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伊達郡伏黒村と

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(1)

1伊達郡伏黒村と従来の研究成果一

伊達郡伏黒村と

    従来の研究成果

山田

 本号に掲載した諸史料はすべて︑福島県伊達郡伏黒村の富田忠左衛門家の︑ 近世期農業経営に関するものである︒これらの諸史

料は驚︒田田家文書﹂の一部として︑本学東北経済研究所に所蔵さ

れている︒ 復刻に当っては︑すべてを原文通りに写すことを原則

としたが︑判読不能の箇所は口叩にした︒以下︑富田家の属した

伏黒村の概況と同村についての従来の研究成果を整理して解説に

かえたいと田やり︒

    一 伏黒村及び周邊村落の景観

 福島県の北部を占めている信夫・伊達両部は︑日本経済史の研究者の聞では︑信連地方として親しまれている︒この地域が有名

になった一の理由は︑ この地域が近世中期以降日本有数の生糸・

絹織物.蚕種の生産地域として発展したことにある︒ また︑この

地域が著名となった今一つの理由は︑幕末・明治初期においても

まだ地︑王−小作関係を知らなかったおくれた東北地方の中にあっ

て︑この地域が異常にまで高い小作地率を示したことにある︒.これら二つの特質によって︑ この地域は私達東北地方在住の研 一三八

究者にとつ■て貴重な︑そして魅力的な地域となっている︒おくれ

た東北地方に居住する研究者は ﹁封建制﹂を純粋な形で研究する

場合には多くの史料的便宜を与えられる︒なぜなら︑東北地方に

おいて地主制が展開するのは漸く明治一〇年代以降のことであ

り︑このため︑・てれ以前の諸史料は純粋に﹁封建制﹂そのものを

示すからである︒ どころが﹁半封建制﹂下の土地制度である地主

制を研究する場合には非常な不便を感じなくてはならない︒ いちはやく︑地主制がいろいろな形態をとりつつ展開した西南日本で

は︑ことの性質上︑近世期の諸史料も明治期の諸史料もすべて地

主制の諦側面を表現しているのである︒だから︑西南日本居住の研究者はこれら老大な諸史料を責めつけて︑それらがなしうる自

白のすべてに耳を傾ければ・てれでたりるのである︒ ところが私達

の場合には事態が全く逆のこと身.示している︒東北地方では地主

制の形成が著しくおくれた︒ このために︑地主制の諸側面を表現

する諸史料は明治期以降の史料に限られる︒それでは明治期以降

の史料でやれといわれるかも知れない︒ だが都合の悪いことには

近世期の諸史料に比較して︑ ペラペラの紙に書かれた㎎治期の史

料は散狭しやすいのである︒ある家の所蔵する地主文書の三分の

一が散疾しているならば︑ 一ての地主文書による地主制の研究は全

く確実さを失ってしまう︒ これでは困る︒いかに鋭利な責め道県

をもっても︑責めるべきものがない︒責め道具はいたずら錆びつ

くか︑実際には何の役にもたたない歪んだ鋭さを加えるか︑いず

れかになろう︒ このような東北地方の不便さのなかにあって︑私

達に希望を与えてくれるのが︑この信連地方なのである︒この地

域は紅花の生産地として著名な出羽村山地方と並んで︑おくれた

(2)

東北地方ではユニ引クな存在なのである︒ 昨年の夏︑私達は伝達地方一帯へ史料採集に出かけた︒その結

果この地域で最も豊富な史料を残している村は伊達弼伏無村であ

ることを確認することができた︒ この村は福島市東北方約三里の

地点にあり︑東は保原町︑南は保原町大字上保原︵旧上保原村−︑

高成田山はこの南方にある︶北は季刊町大字伊達崎に境し︑西は

阿武隈の巨流をへだてて桑利・伊達町をのぞむ︒昨年の三月︑高

橋幸八郎・古鳥敏雄両教授によって指導される東京在住の研究者

十数名がこの村に調査にこられたが︑ ︸ての時に私もその調査団に

協力させて戴く機会をえ︑はじめて伏黒村をみることができた︒

福島市から雷︑車で約一時間︑雪どけに水量をました阿武隈川をわ

たると︑桃■・梨の樹園地がところどころ雪を残しながら拡る︒

その果樹園の中に桑風と麦畑が点在する︒ これが伏黒村大字箱崎

︵旧箱崎村︶及び大字伏盟.バ旧依然村︶である︒伏黒村は明治二二

年四刀︑四つの旧村を合併してうまれたが︑このうち小.轍・中瀬

両旧村は昭和二五年保原町に編入され︑以後伏黒・箱崎両旧村を

含むのみである︒ この両旧村共に近世中期以降明治初年まで︑の.蚕

種製叫一迫地として著名であるが︑ 今は車窓からみるように︑果樹園

地帯として栄え︑僅かに点在する桑園と古めかしい蚕種製造の看

板が昔の名残りをとどめている︒伏黒村を東西に横切る︑頭打・

保原を結ぶ道路と︑南北に切って箱崎︑・小幡を結ぶ道路が旧伏黒

村の中央で会する︒明治以前はこの桑折・保原を結ぶ道路は阿武

隈川に中絶され︑渡船によって僅かに接続していた︒村人は阿武

隈以南を保原道と呼び︑以北を桑折道と呼んでいる︒このような

景観均.呈している伏黒村は旧ろう伊達町︵旧長岡村︶と合併し︐

−伊達郡伏黒村と従来の研究成果1 伊達町のうちに含まれることとなった︒ ところがこの合併によって村名を失う伏黒村は伊達町役場を伏黒村におくことによって︑名をすてて実をとるという巧妙な取引きを行った︒ かっての蚕種業者︑現在の果樹園経営者の商魂のたくましさをここにみるべきであろう︒ この伏黒村のうちでも︑史料を最も多く残しているのは隠伏黒

伏黒村の小学

表1

33堤 下隣9西大川 34上ケ戸150見 取 35才 場151新 開 35橋 本,52卯 高 37塚 田,53上古新 38下 辰…54古新野

39上劇55丑高

40天丑:56酉高

      

41平後 P5賊賦

42下中原…58八反田 43中 原:59沖 上 44一ヒ中原i60下古川

     ト

45 プく   月l I61 」二古ノli

46前  西t

47下大川i 48上大川!

     i 17土井内

18外屋敷

19  沖

20 一本石 21清  水 22沖  前 23土  空

24悪戸前

25 下道六神

26  一ヒr和曾根

27中曾根 28悪戸原 29沖ノ原

30 上道六神

31笹ケ淵

32沼  端

戸前平本前林敷敷内敷角敷原前戸本 悪上  青青星屋之屋 屋 原︑悪 下平東西観観北商館荒六川柳柳上宮 1234567890︷23456

二二九

(3)

