蕎学論集第総巻第i号 姫鱒年8月
【論 文美
清末初代駐英使節(1877−79)
西洋体験と世界像の変動
における
(2)
一文瞬観と国際秩序観
手代木 有 児
、
二、
難、
五、
馨 次 序 議(以上.67巻i号)
彩筆夷盛の接逐一劉錫鴻の轡界檬一一(以上,本号)
「華東」の逆転一郭嵩煮の盤雰像一
「華実達から「申翻へ 張徳舞の世界籐一 結 語
二、 「華麹の接近一劉錫鴻の糧寿像一
i.議使前4〉問題意識と残洋認識
鰺経年(講治i3/,籔本の台湾趨兵による危機感の高まりの中で,清朝病難では隔年から翌年に かけて申匿の自強のあ警方をめぐって激しい1論争が展開された。そうした中で当詩飛薬員外離の地 位1こあった劉錫鴻は,李鴻章歩丁霞昌,郭嵩譲ら有力考に書簡を送鯵,自らの主張を表聡している。
ここではそれらの書簡をもとに,墨使前における劉錫鴻の政治的主張の枠組みとその背後にある鍵 罪縁を窺っておこう。
劉錫鴻は当落洋務諏によって提起されていた海紡重椀論に対して内政重観論を展麗した。彼によ れば,沿海地域が脅かされるのは,各官署の官吏の震歎墜落によ警内政の無実をきたしているため であ撃,官吏の人軽養成によって腐数を齢き現状を改善することなくしては,いかに海防を強化し ても無駄だとされる臼こうした内数重複論は,劉錫鴻の次のような認識と不驚分に結びつ静ていた。
ヂ吉代よ讐夷狄を操る方策としては霧魔(つなぎ歪めること一引灘考淫)をやめるわけにはいかな い。(今藏のような/英哲の看主,太平の時代であってもこの方法以外にはない。思うに天子(中蟹 皇帝)は天にのっとり天下をいつくしみ育てるのであ撃,中華・夷狄を問わずみな天子の民とみな し,民が戦鼠にあわぬように,己れを屈して努力するのである」(密古叡夷之選,羅廉勿絶,錐英哲 之鷺,纏隆平之量,亦不鐵貌。蓋天子欝天以覆育天下,華東鷲葬具蔑,罷免罠於兵燹,鬱屈己赤鼠 為之)。しかも「今馨の藤夷は(中華から/いくつもの海を隔てており,数万里を跨ぎ越して中華を
一§3一
商 学 論 集 第銘巻筆i号
傍呑できるような状溌1こはない」(今茜夷遠蘂重洋,勢不能鍔越数万里詳有華璽/舞。ここに見鐡せる のは,伝統的な華夷的轡1罪1象における族序観そのものといって差し支えないであろう。
とはいえ,窺書こ「醒夷涯の軍隊は攻めてきたのであり,再び攻めてくる醗能牲を否定することは できな魏。そこで劉錫鴻はいう。「私が思うに藝洋のことは麟平をもって主となし,鋳衡をもって輔 けとなし,軽々しく戦うことを戒めるべきである」(錫鴻恩以為遜洋之事当以鵜為主,以守輔報.薦 戒与軽戦/,「筆入柔遠の道によって葵秋に鰐癒し,鞍らのみだ顎こ承諾しない性格を遅解してや参,
彼らの悪者にだまされ馬鹿正癬に苛立つ感情を哀れみ,はっき参教え讒してその非を禁じ,捨静に 対癒してその糧みを解くべきである。後らの意園は貿易にあ参,決して我々と交戦することを欲し てはいないのだ」(現堆以聖人柔遠之道待之,欝其然諾不葎之姓,籔真受欺妊畏愚直繰急之欝,瞬白 騰議以禁約其非,平心察魑以解萩其怨,彼人意在轟販,必不好与我携難路。こうした発叢から醗ら かなように,績局のところ劉錫鴻は伝統的華夷秩序観に立興しつつ,蓉洋諸鍵をなおも彰懐柔ま「羅 摩」の対象と震え続けていたのである。
こうした伝統的躍際秩序観を背景としつつ,劉錫鴻はその内政重境論において,アヘン戦争以来 の官吏の腐数とそれによる人買と軍繊の混乱を解決すべく,清初の政治を摸籠とする改革案を提産 する。そこで曝えられたの縁,第一に,無稀の官吏と崖費および八旗と緑営の兵力を醗滅し,かつ 籔税引き纏あを灘ること,第二に,賞罰の厳格化により官吏の人樗養成を馨ることであった。そし てこうした酸華案の基になっていたのは,次のような農本主義的富懸論であった。すなわち劉錫鴻 によれば,「承平之盤璽こあっては吏治は亘され政教は麗らかとな拳,民はみな農事に務め倹約を知 る。農事に務めれば物産は多く物懸は安くな箏,倹約を知れば消費は少なく梅懸は一腰安くな讐,
物癒撃安いため人の曜欲は郷講され,衣食羅屠の消費も甚だ少なく,財富は溝疑りる.これに対し て「季盤まにおいては,紀綱は廃墜し,吏治は正されず,政教は不霧で,富はみな安逸・獲利し,
民は游手・盗賊と化し,生産1嬉々減少し,消費は凝々増大する。と今わけ最大の害は商人が多く 官吏が多いことで,彼等の消費は飽の生産者に伝染し溝費者が増撫し,魑が上が箏,財銭の消費は 増書暮し,長の賛慮富は尽きる3》とされたむ
広東で洋務に携わった経験をもつ饗i彗錫鴻は,茜洋諸国では露主が公挙され政治が醗主の專駈でな く衆議によること,財力に富む商人が政治に少なから癒発言力をもつことを,当縛すでに知ってい た。だが農本主義的な富馨論の立場から中国における蕎人の活動を否定的に捉え,商人が財力によっ て官吏となる当鋳の嵐瀬を「科が朝廷を操る涯ものと畿魅する劉錫鴻紅おいては,西洋における商 人の活躍は,西洋の蜜強の源泉として注鷺されるどころか,藝洋人が稽を貪るだけの「夷狄」に遺 ぎぬことの証麺と晃轍されていた。劉錫鴻はさらにこうも述べている。「中震が天下を一家のように
葺 「復李骸類書」傷家験主霧望洋務運嚢文献彙編垂(盤界書筍,欝鍵年)第玉瞬「劉光禄遺集ま2器頁。
2〉 麗上,27§,277頁。
