• 検索結果がありません。

明治、大正から公害国会(1970年)以前の 環境行政の動向と法制度(その1)

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2023

シェア "明治、大正から公害国会(1970年)以前の 環境行政の動向と法制度(その1) "

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

この記事は、季刊「環境技術会誌」2020.10 NO.181に掲載されたものに写真等を加えて編集し たものです。

明治、大正から公害国会(1970年)以前の 環境行政の動向と法制度(その1)

― 廃棄物対策を中心に ―

一般財団法人日本環境衛生センター

理事長

南 川 秀 樹

記憶に残る本の再読は楽しいものである。書き込みやメモの貼り付けは、これ までの自分を振り返ることができる。今回の原稿を書くにあたり、多くの書籍と 何度目かの再会を果たした。若いころに読んだ公害問題の古典から最近のもの まで多岐に渡る。具体的な書籍名は連載の最後に明記させていただくが、強く興 味を惹かれた書籍は読むたびに新たな発見がある。こうした機会を与えてくれ た技術管理協会に感謝したい。

1.明治、大正の環境衛生問題

① 鉱山開発

公害は明治時代から本格化し、その代表が銅山開発による大気や水質の汚染 である。被害は農林業から人の健康にまで至った。明治の殖産興業政策は、富国 強兵という国是の根本をなしており、富岡製糸場に代表される生糸とともに、銅 の生産が、国内産業と輸出拡大の中核を担った。鉱山事業は、多くが国からの払 下げを受けて民間事業として進められた。西欧の採鉱・製錬技術が導入され、産 出量が急増し、その過程で多くの公害が生じた。その悪しき代表例が、足尾銅山 鉱毒事件である。「日本の公害の原点」とも称される。1877年(明治10年)に古 河市兵衛が事業主となったが、その2年後から銅製錬により多量の銅化合物や硫 酸などが渡良瀬川に流れ込み漁業被害を発生させた。その後も、渡良瀬川沿いの 農地には鉱毒水による汚染が拡大した。周囲の山林は、燃料用伐採と製錬過程か らの排煙による煙害により、丸裸となった。

日本最初の選挙で衆議院議員となった田中正造が、強い問題意識を持って立ち 上がり様々な活動を展開したが功を奏せず、失意の中「真の文明は山を荒らさず、

(2)

川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」という遺言を残して逝ったこと はよく知られている。彼が護ろうとした谷中村は、その後、渡良瀬貯水池とされ、

住民の多くは、北海道佐呂間町栃木に移転を余儀なくされた。

私は、1974年(昭和49年)に上京した直後に当地を訪れたが、その頃は操業が完 全に終了したばかりであり、山は土色で工場跡地もくすんだ灰色の世界であっ た。

(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より) (佐呂間町HPより)

他方、明治の企業人の誇りを以って果敢に対応した例もあった。その代表が別 子銅山鉱毒である。この鉱山は、払下げではなく住友一族が江戸時代から経営を 司り明治に至った。本格的な銅製錬は1888 年(明治21年)から新居浜製錬所で 行われたが、その5年後の大増産時から二酸化硫黄を含む大気汚染により、米な ど農作物に多大の被害が出た。農民からの強い抗議活動に時の支配人、伊庭貞剛

(3)

は「住友家の家名を汚すようなことがあってはならない」と、新居浜から北18km の瀬戸内海の無人島である四阪島に製錬所の移転を決意、1905年(明治38年)か ら本格操業させた(田中正造もこの決断を激賞した)。それでも四阪島製錬所か らの二酸化硫黄は対岸の愛媛県の農地を汚染した。そのため、一時的な操業の停 止、年間製錬量の総量制限なども実施した。ドイツで実験段階であった排煙脱硫 技術の実用化、二酸化硫黄中和工場の完成、それを活用しての硫安肥料の製造、

商品化が行われた。銅山周辺の植林による緑の復元にも取り組み、現在はあたか も原生林を想わせる豊かな森となっている。また、東京皇居前広場の楠木正成像 は、別子銅山の銅から作られ、献納された(製作:東京美術学校、高村光雲など)。

(住友グループ広報委員会HPより)

もう一つの例は、日立銅山である。1908年(明治41年)に近代的な製錬所が設 置、産銅量が急増した。それに伴い排出される二酸化硫黄が農作物被害を増加さ せた。この地域の取り組みには他には無い大きな特徴が二つある。先ずは、経営 者である久原房之助が、地域の住民たちとの話し合いを厭わず交渉に応じ、

