申1舞義秀「咲綾i論 勝奮
il
申出義秀﹁咲庵﹂論
一光秀反逆への﹁道転 勝倉壽一
歴史小説について
中毒義秀の歴壷小誕﹁咲庵﹂は購穣三十八隼︵一九六三年︶一溜か
ら翌隼二月まで︷︑群像﹂に掲載され.凝年度の野講文芸賞を受賞した︒
いわ塵る本能寺の変を起こした明智光秀の数奇な生潅を舞ったもので
ある︒ 光秀は.主君織遜館長の瞼に乗じてこれを請った遊将であ静︑その
罪の報いで灘柴秀吉の弔い合戦に破れたとする﹃騰角太竸記臆などの
通俗的な霞果応報談が一般的礫解となっている.︑一方︑光秀は当時と
してはインテリ裁上に羅し︑癇癖な暴君鱈長の暴虐に耐えかねで︑決起
したとする悲麟麟入鞠像を描く歓舞伎﹁鑓︑嬉梗騰量請状﹂︵文覚五隼︑
縢量鶴屋南蕊作︑購名題﹁時今趨結梗籏揚﹂など︶跨ような解釈もあ
る︒ともあれ.光秀の生涯は本能寺の変を生んだ光秀の反逆の原轟を
闘うことに穀敏されるものとして擬えられるが.その原露・遷露をめ
ぐっては古来諸説紛々としてお陰︑現今の獲史学においても定議を見
ていない︒
ところで︑義秀はある疲談会で歴史小説を書く憂慮を購われで︑.歴
慶に鷺わることの意義を次のように説いている.︑
過去に皆欝親. 発一弗︑ アての晶難︑ 君私︾ンもはや生活㎜の←父濡げは・ないが︑ 私
に−生きる⁝㎜といふことがどんなことであるかを︑それぞれの樵 絡と努力と毒命をもつてしめしてくれた︑多数の人々が生きてゐ る..︑それが私のいふ﹁入閥の歴史﹂となる︒︵略︶歴史には︑人 鷺の生活が︑要約されてみる︒その意瞭で︑数学に舞てるる︒解 答は無数にあるやうで︑正確には一つしかない︒それを数学では 公式といひ.大鷺の生漬では遠といふ︒歴史を読むことは.この 遵を探ることでもある︒ 義秀は︑歴史小議は完籍した入生を後盤から振り返辱︑客観的に黙離するものであ辱.退去に生きた﹁入瞬の歴受﹂を丹念に遮η.登場する人勃の﹁−性格と努力と宿命﹂を通して︑その生涯の必然の﹁這﹂を醗らかにするのであるという.︑また︑歴艶小説は﹁人生史の一種にほかならない﹂のであ辱.その﹁答はつねに瞭然で酋尾が黙慰して﹂いる︒その法購性は﹁歴婁がそれを誕賭し︑謄糞がそれを審判する﹂のであ琴︑その︷−歴壷の蓬鴛﹂は﹁永い醸でみれば︑雍然渋みたいに蕉確でさへある﹂とも害う︒ 猛襲を機縁として美濃の名族皿−上鞍の被覆をうけつぐし﹁明智家の再興を志し﹂た尭秀の年来の﹁宿志﹂は︑いかなる謹饒で薦長への反逆に綻びついたのか︒なぜ.光秀の天下人への露野心﹂は成聴しなかったのか︒世俗の毀誉褒貶を離れて光秀の﹁性格と努力と宿命﹂を見定めることから︑その生涯を貫く一筋の法麩性を箆鐵し︑反逆から破滅への必然の﹁蓮﹂を聡らかにするのがく歴史を読むやということであ
菩
茎
強鶏大学教欝学部譲葉第77琴 鷺
/犠1藝年玉2講
修︑整史小議﹁咲庵﹂の執筆意選であるというのである︒
二典縫と構想
中灘義秀は開智尭秀の生涯を綴るにあたって関藤資料を博捜し︑そ
の分野と資料撹讐によ琴光秀の反逆の必然雛とその真実に遣るという
蕉統の歴甕小議の方法を構いている︒﹁咲権﹂申に鑽る関係資料を翼
挙すれば︑﹃太平記総鷺儀長公〜簿㌦安土騰記﹄﹃陰徳太平記﹄嚢規木略寵悩
皿「轟ゥ託︵織襲軍記ご﹃塔補鱈長記﹄町明智軍誕﹄−縦角大開記﹄﹃藤
漢の記﹄﹃宣入左京嘉入道隆薩詫﹄などがあ弩.勉に﹁蹄絵奉太溝詫﹄﹃フ
欝イス蔭本艶﹄聾言経郷翫纂﹃兼昆郷一記﹄﹃武家事紀﹄﹃纒鱗文書﹄など
からも馨を得たと患われる︒
そりつ・ち︑﹁咲罐﹂の大騎を形成する典擁として義秀が挙げるとこ
ろは︑次のとお融・である︑︑︑
◇﹃援長公記﹄
・富蟹の正徳寺における道ご∵鱈長の鯵藤と︑遂三が旛子奨励に愚