3) 「後下薦生中丞書算洋務運勇文献彙鑛毒筆董欝,2麗頁。なお劉錫鴻のこうした議論の背景をなすものとして,
騨えばぎ大学章句壌に,「生懇有大道,生之考案,食之者寡,為之者疾.驚之者鋒,鰹麩極星彙.(淫/呂氏 弩,蟹無遊民,魏生考案契.韓無事位,難禽者寡髪,不奪農時,羅為之疾臭.量入為穣,則鰐之鋒突。愚按 艶羨春嵐脊難溝言.以嗣建露之道産事務本蕪簸霧,葬必外峯蓉宋薦後難可聚竃。慮鍵蟻蚕終篇皆一意毯」と ある。
一蟹一
手代木:溝末得代駐英綾簸(懇77−7§)における西洋韓験と鍵葬像の変嚢(2)
治めること醗に数千年になるが,この闘,政令は一書に統べられ賜宴は一君に帰し,尊卑貴賤の礼 鱗は厳格であり士農工商の贔級は聡確に襲麟され.,命令が発せられれば従わ聾者はなくナまして商 人が妄蓼に致治に参与することなどあ誓えない。(牛酪/夷狄の道は甲羅で実行すべきではないのだ」
(中国天下為家巳更数千載,政令統於一尊,財富帰諸一人.尊卑貴賎義麟殊厳,士農工商最流各震,
湊洋頒蒲八方緯不承聴,頬其在逐末之人簿得妄参羅是,<略>夷狄之遠乗薄地講中羅毯捨。このよう に劉錫鴻においては,商人の盛んな活躍や政治関与が茜洋(爽秋〉に見繕せる現象であることが,中 国における商人の活動,政治参撫を畿凝する際の大きな譲擁ともなっていたのである。
こうした劉錫鴻にとって茜洋への串漢に当たっての§的といえるものがあったとすれば,中蟹で のキサスト教薦教の中止を要請することの琢かは,せいぜい彼が提起する西洋人による洋砲の代礫 購入,西洋人からの商船の簷馬,あるいは蓉洋人の起爆による西洋椿報の殺拾,中外交渉の麹運な
どのための準備をすることくらいであったろう跡。
2.幾使後の蕪洋体験と藝洋認識の深化
上達のような概して否定的な劉錫鴻の灘洋認識は,擘くも一行が英国へ向けて上海を鐵発した甕 後から,寄港地での観察や西洋人との接触1こより変化しはじめる。縫えば劉錫鴻は香港の監獄では その蜜舎の広く清潔なこと,賑役牛の労欝で習得した捜芸が罪人の蔓生に有益なことに麗心を示し,
マルタ島では総督の礼儀翌しく丁重なもてなしに好感をもっている韓。
そうした変化は西洋到着後,一磨急激なものとなっていった。鍵罪に先駆けて達成された産業革 命が完成鞘を還えたi8鴉〜韓隼代にかけて,英蟹にお鵠ては工業化を契機として地主,資本家,労 鷺者からなる踏籔鮭会が完絞され,続く灘〜総年代の所謂ヴィクトリア期中難の「黄金誌代」には,
労鱒考の生活水準の全般的な改譲が進行した。その後,i8器年からは後発資本主義羅ざイツ,アメ 寧力等の登場によ婆,騰年にわたる「大不溌藩難1こ入陰,英蟹は窓由主義の時代から帝羅主義の縫 代へ入ること1こなるη。郭嵩熊ら霧代馨英使節の一行が英蟹に滞在したのは,ちょうどこの「大不溌三 鱗の窮簸に当たる。だがアヘン戦争以来の対外的危機と国内の混乱の続く申撰からやってきた一春
騎 「読郭簾硬論時事書鶉筆」ぎ洋霧運嚢文献彙纏重篤玉羅,2懸賞。
3〉 轟あ,2欝,2§2,2§7資。なお麟鋳鴻の墨袋にいたる綴織について,瞥永玲夢中毯清代第一位駐外公嚢郭謀議 大伝垂(遼寧人民鐙版綻,欝8§隼/隷.当窃郭嵩蕪が劉錫濃を参賀として縫付させようと考えていたにもかか わらず,縞馬.郭嵩毒の意に反して劉錫鴻が参賀よ箏ランクの高い肇嚢となった背景畠こは.保守鯨な劉銀鶏 を灘硬として闘行させることによって,李鴻童と深雛驚孫を持ち醤淳化載積極的な郭を難講せんとする総運 籍弩の惹麟がはたらいていた(具体的には,麟揚灘は総樫衙鷺大疑李鴻藻の郭を監復せよとの密命を受けて いた〉ことを撰捷している (翼書2韓.2船,2簿頁/む
6) 『英轄私記垂α走商量罫叢書玉中の鬱病群等編ζ劉錫鴻・英轄私記 張徳舞・縫硬英俄記蚕岳麓書置,欝鋳隼,
醜叡)52.懸賞。
7/ 長島伸一『大英帝蟹一最盛霧イギ事ノスの琶会史蓋i清談琶.欝8§年,第星章。
ここで,以下で談ずる劉錫鶏.郭嵩蕪,張徳轟の灘洋体験の背藻をなすヴィクト亨ア朝中筋(墾5i〜7饒の 英羅縫会の状浅紅ついて,必要と思われる籠雛で麟単に籔れておくこと1こする。繊維を中心とした英蟹工業 の叢擁」)島灘は.産業革命の完成禦(i82§〜萄年代)には亀機の時代に入っていた。だが同時にこの鋳難菰 は.石炭と鉄鎚の生産,そして鉄連建設という経済成長への一薩確実な基礎が形成されつつあった。かくし て英蟹は完全な工業化の鋳代に突入し,ヴィクトサア軽率難の繁栄の下で労簿者の生活水準の全般的酸善が
β3§
商 学 論 集 第磁巻第1号
にとって,ヴィクトサア期中難のヂ黄金鋳代まを経た英蟹社会の難かさは,弩を見張るべきもので あった。
劉錫鴻がまず実感したのは,英国の都毒や麟綾が民の生活を喬上させることを璽擬して整騰され ていることであった。傍えば劉錫濡縁,当縛藤洋の都毒を訪れた申蟹人の多くと講権に,ロンドン の街についてその街諮,建物の壮麗.清潔なこと,各漸£設けられた公園やベンチが都南の往罠の 健康を醗癒したものであることに漣目し,達藝こ一度の休βが民の生活に活力をもたらしていること
に感心し,さらに電鞍馬.郵優局では,官民双方1こ稀益をもたらす電鞭,郵便の麟度1こ離心を示し ている鴛
