【 研究ノート 】
原子力災害による風評被害対策の源流
守 友 裕 一
1. 福島と風評被害
2011年3月の東日本大震災以降,福島は原子力災害という特殊な状況におかれている。
2011年8月に策定された「福島県復興ビジョン」は次のように述べている1)。
「東北地方太平洋沖地震とそれに続く大津波……東京電力福島第一原子力発電所の事故……さら に原子力災害に伴う放射性物質による環境の汚染や風評被害は,県内産業に多大の打撃を与えた
……住民を始め,各市町村,さらには関係機関の皆さんは……放射性物質による環境の汚染や健康 に対する不安,さらに様々な風評被害に耐える生活を続けている」。
つまり福島は,地震,津波,原子力災害,風評被害の四重苦のもとにある。そこでこのビジョン では次の三つの基本理念のもと復興を進めることとしている。
第1は原子力に依存しない,安全・安心で持続的に発展可能な社会づくり,第2はふくしまを愛 し,心を寄せるすべての人々の力を結集した復興,第3は誇りあるふるさと再生の実現
「福島県復興ビジョン」の基本理念を踏まえて,それを具体化するために,2011年12月には「福 島県復興計画(第1次)」が策定され,12の重点プロジェクトが設定された2)。
1 環境回復,2 生活再建支援,3 県民の心身の健康を守る,4 未来を担う子ども・若者育成,
5 農林水産業再生,6 中小企業等復興,7 再生可能エネルギー推進,8 医療関連産業集積,9 ふく しま・きずなづくり,10 ふくしまの観光交流,11 津波被災地復興まちづくり,12 県土連携軸・
交流ネットワーク基盤強化である。
なお風評被害に関わっては,5の農林水産業再生で風評被害防止対策が,10のふくしまの観光交 流において風評被害対策や正確な情報発信等が記載されている。
さらに2012年12月には,「福島県復興計画(第2次)」が策定された3)。第1次からの変更理由は,
避難指示区域の見直しが行われたことなどによる対応であり,各プロジェクトの大枠での変更はな かった。風評被害に関しては,5の農林水産業では継続して記載されているが,10の観光において は風評被害対策の文字が消えて,正確な情報発信等のみの記載に変更されている。
2015年12月には,「福島県復興計画(第3次)」が策定された4)。変更の背景としては,避難指示 区域の再編,廃炉技術開発・ロボットや再生エネルギーなど新産業の創出を目指すイノベーション・
1) 福島県「福島県復興ビジョン」2011年8月
2) 福島県「福島県復興計画(第1次)」2011年12月
3) 福島県「福島県復興計画(第2次)」2012年12月
4) 福島県「福島県復興計画(第3次)」2015年12月
コースト構想が具体化に向けて動き出した,国が2016年以降5年間を復興創生期間と位置づけた ことがあげられている。重点プロジェクトは次の10に再編された。
1 避難地域等復興加速化,2 生活再建支援,3 環境回復,4 心身の健康を守る,5 子ども・若者 育成,6 農林水産業再生,7 中小企業等復興,8 新産業創造,9 風評・風化対策,10 復興まちづ くり・交流ネットワーク基盤強化。
これまで農林水産業,観光に入れられていた風評被害対策は独立したプロジェクトとなった。
そこでは風評被害対策の背景の検討を行っている。主な農産物の価格の推移を見ると,2010年 と2014年とを比較して,全国との価格差(福島県産品の価格がどれくらい低いか)は,米 204→1,183円/60 kg,肉用牛(和牛)76→301円/kg,桃59→161円/kgと差が拡大している。観 光客の推移では,2010年を100として,観光入込数82.0,教育旅行の県内宿泊者数49.4,外国人 延べ宿泊者数45.0であり,震災前と比べて低位にあることがわかる。
震災から4年半たった当時,なお風評被害が重点課題であったことを示していたといえる。
なおこの第3次計画には別冊として,年度ごとに重点プロジェクトの取り組み内容と主要事業が 示されている。例えば平成30年度版(2018年度)には,1農林水産物をはじめとした県産品の販 路開拓・回復,2観光誘客の促進・教育旅行の回復,3国内外への正確な情報発信,4ふくしまを つなぐ,きずなづくり,5東京オリンピック・パラリンピックを契機とした情報発信・交流促進の 事業が列記されている5)。
2. 風評被害対策の源流……なぜ1980年代前半なのか,なぜ北海道なのか……
風評被害について研究を進めている関谷直也は『風評被害』の中で,風評被害という言葉が使わ れ始めた経緯について次のように述べている6)。
「原子力船『むつ』の事故や敦賀原発の事故などを契機として,放射性物質による汚染がないに もかかわらず食品・商品が忌避されるという経済的被害が,原子力関係者や,漁業関係者を中心と した原子力施設の周辺住民に認識されはじめた」。「地元生産者にとっては,そのような経済的被害 が起こった場合に,事業者側が有利になるのを避けるため,補償に関する合意を結び,それを明文 化する必要があった。こうした民事協定は法律ではないが,民事上一定の法的拘束力が存在する」。
「もともと日本では,原子力発電所は政府が責任を持って監督することとなっている。だが,地域 住民の防災を担う地方自治体も,原子力事業所の安全面を確認する必要がある。しかし,法的な権 限があるわけではない。そのため民事協定として,自治体も安全面での監視を行い,自ら調査を行 うことなどが可能になるよう定めたものが,『安全協定』なのである」。
「公文書に初めて『風評被害』という4文字が使われたのは,86年に結ばれた北海道電力『泊発 電所周辺の安全確保及び環境保全に関する協定書』という安全協定である。ここでは『(風評被害
5) 福島県「福島県復興計画(第3次)別冊 平成30年度版」2018年4月
6) 関谷直也『風評被害』光文社 2011年5月,なお関谷はその後,超学際的研究機構『郡山市に係る地域課題 調査研究 ─ 原子力災害による風評被害の現状と払拭の取組み ─』2015年3月でより深めた検討を行ってい る。
に係る措置)第16条』で,風評被害は『丙(北海道電力)は,発電所の保守運営に起因する風評 によって,生産者,加工業者,卸売業者,小売業者,旅館業者等に対し,農林水産物の価格低下そ の他の経済的損失(以下『風評被害』という。)を与えたときは,補償など最善の措置を講ずるも のとする』と定義されている」。
さらに「この泊原子力発電所安全協定の元となった,81年に泊地区の4漁協の示した補償契約 書案や82年3月に泊地区3農協,4漁協と北海道電力との間で結ばれた覚え書きに,すでに『風 評被害』という言葉が見られる」としている。
そして「原子力船『むつ』の事故の後,このように,むつ市に比較的近い北海道・東北で,原子 力発電所や原子力関連施設が設置される際に,『風評被害』,『風評による被害』に関する項目が民 事協定にもりこまれるようになっていった。これは,原子力損害賠償法で補償されない風評被害に ついての補償を求めることができるように配慮したものである」。