..周甲

   一伊達郡伏黒村と従来の研究成果一

村大字伏黒である︒ ここには史料を所蔵する四戸の家がある︒

富田忠左衛門家︑佐藤孫左衛門家︑佐藤与惣左衛門家︑小野五兵

衛家がそれである︒そこでさしあたり視野を︑伏黒村のうちでも

旧伏黒村に限りたい︒ この旧伏黒村は第一表にみるように六一の

小字からなっている︒ この表は明治初年の地図によって作成し︑

表の番号は地図に記入されている地番である︒七番北屋敷に光台

 上保原村の小亭

17流 町133大木田』49宝千在家

18  1ぐ当築134 寺:   目lj 50  田   1:嬉

19沼 向…35金山堰51仏供田 20内 山36正地内52当 築 21三日市!37油谷地53古街道 22深呂内138星 宮54高 畠 23竹之内i39観音前55古神明

     し

24粕房内140西 向56中之台 25三等道上t41高子57下之台 26名場之内142前58上之台 27下川原i43向台59南中川原

28  4、   害U i44  −h 古 田  60  大    害モ

29北川原45下古田61北中川「1其 30西川原i46新田前 62 南上川原      り 31西上川原147 細田入 63 大師堂

32神明町i48久 原

表2

1大地内 2西 原

3大名之上

4中室内 5小 岐 6古 川 7榎 内 8馬 橋 9源田内 0深 田 1沼 田 2京 口

3無苦代内 中万上

   之

島所原

14 P5 P6

一四〇

寺があり︑六番観音林に観音堂がある︒富田忠左衛門家は一〇番

荒屋敷に︑佐藤孫左衛門家は九番館之内に︑佐藤与惣左衛門家は

三番東平に︑小野五兵衛家は八番南屋敷にある︒五〇番字見取か

ら五八番字八反田までの九つの小字は阿武隈の対山一井にあり︑阿武

隈にそそぐ産ヶ沢川の下流地域を占めている︒五九番沖上六〇番

下古川六一番上古川は箱崎村内にある飛地である︒ かってこの伏

黒村は五つの村と境を接していた︒上保原村.箱崎村.小幡村.

桑折村・長岡村︵明治九年岡村と長倉村との合併により生る︶が

これである︒そして︑中瀬村・保原村と相近接していた︒そこで

これらの村西の景観を﹃信達二郡村誌﹄ ︵明治一〇年︶によって

のべておこう︒上保原村は戸数一七四戸︑水田八七町畑一九一町

の村で︑生糸六五Q斤・真綿一二〇斤・楮皮千斤の﹁物産﹂を有

する︒    に従事するものは生糸商三三人・菓子商一人.売

食店一人・工匠八人・桶工一人・葺匠五人・杣師二人.典舗一人・醤油醸造一人・弾綿匠一人・塩商一人である︒ この村は第二表

に示された六三の小字よりなる︒箱崎村は戸数二二九戸︑水団五

町畑一九一町の村で︑米三五石・麦五五〇石・大豆五二石・小豆

一〇石・粟一五石・.黍一三石・蘿蔔八OO荷・胡蘿蔔二〇〇荷.

牛蓄二五〇荷・竿七八○荷・茄子三八○荷・胡瓜二〇荷.胡麻三

〇荷・西瓜二〇荷の外︑蚕種一一五〇枚・生糸九七貫.真綿・紬

の﹁物産﹂を有する︒ ﹁余業﹂に従事するものは︑菓子小売商九

人・木工一人・葺匠三人・鋸匠三人・桶匠一人・当商二人.客店

一人・米穀商二人・茶商一人・酢を醸造する者一人・土方一人で

ある︒昔︑阿武隈の巨流が本村を横断し︑伏黒村の南を切り︑小

幡村の南端をかすめて粟野村に流れたといわれる︒また︑阿武隈

(4)

の対岸長岡村よりの道路は甲乙二つの渡船場で結ばれ︑この二つ

の路線は本村で合して伏黒村に入る︒ この道路が保原道と呼ばれ

る︒なお本村の南部には愛宕神社をまつる愛宕山がある︒本村は

第三表にみる三三の小字よりなっている︒小幡村は戸数九四︑水

田八町畑一〇九町の村で︑米六八石・麦四〇〇石・小麦二一石.

大豆四〇石・粟一五石・黍一五石・小豆一二石・林檎二五荷.茄

子一〇〇〇荷・蘿蔔一〇〇二荷・芋二三〇石・牛黄四一二荷.胡

蘿蔔二七六荷・馬鈴薯二七荷の外蚕種三二〇五枚.生糸二二貫

箱崎村の小字

表3

23  中刀1原二二

24梁下二 25一本柳 26滝 前 2ア上古川 28下古川 29岩ノ下 30南西道 31熊野山

32ムジナ森

33愛宕山 12布 川

13沖 前

14 下川端

15沖ノー 16沖ノニ 17中川端 18北西道 19漆 宝 20梁下一 21梁下三

22  中月1原一

館原畠鐸下前

 ﹃      ノ

 ﹂ 大上前山山原

1 2 3 4 5 6

7

頸元端

沼宝川

8910H ・真綿四八貫の﹁物産﹂を有する︒﹁余業﹂に従事するものは︑質商一戸・木工三人・席工一人

・泥工一人であ

る︒本村もまた

水田が著しく少

く︑僅かに本村

南端の阿武隈旧

河道に存在する

のみである.し

かし︑本村西北

部の阿武隈にの

ぞむ地域は︑ ﹁桑葉の水霧を帯る者之を以て蚕を養ふ蛾多くして

良種を獲べし﹂といわれ︑いわゆる﹁本場桑﹂の適地である︒ま

1伊達郡伏黒村と従来の研究成果i た本村中部は蔬菜・果樹の好適地である︒伏黒村より本村に入る

﹁保原道﹂は本村の南端をよぎって保原村に入る︒本村は第四表

に見る如き五八の小字よりなる︒五八古川は保原村内の飛地であ

る︒桑折村は戸数五五六戸︵内一八戸士族︶水田九三町畑八六町

の村で︑米コニ八一石・麦二六四石・大豆四六石.小湿七石.菜

薙七八三駄・菜種一四石・胡麻八斗・粟八石・芥子四斗の外︑生

小幡村の小字

表4

1纏蝦尖和露i雛鷺

18沖』3台屋敷t48平境

     り      も

19富 田34台ノ前i49鍵 山 20沖 内一35千本松』0久 保

          11

21南 畑36清 水51古久保 22樋 下,37道 下52新 田 23ブー泉…38川尻153古新田 24蕊」、39台数ミ賑石神 25檀越…4・前畠防古石神

26二軒屋41蘭 塔[56向1「源 27並 桑42沼下157−L川!li{

28本小幡,43川 坂i581ム  川        ラ 29古屋敷i44西 1・、11

3・薬鰐…45西副

  沖        軒 古東 富仲南樋大踊檀二 6789012345611112222222

内留敷野離内前内 前畑

      内

  屋 屋  ノ茅ノ 宮堀中高新辻宮中 中道 12345678901 川瀬島瀬 古粕 下下北粕

2  3  4  5

一四一

(5)