このように英蟹縫会が民への醗癒の行き雇いた社会であるとの雛象をもった劉錫鴻は,そうした 生活環境紅おかれた蔑察体にも,従来の編覧とは異なる姿を昆饑していった.その…鰐として,一 行の従者が露上で酵っ払いに暴行を受けた事件につ雛ての劉錫鴻の講述は翼蘇深鯵、劉錫鴻によれ ば,事件を惣つた留ンドン毒長は中国からの使者に蛮行をはたらいたことを謹戯こ,猿人を厳罰に 越すとともに,新鹿紙上で使節一行への保護を騨び掛け・郭罵蕪が麓人への寛大な越置を求めても 応じなかったという恥。あわせて劉錫鴻は蓉洋への航海中・藝洋人乗客が従者の一人を舞尊したた め,麟主に下船させられそうになったことを記した上で,次のように述べている。瞭薦は英国人は 辺轟な島蟹紅住んでいるので,ただ空威張参するだけで,人を敬い謙る態度を欠くと懇っていた。だ が意外にも地位の高い者も低い者も心を合わせ,礼儀をもって身を越し,このように蟹事の万全を 難しているのだ」(海疑英人麟廼海島,鮭知蓬強,無敬譲之遵。乃上下講心.以礼自越,顧全国事魏
もたらされることになる。まず労轍条鐸の醸では,この鋳簸資本家は労勝者4)賃金を緩遺し労働縛麗の麺長 を蓼1つたかつての方法を放棄し,建5(1年代.69年代の諸敬華!を通じて,癒対1的轟賃金と労働春懐柔の諸政策 をとるようになる。i8§7年には工場法が窮めて繊維工業以磐まで菰大され,謎来,少年・懸人の労働賠賜を 講醗したため私企業への無法な干渉と見敏されてきた露蕊奪と欝薮寧の工場法に蝿して.鰹課する意曼が 広まった。巌鉱1こおける改革の進歩は緩やかだったが,鰺72年には詫棄部菰お1する芸事羅契約が廃重され,7§
隼には主従法が癖建された。また労鰯縫合は,灘難年法と欝器年法£よ菅}法律上の大幅な濤霞を与えられた ことによ弓.その透代的.法的地覆を獲得した。更に平均実質醗得隷.藤年から磁年まで全く不変であった が.経年から箆年σ)縫に鈴パーセント上昇した。次1こ選挙譲護の嚢では,英蟹グ)労鱒者踏綴はもはや革命 麟でないとみなした支翫購綴は,欝3§年.42卑にチャーチイズムを強く樺窪したσ)と婦難曲に,i総7年の選 挙法政董法で労鷺者踏籔に依存する選挙趨痩を法認するにいたる。環境難生の嚢では,謄鰹紀蔚半.英国の 諸都藷は全懇的に荒廃し,転染病が流行する恐るべき状涜を呈していたが亨欝欝年代から下水,給水,道路 溝掃など鯵1幕的な籍生改革が進み,公衆のための公i藁薦麹や公璽が確録され(軽し絶秀で薬毒整騰は煤と壌 に蔽われた新たなスラム衡を生み塗していったのだが)か馨毒とll鷺業の拡張の中で.簾薦の荒廃は儀然として 存在していたものの,灘年代,鱒年代載比べれぜ,ヴィクト!フア韓中簸の灘南は大部分の点で醗らか1こ改良 された総※ボブズボーム著,浜鉢鑑夫難訳ぎ産業と輩雛未来社,嬉霧奪,i騰〜舞3,饗7〜董騒,玉璽〜!餐 頁}。更1こ炭衆教奮グ)葱こ嚢を華藤ナると,産業革命簸こは労鐵者の子弟の雛等教奮は生活のため1こほとんどな おざ射こされてきた。だが魏3年と誕年の工場法に繊維産業に縫事する鬼薫への学校教鳶が)縷建が一繕盛 陰込象れ,学綬の建設・維舞1こ蟹費が支給されたことで.ヴィクト}タア朝単離には罠霧1こおける幾衆教蒼が 普及し,18灘隼に縫パーセントだった識字率は雪建捲年1こは簾パーセントヘと顯講に延びテ露簿年には誘 等教育法によ○普通教奮の義務麟1こ遵が器かれた(長島檸一罪大英帝轟…最盛簸イ享年タスの娃会変雛懇〜至難 講。
8/ ぎ英輕私書毒簿,75,76,鱈頁。
彰 瞬上,護頁。
一§6一
手代木:溝末初代駐英{吏嚢毒〔玉877−7§〉 における薩洋{本験と獲雰{象の変動(2)
嚢:/鋤。
こうした体験を重ねる中でロンドン到養から二ヵ月後,劉錫鴻が英蟹の「政治」「風俗聾こ麗して 下した評懸慧,「ただ父子の霧愛,男女の区溺が全く考究されな雛点は,貴賎を闘わず同じである」
(惟父子之幾,男女之震全未之講。欝貴至賎皆然/ことへの不満を鼕鼕にすれば,「闘富はなく,游疑 はなく,地位の上下による藻絶の感鷲はなく,残忍不仁の悪政1まなく,麗礼の癒醜もない注(無窮官,
無游昆,無上下鶴闘之情,無残暴不仁之政,無鑑文樒慈之事)矯というものだった。航海中,劉錫鴻 は鉄道敷設を中石の急務とするマカートニーの主張に反讒して,r我が中国の麗代聖書賢相は,季智 が嚢洋人に劣るのではな雛のに,(露洋人のように譲然を競発し,妄嚇こ力量を誇り,造化と争っ て富強を醒ろうとする者は結局のところいない。思うにそれは(彼等が/道蓬を晃謹め,災害を予 見すること1こ優れてお彗,英国入が稽益を叢ることを簸るばかりで,顧みることがないのとは違う からだ」(我中蟹歴代墾霧賢帽,才智非遜於西洋,睡卒無有蟹天雑地,妄誇巧力,与造化争能,以穰 姦強者,蓋晃運深講濾禍遠,葬麹英人之徒知計科,一往需不復返麟也〉鋤と遠べていた。こうした薩 洋到着以羨の認識を念頭にお毒ナば,上記のような蔭洋の「政教拝風俗まへの評懸が,全面的膏定で はない1こせよ,従来に比してはるかに欝定的なものになっていることは霧溢であろう。このように 西洋到着後,善洋の富強紅対するイメージは,護洋到着羨のあくなき欲望追求という野蛮なものか
ら,罠の物質的,道徳的な豊かさに基づく文弱的なものに,急速に変化していったのである。