歴史的検討を踏まえた適切な指摘である。では何故1980年代前半に,また何故北海道でこうし た風評被害に対する動きが出てきていたのか検証してみる必要がある。本稿はその点を明らかにす ることを目的としている。
3. 風評被害の定義
ではあらためて風評被害とは何かを検討してみよう。先述した関谷直也は風評被害を次のように 定義している。
「ある社会問題(事件・事故・環境汚染・災害・不況)が報道されることによって,本来『安全』
とされるもの(食品・商品・土地・企業)を人々が危険視し,消費,観光,取引をやめることなど によって引き起こされる経済的被害のこと」。
日本学術会議も,2011年8月の文部科学省・原子力損害賠償紛争審査会「東京電力株式会社福 島第一,第二原子力発電所事故による原子力損害の範囲の判定等に関する中間指針」を引用する形 で,次のように紹介している7)。
「報道等により広く知らされた事実によって,商品又はサービスに関する放射性物質による汚染 の危険性を懸念した消費者又は取引先により当該商品又はサービスの買い控え,取引停止等をされ たため生じた被害」。
その上で「福島県で生産されていた農産物をはじめとする食品・物財が,原発事故による放射能 汚染の影響により出荷制限・停止を余儀なくされた事例は多い。さらに,放射性物質検査において 基準値以下,あるいは検出限界値未満であるなど,安全性に問題がないと判定されたものでも,消 費者が不安に思い購入を控えたり,流通価格が震災前に比べて低迷する等,『風評』問題も依然と して存在している」として,農産物に関する「風評」の説明を検査内容と関わらせて述べている。
風評被害に関する研究はその後も続けられているが,二つ紹介する。
7) 日本学術会議東日本大震災復興支援委員会福島復興支援分科会『原子力災害に伴う食と農の「風評」問題対 策としての検査態勢の体系化に関する緊急提言』2013年9月
経済学の領域から,有賀健高は『原発事故と風評被害』において,次のように述べている8)。
「風評は,世間に広がっている噂を意味するが,風評被害は,この噂の基となっている情報が真 実なのかどうかがはっきりしていないにもかかわらず,人々が噂を真に受けてしまうことで起こる 被害をいう。すなわち,ある商品に関する噂の内容が真実に反するものであったり,明確な根拠に 基づかないものであったりするにもかかわらず,人々が噂を信じてしまうことでその商品を購入し ないような場合に起こる損害を風評被害という。一方,ある商品に関する噂が根も葉もないもので はなく,何らかの根拠に基づくれっきとした事実である場合は,人々がこの商品を買うのを控える のには合理的な理由があるため,風評被害とは呼ばない」。
その上で原発事故後に起こった風評被害を次のように定義する。
「原発近辺を産地とする農林水産物の安全性に関する噂や情報が何らかの根拠に基づくかどうか にかかわらず,人々が風評を鵜呑みにして原発近辺を産地とする農林水産物を買うのを避けること で,原発近辺の農林水産業者の収益が減ってしまう経済的被害」。
そして経済学的視点で風評被害が起こる原因について,「第一に,農林水産物には代替財がある
……第二に農林水産物の安全性に関する情報は不確実性を伴う……第三に農林水産物の生産者と消 費者間には情報の非対称性がある」という点をあげている。
社会学の領域から,五十嵐泰正の『原発事故と「食」』が注目に値する9)。そこではまず議論の入 口として,「原発事故以降の問題群における4つの大きな課題の切り分けという原則」が提起され ている。「4つの課題とはすなわち,【科学的なリスク判断】【原発事故の責任追及】【一次産業を含 めた復興】【エネルギー政策】である」。そして例えば「【科学的なリスク判断】のもとに,地域農 業という生業の【復興】を目指すことは,決して国や原因企業を免責するわけでも,原発推進政策 を支持するという意味でもない」としている。
その上で「風評被害はすぐれてメディア的な現象であり,情報伝達や科学的知識の普及・理解,
そして科学的な安全と主観的な安心感の乖離にかかわる問題だということ」になり,「風評被害と いう言葉が政治化していく」として次のような説明を行っている。「政府の基準値や検査態勢を信 頼する人は,検査をクリアして市場に出回る福島県産品を買い控える行動などを非合理的だと考え るがゆえに,それらを風評被害と呼ぶ。そこで批判されるべきは,過剰に危険を煽るメディアとそ れに踊らされて科学に基づいた判断をしない消費者,ということになる」。「一方で検査態勢を信頼 しない,あるいは基準値を受け入れない人にとっては,同じ行動が内部被曝を避けるための合理的 な行動であり,福島県をはじめとする被災地産品が被った基準値以下の汚染も含めた被害を,実害 と呼ぶ傾向にあった。そこでは,警鐘を鳴らすメディアや予防原則をとる消費者が批判される筋合 いはなく,その実害の賠償の責は,その原因を作った東京電力と国が負うべきという考え方になる」。
「そして,前者にとっては,メディアに煽られた被災地への憎むべき差別そのものとして,後者にとっ ては,実害を矮小化し事故責任を免責する機能を果たすこれまた憎むべきレトリックとして,風評 被害という言葉はそれぞれに拡張した意味をまとっていく」。
このことは「本来は切り分けるべき【科学的なリスク判断】と【原発事故の責任追及】がごっちゃ
8) 有賀健高『原発事故と風評被害』昭和堂 2016年11月
9) 五十嵐泰正『原発事故と「食」』中央公論新社 2018年2月
になっており,まさにその焦点に,風評という言葉が置かれてきたわけである」と深い考察を行っ ている。
4. 1970年代の北海道の地域開発
次に本題である,なぜ1980年代の北海道で風評被害の議論が起こったのかの検討に入る。その ためにはそれ以前の1970年代の北海道の地域開発について検討しておく必要がある。
国は1969年5月30日に「新全国総合開発計画」(新全総)を閣議決定した。その中には次のよ うに書かれている10)。
「過密・過疎現象を基本的に解決し,経済社会の飛躍的発展を図るためには……国土利用の硬直 性を打破し……国土利用の抜本的な再編成を図る以外にない」。「土地利用の硬直性を打破するため には,中枢管理機能の集積と物的流通機構とを広域的に体系化する新ネットワークの建設により,
開発可能性を日本列島全域に拡大する必要がある」。「この新ネットワークに関連せしめながら,各 地域の特性を生かした自主的,効率的な産業開発,環境保全に関する大規模開発プロジェクトを計 画」するとしている。
そして国土を中央地帯,北東地帯,南西地帯に区分し,北東地帯には苫小牧東部とむつ小川原,
南西地帯には志布志湾に大規模工業基地を配置するとした。
それに連動して,1970年に「第3期北海道総合開発計画」が閣議決定され,続いて1971年に北 海道開発庁は「苫小牧東部開発基本計画」を策定し,1972年にはその実行主体として第三セクター の苫小牧東部開発株式会社が設立された。
1971年の基本計画(目標年次1985〜94年)では,鉄鋼2000万トン/年,石油精製100万バーレ ル/日,自動車50万台/年,電力600万kwなど巨大な数値があげられていた。