i伊達郡伏黒村と従来の研究成果1

糸五〇貰・蚕種の﹁物産﹂を有する︒つ余業﹂に従事するものは︑

多くの商人の外︑医師六人・料理店一九戸・酒造業六戸・客店一

六戸・裁縫匠三人・弾綿匠一二人・木工三八人・泥匠三人・席工

三人・鍍金匠一人・理髪匠四人・蝋燭匠一人・提登匠三人・履工

二人・傘工二人・葺匠八人・桶匠一〇人・土方二人・補鍋匠二人

・染工八人・鍛工三人・販食人五戸・貸座敷二一戸・娼妓五一人

桑折村の小字

表5

49建  野

50新河原

51砂子沢壱 52砂子沢弐

53 砂子沢三 鶉 砂子沢四 分 砂子沢五

56下河原

57狐  崎

58東八串 59西八串 60赤河原 17東大隈一33興福寺

18西  段 34  台

19東 段35台 下

20  堰    」二  36  赤    上反

21堰 合、37毫里壇 22堰 下38 堺

23寺坂39蒲 田

24  町    頭  40  三   

25諏 訪一41中 島 26和fA↑堂142砂 田 27六 角i43苅 叉 28、島居臥44駒 踏 29藪 内属5鳥居田 30金 原46杉 前 31白 銀尋7落 合 3211i 植48■ド 釜

弐毫三毫弐三四屋 裏前場屋     島島島島  沢  場 町町町桑桑桑桑陣 町道蔵仮 1234567890123

14  館

15芝  堤 16西ブく隅

一四二

・皮匠一人・当商二一戸である︒本村は陸羽街道の宿場町であ

り︑寛政元年以来の幕府代官所の所在地であった︒ 本村南部を産

ケ沢川が蛇行し阿武隈にそそぐ︒ この川の下流地域一帯は本場桑

の適地である︒桑折と伏黒を結.ふ道路は三線あり︑いずれも産ケ

沢川の土橋によって結ばれる︒これらを﹁桑折道﹂と称したのであ

ろう︒本村は第五表に示された六〇の小字よりなる︒四〇番三角

は伏黒村に接する︒五一から五五までの砂子沢は伏黒村と阿武隈

川に接する︒長岡村は戸数三〇二戸︑水田一四六町畑一〇四町の

村で︑米二二八八石・麦一八○石・大豆八○石.小豆一五石・蘿

蔔七五〇駄・胡瓜一〇〇〇荷・水瓜一〇〇荷の外︑蚕種三.∪︑㌧し

○枚・生糸四二七貫・前糸一貫目・真綿六四〇貫・蠕六四◎石・

紬一∩︶○端・真太織︑ また轍魚・鱒・鮎・鰍の ﹁物産﹂ を有す

る︒ ﹁余業﹂に従事するものは︑大工五べ・石工二べ・鍛工二人

・葺匠六人・桶工一人・酒造業二戸・質商︑二戸である︒木村は明

治九年長倉村と岡村を合併してできた︒旧岡村が伏黒村に隣接し

た村であった︒ 本村は第六表に示された八八の小字よりなる︒中

瀬村は戸数七四戸︑畑六五町の村で︑麦一九五石..大豆六五石.

小豆ズ︶石・粟五二石・蕎麦四九石・菜簸六石一〇駄・茄子五二

駄半・牛蒡三二駄半・芋一九五駄・馬鈴薯三二駄半の外︑蚕種一

八七九九枚・真綿二二八貫の﹁物産﹂を有する︒﹇︐余.εに従事す

るものは︑塩商一人・席工二人・木工二人・泥匠一人・薪炭商一

人である︒本村の阿武隈に沿う地域は木場桑の適地である︒木村

は第七表に示される六三の小字よりなる︒保原村は戸数六五三戸

の村で︑生糸一二九〇斤・蚕種一一七〇〇枚・真綿二二六し斤.

楮及一〇〇一二斤の﹁物産﹂を有する︒本村は﹁農二分にして商

(6)

長岡柑の小学

談6

﹂1:iI−iコ一一一I−−I−一     −−−一i一一一一−一 一I−一−−−﹃⁝−I−−−一−−−− 一一i−一

 田前立原原前前城敷前町抜町田上畑杉町川下懐川■

  

m川川島 磯秣燦ノ本孚ケ  沼岡雁両前三広右稲宮梨水雲川坂塚一荒鍛坂姥姥 皿α銘のm刀ηη怨乃κπ褐7980別82お8485肪8788

 ヰ ラドラ ラ    ドラ ラ ラ ナ ラヨドじう ララ  ララ ラヨ  ラ  ララヨドドド ラ ト   に ラヒドト トトき  ラドラドヨ

 町田角田台内揚田内端裏照木端原地付松島畠堂呵一         戸長ノ切 本川  野師  長高六竜上柳瀬鶴堂堀沼口一沼下論見鵜原煎薬広﹇

 夢4647484950舅52男努努弱質58男60616263畠6566 ﹈        一  田田田石道妻堀内岸田向巻田形後形口田谷田崎田一 和和和  根     供  場  木  志志志  下中上姥中久商館根扇江鶴干沓北杏馬沢細柏野根  23242526272829鈍釘323334努36373839㈹引硯43麟 ■晶晶町町町町町西前松原原下上田田田前前田前聞       原 訪諸本河川   裾明 敷  中北片本川田新諏諏一長上堰堰前宙前志神菅寺屋一