それではこうした西洋の富強の源泉はどこにあるのか。劉錫鴻が第一に注霧するのは,ε教人之 法」,すなわち教育調度であった。劉錫鴻は蕪諾の中で英国の教育麟護に詳しく言及し,5歳以上の すべての子女が小学に入れること,優れた考はさら1こ大学に進むこと,また麟書館,博物館,動挽 物鑛等の文髭施設が戻衆に開放されていることを述べ,かつ英羅では単に学校を設けるだけでなく,
民が進んで教育を受けるよう政癖も法律により監督し,それが民の勤難さを生み,蟹家の富強を生 んだと旛摘している蹄。英羅の富強の源泉として劉錫鴻があわせて涯目したのは.「養罠之敢」,いわ ば労働福鮭政策であった。劉錫鴻は羨述のように都南盤渓の健康のための公園等の整備,遷に一度 の体欝の設定などに言及しているほか,英蟹では毎年の戸籍講査で各戸各人の寿命や労働条件,経 済状態の点綾がなされ,例えぱ夭折者が多ければ環境衛生の整講が灘られ,遜嚢労働で寿命を縮め る者が多ければ,労麟鋳闘を籏締するなど,療露の除表につとめておむ,こうした努力が蟹家の富 強をもたらしていることを捲摘している購。このよう1こ劉錫鴻は渡英後数か月のうちに,英蟹紅おけ る富強の実現が決して単なる優れた機羅・技術の購梅ではなく,教育麟度,福蟹政策など鮭会のあ
撃方と深く結びついているとの認識を獲得するにいたるのである。
しかし劉錫鴻の蓉洋認識の深まりは,これに比まるものではなかった。後縁英蟹の富強の板庭に あるこうした調度・政策を生んだ政治の在撃方をも,無観することはできなかったのである。まず 漣目されるのは,英露の地方官麟への言及である。劉錫鴻垂こよれば,英露では都毒や郷村毎に全体
蹴 購
/2〉
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1毒
講圭,7護頁。
講上,鎗§貰 講上,4§頁。
麟上,2鍵頁。
嚢圭1ウ鮪〜懸頁q
一§7一
轟 学 論 集 第鎚巻第i号
を統治する「美亜」麟ayor/,各地域を管轄するr奥徳野引(al慶r欝麗/,「饗徳剛によって区分さ れた小地域を管達する「看習勒」(co難cl沁r/が選挙で選ばれ,「その鰯は漢の三老,瞬の里老とほ ぼ講じである。しかも選ばれる考は蜜浸.選ぶ者も富長で,官はこれに参与しな秘。選ばれる者は 富裕なので汚職の恐れはなく,選ぶ者は富裕なので買叡の恋醒もない。富はそのことに関与しな騒 ので,命令1こ従う面舞もない。属1こよって罠を治め,事は衆議に曝する。(酪/道驚はきれいに整構 され,橋梁はよく欝わむ,巡撫,人役は仕事に励み怠けることがない逢(幾麟与漢之三老,明之量老 酪購。然其所挙者塞畏,挙之者券露戻.富不復参覆其事。難所挙者塞,故無禽霧之憂。縫挙之者富,
故無賄霧之患。権官不覆其事,故無輝承糖注之難。以民治民,事帰公議。(賂〉道酪整潔,橋梁畢修。
巡補人役,勤於其職,灘不激情/i51。このようにここで劉錫鴻は眠によって罠を治める」地方官講 の在塗方が茜洋の民生の充実をもたらしていると擬えているのである。
また議会餐離こついては,講述の遜参露綾蒸すでに一定の縫心を持っていたことが飼えるが,英馨 滞在中のこれに麗する記遜はやは今暁らかに欝定的なものになっていく。ロンドンに滞在して一ヵ 月1こならぬ墳,郭毒譲とともに英国議会の驕会式に招かれた時の警諺の申で,劉錫鴻はこう遜べて いる。r談議の長時閥にわたること,常に餐から夜,夜から朝に及び,道礫に適い役に立つよう議論 を尽くすのである。政治が混乱すれば(鐸題の解決1ま)議員に求められるのであ警,それ故議会の 嬢羅は鴬に優位を占め,少しも人に踏み鑓られることのないよう努めるのである。従って(人々は/
簿をするにも,上下心を合わせ,善意をもって取り緩まないことはな恥。思う1こ多数の議論を総合 して(優れた方海を選択すれば/選択された結論は,多くの点で優れてお讐,(この結果)多数の意 志に従って法令が施行されれば,人々はそのため1こ尽力するからである墜(弁論之久.鴬窪蔓逮夜,
窃夜達昼,務遜於遷,当於事爾後琶。官政誰錯,則舎之以健紳蔑,故其越事麺力縫上游,不稔綴人 以銭馨㌫爾挙弁一窮,蔓不上下隔心,以書成之。蓋合奏論以択其長,歎美無不備,麟衆志蟹行真金,
無力無不鐸也/覇。また議員の選懲につ秘ては羨述の英蟹のr政教葺風俗涯への評懸の申のヂ、と下鶴 絶の精なし」の議明として,「都毒,農村,騨,開港場から各々議員一,二人を選毒し,経時民情が 諸霧に上達される.遠く外国貿易に従事する商人はロンドンに総商会を設け,これを議員につかさ
どらせて,.ヒ下を結ぶかなめとする。民の欲するところを宮が取り上げねば,事運によって諮問し,
必ず衆驚とすべて一致させた.tで実施させるま(城郷鎮埠,各挙議銑紳一,二人,経時以疑嬉達諸富。
遠南淡外者,於倫敦立総商会,亦以議銑紳主之,為上下極紐。蔑之所欲,官或不以為優,鑓礎事運 根詰駁,必至衆欝馨治,然後見諸施行/捨と述べ,議員の選鐵が罠鋳の伝達,民意の実現に有効に機 能していることを指摘するとと麟こ,鐵整講には「夷狄の遵盛として強く撹超していた英馨におけ
る藤入の敬治への参与も肯定的1こ捉えているのである。
3.西洋評簸の基準
以上見てきたように,英霞の富強への評懸の野蛮から文瞬への変化は,結局のところ劉錫鴻が英 国の富強の源泉と見た教育・福蟹,そして政治の在多方,すなわち英国の「致敦盛(政治・教化/お
簸 羅圭1,茎5暮〜i弱質.
