タイトル
北海道における徴兵制の展開 : 「国民皆兵」の虚実
著者
阿部, 剛
引用
年報新人文学, 6: 132-168
[論文]
阿部
剛
北
海
道
に
お
け
る
徴
兵
制
の
展
開
─
「
国
民
皆
兵
」の
虚
実
─
は
じ
めに
日本の徴兵制は、明治六年(一八七三)の徴兵令が「常備兵免役概則」で規定した各種免役条項の数 度 の 改 廃 を 経 て、 明 治 二 十 二 年 の 徴 兵 令 大 改 訂 に よ り「 国 民 皆 兵 」 の 原 則 を 確 立 し た ( 1) 。 こ こ に、 兵 役 は、 「 日 本 臣 民 ハ 法 律 ノ 定 ム ル 所 ニ 従 ヒ 兵 役 ノ 義 務 ヲ 有 ス 」 と 帝 国 憲 法 に 規 定 さ れ た よ う に、 必 任 義 務徴兵制にもとづく一般兵役義務として、帝国臣民たる男子に課せられ ることとなった。 しかし一般兵役義務は、国民が自らの意思により自発的に兵役を担うこと、つまりは兵役義務観念の 社会への浸透を前提に、は じ めて成立し得る。そのためには、国民皆兵主義にもとづく制度の公平な運用により、兵役義務負担を均等化していくことが何より求められ るのである。大江志乃夫は、この「国 民皆兵」原則の中に、貧富の差による著しい兵役の不公平と、徴兵検査での身体上の区分に由来する不 公平が存在し、平時においては徴兵検査を受けた壮丁の七割以上が兵営生活の強制から免れ ていたこと を、 国民皆兵の矛盾として指摘した ( 2) 。また菊池邦作は、 明治二十二年の徴兵令大改訂以降も、 「富者」 の特権として残され た中学校以上の在学者に対する徴集猶予や一年志願兵制度に由来する兵員徴集の不 平 等 な 構 造 に、 徴 兵 忌 避 の 最 大 の 理 由 を 求 め た ( 3) 。 い わ ば 戦 後 歴 史 学 は、 「 天 皇 の 軍 隊 」 の 階 級 的 性 格を強調することで、国民皆兵主義が虚構に過ぎなかったことを明らかにしようとしてきたといえる。 しかしながら、徴兵制度に生 じ ていた不公平性は、こうした社会階層にもとづく格差だけに由来する も の で は な い。 拙 稿「 兵 役 負 担 の 地 域 的 偏 在 」 ( 4) で 明 ら か に し た よ う に、 国 民 の 兵 役 負 担 に は、 陸 軍 管区に規制され た徴兵区のありかたと、都市と農村との間に存在した階層的格差により生 じ た地域的偏 在ともいうべき不平等が存在していた。その典型は、徴兵令の適用が遅れ た沖縄県と北海道である。特 に 後 者 は、 大 江 や 菊 池 が す で に 指 摘 し て い る ( 5) よ う に、 人 口 希 少 で 産 業 の 定 着 も ま ま な ら な か っ た だ けに、兵役よりも開拓事業が優先され ることで、徴兵制度の枠外に位置づけられ ていた。こうしたこと は、 「 国 民 皆 兵 」 と い い な が ら、 こ れ ま で 明 ら か に さ れ て き た 階 層 的 格 差 と は 異 な る、 い わ ば 地 域 間 格 差ともいうべき不平等を、北海道と他府県との間に生 じ させていたのである。必任義務徴兵制を実質的 な制度とするためには、全国一円に徴兵令を施行することでこのような例外地域を解消し、国民の兵役 義務負担において均質な空間を創り出す必要があった。 北海道における徴兵制は、明治二十九年の渡島 ・ 後志 ・ 胆振 ・ 石狩へ の徴兵令施行と、明治三十一年の
