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格差社会論における平等概念の把握

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論 説

格差社会論における平等概念の把握

       一橘木俊詔の所説の検討 北 村

   目  次 はじめに

第i節 橘木俊詔の平等概念の捉え方

第2節 匿機会の平等」と「結果の平等蓬の関連 第3節 ゼ形式的平等」機念の桂会変革的意義 結  論

は じ め に

 わが国では、欝90年代初頭の「バブル経済ま崩壊以降、不況の長期化ととも に、市場万能論が高まり、社会生活全体を通じて競争主義、能率主義が強まっ ている。こうした傾向は、一方では、すさまじいまでのヂ活力」を生むが、縫 方では、人々の間に孤立化や連帯感の喪失、格差・不平等、貧困、夢勝ち組達

と「負け纏」を作り出す.小泉純一郎内閣(20磁年4月〜2G粥年9月在任〉の

「構造改革豊路線はこうした傾向をさらに撫速させたといえよう。

 こうした現実を背景にして、欝90年代末から日本社会のゼ格差・不平等の拡 大葺が経済学、社会学、教育学などの学問分野だけでなく、論壇・ジャーナリ ズムにおいても活発に議論されるようになった。2006年i月には通常国会でも 論議され、小泉首相は当初r統計データでは格差拡大は確認されない蓬旨発言 していたが、2月玉目の参院予算委員会において誓格差が出ることは悪いこと だとは思っていない雄と答弁したことは記憶に新しいところである・r格差社

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行政社会論集 第20巻 第3号

会達は最近の国政選挙の重要な争点にもなっている。

 このように「格差・不平等」は活発に議論されているのであるが、翻って考 えてみるに、「平等とは何か達についての議論はそれほど活発でないように思 われる。言うまでもなく、紅格差・不平等」を問うことは紅平等とは侮かまを 問うことでもあり、講者を切り離すことはできないはずである。現状のゼ格差・

不平等」を是正し、r格差社会」を変革するためには、r平等とは侮か」を積極 的に議論し、近代社会の基本的極値としての平等概念に新しい意味内容を付撫 することが求められているといえよう繕。

 以上のような問題意識のもとに、本稿は、近年における格差社会論の代表的 論者である橋本俊詔の平等概念を批判的に検討したものである繍。欝90年代後 半以降、驫木は田本社会で進行しているr格差・不平等」の実態の解明と是正 策の提案を精力的に行っている。その点での彼の功績は大きいと言わねばなら ない。その上でのことだが、彼の平等概念について言えば、「平等とは何か」

を積極的に提言し、従来の理解を超える新しい意味内容を付加しているように は思われない。彼の平等概念は、「機会の平等」と「結果の平等遷を別々のも のとして単純に対置し、その上で嚇果の平等3よりも「機会の平等」を重擬 するという常識的な立場に留まっている!31.彼が「機会の平等蓬を重視するの は、それがr公正な競争崖を行うための前提条件だからであり、ゼ機会の平等」

が保障されている条件の下で競争が行われるならば、ゼ結果の不平等達は容認 しうるのである。こうした立場では紅平等とは何か逢について積極的な内容を 提起するのはむずかしいだろう。なぜなら、このr機会の平等謹重視の立場は あらかじめゼ結果の不平等≦を想定しているからである。このような立場では.

「平等な社会を実現するにはどうしたらいいか」を積極的に提起することより も、「不平等をどこまで認めるか」の方が重要な問題関心にならざるをえない のである。

 本稿では、まず、驫木の驚88年以降の著作をフォローし、彼が平等概念をど のように捉えているか、上述した「機会の平等」重視の立場がどのようなもの

一60一

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格差社会論における平等機念の掘握一橋木俊詔の所説の検討(北村  寧)

か、について考察する(第i節〉。次に、「機会の平等3と薪結果の平等』の関 連をどのように捉えるべきか、について考察する.まず、講者を対立的に把握 し、前者のみを強調する、現代潟本の典型的な見解に言及する。次いで、それ とは反対に両者を複合的に把握する諸見解について考察し、それを踏まえて、

平等を野形式」とヂ実質壕の爾翻面からゼセットとして」捉える視点の重要性 を述べ、驫木の立場が「どの程度の不平等が社会的に容認されるか」という問 題設定の範囲内に留まるものであることを指摘する(第2節〉。最後に、資本 主義社会において、匿形式的平等」は単なる「建翻ではなく、積極的な意義 すなわち根本的な社会変革への道を切り開く ゼ社会変革的意義まを持つことを 明らかにし、驫木の平等機念の捉え方では、このような「社会変革的意義淫は 視野に入って来ないことを指摘する(第3節〉。

第嘆節 橘木俊詔の平等概念の捉え方

 以下、ig98年から20C6年までのいくつかの著作をフォローすることにしよう。

 葉.陪本の経済格差選(姶98年〉

 「法の下での平等は、憲法でも保障された人間の権利である。しかし現実に は、すべての人間や人間活動に平等が保障されているわけではない」駄これ が橘木が平等・不平等を考える際の基本認識である。彼は「機会の平等」を最 も重複する.ゼ機会均等の原理を実施することはそう容易ではないが、理想と して常に念頭におかれるべき原理である。すべての意欲のある人には、参簾と 競争の機会が与えられることが望ましい。教育の機会、仕事の機会、就職の機 会、昇進の機会、人生の様々な活動において多くの人に平等な機会が与えられ た末に、参撫者が競い合うことになる。競争の結果勝者と敗者が出ることは仕 方がないことだし、勝者にも順位づけが行われることもやむをえない」(i74ペー ジ).このように、野機会の平等」が保障されている場合には、競争の結果とし て生じる紅不平等まは容認される。ここには、ヂ機会の平等逢とヂ結果の(不)

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行政社会論集 第2§巻 第3号

平等謹とを切り離し、競争の前提条件として「機会の平等蓬を重視し、あらか じめゼ結果の不平等豊を想定する考え方が表れているといえよう.

 しかし、現実にはr機会の平等まがすべての人に保障されているわけではな い。戦前の9本はr機会の平等すらない不平等社会達であったが、戦後は.

r諸改革」により 野機会の平等が相当程度達成されたが、その後不平等が徐々 に頭をもたげ始めた達(鴛5ページ)。r機会の平等達は現実には阻害され、r結 果の不平等」が生まれている。こうした場合にはどうするか。税や社会保障に よる所得の再分配政策を行うことである。これには倫理的根拠がある。野機会 の平等達原則のところで不平等がある場合は、再分配政策を行うことに薪かな りの社会的合意達があるし、「極端な結果の不平等(すなわち極端な大金持ち と貧困者の存在〉は人間社会の原理に反する崖という薪おおまかな社会的合意達 もある。…番の困難は、再分配政策をどの程度行うかの選択であるが、これは 最終的には国民の選択によって決められることである(貿雛鷺ページ)。

 rではどの程度の不平等が往会的に容認されうるのだろうか遷(鰺Oページ〉、

橘木によれば、すべての人の所得や資産が同等に醍分されるような野極限の平 等性達を達成することに社会の合意はない。褻ある程度の不平等」は容認され うるが、それはどの程度までか。この問いに対して、彼は、効率性と公平性(=

平等〉はトレード・オフの関係にあるとする。トレード・オフの事例としてイ ギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領の経済政策、北欧諸国の 保守政権の経済政策を挙げる。結局、貯どの程度の不平等が社会的に容認され うるか」は、政策としては効率性と公平性のどちらをどの程度優先するかとい う問題であり、これもそれぞれの国の国民が(選挙で)決めることである。

 それでは、橘木自身はどう考えるのか。彼は、アメリカの哲学者ジョン・ロー ルズの窪正義論毒(欝難年)における「マクシミニマム(通称マクシミン〉原 理達、すなわち「社会経済における地位や所得に関して、分醗上最も不利な立 場にいる人の取り分を最大にする窪考え方を支持する(鰺2ページ)。「私自身 は澄一ルズの主張に基本的に共鳴する。従って、公平性を重視した所得分配政

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格差社会論における平等機念の掘握一構木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

策を稽いることに違秘感はない。マクシミン基準の適用に際して発生する翻次 的なネガティブな効果を最小にする政策こそが、求められる理想的な政策であ る」(娼4ページ〉.彼の立場は「結果として世に大きな不平等が生じれば、政 府の介入はあってよいとする考え方」(綿3ページ〉であり、この点でフリード マンやハイエクのギ新自由主義藩と一線を画している.