藩) 購.1二.83實。
玉7) 購一と.至難頁。
一9さ一
手代木1溝未窃代駐英漢籔(i8?7一謝における藤洋体験雄堺像の変動(2/
よびそれによって形成された「愚俗」への書室的評緬に基づくものであったのである.それでは藪 洋認識の深まりの中で急激に形成されたこうした観して欝定的な蓉洋の敏教遜「風俗まへの評懸嫉 一体麺蕎なる基準に基づくものだったのであろうか.鱗えぱ,劉錫鴻が上述のように英国のド養厩 之政」「教人之法」を欝定的に評極ずるの1ま,劉錫鴻がヂ今露の西洋の風俗斐を評して,「貧選をの
ぞき難儀を救うことを美学とするのは,これこそ仁の蟻緒である。また歪義によって誠を守ろうと するのは,これこそ義の螺績である3(今西洋之俗,以済貧趣難為美挙,是羅仁之一輪,旗鼓義守信 為要醒,是露義之一轍癩といっていることから構えるように,それら西洋のゼ政教涯が儒教的懸纏 観としての野仁義の遵」に通じるものと見微されていたことによるものであったδ
織じことは西洋の地方官鰯や議会鱗などの政治鰯度への評懸についても捲嫡できる。劉錫鴻が西 洋の地方官麟を肯定的に見るのは,それが「漢の三老,明の量老」になぞらえられていることに承 されるように,要するに織代の「郷挙塁選涯の法(ぎ周礼垂地窟,大講徒〉1こ始まる中震の郷富麟を 念頭に置いての評懸だった癖。また前達のように議会織こついての説明として,ゼ縫購買精が諸官に 上達され(中翻民の欲するところを富が取り上げねば事選によって詰題する諜と逮べられている のも,擁えばi867年から簿年まで英醗に滞在した王韓が英羅の政治麟度を論じて,野菜蟹の恃むと
ころの者は,上下の驚通じ,著長の分親しむにあり。(酪〉その蟹中平醤の麗の政治を見るに実に三 代以上の遺意あ舅(英蟹之藤待者,在上下之欝遜,署長之分競〈酪〉鶴翼蟹中平緩聞致治,実蕎三 代以上之達意焉〉騒というのと講様,勝謂ヂ三代之治涯を念頭に置いていたものと考えられる。さら
にこうした西洋の為政者による「政教」の結果として形成された「地位の高輪者も低雛者も心を合 わせ,礼を持って身を嬉し」「闘官はなく,游髭もない」という「風俗」にしても,欝様に伝統的な 遅懇のr風俗諜を基準とした評懸といえよう。このように劉錫鴻においては,1霊教的懸値醗淀おけ
る遷想の鋳代であった「三代」の「政教」瞬俗」が,誘洋の敏教」「嵐俗輩を灘る基準となって いるのであ参,彼が西洋認識の深化の中で,こうした繕教的緬嚢観に代わりうる新たな懸麺基準を 髭饑した痕跡は,どこにも見当らない。
ところで,伝統的な騰教的観念が劉錫鴻の西洋認識に対して及ぼした作絹は,単にそれが縫会橿 蟹政策,教官調度,地方自治舗.議会綴など西洋の「政教涯やそれらによって形成された「風俗達を 評慰する基準となっただけに止まらず,薦洋の富強が達成されるまでの遜程の疑え方にもはっきり
と見鍵すことが趨来る。劉錫鴻は英霞に晦う途中,上海に滞在した鰹の霞記の中で,今露の中醒の 貧弱を救う1こは「吏治を鋳す」べきで,それには「義を審らかにし道を聡らかにする」ことによ鯵 官吏の悪習を蟻すべきだとし,「どうして政令を講じず,罠生を籔しまず,ただ麟麹・機器に特むだ けで天下を治められるだろうか」(壼政令不講,罠生不離,爾縫麟麹機器之是特,遂足天下雅鰤と
18〉糞土,玉2§蚕。
i韓 溝饗雄三氏紅よれば,この郷蜜霧の主張は,溝誘録降,地方馨治を要求する郷継緩によって盛ん垂こ展聡され た封建論の串でもラディカルなものであった。詳しくは蒲捲「ある疲置洋務垂一劉錫鴻ヂ)場合まおよび沖毯 紅おけるぎ封建塞と透代3(ぎ文畷羅究垂葉海大学文窮学会.第7号,欝欝隼,後1こ溝饗雄三ζ方法としての 中馨垂東京大学患販会,婚総年に収録〉を参照。
2麟 王譜野強霞文録外霧雲巻嘘,紀英蟹致治。
2聾 f英轄私記磨騒頁。
一9§一
藏 学 論 集 第総巻第正号 違べているが,こケした「政教∫の主捧たる為鼓音の道徳性の完成を眠生涯の充足と縫会の安定・
繁栄に護績させる伝統的思考様式は,英羅滞蔑中も変わることなく劉錫鴻の書説の中に繰返し登場 する。鱗えば劉銀漏は,ある英醒人が§睡の電学,熱学,天文学等を「実学逢とし,これに沖国 聖人之教」を薪空談無罵」として対置するのに笈諭し,こう述べている。ギ聖人の教は仁義にこそあ
る。仁とは人心観有の純善であり,義とはものごとへのあるべき端麺をする上での籔道である。(酪/
その重要な役割は,巻臣.父子,発弟,夫婦,麗友問における守るべき遵を維持すること1こある。(鶏/
それらの麗係を瀦らげるの1こ仁をもちいて,互騨に害なわず,それらの関係を取穆決めるのに義を もちいて互いに侵さなければ,家は安定し,醒も安定し,天下も安定する。だから筆入の教えは宇 宙を安定させ天地が万物を慈しみ育てる廷事を動ける手段なのである」(墾人之教,仁義爾已。仁者,
人心團有之純善。義者,魑事露然之条建。(賂)癒莫大灘,則維縛夫看鋲.父子,兄弟,夫婦,朋友 之五輪。(酪〉果其溶鉱仁鷺不権棄不横書,締以義藤不相侵不櫓凌,一家魏是別家安,一露麹是劉国 安,天下如是則天下安。故聖人之教,飛以彙安宇宙露助天地恵青万物之功考也/鋤。すなわち劉錫鴻 においては,有徳の為政者の「仁義の這まに基づく「政教」によ拳,悪臣,父子,晃弟,夫婦,醗 友などの閥での倫遅が確立され,人心の懸養が達成されてこそ,天下の人買の安定と繁栄が実現す
