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団 子 山 古 墳 9
福島県須賀川市団子山古墳第 11 次調査報告書
横 手 大 塚
秋田県横手市「大塚」測量調査報告書
2022年3月
福島大学考古学研究報告第15集
福 島 大 学 行 政 政 策 学 類
福島大学行政政策学類考古学研究室
─ i ─
序 文
『福島大学考古学研究報告』第 15 集では、2021 年春に実施した秋田県横手市大塚の測量 調査と、同年夏に実施した福島県須賀川市団子山古墳の第 11 次調査の成果を報告する。
横手大塚の測量は、私の着任後初めての東北北部でのフィールド調査となった。本文で も触れたように、秋田県横手盆地では近年、古墳文化関連遺跡の調査が増加しており、そ れを受けてのものである。東北北部の古墳文化の実態究明は、「古墳」や「古墳時代」とは 何か、という根本的問題に迫るうえで重要な情報を提供するものととらえており、今後も 幅広く調査をおこなっていきたいと考えている。
団子山古墳の考古学的調査は今年度で 10 年目となる。この間、2018 年度から調査主体 が須賀川市に替わり、市と福島大学との共同事業として調査がおこなわれてきたが、発掘 調査としては今回で一区切りを迎えることとなった。今後は、これまでえられた成果を集約・
整理し、古墳時代史のなかに団子山古墳がいかに位置づけられるかを、深く考える時間を とっていきたい。
今年度は、昨年度に引き続いて新型コロナウイルス感染症の蔓延に翻弄された年であっ た。この感染症の確認から2年あまりが過ぎた現在においても終息の気配はみえず、マス クが手放せない日常が続いている。考古学実習の一環としてもおこなわれている上記フィ ールド調査が何とか継続できていることは幸いだが、日帰りあるいは個室での宿泊など従 来は考えなかった方法が当たり前のようになっている。むしろ、私たち自身が “ 新たな日常 ” に合わせた行動を取るべき時代にいると考えるべきなのであろう。
昨年は、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故から 10 年という区切 りを迎えた年であった。現在の学生の多くは発災時に小学校低学年であり、彼らにとって 震災と原発事故は “ 過去の出来事 ” というイメージになっている。そのことは決して悪い ことではないが、むしろ当事者であった私などが、これら災害を経験していない人々や若 い世代にいかに “ 自分事 ” としてとらえてもらえるよう行動するかが問われていると考え ている。
最後に、この二つの調査の実施にあたってご理解とご協力をいただいた個人と機関に深 く感謝申し上げ、あわせて、すべての関係各位に対し、今後の福島大学の考古学活動に対 する重ねてのご支援とご協力を心よりお願い申し上げる。
2022 年 3 月 1 日
福島大学行政政策学類 考古学研究室
菊 地 芳 朗
例 言
1.本書は、福島県須賀川市日照田字入ノ久保に所在する団子山古墳(福島県遺跡番号 20700385)の第 11 次発掘調査、およ び秋田県横手市雄物川町会塚北田に所在する「大塚」の報告書であり、福島大学行政政策学類考古学実習の報告書を兼ね ている。
2.団子山古墳第 11 次調査は須賀川市が主体となり、福島大学行政政策学類考古学研究室との共同調査として実施した。横 手大塚測量調査は福島大学行政政策学類考古学研究室が主体となり、横手市教育委員会から全面的なご協力をいただいて 実施した。調査期間は以下のとおりである。
団子山古墳第 11 次調査:2021 年 8 月 10 日~8月 29 日
横手大塚測量調査:2021 年4月9日~4月 10 日、4月 29 日~5月5日 3.福島大学の調査担当は菊地芳朗(福島大学行政政策学類教授)である。
4.調査参加者は以下のとおりである(所属は当時)。
団子山古墳第 11 次調査:菊地芳朗(福島大学教員)、管野和恵(須賀川市文化交流部文化振興課)、杉浦弘佳、加藤志津佳、
千田優、藤澤一真(福島大学行政政策学類4年生)、加藤遥、菅野瞳美、小林亜美、小松原宏大、佐藤礼一(同3年生)、
有賀美沙希(同1年生)。
横手大塚測量調査:菊地芳朗(同上)、田子清楓、杉浦弘佳、加藤志津佳、千田優、藤澤一真(同上)、加藤遥、小林亜美、
小松原宏大(同上)、新山寛人(福島大学卒業生)。
5.団子山古墳の出土遺物は須賀川市、調査記録等は須賀川市および福島大学行政政策学類考古学研究室が保管し、横手大塚 測量調査の調査記録等は福島大学行政政策学類考古学研究室が保管している。
6.調査にあたり、下記の機関・個人にご指導およびご協力いただいた。(敬称略)
団子山古墳第 11 次調査:金沢八百吉、柳沼賢治、管野和博、横田忠、吉田大二、青山博樹、佐藤純平、平澤慎、籠島明里、
佐藤綾美、須賀川市立博物館、須賀川市歴史民俗資料館、須賀川市社会福祉協議会
横手大塚測量調査:小野正之、佐藤直志、島田祐悦、藤原正大、横手市雄物川郷土資料館、横手市雄物川生涯学習/雄 物川コミュニティセンター
7.本書におけるレベル高はすべて海抜を示し、方位は座標北を表す。
8.本書における掲載の地図は、国土地理院発行 25,000 分の1地理図「須賀川東部」「西馬音内」「十文字」「金沢本町」「角間川」
「浅舞」「横手」および 50,000 分の1地理図「須賀川」「郡山」を複製使用した。
9.写真撮影については、おもに菊地が担当し、一部を福島大学学生が担当した。
10.本書の編集は菊地芳朗と管野和恵が担当し、執筆分担については目次に記した。
11.調査の実施および本書の出版にあたり、福島大学行政政策学類考古学実習費および日本学術振興会科学研究費補助基盤研 究(B)「国家形成期におけるヤマト政権と地域権力との相互関係の研究」(代表:菊地芳朗)の一部を使用している。
─ iii ─
本文目次
第 1 編 団子山古墳第 11 次調査 ………
………
………1 Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡………
大島頼子・室井誠斗・菅野瞳美・管野和博…3 1.調査に至るまで ………3 2.地理的環境 ………4 3.歴史的環境 ………5 Ⅱ 調査の方法と経過 ………菅野…101.調査の目的 ………10
2.調査の経過 ………11
3.調査の方法 ………12
4.記録の方法 ………12
Ⅲ 発掘調査の成果 ………14
1.北くびれ部トレンチ ………小松原宏大…14 2.団子山古墳の墳形 ………小林亜美…18 3.墳頂北トレンチ ………加藤遥…20 Ⅳ 出土遺物 ………小林…23 1.遺物の概要 ………23