癩を洩らしたこと.︑
・足麟義昭に対する霧長の返書︒
・松永弾豊の二人の少年は信長の人質とな辱︑父が裏窺った時︑量
護をしてくれた鮭久購夫嬢だけに感謝の書置きを残したこと.︑
・松永弾正が平蜘鉄の茶釜もろとも爆死したこと.︑
・八五綾の餓餓の惨状.︑
・荒木村叢一族の女房百二十二人を殺戮したこと.︒
・村重のギ女︑下男五百余人を焼き殺したこと.︑
・佐久瞬叢盛父子が素建︑草鞋姿で追放されたこと.︑
姦晦長講身の三選の手紙︒
・麟長が光秀の謀反を知り︑﹁−是非におよばず﹂とただ真鳶洩らし
たこと.︑ ◇一足平記﹄ 新響義嚢糞害の条における往生按舞恋・心寺のこと︒◇﹁−陰徳太︑平記﹄ 叢長が刀に突き麟した饅鑛を轡重に食わせたこと︒◇﹃蔑木略記篇 鏡本村重の兜撫のこと︒◇﹃矯角大観記﹂﹈ ・光秀が満水に投げ捨てさせた生魚類の悪臭が安土申に広まったこ と︒ ・京に入る軍兵への光秀の綾れのこと.︑◇﹃立入左論量売入道陸佐記﹄ 光秀の高評醤の配達︒ 一方︑義秀は明智光秀の生纒を綴るにあた琴.その小説を﹁咲庵﹂と題し.霧鎖に﹁ほととぎすいくたび森の末露かな 咲庵﹂の句を掲げている.︑蕎樽光寿著冊瞬碧光秀輪︵昭秘三十三年二九五八︺︑吉講弘文館︶によれば.﹃︐咲魔﹂の名は﹃西教寺文書﹄に趨る光秀の灘号である︒また︑三瓶達霧氏は講掲の簿及び題名の墨典を.高簿著に瞬駁の里村紹巴宛霧纏に鍵ると説いてい蕎︒ 義秀が高郷著﹃購智光秀﹄を参看したことは推灘される︒義秀は﹁咲魔﹂を溝懇するにあたむ光秀の全能漣と歴史的背景を講書に学ぶとともに.作贔金棒の構成を﹃態長公記篇を基に鐙み立て︑適宜飽の資料を分観し︑幾讐を簾えて醗覆している.︑菱蟹寺憲獲の予言は︑高郷著のほかに桑欝忠義著﹃信授の手紙﹄︵昭穣三十五隼︹一九六∩︶︺︑文芸春執新被︶に鐵る.︑ 本能寺襲撃を前に愛宕山上で営まれた百韻連験について.義秀は光秀の発句を﹁時は今天が下なる互層鼓にであるとし︑百韻の終わ弩の挙句﹁羅々はなほ長閑なる時 光慶﹂の署名に注彗する︒この発句に
ついては霧職長公記﹄をはじめ︑﹃鱈長鑓甫療本﹄﹃獲任謀反詳細﹃絵
申議義秀「咲薩」
圭3 、勝禽
本太饒羅L一﹃織襲軍記騒﹃擁角太霧記﹂など︑いずれも﹁天が下しる﹂
であるとして謀駿の意を読み取ろうとしているが︑義秀はこれを瞬確
に否定して.次のように説く︒
このやうな光秀父子︑首尾溝醤の対応からして︑発句の﹁天が下
なる﹂などはじつは﹁天の下知る﹂だったであらうといふ臆灘が
うまれて︑里村紹巴はその弁明にくるしんだといふやうなことが
伝へら蕊てるる.︑︵略︶その一大事変の藤火が︑この発句によつ
てき良ノれたとしたいのは︑量人の蕎望だつたのかもしれない︒し
かし人々は終の句に︑光慶と署名させた光秀の優しい義心を察し
ようとは.しなかったもののやうである.︑彼は発句に§分の逆心
を淺らすやうな.うつけ者ではなかった.一︑
発句に関わる右の解糖は.﹁咲庵﹂に先登つ桑露著﹃繕長の手紙温
の解説と重なるところが多い.︑
光秀の発句は︑構めっから.蒔は今あめが下なる翌月裁.であっ
たのではなかろうか.︑それを︑のちの人が︑光秀の反逆を強調す
るために改竄したのだと.私は臆離する.︑なんとなれば︑いくら
光秀が轟奮状態にあったにせよ.大事を前に控えて︑このような
軽率な発句を跨ずるはずもない︑と思うからである.︑光秀も.連
歌舞臓縫に穂密を揺られるような雛籔酵ではなかった.︑
義秀が﹁咲庵﹂の執筆にあた辱桑難読を参看したかと推灘される.︑
一万︑挙句の詠考として﹁光慶﹂の名を記した光秀の親心を冤るのは︑
義秀の強襲である︒﹁光褻﹂については︑﹃瞬智軍記﹄第九巻に.