るとされるのである。
みち ととの
こうした立場は,縫えばヂこれを道びくに徳を以てし,これを斉うるに礼を以てすれば,聡あ参
ただ くわ
て且つ格し」(窪論語翼為致)あるい慧「巻子の徳は風な管,小人の徳は草な参。草これを風に上う れば必ず催すゴ(蕎,顔灘といった驚教的徳治主義に淵源をもつものだが,よ拳護接的には.宋代 に支醗踏綴となった士大夫麟の思想たる朱子学において,とウわけ疹礼諾垂の一篇に遜ぎなかった ゼ大学遜を顕彰すること1こよって明示された,自己の道徳性の完成(修身/を天下の安定・繁栄(治 露平天下)に直結させる愚考様式を受継ぐものであろう。すなわち,そこでは人聞は本来道徳盤を 具えているが,物欲の拘束紅よ穆その十全な発揮,維持が嫁げられるために,人稔の遠の実践が実 践されず,天下覆家の濃鼠がもたらされるとされた。従って,天下罎家の安定・繁栄のためには,ま ず為政者が慶大の遽に学ぶことによって露5の道徳性を懇復し,その、とで大疑1こまでそれを推
し広めねばならな騨,と考えられた。為政者の務めが緻教雌,すなわち単に治めるだけでなく,教 えることでもあるとされるのは,こうした考え方と不驚分に結びついたものであった。朱子学にお いて完成されたこうした愚考様式は,元代中葉鋭鋒,科挙試験に朱子学が取り入れられ,鰭教経典 の解萩が朱子学に凝るべきものとされた結果,科挙受験を日捲し幼晃から朱子学的経典解綬を身に つけねばならなかった士大夫屡の8鴬の中に,無意識のうちに作偏する当た管繭のものの見方とし て澄透していった2駕
22〉購ま二.i28.欝頁む
23/ こうした朱子学的思考様式については.代表豹文猷としてζ大学章句磨,また解説護として島懇慶次匿大学・
中濤婁上(朝蕪趨版縫.欝78隼〉等を参照した。なお拳蟹近代の知識人におけるこうした伝統的思考癒式に 鬱する醗究としては,さしあたウ躰醗生陣蟹の懇懇的亀機違(売出訟毒飽讃,藩文墨飯,1露§年)が参考1こ なる。氏によ轟ば,儒教においては道徳醜.政治的縄題を解決する上で,致治権力,縫会纒織・譲渡,羅済 条鐘よ参も,心の知的.道徳麟能力およびそれによって獲簿される懇懇を重擬する一元的愚考様式が,一貫 した特徴であ参,この思考様式はことに宋覇の新儒教において競確琵された。この思考様式の下では,政治,
後会をよ肇良く変えていくための変革は.思懸の変革であ鯵,懇懇的説得だけがこの思想的変革をもたらす
一驚9一
手代木:溝末窃代駿英漢簸(鰺77−7§)ξこおける西洋体験と盤罫線の変動(2/
こうした鋳溌は清末1こおいても基本的に変わることはなかったのであ箏,劉錫鴻にこうした思考 様式が晃鐡せることは,当時としては当然のことであった。むしろ,ここで強調しておきたいのは,
西洋体験を通じて西洋の富強への従来の評懸を酸め,それを肯定的に評慰するようになってからも,
上の引矯の中で薩人之教」が「天下ユそして「宇憲」を安定させると喝破していることからも飼 えるように,劉錫鴻は西洋1こおいて安定・繁栄が実理されるまでの道筋についても,西洋の独自性 を晃鐵したわけではなく,申蟹につ疑て論じる場合と勝様に,〈為政者における道徳性の完成→政教 による人心の涵養→天下の安定・繁栄の実現〉という思考様式で,理解していたということである。
講遠のように劉錫鴻は西洋のゼ政教互風俗」を評癒する上で儒教的懸値観以外に基準を持ち得なかっ たのであるが,ここで蟄う伝統的思考様式とはその儒教的極値観1こ基づいて形成されたもの1こ飽な らなかった。このことからすれば,議論の対象が中国が西洋かを問わず,劉錫鴻において鮭会の安 定・繁栄の実現への道筋がこの伝統的思考様式に依擁して遅解されたのはむしろ当然のことだった
というべきであろう。
淫.「華美盛の接近
このように劉錫鴻は蔭洋体験の中で鍵来の西洋認識を大いに深化させ,醤洋のギ政教」菱風俗」を 欝定的に評慰するに静たる。但しそれはあくまで儒教的な懸値観や思考様式の文賑においてなされ たものであ蓼,決して藪洋体験によってそうした伝統的観念に質的な転換が生じたわけではなかっ た。それではこうした西洋への評懸の変化は,西洋諸籔を「懐柔」「鰭藻運の対象とみなす劉錫鴻の 従来の国際秩序観に,いかなる変動をもたらしたのであろうか。最後に我々はこの点について明ら かにしておかねぱならない。
上述の理人之教匪をめぐる議論こ続けて劉錫鴻はこう逮べている。「中石では秦漢以来,元瞬ま で,教化が進めば量の中は治ま蓼,教化が衰退すれば,雛の中は離れる(という繰り返しだった/
<略>だが霧難,父子,兄弟,夫婦,鵬友のそれぞれのあるべき道は,けがれることなくなお存在 しており,よほど愚かなものでなければ仁義を重んずることを簿り,敢えて緻縷なことをしすぎる ことはなく,それ故に掠奪や殺害の残忍さは聖化の及ばぬ地1こ比べて全く異なっている」(中蛋白秦 漢鉄迄元霧,修真教則治,論其教則乱。<賂>然巻臣,父子,兄弟,夫婦,朋友之鍮媛然猶存,葬甚