2.出土埴輪 ………23
Ⅴ 団子山古墳 2021 年調査の成果と意義 ………29
1.調査の成果と意義
…
………菊地芳朗…29 2.調査のまとめ…
………管野和恵…33 第 2 編 横手大塚測量調査 ………35Ⅰ 遺跡の位置と地理的環境 ………37
1.地理的環境
…
………杉浦弘佳…37 2.歴史的環境 ………千田優…38 Ⅱ 調査の方法と経過 ………421.調査にいたる経過と目的 ………小林…42 2.調査の経過 ………加藤遥…42 3.調査の方法 ………加藤遥…43 Ⅲ 測量調査の成果 ………45
1.「墳丘」の現状 ………小松原…45 2.「墳丘」の特徴 ………千田…45 Ⅳ 大塚測量調査の成果と意義 ………菊地…48 1.大塚の現状と評価 ………48
2.日本海側北部の古墳文化 ………49
3.東北北部日本海側の古墳文化と大塚 ………51
引用・参考文献 ………52 2021 年度研究室活動報告
図版9 「大塚」(その1)
1 「大塚」遠景(南から)
2 「大塚」遠景(北東から)
図版 10 「大塚」(その2)
1 「大塚」近景(南から)
2 「大塚」近景(南東から)
3 「大塚」近景(東から)
図版目次
図版1 団子山古墳遠近景
1 団子山古墳遠景(南東から)
2 団子山古墳近景(南東から)
図版2 北くびれ部トレンチ(その1)
1 北くびれ部トレンチ及び北くびれ部トレンチ拡張区全 景(北から)
2 北くびれ部トレンチ全景(東から)
3 北くびれ部トレンチ拡張区全景(東から)
図版3 北くびれ部トレンチ(その2)
1 北くびれ部トレンチ東側土層断面(南西から)
2 北くびれ部トレンチ北側土層断面(南から)
3 北くびれ部トレンチテラス部くびれ(北東から)
図版4 北くびれ部トレンチ(その3)
1 北くびれ部トレンチ拡張区全景(南から)
2 北くびれ部トレンチ拡張区北側土層断面(南から)
3 北くびれ部トレンチ拡張区東側土層断面(南西から)
図版5 墳頂北トレンチ(その1)
1 墳頂北トレンチ埴輪出土状況(南から)
2 墳頂北トレンチ埴輪出土状況(北から)
図版6 墳頂北トレンチ(その2)
1 墳頂北トレンチ埴輪出土状況(西から)
2 墳頂北トレンチ埴輪出土状況(東から)
3 墳頂北トレンチ埴輪設置遺構半截(西から)
図版7 出土遺物(その1)
1 出土埴輪集合 2 出土埴輪 No. 1
図版8 出土遺物(その2)
1 出土埴輪 No. 2 2 出土埴輪 No. 3 3 出土埴輪 No. 4
─ v ─
挿図目次
Fig.1 団子山古墳の位置(大島作成) ………4 Fig.2 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(広域)(大島作成) ………6 Fig.3 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(詳細)(大島・室井作成) ………8
Fig.4 団子山古墳測量図(石原優子作成) ………10
Fig.5 発掘調査風景 ………11
Fig.6 調査参加者集合写真 ………11
Fig.7 団子山古墳調査区位置図(菅野作成) ………12
Fig.8 北くびれ部トレンチ平面図(加藤志津佳・小松原作成) ………15
Fig.9 北くびれ部トレンチ断面図(加藤志・小松原作成) ………17
Fig.10 墳形復元図(加藤遥作成) ………18
Fig.11 墳頂北トレンチ平面・断面・立面・エレベーション図(小林・加藤遥作成) ………20
Fig.12 墳頂部全体図(小林作成) ………21
Fig.13 墳頂北トレンチ出土埴輪(No. 1)(小松原・加藤遥・菅野作成) ………24
Fig.14 墳頂北トレンチ出土埴輪(No. 2~4)(加藤志・加藤遥・小林・菅野作成) ………26
Fig.15 「大塚」の位置(杉浦作成) ………37
Fig.16 「大塚」の位置と周辺の遺跡(小松原作成) ………40
Fig.17 「大塚」と周辺の地形(千田作成) ………41
Fig.18 測量調査作業風景 ………42
Fig.19 調査参加者集合 ………42
Fig.20 「大塚」測量基準点配置図(藤澤一真作成) ………44
Fig.21 「大塚」測量基準点成果表(藤澤作成) ………44
Fig.22 「大塚」測量図(藤澤作成) ………46
Fig.23 「大塚」測量図(拡大)(藤澤作成) ………47
─ vii ─
第 1 編 団子山古墳第 11 次調査
─ 3 ─
Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡
Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡
1.調査に至るまで
団子山古墳は、須賀川市日照田字入ノ久保地内に所在する。阿武隈川の河岸段丘上に立地し、古 くから古墳として認識されていたようである。昭和 35(1960)年に首藤保之助氏が現地を踏査し、埴 輪を採集したことが記録に残っている(須賀川市立博物館 1986)。
昭和 35 年7月 30 日(「第二百一回採集記」)※下線は筆者
「田中日照田ノ部落堺ニアタル日照田字入ノ窪ニ行ッタ。コレハ大キナ円墳デ面積ハ一反歩以 上モアルカト思ウ。壇上ニハ七八十年齢ノ松、二十年以上ノ栗樹、楢ノ木、コブシノ木、山桜 ナド雑木林ヲナシ、西方ハ遠ク開ケ奥羽山脈ハクッキリト、古墳ノ西方ニ聳立シ東方ハ低キ丘 陵ナレドモ、朝日ハヨク射ス程度デアル。所謂旭サシタ日輝ク地点ニ学ンダモノデアル。
里人ハ団子山ト呼ンデイル。恰モダン子ヲ大キクシタ形ノ山デアル。所有者ハ日照田ノ金澤 長義氏ト云ウ。コノ古墳ハ或ハ発掘スレバ、埴輪象形ハ二ツ等出土スルコトホボ確実ナラン。
何レニシテモ重要ナル円墳ナリ。(中略)
本日ノ所得次ノ如シ。
(中略)
1.大字日照田字入ノ窪 大円墳頂上ニテ 埴輪残欠 二十三片 (後略)」
その後、江藤吉雄氏は出土遺物などから、古墳時代後期の大型円墳として本古墳を位置づけた(江 藤ほか 1974)。これを受け、昭和 54(1979)年に測量調査を実施し、昭和 56(1981)年に須賀川市史跡 第 15 号として指定された。また、昭和 61(1986)年には電気探査を実施したが、期待すべき所見が 得られなかったためか、報告書が公刊されなかった。
団子山古墳が再びクローズアップされたのは、四半世紀を経てからである。平成 23(2011)年に柳 沼賢治氏と管野和恵氏が、市立博物館が所蔵する首藤保之助コレクションの埴輪の実測図を公表した。
朝顔形・円筒埴輪の二種からなり、古墳時代前期(ないし中期初頭)に遡る可能性を指摘した(柳沼・