 2.窪結果の不平等達をどこまで認めるか」(霧中央公論選2000年5月号〉

 本論文は、前掲鞭本の経済格差露に寄せられた諸批判を4つの論点に整理 し、それに答えたものである。4番欝の論点は野所得格差是認論達(橘木の命 名〉で、それはヂ経済の不振を立て直すには.所得格差はむしろ歓還すべきで、

現時点ではこの問題は無視してよい轡というものである。彼はこのヂ所得格 差是認論まはr頑張る人や貢献度の高い人と、そうでない人の間の賃金格差を 是認し、前者の成果報醜と勤労意欲を尊重する思想まだとし、響私もこの考え 方を原則的に支持する。現に私の本の中でも、賃金や昇進における年功序列翻 から能力・実績主義への転換を主張している達と言う。その上で、r能力・実 績主義に忠実であるなら、機会の平等が大切になってくる蓬とし、「すべての 人が平等に機会を与えられてはじめて.公平な競争がなされるべきである」が、

現実には、「わが国の機会の平等には黄信号がともっている」と指摘する。こ の事実認識に基づいて、彼は言う。rわが国では、機会の平等を達成すること が、能力・実績主義への移行に際して大前提となるが、現状では、このことが まだよく認識されていないといえるのではないか蓬。これがヂ所得格差是認論達 に対する回答である。続けて彼は言う。r機会の平等が保障された上で・人々 が公正な競争の中に入り、その結果賃金に格差がつくことに異論はない。むし ろ、これが人間社会の公正原理であるといえるので、結果の不平等は容認され よう」(以上、80一雛ページ〉。

 このゼ所得格差是認論墨への回答には、r機会の平等逢とr結果の(不〉平 等」とを切り離し、「公正な競争」の前提条件として「機会の平等」を重視す る考え方が端的に示されているように思われる。野平等婆とは「機会の平等」

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行政社会論集 第20巻 第3号

が保障された条件のもとで人々がr公正な競争鷹を行うことであり、その結果 として格差はε不平等」でないどころか、「人聞栓会の公正原理まだというの

である。

 3.窪封印される不平等選(20経年〉

 本書の前半(第i部〉は格差・不平等に関する著作を発表している論者たち

(橘木俊詔、苅谷麟彦、斎藤貴男、佐藤俊樹〉の座談会の記録であり、後半

(第琶部〉は橋本によるギ不平等化の理論的・実証的背景と政策問題」と題す る論文である。本書で特徴的なことは、被が能力差を生まれながらのものと見 なし、こうした能力差による処遇の格差(賃金など〉を容認していることであ

る。

 彼は.野ネオ・マルクスの思想では、能力の差は認めないか、あるいは認め たとしても、能力の差を補澄するような政策が必要だと主張している3と述べ、

次のように言う.薪この点に関する私の意見は.冷酷かもしれないが、人には 生まれつきの能力の差を認めざるをえない。そして能力の差によって難遇に差 が生じることもやむをえない、というものである。…中略一したがって、能力 差によって生じた処遇の格差(たとえば所得)を容認する。なぜならば、優れ た能力を持って生まれた人が社会に貢献する程度にははかりしれないものがあ るからである」。実例としてr天才的な医学者輩パスツールとヂ経営能力が抜 群の経営者」ビル・ゲイツを挙げる.「これら二人は例外的な天才的な能力の 持ち主であるが、ごく一般的な能力の持ち主にも、社会への貢献度はパスツー ルやビル・ゲイッより劣るが、あてはまることである拶。

 これは前掲鞘本の経済格差嚢や窪中央公論垂論文には見られない、新しい 見解である。橘木が原則的支持を表明するゼ能力・実績主義崖にしても「機会 の平等」・「公正な競争謹を「大前提達としていた。しかし、人間には生まれつ きの能力差があり、その能力差による難遇の差を容認する、ということになる と、響機会の平等」が保障されている場合であっても、最初から野勝負あったま となってしまう、彼が重視する褻機会の平等豊・ゼ公正な競争達はほとんど意味

64一

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格差縫会論における平等概念の驚握一橘木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

がなくなってしまうのではないか。本書の見解は従前の見解と整合していない と言わざるをえな鞍瀞。

 4.汗結果の不平等達がゼ機会の平等達を奪うま

       (窪エコノミス殖2006年4月25日号〉

 私見では、2006年頃から、以前に比べれば橘木のトーンが一基本的立場は 変っていないが一新結果の不平等達を重視する方向にいくらか変化したように 思われる。本論文で彼は「機会の平等とセーフティネットが確保されていれば 結果の不平等(所得分配の不平等〉は問わない達とする有力な見解に対し、わ が国は機会の平等もセーフティネットも確保不十分であるとし、彰結果の不平 等」がr階屡の直走化遷(機会の不平等〉につながりかねないと主張する。r所 得や鱈層の2極化が子弟の教育や職業の決定に際して、子どものやる気や努力 心まで含めて格差が生じているまと述べ、ダ結果の不平等をそこそこにしてお かないと、機会の不平等、すなわち格差の再生産を招きかねない」と警鐘を鳴

らす麟。

 5.臨本の貧困研究雌(2006年9月〉

 本書(浦川邦夫との共著)は、著者が定義する「相対的貧困まと夢絶対的貧 困まの概念を駆使して、現代欝本社会の貧困の実態を分析し、!99G年代から溢 世紀初頭にかけて深刻度が増したことを明らかにした.本書の特徴は、「結果 の不平等窪としての「貧困璽を分析し、「貧困は容認できない達とする見地を 明確にしたことである。彼らは言う。哺場主義社会において、ある程度の格 差が生まれるのは仕方がないし、著者達もそれを許容するものである。しかし ながら、貧困である人々が絶対的に見ても相対的に見てもできるだけゼロであ る社会が望ましい轡.