こと右書患来るとさ矛した.で醇敏なら懇懇の根本的変革は, この変革の究極の正盛牲を至聖解する箏の一しに立たね ばならないからであ彗,また人の心は真饗が全面賄紀墾示され.た時,そ説を箆撮する天与の能力を持つから であった。そしてその懇懇の根本的変革が遂春される上で人々が規箋とすべきは,塑王聖賢によって定めら 薦た懇懇・行動の範型であるとされた,とする。こうした認識を踏まえて.氏は蚤響難の代表的知識人であ る藻独秀.越遜,警遜を取拳上げ,破らに典璽的に見議せる中石透代における総捧論的反転統のイデオロギー が,実はこうした中国の伝統的な思考様式が,透代という条件の下で持続したものだったことを聡らかにし て纏る。
また襲達する嚢究として有霧穂夫「溝家における士人意識葺/有籔報夫・大島晃講参朱子学的思鮭一中毯懇 懇史にお終る藏叢毫と革新蓋汲吉書鍵完,玉§{捲無,戸薄額。後に有蜜哀奪夫ぎ透そ気中藝韮思想壁三論雪濠モ誓書駿i, 藝携琴年,
に較録/はケこうした縁続的知識人紅特有の思考様式を「士人意識」として掘握し,梁警趨,舞霧舞,章晒 麟,康欝為ら溝末の代表的懇懇家への検討を逓難て,破らの擁れにおいても環状の変革への嚢命を甕覚する 上でのバネとしての饑きを,この士人意識が鐙っていたことを捲擁している。
一驚至一
薩 学 講 集 第総巻第正号 不肖,猶難顧畏仁義,不敬避難其桀驚,故舞撃屡教.較之聖化来被之地,其惨忍終殊/鱒という。す なわち劉錫鴻は,秦漢以来の一治一議を認めつつも,中啓にお雛ては聖人の「仁義之遵葺が今嚢も 基本的に維持されてお警,ヂ聖化未被之地」とは異なるとして,中震の「中華謡としての優位を確認
している。茜洋への評懸の高まりにもかかわらず,中啓中心の伝統的華夷秩序の枠緩みはなお突き 麟されるにはいたらず,依然として維持されていたのである。従って,当然その根底にあった中華 文墾を蟻一普遍の文瞬と見徴す伝統的文聡観にも変動は見鐡せない。
しかしながら,このように従来の量界線の枠緩みは,一癒錐持されたとはいえ,上遠のような西 洋への評懸の変化は,劉錫鴻の華夷酌量界線1こおける西洋諸麗の位置付けに,一定の惨死を遮るこ
とになる。上遜のように歴代王朝における一治一叢を論じた際,劉錫鴻は[治崔1にお雛ては遠方の 未灘の蟹が天子の徳を慕って遠洋を煽てて教化に従い,それによって仁義の教えが徐々に露方の果 ての未麗の露に及んだゴ(其治趨.遽荒海徳,重洋慕化.仁義之騰遂漸及於獲蕎/鵠と述べるととも 1こ,さきにも引欝したようにその教化の結果を「今醤の露洋の騰絡1こおいて,貧露をのぞき難儀を 救うことを美挙とするのは,これこそ仁の端緒である。また正義によって誠を守ろうとするのは,こ れこそ義の螺緒である」と搭構して雛る。そしてこのF仁義」の鵜緒を推し広めれば,「五檎淫が霧 らかになサ,それによって「勝つことを好んで麗争心を奮い起こすことをせず,欲望をほしいまま にして殺意を起こすことをしなけれ.ば,それによって人買の編はなくなるであろう。そうでなけれ ば.ひたすら雑鼓に意を繕い,灘を求める離離・汽車,人を殺す火器の数量や構巧さを競い,それ によって富強が遂げられることになろう」(不鑓好勝懸奮争心,不惑食欲薦勤殺機,生霊之襯,躍於 是乎息。葬然者,一意講求雑談,使趨科之舟車,殺人之火雛,争多競巧,以為富強〉鋤とされる。す なわち,天子の野仁義之道j lこよる教化が及んだ結果,かつて食欲な「夷狄」と晃緻された懸洋に も,今騒では螺結約ながら「仁義の道墜による文瞬化の羅能牲を見鐵せるというのであ管,ここに 我々は,劉錫鴻の懇洋への認識が従来の酸化未被」の野蛮で貪欲な「夷狄」から,ヂ仁義の遡を 実践する沖華3へと,大輕に接近していることを見産すことができる。
付零すれば,藩遜のような劉錫鴻における蕗洋の富強のイメージの野蛮から文弱への転換,と肇 わけ伝統的経済論1こ基づき醒洋における蕎人の活発な活動を妄ウな欲望追求と否定する立場からの 転換も,繕局のところ,こうした蔭洋における「仁義」の受容という認識によってもたらされたも のであった。すなわち劉錫鴻が西洋の富強を轡足する鋳,その富強とは多分に繕教的癒薩観によっ て規定された内容のものだった。このことと関わって,劉錫鶏が英露に滞座中だったペルシャ藩王 と会談した鰹の議論は,我々にとって興練深いものである。ペルシャ藩王が孔子の教えは利益を追 求することを攀じ,武力を重んずることを戒めているので,そのことが中蟹をたやすく衰弱させた のだと捲摘したのに薄し,劉錫鴻は次のように反論している。孔子が科を求めることを禁じたのは,
難物を取り立てて浸を害する考に麗してであ陰,力を尊ぶことを戒めたのは,力を頼み悪事をほし いままにする考に対してである。国家の嘉強を否定したのではない。「但し富強を達する方法縁仁義 の教えに依麗しなければならず,そ蕊故に仁義の教えは永遠に変わることはできないのである。中
24〉 ぎ英輻私記遂鴛§頁。
25) 溝上,翅9頁q 26/ 疑、ヒ,玉29頁。
一欝2一
手代木:清未初代駐英優簾(墾77ぞ勢における藪洋体験と毯雰縁の変動(2〉