管野 2011)。ここで、団子山古墳の年代的な位置づけが後期古墳から、前期古墳に遡るという、新た な仮説が提示された。
これを検証するため、平成 24(2012)年度から福島大学行政政策学類考古学研究室菊地芳朗教授に よる調査が実施され、令和2(2020)年度まで 10 次にわたる調査を行った。これまでの調査で、埴 輪の年代と同様、古墳時代前期後半の築造であることが裏付けられたほか、これまで円墳と考えられ てきたものが前方後円墳であることなど、重要な知見が明らかとなっている。
平成 28(2016)年度の第6次調査前に、埋葬施設の調査の可否や将来的な出土遺物の所属先などに ついて菊地教授と協議し、これまで学術調査を実施してきた福島大学行政政策学類考古学研究室と市 との共同調査を行うこととし、官学協同を目指すこととした。
これは、平成 30(2018)年4月 18 日付けで福島大学と須賀川市が連携協定を締結したことを受け たもので、7月1日付けで須賀川市と福島大学行政政策学類が「須賀川市と福島大学の団子山古墳発
掘調査に関する覚書」を締結した。また、調査に当たっては、国庫補助金を活用した保存目的の範 囲確認調査として実施することとした。
発掘調査期間は令和3(2021)8月 10 日から8月 29 日までで、発掘調査には、須賀川市職員(学 芸員1名)と福島大学の学生等が調査に参加した。このうち、福島大学の学生については、市の作業 員として雇用する一方、発掘調査機材や運搬用の自動車借上げに要する経費などは、福島大学行政 政策学類の考古学実習として福島大学で負担している。
発掘調査終了後は、福島大学において出土遺物や図面の整理、実測図作成、原稿執筆を実施した。
整理作業は令和3(2021)年 12 月から令和4(2022)年2月までは調査主体者である市の作業員 として雇用し実施した。内容については、菊地教授と市職員が定期的に作業状況の確認等を行った。
2.地理的環境
団子山古墳(以下当古墳)の所在する福島県須賀川市は、日本列島本州島の東北部、福島県中通り 地域南半分に位置する人口約7万 5000 人、面積約 279.43㎢の市である。北は郡山市、南東は石川郡 玉川村、平田村、南は岩瀬郡鏡石町、南西は天栄村と接している。須賀川市域は、西は奥羽山脈、
東は阿武隈山脈によって画され、盆地を形成している。中央部には那須火山群(通称那須連峰)を源 として宮城県沖まで北上する阿武隈川が流れており、須賀川市域を東西に大きく二分している。昭 和 29(1954)年に須賀川町と隣接する浜田村・西袋村・稲田村・小塩江村の4か村が合併し、昭和 30(1955)年に仁井田村、昭和 42(1967)年には大東村、平成 17(2005)年に長沼町及び岩瀬村を編 入し、現在の須賀川市が成立した。
当古墳は須賀川市大字日照田字入ノ久保に所在し、須賀川盆地のほぼ中央に位置する。阿武隈川 東岸に向かって張り出す舌状台地の先端裾部を利用して造られている。当古墳周辺の地質は、地盤 が古期花崗閃緑岩で構成され、その上部に石英安山岩質烙結凝灰岩及びその風化層が堆積している
(江藤ほか 1974、江藤ほか 1981)。
0 50㎞
(1/2,500,000)
福 島 県 Fukushima Pref.
団子山古墳 Dangoyama Tumulus
0 500㎞
(1/25,000,000)
Fig.1 団子山古墳の位置
─ 5 ─
Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡
3.歴史的環境
須賀川市の周辺には多くの古墳・遺跡が存在しており、市内全域に分布する。特に阿武隈川との 支流の河岸に集中する傾向が強い。
弥生時代以前 須賀川市での旧石器時代の遺跡には、乙字ヶ滝遺跡がある。阿武隈川北岸の河岸 段丘上に立地する。刃部磨製石斧や面的加工が施されたナイフ形石器などが出土し、後期前半期に 位置づけられている(江藤ほか 1974)。
縄文時代になると、阿武隈川東岸の丘陵やその周辺部には関向・富岡遺跡など早期~中期にかけ ての多くの遺跡が分布し、後期~晩期では、牡丹平遺跡や小倉川流域の一斗内遺跡のように低地へ の進出傾向が見られるようになる(若林 1984)。
弥生時代の重要遺跡として、阿武隈川東岸の丘陵地にある牡丹平遺跡があげられる。この遺跡か らは人骨を伴出した再葬墓が検出された。また、阿武隈山地系でも高所に位置しており、そのあり 方が注目される(金谷ほか 1983)。後期には阿武隈川西岸丘陵に芦田塚遺跡・弥六内遺跡などの集落 遺跡がある。特に、弥六内遺跡では同一遺跡内に方形周溝墓とみられる遺構の検出もあり、須賀川 盆地における弥生時代から古墳時代への変化を考える上で重要である。
古墳時代前期 古墳時代になると、須賀川盆地には阿武隈川流域及びその支流域を中心として古 墳が濃密に展開するが、分布などからみて、その中心は阿武隈川両岸の沖積面とその周辺の段丘及 び丘陵部にあったことが明らかである。
前・中期に比定できる古墳は少ない。阿武隈川西岸の台地東縁部にあるイカヅチ古墳群は、当古 墳の北西約 3.6㎞に所在する。前述の弥六内遺跡と重複する古墳群であるが、方墳2基、前期の円墳 1基、中期の円墳7基が確認されており、銅釧、模造勾玉などが出土した(永山ほか 1984)。仲ノ平 古墳群は、当古墳北西約7㎞に所在する。丘陵上に計 10 基確認されており、主体は横穴式石室を持 つ円墳であるが、3号墳、6号墳が前期の前方後方墳である(柴田ほか 1991)。八ッ木遺跡は当古墳 の北約 2.5㎞に所在する。古墳時代前期から一部平安時代に及ぶ集落跡で、竪穴住居跡 64 軒、土坑5基、
焼土遺構7基、溝跡3条が検出され、土師器、須恵器、玉類、石製模造品、石製品、鉄製品などの 遺物が出土している。特に土師器は種類、量ともに豊富で、遺構の重複関係から導き出されるそれ らの編年は、市内だけでなく県全域の編年に大きな影響を与えている(皆川ほか 2002)。高木遺跡は、
当古墳北西5㎞に所在する。古墳時代前期から平安時代に及ぶ集落跡で、竪穴住居跡 60 軒、掘立柱 建物跡7棟、井戸跡2基、土坑 13 基、溝跡 12 条、方形区画溝状遺構1基、焼土遺構2基が検出され、
弥生土器、土師器、須恵器、土製品、石製品、陶磁器などが出土している。
古墳時代中期 上ノ代遺跡は、当古墳の北約1㎞に所在する。中期を中心とする古墳時代の集落 跡で、周囲に堀と柵を巡らせた首長居館跡が検出された。仏坊古墳群は上ノ代遺跡に隣接し、17 基 の古墳が確認されており、11 号、12 号、13 号墳が調査された。墳丘は直径 20 m前後の円墳であり、