損害賠償を含め平和的な手段で問題解決に取り組んだことである。

その過程は、新田次郎「ある町の高い煙突」に詳しく記述されている。固有名詞 は別名となっているが、明治の企業家と若い地元青年との交流は時代の活力を 感じさせる。二つ目は、対策としての156mの高煙突の設置であり、それに至るわ が国初の高層大気観測である。元気象庁職員であった新田次郎が本件に強い関 心を寄せたのも高煙突と大気汚染の関係の解明への取り組みに深い感動を覚え

(4)

たことによるという。1914年(大正3年)に325mの山頂につくられた高煙突は当 時世界一と言われた。これに携わった技術者の一人が、小平浪平である。

OECD日本の環境政策レヴューが1976年に行われた(私はこれに携わるため下っ 端の研修生として赴任した)。これは、フランス人プリュドム環境局次長が中心 に実施された。足尾銅山のような悲惨な環境破壊の事例もあったが、別子や日立 の事例にみられるように、他国に比較して、伝統的に日本は環境政策に後ろ向き ではなかった、との評価を得ている。

② 廃棄物処理政策の始まり

江戸時代までの廃棄物処理は、自然還元、リユース、リサイクル(修理して使 用)が中心であった。大都市では、住まい周辺の空き地や河川に投棄され、江戸 では永代浦(富岡八幡周辺)に埋め立て処分場が設置された。明治時代に入り、

殖産興業による都市への人口集中と開国による貿易拡大は、伝染病の大流行を 引き起こした。横浜検疫所(金沢区能見台)に赴任した野口英世が頭角を現した のもこの頃である。コレラ、赤痢、腸チフス、ペストにより年間数万人の死者が 出、ハエ、蚊、ねずみなどの繁殖を抑える衛生対策の導入が喫緊の課題となり、

1900年(明治33年)に汚物掃除法が下水道法と同時に制定された。明治憲法の制 定が1889年(明治22年)、民法制定が1896年(明治26年)を考えれば如何に早期 に制定されたかが理解できる。法律の構成は極めてシンプルであり、対象となる 汚物(塵芥、汚泥、汚水、し尿)、処理処分の市町村責任、できる限り焼却処理 する、というものであった。閣議文書には、山県有朋、西郷従道の署名がある。

(国立公文書館資料より作成)

1918年(大正7年)から大流行したスペイン風邪は、日本でも45万人の死者を 出したが、マスクの着用、患者の隔離などの対策が行われただけで、幅広い視点 からの衛生政策の見直しは無かった。

(5)

(東京都健康安全センター「日本におけるスペイン風邪の精密分析」より)

なお、東京都資料によれば、1916年(大正5年)から1920年(大正9年)のコレラ 再流行当時には、生ごみは多くが露天焼却であり、ごみ置場や埋立地でばい菌や 害虫が発生し、伝染病の流行に繋がることがあったという。

また、1930年(昭和5年)に法改正が行われ、汚物処理手数料徴収、厨芥と雑 芥の分別収集規定が加えられている。当時の都市ごみの排出量は国全体で1,500

~1,800万t/年程度、一人当たりはせいぜい100g程度/日であった(溝入氏資料に よる)。

昭和に入り、戦時色が強くなる中、「欲しがりません、勝つまでは」「もった いない」がスローガンとなり、廃棄物行政としての進展は無かった。この間、1923 年(大正12年)には関東大震災があった。震源地は、平塚、茅ヶ崎沖であり、昼 の炊事時間に当たり、大火災が発生した。横浜は中心地が全滅、東京でも本所、

深川、日本橋あたりが焼失した。そこで生じた瓦礫は、横浜山下公園や東京湾岸

(現在の豊洲)などの埋め立てで処理された。

③ 工業開発

明治10年を過ぎ、欧米資本主義国のアジア市場への進出・侵略に対して、「万 国対峙」「輸入防遏」をスローガンとして対抗すべく、綿紡績業から始まる工業 の育成に力を注いだ。

「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と大阪市が呼ばれる由来は、渋沢栄一の 指導を受けて1882年(明治15年)に設立された大阪紡績工場の活動(一万錘の機 械と石炭自家発による電灯を設備し、昼夜に二交替制で稼動)に始まる。その後、