この計画を実施するためのキ―は土地と工業用水と電力であった。土地は広大な面積を買収し
(10,700 ha=東京の山手線の内側の1.7倍の面積),工業用水は,日高管内平取町の沙流川に二風谷 ダムを建設しそこから導水トンネルを通して水を引くという計画であった11)。電力は基地内に苫東 厚真発電所が計画された。
しかしその後1973年のオイルショックを経て,苫小牧東部開発計画は破綻し,基本計画も変更 を余儀なくされた。1971→1973→1979年の計画は次のように変化した。
鉄鋼2,000万→0→0トン/年,石油精製100万→30万→30万バーレル/日,自動車50万→18 万→18万台/年,電力600万→35万→95万kwと,1971年の当初計画と比べて,大幅な下方修正 がなされ,替わって石油備蓄0→500万→1120万kl,コールセンター0→0→200万トン/年が加 わってきた。石油備蓄のための基地は企業へ売れない用地の「活用」であり,コールセンターは,
10)経済企画庁『新全国総合開発計画』1969年
11)この点で詳しくは以下の文献を参照されたい。沙流川水資源対策調査団『沙流川水資源問題に関する調査報 告書』1976年11月,太田原高昭,守友裕一「苫小牧東部開発と沙流川水資源問題」大沼盛男,池田均,小 田清編『地域開発政策の課題』大明堂 1983年4月,増田壽男,今松英悦,小田清編『なぜ巨大開発は破綻 したか』日本経済評論社 2006年
苫東厚真発電所で使用する海外からの輸入石炭の置き場である。
なお企業立地が進まず財務が悪化した苫小牧東部開発株式会社は,「1992年3月期決算の累積赤 字34億円,借入金1,374億円,年間利払い約90億円で,金利が金利を生む赤字体質で,民間企業 ならとうに倒産だ」と指摘されていた12)。
会計検査院も1997年度(平成9年度)に,苫小牧東部開発株式会社に対して,「工業用地分譲率
14.9%……分譲契約を締結した企業は,9事業年度末現在で70企業あるが,そのうち37企業は操
業に至っていない……北海道拓殖銀行の経営破綻を契機として,協調融資体制の維持が困難となっ たため,苫東開発 (株) は新規融資が受けられなくなり,元利金の支払いができない状態となった」
と指摘していた13)。
その結果,苫小牧東部開発株式会社は,約1800億円の負債を抱えて,1999年に破綻・清算し,
新たに株式会社苫東を設立した。しかし「『新苫東会社』は『旧苫東会社』の債務を処理し,売れ残っ た工業用地を所有することによって,対象事業を拡張しつつも,従来通りの苫小牧東部開発事業を 継続するためだけに存在することを運命づけられた会社である。『新会社』の発足は決まったが,
どんな事業をどれくらいの規模でやっていくのか,具体的な計画といえるものは何もないまま,と にかく『会社』を設立……お先真っ暗な将来展望の下で出発する」と厳しい評価を受けていた14)。 また沙流川の二風谷ダム建設を巡り,アイヌ民族の地権者二名が「公共性の低いダムがアイヌ民 族の『聖地』を奪う」などとして,北海道収用委員会を相手取り,土地収用裁決の取り消しを求め た行政訴訟の判決が1997年3月27日に札幌地方裁判所で言い渡された。結果としてはダムの公共 性について「洪水調整による沙流川流域住民の安全が確保され,公共性は高い」との判断を示し,
原告の請求を棄却した。しかし「二風谷はアイヌ文化とは切っても切れない密接な関係にあり,ダ ムの建設計画が実施されると,アイヌ民族の民族的,文化的,歴史的,宗教的諸価値を後世に残し ておくことが困難になる」。「国は,こうした失われるものに対する必要な調査,研究などの手続き を怠り,判断できないにもかかわらず,事業認定した」として「裁量権を逸脱した違法がある」と した15)。
またこの判決で注意すべき点は,「公共性が高い」とされたのは,苫小牧東部開発のための「利水」
ではなく,住民の安全の確保のための洪水を調整する「治水」であると判断した点である。ここで も苫小牧東部開発のための「利水」はもはや公共性が高いとは認定されていなかった点を確認して おく必要がある。
このように,苫小牧東部開発は企業の立地が望めず,広大な敷地の利用は苫東厚真発電所(総計
165万kw・2018年時点)やそのためのコールセンターに頼り,その一方で泊原子力発電所(総計
207万kw・2018年時点)建設を進めていくという,後の2018年9月8日の北海道胆振東部地震
12)「苫東 新時代への模索」北海道新聞 1992年9月29日
13)会計検査院「平成9年度 北海道東北開発公庫が出資・融資した苫小牧東部開発株式会社及びむつ小川原開 発株式会社の土地開発事業」1998年
14)小坂直人「第三セクター『旧苫東会社』の破綻と『新苫東会社』」北海学園大学「開発論集」第74号 2004 年10月
15)「アイヌは先住民族と認定」朝日新聞 1997年3月28日
による大規模停電(ブッラックアウト)を引き起こす原因となった,北海道における電力供給の不 安定性をはらむ,極端な二極構造の原型ができあがってくるのである。
以上見てきたように,1970年代の北海道の大規模開発は,苫小牧東部開発の計画から破綻に象 徴されるが,国は1977年に「第三次全国総合開発」(三全総)で定住構想を提起し,政策の軸を変 化させていった。さらに1983年には「三全総フォローアップ作業報告」をまとめ,定住構想に見合っ た立体的・重層的な地域産業政策として,「地域産業おこし」を提起した。
1983年には北海道では自民党道政が終わり,新たに大分県の「一村一品運動」の影響を受けた,
「北海道一村一品運動」も始まり,地域開発は新全総・苫東型大規模開発と,「地域産業おこし」の 影響を受けた,地域の資源,技術,産業,文化を土台とする内発型の地域づくりが混在する状態と なった。
5. 泊原子力発電所建設の経過と現状
では次に泊原子力発電所建設の流れについて概観してみよう16)。
現在泊原子力発電所の立地する北海道の積丹半島西部地域は岩宇地域と呼ばれる。これは岩内郡 共和町,岩内町と古宇郡泊村,神恵内村から構成されるためである。
北海道で最初の原子力発電所の計画は,1967年に北海道が,泊村,島牧村,浜益村の3村を原 子力発電所建設予定調査地点候補地として選定発表したことから始まった。
1969年9月には,北海道,札幌通商産業局,北海道電力(北電)との三者協議で,北海道初の 原子力発電所建設予定地として,共和・泊地区が決定された。その後,1978年に北海道電力は発 電所のサイトの位置を内陸部から泊海岸へ変更した。
1982年3月に北海道知事が「共和・泊発電所建設計画」について同意の意見書を経済企画庁へ 提出し,同年7月,泊発電所へと名称が変更された。
1984年9月に建設工事に着工し,1号機は1989年6月から,2号機は1991年4月から営業運転 が開始された。
3号機については1996年に「環境影響評価」の申し入れから実施,1998年「要対策重要電源地帯」