埋葬施設は箱式石棺である。中でも 12 号墳の埋葬施設は削平により失われていたが、周溝の外側か ら内面に赤色顔料が塗られた箱式石棺が1基検出された。中から鉄剣、鉄斧、鉄鏃が確認され、5 世紀中葉から後半に築造されたと考えられる(皆川 1998a)。仏坊古墳群と上ノ代遺跡は強い関連性が あると考えられる。甲塚古墳は、当古墳の北西約 3.5㎞に所在する。昭和 41(1966)年の調査時には
Fig.2 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(広域)
0 4㎞
(1/100,000)
Fig. 3 範囲 85
87 88
96 90 98 95 91 89 9392 97 94
82
79 80
75 72
70 67 59
55 53 48 49
45 44
43
33 31
26 1512
18 10
20 24
25
38 11 14
34 37 30
35 40 42 41
36 2927 2823
21 1719
16 13
5 7 6
9 8
2
4 3
22
39 32
50
60 63 62
58 56
54 47 52 51
46
57
61
68
76 74 73
81
86 78
71 69
65 66 64
77
84 83
1
─ 7 ─
Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡
直径 22 m、高さ 2.5 mの円墳で、木炭を床面に敷き詰め、その上に2mの木棺を置いて粘土で覆い、
それをまた木炭で包むという木炭槨が検出された。副葬品は、盗掘の被害を受けていたため検出さ れなかった。
古墳時代後期以降 古墳時代後期には、阿武隈流域沿いに多数の古墳や横穴が築かれる。市野関 稲荷神社古墳は、当古墳の北西約 1.5㎞に所在する墳長 39 mの前方後円墳である。段築、葺石、埴 輪は確認されていないが、広いテラスを持つ墳丘第一段(基壇)を伴っている可能性が高い(菊地ほ か 2007)。また、前方部が後円部より大型であることも特徴である。後円部墳丘の一部に角礫が確認 されていることから、埋葬施設は横穴式石室である可能性が高い。
塚畑古墳は、当古墳の北西約2㎞に所在する墳長 40 m、後円部直径 25 mの前方後円墳である。
南側の周溝部からは大量の形象埴輪が出土しており、その中には天冠をかぶった埴輪男子像や武人 埴輪の冑の一部、靫、家、馬形埴輪が確認されている(江藤ほか 1974)。
蝦夷穴古墳は須賀川市街地の東方、当古墳から北西約3㎞に所在する。当地域最大級の横穴式石 室を持ち、金銅製頭椎大刀、鍔、銅椀、刀子、三輪玉、切子玉、辻金具、金銅製鈴、馬歯が出土した。
石室及び副葬品の特徴から6世紀末から7世紀初めに築造された古墳と考えられる(江藤ほか 1974)。 大仏横穴墓群は、当古墳の北西約2㎞に所在する。二群に分かれており、一群は鎌倉期の磨崖大 仏の左右にあり、20 数基が開口している(江藤ほか 1974)。古くから開口していたようで、大仏の周 囲では横穴の壁を利用して仏像が彫られている。遺物はすべて散逸して残っていない。他の一群は この崖と連続する東北のほど近いところにあり、2基開口している(江藤ほか 1974)。
舘山横穴墓群は、当古墳の北西約 1.5㎞に所在する。15 基の横穴が確認されているが、ほとんどの 横穴が後世の削平などによって破壊されており、全体規模や構造を捉えられるものがない。唯一1
1.団子山古墳 2.阿弥蛇壇古墳群 3.西の内古墳群 4.葉山古墳群 5.蒲倉古墳群 6.天正坦古墳群 7.三ツ坦古墳群 針生古墳 8.清水内遺跡 9.堂山古墳群 10.坦ノ腰古墳 11.来玄坦古墳 12.柴宮山古墳群 13.桝壇古墳群 14.東前田古墳 15.麦塚古墳 16.艮耕地C遺跡 17.亀河内遺跡 18.丸山古墳群 19.南山田古墳群 がぶつ壇古墳 20.八幡古墳群 21.妻見塚古墳群 22.大安場古墳群 23.後田古墳群 24.駒屋古墳群 25.四十坦古墳群 26.大坦古墳 27.中山田古墳群
28.蝦夷穴横穴墓群 29.大善寺古墳群 30.狐坦古墳 31.雷堂古墳 32.大六古墳 33.四角坦古墳 34.念仏坦古墳群 35.正直館跡 36.下田横穴群 37.御代田古墳群 38.神成横穴古墳群 39.東山田遺跡 40.下原古墳 41.カガヤ坦古墳群 42.田子団古墳 43.滑川古墳 44.亀田窯跡 45.石山古墳 関下窯跡群 46.雁俣古墳群 47.下山古墳群 下山横穴群 48.籾山大壇古墳 49.坂上古墳 50.一斗内古墳群 51.跡見塚古墳群 念佛壇古墳群 大壇古墳群
52.梅ノ木古墳群 南谷地前古墳群 石井山古墳群 53.タキジリ古墳 54.竹の内遺跡 55.海道西古墳群 56.オサン壇古墳群 西の作古墳群 竹ノ花古墳群 57.念仏壇古墳 58.滑沢窯跡 59.おたきや遺跡 60.西川梅田十三仏 刈木内古墳 大壇場古墳群 61.狐石古墳 62.新城館古墳群 63.岩下横穴墓群 稲古舘古墳 64.岩崎横穴古墳群 65.向原古墳群 66.北作遺跡 67.番山壇古墳群 68.深内古墳群 69.舘石横穴群 70.御大宝古墳 71.二塚遺跡 72.方八丁遺跡
73.萱林古墳 74.熊野山遺跡 75.木曽古墳群 76.笠木壇古墳 77.泉田古墳群 78.石の下古墳群 79.仁井田横穴墓 仁井田古墳群 80.鏡田古墳群 81.四十壇古墳群 82.七曲横穴墓群 83.後作田古墳群 84.百八横穴墓群 85.悪戸古墳群 86.龍ケ塚古墳 87.向久保古墳群 88.東ノ前古墳群 89.弘法山古墳群 90.江平遺跡 91.白山E遺跡 92.白山C遺跡 93.白山D遺跡 94.白山A遺跡 95.久当山横穴墓群 96.宮前古墳群 97.上宮崎A遺跡 98.鬼穴古墳群
号横穴が玄室天井部を残すのみである。土師器・須恵器が主な出土遺物であり、8号横穴から完形 の細頸瓶が出土している。これらにより、古墳時代後期に位置する横穴群と推定されている。また、
15 号横穴から鉄製の直刀が出土している(皆川 1998b)。
西館跡は、当古墳の北西約 1.5㎞に所在する。古墳時代後期の集落跡と中世の館跡との複合遺跡で ある。竪穴住居跡3基、掘立柱建物跡2基、土坑 15 基、柱列跡1列、溝跡2条、性格不明遺構2基、ピッ ト 296 基が検出されており、竪穴住居跡3基、土坑数基が古墳時代後期に位置づけられる遺跡である。
竪穴住居の床面から多量の土器類が出土しており、古墳時代後期における住居内の器種編成を考え る上で貴重な資料となっている(皆川ほか 2002)。
Fig.3 団子山古墳の位置と周辺の遺跡(詳細)