残る七カ国への拡大に より制度的確立をみ た。 徴兵令は、 すで に函館周辺の 一 部に適用され て い たが ( 6) 、 明治二十一年制定の陸軍管区表が「北海道ハ管区制定ニ至ル迄第二師管第四旅団青森大隊区ニ属ス」と 定めていたように、師管区域の設定をともなう本格的な施行は見送られ ており、明治三十一年の全道施 行をもって、他府県と同様の徴兵制度下に組み込まれ たといえる。 こうした開拓地北海道と他府県に生 じ ていた地域間格差ともいうべき問題は、解消され たのであろう か。明治二十九年の徴兵令には、本論でも明らかにするように、屯田兵を含む開拓者への徴集猶予・免 除規定が設けられ 、開拓事業に対する一定の配慮が示され ていた。しかも、徴兵検査を受検すべき当年 適齢者において、転籍による徴兵忌避や所在不明者が多発したことは、北海道が依然として兵役から逃 れ ることが可能な状況の下にあったことを示唆している。さらには、国家が社会に兵役義務観念を浸透 させようとする際、その梃子となるべき郷土部隊は、第七師団が明治年間を通 じ て関東以北出身者の混 成部隊たらざるを得なかったように、 徴兵令施行当初の北海道では成立し得なかった。 こうした問題は、 北海道の開拓地としての特殊性に由来しており、徴兵令施行以後も、先に指摘した地域間格差がなお解 消され なかったことを如実に物語っている。 本論文は、こうした北海道を場として、近代日本における一般兵役義務の成立過程を実態に即して検 証しようとするものである。具体的には、北海道が徴兵令の施行とその展開過程において、開拓地ゆえ に抱え込まざるを得なかった諸問題に対し、国家がいかなる対策を講 じ たのか、または講 じ 得なかった のかを解明することが課題となる。
一
徴兵令の施行
日清戦争中の明治二十七年(一八九四)十月、陸軍管区表が改正され 、それ まで管区制定が見送られ ていた北海道に第七師管が設置され た。さらに日清戦争後の明治二十九年三月、陸軍は六個師団の増設 を含む常備団隊配備表の改正を行い、第七から第十二までの各師団が新設され た。ここに創設なった第 七師団は、日清戦争時に屯田兵から編成され た臨時第七師団を改編したもので、当初札幌に師団司令部 が 置 か れ た ( 7) 。 こ れ に と も な い 同 年 に は、 従 来 の 道 南 一 部 地 域 に 加 え、 新 た に 渡 島・ 後 志・ 胆 振・ 石 狩の四カ国へ徴兵令が施行され たのである。 徴兵令の施行を定めた明治二十八年勅令第百二十六号は、開拓に配慮し、次のような条文を設けてい た。 第二条 前条ノ徴兵令施行地(渡島・後志・胆振・石狩)ニ転籍移住シ開墾其ノ他一定ノ生業ニ従 事スル者ハ転籍移住ノ後五箇年ニ満ツル年迄徴集 ヲ 猶予ス但転籍移住ノ後前条ノ区域外ニ 転籍シ更ニ転籍移住シタル者ハ此ノ限ニアラス 第三条 屯田兵ノ戸籍内ニ在ル者ハ徴集 ヲ 免除ス 第二条の徴集猶予規定は、北海道を対象とした地域的な特例で、開拓に従事する者に設けられ たもの で あ っ た ( 8) 。 条 文 中 に「 一 定 ノ 生 業 ニ 従 事 ス ル 者 」 と の 要 件 を 設 け た の は、 適 用 者 に 単 に 転 籍 だ け で はなく、実際の居住を求めることで、徴兵忌避を目的とした転籍防止を意図したものである。 第 二 条 の 制 定 意 図 は、 明 治 二 十 八 年 八 月 に 陸 軍 大 臣 大 山 巌 が 首 相 伊 藤 博 文 に 提 出 し た、 勅 令 第百 二 十 六 号、 同 百 五 十 四 号 案 に 添 付 さ れ た 理 由 書 の 中 で 述 べ ら れ て い る ( 9) 。 そ れ に よ る と、 四 カ 国 へ の徴兵令施行について、すでに施行され ていた道南一部地域の壮丁のみでは、新たに設置され る第七師 管の常備隊、つまり第七師団の兵員を確保できず、施行地域を拡大する必要があるため、とその理由を 説 明 し て い る。 こ の 四 カ 国 に つ い て は、 「 人 口( 男 口 以 下 同 シ ) ハ 実 ニ 十 六 万 余 ニ シ テ、 全 道 人 口 ノ 約 六分ノ五 ヲ 占ムルカ故ニ、明治二十九年ヨ リ 置カントスル所ノ常備隊ニ充ツヘキ兵員 ヲ 徴集スルニ足ル ノミナラス、 人口ニ対スル徴員ノ割合モ内地ニ於ケル徴員ノ割合ト概其均衡 ヲ 得」 としている。