎない―したがって、それは中国と、ますます周辺的な地位 に追いやられる日本との間に深刻な亀裂を生み、オーストラリアと米国は「台頭する中国」
を抑え込むために日本に味方せざるをえなくなる(19)。あるいは反対に、将来
EAC
内で中国 が優位を占めることになれば、オーストラリアは外交的にも地政学的にも純粋に北京に仕 える地位に立たされる。あるオーストラリア人専門家が憂慮したように、「もし中国が東ア ジアの覇権国となるようなことがあれば、……われわれは北京の反応を考慮せずには外交 政策上の決定が下せなくなる」(20)。このような事態は必然的に米豪間の同盟関係を複雑化し、日本には今以上に地域から孤立せざるをえないことを示し、東南アジア諸国からは、中国 のいわゆる長期的な域内覇権の大望に対抗する連合の相手としてオーストラリアとインド とを当てにしながら、中国との均衡を模索する、あるいは中国を「ヘッジ」するという能 力を奪ってしまう。しかも、オーストラリアが抱く地域的多国間主義の政策立案を難しく する多国間構想がもうひとつある。オーストラリアは日米豪戦略対話の一員として、米国 と日本とともに中国を封じ込める態勢にかかわるという認識を持ってはならないというこ とである。また、オーストラリアとインドネシアの間で断続的に高まる緊張も、多国間の 安全保障環境に悪影響を及ぼし、オーストラリアの地域的安全保障政策を複雑化する恐れ がある。
クアラルンプールで催された第
1回の東アジア・サミット
(EAS)では、これらの課題に いかに向き合うのかが明らかにならなかった。将来のEAS会合が、ASEANの年次サミット と同時期に、しかも東南アジア諸国内のみで開催されるという要求を通すことで、サミッ トはASEANの外交官たちに乗っ取られてしまった。中国と日本は準備会合を通じて論争に 明け暮れ、ついには(中国が望んだ)「排除」アプローチと(日本が支持した)「包摂」方式を めぐる1日限りのコンクラーベに至った。より流動的で多角的な構成は、中国によるEASの「接収」を助長すると認識していたASEANは、日本の包摂論を支持した。中国は最終的に は折れたが、今度はあまりに多くの国々(ロシアと米国をも含む)を追加的に含める提案を 出したため、EASはもともと
ARF
やAPECとの差が小さかったのに、そのわずかな違いさえ をも失う危機に陥れられた。中国側としては、東南アジアにおける競争者なき主導権をも はや得る見込みがない多国間構想ならば、捨て去ってしまったほうがよいと結論づけたの かもしれない(21)。EASを支配しようとしたASEAN
諸国の努力に対しては、EASがAPECに 代わるアジアの「第1の」地域機関になることはないとハワードが断言した。いかなる地域 制度も、米国の出席なくしてはそのような役割を果しえないとハワードは主張したのであ る(22)。しかしながら、EASが何も決められずに終わったことは、オーストラリアにとって決し て最良の結果ではなかった。ハワードの
APEC
に対する長期にわたる支持は、以下の2つの 要因に帰せられる。第1に、1999年にオークランドで開かれたAPEC
首脳会議で、米国からINTERFETに対する無条件の支持を得られたこと
(そのことによって、地域内のいかなる多国 間制度においても米国の参加が欠かせないというハワードの確信はいっそう強められた)、そして 第2に、APECが地域貿易と国際貿易に関する「開かれた地域主義」を是認していることで ある。この原則によって、アジア市場を自由化するための必須条件としてオーストラリア が進めている2国間自由貿易協定が、黙認されることになるからである。もっとも、アジア 通貨危機後にAPECの影響力が低下したこと、そして入れ替わって排他的なASEAN
プラス3 が強まったことによって、オーストラリアは自国の貿易の大半が行なわれている地域から 孤立しかねない立場に置かれてしまった。また、ブッシュ政権に見捨てられて舵取りを失 い、現状ではつまずいた多国間主義の一例にすぎない制度に対するハワードの地経学的な(geo-economic)傾倒が露呈したことにより、オーストラリアの「リスク外交」が大写しにさ