 6.騨格差社会墓(2006年今月〉

 本書は橘木の一つの到達点を示す著作といえよう.ここでは、三つの点だけ 述べることにする。第一には、薪結果の平等・不平等護とヂ機会の平等・不平 等」を区別する必要があるとした上で、教育や職業などを具体例に挙げながら、

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行政縫会論集 第20巻 第3号

現在の日本では「機会の平等」達成が不十分であると指摘する。第二には、

r格差をどこまで認めるか」について、ヒつの考え方まがあると指摘する。一 つは、格差の上層と下層の差に注目する考え方(差をどこまで縮小するか〉で、

貧困者が存在することは容認する。もう一つは、下層が全員貧慰者でなくなる ためにはどうするか、という考え方で、これは上層と下層の差の存在を認めつ つ、貧困者がゼ霞の世界を想定するものである。講者の分岐点は「貧困を容認 するか否か重であるが、彼はrどちらかといえば後者の考え方」を支持する。

ただし、貧困は容認しないが、これまで購様、「どこまで格差を認めるのかと いうことは、国民の判漸に任されることになります」と述べている隷。第三に は、本書では軒生まれながらの能力差」に言及していない。前掲露封印される 不平等墨で述べていた罫生まれながらの能力差」による「処遇の格差」を容認 する見解は本書には見られない懸。

 7.ま と め

 驫木の平等機念の捉え方の概略は、以下のようになろう。

/董/ r機会の平等崖は憲法でも保障された人間の権利であり.常に理想として  追求さるべき重要な原理である。新機会の平等窪は髪公正な競争達の前提条  件であり、ゼ機会の平等窪が保障されている条件の下で、公正な競争が行わ  れ、結果的に魑遇面で格差・不平等が鐡ても、そうした野結果の不平等まは  容認しうる。

② 現実には、r機会の平等」はすべての人間に保障されているわけではない。

 そうした条件のもとでは、税や社会保障による再分醗政策を行う必要があ甑  そのことに社会的合意もある。この点でハイエクらの新露虫主義とは立場を  異にする。問題は再分配政策をどの程度行うかであるが、これを決める「普  遍的原馳はない。最終的には国民が選挙を通じて決めることである。

③ では、どの程度の不平等が社会的に容認されうるのか。効率と公平性(二  平等〉はトレード・オフの関係にあり、政策としてはどちらをどの程度優先  するかという問題である。この問題も、最終的に国民が選択することである・

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格差社会論における平等概念の掘握一橋木優詔の所説の検討(北村  寧〉

鱒 わが国では欝90年代から2i世紀初頭にかけて貧困が深刻化している.わが  国は市場主義社会だから、ある程度の格差が生まれるのは仕方がない。しか  し、「結果の不平等謹としての貧困は容認しうるものではない。

第2節 r機会の平等」とr結果の平等まの関連

 前述のように、驫木俊詔は平等を「機会の平等」とド結果の平等」に区分し、

その上で、前者を重視する見解であった。本節では、このような平等機念の捉 え方に問題はないか、「機会の平等涯と嚇果の平等」の関連をどうつかむか、

考察することにしたい。

 そこで、まず、r機会の平等」とr結果の平等まとを別のものとして対置し、

「機会の平等崖を強調する典型的な考え方に書及する。この種の考え方は現在 のわが國において広く流布され、支配的とも言える見解だからである。次に、

ゼ機会の平等蓬と野結果の平等まとを切り離すのではなく.両者の関連を複合 的に理解する諸見解を考察する。それを踏まえて、最後に、橘木の平等概念の 問題点を考察することにしたい。

 重.ヂ機会の平等」重視の立場4溢糧紀欝本の構想轟懇談会の報告

 この立場の典型は故小難恵三首相が委嘱した範i経紀猥本の構想毒懇談会

(河合隼雄座長)の報告である麟。後述するように、同報告はゼ機会の平等」

とゼ結果の平等」を対置し、「結果の平等」を否定的に評無した上で、紅機会の 平等達だけを強調する積極的なゼ格差肯定論雄である。念のため羅言すると、

橘木の立場が同報告とは異なることは明確である。彼はr格差・不平等まの実 態を解明し、その是正策を提言する「格差是正論者まである。その上でのこと だが、平等概念の捉え方においては、講者とも「機会の平等まと「結果の平等」

をそれぞれ別のものとして対置する点で共通性があることは指摘しておかねば ならない.

 さて、同報告は「溢世紀を動かす原動力は、騒人であり、騒人の先駆性であ

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行政社会論集 第20巻 第3号

る」(船ページ〉とした上で、以下のように、「結果の平等ま重視が薪機会の不 平等」を生み出したとし、「結果の平等重重視から誓機会の平等」重視に転換 すべきだと主張している。

 第一一に、これまで8本人はr結果の平等達ばかりを追求した結果、誓機会の 不平等まを生んだ、と主張する。褻残念ながら日本の社会には騒人が先駆性を 発揮するのをよしとしないきらいがある。日本人のもつ絶対的とも言える平等 感と深く関わるが薪結果の平等逢ばかりを問い、縦割り組織、横壷び意識の申 で、 遷る杭 は打たれ続けてきた。「結果の平等≦を求めすぎた挙句、野機会の 不平等達を生んできた蓬(40ページ)。

 第二に、2i経紀の日本では、「結果の平等達ではなく、騒人の能力の差異・

格差を前提とするr公正な格差まという考え方に立つべきだ、と主張する。

穆スクを負って先駆性を発揮した人々の努力が十分に報われるようにするこ とが肝心である、軒結果の平等感に別れを告げ、「新しい公平涯を導入すべきで ある。騒人の能力や才能には差異と格差があることを前提とした上で、業績や 将来性を評晒するゼ公正な格差」ともいうべき考え方である涯(壌ページ〉・

 第三に、結論的に、紅機会の平等」を保証すべきだ、と主張する.r企業家精 神と賢険魂を尊び、挑戦者に機会を与え、鰯人と社会がリスクを取る精神を培

う、そうした創造牲の原液の貯水池をつくらなければいけない。鱈人が自分の ビジネスを立ち上げる環境をもっと整える必要がある.(改行〉そうした機会 は誰に対しても平等に保証されなくてはならない。r機会の平等」が保証され なくてはならない操(償ページ)。

 以上のように、懇談会報告は、「機会の平等達と影結果の平等≦とを対立的 に捉え、ゼ結果の平等謹を否定的に評無し、紅機会の平等」重視を一面的に強調 している。ここで注意すべきことは、このr機会の平等」概念にはあらかじめ

「結果の不平等まが想定されており、その「結果の不平等達が籔公正な格差」

の名の下で正当化されている、ということである。瞬報告は能力主義的見地の

「格差是認論」の典型といえよう。

68一

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格差社会論における平等機念の掘握一橘木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

 2.r形式的平等(機会の平等擁からヂ実質的平等(結果の平等擁重視へ  ここからは、野機会の平等」と紅結果の平等」の複合的理解について考察す ることにしよう。周知のように、8本国憲法第14条は「法の下の平等遷を規定 している。驫木によれば、r機会の平等」は憲法で保障された権利であり、「理 想として常に念頭におかれるべき原理」であった。本稿では、法学の分野での 平等に関する議論に立ち入ることはできない鰭。平等概念(観念〉の歴史的な 展開に関する憲法学者(芦部信喜、奥平康弘〉の見解に簡単に言及するに留め

ざるをえない。

 まず、芦部信喜の見解を見ておこう灘。彼は、「法の下の平等」の歴史的意 義について、①にの平等の理念は、人権の歴史において、自由とともに、騒 人尊重の思想に壷来し、常に最高のR的とされてきた達、②職密と平等の二 つの理念が深く結び合って、身分麟社会を打破し近代立憲主義を確立する推進 力謹になった、③「現代の憲法においても、相互に密接に関連し依存しあう原 理として捉えられているまといった諸点を指摘する(123ページ〉・その上で、

次のように言う。

 ゼしかし、歴史の経過をみると、自由と平等とは相反する側面も有している。

十九世紀から二〇経紀にかけての市民社会において.すべて騒人を法的に均等 に取り援いその自由な活動を保障するという形式的平等(機会の平等〉は、結 果として、騒人の不平等をもたらした。資本主義の進展にともない.持てる者 はますます富み、持たざる者はますます貧園におちいったからである。法上の 自賠・平等は、事実の面での不自由・不平等を生じさせたのである。