ただし、 渡島 ・ 後志の二カ国については、移民 ・ 産業の景況が内地とほぼ同 じ であるのに対し、胆振 ・ 石狩は 「未 タ徴兵令 ヲ 全然施行シ得ルノ程度ニ達セ サ ルノ部分」があるため、その打開策として、第二条・第三条 の特例を設けることにより、拓殖事業を阻害せ ぬ よう配慮すると述べている。したがって第二条の徴集 猶予は、主として胆振・石狩二カ国のために設けられ たものであり、加えて第三条屯田兵の戸籍内にあ る者に対しては、三十年間兵役の任務を帯び、さらに開拓の義務を負うため、徴集を免除しようとした のであった。この理由書について『新旭川市史』 (二〇〇六)は、 「この四カ国の壮丁の徴集で第七師団 の兵員が確保できると判断され ていたことも分かる」としている ( 10) 。 しかし、理由書に添付され た「北海道常設隊徴集人員表」による明治二十九年以降の徴集人員予定数 と、 実 際 に 第 七 師 管 か ら 徴 集 さ れ た 兵 員 数 に は 著 し い 差 が 生 じ て い る。 そ の 理 由 は、 「 北 海 道 常 設 隊 」 なるものが、常設師団の平時編制とは異なり、歩兵大隊一・砲兵大隊一・工兵中隊一をもって編成され ていたことによる。実際、第七師団は、明治二十九年三月改正の陸軍常備団隊配備表に、独立歩兵大隊 一・ 野 戦 砲 兵 大 隊 一・ 独 立 工 兵 中 隊 一 に、 屯 田 歩 兵 大 隊 四 を 加 え て 編 成 す る と 規 定 さ れ て お り、 こ の
師団を充足するに足るという意味にほかならない。本稿の問題関心に即して重要なことは、明治二十九 年の段階で、陸軍省が「北海道常設隊」の編成が完結する明治三十六年まで、内地と同 じ 編制の師団を 設置するという計画を持っていなかったことである。 このことは同時に、 少なくとも明治三十六年まで、 陸軍省が徴兵令の全道施行を企図していなかったことをも意味する。 徴 兵 令 施 行 の 勅 令 公 布 後 ま も な く、 関 係 各 所 よ り 主 に 徴 集 猶 予 規 定 の 運 用 に 関 す る 疑 義 が 提 起 さ れ た。この内、明治二十八年十月、当時の屯田兵参謀長で後に第七師団初代参謀長となる浅田信興から、 陸軍省へ 「北海道徴兵令施行規程第二条ニ付」 として示され た疑義は ( 12) 、① 「一定ノ生業ニ従事スル者」 に対する徴集猶予は一家に与えられ るものか、または個人に与えられ るものか、②「一定ノ生業ニ従事 表1 明治29年以降の徴集予定人員 年 次 a b 明治 29 年 1896 67 239 明治 30 年 1897 67 304 明治 31 年 1898 188 359 明治 32 年 1899 191 652 明治 33 年 1900 188 − 明治 34 年 1901 189 876 明治 35 年 1902 191 909 明治 36 年 1903 188 1,000 註 bのうち、明治31年までは第7師団以外への入営者も含む。 それ以降は第7師団入営者数。 典拠:「北海道常設隊徴集人員表」、「全国徴兵表」 編制は、明治三十二年九月の同表改正まで存続した。表 1は 「 北 海 道 常 設 隊 徴 集 人 員 表 」 に 示 さ れ た、 明 治 二 十 九 年 以 降 の 徴 集 予 定 人 員( a ) と、 「 全 国 徴 兵 表 」 に も と づ く 実 際 の 徴 集 人 員 数( b ) で あ る。 ( a ) は、 明 治 二 十 六 年 に お け る 四 カ 国 の 人 口 と、 「 北 海 道 ニ 常 設 ス ヘ キ 軍 隊 ノ 完 備 定 員 」 に も と づ く 徴 集 人 員 数 に よ り 算 出 さ れ て い る ( 11) 。 ち な み に 明 治三十年までの予定数が少ないのは、歩兵大隊の設置が明治 三十一年に予定され ていたからである。したがって、理由書 で述べられ た「常備隊ニ充ツヘキ兵員 ヲ 徴集スルニ足ル」と は、あくまで独立歩兵大隊と屯田歩兵大隊を基幹とした第七