指定がなされ,1999年6月には公開ヒヤリングが開催された。しかし同年9月の東海村JOC臨界 事故があり,原子力の安全に対する世論が厳しさを増し,一部には住民投票の声もあがったとされ ている。2000年8月,泊村は「条件付き容認」を決め,2003年11月建設工事着工,2009年12月 から営業運転を開始した。なお3号機はプルサーマル計画が予定されていた。
2011年の東京電力福島第一原発事故により,泊原発もその後停止したが,現在,泊原発敷地内 には11本の断層が確認されており,北海道電力は重要施設の下を通る断層が活断層でないと証明 ができておらず,活断層であることを否定できなければ廃炉を迫られる状態にある17)。
16)泊村ホームページ(http://www.vill.tomari.hokkaido.jp 2018年11月5日閲覧),泊発電所の概要・北海道電 力(http://www.hepco.co.jp 2018年11月5日閲覧)
17)「泊原発『活断層なし』示せぬ根拠」朝日新聞 2018年10月25日
6. 漁民,漁協による原発反対運動の軌跡
泊原発(当初は共和・泊原発の名称,地元では岩内原発とも言われていた)に激しく反対したの は漁民と漁協である。
1969年9月の建設予定地決定に先立ち,1969年3月に,茅沼炭砿の閉山(泊村,石炭,〜1964年),
国富鉱山の休業(共和町,銅,〜1974年)で,農漁業以外の地場の産業が衰退し,過疎化に悩む関 係4町村(岩内町,共和町,泊村,神恵内村)の町村長と正副議長は,原発の誘致が地域の開発に 結びつくとして,建設に必要な用地の買収,道路,岩内港や湾の使用に協力することを申し合わせ た。
岩内湾を中心とする漁業は,明治期に最盛期を迎えたニシン漁はすでに衰退していたが,ニシン だけに依存する漁業から脱するために,タラ,スケソウダラなどの沖合漁業やコンブ,アワビなど の浅海資源への関心が高まり,漁労技術の導入や資源の保護,培養が積極的に行われるようになっ てきており,経済種の栽培漁業への展望を持つに至っていた。そのため岩内郡漁業協同組合は「原 発反対対策委員会」を設置し,冷却水の取排水に伴う海洋環境の変化や水産生物に及ぼす影響が明 らかにされるまで原発建設には絶対反対であり,具体的な影響予測調査をするべきであると北海道 知事に要請した。
一方,原発の設置によって農漁業や社会経済がどのようになるのかという議論や,原子炉の安全 性,放射線の生物に与える影響などについて,地域住民の立場で真剣に論議され,学習されてき た18)。
こうした動きを背景に,岩内町議会は1972年に原発建設反対決議をした。だがその頃岩内町は 懸案であった上水道事業に着手していたが,布設財源の持ち出し調達は地方自治体として苦しい状 況にあった。そうした時に北電は「上水道の工事費を一部負担させてもらえるか」との提案を行っ たとされている。こうした錯綜した状況下,1975年の町議会議員選挙では,原発建設に協力的な 議員が過半数を占め議員構成が逆転した19)。
ここでは岩内郡漁協の学習の動きから見ていこう。その重要な資料が1973年7月に漁協,漁民 自らの手によって作成した原子力発電所見学調査報告書である20)。
冒頭,伊野良市組合長理事は次のように述べている。「本組合は,明治36年3月12日に,旧漁 業法に基づいて法人としては,北海道のトップをきって漁業組合が設立されたのであり,全道で最 も歴史の古い漁協であります。また,昭和9年,冷蔵,冷凍,製氷工場を道内の漁協として一号を 所有し,今日に至っているのであります」。「しかし乍ら,岩内郡漁協70年の苦難と,その苦難を
18)日本科学者会議北海道支部余市班(林清)「取排水口の設置が予定されている岩内湾における魚と卵稚仔の 出現様式」日本科学者会議編『危機における原子力発電と地域開発 ─ 原子力発電問題シンポジウム(福島)
報告集 ─』1976年
19)藤谷三男(岩内郡漁協)「昭和53年着工をめざす岩内原発」日本科学者会議編『危機における原子力発電と 地域開発 ─ 原子力発電問題シンポジウム(福島)報告集 ─』1976年
20)岩内郡漁業協同組合編『漁民の目でみた原発 ─ 原子力発電所見学調査報告書 ─ (岩内郡漁協創立70周年記 念)』1973年7月
乗り越えた栄光の歴史の中で,資本金360億を誇る道内最大企業の北電がこの地に原発設置をきめ たことは,岩内郡漁協としては,史上最大の危機に遭遇したといえます」。「当組合の水揚高は年間 30億円前後です。冬のきびしい,そして山の多い岩内町に,漁業にかわる他のいかなる産業が成 り立つでしょうか」。「北電がここに地点を選んだのはまちがいであると断言します」。「原発は岩内 に絶対にきてほしくないということです」。
現地調査に先立って,1973年3月28〜29日に見学調査団予備学習会が岩内町の公民館で開かれ た。学習会の内容は次の通りであった。
(1) 原発の安全性と放射能の影響について
① 原発から出る放射能は微量といわれますが,人間の生存に問題はないでしょうか ② 許容量の意味
③ 原発の近くには学校や人家があってはいけないのは何故でしょうか
④ 原子炉は,三重,四重にかこまれているといわれますが万一の事故は大丈夫でしょうか
(2) 原発の温排水の影響 ① 温排水の影響について ② 温排水の実態及び調査の現状 ③ 岩内湾の海流
④ 潮汐,風の海流への影響
⑤ 岩内海域における有用漁業,水産動物の分布及び生育環境条件
特に(2) ⑤ は,コンブについて幼芽出現期,成熟期の水温上昇の影響に始まり,ワカメ,ノリ,
ウニ,ホタテガイ,ナマコ,エゾアワビ,スケソウダラ,カレイ類,ホッケなどについて産卵,生 育環境などについて,詳細な検討がなされた。
4月2〜6日にかけて現地調査を行った。視察者は団長の宮越進岩内郡漁協理事以下40名の漁民 であった。調査先は次の通り。東京電力株式会社福島原子力発電所,日本原子力研究所東海研究所,
日本原子力発電株式会社東海発電所,東北電力株式会社仙台火力発電所,むつ湾増殖センター,青 森県横浜漁業協同組合(ホタテ増養殖調査)。
ここでは福島原子力発電所での質疑応答の一部を紹介する(漁民,漁協からの質問などは漁民と 略す,説明は東京電力の発電所PRセンターの方から行われたので東電と略す。なおこれは,調査 参加者が作成した報告書からの引用であり,多少わかりにくい所があるが,原文のままとした)。
漁民: 東京電力は原発をなぜ東京につくらない。
東電: 東京には過去に関東大震災というような地震があった。……この辺を調べてみると殆ど地震 がない。昔から。800〜900年を調べた。……一番問題となるのは地盤なんです。地盤が固 いところでないとだめで,その点ここはよい。
漁民: それでは,なぜ千葉に火力発電所をつくろうとしたのか。
東電: 火力の場合は,放射能が全然ない。火力の場合は地盤は問題にならない。……原子力の場合,
ここは30 mの台地を20 m削って,そこから16 m削って,その上にぢかにのせている。
漁民: 第一に補償金はどれ位支払ったか。第二に何人に支払ったか。