 エ ワぬ    セ う   マ   ハソ の        む すフ   マ    ノ の ユ ハ ﹇    −   11111111i同222i

八分﹂といわれ︑農家は三五〇戸にすぎない︒ ﹁余業﹂に従事す

るものは︑貨郎八戸・生糸商九〇戸・百穀商一四戸・故衣商五戸

・剃箆五戸・排灯工二戸・範篇匠一〇戸・菓匠二一戸・泥匠三人

粗貨商九戸・骨董商四戸・木工ニ三人・薬材舗三戸・鋸匠三人

・畳師二人・陶器商四戸・魚商三戸・鋳工二人・石工一人・楷匠

二人・弄物商一戸・割烹店六戸・染匠一戸・木商二戸・綿繭二戸

   一伊達郡伏黒村と従来の研究成果一 ・造飴一戸∴製茶一戸・印工一人こ漆工二戸・圧油一戸・塩商一戸・築作一人・瓦工一戸・銭湯二戸・傘工一戸・蚕燭商一戸・綿匠一一人・当商八戸・醤油二戸・煙草商了い戸・諮麹匠一〇戸・貸座敷九戸・貰食店九戸・裁縫工三戸・逆旅一五戸・醸家四戸・鼓匠二戸である︒桑折街道ロ﹁桑折道﹂は本村十二町日より左に入り︑西北し︑字一本木より小謡村に入る︒桑軌道に沿って字古川端がある︒ これらの村西にかこまれた伏黒村の景況を同じく﹃信達二郡村誌﹄によってみておこう︒ 本村は戸数二七九戸

︵借屋四四を含む︶水田一七町畑一九一町の村

で︑米一七八石・麦五七六石・小麦一八石..大

豆五一石・小豆一四石・黍一六石・菜四二石.

拙喬主久一山ハ石・茜維葡一一一〇〇昌︶G本 ︒柚干四一二石・茄子二五二〇〇〇穎・牛勇七芋OOO本・胡蘿

蔔八四〇〇〇本の外︑ 桑苗一〇八●○○本・蚕

種二二七〇〇枚・真綿二八二貰・生糸八五貫の

﹁物薩﹂を有する︒﹁余柴﹂に従事するものは︑

木工二人・泥工一人・鋸匠一人・.木穀商二人・鉄物商一人・当商

五戸・雇人口入四人である︒ この村を支配した領主は以下の如く

である︒天正年間−伊達正宗︑天正一九年より蒲生氏郷︑慶長三

年より上杉景勝︑寛文四年より幕府強島代官所︑延宝七年より福

島城主本多平八郎︑天和二年再び幕府福島代官所︑貞享三年より

福島城主堀田正仲︑元隷二二年再び幕府福島代官所︑以後代官所

       一四三

(7)

1伊達郡伏黒村と従来の研究成果一

所在地は岡村或は桑折村に移され︑安永五年仙台藩主松平陸奥守

の預所となり︑桑折代官所により支配され︑寛政元年より再び幕

府代官所︑文化二年より三河国刈谷藩主土井淡路守の食邑とな

り︑湯野村代官所により支配され︑明治三年より館藩主松前志摩

守︑明治四年館県となり︑同年弘前県に合併︑同年弘前県を青森

県に改め︑同年二本松県に属し︑ 同年二本松県を福島県に改め

中潮村の小字

表7

49上川原 50中川原 51下川原

52 下  向 53 七  郎

54左衛門

55川  戸 56道上壱号 57道上弐号

58石川原

59川  原 60道下壱号 61道下弐号 62道下三号 63 下新田

17下古川.33道東

18札前34久保

19 二7K松  35 ?青   オ(

20前 東一36上 松 21 前 i37細 割 22上台一38 大 23東上台一39大 前 24巻 目40下 中

25柳原41下軽

26彦 刹粋2上曾根 27道 南隣3細 合

28    西    ・44  突    出

29西新田55折 出 30東新田一46下曾根 31南新田47中曾根

32  道    輔ヒ  48  戸百 曾 根

松割町割

   百

下大四小

1  2  3  4

5 門 6軽 瀬 7 中 8上 中 9 立 0上 向 1西 向 2土手西 3上古川 4元古川 5中古川 6一本松

一四四

た︒本村の西部及び北部は阿武隈川の巨流に洗われ︑しばしば洪水の被害をうけるが︑砂地でいわゆる本場桑の栽植地である︒

﹁其圃川流に瀕し撃葉水.霧を帯び具なる者此を以て蚕を養ひは其

繭より蛾を生ずる多し﹂といわれ︑養蚕の盛んなること﹁信連中

の萢楚たり﹂といわれる︒ また︑梨及び蔬菜の適地で︑ ﹁毎戸梨

樹を種ゆ︑佳美を以て称せらる︑花時恰も白雲の凝るが如し﹂と

いわれる︒本村の南部に阿武隈の旧河道があり︑水利は甚だ乏し

いとはいえ︑湧泉と溜池によって僅かな水田が存在する︒

 以上が︑伏黒村及びその周辺村落の景観である︒

    二 近世期伏黒村に関する庄司氏の業績

 この伏黒村については︑とくに幕末一明治初年の伏黒村につい

ては︑すでに庄司吉之助氏のすぐれた業績がある︒同氏著﹃明治維

新の経済構造﹄がそれである︒もちろん︑この書の中で史的に分析

されたのは伏黒村のみではない︒・てれは福島県下の多くの村々の

史的分析を含んでいる︒信達地方についても︑氏はこれを︑生糸生

産地域・蚕種生産地域・絹織物生産地域の三つに区分され︑その

おのおのについて実証的な研究をおこなわれている︒ しかし︑ここでは︑ これらの豊富な研究成果のうちから︑とくに伏黒村につ

いての成果のみをとりあげることにする︒以下︑同氏によって明

かにされた近世期伏黒村の諸事実を整理して紹介してゆこう︒

︵A︶ 一般的状況

  ① 明和・安永度から蚕種生産のための桑園が現われる・そ

   れ以前は蚕種用の桑を二毛作の麦畑に植えた︒ ﹁安永五年

   佐藤与惣左衛門日記﹂

  図伏黒村ではないが︑信夫郡大笹生村の豪農商菅野家は天

(8)