挙韓ヲ露々ハ猶長閑ナルトキト舞霞ノ守詠ジテ懐紙ニハ嫁欝懇ヒ
ケン子息十兵籍ノ尉光髪トゾ留サセケル⁝⁝
とある.︑﹃−光慶しという子息の存在は確認さ耽てお典・ず︑高郷氏は唖明
智軍記﹄の記載を﹁要するにでたらめである﹂と籐じている.︑義秀の
史料の籔いに問題が残るが︑父子⁝体︑構の入光秀を形象した義秀の
簿想には注黙しておかなければならない汽︑ また︑作島末尾の光秀の鳶を弔う子息﹁童舞﹂の名は﹃明智系舞﹄に鑽る︒この系図についても高癖氏は﹁悪意ある偽系麟であるしと遠べて史料鋳懸蕪を否定しておられる︒ここでも義秀の歴史小説のあ鯵方に縫題が残るが.玄琳の稗は︑道三が義絶による殺害を免蕊た末子を倦籍に入れて達書状を残したことと経連づけて︑運命輪鰹の撫を描くために必要とされたと考えられる.︑ ところで︑高郷氏の分類によれば︑光秀謀反の原饗は次の九説に分けられ.それを託す資料は雛下のとお蔭である.i怨渓説 管見に入った醗酵で歴史学上の所誕を見れば︑氏は戯霧内通説や野望説を否定して怨叢説を取辱︑る窮羽詰まった事溝を想定する︒すなわち︑長は光秀の領地丹波一馨と近江霧滋賀灘を没駁し︑見露国を軽軽取鞍しだいに与えると嘗一告した︒半肩議には丹波睡における光秀の軍事権は震長の三男鱈孝によって霧奪されていた︒したがって︑光秀が毛鵜に敗れた場合︑睡も城も皆無になる恐れ解あ辱.縫捧絶命の窮地に簸つた光秀は︑千載一遇のチャンスに急襲という危険きわまる賭けに鐵たと解すみ︒ 豊醗武氏も野望説を否定して信長の冷遇に霞を求め.﹁髭秀が賃長 八上機一件 家農饗応⁝件 斎藤麟三一件 庚申待夜一件 法華寺⁝件 女色︸件2陰謀露顕説3早朝誕露説尋元来謀反人説 このうち︑ 嘆総見記﹄﹃韓麟露語﹄ ﹃矯角太麟記し㎜ ﹃鱗驚太翼艶賑﹃続戯者魎語﹄ 嘱義残後覚﹄﹃続蓑者秘語駄﹃糖綺麹語輪 ﹃鐙父露語﹄
﹃落穂雑談;画集﹄
﹃甲購軍艦﹄﹃躰鐘談﹄﹃織鱗家記﹄
﹃秀吉事記﹄﹃豊鑑﹄﹃白石緯書﹄
興老入雑輩濡
まず桑霧
光秀の死命を麟す
茜羅総患鐘にあた彗.儀
未鉦脹の識雲・石
しかし︑本能寺鵜変の
奪
難
難轟大学教湾学蔀譲葉第77号 茎4
三筆王威露年亙2鍔
の意えぬきの藷ではなく︑客将であ弩︑その地位が昇るにつれ.京洛
の公郷や豪慈と霧しく.艦長とち奮った文化雑な素質をもっていたた
め.鱈長とは性格的にもあわず︑ここにきらわれた療瞬があるの訴あ サセろう﹂とすξ︒
これに対して臨蒙鰺氏は八上城一群.家豪饗応一件︑法華寺一件な
どの瞬説を撹讐し︑﹁直接の契機を深めようとするのが議題であ﹂弩.