東電: 3組合と入会7組合の10組合である。漁業権の損失補償として1億円である。人数は2,000
人に一寸かける。それは海岸線3,500 m,沖合1,500 mの範囲である。
漁民: 補償金は,地元の漁協に何%,入会に何%配分したか……共同漁業権・許可漁業権はどうなっ ているのか。失っている中味はどうか。
東電: 入会7組合員に三分の一を出し,3組合に三分の二を出した。私どものやり方は,県にお願 いし,県漁連と県がやり,その結果を私たちが知っているということである。昭和40〜41 年頃のことである。
漁民: この沖合は,40年頃から漁場価値がなかったということか。魚がとれないということか。
東電: 余りなかった。
漁民: 温排水について伺いたい。魚は体温を調節できないし……温排水によって影響があるのかど うか。
東電: おたくさんの所の実情はわかりません。
漁民: 温度差が7度から8度ありますといっていたが,ここで二年間やった結果がたとえば海岸か ら巾にして何m影響あるのか。
東電: 1,500 mの沖合いの境界のところで大体3度位になったということです。それを確認するた
めに,春夏秋冬4回調査しています。
漁民: 温排水で7度も上がる場合環境が変わるわけですね。
東電: 人間でも許容量や環境に順応する能力がある。昆布にせよその順応力はあると思う。
漁民: 昭和26年までニシンとれた。ニシンの産卵する場所の水温が3.5から5度,6度になったら,
もうニシンは入ってこない。……稚魚も,その適した水温だからいるんだ。温排水が出てく ると水温が上昇する。すめないからにげていくことになる。
東電: 逆に,逃げていく魚もあるが,くる魚もいるということですね。
漁民: 私どもが本日ここにきて研修したということは,いずれにしても,自分たちの生活の場は海 しかないんだということです。どこにも行く場所がない。少なくとも私達の組合の場合には,
年間35億から40億の水揚げがあるわけです。それはあくまでも前浜が主体になっています。
そういう中で,そこから追われていくと,行く場所がない。我々には,海を守るという中で,
色々な研修をしたいということで今日は御伺いしたわけです。……反対するには反対する理 由があるし,勉強しなければならない。……賛成している方は,全く漁業に関係ない人ばっ かりですね。
東電: 泊村や共和町とありますが,ここの漁業の方はどうなんですか。
漁民: ここの漁業は,漁師が少なく,大した水揚がないんですよ。
東電: 共和町はどうですか。
漁民: 共和町は,減反が出ているでしょう。それにカドミ汚染米で,25万俵の米がとまっている んです。
このように漁民は,事前学習をもととして,さらに現地で,立地,雇用,防災計画,事故予測,
温排水,放射性物質の流出の危険性,水産生物の特性などについて多方面からの質疑応答を行った。
このあと日本原子力研究所や日本原子力発電では,研究用原子炉,高速増殖炉,核融合発電,安 全対策,放射性廃棄物の海洋投棄,生物濃縮等についての質疑応答,原発温排水利用の養魚施設見
学などがなされた。
東北電力仙台火力発電所ではアワビの飼育場を見学し,青森県横浜漁業協同組合では,むつ横浜 漁業の全体的説明とホタテ養殖について聞き取り調査を行った。
以上の現地調査は,住民(漁民)自らが計画し,学習し,岩内地域の資源,技術や自然条件を他 地区と比較検討し,地域社会の連関の中での漁業の重要性を認識し,その上で自らの暮らしの基盤 を守るためには何をなすべきかということをはっきりさせた,きわめて重要なものであった。
7. 農民による原発反対運動の軌跡
こうした漁民・漁協による漁業と原発との関連の検討は,農民・農協,農業へも影響を及ぼして きた。1974年8月18日に岩宇地域開発シンポジュウム実行委員会は「共和町農業の現状と発展」
というシンポジウムを,岩内町公民館で開催した。その資料から当時の状況を見ていこう21)。この シンポジウムは開催目的を次のように述べている。
「農業の在り方は色々な面で見直しの必要が強調されている。共和町の農業も国の農業政策の移 り変わりの下で,この10年間を見ても,増産振興から,合理化農政と離農の増加,そして生産調 整の試練をへてきた。こうした中で過疎の歯止めとして,原子力発電所の誘致へと容易に流れる現 象を生じたが,世界的食糧不足の叫ばれる時,今こそ農業の真の発展について考えてみる必要があ る。地域産業としての農業の展望が一層共和町と岩宇の発展につながる様,我々は努力しなければ ならない」。
資料として,共和町の1950年から1973年までの稲作,畑作の推移を掲げている。
稲作は1971年が作付面積2,400 haでピークであり,1973年の生産額は19.3億円である。畑作 は麦類が激減し,1972年に小豆は2.4千万円,馬鈴薯は1.1億円,ビートは7.6千万円で,横ばい 傾向である。そうした中でスイカは1970年から数値が出ているが,1970年1.3億円,1973年3.1 億円と顕著な伸びを見せている(雷電スイカと称されている)。
1972年の専業農家は571戸,一種兼業農家は365戸,二種兼業農家は159戸と示されている。
続いて,「共和町に於ける農業政策の影響について」として,農地改革,農協の設立から始まり,
暗渠,客土を基礎とする食糧増産の取り組み,農業基本法下,選択的拡大―自立農業が叫ばれたが,
基幹作物+アルファの農業類型の検討も進められた。しかしそうした中資金,価格,外国農産物の 関係等において階層分化が進み,離農者も増え始めたと指摘している。昭和40年(1965年)頃よ り米の過剰が云われ出し生産調整が始まり,新規造田計画は縮小され,畑地かんぱいに切換になる と説明されている。
雷電スイカ・メロンの経過については資料では次のように述べられている。
「昭和39年(1964年)12月31日発足青果物生産出荷組合の創立総会が開かれ初代組合長に『み のる会』(生産グループ)の神坂要治氏を選出,当時宮丘地区,リヤムナイ地区にスイカ,メロン を栽培する5グループ42名がおり,技術の向上,品質の統一,出荷体制の確立による価格の安定
21)岩宇地域開発シンポジュウム実行委員会『共和町農業の現状と発展』(基調報告資料)1974年8月18日
を目指して組合が設立された。これまでの畑作物はえん麦,なたね,小麦等収益性の低いものが栽 培の中心だった低所得農業より脱皮するために宮丘では岩宇園芸試験場の指導のもと青年団が中心 となって収益性の高いスイカ,メロンの栽培に着出し生産グループ『みのる会』が結成された(1963 年)。一方ヤチナイ地区においてもやはり青年団が共同管理するシイタケ栽培が行われていたが,
スイカ栽培に取組む『みのる会』に刺激され,視察研修を行い乍ら生産グループを結成し,スイカ 栽培を始めた。
普通畑の数倍の収入を得るスイカ,メロンはその後,多くの農家の着目するところとなり各地区 に生産グループが生まれ,S49年(1974年)に16グループ167人(全組合員376)となり産地も 発足の一部地域から発足地区に拡がった」。