0 2㎞
(1/500,000)
57 54
53 45 48 49
40 44 39 35
30 31 29
25 24
60
12
19 20
21
13 11
26 23
18 17
9 8
57 6
4 2 3
16 15 10
14
22
46 47 37 38
41 42
51 50
43 36 33
28
32 27
34
55 56
58 59
52
1
1.団子山古墳 2.仲ノ平古墳群 3.御所の宮古墳 4.庫の屋敷古墳 5.岡ノ内古墳群 6.中江持古墳 7.長者屋敷古墳群 8.行人山田古墳 9.稲荷神社古墳 10.上人壇廃寺跡 11.神明前横穴墓群 12.塩田古墳 13.大壇古墳 14.栄町遺跡 15.古舘横穴古墳群 16.石塚古墳 17.古舘古墳群 18.甲塚古墳群 19.洞川岸古墳群 20.神開田古墳 21.上川原古墳群 22.愛宕山城東古墳 23.芦田塚遺跡 24.浜尾横穴墓群 25.イカヅチ古墳群 弥六内遺跡 26.イカヅチ坂窯跡 27.螺河岸A古墳群 28.螺河岸B古墳群 29.和田横穴墓群 30.丸塚古墳跡 平内地古墳跡 31.蝦夷穴古墳 32.八沼古墳群 33.早稲田古墳群 34.八ツ木遺跡 35.石花古墳群 36.下小山田古墳群 37.釜池窯跡 38.金池窯跡 39.大仏古墳群 40.大仏横穴墓群 A 41.大仏横穴墓群 B 42.西舘跡 43.関向・富岡遺跡 44.塚畑古墳 45.欠ノ下古墳 46.ウメツボ窯跡 47.番屋窯跡 48.舘山横穴墓群 49.仏坊古墳群 50.上ノ山古墳群 51.市野関稲荷神社古墳 52.東小屋古墳 53.上ノ代遺跡 54.町ノ内横穴墓群 55.前田川大塚古墳 56.乙字ヶ滝遺跡 57.念仏担古墳 58.乙字ヶ滝横穴墓群 59.開山古墳群 60.高木遺跡
─ 9 ─
Ⅰ 古墳の位置と周辺の遺跡
稲古舘古墳は、当古墳の西約8㎞に所在し丘陵尾根の頂部に位置している。直径 12 mの円墳であ り、埋葬施設は切石積みによる前庭部、玄門部、玄室を持つ横穴式石室であった。内副葬品として大刀、
鉄鏃、刀子、土師器が出土している。大刀は、刀の装具が奈良の正倉院に納められている刀と類似 しており、律令期に岩瀬郡で活躍した官人層が埋葬された可能性が考えられている(皆川 2003)。 古墳時代が終焉を迎える7世紀以降は律令国家の形成が進み、栄町遺跡、上人壇廃寺、うまや遺 跡に代表されるように、須賀川駅周辺の地域が古代岩瀬郡の中心地となった。
栄町遺跡は奈良・平安時代の石背(のちに磐瀬)郡衙であり、郡衙の中心的建物となる正殿や脇殿 が確認された。脇殿の柱穴から「石瀬」と書かれた墨書土器が出土したことで、石背郡衙であった ことが裏づけされた(皆川ほか 2012)。上人壇廃寺は石背郡衙と関わりの深い寺院であり、出土遺物 には瓦類、土師器、須恵器、円面硯などのほか、発見例の少ない六角瓦塔、鉦鼓、軸頭などがある。
8世紀前半には創建され、10 世紀前半頃にはその終焉を迎えたと考えられる(皆川ほか 2011)。うま や遺跡は奈良時代を代表する大集落遺跡であり、遺跡の西方に位置する上人壇廃寺との関連性は明 らかである。県内で初出の和銅開珎が竪穴住居跡より出土しており、官人層の居住地域とも推定さ れている(皆川 2003)。
以上のように、当古墳周辺地域の状況から見て須賀川地域は東北有数の古墳密集地域であり、集 落が数多く存在していることから、県内でも有数の重要遺跡集中地域といえる。また、特に古墳時 代後期の有力古墳が数多く存在することが分かる。
しかし、周辺に後期古墳が多い中で、当古墳はこれまでの 10 次に及ぶ調査で古墳時代前期後半の 築造であることが明らかになっており、この古墳の被葬者が周囲の古墳の被葬者とどのような関係 にあったのか、その関係性が注目される。
Ⅱ 調査の方法と経過
1.調査の目的
福島大学行政政策学類考古学研究室は平成 24(2012)年度から当古墳に対し、測量調査・物理調 査・発掘調査を実施し、墳丘規模や築成方法等に関する数々の成果を得てきた。平成 30(2018)年 度からは当古墳の将来的な保護と活用を考えた結果、須賀川市と福島大学との共同調査として行わ れることになった。これまでに夏季休暇を利用した1か月程度の発掘調査を実施し、多くの知見を 得てきたが、築造当時の古墳の姿を完全に復元するにはなお情報が十分とは言えない状況にある。
令和 3(2021)年度は、前年から猛威を振るっていた新型コロナウイルス感染症により、日常生活 や社会生活の多くの場面で感染症対策が必要な状況が続いた。当古墳の調査もこれによる対策が求 められ、前年度に引き続き新型コロナウイルス感染拡大前と全く同様の方式で実施することは困難 と考えられた。そこで須賀川市と福島大学考古学研究室との協議の結果、令和2(2020)年度の調査
Fig.4 団子山古墳測量図
0 20m
(1/800)
To T1 T2
TK Tb
Ta
T13 T14
T3
Tk T4
T5 T7
T10 T11 T8
T9 T19
T18 T17
T16 T15
T6
Tj Tc Tm
Td
Tn Th
Tf
NEb
NEa SWa SEa
SWb
TⅠ
SEb T12
273.0 271.0 269.0 267.0 265.0 261.0
263.0
─ 11 ─
Ⅱ 調査の方法と経過
において課題として残された、①後円部北東側におけるくびれ部の確認、②後円部墳頂における埴 輪列と埴輪設置方法のより詳細な把握という2点の解決を目指し、実施することとした。調査期間 は令和3(2021)年8月 10 日から8月 29 日であり、実働日数は 16 日間である。このうち大雨など の影響で作業中断が2日あった。
2.調査の経過
8月 10 日 第 11 次調査開始。機材搬入。
発掘区の設定。後円部北東に新杭 NKa・NKb を設置し北くびれ部トレンチを新設。墳 頂に新杭 RTNa・RTNb を設置し墳頂北トレンチを新設。環境整備。調査前風景の写真 撮影。掘削開始。
8月 13 日 雨天中断のため、須賀川市歴史民俗資料館で出土埴輪片の注記作業。
8月 15 日 墳頂北トレンチで検出した埴輪の個体番号 No. 1~3を設定。
8月 16 日 北くびれ部トレンチ地山層を追い精査。墳頂北トレンチ埴輪設置遺構確認のための精査。
東壁側に新たな埴輪個体 No. 4を検出。
8月 18 日 北くびれ部トレンチ一部掘削完了。くびれ部および前方部の判断のため東側に拡張区を 設置。墳頂北トレンチ東壁北東部を拡張。新たな埴輪個体 No. 5を検出。
8月 19 日 北くびれ部トレンチ拡張区の精査。