 そこで、二〇世紀の鮭会福祉国家においては、社会的・経済的弱者に対して、

より厚く保護を与え、それによって他の国民と同等の自由と生存を保障してい くことが要請される。このような平等の観念が、実質的平等(結果の平等)で ある。平等の理念は、歴史的には、形式的平等から実質的平等をも重視する方 向へ推移していると言えよう窪(鴛3ページ)。

 以上のように、芦部は、「形式的平等(機会の平等擁から新実質的平等(結

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行政社会論集 第20巻 第3号

果の平等〉達重視の方向へというように、平等概念を歴史的に捲握している。

換言すれば、r権利としての平等」(ヂ市民権」〉からr生存(権〉の保障」(ヂ社 会権」〉重視の方向へ、ということである.彼はゼ形式的平等まと「実質的平 等」とを単純に対置していない。19〜20糧紀の近代市民社会の原理であった

r形式的平等まが矛盾を露呈し、r二〇世紀の社会福祉国家」では、従来からの r形式的平等」に加えて、r実質的平等をも蓬重視するようになったのである。

 次に、奥平康弘の見解を見ておこう雛。彼は(国家権力による〉野差別の禁 止」から夢差別の撤廃達へという言い方で、ド形式的平等遷からr実質的平等」

への歴史的展開を以下のように具体的に述べている。

 彰近代的人間像の析鐵と同時に誕生した「平等達観念は、近代という歴史的 性格にふさわしく、「差別蓬の禁止という消極的性質の要請に碾臼をおいた。

こうして、国家権力の翻は躍差別毒はいたしません。どうかみなさん、おあ とは自由になさってください」という構えをとればいいことになる、ギ平等涯 は、ひたすら「機会の平等陸、すなわち、みんなが、それぞれの生活領域にあっ て同じスタート・ラインに立つということを内容とするド平等」を意味した」

(鴛5ページ)。

 ゼけれども、周知のように、かく解された「平等」は.世紀の転換期あたり から社会過程のなかに新たに紅不平等達を生み、r差別逢を育てることになっ た。もちろん、こうして新しく成長しはじめた「差別蓬を、社会遍程そのもの にまで下りていって禁正し撤廃させることが、国家権力の任務に属するように なる。社会のなかに浸透した「差別蓬慣行は、公権力の努力にもかかわらず、

容易になくなるものではない。…牛酪…こうして簸弊としてのヂ差別慣行」に よって社会的にハンディキャップを負ったひとたちには、それぞれのことがら にふさわしい形で、なんらかの優先的な処遇を与え、そのことにより、言うな らば瞬じスタート・ラインに立つ」という命題がなんとか当てはまるような 条件を積極的に作ってゆくことが、国家の責務であると感ぜられるようになっ ている涯(捻5一魏6ページ〉。

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格差社会論における平等概念の廼握一構木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

 このように、平等機念(観念〉は、「差別獲を禁止して人々を「同じスター ト・ライン達に立たせるだけのr機会の平等まから、人々の社会生活における r不平等ま・r差別まを禁止し撤廃させ、社会的にハンディキャップを負った人々 も瞬じスタート・ライン蓬に立てる条件を積極的に作る方向へと、すなわち 嘆質的平等」を確保する方向へと展開しているのである。アメリカのrアファー マティヴ・アクション蓬は社会的にハンディキャップを負った人々に紅優先的 な処遇達を講ずる施策である。

 以上、二人の憲法学者の見解に言及したが、重要なことは、二人とも平等概 念を歴史的に把握していることである。r形式的平等(機会の平等)」とはr法 の下の平等諜であり、近代市民蛙会の原理の一つである。しかし、社会の発展 とともに、紅形式的平等(機会の平等)まの矛盾・限界が明らかとな甑それを 補うものとしてゼ実質的平等(結果の平等)まが登場したのである。現代社会 において「形式的平等(機会の平等〉」と「実質的平等(結果の平等擁は併存 する.両者は対立的ではなく、ゼセットとして(ひと組のものとして〉」捉えら れているということができよう。

 3.a本板野結果の平等まの捉え方

 「機会の平等蓬とゼ結果の平等涯との関連については、教育社会学者の苅谷 鰯彦が興味深い考察をしている難。欝65年6月4目、アメリカのジ3ンソン大 統領は前年に黒人差別の撤廃をめざした公民権法が成立したことを受け、「貧 困への闘い」のいっそうの強化を提唱した薪諸権利の達成のためにまと題する 演説を行った。この演説にはゼ結果の平等重という平等についてのまったく新 しい考え方が示されていた。汀競争のスタートライン」に立たせるだけでは、

過去から蓄積されてきた負の遺産のハンディキャップを取り除くことにはなら ない。だから、機会の平等だけでは不十分」であり.ゼ結果の平等」の追求は けエアな競争を可能にする条件の整備として、能力の発達の機会を保証しよ うという考え方」に基づいている(以上、欝9−i鴨ページ)。続けて苅谷は言

う。

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行政社会論集 第20巻 第3号

 「このように、機会の平等を形式的に与えるだけではフェアな競争はできな い。能力の伸長を阻まれている環境を改善しなければ、同じスタートラインに 立ったことにはならない。結果の平等とは、機会の平等のいっそうの徹底と.

にもかかわらず、それでも公平な競争を阻む、歴史的に累積された負の遺産(無 差別や貧困〉に目を向けて考え出された平等主義の考え方だったのである達

(i70ページ〉.

 次に、彼は「結果の平等』の捉え方が上述したアメリカと日本(前掲窪溢徴 紀9本の構想選懇談会報告が引き合いに出されている〉では二つの点で大きく 異なることを指摘している。一つは、rアメリカの場合、機会の平等だけでは 不十分であるという認識から、結果の平等(二事実としての平等)を求める方 向で平等観の革新が起きた。ところが目本では、それとはまったく反対に、結 果の平等を脱却し、機会の平等へ向かうべきだという方向で平等観の変更が行 われようとしている塗ことである。もう一つは、アメリカにはrグループ闘の 平等という視点窪があるのに対し、日本にはそれがないことである。アメリカ 版の結果の平等はr社会の成員全体を等しく平等に扱おうという平等の把握邊 ではなく、ゼマジ3リティ・グループと同じ程度にマイノリティ・グループが 機会の平等の恩恵にあずかることを求めた」ものである、他方、日本版ゼ結果 の平等嵯には「グループ間の比較という視点達は含まれておらず、郵カテゴリ カルな掘握ではなく、すべての徳人を同じように難遇することに目を向ける」

ものである(以上、葺2ページ〉.