大規模な紡績工場が立て続けに設置された。工場からの大気汚染や水質汚濁は たちまち農作物の収穫に影響し、地域の大問題となった。

(6)

渋沢栄一と東洋紡初代社長山辺丈夫、大阪紡績(東洋紡HPより)

その過程で、大阪府は工場立地を制限するなどの府達を発し、この文書にわが国 で初めて「公害」という文字が使われた。1932年(昭和7年)には、日本最初の

「煤煙防止規則」が大阪府令として制定された。環境汚染の本家であるイギリス でも本格的な対策は導入されず、夏目漱石の日記(例:1901年(明治34年)1月 4日)に述べられたように、ロンドンでは霧の日の太陽は赤黒く、散歩して痰を 吐くと真黒な塊が出る時代が長く続いた(ロンドン五輪開会式の産業革命プレ イは興味深く楽しめた)。

ロンドン五輪開会式「産業革命」(JOC HPより)

東京でも、洋風建築の普及やインフラ整備のためセメント需要が高まった。

1883年(明治16年)には、深川セメント工場が浅野総一郎に払い下げられたが、

工場からのセメント粉塵に住民からの苦情が続出した。

(7)

草創期の深川浅野セメント工場(浅野総一郎 記念会HPより)

浅野は、アメリカの最新鋭電気集塵機を輸入し、対策の強化を図った。彼が中心 となり、横浜市鶴見区や川崎市臨海部で埋め立てによる工場用地の造成が行わ れ、後の京浜工業地帯の先駆けとなった(浅野総一郎の墓は横浜市鶴見区の総持 寺にあり、その巨大さは他に例を見ない)。しかし、川崎の工業用地に新設され た浅野セメントからは、そこから飛散するセメントダストで、稲作、水産から住 民健康被害まで発生させ、長く紛争が続いた。

1931年(昭和6年)の満州事変以降は、軍需工業中心に重化学工業の拡張と新設 が相次ぎ、同年に「国立公園法」が制定されたこと以外に特筆すべきことは無か った。なお、第二次世界大戦以前の環境に関する判例としては、「大阪アルカリ 事件」および「信玄公旗掛松事件」がよく知られ、戦後の政策にも影響を与えた。

2.第二次大戦後から公害国会に至る環境・廃棄物対策の動き

① 廃棄物処理の動向

戦後の廃棄物処理は、1945年(昭和20年)9月にGHQから出された指令に始まる。

「進駐軍のごみを日本政府の責任で処理せよ」という指令である。全国各地で戦 災瓦礫の処理を迫られ、多くは都市部に点在する堀、小河川の埋め立てによって 進められた。東京では、江戸城外堀、運河などが対象となり、現在は、上智大学 グランド、平和島公園などとなっている。これにより、江戸の街の風情は失われ た。

食糧不足や生活環境の悪化の中で、チフス、コレラ、赤痢などの伝染病が流行し、

GHQの指導の下、チフス予防対策としてDDT散布や健康監視が行われ、この過程で、

汚物の衛生的処理と生活環境の清潔による公衆衛生の向上が喫緊の課題となっ た。経済の復興から都市への人口集中は再び始まり、都市ごみの急増とそれらの 河川や海洋への投棄、空き地への野積みが頻繁となった。ハエや蚊が大発生し、

伝染病の拡大を防ぐためにも、法制度を含めた対策の抜本的な見直しが必要と なった。「蚊とハエのいない生活実践運動」が展開されたのもこの頃である。

(日本環境衛生協会(現 日本環境衛生センター)作成 作詞:草野心平)

(8)

汚物掃除法が制定されて50年以上が経ち、この法律によっては文化国家の不 可欠の要件である生活環境を清潔に保つことは困難であるとして、新たな「清 掃法」が提案された。この法律の制定は1954年(昭和29年)であるが、本来で あれば前年に制定されるはずであった。当時の吉田茂首相による「ばかやろう 解散」により一年遅れたことが、当時の世相を反映している。