﹁主書髭長に対する鱈頼感の欠簾と︑信長のすきに乗むて︑戦蟹武将
なら︑るのどこかにもつている天下人への夢を実義しょうという悪魔
のささやきに勝てなかったためであろう﹂と推離していみ︒
熱田公民も﹁たしかなことは︑鬢長が濾藪この主ない状態で本能寺
に泊まることを︑尭秀は難っていたこと︑有力裟将はいずれも遠方に
鐵陣中であったこと﹂であ辱︑光秀が天下取諺の誘惑に勝てなかった おことが原馨であるとすみ︒
さらに︑朝尾直弘氏は光秀謀反の羨に︸−確証をもってこ蔑といいき
れる礫露は発つかっていない﹈と嚢じ︑﹁おそらく背景に艦長の﹃武
者遵﹄にたいする考え方のちがいが機たわっていた﹂と説く︒すなわ
ち︑﹁.盤景の鐵総な感覚は︑下克上の社会における武士の危機をする
どく鳧鐘き︑その危機感から現状輩新の手段をとったが︑光秀は教
養・発想ともに当時の平均雑な武将であ弩.﹁繕長のように翫下の大
名の所頻支霞にまで干渉する﹃武者遵﹄とのあいだに︑するどい矛露
を有していた﹂が︑髭秀の﹁反逆は霧動麟で︑かれ嚢身が謙遜牲や展
望をもった痕跡が認められない﹂といヶ︒
これらの瞬説はいずれも義秀の﹁咲霜﹂発表後に主張されたもので
あるが︑晶義秀の解釈はこれらの所説への幾鵯を先取りした観がある︒
義秀は︑巷購に流布した光秀謀反の譲について︑.八上機一件を﹁総見
髭の鐸者がつく峰あげた虚説﹂︑薦藤饗三簿を﹁﹃購智軍罷﹄の小説
であ﹂るとする︒また︑家康饗応一件などの甕実性を萌確に否定し︑
謀駁の霞とされる備漢名太瞬記﹄﹃聡智軍記﹄などの諸説を︑㎜−光秀叛 逆の動機を灘弩かねて︑さまざまな臆説をもつともらしく欝へあげ・﹂たものであると幾韓する.冒これらの見解は高郷氏の薩読と講趣旨であ辱.義秀が光秀謀反の難を考えるにあた弩高郷説の影響を受けたことは推灘されよう. 光秀や総鱗藤孝は︑露長の一喝をあびたことがない︒信長は彼簿 が藩将軍家の臣下だったからといって︑遠露するやうな入梅では なかった︒また二人の態度が謹窒だつたからといふのでもない︒ /強ひていへば二人とも故実典礼につうじ.学鶏芸能に秀でると ころがあったので︑ ⁝穫の敬意をはらってみたともみら︑れる.︑ 義秀は信長と光秀との瞬に感構麟対立や︑鱈長の蕎灘の事実と光秀の怨蟹の事実は存窪しなかったと見る.︑鱈長は羅成の権威には拝擁しないが︑光秀・藤孝の故実の知識や学問には敬意を払っていたという︒ 光秀もまた姦独である衰分の立場を考へ︑直参の籍将達との霧係 に気をくばって︑す・んで︐豹をきそひ寵をあらそふやうなことを しなかった.︑︑/かうした翫慮と纏重な態度で.鱈長の機癖をそこ 論ることなく︑諸将との鷲に摩擦をおこすこともなかった.︑縫鶴 の詩嚢も︑わるくない.︑/秀吉は彼を名将のやうにほめてみるし︑ 宮廷の官人立入左右亮などもその記に︑﹁丹波羅惟任馨癖守.簿 筆鋒をもつて︑一纏を下し行はる︒前代未雛の大将なり.名誉の 大将な弩.弓取りは薫じて飲むべし﹂とまで.激賞してみる︒立 入は皇室の料漸のことで︑奉行入の秀吉や光秀と交渉のあった人 であ諺︑光秀の大極も承鷺してみる.︑それがこれだけほめるのだ から︑飽は推して知るべしだ︒ 光秀は鱈長幕下の煮権将︵柴鐵勝家・滝履一益・売秀・秀吉・丹濁萱編左衛鍔︶中の外様であるという糞らの位置を難覚して綴心の心蔑舞をしてお諺︑秀吉との媛.立も存在しない︒また︑緩長への反逆の真意を斎藤舞三に闘われた光秀に﹁思議こそあれ︑私怨も私憤もない﹂と語らせてお陰︑その農遂は戦羅嘉選の論難に従ったものであ辱︑私
中毒義秀「咲庵1論
嚢
欝 勝
的な怨みや縫発的な行動ではないとする立場を墾示している.︑
獲楚小説﹁咲庵﹂における義秀の歴史観は︑光秀を謀反人という狭
義の倫遷麟幾韓から解き放ち.戦睡置将に通有の生き方︑範量の共違
認識のもとに光秀の全土潅を貫く﹁遠﹂を疑え.その歴史的麩権を購
らかにしたところに認められる︒
三 戦覆の虫
戦匿銭将に遜鳶の甦鍵認識を義秀は︸︑戦馨の虫﹂として語弩.