 このようにアメリカと日本の違いを述べた後、彼は、日本版r結果の平等達 の問題点として、①結果の平等を事実に即して検証しないため、r事実として の(不〉平等」には羅が向きにくいこと、②結果の平等が機会の平等の不十分 さを補うものと位置づけられず、結果の平等が機会の平等を阻害しているとい う見方になっていること、を指摘している(以.ヒ、i7欝73ページ〉。

 以上のように、アメリカにおけるド結果の平等達とは「機会の平等」の不十 分さを補うものであり、ヂ機会の平等のいっそうの徹底涯と不可分のものとし

一72一

(15)

格差社会論における平等概念の掘握一橘木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

て捉えられている。こうした見解は、ヂ機会の平等まと「結果の平等まを切り 離し、両者を対立させる田本版「結果の平等董の捉え方(ぎ2雌紀欝本の構想選 懇談会報告〉とは大きく異なっている。

 4.教育におけるr機会の平等」概念の重層牲

 「平等論まに関わる多数の著作をもつ竹内章郎はゼ機会の平等達と「結果の 平等」を単純に対置する考え方を退け、ゼ機会の平等」が重層性をもつ概念で あると指摘する麟。彼は、ゼ機会の平等まと市場競争との野ワンセット論蓬の ような、格差・不平等を拡大する「機会の平等達もあれば憲法第25条の社会 保障受給の権利(社会権〉のような、格差・不平等の克服に資する新機会の平 等」もあり、また、新自由主義の大御所ハイエクのように、野機会の平等」を 主張しながらも、その実現不可能を説く見解もあり、ヂ機会平等論まは多様で あることを指摘する。

 そのうえで.彼は教育における機会の平等感概念は重層的なものであって、

以下のようなr歴史的にも確認できる」三つの次元から成るものと捉えてい

る鰍。

 (至/前近代批判次元での教育の機会平等(形式的機会平等①〉

 これは、民族・性・家系などのような前近代であれば存在していた他者・環 境からの妨害がなく、教育機会が万人に同一=平等に開かれているという意味 での機会平等である。しかし、経済的条件等により、現実には教育が受けられ ない場合があり、実質的には格差・不平等が生まれる。見せかけの機会平等で

しかない。

 (21近代の実現という次元での教育の機会平等(形式的機会平等②)

 これは、たんに飽者・環境からの妨害がないだけでなく、経済的な条件の不 備によって就学や受験などの機会が奪われることがないという意味での、経済 的条件も機会概念に含めた機会平等である。この形式的機会平等②は形式的機 会平等①をはるかに超えて機会平等を拡張することは明らかである。しかし、

この形式的機会平等②でも能力による差別を自明視しており(日本国憲法第26

(16)

行政社会論集 第20巻 第3号

条i項の解釈に関わって〉、形式的機会平等②止まりではまだ格差・不平等を 支持し固定化することになりかねない。

 ③ 近代を超えつつある次元での教育の機会平等(実質的機会平等①〉

 これは、形式的機会平等①と形式的機会平等②とを踏まえて実現がはかられ るもので、教育機会が個人の能力しだいで不平等になる点を克服する機会平等 であり、鰹々人の能力の発達の必要に等しくという意味で、各人に平等にふさ わしい教育態勢を整えることをもって教育の機会平等とするものである。竹内 によればこのような考え方は障害児(者〉教育論・運動論のなかで鍛えられ たものであるが、実質的機会平等①は障害児教育だけでなく、健常児教育にも 適用でき、格差・不平等拡大の競争主義とも無縁であり、真に実現する意義が

ある。

 以上のように、竹内は、教育における「機会の平等」を三つの次元の重層的 構成として掘握するのであるが脇、注目すべきは、彼がゼ機会の平等窪機念を 理解する際、それを儲果の平等達と対置していないことである。彼は機会 平等は、つねに〈特定結果と結合した機会平等〉でしかない」とし、次のよう に言う。ゼ現実の機会平等は、なんらかの特定の結果を予定し、これに有利な ように想定されているものであり、機会平等それ自体のなかで結果の問題も考 えるべきものである.機会の平等と結果の平等の単純な対置は、真の平等につ ながる機会観念自体の掘握を妨げるとも言える蓬(i霧ページ〉。

 彼のr〈特定結果と結合した機会平等〉」という指摘は重要である騰。前述 した軌世紀藏本の構想選懇談会報告について言えば同報告のド機会の平等」

概念がゼ公正な格差塗二ε結果の不平等重というゼ特定の結果屡を予定し、

「これに有利なように想定されている」ことは明らかであろう。

 5.橘木の見解へのコメント

 これまで「機会の平等蓋とゼ結果の平等崖とを切り離すのではなく、講者の 関連を複合的に理解する諸見解について考察してきた。各論者は醗究分野・研 究の対象と方法などが異なるので、諸見解を一一括して議論することはできな

(17)

格差社会論における平等機念の掘握一橋木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

い雛。しかし、各論者ともゼ形式的平等ま・紅機会の平等」とヂ実質的平等」・

「結果の平等まをゼセットとして(ひと組のものとして擁捉えている点では共 通している。私は、この「セットとして」捉える見解から重要な視点を引き出 すことができると考える。それは、ε平等」をゼ形式董とヂ実質まの爾鯛面か ら複合的に把握するという視点である.この視点に立つことによって、r形式 的平等崖・r機会の平等」をさらに徹底させ、誓実質的平等達拝結果の平等喋を より高いレベルに引き上げる方向を切り開くことが可能になるのではないだろ

うか。この視点の意義は、ゼどのように平等を実現していくか」という議論を より前進させることができる(そうした可能性をもつ〉点にある。

 ここで橘木の見解に戻ろう。くり返しになるが.彼は「機会の平等遥と「結 果の平等まを尉々のものとして対置し、その上で、ヂ機会の平等諜を重視して いる.しかし、このゼ機会の平等」概念にはあらかじめ「結果の不平等まが想 定されているのである.したがって、野どの程度の不平等が社会的に容認しう

るか窪が重要な問題とならざるをえない。もちろん、彼は「結果の不平等涯を 不問に付してはいない。「結果の不平等まを是正するために、税や社会保障に よる所得再分醗政策を主張し、ゼ貧困3は容認しない立場を明確にし、「結果の 不平等謹が階層の固定化を招き、r機会の平等」が奪われることに警鐘を鳴ら

している。しかし、これらの主張は基本的に夢どの程度の不平等が社会的に容 認しうるか」という問題設定の範囲内で提起され、そのレベルに留まるもので ある.これは、r後ろ向き薫のスタンスではあるまいか。深刻化するダ格差・

不平等重を克服するためには.ゼ機会の平等墜と野結果の平等藩との単純な対 置にもとづく ゼ機会の平等」重視の平等観から「形式蓬とヂ実質達の爾側面か

ら複合的に把握する視点に立つ平等観への転換が必要だといえよう。

第3節 r形式的平等」概念の社会変革的意義

橘木俊詔がギ機会の平等」を重視する理由は本稿第i節のほ.」で引用し

(18)

行政社会論集 第20巻 第3号

た鞘本の経済格差選鐸4ページの文章に最もよく表れている。ヂ平等」とは r機会の平等」が保障されている条件の下で意欲あるすべての人がゼ公正な競 争嬉を行うことであり、そのr結果としての不平等まは容認しうるのであった・

彼がゼ機会の平等3を重視するのは、それがゼ公正な競争まのゼ前提」だから なのである。

 私もゼ機会の平等」(私の矯語法ではぜ形式的平等ま〉を重視している。だが、

橘木とは違った理密である。私が重視する理慮は、「形式的平等操の実現は当 該社会に根本的変革を迫るものであって、その意味で、r形式的平等ま概念は

ゼ社会変革的意義謹を持っているからである懸。以下、この問題について考察 することにしたい。

 董.ハイエクのr不整合ま

 上記ヂ社会変革的意義諜に関わって、竹内章郎のハイエクに関する言及は興 味深いものがある。竹内はゼ新自由主義の大御所ハイエクなど、機会平等が不 平等全般の克服にいたる場合がある点に気づき、機会平等に疑問を呈する人も いる樺と述べ、ハイエクのr機会の平等逢掘握におけるヂ不整合」を次のよ うに指摘する.rハイエクは、先には市場競争の形式的な墨発点として肯定し た機会平等を、不整合にも、否定ないし実現不可能とするのです。しかしそれ は機会を、市場競争の形式的串発点としてではなく、諸懸人の実質的な成長や 陶冶などにとっての、真の機会として理解したからこそのことだと思われます。