  保一〇年相当量の購入肥料︵魚粕・荏粕︶を仕入・販売し

  ている︒ ﹁天保一二年改売買仕切高指引済勘帳﹂

 ⑧ 万延元年の蚕種業者は信夫郡一三人︑伊達郡二二八人︑計

  四一村二四一入に達し︑伏黒村は二七人で第三位にある︒

  二七人のうちに佐藤与惣亙衛門・佐藤孫左衛門・小野五兵

  衛が含まれるが︑富田忠左衛門の名はない︒ただし︑富田姓

  は三九郎・七五郎の二人である︒万延元年﹁蚕種講﹂の鈴鏡

 ㈲ 慶応二年︑生糸・蚕種新課税︑改印なき生糸.蚕種紙の

  売買禁止に反対の理由として次の如く述べる︒上層農民は  別として中・下層の農民は︑生糸ができ次第市中へ売り︑

  又質入れして︑養蚕中の入費︑飯米代︑日雇賃︑桑代を支

  払うので改印されてはじめてうることが許されるのでは買

  占め同様で困ると︒﹁願書﹂ ⑤ 明治五年伏黒村は高二一九九石︑水田=一町・畑一二九

  町の村で︑米六八四石・大麦三五一〇石・小麦一〇石.大豆

   一一一石・小豆二〇石・粟二五石・きび三〇石.そば四〇

  石・桑一万駄の外︑蚕種八八○○枚二〇三四〇両・真綿八

  五貫一二九〇両・出殻繭一二四石一四六二両三分・生糸一

  〇〇貫三七五〇両・樹木五〇両の物産を有する︒米は毎年

  多量に買入れる︒

︵B︶農民層分化の状況 ① 寛政九年︑富田管之丞家が畑七・八町を二〇人の百姓か

   ら質地取︒ ﹁質地証文﹂

 ③ 宝暦一寛政頃︑同家が金三〇両かし︑寛政九年利子九一

  両永一二五文となる︒寛政九年﹁訴状﹂

  ③ 文化五年の石高保有別階層構成︒﹁人別帳﹂

1伊達郡伏黒村と従来の研究成果1

1−6105

6〜11 19 11〜16 8 16〜211 5 21−3工 1

 ㈲ 文政五年︑質地・替地∴譲地を本証文の文面通り︑石高

  を差引し︑引受人が年貢諸役・浮役・存分を負担すること

  に決定︒ 一筆毎に誰人・引受人の連印ふり︒ ﹁田畑質商入

  承知連印帳﹂ ⑤ 文政八年︑金主七人連帯︑忠左衛門二〇両.八城彦惣五

  両・八城︵?︶七五郎二両二分・小野五兵衛一両.佐藤才三  郎二両・新兵衛一両・七郎右衛門一両合計三三両二分貸︑

  借主三五人連帯︑旧計二・八町質地︑返金一刀二五両と利

  子一分︒ コ質地証文﹂

 ㈲ 天保五年︑極貧農四九戸一七四人︒ ﹁極一貫施小前調帳﹂ ω 天保九年︑金主官田田忠左衛門が五〇両で︑中村代次郎外

  から田畑九反四畝五筆を二年期に買う︒ 年貢諸役金主負

  担︒ ﹁年期売一証文﹂ ⑧ 天保一五年︑四三人が融通講一口二分五揮一軍一両と三

  七両三分を落し︑田畑四・八町を質地として借る︒返済は

   一年一口一六両・二分五席分四両を調会ま弔︑に支払い︑滞

   つた時は質地を村役人が引取り︑・ての作徳で支払う︒ ﹁融

  通論頼母子落金証文﹂

︵C︶ 地主U問屋経営の状況 ︵a︶農産物販売

 ω 安永度︑佐藤孫左衛門村内に桑を売る︒

  図 宝暦八年︑治兵衛村内に二三両三賀二二〇文の桑を売

一四五

(9)

  一伊達郡伏黒村と従来の研究成果一

 る︒明和六年一九両︑安永三年二七両の売薬︒﹁佐藤与惣︐

 左衛門日記﹂

︵b︶ 蚕種・真綿生産

① 嘉永四年︑佐藤孫左衛門は八人にそれぞれ三斗1一石五  斗の少量の繭を賃真綿に出している︒大体繭一石から真綿  一貫六五匁がとれ︑その賃銭は約二貫四〇〇文位である︒

図 明治六年︑佐藤孫左衛門家の蚕種製造︒養蚕日数五月六  日から三一日まで二六日間︑養蚕藁座五五〇枚︑籏五五〇

  枚︑出繭一二石二一〇貫︑蚕種五五四枚︵原紙一〇枚︶︑

  桑分量一三七〇貰余︑労働力延四六〇人︒最後の六日間は

  一日三〇人の労働力を使用する︒最後の六日間は桑を最も

  多量に消費する︒養桑回数は最初の六日間が最も多い︒藁

  座は最初五枚から除麦に増加し二二日に五五〇枚となる︒

 ⑧ 明治一三年︑伏黒蚕業社一九人の収繭量では︑佐藤孫左

  衛門が種繭一五・七石大繭一丁五石屑繭○.二五石計一八

  ・四五石で第一位︑小野五兵衛が第二位︑富田忠左衛門な

  く︵但し同姓万七︑宗助あり︶︑佐藤与惣左衛門もない︒

  伏黒蚕業社は社長佐藤孫左衛門︑社員一九人︑蚕種販売高

  八〇五五円︑蚕種製造高七九六六枚︑貸付高二四〇三枚︑

  海外輸出高五五六三枚で明治二一年に資本金千円一九株で

  創立された︒

︵c︶蚕種販売

 ω 宝暦一〇年︑佐藤孫左衛門は蚕種六六五枚を与左衛門外

  一六人に売り︑代金三三三両一分を六月に受取り︑信州上

  徳寺外四人に売り︑代金三九両余を六月に受取り︑二二人

  に二七〇枚売り代金二一一両三分を受取る︑﹁六月︑蚕種相 一四六

 渡覚帳﹂同年自宅に一二〇人の購買者が集った︒

図 安政四年︑佐藤孫左衛門は蚕種六三二枚を売り︑内金二 二両二分受取る︒村方樹種一八○救うり内金七両七月に受

 取る︒二口合八二一枚︑内金二九両二分︑残金三二両三分 永一八○文である︒﹁手前旅人衆極秘渡﹂同年同家は村方

 掛種一四〇枚四両三分を含む二六二枚を一五人にうり︑内

 金八両三分をうけとる.村方約束種一八○枚をうり内金七

 両うけとり︑残金は六両三分永二〇文である︒

⑧ 安永九年︑同家は信州上洗馬仲間五人に合計三九〇枚を 内金でうり︑残金は来夏に払う約束︒ ﹁.蚕種約束帳﹂

︵d︶

n

佐藤孫左衛門家の質券奉公人︒ 雇傭労働力

1年季i雌1休日弓 1 1  1 借金額

   1出身地

年月

1季明綿。文

5両1分 1年

2両 i年

1日 100文

同上

i両2朱 1年

銀1匁4

寛要請鮒 文齢伏翻

1文細同上

l

l

季明後

一       一 一

1両1分17ケ月

文婆1瞬上

同上

轡21杉副1醐2朱

1年    i  1
(10)