視点から光秀の全生渥を定載しょうとする.︑ その
命を投げ識して戦瞬に鞘け暮れしてみるほどの者ならば.誰にも
合点の傘くことだ.︑応仁︑文瞬以来菖十余年瞬︑荒廃した優壌と
人心を培養土にして.麟轟いたるところにこの虫が跳梁してみる.︑
将軍家から三管領︑襲職.諸国守護大名のうち︑無事泰平に饗を
すごしてみるものは︑ほとんど二家もあるまい.︑講親灘喰み︑ 一
湾抗争︑義殺し子殺し主殺し︑強奪︑嚢略︑裏饗辱︑だまし討ち︑
虐殺︑およそ人縫の悪業といふ悪業で︑行はれないものは︸つと
してない有様だ.︑
権謀簿数を弄し︑審敵を屠彗︑内義を犠牲にし︑覇権を窺って藍を
る業であ弩︑各人がその必然の糸に操られて生涯を終えたのである.︑
義秀は.稜9責う﹁綾羅の虫﹂を﹁野心﹂﹁野望﹂﹁宿志し﹁大志﹂
光秀§ 信長3 義繧2 斎藤遵三2 荒木韓重茎 流し.敗銘し.遠離の汚名を残すのも︑いずれも﹁鞭麟の虫﹂のなせそれを義秀は﹁道﹂と縛んだ︒したがっで︑︑歴艶に逆臣の汚名を残した尭秀も︑へ︑戦醗の虫しに操られた必然の生涯を生き︑必然の最薦を遂げたのであるという︒などの語︑及びその異体的な行為語を霧いて語っている︒﹁野心﹂﹁野望﹂コ磨志﹂﹁大志﹂の主体をその罵舞によって見ると︑ など︑礁中主要人麹に通有の行麟原理として説萌され︑具体的な行為である﹁裏舞善﹂﹁謀反﹂﹁反逆﹂﹁逆意﹂−麟逆に﹁逆心し﹁だます﹂﹁そむく﹂などの簾耀は. 松永久秀建 蔵本村重鼓 光秀6 赤松講誌3 義昭2 騰勝長治2 高議右透2 篠井瀬覆2 繧鱗藤孝2 朝 倉義景! 串羅漢秀i 浮欝直家i 塩鱒吉太夫玉 神 戸簾孝1 丹羽五郎左籍鍔里などとなっている︒いわば.﹁野心﹂﹁野望﹂﹁大志﹂などは有力な戦羅武将がすべて心中に掩えていた﹁戦露の虫しであ惨.戦羅時代を嚢かしていく動瞬・動力であった︒義秀は右のような麗史認識のもとに︑本能寺の変の原馨・遅臓をめぐる虚妄な俗説と︑それに纏わる従来の学議を瞬確に全否定する︒ しかしまた︑﹁︐綾羅の虫﹂があら攣る戦国武将が抱く野望であ辱︑戦いの原簗︑戦いのエネ庵ギ⁝の根源をなすものであったとすれば︑なぜ髭秀のみは反遵者の汚名を負った生淫を終わらなければならなかったのか︒柞蕃はそのような瞬題意識から光秀の歴壷的な位穆に焦点を豊て︑膜逆者の生薩を閉じた光秀の歴史的な必然性を探ろうとする︒ 義秀は︑餐史上の各人の謹直は結果から見れば決まってお辱︑後量から見るとそうなる必然性があったという︒その典璽繰として鳶藤遵三と信長の生涯が挙げられる︒ 美濃の守護土鼓氏と守護代長井氏の内証に乗じて美濃一躍を乗っ取り︑﹁まむしの道三﹂の悪名を得た道三は︑継鰻義絶︵萢可︶に討たれ︑その首を足鐵にされるという無残な最鰯を遂げるハ︑その生蓬について︑義秀は次のように記している︒ 五体不具のいたましい絞仏をとげたにしろ︑ 一生の志をつらぬ塾 た点では︑まづ遺憾のない生灌だつたといってよい︒綾が瞬騒の
死を覚悟した︑いさぎよい最鶏からしても︑なしうる事をなしと
(]
L︶
ノ、
候轟大学教官学藻叢藻簗77暑 藩
単蔑欝年12鍔
げた考の未練のない心境がうか.・はれる.︑
糞一あ生涯を︑おのれの心に巣≦つ﹁戦馨の虫﹂の命ずるままに生
きた戦露武将の典型として詩観する︒ 一代の桑誰として裁機を思うま
まに生きた道三にとって︑議の褒貶は薦題ではなく︑無残な最難はむ
しろ必然であったというのである︒
一方︑鶴長はその﹁聾望﹂︵戦遜の虫︶を﹁武遊遵﹂﹁天下霧戯﹂の
墾念のもとに実蕎したのであ辱︑その薄雑な行動はやがて﹁︐信長の代.
五年三年は持つべし.︑瞬年あた辱公家にもなるべく.しかる後.高転
びに︑擁のけに︑転ぶであらう﹂という安露毒悪竣の予霧が鶴申する
ことになる.︑その整史的必然を演じたのが光秀であったという︒
義秀は.﹁嚢分︸鰯の武力をもつて︑蔑量を統一するといふ﹂艦長
の﹁天下姦銭﹂の﹁意気込み﹂を破の﹁唯⁝の鉄難﹂と擬え︑醗薩を
して次のように語らせている︒
入にはそれぞれ持って焦れた︑莱命といったものがあるやうぢや.︑︑
それを渠せば︑もって事は終る︒天下一統が織麟殿の天命ならば︑
その天命を終彗次第︑こんどは次の天命をになった者が.これに
替るであ諺ませう.︒これが天地轟然の理法といへば.⁝⁝
嚢ら﹃︑庫武の毫﹂と免して︑﹁この鉄鷺をつらぬくためには︑いっ
さいを澱蟻して悔いない﹂生涯を貫いた鬢長が︑光秀謀渓の報に接し
て﹁是非におよばず﹂とただ一書洩らしたばか辱で農害して果てたと
ころに︑義秀は﹁あわてもせず愚癡や憤激も護はないところ︑儀長の
大極を髪影藤とさせる.︑篇と遂べている.︑﹁戦麟の虫﹂の命ずるままに.