れた(23)。外相の入れ知恵を受け入れたハワードは方針転換を図り、加盟国の制限と議題設 定の観点からアイデンティティー危機に陥っていたASEANプラス3への参加を求めた。東 アジア・サミットの初回会合が、ひしめき合う諸々のヴィジョンと特権のために内破して 以来、オーストラリアは外交政策の米国寄りの要素と均衡を図るうえで、他のよりダイナ ミックな地域メカニズムを模索していたのである。
オーストラリアの均衡模索戦略に沿う枠組みとして、他に
2
つの候補があるが、それはARF
と、始まって間もない日米豪戦略対話(TSD)である。地域内の信頼醸成と政治経済面 の調整に関して相当な力をもつようになるという当初の楽観論とは裏腹に、ARF(1993年設 立)の実績は良く言って中途半端である。ASEAN内の自由貿易をめぐる政治と域外対話国 の貿易方針を整合させる装置としては、ARFはいくつかの出来事(地域を襲った金融危機)と、それへの対応がより狭い地域に密着して行なわれたことにより、明らかに脇に追いや られてしまった。ARFはその重量感(構成国は
24ヵ国)
ゆえに、不活発と無意味のイメージ が広まってしまった。米国務長官コンドリーザ・ライスと、日本、インド、そして中国の 各外相は、他の懸案を優先して2005年 8
月のARF
閣僚会議にそろって欠席したくらいであ る(24)。しかしオーストラリアは、ARFの推進力を一新するために、最近の行動を評価して いる。具体的には、ARFでの審議が見込まれる安全保障や防衛関連の政策問題の調整にあ たってASEAN事務局を支援する目的で2004
年6月に「ARFユニット」が創設されたこと、あるいは、アジア太平洋地域内の国防軍間の透明性を高める目的で
2004
年11
月に北京で「ARF安全保障政策会議」が開催されたことなどが挙げられる(25)。しかし、いずれも持続的 な推進力を
ARF
に植えつけるほどまでには、域内の政策エリートたちの関心を引くに至ら なかった。TSD
が最近になって閣僚級会議に格上げされたのは、地域内問題をより広い世界の安全 保障をめぐる政治と繋ぎ合わせたいという米国とその同盟国、すなわちオーストラリアと 日本の希望を反映している。TSD主導の下、大量破壊兵器の拡散、エネルギー安全保障、国 際支援計画、そしてテロ対策に関する情報の共有は拡大される。APECとARFを再活性化す る構想も提案された。2006年3月にシドニーで開かれた TSDの第1
回閣僚級会議に出席した 国々が、両会議の停滞を認めざるをえなかったからである(26)。一部の専門家は、この構想は 中国の軍事力に対する準封じ込め的な「ヘッジ」であり、北京に近寄り過ぎないように東 南アジアに対して発せられた警告であると解釈しているが、TSDコミュニケは、はっきりと「中国の地域への建設的な関与を歓迎するとともに、ASEANや韓国等の他の国々との協力を 拡大する価値に同意した」のである(27)。
ANZUS
が1951
年9月の創設時に特定の脅威を想定していなかったのと同様、TSDも中国 の軍事力やその他の域内の安全保障上の脅威に対する明確な対応として開始されたのでは ない。むしろそれは、急速な変化こそが規範とされる時代にあって、共通の民主的な価値 と自由貿易を促進するための「開放型の連合」として形成されたのである(28)。しかし、会議 が開かれたのは、中国の戦略的な意図や能力に対する米国の懸念を強く打ち出した最新の 国家安全保障戦略をジョージ・W
・ブッシュ大統領が発表した直後であった。オーストラリアのアレクサンダー・ダウナー外相は「……われわれが東アジアにNATO〔北大西洋条約 機構〕を複製したような組織を欲していないのは明らかなはずである。われわれはここでイ ンフォーマルな対話について話し合っているにすぎない」(29)と主張して、TSDの反中国性を 否定した。しかし、多くの中国のアナリストたちは少しも納得しなかった。戦略対話が擬 装された「準NATO」ではないにしても、それにかなり近い代物ではあるというのである(30)。