つまり、形式的な機会平等ではなく、実質性のある機会一諾個人の陶冶に真に 資する環境など一の平等をある程度真剣に考えたからこそ.ハイエクは機会平 等の実現を不可能だとしたと思われるのです」(絡2一婚3ページ)。

 私は、「新自由主義の大御所ハイエク」が「機会平等が不平等全般の克服に いたる場合がある点に」気づいているという竹内の指摘に注羅したい。「機会 の平等」を単なるr形式嘘あるいは夢理念」に留めておくのではなく、それを 人々の現実の社会生活の具体的な場面で実現しようとすれば.社会の根本的な 変革が必要であることはたしかであり、r不平等全般の克服にいたる場合董も

(19)

格差社会論における平等機念の掘握一橋木俊詔の所説の検討(北村  寧〉

ありうることである。このゆえに、ハイエクは夢機会の平等感を影否定ないし 実現不可能3としたが、反対に、私は「形式的平等蓬が彰社会変革的意義邊を 持つがゆえに、この概念を重視するものである。

 2.資本主義社会における平等の把握

 まず、資本主義社会における平等について私の考えを述べておきたい。結論 的に言えば、資本主義縫会は資本家と賃金労働者を主要当事者とする階級社会 であり、資本家と賃金労働者の階級関係が商品・貨幣関係に媒介されているた め、講者の関係は紅形式的には平等であるが、実質的には不平等であるまとい うことである。

 スミスとマルクスの学閥的業績を踏まえて市民社会論を展開した内田義彦は 資本主義社会の直接的生産者である賃金労働者が労働力商品(のみの〉所有者 である点に着目して、資本主義社会が「市民社会窪と褻賃金奴隷舗社会」とい う爾麗面を持つことを明らかにした。まず、哺民社会」とは賃労働者が労働 力商品の所有者であるという「視角瓢観点達を前面に押し鐡して捉えた概念で ある。彼は言う。

 r一方において、かれは労働力という商品の所有権者であり、所有権の完全 なる主体としてはかれは地の階級と全くおなじ権利能力を保有している。そし て、直接的生産者が法の主体として完全なる・他の階級と全く異なるところな き・権利能力を保有するというのは、階級社会のなかでは資本主義社会におい てのみのことである。この点にのみ注意をすると一あるいは、この観点から歴 史をみると、資本主義縫会は階級社会のなかでも自由な、他ならぬ市民の社会

(そこでは、法における平等が立法の理想であり、各人が自らの財産±商品を 難分しうる白蜜をもつことが経済的スローガンとなり、さらにそこでは自らを 支配するものは自らでしかないという意味での人格の尊厳が・道徳=縫会的強 麟の理念になっている〉として、他の社会から区別してあらわれ、そして社会 の発展は多かれ少なかれ不自由な社会から、究極の到達点たる自由な市民桂会 をめざしておこなわれるということとなるであろう轡。

(20)

行政社会論集 第2G巻 第3号

 資本主義社会において、人々は商晶・貨幣の所持者として、その限りで平等 な権利主体として、r法における平等」(法の下での平等=形式的平等〉、r各人 が自らの財産=商品を処分しうる自由謹(=財産権〉、噛らを支醒するものは 自らでしかないという意味での人格の尊厳」(=人間の尊厳)などの懸値理念 を基盤として、たがいに関係しあっている。資本主義社会はこのようなゼ市民 社会」の健面を持っており、「法の下での平等二形式的平等まは「市民社会」

の儲面の一部をなすものである。

 縫方、賃金労働者は…切の生産手段から擁除された労働力商品のみの所有者 であり、彼が生きるためにはその商品を8々売り渡さねばならないという「視 角=観点蓬を麟面に押し出して捉えるならば、資本主義社会は奴隷麟が頂点に 達した社会瓢賃金奴隷鰹社会である。内田は言う。

 ゼこのように労働者は所有権の主体であり、その意味で自由な人格であると しても、かれは生産手段を所有していないのであるから、かれの商品というの はほかならぬかれ自身瓢労働力である。…牛酪…資本家はそれ瓢労働力を飽の 凡百の商贔瓢生産手段とともに買い、それをかれの所有物として消費する。そ れが生産過程である。本来人間を生かしてゆくはずの労働過程は、…中略一労 働力がもとの所有権者たるかれ自身の支配を脱して、飽人=資本家の専一的な 支配に属するところにおいて、はじめて開始されるのであるから、それ(瓢労 働過程〉は、かれをつくり、その生命の内容をみたすものとしてではなく、か れを疎外するものとしてあらわれる。…中略…それはほかならぬ賃金奴隷なの である。そしてすべての直接的生産者が、すべての生産手段から解放されてく ることは、階級社会の中でも資本主義においてのみのことであり、…牛酪…こ の意味で、資本主義社会は生産手段の所有者の君臨=支配が完成し、奴隷綱が その広さにおいて、またその深さにおいて頂点に達する社会といいうる達(2総一 204ページ).

 これは、資本家と賃金労働者の関係を一種の奴隷麟と見なしたマルクスの見 解を踏襲したものである弱。賃金労働者は労働力商品のみの所有者であり、一

一78一

(21)

格差詮会論における平等観念の把握一橘木俊詔の所説の検討(北村  寧)

切の生産手段から擁除され、自己の一身以外に生きる術を持たない。彼は、生 産手段の所有者である資本家に雇われ、その指揮・命令に従わない限り、生き てゆくことができない。ヂ賃金奴隷」とは、このような資本家に対する賃金労 簡者の絶対的従属を表現したものであろう.資本主義蛙会は・一面では、一種 の奴隷凝とも見なしうる野不平等社会達というわけである・

 以上のように、資本主義社会は階級社会であるが、一面では市民社会であ甑 もう一面では賃金奴隷翻社会である。資本主義社会はこの両面をもつ歴史的に 独特の階級社会であり、それゆえに、彫式的には平等であるが、実質的には 不平等である達という特徴を持つのである。資本主義社会における平等は、

紅形式謹とゼ実質謹という二つの翻面から統一的に把握される必要がある。

 3.「形式的平等達概念の社会変革的意義

 それでは、資本主義社会における「形式的平等感は単なる「建前なのであ ろうか。そうではなく、社会の根本的変革を迫るような積極的意義をもってい るのである.私はこのことを平田清明から学んだ戦彼は言う。

 痛民社会における商品交換がおのずから成立させる、自立的諸騒人間の自 由・平等な法関係とその観念とは、それ自体、事実上の不白蜜・不平等の表現 そのものではあるが、その按象性は、人間の意識をしてはじめて、現存する外 的対象から飛躍させるものであり、人類が意識的に歴史を形成していく一動因 になるものである.(改行)市民縫会に固有な、観念上の白蜜は、内面の自由 であり、観念上の平等は法舗上の平等である。それは、現実における事実上の 不白磁・不平等を、騒人の内面に認識させ、法的基準そのものを吟味させる人 間精神の観念的法舗的保証である轡。

 難解な文章であるが、私なりに趣旨を汲み取ってみると、市民社会原理とし ての自由・平等の法的観念(権利)は資本主義社会における現実の不自由・不 平等を意識させ、その撹判・是正・変革を迫り、それを通じて、人々はより完 全な自由・平等の実現を求めて自覚的に歴史を麟っていく、ということであろ う。ヂ形式的平等」について考えると、舞えば9本国憲法第翼条「法の下の平