8月 20 日 墳頂北トレンチ精査後完掘状況写真撮影。北くびれ部トレンチおよび拡張区完掘状況 写真撮影。
8月 21 日 北くびれ部トレンチおよび拡張区土層断面実測。
8月 22 日 北くびれ部トレンチ北壁の土層断面図作成。拡張区の土層注記作業。杭の座標測定。
8月 24 日 墳頂北トレンチ平面図作成開始(25 日終了)。
8月 25 日 北くびれ部トレンチおよび拡張区平面図作成。墳頂北トレンチ立面図作成開始(27 日終 了)。
8月 26 日 北くびれ部トレンチおよび拡張区埋め戻し。墳頂北トレンチエレベーション図作成。
8月 27 日 墳頂北トレンチ埴輪の取上げおよび精査。
8月 28 日 墳頂北トレンチ埴輪設置遺構確認のための半截掘削。
8月 29 日 墳頂北トレンチ埴輪設置遺構の精査、完掘状況写真撮影。土層断面図作成。土層注記作 業。平面図作成。埋め戻し。第 11 次調査終了。
Fig. 5 発掘調査風景 Fig. 6 調査参加者集合
3.調査の方法
先の目的を踏まえ、後円部北東に「北くびれ部トレンチ」、後円部墳頂に「墳頂北トレンチ」を設 定し、掘削を行った(Fig. 7)。各トレンチにおいて、後述する区割りに従って作業を進めていった。
北くびれ部トレンチは、NKa 杭と NKb 杭を主軸として、後円部北東に南北8m、東西2mの大 きさで設定した。さらに同トレンチの東約 4.5 mの地点に、南北 3.5 m、東西 0.75 mの大きさで「北 くびれ部トレンチ拡張区」を設定した。
墳頂北トレンチは、RTNa 杭と RTNb 杭を主軸として墳頂平坦部北端に一辺2mの大きさで設定 した。さらに、同トレンチ東壁北東部を一辺 0.5 mの範囲で拡張した。埴輪の取上げ作業終了後、埴 輪設置遺構確認のため、西壁から約 1.08 mの地点に南北方向へ軸をとり、西側に向かって半截掘削 を行った。
4.記録の方法
各トレンチの完掘状況は 20 分の1平面図と断面図に記録した。各トレンチの平面図は、遺構実測 ソフト(遺構くん cubic Cタイプ 2012)を用い、断面図は手実測によりそれぞれ図化した。平面図には 傾斜変換点(破線)を加えている。また墳頂北トレンチでは、埴輪出土状況平面図・立面図・エレ ベーション図を 10 分の1で作成した。断面図の土層注記の土色は『新版標準土色帖』2011 年度版(小 山・竹原 2011)に従っている。墳頂北トレンチで原位置に近いとみられる埴輪は、ナンバリングを行っ
Fig.7 団子山古墳調査区位置図
第2次調査 第3次調査 第4次調査 第5次調査 第6次調査 第7次調査 第8次調査 第9次調査 第10次調査
第11次調査 0 10m
(1/600)
NKa RTNa
NKb 北くびれ部 トレンチ 墳頂北トレンチ
263.0 264.0 265.0
266.0 267.0
268.0 269.0
270.0 271.0
272.0 273.0
RTNb
─ 13 ─
Ⅱ 調査の方法と経過
たうえで、メモ写真を撮影し、その後に取り上げた。
写真撮影は、35㎜判銀塩カメラ、6×7判銀塩カメラ(発掘状況用、完掘状況撮影用)、デジタルカ メラ(メモ用及び完掘状況撮影用)、ドローン(完掘状況俯瞰撮影用)を用いた。銀塩カメラではモノク ロフィルムとカラーリバーサルフィルムの2種類により撮影している。墳頂北トレンチでは、埴輪 列の3D画像を作成するため、コンパクトデジタルカメラを用い、多方面から撮影を行っている。
Ⅲ 発掘調査の成果
1.北くびれ部トレンチ(Fig. 8・9)
トレンチの目的と位置 北側のくびれ部を確認することを目的とし、NKa 杭および NKb 杭を主 軸として南北8m ×東西2m の大きさで設定した。主軸から西側を a 区、東側を b 区とし、さらに 北から 1 ~ 10 区とした。調査の進行によりくびれ部の位置を特定できたことから、実際に掘削を行っ たのは 5a・5b 区~ 8b 区にかけてのおおよそ3m ×2m の範囲である。
調査の経過 当初、2a・ 2b 区を先行して平面的に掘削したが、土量が多くなると予想されたため、
6a ~9a 区を先行し掘り下げた。現地表下約 0.6 ~ 1.1m に堆積する黒褐色の墳丘直上堆積土を面 的に掘削していったところ、くびれ部と思われる地山を削り出した屈曲部が検出された。そのため 5a、5b 区の方向に 0.5m 拡張し、精査を行った。
さらに、検出した部分が、墳端に相当する真のくびれ部でなく、段築テラス上のくびれ部である 可能性も考えられたため、トレンチから東に約 4.5m の位置に 0.75 ×2m の拡張区を任意に設定し、
前方部側辺を検出することでこの問題の解決を目指した。南側から掘削し、現地表下 0.46m で地山 面を確認したため、この面を広げたところ、北に向かい下降していくことが確認された。トレンチ をさらに北側に 1.5m 拡張し、現地表下 1.26m の地点で平坦になることを確認した。精査により、こ れを墳端と認定した。
以上により、くびれ部の構造を判断する材料が得られたため掘削を終了し、平面図 ・ 断面図の作 成と写真撮影を行った。
墳丘の構造 調査において検出した「くびれ部」の標高は 267.18m、拡張区で検出した墳端の標 高は 266.52m であった。「くびれ部」の標高が墳端の標高よりも約 0.7m 高く、また、前方部側辺の 墳端と位置的にうまく整合しないことから、今回検出したのは後円部第一段と第二段の間に形成さ れたテラスに由来するもので、墳端にあたる真のくびれ部は、「くびれ部」から北東に2m の位置に 存在したと推測される。
第 9 次調査で明らかになった後円部北東側(北東第 2 トレンチ)の墳端の標高は 264.33m であり、
推定される真のくびれ部の標高より 2.2m 低い。第8次調査で明らかになった後円部北側(北トレンチ)
の墳端の標高は 261.82m で、さらに 4.68m 低い。現地形を踏まえると、この標高差は東から西に向かっ て傾斜する旧地形を削り出したことに由来するものと考えられる。また、第 8 次調査で後円部西側(西 トレンチ)のテラスの標高は 264.00m であったことが明らかになっている。以上のことから、後円部 のテラスは西から東に向かってせり上がるようにして北くびれ部に接続すると考えられる。
今回検出したテラスと思われる平坦面の現況での確認幅は約1m であった。第 8 次調査において 確認された後円部西側(西トレンチ)のテラス幅は約2m であり、第 9 次調査において確認された後 円部北東側(北東第 2 トレンチ)のテラス幅は約3m であった。また、拡張区ではテラスは確認され ていない。以上のことから、テラスは西トレンチから徐々に幅を広げて北東第 2 トレンチまで延び、