その上で,今後の農業経営の在り方について次のように述べている。
「世界的に食糧不足の傾向にあり,且つ異常気象の徴候に向かって居る予測等,全人類的に見る ならば必ずしも良いとは云えない迄も,一次産業従事者としては暗い展望のみではないと考えられ る。従って安易な日雇い労務に就くことのみを考えることなく経営の合理化を計ると共に,より積 極的に新しい農業部門の開発に努め自家労働の完全ねん焼を計り,他人労働の吸収を計る様な積極 策をとることが真の地域開発と考える」。
さらに次の提起を行っている。
規模の拡大(農用地の開発,水源確保,区画整理,機械化一貫体制の確保),スイカ,メロンに 次ぐ特産物の育成を計る(アスパラ,畜肉の生産,施設園芸),後継者の育成(親が自営……自信 の誤りか……に満ちた経営を示すこと,大学の専門課程の勉強をさせる,国内,国外へ留学させ,
体験,見聞を広めさせること,奨学制度をとること)。
このように新しい農業の可能性を追求し,そのための若手,後継者育成手段について詳述してい ることが特徴的である。青年団活動をベースとした,地域農業の発展を目指す積極的な動きがこの 時点で地域にあったことをうかがわせる。
このように1974年時点で,共和・泊地区への原発立地計画が出される中で,農民,住民,研究 者から,地域農業のこれからの在り方が真剣に問われていたことは特筆に値するといえよう。
農業,農地にかかわって,共和町は1968年1月に誘致決議をし,町長は1969年9月議会の原 発建設承認をへて,北電と用地買収に協力する覚書を交わして,1970年8月にほぼ150万㎡の用 地取得が完了とされ,あとは農地転用が残されるのみとなっていた。
北海道は農業振興地域整備法に基づき1970年に,農地転用に「枠」をはめていたが,1976年1 月27日に北海道農業振興整備協議会は指定予定地域の除外を北海道に答申した。これを受けた農 林省では1976年4月3日に指定区域から除外することを公示した22)。
このように1970年代中期には,農民の原発への疑問,それに対する学習が進むと同時に,共和町,
北海道,農林省は着々と農地転用の準備を進めていたのである。
22)注19と同じ
8. 地域経済と農業に与える原子力発電所建設の影響に関する実態調査の経過
こうした共和町内の農民の動きの中,1978年2月に共和町内に三つあった農協(前田,発足,
小沢)の一つである前田農協から北海道大学農学部農業経済学科農業協同組合論講座の太田原高昭 に,地域経済と農業に与える原子力発電所建設の影響にかんする調査の打診があり,3月29日に 内山和之組合長が来札し,予備調査の打ち合わせを行った。予備調査は本調査に先立って4月6〜
7日に静岡県浜岡町,7〜8日に福島県大熊町で行うことを決定した。
予備調査終了後,1978年5月2日に札幌市で開催された「原発と農業研究会」において,前田 農協の内山和之から,次のような報告があった23)。
「昭和44年(1969年)共和町発足地区(柏木地区)用地買収(が行われたが),今までは前田農 協としては,諸々の事情から原発とは無関係の態度で進んで来た。昭和48年(1973年)原発推進 協議会の案内で他府県視察に参加しての後も余り原発問題議論は無いに等しい状況であった。
昭和51年(1976年)4月,農協役員,生産集団代表,部落会代表,青婦人部代表をもって,前 田地区原発対策協議会が発足。協議会1回開催,又先進地に調査団を派遣したが,特に運動として は盛り上がらなかった。
昭和52年(1977年)12月,前田農協理事会としてはじめて議題に,原発に対する農協としての 姿勢について要望書を町及び町議会に提出したが,(その要望書を)議会の上程なしで……(議会は)
条件付き賛成を決議した。
昭和52年(1977年)12月北電主催による地区別こん談会(共和泊発電所計画の概要と環境保全 対策)が開催され,農業問題を素通りしていること,また11月末に現地に無断で測量(原発予定 道路,現在町道)24)したことから,下リヤムナイ地区中心に急速に原発議論が高まってきた。
昭和52年(1977年)12月末,農協は原発問題に取り組むことをはじめて,部落こん談会を通し て組合員の理解をもとめる。
昭和53年(1978年)1月農協として第1回の原発調査を実施。福島第一原発,浜岡原発を調査。
原発問題を農業サイドから取組む必要性が確認された。
3月5日,前田農協青年部第24回通常総会において原発問題が提起され,当面反対運動を展開 することが確認された」。
3月28日前田農協第30回通常総会においても原発問題が議論され,農業サイドから3項目の原 則(後述)が確認された。
こうして前田農協からの依頼で調査が開始された。調査団は足羽進三郎北海道大学名誉教授・札 幌商科大学教授(農業協同組合論)が団長についたが,実態調査の中心となったのは太田原高昭で あった(地域概況,歴史,全体とりまとめ担当)。その下で小田清(当時北海学園北見大学,地域 開発,地方財政担当),守友裕一(当時北海道立総合経済研究所,雇用,労働市場担当),奥村一雄
23) 1978年5月2日に札幌市で開催された,「原発と農業研究会」第1回会合での前田農業協同組合組合長理事
内山和之の報告資料及び議事メモによる。
24)図面上8間道路だが,3間くいこんで農協組合員の農地に杭を打ち込んでしまった。
(当時北海道大学大学院農学研究科,農業協同組合担当),三浦賢治(当時北海道大学大学院農学研 究科,農業経営,アンケート担当)が各調査領域の分担をした。農家調査,アンケート調査にあたっ ては北海道大学農学部農業経済学科の大学院生,学生が協力した。また北海道大学理学部(物理学),
工学部(衛生工学),医学部(公衆衛生),北海道立さけ・ます孵化場(生態学)の専門家の協力も 得て調査に取り組んだ。
4月の予備調査の後,7月に本調査を共和町の農家を対象に行い,アンケート調査も行った。
9. 実態調査で明らかになったこと(総論)
では次に実態調査で明らかになったことを調査結果報告書の内容をもとに紹介していこう25)。 この調査は,1969年に北海道で初めて原子力発電所を共和・泊地区に建設する計画が発表され,
当時共和町はもとより近隣4ヶ町村はこれを支持していた。しかし,岩内郡漁協が一貫して絶対反 対の線を崩さず,10年の歳月が流れた。その時点でなされたものである。
前田農協の組合長理事であった内山和之は報告書の「はじめに」で次のように述べている。
「44年は米の余剰問題が発生し,減反という稲作農家にとって未曾有の事態に直面したのは,そ の翌年の45年からである。われわれの組合においても2年ほど前から原発による地域開発が ─ と りわけ農業をいとなむ上で一体どんなことを意味するかについて考える機会を得て,53年3月(1978 年)の第30回通常総会においてこの問題を提起し,次の3項目をもって今後の指針とすることに したのである。
1 原発建設によって農業の振興,発展が阻害されてはならない。
2 原発建設によって共同組織や連帯意識を弱体化させてはならない。
3 原発建設によって農地の保全や汚染があってはならない。