武力による蔑讐の続皿という﹁褒命﹂に翰じた生き方に︑欝長の確か
な歴史鐵位構を見定めているのである.︒その鍾権を︑義秀は次のよう
に運べているハ︑
繕︑長もまた︑麟・代の選まれた綾命の入だつたのかもしれない.︑あ
るびは護命をはたすべき密命のもとに︑生れあはせてきた者のや
うにも見なされる^ロ このような歴実認識を驚まえて光秀の生漣を発るとき︑作者はそこにいかなる﹁健命﹂と﹄藝命﹂を晃ようとしたのであろうか.まず.無考が光秀の波薦の生涯を語るにあた辱︑﹈代の棄雄道三の末蕗を糞らの未来襲として癒否することから轟発する光秀蝶を諾いていることか注聾される凸︑ 薄薄の菱縫が父の菖を足げにするのを見て︑光秀が蒼嚢になった のは︑はたしてどのやうな感椿だつたからであらうか︒また産衣 の襲から畜てあげて家督を麟づつた上︑二人の子僕を暗殺されわ が身まで殺される遵三の生護︑さらにその宿命を甘受して末子に 繕になれと勧める武将の心構を︑いかにくみとったのであったか︒ /もとよ誇光秀は塞蕪︑︑遵三の遷書状を知るはずはなかったが︑ たとへ矯ってみたにしても.鼻をそがれた遺産のみじめな潅髪首 をみれば︑おそらく鞍の殊勝な小鷺に瞬感はしなかったであらう︒ ﹁咲魔﹂に関する解読記事の多くは.本縫寺の変の原義を戦蜜武将に通有の﹁戦韓の虫︼として疑えたところに︑作者の独饒的な歴史解鞍を認めようとすを.︑しかし︑光秀露毒を掻く作者の視線は︑むしろ義麟の虫﹂の命ずるままに覇権を求める蹴憂の生き方を蓬否しつつ︑それに取琴込められていくところに光秀の生涯の悲麟性を捉えようとしたと考えられるのである︒ 光秀が︑糞らの誌内に巣くう﹁戦馨の蛍﹂の跳梁のままに乳量を駆け叛けた遠三の生涯を否定するとすれば︑朝廷と建徳将軍家によ陰影歳された麩権威と伝綾的な癒鑓体系に基づく秩序の羅綾と.その秩序体系における醗碧氏の構応の建鐘を求めることが採るべき道となる︒名勝±鼓氏の再興とその支流たる明智氏の走読は︑﹁戦舞の虫﹂の命ずるままに.覇権を譲う鼠量の力学とは本来的に矛矯するものであったと言ってよい︒ 義秀は︑義龍の襲撃による瞬智落城という蕎撃を受げて心機⁝転.漂泊と薦苦に醗えた光秀の嘉徳の﹁野心﹄を瞬来の権威の麟復による
中震義秀「咲魔」論
壽
禽欝 葺
﹁藤絶した墾智家の再興﹂への志として捉え︑その蹴嚢の強蓬への変
質の必然を見定めようとする︒﹁本来ならば土較の桂穫をうけつぐ者
は︑馨智一聾のはずなので﹂あ琴︑その実現のために光秀は是舞義昭
の﹁天下を薙ぐ野心﹂を趣繕し︑﹁儀長に天下をとらせてみ﹂るとい
う軍略を試みる︒﹁義躍公を鑛にいた︑・き︑と総弁か天下に号令する﹂
という権力の購馨の申に︑名族﹁土鼓の再興﹂と土鼓の支流である㎝︑明
智家の再興﹂の実現をはかるというのである.一︑
しかし︑室簿幕府の権威の繕復と︑その秩序体系の準に明智氏の定
位を慧かるという光秀の醤譲鷺は︑嚢ら﹁布武の鬼﹂と乾してあら睡
る羅成の権威や鍛懸績捧系を否定し︑破壊しつくすとともに︑武力に
よる天下統一をめざす鑑長の﹁武遣道﹂の麟に籠くも巌壊する︒︑比類
山焼討ち︑長島⁝幾講義.浅井・韓倉攻略︑長篠合載︑石山寺攻めと
続く戦鶴の連鎖の鷲に︑﹁将軍の家駆格として︑なかば賓客の待遇で
選へられた光秀﹂は.いっか鱈長の幕下に緩み入舞られて精励を求め
られ︑子麺いの武将である秀巻らと功を饒う立場に立つことになる.︑
信長の幕下にあって.光秀が﹁長恥闘の苦労と︑震長への奉公に献身
した功がみのつず\つひに明智の家を再興し.ほろびた上鞍を代表す
る一跨の練染とな﹂鯵えたかわ蔭に手にしたものは︑﹁露長は縫蝿君
主で︑畿下の諸将はすべて妓儀﹂であるという現実であった︒
光秀が秀吉と﹁望むと望まないとにか・はらず.競争考の位置にた