オーストラリアが以前に増して域内の多国間構想に組み込まれるようになった最大の理 由は、2004年12月
26日の大津波に際して、オーストラリアがインドネシアに対して財政お
よびロジスティックスの面で大規模な援助を行なって以来、インドネシアが南の隣人に対 して肯定的な見方をとり始めたからである。インドネシアのスシロ・バンバン・ユドヨノ 大統領が権力の座についたことも、東ティモールでINTERFETが設置されて以来こじれてい たオーストラリアとインドネシアの関係を正常な状態に戻すきっかけとなった。2005年の4 月初め、ユドヨノ大統領がインドネシアの指導者として初めてのオーストラリア訪問を果 した際、両国間の「包括的パートナーシップに関する共同宣言」が調印された。大統領は オーストラリアとインドネシアの関係強化を讃えると同時に、オーストラリアをクアラル ンプールでの第1回の東アジア・サミットから排除しようと画策していたマレーシアを批判 した。ユドヨノは、共同宣言をインドネシア・オーストラリア関係の緊密化の「ランドマ ーク」であると称するとともに、東アジアでのさらなる多国間協力には「オーストラリア が含まれなければならない」(31)と主張した。しかし、それから
1年も経たないうちに、この両国間の親善の気運は潰えてしまった。母
国を捨て、難民の地位を求めてクリスマス島にたどり着いたパプア人42名に対して、オー
ストラリアが暫定的な保護ビザを発給する決定を下したのがその原因であった。ジャカル タでは、この決定は自国民の非合法活動を取り締まるインドネシアの主権的特権の根幹に 対する一撃であり、少なくとも間接的にパプアの反政府運動を支援する行為であると解釈 された。「東ティモールの再現」の様相を呈しつつ、インドネシアは駐オーストラリア大使 を召還し、憤慨したユドヨノは両国関係の全面的な見直しを求めた。大統領はパプア人た ちに庇護を与えたオーストラリアの決定を「不適切で非現実的」と評するとともに、「イン ドネシアとオーストラリアの関係は難しい時期に入りつつある」(32)と宣言した。この一件が オーストラリアの地域内外交に対して何を示唆しているのかは、本稿執筆の時点ではまだ 定かではないが、インドネシアの支持がなければ、オーストラリアがアジアの多国間フォ ーラムで有意義な役割を確立するのがはるかに難しくなるということだけは明らかである。オーストラリアが、議論の余地がある人権保障の立場をとったために惹き起こされた今回 の危機は、コストが便益をはるかに凌ぐ結末を迎えるかもしれない。このような状況下で は、ハワード政権の「学習プロセス」も、アジア太平洋地域に関しては明らかに十分な成 果を上げていないという批判が出やすくなる。
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結論―オーストラリアの今後の政策インドネシアとの最新の紛争は、オーストラリアの地域内「リスク外交」に潜む危険性を
明らかにしている。ミドル・パワーであり、かつ「善良な国際市民」であると自任するオー ストラリアは、通常の西洋諸国の実行に倣い、国益を追求しつつも国際的な規範や法的な先 例を遵守している。ところが、アジアの多国間主義のほうは、常にこの方針に沿っているわ けではない。例えば「ASEANの流儀」で常に強調されるのは、体面の保持と、大概は西洋の 支配する制度のなかで形成され支持される国際的な法規範に対する加盟諸国の主権的大権の 優越である。中国はと言えば、日本が国際連合安全保障理事会で常任理事国の地位を獲得す るのを阻んだり、東アジアと東南アジアを通じて米国のパワーを削ぎ、その地域内の同盟諸 国を孤立させる目的で自らの「新安全保障概念」を押しつけたり、制度的な枠組みのなかで いつも現実主義的な政策を追求する。オーストラリアにとっては手の施しようがないような 歴史と文化にかかわる積年の諸問題のために、アジアの制度的協力は停滞を続けている。