共和の歴史は農業の歴史である……しかし,農業をとりまく諸情勢が前途多難であることは他言 をまたないであろう。そこで,われわれはこの原発と農業の問題を公平な第三者にお願いし,調べ てみようということになり北海道大学名誉教授である足羽進三郎氏を中心とするプロジェクト・
チームに依頼した。
原発と農業の関連について本格的な調査をした,というのは寡聞にして耳にしていない。おそら く全国でもはじめてのケースだろう,といわれている。しかし,以上述べたように,一見奇異なと りあわせに見えるこのテーマは工業化政策の中で農業が停滞し,空洞化が叫ばれ,オール兼業化が 進行しつつある現実の中で,今後の農業をどう守り,どう発展させてゆくのか,そしてそのために はいまわれわれは将来に向かって成すべきことは何か,ということを考える際に先進地の具体例と ともに十分参考になる資料であると確信する」。
そして北海道共和町前田地区,福島県大熊町,静岡県浜岡町を対象として調査を行った。調査内 容は,I 地域の概況と原発建設の経過,II 原発と町財政,III 原発設置に伴う地域経済構造の変化 と雇用実態,IV 原発と農業・農協,V 農業経営と原発立地に関する意向調査結果であった。
25)共和・泊原発・農業影響調査団(代表 足羽進三郎)『地域経済と農業に与える原子力発電所建設の影響に 関する実態調査報告』前田農業協同組合 1979年
調査結果の一部を紹介すれば次の通りである。
まずI地域の概況と原発建設の経過で大熊町と東電福島第一原発との関連では次の点を明らかに している。
まず住民の反対運動らしいものが存在しなかったことが福島第一原発の特徴である。請戸,富熊,
久之浜など7漁協との漁業補償交渉も1966年に1億円で決着した。なお大熊町関係分は富熊漁協 傘下の5戸のみであった。
農民,農協の対応では,地元の地権者は,大熊町分で約50戸であるが,この土地は海岸の高台 であるため,風がつよく,地味もわるいのでほとんどが松などを植林するていどの粗放的な土地利 用をしており,地目も山林となっていた。すなわち,地権者にとって,この土地は生活基盤として の意義がうすく,このことが用地買収を順調に進ませた条件になっていた。買収価格は坪150円,
反当45,000円であるが,協力費も含めて反当10万円が支払われた。当時としては破格の価格だっ
たようである。
地権者以外の一般の農民も,原発にたいする予備知識をほとんどあたえられず,自分たちとは無 関係の問題と受け取っていたようである。当時,大熊,双葉で年間600人の出稼ぎ者があったとい うことから,「原発で出稼ぎ解消できる」という宣伝も大きく利いたと考えられる。
農協では,農業にたいする影響は全くないという県の説明を受け入れて,農協が口を出す問題で はないという立場で「賛成も反対もしなかった」という。農業施策に関する要望らしきことも全く 出していなかった。この点,現在(1978年4月)ふりかえってみても,農業にたいする予想以上 の大影響があったこと,それに対して何の手もうたなかったことを反省として述べていた(当時の 大熊農協金融課長談)。
浜岡町と浜岡原発の場合次のような流れになる。
中部電力は当初三重県の芦浜地区(南島町,紀勢町)を原発建設の対象地としたが,真珠母貝や ハマチの養殖が盛んに行われており,南島町当局は反対の立場,紀勢町は誘致を進めた町長がリコー ルされ,立地点を浜岡町へと変更した。
浜岡町では町当局は受入の方針であったが,浜岡町沖に漁業権を持つ駿河湾西岸の榛南(静岡県 榛原郡南部)の5漁協が反対運動を展開した。しかし1968年Ⅰ月に榛原郡4町の有識者と漁民代 表各30名の構成からなる「浜岡原発問題対策審議会」(会長相良町長)が作られた。さらに1969 年7月に中部電力と漁協との話し合いの場として「浜岡原発問題究明委員会」が設置され,そこで 漁民よる自主的な影響調査を行うことを漁協側に同意させた。この調査は岩下光男東海大学教授が 指導し,7〜8月に調査をし,9月に「原発は漁業と共存できる」という趣旨の報告書を提出した。
漁民の自主的調査といっても,岩下調査団に漁民が数名参加するという程度のものであり,「漁民 参加」により,漁民が文句を言えない状況が作り出された。
そして対策審議会は,① 安全性確保のための監視機構の確立,② 漁業被害にたいする補償を含 む十分な応急対策,③ 沿岸漁業振興を含む地域開発への積極的協力の三条件を満たされれば原発 を認めるという「最終見解」を各漁協に提示,12月までにすべてこれを受け入れた。
なお後にこうした経過を学んだ岩内郡漁協では,岩下調査団の受入を拒否している。
農民,農協の対応は,立地地点である浜岡町佐倉地区の原発用地は150 haであり,その三分の
一は旧佐倉村の財産区で,一般の地権者は248戸であった。買収価格は反当55〜120万円といわれ,
当時の地価相場が15〜20万円であったことから,協力費を含んだ相当の高値であったといえる。
この地区の住民が用地買収に応じたのは,この地区が水田中心で茶畑を持たず,砂地の施設園芸 化が遅れ,浜岡農業の全体としての発展に取り残されていたことがあげられる。
浜岡町農協は農業振興に熱心に取り組んでいる農協であるが,原発に対しては「共存共栄という 考え方に立って受け入れた」と説明し,その後の影響については「プラスもマイナスもなかった」
としている点が大熊町と異なっている点であった。
10. 実態調査で明らかになったこと(各論)
II原発と町財政では,大熊町,浜岡町の財政力の状況,協力金・寄付金,交付金・国庫支出金,
固定資産税,原発によるプラス効果とマイナス効果の検討を行った。
まず両町とも財政的には貧しく,企業誘致によって収入増を計ろうとしたが果たせず,そのかわ りに原発誘致を進める結果となった。原発による収入増で種々の公共施設を改築し,住民の生活環 境を一新した。電源三法による交付金は,その使用にあたって種々の制約が多く,(原発)完成後 には固定資産税が入ってくるが,減価償却率が高く,短期間で償却済となってしまい,持続的な収 入源としては不安定である。公共施設の大型化は必要経費支出が莫大なものとなり,その確保のた めに,新たな原発設置が必要となってくるという悪循環を引き起こすことなどを明らかにした。
III原発設置にともなう地域経済構造の変化と雇用実態では,次の点を明らかにした。
両町を比較すると,大熊町では兼業農家が臨時・日雇の形で建設や下請け労働に出ているのに対 して,浜岡町では兼業農家は恒常的勤務が多く,原発工事や下請け労働に出ることは少なく,茶,
施設園芸,畜産などが維持発展されている。
その要因の第一は労働市場の性格差であり,大熊町では原発工事以前に雇用吸収先が少なく,原 発工事が始まると地元の労働者,農民はすぐ飛びついたが,浜岡町では以前から進出企業や地場の 企業があり,原発工事が始まっても従来からの就業先を維持する傾向が強かった。
第二は賃金格差の問題で,原発工事の土工賃金が5,000円程度であり,それより賃金が高い浜岡 町では原発工事に飛びつかず,逆に水準が低い大熊町では飛びつくことになった。