たされ﹂.﹁たがひに功と饑きとをせ鞍あふやうな立場﹂に立ち︑﹁鬢
長に万⁝のことがあった場合︑その跡をつぐ者は家康か︑または鶴長
の子を貰ひうけた秀吉か﹂と§される状勢の中で︑﹁大志をもち︑野
心のつよいことでは︑飽の諸将の誰にも劣らない﹂光秀の心が戦国鼠
舞の悲腰である−京麟に嚢をたてて天下に号令する﹂という﹁野望象戦
羅の虫︶に転じていくのは必然であったと露ってよい︒
光秀にとって最も大きな憾みとするところは︑信長の勢力がます
ます塔大して︑鍍が健窪であるかぎ舞︑綾にとってかはる機会は なく.死ぬまで鞍の権力下に.雌伏をつ.・けなければならないこ とである.︑旨 ﹁すでに定命のなかばにも達した﹂というあせ彗︑鱈長の濾藪が示した︹︑天の啓示﹂に︑軍略家である㎜︑光秀の騰は野望にふくれあが﹂る︒ 兵法家にとっては︑まさに絶好の機会︑これをみすみす逸するや うなことがあっては︑少壮の漿から磨いてきた︑軍略家としての 被の纏が異く︒ しかし︑暴君信長の恐糠政治からの解放者として遭えられることを購待した髭秀の思惑は︑縫考を欝頼しない爽法家への武士霧の叢繧が成立せず.無残に購壊す属︑ 守護大名の上に君臨した室瞬幕府の権威を基盤として︑かつての美濃の守護土鼓氏の露復と︑その支流である明智氏の再興をめざすことは︑本来﹁戦畿の虫﹂とは矛薦するものであった︑したがって︑窟藤麟三に謀反の真意を縫われた光秀が甕ら﹁戦睡の蜜ぢやわい﹂と語ったごとく.その謀反が戦羅蹴饗の譲運に従ったものであるならば︑美濃⁝馨を乗っ取った道三に購じく︑主食鱈長の露頭に背き︑その濾嚢を突いた光秀が歴糞土に主殺しの汚名を残したのは必然であったと言ってよい︒ 遵三の無残な最購が一︐戦睡の虫﹂の跳梁のままに謀略の縷弩をつくした生灘の必然であったように︑光秀の謀反の真意が﹁戦国の蜜﹂によるものであ貿ば︑その最難が遵三に酷似するのも必鉄聡︑あった︒継鰻義罷︵薄薄︶に死糞を足鐵にされる遵一あ家鶏から書き起こし︑講じく元首を秀吉に鞭打たれる光秀の無残な最鱗を末尾に据えた義秀の吏駿は確かであったと霧えよう︒
七
八
鶴轟大学教袴学謬議}襲第77畢 鰭
罫成董確三轡還
霧義秀の光秀襯
率由義秀は︑申置の騰壊選程に登場した二人の大晦︑美濃⁝醗の簒
奪者として申毯の瓦解を先導した道三と︑瞬体系と権藪・秩序の徹底
した破壊と這縫の穀たな秩序の餐造考として薦長を擬えるとともに︑
その正当な継承者である秀吉・家康と光秀の資質の権違に言及する︒
綾熱な鬢長の意中を︑真につかみえた者があるとす蕊ば︑それは
お身︑らくは家康と秀吉であらう︒家療はその誠実さと撰重な忍苦
とによって.︑秀吉はその縫真な藏身と露在な機才とをもって︑後
に天下をにぎるほどの考は︑その心構へや行動からして︑おのづ
から凡雄と異なるところがあるやうだハ︑/その点光秀は︑講人と
欝をならべるほどの人材でも︑器量がせまく講算高い..あるひは
蟻縫にすぐれてみるため︑鰻前が莞えすぎかへって遠艶のきかな
いおそれがある.︑要するに神経質で︑それにとらは蔑すぎるのだ︒
戦馨武将としては︑まづ異質ともいふべき姓絡であらう.︑
作者は︑嚢先のことが見えすぎて大蕎が見えないという︑戦霧武将
として天下に覇を繕えるための致命雑な弱点を︑
①﹁父殺し萢瞭﹂の異名を持つ主君義罷から﹁臆病者﹂の講参を受け
た糠経の綴やかさ.︑神経質で︑︑懸精の搾麟︑麟御に欠ける性格︒決
藤力が乏しく︑事にあたって逡退する精神的な麗さ.︑
②聾睡に﹁麺殿は繊雲殿のやうに︑無慈悲にはなれぬ︒﹂皿︑舞殿は楽屋
彫の舞邊族を︑焼き殺すことができますか﹂と闘われて返答に窮し
た︑光秀の縫量観の根底にある道徳観︒
③﹁清秘源氏の流をひく土睡﹂の麦流という系譜意識.︑︑﹁もし光秀が
薦長にとってかはることができれば︑土蛙氏は被によって最高の栄