このような制約の下で、オーストラリアが地域的な安全保障上の利益と同盟政治との間で 均衡を保つには、いかなる政策を追求しなければならないのであろうか。東アジアの戦略環 境のなかで、オーストラリアはいかにして戦略的および経済的な安全保障を確保しうるので あろうか。
第1に、最も重要なことであるが、オーストラリアは中国に対する封じ込め戦略を支持し ているとも、それに加担しているとも見られてはならないし、日中対立のような域内紛争で 一方に味方しているかのようにも見られてはならない。そうしなければ、米国という同盟国 と、ますます重要性を増してきた中国という貿易相手との間で、公平な政策方針を貫くとい うただでさえ困難な要求が、ますます難しくなる。「企業家的指導力」を発揮するという古典 的なミドル・パワー戦略を追求するにあたっては、オーストラリアはARFやTSDのような適 当なフォーラムのなかで米国と中国の双方と向き合うことで、両者間の対立を和解に導いて いかなくてはならない。そのようなフォーラムのなかで、中国が軍事費の増大に対してもっ ともな批判を真正面から受けずに済むように中国を助けるのも、そのひとつの例であろう。
中国を域内の軍備制限対話に参加させるという提案を示せば、オーストラリアは中国が「体 面を失う」リスクを最小化させることに一役買うことができる。過去数年間にブッシュ政権 の先制攻撃戦略が強化されたため、著しく弱体化してしまったアジア太平洋の信頼醸成プロ セスも、そのような交渉によって息を吹き返せるかもしれない。
この政策指針の敷衍、あるいはそのヴァリエーションとは、アジア太平洋の包括的な安全 保障の発達を助長するような「秩序構築」プロセスを促進し、支持することであろう。今オ ーストラリアは、地域内の大半の国々と毎年、2国間の政治・安全保障対話を開いている。オ ーストラリアの外相は、これらの対話が「ASEAN地域フォーラム(ARF)によって促され、
域内安全保障の発展に関する多国間の対話を補完する」(33)と断言する。しかし、さらなる2 国間協議や多国間協議への関与を通じた「秩序構築」については、さらなる研究が求められ よう。そのような議論があれば、汎アジア安全保障共同体を建設する意図を表明した最近の
ASEANの宣言などに対しても
(34)、オーストラリアはより主体的な対応をとれる。旧来の米国 の太平洋同盟ネットワークを支えたもともとの根拠が歴史に退いた今(もはやソ連ブロック も、繁栄し民主化しているアジア太平洋を圧倒する統一された国際共産主義の脅威も存在しない)、オーストラリアは米国、日本その他の域内友好国や同盟国とともに、この同盟ネットワーク を有効な地域的多国間制度に再編していかなければならない。この非対決型のアプローチで あれば、多国間外交に積極的な最近の中国は受け入れるであろう。インドも、積極的で歓迎 された参加者として、このプロセスに取り込まれなければならない(35)。
これらのアプローチがオーストラリアの外交政策のなかで優先権を与えられるとすれば、
米国の同盟関係と日米豪戦略対話は有益な安定装置としての役割を果たしうる。しかし、ブ ッシュ政権の高官たちの鼻柱の強い物言い、それに中国の友人でありながら、米国に対する 同盟上の忠誠をいかに保つかをも慎重に見極めなければならないというオーストラリアにと っては不可欠でかつもっともな必要性を考えると、これらの構想の短期的な見通しは不透明 である。それでもさいころは投げられなくてはならない―域内諸大国の対話者、そして将 来的な東アジア共同体構築への参加を希望する者というオーストラリアの2面的な役割は、自 らの生存ばかりか地域の安定と発展にとっても重大である。この2面性の調整に成功すれば、
オーストラリアはアジアの「なか」にもアジアの「部分」にもなり損なった場合よりも、は るかに米国にとって重要な同盟国になるであろう。
(1) Amitav Acharya, Constructing a Security Community in Southeast Asia, London: Routledge, 2001, p. 37.