(22)

行政社会論集 第20巻 第3弩

等」はそれ自体としては紙の上に記された一つのゼ条文」でしかなく、r形式達・

健前蓬に留まらざるをえない。しかし、その彰形式的平等謹(新法の下の平等D があるからこそ人々は様々な差別・不平等(人種・信条・性・門地等々による〉

の存在を意識することができ、現実にヂ差劉・不平等まに直面したとき、それ を批判し、是正・変革を迫ることができるのである。

 ここで明女雇用均等法謹を具体例として考えてみよう。窮女雇用均等法」

はr法の下の平等を保障する霞本国憲法の理念にのっとり雇用の分野における 男女の均等な機会および待遇が確保されることを促進する(以下略〉窪ことを

目的としく第i条〉、第7条で、「事業主は、労働者の募集及び採用について、

女子に対して男子と均等な機会を与えるように努めなければならない藩と定め ている。それでは、纏えば、就職を希望する女子学生が野一般職まか「総合職」

かを本人の自由な意思で決められるであろうか。男子と同等のレベルでr均等 な機会達が与えられているであろうか。熊沢誠は、「総合職」を希望しても、

たいていの女性は「強靭された自発性達により「一般職」を選ばざるをえない 冒、エピソードを交えつつ、以下のように述べている。

 薪一九九〇年代半ば、会社の採用面接に臨んだ女子学生から聞いた話が忘れ られません。意欲のある女性でゼ私、総合職でやっていきたいんですまと言っ たところ、こう言われました  ゼ総合職、いいですね。やる気のある女性が 増えるのはうれしいことです.けれど、総合職ってたいへんですよ。大体みな さん、残業が八○時間とか九〇時間とかになります。予算(ノルマ〉がありま すからね。転勤も二年にいっぺんぐらいはあると思ってください。営業活動の 外交です。かばんが重いです。霞焼けもします。忙しいので、とくに結婚され るとたいへんです……藩。rどうされますか。やっぱり総合職にしますか」と迫 るのです。ゼじゃあ一般職にします窪。たいていの女性はそうなる。はじめから 一般職と決めつけたのではない、女性自身がそれを選択したんだ、会社はそう 説明するでしょう。ここでも野強鋼された自発撫です。男性社員のすさまじ い働き方を与件とすれば女性は一般職に撤退するわけです樺。

一80一

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格差社会論における平等概念の把握一橘木俊詔の解説の検討(北村  寧〉

 熊沢が言うように、いくら法律でr男女の均等な機会雌(形式的平等〉を定 めていても、「男性社員のすさまじい働き方輩をド与件」としているかぎり、

野たいていの女性まはぜ一般職謹を選択せざるをえないだろう、現実にはギ男 女の均等な機会」は十全に実現しているとはいえないのである(実質的不平等〉。

しかし、このことは次のことを意味する.すなわち、郭男女の均等な機会」(形 式的平等)を十全に実現するためには、r男性社員のすさまじい働き方違が r与件盛となっている現代日本社会そのものを変革しなければならない、とい うことである。そのためには、小手先の軒環境整備・条件整{灘の域を超えた 変革、伝統的性別役割分業、男子を基幹労働力とする雇用・労働のシステム等々 おそらくは社会生活の全体に及ぶような根本的な変革が必要となるに違いない。

 段本国憲法第慧条r法の下の平等獲にせよ、男女雇用機会均等法にせよ、そ れ自体としては単なる軒条文」であり、「形式卦匿建前」であろう。しかし、

ド不平等韮の現実を競物・是正・変革しようとする人々にとっては、r形式的平 等雄は単なる「建繭に留まるものではなく、その徹底・実現を通じて、社会 全体を変革し、野実質的平等達実現への道を切り開く積極的意義をもっている のである。

 4.橘木の見解へのコメント

 橘木の見解には、ゼ機会の平等」(形式的平等)の徹底が、縫会変革につなが り、「結果の平等葺(実質的平等)への道を切り開く、といった視点は希薄であ る。本稿第i節の珍.藩で引弔した文章と一一部重複するが、論文「「結果の不 平等」をどこまで認めるか」で次のように述べていた。r次に重要な点は、能 力・実績主義に忠実であるなら、機会の平等が大切になってくる。すべての人 が平等に教育を受ける機会、かつ希望する職業に就く機会を与えられなければ ならない。企業における人材配置も同様である。すべての人が平等に機会を与 えられてはじめて、公平な競争がなされるべきである樺。

 ここで彼はなぜr機会の平等婆をr大切涯だと言っているのであろうか。す べての人にf平等に教育を受ける機会、かつ希望する職業に就く機会」を保障

(24)

行政社会論集 第20巻 第3号

することがヂ結果の平等ま(実質的平等)への道を切り開くからだろうか。そ うではあるまい。「機会の平等」が「大切」なのは「公平な競争」を行うため の嚇提」だからである。そうした競争の結果、ゼ賃金格差がつくことに異論ま はなく、むしろ、「人間社会の公正原理窪なのである(8iページ).

 彼にとって、「機会の平等涯とは夢公平な競争窪の前提としてゼ理想として 常に念頭に置かれるべき原理蓬である.しかし、すでに指摘したように、彼の r機会の平等重概念にはあらかじめr結果の不平等まが想定されているのであ る。ヂ機会の平等涯とr結果の平等」とを切り離し、競争の前提条件として ギ機会の平等」を重視する平等機念の捉え方のゆえに、上述したような「縫会 変革的意義達は彼の視野に入って来なかったのである。

結 論

 欝90年代初頭のゼバブル経済達崩壊以降、市場万能主義、新自由主義が隆盛 を極めている.こうしたなかで、欝90年代後半から、橘木俊詔は田本社会で進 行しているr格差・不平等」の実態の解明と是正策の提案を精力的に行ってい る。私はこの点での彼の功績は大きいと考えている。しかし、彼のいくつかの 著作を読んで、ある種のr物足りなさまを禁じ得なかった。彼がゼ格差・不平 等」を精力的に論じるにもかかわらず、淳等とは侮か。平等な社会を実現す るにはどうしたらいいか」に関しては積極的な提言に乏しく、むしろ、ギ不平 等をどこまで認めるか達が重要な問題関心になっているように感じたのである。

竹内章郎らの先行諸醗究から学びながら、私のr物足りなさ斐は彼の平等概念 の捉え方に由来するのではないか、と考えるに至った。これが本稿の患発点に おける問題意識である.