誉をかちうることになる﹂という犠誉心︒
⑤大事決行麟の百韻連歌の﹁終の旬に.鷲慶と署名させた光秀の優し
い義心﹂︒ ⑤纏鱗父子の予想外の対応をもたらした︑兵法家の計算と徹底した秘 密主義の譲弊.︑として丹念に叢く.︑︑ 一方︑秀吉は薦長の絶大な鑑転と戦いの卓越した縫方の上に︑自らの野心︵載醗の虫︶を拝し隠し.主君の敵討ちという鼠走麟を従わしめる大義名分を聾む上げて天下入への道を駆け上る︒秀吉にとって︑本縫寺の変は自らの野心を実現する千載㎜遇のチャンスであった︒天下の覇を幾う出麟の戦いを︑亡き緩長をだまし討ちにした光秀に対する繕い合戦と位置づけて人心の掌握をはか辱︑光秀の薇立化に成功する..秀吉によれば︑光秀は秀吉の天下取りの水先案晦であ弩︑霧じく天下を争う光秀を謀反人に縫置づけることによ弩︑秀吉は糞らの野心を巧みにカモフラージュしたのである.︑ 秀吉が光秀の首を鞭打つ鴛為は︑作贔書き虚しの萢可︵嚢藤義龍︶が遊三の善を足蹴にする行為に類無している︒しかし.義擁は親子購の私的な対穿下繕悪に発する行為であったのに録し︑秀吉は叉下取弩の野心を主人の醜を討つという影でカモフラージュしてしまう︒講者の人懸的なスケ⁝殉の差が︑前者は家臣らの離農を招き︑美濃斎藤氏の没落・滅亡に至ったのに対し︑後者は欝長の全馨統一の遺志の豊楽な後継者の縫置を確立することにな灸ロ 義秀は︑聾贔の末尾に末子玄淋に﹁人君に臣事すれば︑かくのごと聾し.︑ そ・なたは伽騨仏じ﹁仕へずし︑ 救量の雌広たるッ︶を︸を︸籟へ﹂ ︾﹂認照りか辱る光秀の養の書葉を記して作贔を懸じている.︑戦轡武将の宿命のままに︑覇者への資質を欠いた控格と︑一大変革難という時代穏に適濾しえず︑饒長の選志を継承する新たな﹁天命をになった者﹂の登場を鍵す歴甕的な﹁綾命﹂を撫って︑錯誤の人生を終えた光秀の悲麟を鱗麟に語るものであったと言ってよい丹︑
雛倉謬 ・:国難圭1義秀「咲羅」蘇 19
︹注︺
① ﹁盤史小説について〜念︑花薦の思索﹄紹秘二十九年つ九置饗︑
軽薩新露社︶︑
勲 ﹁歴艶の一塁塚篇︵﹁穀潮﹂昭報三十護年︹一九豊丸︺六縁︶.︑
③ 雛下.高擁氏の所説は講書に拠る︒
嬢 三瓶達霧著﹃申出義秀の鷺受小誕鮎︵平成煮年常充塞己︑新興
社︶︒輸 製薬購鵬撫加餐軸著㎜−織饒一揖墾嘉酒﹄ 戸羅︹勲墾二十−几距午︹一・荒土ハ露盤.角磨出壷欝農︶.︑
瞬…@曲麗饒︻講蹟叢撫罪央⁝簸>︶伝¶読紅 ︵羅嘱勲脚プ五新㎜鉦−︹一よ胤七濡ハ︺︑篤円堂懲房︶﹃︑蓑隅
長と転読﹂.
績 脇幾修著毒糠懇鬢長﹄︵購穣六十二年二九八七︺︑中喪公論栓︶﹁天
下人鬢長とその挫叛﹂.︑
⑧ 熱欝公署﹃集英鍾版嚢本の歴史@天下一続賀平成霧年黛九九二︺︶
第茜章二﹁三菱天下﹂.︑
酬 朝尾嚢弘著﹃大系嚢本の歴艶③天下一締数単︑厩五隼鴬九九三︺︑
小付字館︶ 一八九・一九〇︸糞︒
麟 浅見灘﹁解説=備中由義秀全集第七巻﹄畷灘遜十と年鴛丸六七︺︑
新潮社︶に次のように運べられている.︑
戦麟の虫が承知しなかった.︑購黒時代だった戦睡時代は︑
上は信長から︑下は末薦の武将に到るまで.天下取陰の夢を︑
すなわち戦浅の蜜を持たぬ者は誰⁝太いなかった︒光秀の
儀長弑逆の原霞に就いては︑いろいろなことが言われているが︑
要するに戦籔の蜜に尽きるのではないかというのだ.︑そし
て︑この新史観に立隣して購挟に頷くように叢き鵡し︑縁熟し
た老境の冴えた裁薮振彗を見せて成功しで︑いる.︒
飽に.単襲議﹁解説﹂︵﹃嚢本の文学雛中出義秀﹄繕梅製十二年︹一
九六七︺︑中央公講社︶・瀬沼茂樹﹁昨品解説﹂︵嘱雛本現代文学全集
鐙繕離離⁝丁中毒義秀集﹄畷籟瞬十二年︑講談縫︶も購様の見方を
離している.︑
/葵文要論
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