(2) 台湾海峡危機の全体像については、Robert Ross, “The 1995-96 Taiwan Strait Confrontation: Coercion, Credibility, and the Use of Force,” International Security , Vol. 25, No. 2(2000), pp. 87―123 を参照。
(3) Gary Klintworth, “Crisis Management: China, Taiwan and the United States the 1995-1996 Crisis and its Aftermath,” Parliamentary Library Research Paper 14, Canberra, Commonwealth of Australia, 1997(http://
www.aph.gov.au/LIBRARY/pubs/rp/1996-97/97rp14.htm#).
(4) “President Bush, P.M Howard Discuss Operation Iraqi Freedom,” May 3, 2003(http://www.whitehouse.gov/
news/releases/2003/05/20030503-1.html).
(5) この主題に関するポール・キーティングの演説“Australia and Asia: Knowing Who We Are” につい ては、以下の論文で詳細に検討されている。Darwall Rupert, “John Howard’s Australia,” Policy Review, No. 132(August-September 2005)(http://www.findarticles.com/p/articles/mi_qa3647/is_200508/ai_n 14901564).
(6) “Australia closing itself out of Asia, says Mahathir,” Sydney Morning Herald, November 24, 2002.
(7) Henry S. Albinski, “Issues in Australian Foreign Policy: July-December 1999,” The Australian Journal of Politics and History, Vol. 46, No. 2(July 2000), p. 200.
(8) Greg Sheridan, “Closer ties with Britain make sense,” The Australian, March 30, 2006.
(9) William Tow, “Deputy sheriff or independent ally? Evolving Australian-American Ties in an Ambiguous World Order,” Pacific Review, Vol. 17, No. 2(June 2004), pp. 271―290.
(10) Michael Richardson, “Australia-Southeast relations and the East Asian Summit,” The Australian Journal of International Affairs, Vol. 59, No. 3(September 2005), p. 353.
(11) Australian Government, Department of Foreign Affairs and Trade, “Indonesia Country Brief March 2006”
(http://www.dfat.gov.au/geo/indonesia/indonesia_brief.html#ctc).
(12) “Policing makes Malacca Strait more secure, but Southeast Asian piracy remains a threat,” Mainichi Daily News, April 2, 2006(http://mdn.mainichi-msn.co.jp/international/news/20060319p2g00m0in004000c.html).
(13) “Regional Maritime Security Initiative,” GlobalSecurity.org, 31 March 2006(http://www.globalsecurity.org/
military/ops/rmsi.htm).
(14) “Indonesia rejects maritime security zone,” ABC News Online, December 17, 2004(http://www.abc.net.au/
news/newsitems/200412/s1267205.htm)and “Malaysia objects to Australia’s maritime security plans,” ABC Radio Australia, December 19, 2004(http://www.abc.net.au/ra/news/stories/s1268639.htm).
(15) Cynthia Banham, “Australia finds a way to sign Asian treaty,” Sydney Morning Herald, May 20, 2005.
(16) Rowan Callick, “Budding Relations,” The Weekend Australian, April 1, 2006.
(17) People’s Daily紙は、1996年8月6日付の論説で「鉤爪」のアナロジーを用いている(Klintworth,
“Crisis Management: China, Taiwan and the United States the 1995-1996 Crisis and its Aftermath,” note 97に引 用)。
(18) Callick, “Building Relations.”
(19) 例えば、リチャード・アーミテージ前米国務副長官の以下の論評。Richard Armitage, “Japan, U.S.
should cope with ascent of China: Armitage,” Asian Political News, September 19, 2005(http://www. findarticles.
com/p/articles/mi_m0WDQ/is_2005_Sept_19/ai_n15403929).