地域経済との関連では,建設業は原発本体の工事は全国的な大手建設会社が担当し,地元業者は 関連施設建設や道路工事を担当するにとどまっている。商業・サービス業では飲食店のみが伸長し ていく結果となっている。
岩宇地域の労働市場は,季節・日雇労働市場が優勢で,大熊町の労働力吸収の形となる可能性が 大きい。
IV原発と農業・農協では次の点を明らかにした。
大熊町の農業は,米を中心として和牛,梨,たばこ等を基礎として,家計の不足を東京方面への 出稼ぎで補うパターンが一般化していた。
浜岡町は台地では茶生産が進み,砂地は麦,切り干し芋の産地であったが,砂地の条件を生かし てスイカ,イチゴ,落花生などが入ってきていた。
原発工事は大熊町では農業から労働力を吸収し,稲作は婦女子中心の生産に移行していた。浜岡 町では地域によって作物が異なるが,東名高速道路の開通もあり,市場を広げて,施設園芸でイチ ゴ,メロンが拡大していった。
これと連動するのが農協の事業活動である。大熊町農協は,米肥農協26)としての性格が強く,米 以外の作目の指導・販売対応は,肉牛と梨が地道な生産組合活動を続けている以外は,遅れていた。
浜岡町農協は部会活動が活発であり,施設園芸部会(31名),苺(170名),園芸研究会(100名),
温室研究会(86名)など20の組織が活動をしており,とくにイチゴは積極的に組織指導をしてきた。
V農業経営と原発立地に関する意向調査結果は次の通りである。
原発建設立地点に最も近く,稲作の生産力の高い下リヤムナイ地区と,畑作が経営のかなりの比 重を占める前田地区を選定し,調査農家75戸,調査農家率53.6%(前田地区53.4%,下リヤムナ
イ地区53.8%)であった。
調査内容は地価への影響,労働力吸収への影響,兼業動向,作付動向などの聞き取りとなってい る。ここではそれらをもとに,放射能汚染の問題の影響について次のようにまとめている。
放射能の問題は実際に汚染事故が起こった場合だけの問題ではない。その不信感が消費者等に与 える微妙な影響も含んでいる。日本は唯一の被爆体験国として放射能汚染に対する世界のバロメー ターとなるべき役割を担っている。それだけに国民も汚染に対しては認識も深く,敏感である。現 在米は過剰であり,自主流通米等商品として販売しなければならなくなっており,また野菜の新産 地として厳しい市場競争に入っていかなければならない前田の農業としては,放射能汚染の問題は 実際にそれがあるかないかは別として深刻な問題となるであろう。
アンケート調査結果の一部は次の通りである。
原発にたいする意識では,下リヤムナイ地区,若年層で関心が高い。粗収入の高い層,すなわち 農業に重きを置いている層に安全性に不安感が広がっている。
地域農業,社会への影響では,放射能汚染に対する心配が最も高い。これは実際の汚染というこ とだけではなく,口に入るものを生産する農業という立場上消費者に与える不安,市場の見方とい う間接的な影響にも意識が及んでいる。
農協に対しては,はっきりとした態度を示すべきだと,安全性の問題など原発についての知識を もっと知らせてほしいという意見とが並行している。
原発誘致に賛成か反対かでは,若年層の反対が非常に多く,階層別では粗収入300万円以上層で 反対が強い結果となっている。
以上より結論として次のようにまとめている。
原発の問題を裏返せば,どう地域農業を守っていくかということであり,それを実行して行くた めには,地域の和,集団的対応をどう築いていくかが最も重要になってくる。地域の和の具体的な 場が農業協同組合である。すなわち,農協の今の姿勢を将来的にどう発展させていくかによって原 発の影響に農業が対応できるか否かがかかわっている。
26)食糧管理制度のもと,農家に肥料を売って,米の販売代金が農協に振り込まれる仕組みに安住し,米以外の 園芸,畜産などに積極的には取り組もうとしない農協の俗称
11. 報告書,その後
なおこの報告書では「風評」,「風評被害」という言葉は出てこないが,調査をリードした太田原 高昭は後日次のように述べている。
「後志管内での原発建設は,苫東工業地帯の膨大な電力需要を賄うのが理由とされました。最初 の建設計画地は岩内町でしたが,岩内漁協の猛烈な反対運動に遭い,計画地が共和町,泊村へと移 ります。共和町は農業地帯。農協の意向で,原発の農業への影響調査依頼が持ち込まれました……
当時は放射性物質の実態や農作物へのダメージの計測は難しい状態でした。その中でわれわれは『風 評被害』に着目します。『どれだけ売れないか』。これが一つの目に見える影響だとわかったのです。
(大熊町,浜岡町の調査を終えて)北海道に戻り,報告会などやりました。すると社会党(当時)
の吉野之雄道議が議会でこの問題を取り上げ,堂垣内尚弘知事が『発生したら補償する』と答弁。
風評被害の概念が公的に認められた瞬間でした」27)。
こうした動きを前にして北海道農務部も,泊村に建設予定の原子力発電所を意識して,農業と原 発の関連について,福島県楢葉町(建設中の福島第2原子力発電所),静岡県浜岡町(運転中の浜 岡原子力発電所)を対象として調査を行った。調査報告書は結論として次のように述べている28)
「農協経営において……兼業化が進むことによって農家経済に占める兼業所得の割合が大きくな り,また,農村社会の混住化が促進されることなどから,農協は……営農指導体制を強化して,組 合員の期待に応え得る健全な農協運営に努めることが必要である。
府県に比べ,専業農家の割合が高く,しかも農村が広範にわたって形成されている本道の場合,
原発の立地が農業及び農村に及ぼす影響を両地域のそれと同じようにみることはできないが,仮に その影響に質的・量的な差異があったとしても,原発立地に伴って何らかの影響を受けることは避 けられない。……影響をできる限り最小限度に,しかも一時的なものに止めるよう,中,長期的な 視点に立ってあらかじめ原発立地周辺における農村社会のあり方を検討するとともに,特に原発と 共存する地域農業の基本的な振興方向を確立しておくことが重要な課題であると考える」。
12. 共和町長リコール問題
1982年3月6日,原発受入の立場の,共和町駒場剛太郎町長のリコールを求める申請が同町選 管に提出された29)。解職を請求したのは長谷川光彦を代表者とする若者30名で,大半は前田,発足 両農協青年部に所属する農業青年。請求理由は「原発の安全技術は確立されていない。共和・泊の
27)太田原高昭「私の中の歴史 農協と共に半世紀⑥ 苫東と原発 『開発に頼らぬ』合い言葉に」北海道新聞 2017年1月13日(太田原からの聞き取りをもとに北海道新聞社の久田徳二が整理した),後に太田原高昭先 生追悼集編集委員会編『北のロマンと農業・農協』2018年9月18日に再録
28)北海道農務部農政課『原子力発電所の立地に伴う農業影響等調査報告書』1980年
29)以下の記述は,北海道新聞の以下の日付の記事による。 1982年3月6日,3月7日,9日,11日,12日,
24日,28日,4月9日,10日