この法律のポイントは以下の通りである。

● 市町村のみならず、国と都道府県の責任の明確化、国民の協力、

● 汚物の規定(ごみ、燃え殻、汚泥、ふん尿、犬・ねこ・ねずみ等の死体)、

● 特別清掃地域等の指定と同地域での汚物の投棄禁止、

● し尿浄化槽等の維持管理基準の設定、

● 汚物取り扱い業の市町村長の許可、

● 公共水域等への糞尿の投棄禁止、

● 政令において、国から市町村への国庫補助制度(清掃施設の整備、災害対応 としての清掃)が主な内容であり、現在で言う産業廃棄物は、「多量の汚物」、

「特殊の汚物」として規定されていた。

し尿については、依然として農業肥料として使われ、私の故郷である三重県の 1955年(昭和30年)の調査では、寄生虫の野菜への付着により、調査対象者の寄 生率が9割を超えたという。

1963年(昭和38年)には、生活環境施設整備緊急措置法が制定された。その後、

生活環境施設整備五カ年計画が策定され、各都市を中心にごみ焼却施設の導入 が促進された。1965年(昭和40年)には、清掃法が改正され、清掃施設の「技術 管理者」が制度化、高度な機械の操作や適正な運転管理を行いうる人材の供給が 始まった。この間、廃棄物処理をめぐる様々な変化があった。1955年(昭和30年)

頃から、ごみの運搬方法の変化、手車と馬による運搬から自動車の導入、曜日と おおよその時間帯を事前に決めてのごみ収集、ごみの水分が漏出する木箱から ポリバケツの導入などが見られ、これらは都市部から地方へと動きが広まった。

(積水化学HPより)

(9)

(東京都清掃事業百年史より)

1964年(昭和39年)には、東京五輪が開かれ、その直前には東海道新幹線が開 業、一部の高速道路も整備された。高度経済成長にこうした国家的な出来事が加 わり、廃棄物の排出量の激増と質の多様化と高カロリー化という変化が廃棄物 行政に大きな負担となった。東京の「夢の島」(14号地)のごみ埋め立てが開始 されたのは1957年(昭和32年)からであり、23区内の一般廃棄物の大半を当地で 処分することになった。当時は、23区内には焼却施設は少なく、大部分の廃棄物 を焼却せず、そのまま埋め立てられ、発酵分解を待つことが余儀なくされた。そ のため大規模な自然発火事故が発生した。また、夢の島で発生したハエが江東区 内の広い地域に拡散し、地域の学校ではハエ取り紙を吊るしたり、児童がハエた たきを行うことが日課となった。悪臭への苦情も多かった。

(東京都清掃事業百年史より)

1971年(昭和46年)には「東京ごみ戦争」が宣言された。江東区の要請を受けて 東京都は全ての特別区が清掃焼却工場を設置するよう求めたが、地元との調整

(10)

がつかない杉並区のごみの搬入を江東区民が実力で阻止しようとし、同年12月 22日、区内通過の全清掃車両がチェックされた。これは象徴的な出来事であるが、

それだけごみ問題が最大とも言える都市問題となった。

(東京都清掃事業百年史より)

都市ごみの量は急増し、1955年(昭和30年)の621万tから1970年(昭和45年)に 2,810万t(環境省)となり、一人当たり排出量も同時期に190g/日から750g/日ま で達した。

また、産業廃棄物の処理が大きな話題となりつつあった。「のさばる工場の廃棄 物、家庭廃棄物の三倍」(朝日新聞)は昭和44年の報道である。活発な生産活動 で工場から排出される廃棄物、都市開発からの建築廃材の大量排出が、空き地や 河川敷などへの不法な投棄や不適切な処理により社会の関心事項となった。ま た、廃油・廃酸の投棄による公共用水域の著しい汚濁、普及するプラスチック焼 却に伴うばいじん、酸性ガスによる大気汚染といった環境汚染対策が喫緊の課 題となった。

(次号に続く)

参照

関連したドキュメント

主を畏れることは知恵の初め 聖なる方を知ることは分別の初め。 旧約聖書 箴言9:10 出校日の今日、生徒の皆さんにもう一度考えてほしいと思い、4月21日火)の中学校集会で話した内容の一部 を掲載します。 東日本大震災のとき、私たちは当たり前に続くと思っていた日常が、突然ぐるっと変わったり消えてしまった

特 集 プラスチック資源循環の構築 プラスチックの資源循環にかかる リサイクラーとして取組みについて 下しも田だ 守もり彦ひこ 大栄環境株式会社 執行役員 社長室長 1.はじめに 当社は、廃棄物の収集運搬、中間処理、 最終処分を中心に幅広く環境関連事業を営 んでおり、サステナブルな明るい未来を実 現するより良い環境づくりのために、新た