(20) Robyn Lim, “Finding ways to tame the new giant,” The Australian Financial Review, January 3, 2006.
(21) この解釈はモハン・マリクによって提起されている。Mohan Malik, “Commentary: The East Asian Summit,” Australian Journal of International Affairs, Vol. 60, No. 2(June 2006), forthcoming. 東南アジアに おける中国の台頭に関する包括的な評価については、Milton Osborne, “A changing dynamic in the region,” The Australian, April 3, 2006, and a longer version, A Paramount Power: China in Southeast Asia, Sydney: Lowy Institute, 2006, forthcoming.
(22) ABC Radio AM, “APEC leads Asian summits says PM,” 14 December 2005(http://www.abc.net.au/am/
content/2005/s1530494.htm).
(23) Mark Beeson, “American Hegemony: The View from Australia,” SAIS Review, Vol. 23, No. 2(Summer/Fall 2003), pp. 120―122 を参照。
(24) Dana R. Dillon, “Rice Misses the ASEAN Regional Forum: Now What?” Web memo #813(Washington D.C.: The Heritage Foundation, August 1, 2005, http://www.heritage.org/Research/AsiaandthePacific/wm813.
cfm).
(25) Australian Government, Department of Foreign Affairs and Trade, “ARF Annual Security Outlook 2005:
Australia”(http://www.dfat.gov.au/arf/documents/security_outlook_2005.html).
(26) Patrick Walters, “Tri-nation forum’s potential excites participants,” The Australian, March 20, 2006 and
“Boosting ties important for regional security,” The Yomiuri Shimbun, March 19, 2006.
(27) U.S. Embassy, Canberra, “Trilateral Security Dialogue: Joint Statement”(http://canberra.usembassy.gov/
publications/rice2006/0318_Trilatl_Strat_Dialg_JS.pdf)を参照。
(28) Ross Terrill, “A fine balancing act,” The Australian, April 4, 2006.
(29) Radio Australia, “Australia: Trilateral Talks Send Active Signals to China,” March 16, 2006(http://www.abc.
net.au/ra/asiapac/programs/s1592693.htm).
(30) 影響力のある中国国際問題研究所で、日米豪戦略対話を擬装された封じ込め以外の何物でもない と結論づけた王雨生(ワン・ユーション)を引用した以下の記事を参照。Cao Desheng, “Looking at military spending objectively,” China Daily, March 17, 2006(http://www.chinadaily.com.cn/english/doc/2006-
03/17/content_542020.htm). また、日米豪戦略対話を「小NATO」と呼んだその他の中国のアナリス
トたちを引用した以下の記事も参照。Purnendra Jain, “A ‘little NATO’ against China,” The Asia Times Online, May 18, 2006(http://www.atimes.com/atimes/China/HC18Ad01.html).
(31) Mark Forbes, “PM hails pact with Indonesia,” The Age, April 5, 2005.
(32) Patrick Walters,“ Indonesia to reconsider the friendship,” The Australian, April 4, 2006.
(33) Minister for Foreign Affairs Alexander Downer, “Announcement of Bilateral Regional Security Dialogues,”
28 July 1997(http://www.dfat.gov.au/media/releases/foreign/1997/fa84_97.html)and Australian government,
Department of Foreign Affairs and Trade, “Australia’s Security Dialogues”(updated version 2006, http://www.
dfat.gov.au/arf/bilat_sec_dial.html).
(34) 例えば、“Declaration of ASEAN Concord II(Bali Concord II),” 2004(http://www.aseansec.org/15159.
htm)を参照。
(35) Purnendra Jain, “We must engage the new giant of Asia,” The Weekend Australian, 26 March 2006.
William Tow オーストラリア国立大学教授
*原題=“East Asian Community and Australia”(訳・春名展生)