切  一季労働者︒一年を三月初旬−七月二一一日︑七月一五日

 −一一月一五日︑十一月一五日1翌年二月末日の三季にわ

 け︑一季四ヶ月毎に契約を更新する労働者︒期間中休暇が

 あり︑八八夜より盆まで一時間の休憩時間があり︑盆より

 夜業を課せられる︒ ﹁信達二郡村誌﹂

③ 一季労働者の出身地︒寛政以前出羽国最上郡︑以後越後

 国蒲原郡︑圭落して本百姓となるものもあり︒幕末には最

 上郡叉は仙台南︒ ﹁信達二郡村誌﹂天明四年頃︑越後より

 信連へ二万人︑掛田村一村に五〇〇人来る︒﹁掛田村佐藤

 友信日記﹂

㈲ 文政一慶応問の雇傭労働力の賃銀

麗 1分二付

年 月!1季労働

3日半    文 1G−100

﹂く庭オ

 3

両3

   1 文政2‡

日8

日〜 6

  治

  元

2−2.5

2

慶応2

11

一伊達郡伏黒村と従来の研究成果一

〔5〕

文政度の雇傭労働力の賃銀︒

おり倉 分分一

以 13

年 両両2  43

巨⁝

年誘霧

2一両両両

政一333

﹁代官取極書﹂

・労働力の質

上奉公人

中  〃 下  〃 鞭…

̲

卑v一

貫100文 10両2分

 7両0分  4両2分 1貫200 1貫000文 0貫800■文

氏  一べ 〃 公〃〃杜   奉

   女

上中下 上中下

期問 ドー

1_

F

酒 造三農 業

一一

30■

1分二付   8日

(石工6日)

  100文

  80文

  110文 1分二付  10日

(石工8日)

付時間

 の

仕手

 合

俸間蚕

農蚕

大工・屋根葺 木挽・左 官 桶屋・畳 屋 綿打

月 日 雇一職人日雇

 らないと議定︒ ﹁村内議定書﹂

 身の一季労働者・旦雇一四人︵すべて家族をもつ︶が引請

 人をもって村内居住を願っている︒ ﹁願書﹂

 日−七月一〇口︑給金祐吉三両二分二朱・妻三両二朱︒休 ︶ 文政二二年︑村内とりきめの給金より高額に雇ってはな

6

り 天保四年︑右と同じ議定︒︹︶ 天保一四年︑趣後・山形・秋田・会津・伊達・和賀郡出

︹8

︶ 嘉永四年︑佐藤孫左衛門家の一季労働者︒期間二月二九

9

一四七

(11)

 −伊達郡伏黒村と従来の研究成果−

 一一人半・代人二人半・休五日︒休を引いた実労働日数

 七二口を一分八日で計算し︑その金額から期間中に前借り

 した金額を差引き︑ 七月一〇日に二両一分一〇〇文を渡

 す︒⑬ 嘉永五年︑掛田村では雇人一三〇人が無尽講を組織し︑ 問屋・杜地主に対して巨額の掛金・雇人総引揚げ.親類朋友

 との絶交等を武器として争う︒某手記﹁古事談﹂

佃︺安政四年︑佐藤孫左衛門家の雇傭労働力︒一季労働者︑ 三月1七月六人・給金三両−四両︑七月t一一月四人.給

 金三両︑翌年三月−七月四人・給料三両一四両︒いずれも

 十口前後の休日数・百日前後の労働日数・貸金が記され︑

 休日一日あたりの日料金が計算され︑休日の日料金と貸金

 を契約金から差引いたものが蕗引残首回として示される︒口

 入宿から雇われたと明記されたのは一人である︒また鰍︑け

 がいる︒定法﹈分に付何日でやとわれる労働日数三〇日以

 下の日料労働者︑五月に一六人︑七月・一一月に一四人︑

 翌年三・四月に二〇人位︒日料労働者には仙台・越後.米

 沢・最上よりくるものがある︒給金は男一分に付八日女九

 日半である︒日料労働者の中には︑ 一季労働者と同じく期

 問・給金を最初に契約して休日・貸金を差引き︑期間が終

 つた時に勘定するものとそうでないものとがある︒また日

 料労働者のうちには実労働日数が七三口に達するものがあ

 る︒彼等の従事する作業名が明記されたのは稲扱と田草堰

 とである︒ 一四八

吻 安政四年︑ 佐藤孫左衛門家の日料労働者︒ 一分に付八

 日︑ 三月二八日昼より三四人半の契約期間で︑ 保原町の

 ﹁宿﹂日口入宿より二人を傭う︒一人には四人半休みでこ

 れを引き三分二朱をはらい︑一人には六人休で三分二朱七

 〇〇文はらっている︒また別に︑まぼし折六三〇枚に対し

 て︑二人にそれぞれ一分の内金を︑四月二二日︑五月一

 七日に歩︑払っている︒ 養ひかしには四月下旬二一人を使

 用し︑﹈人に二〇〇文計一分二朱を支払っている︒また別 に︑で○日一分で二日半日料一貫五二六文︑五日働き日料

 より貸米・貸金一朱を引き一貫二〇文渡し︒三日半働き日

 料金から貸金・貸あづきを引いて勘定︒

㈲ 文久元年︑日料労働︑君の給金︒男一分に三日半︑田植麦

 打一日三朱︑大工職人四日に一分︑堀井戸一日一分︑蚕種

 一枚並物一両一分本えり種一両二分︒ ﹁眼陽院日記﹂

㈱ 元治薫︑年︑米穀諸島・職人旦催金引下げの布達︒

㈲ 慶応二年︑ 一季労働者盆前の給金︑ 上男女夫婦者一七

 両︑止男二二両︵翌年﹈三両︶︑中男一一両︵翌年同じ︶︑

 下新一〇両︵翌年九両︶︒ 日料労働者給金︑二日に一分毎

 口二朱宛渡し三食付︒女蚕ひかし手間︑一日六〇∩︶文三食

 付︒まぼし織手間︑一分五〇枚一枚三二文三食付︒請取ま

 ぼし︑一枚四〇文賄なし︒諸職人作料︑大工屋根葺左官等

 一分に二日・二日半三食付酒﹈度︒石工二日に一分︒ ﹁長

 倉村斎蔭武左衛門月記﹂

(12)

明治五年︑全村奉公人給銀及び諸費︒

6.631 3β15

一季金1 冬     72

酬蚕賢一?125・・

 働

 者㌔ゑびらおり、  150

 給一一一一一一一i一一一 料金…職   。八、l LOOO   I

130

こやし.代i2.000

1.800 17.618

㈲ 明治五年︑ 雇傭労働力男四八○人︑女王〇ぺ計五三八

 人︑これに.要する飯米四〇〇石︒

︵e︶ 小作関係

① 文化七一明治七年︑佐藤孫左衛門家の小作関係︒普通畑

  ︵?︶の場合︒

響麟竿1轡…嘱i茎二1

喜⊥・・二7三慰書こ1蚕業,

下1、7.1812.。.。. 711伏黒i働

比一1  一 竺!……萄塑壁

  5・一.iLO・0コ0071墾崎1一料金i職 ・入

       一■    1   『

3.5.1・.・.91・・61鯨1わら代   一一  一一   1こやし代

表1.5.3.2. 6 1f大黒…

一一■一一一一

v  一一一一一  蚕諸道其

上 7.15t1.3. 6一 ヴ1  =

「i㌧一一一……  一一一一一 計

1上6・151LL 10 1了

!一@一■地:         一  1

  7010.3.  10 1 〃!