 本稿の結論を簡潔にまとめれば、以下のようになろう。

1董/橘木の平等概念は、彩機会の平等豊と野結果の平等謹を別々のものとして  単純に対置し、その上で「結果の平等重よりもゼ機会の平等墨を重視すると

一82

(25)

格差蛙会論における平等機念の把握一橘木優詔の新説の検討(北村  寧〉

 いうものである。しかし、彼が機会の平等」を重視するのは野公平な競争」

 の前提だからである。このr機会の平等」重視の立場はあらかじめr結果の  不平等」を想定したものである。

② 私見では、平等概念は「形式蓬とゼ実質漣の爾灘面から夢セットとして」

 捉えるべきものである。しかし、上述のような平等機念把握のため、彼は  ド平等とは何か」に関して新しい意味内容を積極的に提起するには至らず、

 「どの程度の不平等が社会的に容認されるか」という問題設定の範遜内に留  まらざるをえなかった。

③ 私見では、ヂ形式的平等≦は単なるr建前窪ではなく、根本的な縫会変革  への道を切り開く r社会変革的意義重を持っている。しかし、彼がヂ機会の  平等」を重視するのは、それがド公平な競争」の前提だからである。このよ  うな平等概念の捉え方であるがゆえに、ゼ社会変革的意義謹は彼の視野には  入って来なかった。

 (注〉

(蓋1二宮厚美は夢格差とは侮より不平等を意味し、その克服とは平等を実現する  ことである」とし、野そうすると、問題は平等とはいったい梅を意味するのか・

 ということになってきます」と述べ、「自由・平等の現代的バージョンアップま  を主張している。(ギ新自由主義的格差社会化の構造とその克服視点ま置賃金と社  会保障轟翼α慧27、2006年韓月上旬号、算ページ)。

⑦ 本稿は驫木の平等機念について、ゼ機会の平等達と「結果の平等」の聞達を中  心として検討したものである.飽に検討すべき論点として、r能力の差諜による  難遇の格差をどう考えるか、という問題がある。重要な論点だが、本稿では立  ち入ることができない.なお、二宮厚美は編木の見解の弱点の…つを「格差社  会の構造と原石を能力主義的見地から掘握しょうとすること3と指摘している  (霧格差社会の克服毒山吹書店、2007年、237ページ〉.

纈 渡辺憲正は次のように指摘している.「軒格差社会論淫は…般に、結果平等と  機会平等を切り離し、前者を認めず、後者を一現状では失われつつあるという  認識を前提にして一要請するところに特徴があります達(夢格差社会論を読み直

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行政社会論集 第20巻 第3号

 す藩、後藤道夫飽窪格差社会とたたかう塞曹木書店、20解年、236ページ〉。

紛 橘木俊詔麩本の経済格差毒岩波書店、懲98年、算2ページ、以下、本文中に  ページ数のみ記入する。

⑤ 橘木俊詔曜結果の不平等塞をどこまで認めるか」窪中央公論毒2000年5月号、

 中央公論新社、77ページ。以下、本文中にページ数のみ記入する。

⑤ 橘木俊詔編著窪封印される不平等嚢東洋経済新報社、20経年、欝3一欝4ペー  ジ。なお、橘木は、本書において数箇所で人間の能力(差〉は生まれつきのも  のである旨記述している。鰍えば、鎗ページ、豆7一簸8ページ、鰺3一爲4ペー  ジ、22まページを参照。その際、彼はその根擁を示していない.

17/管見の限り、この著作以降、能力差を生まれながらのものと見なし、こうし  た能力差による鑓遇の格差(賃金など)を容認する見解は述べていない。

⑧ 橘木俊詔「ヂ結果の不平等」が「機会の平等まを奪うま蓼エコノミスト曇20総  年4月2灘号、毎饗新聞社、36ページ。

⑨ 驫木俊詔・浦鱗邦夫鞍本の貧困研究書東京大学鐡版会、2006年9月、279ペー  ジ。橘木俊詔ζアメリカ型不安蛙会でいいのか垂(朝露新聞社、2倉総年8月)で  も、貧困を容認しない旨遽べている(i欝一mページ〉。参照。なお、後述窪格  差社会選で貧困を容認できない理密を5点挙げている(捻2一亙34ページ〉。

⑱ 橘木俊詔匿格差社会垂岩波書店、2006年9月、婚竃一焉3ページ。

⑳ 本書では「生まれながらの能力差」について、次のように述べている。ヂもつ  とも、人の生まれながらにある能力差、たとえば身体能力、頭の良さ、容貌、

 性格などを平等・不平等の視点から考えることもあります。現実に存在する天  性の能力に差があるのは不平等だという極蝦な主張もありえます。これが本当  にそうなのかを議論することは、本書の範囲を超えていますので、ここではし  ません達(難4ページ).

麟 同懇談会の報告書は海台隼雄監修鞘本のフ霞ンテでアは段本の中にある露  (講談社.2000年)として刊行されている。以下、本書からの引矯はページ数の  み記す。

麟 法学での議論の概況については、購部照哉・野中俊彦窪平等の権利壽(法律文  化社、欝84年〉、樋賑陽一編謬講座・憲法学 第3巻 権利の保障曇(響本評論  蛙、欝94年)の匿第3章 平等張(安西文雄執筆)が参考になる。

繍 芦部信喜(高橋秘之補訂〉匿憲法 第響板毒(岩波書店、20解年〉、「第七章  二 法の下の平等ま参照.以下、本書からの引濡はページ数のみ記す。

(27)

格差桂会論における平等概念の摺握一橘木俊詔の霧説の検討(北村  寧)

線 奥平康弘穿憲法羅 憲法が保障する権利垂(有斐閣、欝93年)、ゼ第6章「等し  いものは等しく扱う輩ということについて一その権利問題を中心1こ達参照。以  下、本書からの引用はページ数のみ記す。原文の傍点は省略。

㈱ 苅谷鰯彦窪階屡化羅本と教育危機塞(有信堂高文社、20磁年〉。以下、本書か  らの弓禰はページ数のみ記す。

繍 竹内章郎拝機会の平等≦とは飼か一そのイデオロギーと現実」、後藤道夫飽  ζ格差桂会とたたかう塞(青木書店、2007年〉所収。以下、本書からの引用はペー  ジ数のみ記す。なお、竹内は平等論に関して多数の著作を発表している。主な  単行本として、霧§者の哲学嚢(大月書店、欝93年)、ζ現代平等論ガイ縫(青木  書店、欝99年〉、罫平等論哲学への道程毒(青木書店、200i年〉、匿いのちの平等論遜  (岩波書店、2005年〉。

麹 以下、竹内章郎、離掲論文、麺4一鰺8ページ参照。

鰍 竹内は、以.しの三つの次元に擁えて、ゼ超近代次元での機会平等(実質的機会  平等②擁を提起している。彼のヂ能力の共購性藩論とも関わる重要な論点であ  るが、ここでは立ち入らない。

騰 碓井敏正は、[機会の平等雄は「資源の麟約された社会においては、限られた  資源をめぐっての競争のための機会の平等3という意味を持つとし、罫競争は、

 競争の結果について差劉をつけることが目的であるから、自慮な競争を保障す  る機会の平等は、本来結果の不平等と結びついた機念であるということが分か  るまと述べている(贈由・平等・社会主義毒文理閣、婚鱗年、捻○ページ〉。

齢 例えば 「形式的平等諜、「機会の平等達、「実質的平等お 「結果の平等董などの  基礎概念の定義も各論者によって違いがあろう。しかし、その異講については  立ち入らないことにする.

⑳ 資本主義社会において、「自由・平等達というゼ形式」が肯定的意義をもつこ  とについては、北村寧職種紀桂会における騒人の自立と入間的連帯一市民社  会論とアソシエーション論を手がかりにして3(北料寧・佐久問孝正・藤霞嘉夫  編窪新世紀社会と人聞の再生茎八朔社、20磁年、所収〉を参照されたい。

欝 竹内章郎、前掲論文、捻4一捻5ページ。

韓 内懇義彦謬増補 経済学の生誕遜未來縫、欝62年、202−2鰺ページ。原文の  傍点は省略。以下、本書からの導禰はページ数のみ記す。

翻 マルクスは窪ドイツ労働者党綱領評注糞(ゴ一夕綱領批判〉で次のように述べ  ている。贋金労働者は、ある時間を無報醗で資本家のために…牛酪…饑くかぎ

参照

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