瞬歴代王朝の繁栄は,仁義の教えに依擁した結果である。<酪>今雛英蟹が仁義を根奉とすることを 知り,をれによって富強を達成したのは,長く甲羅に朝貢し,孔子の教えが伝える道を知多えたか らにほかならない。どうして孔子の教えが害を残したといえようかま(燈所以致富強者,准縄手仁義 之中,故其教為万吉所不能易。中石歴朝強盛曲鋤,<馨>今英麟知仁義為本,以擁富強,未始葬鑛久 入中蟹,得縫聖教所致,奈何鉱為難害毯〉鱒と。このように劉錫鴻1こおける西洋の富強へのイメージ の転換舞,あくまで中国において追求されてきたゼ仁義」に依擁した富強こそが,あるべき富強の 基準であることを麟提として,西洋に彰仁義之遵」が伝わったことによむ.そのあるべき富強が西 洋においても実饗されたという認識に基づくものであった。もっとも,それは劉錫鴻において中蟹 で伝統的に追求されてきたとされるあるべき富強が,西洋で完全に達成されたことを愚昧するもの ではない。劉錫鴻はいう。ゼ外洋は富むことを富むといい,中石は欲張ら轟ことを富むという,外洋 は強窮ことを強いことと見做し,甲羅は勝つのを蘇まないことを強いと見做す達(外洋以富為毒中 騒以不禽得為富。外洋以強為残,中覆以不嫁勝為強〉蝕。上述のように劉錫鴻の見るところ,露洋に おいてゼ仁義涯の蟻緒は見越せるにせよ,それはあくまで蟻総にすぎないα健って,西洋参富強隷 ヂ仁義」に根ざすものと評慰しうる灘颪を有する反面,野蛮な欲望の追求に向う薄能牲をなおも残し ていたのである。彼が爵洋の富強を生み鐵した主要な発墾の一つであった鉄道を中石で敷設するこ
とに強く反薄するようになるのは,彼がそれを欲望追求の手段と見徹していたことと無闇係ではな かったろう。
小 結
奉締では,劉錫鴻の盤葬像が茜洋体験を経てどのように変化したのかを考察してきた・西洋への 鑛使前,劉錫鴻は伝統的華夷秩摩によって当時の毯界を捉え,茜洋諸羅は貪欲な「夷狄達であ瓶「懐 柔葺羅魔諜の対象であると考えて雛た。従って,当時洋務派が提起していた海防重視論に蝿観劉 錫鴻は沿海地域が脅かされるのはもっぱら官吏の腐歎整落によるものとして,内政重規論を麗麗し た。しかし鑛使後の藪洋体験の中で,従来の劉錫鴻萎こおける灘洋認識は少なからず変化し,西洋の 富強へのイメージは,従来の欲望の妄りな遽求という野蛮なものから,梅質的および道徳的餐かさ を兼ね備えた文購的なものへと大きく転換を遂げることになる。すなわち,劉錫鴻は西洋の麟々の
「政教」「風俗まが儒教的艟艨観に照らして轡定できるものであることを見鐵すと瞬鋳に,為政者の 道徳性の完成を鮭会の安定・繁栄に薩結させる儒教(朱子学/的思考様式を西洋にもそのまま当て はめ,西洋の富強を有徳の為政者の「政教」による人心の教化の結果と認識するようになる。
劉錫鴻のこのような伝統思想に基づく蓉洋への鴛定的評籟の桜癒には,中国文墾を唯一普遍の文 瞬と晃徴す転統約文騨観およびそれを薦提として中国中心の革嚢秩序の中に西洋諸錘をも総み込む 伝統的秩窪観が俵然として閣確に存在していた。従って,劉錫鴻が西洋の「政教崖「風俗」を轡定的
に評癒したのは,決して醒洋にも儒教的観念に合致する「政教」「風俗涯が儒然にも存在していた,
と考えたからではなく,現毒こ中国において機能している聖人の「仁義の遵」1こよる教化が西洋にも
2?} 躍上,i盤頁。
麟庭上,玉3書賈。
一驚3一
藏 学 譲 集 第68巻第茎号 及んだ結果,灌洋にも「仁義∫の螺纏としての優れた「政教」「織俗」が形成された,と考えたから にほかならなかった。
このように西洋の「政教豆風俗涯への蕎定的評憾は,確かにあくまで伝統思想の枠内のものであっ たがラ鐵{吏繭には野蛮な野夷狄匪と見微されていた藪洋が,「仁義まの蟻1緒としての優れた「政教」
風俗藩を脅すると認識されたことは.従来の西洋認識への明らかな修正であった。かくして劉錫鴻 においては伝統的華夷秩序の枠纒みはなお維持されたものの,この枠霞での茜洋の位置は従来の「夷 狄」の位置を臆し,「中華ゴへ講かって大きく接近を遂げたのであった。
最後に序説(§7巻i号所載/で設定した本稿における分析枠緩み1こ聾して,以上の考察を要約す れば,劉錫鴻における露洋体験後の盤界線のあり方は,次のようにまとめられるだろう。第一に,劉 錫鴻が蓉洋を評慰する際の懸魑基準は,依然として中蟹文明,とりわけその核心をなす「聖人之教涯 であった。すなわち彼においては中誘文瞬を曝一普遍とする伝統的文明醗に変化は晃られない。第 二1こ,しかも劉錫濃は中馨がなお「聖人之教」を維持し,露鰹秩序の中心に盤直してお彗,鍵って,
薩洋諸羅は籔然として「墾人之教」による教化の対象であると認識していた。第三に,しかしなが ら,このよう1こ従来の蟹課秩序観の枠縷みは維持されたものの,「整人之教員こよって薩洋にもゼ仁 義珪の蜷緒が晃鐵せるようになったと認識された結果,その枠績み内部紅おける醒洋の粒置は,も はや野蛮な「夷狄」からはなれ,ギ聖人之教」によ参教化された「中華窪へと,急速かつ大轄な接近 を遂げることとなった鐙だった。
縷彊講 本稿は,平浅8〜欝無度文藻省科学覇究費補鋳金基盤羅究(C〉による繊果の一部である.
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