1  ■一一1一一_一_■_  一.一一@一i

l下理歩匝5・・一1・1一♂…

1

ラ      ド

11.2.05!0・2・  10 5 

1

年月卜 文化i

7.121

 〃

7.31

 〃 12.11

 ケ 13.12

文政 1.9

〃 一 〃

  3

﹃・

6

10 1. 91  3. 5.

〃1■■㎝

1.91麦1.5・

1♂,2ヒド1.1

 一一i「il

天保17.121上  6.1  !   土 10.31   70

__1   ■一

弘イ巳 友観

4.11下し5.

  1嘉永一「

3.gI 1.2.C

  I安政1

7. 3一ド2. L

文久一

@一 ゴ

1.12   400

  〃

  劉讐5 10

10 4一 〃

10 一   …

      1 6     〃

6  一  〃

嘉永1 − 1

3.gI1.2・05!0・2・

 1 安政I   i

7. 3一ド2. L  −L1,0、

文ク、一一

n一一一

1.12    400  11、2.1.

  コ        ド

ま81鵬ヨ2.2.・.

〃  反畝歩

3.41 6.5。 4.3.2.

  1    一一 1 元治じ一一一  1

1. 3−    5. し 2.0.

慶応1

4擁し・・ぞ3・21

明治1

2. 3  1.6. 6.0.0.

〃 1  地

i7. 5麦  250  8.0.O.

一伊達郡伏黒村と従来の研究成果一 一四九

(13)

−伊達郡伏黒村と従来の研究成果1

桑畑の場合︒

人名

   一黒

作・岡一

小村 伏 禦萱− 期一月66.

小作料額 納

両分

 ].銀ラ匁  1.1一 耕地面積

 反畝歩

 L5f一一  2.5.

年  月 文化 6.12

〃  8.12

  3    3

i宏一−眉一ε一

 2. 5

両分朱

 1.2 1.1.2 2.15

400地

5

6一2

230

〃 13.8

〃 15.3

嘉永3

文久3.11

1

θ︐一

2.3.2

3.9 300

︻−

長倉

■ ﹃フ

6−一ポ5.0.2

1.8 400 治 元

3

反︑ 5

5

6  63.3

250地

〃 2.2

明治2、8

桑畑と普通畑との小作料の比率︒桑畑元治二年一

普通畑同年五畝二分目一反一両︑すなわち三対一

13

反・

4.12

巨−

  −釧−一8

13円50銭

8.4 250地

200 13

8.2

反三両︑︒桑畑文

久三年三〇〇地二両三分二朱口一〇〇地約一一丁八分︑≡二

〇地二両n一〇〇地三・五分︑普通畑同年五〇〇地二両二

分臼一〇〇地二分︑すなわち約二対一︒

一反は何百地に当るか︒普通畑文久三年五〇〇地二両二分

目一五〇地三分︑同畑同年六反五畝四両三分二朱一反三

分︑すなわち一五〇地口一反︒元治元年普通畑五畝二分口 一五〇

 一反四分とさきの一五〇地三分を比較すれば一反二

 〇〇地︒元治元年桑畑四〇〇地五両二朱二二七地三

 両︑翌年同畑一反三両︑すなわち一反Uニ二七地︒桑

畑の場合には普通畑の場合より他村の小作人が多い︒

小作料納期は桑畑では六・七月︑普通畑では一〇月と

 六・七月とが半寿である︒

⑧ 文化一四年一天保八年︑小作料滞納額支払訴願︒

備   考 他薬代酒代小 作地引上訴願

 支 卸貝  朱・ 納舞

 一両α

作数一剤.

小へ⁝

年別地主名

麦化『1躯匠衛FI

37.2.0.2.455

8i吉兵衛

11

文政

小作地引上訴 題

他二桑代

10.2.1.4.455 1.0.0.0.002

gl茂右衛門

15

2 B

茂 三

10

44.1一.0.5.596

4「孫左衛門 16

天保

3.1.2

4久米右衛門 3

2、1.2.0.248

51茂 右衛門

r憂イ碗勇比訴

1願

1.1 (1著乏2石)

3

18.800 5与惣左衛P

81孫左衛F

〃  〃

(14)