「くびれ部」に向かい徐々に幅を狭め、前方部の墳丘斜面に取り付くように収束し、前方部には段築
Fig.8 北くびれ部トレンチ平面図
0 2m
(1/40)
267.500
268.00
267.500
267.000
NKb NKa
a区
10区 9区 8区 4区 3区 2区 1区
くびれ部 b区
拡張区
テラス
カクラン
Bʼ B
Aʼ
D
Dʼ Eʼ
E
CʼC
A
Ⅲ 発掘調査の成果
が存在しないと考えられる。
第 7 次調査で確認された前方部南側辺(前方部第 1 トレンチ)の墳端の標高は 267.48m であり、今回 の墳端より、0.96m 高い。今回の墳端は地山を削り出すことで構築しており、地山を溝上に掘り込む ことで墳端を構築していた前方部南側辺と異なる。以上のことから、旧地形を利用しつつ最小の労力 で墳丘が構築されていたことがうかがえる。
拡張区において前方部北側辺の墳端を検出したことと、これまでの前方部に対する調査成果を合わ せることで、前方部のおおよその規模と形状が判明した。くびれ部幅約 15m、前方部前端幅約 20m、
前方部長約 13m と推定され、前方部が主軸に対して対称とならない形状を呈するものと推定される
(Fig.10)。
拡張区で確認された前方部の高さが 0.98m で、第 7 次調査(前方部第 1 トレンチ)において確認され た前方部の高さが 0.52m であった。この数値は前方部が後世に削平されたことによるものであるが、
本来の前方部も低平であった可能性が高い。また、前方部の基底面が水平でなく南から北に向かい下 降する斜面であったことが分かる。
Fig.9 北くびれ部トレンチ断面図
0 2m
(1/40)
268.000m
268.000m
268.500m 268.500m
A A’ B 268.000m
C’
D’ E E’
D C
B’
北くびれ部トレンチ 土層注記
1 10YR 4/4 褐色 砂質シルト しまり中 粘性中 表土 2 10YR 4/6 褐色 砂質シルト しまり中 粘性中 堆積土
3 7.5YR 5/8 明褐色 シルト しまり大 粘性中 墳丘崩落土 白色粘土が混じる 4 10YR 3/2 黒褐色 砂質シルト しまり中 粘性中 墳丘直上堆積土 地山直上 5 7.5YR 4/6 褐色 粘土質シルト しまり中 粘性大 墳丘直上堆積土 4 層とは 異なる土質であり、テラスが削られたものか
北くびれ部トレンチ拡張区 土層注記
1 7.5YR 4/4 褐色 砂質シルト しまり中 粘性中 表土 2 10YR 5/8 黄褐色 シルト質粘土 しまり中 粘性やや大 堆積土 3 7.5YR 4/3 褐色 シルト質砂 しまりやや小 粘性小 堆積土
4 10Y 5/6 黄褐色 粘土質シルト しまり大 粘性大 墳丘崩落土 白色粘土が混じる 5 10YR 4/6 褐色 粘土質シルト しまり大 粘性大 墳丘崩落土
6 10YR 3/2 黒褐色 シルト質砂 しまり小 粘性小 墳丘直上堆積土 地山直上 7 7.5YR 5/8 明褐色 シルト質砂 しまり中 粘性小 地山上部 小石が多く混じる 2
3
5
4 1
1
1 1
2 3
4
5 6
7 2
3
4
5
6 7
2
3 5
1 2 4
北くびれ部トレンチ東壁1
北くびれ部トレンチ北壁
拡張区北壁
拡張区東壁 北くびれ部トレンチ東壁2
─ 18 ─
2.団子山古墳の墳形(Fig.10)
当古墳は、『須賀川市史』で直径約 40 mの円墳と紹介されたが、第 7 次調査において前方部を持 つ前方後円墳であることが判明し、第 9 次調査では墳長は 65 mと推定されていた。
今年度は後円部墳頂北側に墳頂北トレンチ、後円部北東に北くびれ部トレンチと拡張区を設置し、
墳形と規模の把握を目指した。
墳頂北トレンチでは、墳頂肩部が後世の改変によりすでに失われており、本来の肩部はトレンチ 北端より 1.0 mほど北側にあったと推定された。このことと、これまでの墳頂肩部に対する調査成果 を総合すると墳頂直径は約 17 mになると推定される。
北くびれ部トレンチおよび拡張区では、北くびれ部の位置と前方部側辺が把握されるとともに、
後円部テラスが北くびれ部まで続き、くびれ部で収束することが判明した。このこととこれまでの
Fig.10 墳形復元図
0 20m
(1/600)
Ⅲ 発掘調査の成果
くびれ部および前方部に対する調査成果を総合すると、くびれ部幅は約 15m、前方部長約 13m、前 方部前端幅約 20m と推定される。また復元した前方部は、主軸に対し対称とならない形状をとるこ とがわかった。以上により、墳長は約 65m となる。
今回くびれ部と前方部墳端を特定したことで、当古墳全体の墳形と規模をほぼ明らかにすること ができた。
─ 20 ─
3.墳頂北トレンチ(Fig.11・12)
トレンチの目的と位置 第 9 次調査の墳頂北西トレンチにおいて検出された埴輪列がどのように 続いているのかを確認することを目的として、後円部墳頂北部に RTNa 杭、RTNb 杭を主軸として 南北2m、東西2mの長さで設定した。また、埴輪列検出のため本トレンチ東壁側に南北 0.5 m、東 西 0.5 mの拡張区を設定し、さらに埴輪設置遺構が穴状であるか溝状であるかを検証するため、原 位置をとどめ、かつ埴輪の残存状態が良好であった埴輪 No. 2が検出された付近(西壁から約 1.08 m)
を中心に設置遺構を半截掘削した。
調査の経過 トレンチを平面的に掘削したところ、北西部で埴輪片が出土し、南側では、現地表 下約 0.25 mで盛土と思われる黄褐色を呈する土層を確認した。これをうけ、南側では埴輪設置遺構 の平面プランの検出、北壁付近では埴輪列および墳頂肩部の検出を目的として、さらに平面的に掘 削した。
その結果、トレンチ北壁側および拡張区にかけて、ほぼ原位置にあたるとみられる 5 個体分の 埴輪が 10 ~ 15cm の間隔をあけ、列をなして並ぶ状況を確認した。これらを西壁側から「埴輪 No. 1」~「埴輪 No. 5」と名付け、検出を進めた。埴輪列の北側では、後世の堆積土とみられる 暗褐色土層しか検出されなかったため、墳頂肩部が後世に大きく削平されたためと判断し、平面図、
273.400m
273.300m
273.300m
273.10
273.00
272.90 272.90
A’A A’ARTNbまで3m
RTNaまで 0.3m
754 6 8
カクラン 9
No.5 No.4 No.3 No.2 No.1 0 2m
(1/40)
Fig.11 墳頂北トレンチ平面・断面・立面・エレベーション図
墳頂北トレンチ 土層注記
1 10YR 4/3 にぶい黄褐色 砂質シルト しまり小 粘性小 表土 図面になし 2 10YR 3/4 暗褐色 砂質シルト しまり小 粘性小 後世の堆積土 図面になし 3 10YR 4/3 にぶい黄褐色 シルト質砂 しまり中 粘性小 埴輪設置土最上層 図面になし
埴輪片が混じる
4 10YR 3/4 暗褐色 砂質シルト しまり中 粘性小 埴輪設置土第 2 層 埴輪片が混じる 5 10YR 4/3 にぶい黄褐色 シルト しまり中 粘性小 埴輪設置遺構の壁が崩落したか 6 10YR 4/4 褐色 シルト しまり中 粘性小 埴輪設置土第 3 層
7 10YR 4/3 にぶい黄褐色 シルト しまり中 粘性小 埴輪設置土第 4 層 8 層と同じか 8 7.5YR 4/6 褐色 シルト しまり中 粘性小 埴輪設置土第 4 層か 7 層と同じか 9 10YR 4/4 褐色 シルト しまり中 粘性小 埴輪設置土第 4 層か 8 層の続きか
Ⅲ 発掘調査の成果
立面図、エレベーション図の作成、写真撮影を行った。
埴輪の取り上げを行った後、埴輪設置遺構の確認のため、西壁から約 1.08 mの埴輪 No. 2が出土 した地点に、南北方向へ軸をとり、そこから西側に向かって半截掘削を行った。以上により、土層 断面図の作成、写真撮影を行い、調査を終了した。なお、埴輪の取り上げ前に、埴輪列の3D 画像 作成に備えコンパクトデジタルカメラで多方面から撮影を行った。
墳頂肩部の構造 本トレンチの墳頂肩部付近は、後世の堆積土とみられる暗褐色土層しか検出で きなかった。したがって、本トレンチ付近では肩部が失われており、本来の墳頂肩部はトレンチ北 端よりさらに 1.0 mほど北側にあったと推察される。第 3 次調査の北東トレンチでは、2 つの墳頂肩 部候補が検出されていたが、今回の調査成果より、北東トレンチ拡張区のより北東側で検出された
269.0 270.0 271.0
272.0
墓壙プラン
273.0
Fig.12 墳頂部全体図
0 10m
(1/150)
墳頂肩部推定ライン 埴輪列推定ライン
─ 22 ─
傾斜変換が墳頂肩部として妥当であると判断される。以上とこれまでの墳頂部における調査成果を 総合すると、後円部墳頂の直径は 17 mと考えられる。
埴輪設置方法 検出された埴輪設置遺構は、半截による調査ではあるものの、南北 1.6 m、東西 0.96 m、深さ 0.22 mの長楕円形を呈する土坑と推測された。ここでは、6 層の埋土が確認されたが、埴 輪はその上位 2 層(3、4層)中に埋め込まれるような形で出土し、これより下位の土層(5~9層)
からは全く検出されなかった。
この成果は、第 10 次調査の墳頂北西トレンチで確認された設置遺構が連続する穴状を呈するとい う成果と一致する。したがって、団子山古墳においては、墳丘完成後、後円部肩部におよそ2個体 分の埴輪が立てられる大きさの穴を近接して掘った後、整地したうえで埴輪を立て、土が被せられ、
埴輪が設置されたと考えられる。
埴輪配列 本トレンチでは埴輪片が 647 点出土した。埴輪の種別については、出土遺物の項で示 されるように、埴輪 No. 1、埴輪 No. 3が普通円筒埴輪、埴輪 No. 2、埴輪 No. 4が朝顔形埴輪で あると考えられ、埴輪 No. 5については、底部片しか検出されなかったが、普通円筒埴輪であると 推測される。これにより第 10 次調査で普通円筒埴輪と朝顔形埴輪が交互に並ぶと推測される状況が、
今回の調査によっても裏付けられた。
それぞれの埴輪は、10 ~ 15cm の間隔をあけて立てられている。普通円筒埴輪は、第 1 段の半円 透かしが墳丘中心と墳丘斜面に向くようにして置かれており、朝顔形埴輪も、第 1 段の半円透かし が墳丘中心と墳丘斜面に向くように置かれている。
Ⅳ 出土遺物
Ⅳ 出土遺物
1.遺物の概要
今回の当古墳の調査では、主に埴輪が出土した。その内訳は、北くびれ部トレンチから 27 点、墳 頂北トレンチから 647 点である。
墳頂北トレンチの埴輪は、主に埴輪設置遺構埋土の最上層である第 3 層から出土した。ここでは 底部が一部輪状をなして立った状態の埴輪が 5 個体出土し、これらはほぼ原位置にあるものと考え られる。一方で北くびれ部トレンチから出土した埴輪は小片で摩耗しているものが多く、墳頂から 流れ落ちたものと考えられる。
埴輪以外に北くびれ部トレンチから弥生土器片 1 点、墳頂北トレンチから土師器片が2点出土し た。弥生土器片は墳丘築造の際に混入したものと思われる。
調査中に表面採集された埴輪は 23 点ある。墳頂北トレンチ、北くびれ部トレンチで出土している 埴輪と大きな特徴の差はない。
今回の報告では、埴輪の各部名称については「須賀川市団子山古墳の埴輪―首藤保之助コレクショ ンから―」(柳沼・管野 2011)を、色調については『新版標準土色帖』2011 年版(小山・竹原 2011)を 参考とし、記述する。
2.出土埴輪
(1)北くびれ部トレンチ
27 点の埴輪が出土した。そのうち突帯のわかる破片が 1 点、その他の 26 点は体部片であった。
多くは小片で摩耗しており、ナデやハケの単位が確認できなかったため、図化は行わなかった。
(2)墳頂北トレンチ
埴輪の概要 本トレンチではほぼ原位置を保った状態の埴輪底部付近が 5 個体出土し、トレンチ の西側から個体ごとに No. 1~ No. 5の番号を付け取り上げた。
No. 1は、底部から口縁部まで復元でき、普通円筒埴輪(以下、「普通」 を省略し「円筒埴輪」とする)
と判明した。No. 2と No. 4は、共に底部から第2段半ばまでの復元にとどまったが、①上部に向か うにつれて体部がわずかに内傾する、② 2 段目に透かし孔が一部でも確認されない、③ No. 1と比 較して底部径と透かし孔の大きさが小ぶりであるという特徴が見られ、2019 年調査の墳頂北西トレ ンチで出土した朝顔形埴輪と共通する特徴をもつことから、朝顔形埴輪と判断した。また、No. 3 は底部から第 2 段半ばまでしか復元ができなかったが、①体部が直立的である、②朝顔形埴輪と比 較して底部径と透かし孔の大きさが大ぶりであるという特徴が見られ、No. 1と共通する特徴をも つことから、円筒埴輪と判断した。さらに、2019 年と 2020 年調査で朝顔形埴輪と円筒埴輪が交互 に配置されていた可能性が高いという結果が得られており、今回の調査での個体推定により墳頂北 トレンチ内で円筒埴輪と朝顔形埴輪が交互に並ぶことも、ここでの推定の妥当性を示している。
また、今回の調査で出土した埴輪の観察から、調整には「波状ハケ」と「かまぼこ状ハケ」の2