 小作人一人当りの平均滞納額は一両三分である︒小作人が

 桑代・酒代をも借りている︒

③ 文政−嘉永︑丸目小作人■数︒三六人の地主名︑小作人文 政一・天保四六・弘化一三・嘉永一九計七八件︒﹁丸目小

 作証文画帳﹂

㈲ 天保二年︑伏黒村彦吉︑畑五反四獣余二石七斗余一三筆 を佐藤孫左衛門より丸自小作︒年貢諸役彦吉負担︑小作料

 三両づつ六月・十月に納入︒ ﹁九日小作証文﹂

⑤ 天保四年︑久米右衛門︑小作人与左衛門の卯辰二年間の

 ﹁小作御年貢﹂一両二朱のうち残金一両銭七八文と︑勘之

 助一両彦吉一両一分の当己年の桑代金の支払請来︒﹁小作

 御年貢﹂のうちに貢租を含む︒﹁訴状﹂

㈲ 天保四年︑佐藤孫左衛門︑小作人八兵衛卯年一両一分. 三両一分一朱巳年三両一分一朱計七両三分二朱︑市兵衛辰

 年一両一分巳年一分三朱︑茂左衛門一分一貫四〇文︑徳治

 郎一両五一四文︑源右衛門辰一両三分二朱六一〇文巳二分

 二朱四一〇文︑作左衛門辰三両二朱︑惣右衛門辰二分二朱︑

 太治右衛門卯辰一両二分四〇〇文︑辰三分二朱六〇〇文︑

 彦吉巳二分巳二朱と永三五文︑久作辰二分三朱︑茂兵衛卯

 辰一両二朱四〇二文︑長作辰二分二〇〇文︑彦太郎辰一分

 卯辰二朱三八○文︑豊蔵辰一分三朱巳三分︑兵吉辰一分五

 〇〇文巳一分五〇〇文︑勘之助辰一分一貫四〇文︑計四四

 両余の滞納小作料の支払請求︒滞納額は最高八両弱を一例

 もつが他は一両前後が多い︒一年滞納のもの七人︑他はす

 べて二年滞納である︒小作人一七人のうち︑二人茂左衛門

  一伊達郡伏黒村と従来の研究成果1  ・兵吉は滞納額の一部を減免されている︒叉︑彦吉.勘之 助は前項にみるように︑桑代金も滞っている︒本村の畑は 夏作毛・秋作毛の二毛作で︑貢租は夏成御年貢と秋成御年 貢に分けて払われる︒小作料も六月と一一〇月二回に分納さ れる︒ここでの﹁小作御年貢金﹂は貢租を含んでいる︒佐 藤家は滞納金を支払ねば秋作毛の収穫を停止し︑小作地を 引揚げるようにしてほしいと願っている︒﹁訴状﹂ω 弘化三年︑孫三郎︑大霜焼違蚕のため保有地全部畑五反 余価格三〇両を万五郎・百七より一五両借り︑譲地として 高を移した.この地を孫三郎小作し︑﹁高入御年貢﹂一年 三両と定めた︒借金一五両の利子もとりきめ︑高入御年貢 と元利を完済すれば畑を返すことに約定︒弘化四年︑家立 直しのため︑家屋敷をうり子供四べを奉公に出し︑その金 で元利を完済した︒万五郎は畑を返したが百七はとやかく 言って返さね︒ ﹁訴状﹂⑧ 嘉永六年︑佐藤孫左衛門︑箱崎村親類与虚衛門の口入れ で同村親類長七から八○両借り︑箱崎村小作地畑二町を箱 崎村村定により二年季の質地においた︒ その際︑長七は この質地が証文では高を移すが実際は単なる抵当だと言っ た︒この小作地は箱崎村長四郎らが小作し︑一年九両三分 二貫四〇〇文の小作料収入がある︒翌年から一札とり与左 衛門がこれを集め︑年寿元利返済分として長七に渡すこと にした︒ただし︑三筆一反五畝余は伏黒村小作人庄次郎よ り直接小作金一分をとり︑小作証文もある︒文久二年︑金 をととのえ返地を申込んだが延引︑同三年に至り流地とな

一五一

(15)

一伊達郡伏黒村と従来の研究成果1

 つたという︒ ﹁訴状﹂ 文久三年︑長七・与左衛門は次のようにいう︒単なる抵

当ではなく︑質地として高を移し約五両の御年貢諸役を納 めた︒また孫左衛門から小作証文を取りコ二人の小作人連

印で長七名儀とした︒この小作金が元利返済にあてられた のでないことは︑八○両の利子月一割として八両を小作金

 九両余から引いた残金や貢租五両を考えれば明かだ︒与左

衛門の一札はこの地が孫左衛門母の隠居免だったために︑

彼女を安心させるために書いたので直筆ではない︒産ヶ沢 にある一反五畝の小作地については小作金当方でうけと

 り︑当年十年季の小作契約を結び証文をとった︒仲屋敷五

 畝余は質地証文で脱落しているが﹁復元控帳﹂にはのって

 おり︑孫左衛門の印がある︒残地のないことは彼が貢租を

 全く納めないことをもってもわかる︒また二町に対して八

 ○両は安価だというが︑たしかに当時物価高だったが︑小

 作金から貢租を引けば甚だ安利息となり︵辺︶︑長七は他か

 ら借金して貸したのであれ以上の金額は出せなかった︒岬て

 の代りに貢租を負担することにしたのだ︵ヨ︶︒ ﹁訴状﹂こ

 こでの小作は散田小作であり︑また当村当時の質地関係は

 質地取人が作徳・利子両者を手中にする︒

⑨ 文久元年︑富田忠左衛門家︑﹁一作散田﹂小作人五七 人︑五七人連印で契約︒小作金は六月︑八月の二回に納め

 る︒小作金のうちに貢租を含む︒ ﹁散田小作銘西帳﹂

㈲ 文久三年︑同家︑一作散田小作人四八人︑連印で契約︒ 小作金は六月・九月の二回に納める︒小作金中に貢租を含 一五二

 む︒ ﹁散田小作.取調証文﹂

⑳慶応元年︑富田忠左衛門家︑散田小作人四五欠に対し小

 作金割まし要求︒理由は米価高値・夫役の増加により︑貢

 租が高いこと︒

働慶応二年︑佐藤孫左衛門と長倉村伴六との係争︒孫左衛 門は岡村にある桑畑一反五畝を同村七右衛門から三●両借

 り質地においていた︒昨年横浜への蚕種出荷で大損をした

 ので︑この質地をとりもどし改めて売って金を作ろうとし

 た︒ところがこの桑畑は長倉村伴六が小作しており︑当年

 の桑は彼に切らせ︑五月から孫左衛門が手λれすることに

 した︒しかるに伴六は孫左衛門が桑畑中の﹁前栽物﹂を押

 し倒したこと︐季︑苗穂の費用がかかっていることを訴・え出

 た︒孫左衛門はこれに対し︑小作の桑畑に前栽物を植える

 ことは許されない︑前栽物申に桑の大毒たる牛黄を植えて いるのはもってのほかだ︒桑木は一C年前植え今﹁誉木﹂

 で桑苗を植える必要はない︑金主七右衛円が近地を承知し

 たのだから伴六は耕作の権利はない︑と答えた︒ ﹁訴状﹂

⑬明治二年︑富田忠左衛門家の散田小作人五四人が連印 で︑米価高騰←貢租増加のため︑貢租額に応じて地主の考

 えにより小作金を増減し︑ 六月と秋に分納することを約

 定︒ ﹁散田小作連名証文﹂

α£@明治二年︑富田忠左衛門家の歳出小作地八町六反余︑小

 作人五八ぺ︑一人当りか作地は一反前後が多い︒小作料は

 一反に約五貫文位で金納である︒ ﹁散田小作連名帳﹂

㈲ 明治七年同家の小作地一六町会︑村内一一町会︑保原二

(16)

 町弱︑中村五反余︑箱崎・牛沢それぞれ八反弱︒

︵f︶貸  金

① 宝暦−天明間︑富田管之丞家の貸金︒貸付先御料・私領

  ︵信連・仙台・米沢・相馬・白川・梁川︶・地頭・諸藩士

  一ニケ所︵土井・福島・田沼・溝口・久世・江州︶・七六

 村︒人数二九六人・六五〇人︒村々へは質地証文で貸す︒

  ﹁貸金小前取立帳﹂ 図 寛政四年︑同家の貸金︑八二九三両余永一四四貫文.銭 三九貫余・米五五俵余・麦九俵余︒ ﹁万手控帳﹂

︵g︶村役人

ω 安永五年に信達二郡に﹁無諸役﹂ ﹁無夫役﹂地八七〇〇  石あり︒無諸役地三六〇〇石は名主給分である︒ ﹁伊達信  夫両郡四一高無諸無夫役訳書﹂文政五年には名主給分が売  買されている︒

一伊達郡伏黒村と従来の研究成果一一五三

参照

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