スル者」の解釈と具体的な範囲について照会したものである。まず①については、本来徴兵義務は適齢 者 個 人 に 対 し 定 め た も の で あ り、 本 項 目 に よ る 徴 集 猶 予 も 同 様 で あ る と し な が ら、 「 北 海 道 ニ 移 住 ス ル 者 ヲ 奨励シ、且其生業 ヲ 保護スル点ヨ リ 観レハ、或ハ特ニ一家ニ与フルニ非 サ ルヤノ疑ナキ能ハス」と 述べている。仮に一家に与えられ るものだとすると、戸主が「一定ノ生業」に従事している場合、その 子弟は徴集猶予の対象となり、個人に与えられ ると解釈すれ ば、壮丁個人の生業を調査しなけれ ばなら ないとしている。②は「一定ノ生業」との規定が極めて不明確であり、当時の北海道ではいかようにも 解 釈 で き る こ と か ら 発 生 し た も の で あ る が、 「 文 字 ニ 拘 泥 セ ス 」 広 く 解 釈 す る こ と を 要 望 し て い る。 加 えて「若シ北海道徴兵令施行地ニ転籍移住シテ、未タ開墾其他一定ノ生業ニ従事スルノ遑ナク、而シテ 現ニ其之ノ従事スル準備ニ着手セ サ ル者、又ハ徴集猶予期限内即チ五年以内ニ在テ、一定ノ生業ニ従事 シ居タル者其生業 ヲ 廃シ、更ニ他ノ一定ノ生業ニ従事スルカ為メ其準備ニ着手セシ者」の扱いについて 問い合 わ せており、その対象者を「現ニ一定ノ生業ニ従事シ居ラスト雖トモ、其情明カナルモノ」とし た。これ に対する陸軍省の回答は、①は一家に与へるの「特典」とし、②の具体的な「一定ノ生業」に ついても屯田兵司令部の解釈を支持しているが、それ 以上は条項の解釈外とし、更なる質疑を求めてい る。 ま た、 北 海 道 庁 か ら の 疑 義 は、 翌 十 一 月 に「 勅 令 第 百 二 十 六 号 ニ 就 キ 伺 」 と し て 示 さ れ た ( 13) 。 そ の 内 容 は、 「 一 定 ノ 生 業 」 の 具 体 的 内 容、 徴 集 猶 予 年 期 の 計 算 方 法 と 法 的 手 続 き に 関 す る も の で あ る。 こ れ ら の 一 部 は「 北 海 道 徴 兵 令 実 施 に 関 す る 伺 指 令 」 と 題 し て『 北 海 道 毎 日 新 聞 』 に も 掲 載 さ れ た ( 14) 。 同記事は、対象となる具体的な職業を列挙し、猶予中の転業の可否やその後の徴集にも内容が及び、ま
た同月に掲載され た「徴兵令実施伺指令」においても、徴集猶予年期の計算に関する「転籍移住」の解 釈について注意が述べられ ている ( 15) 。「転籍移住の四字は、 相合して熟字を為す一名詞と看做すべきや、 将又転籍と移住との二様に解釈すべきや」との問いは、どの時点で五カ年とされ た猶予年期を起算する のか、という問題であった。つまり、北海道へ転籍するも移住せず他府県へ寄留する者、あるいは移住 し何らかの生業に従事するも、籍は道外に残したままの者の扱いについての解釈である。これ に対する 陸 軍 省 の 回 答 は、 五 カ 年 と さ れ た 猶 予 年 期 を 転 籍 と 移 住 の 一 致 し た 時 点 か ら 起 算 す る と し、 「 転 籍 を な すも移住せざる間は猶予に属せざるものとす」と結論づけている。移住をともな わ ない転籍者が対象外 となるのは、 徴兵忌避を抑止する意味でも当然である。 しかし実際に開拓へ従事する移住者であっても、 転籍と移住が同時になされ ない限り、五カ年とされ た猶予期間をいかに規定するのかは、極めて難しい 判断であった。 屯田司令部と道庁からの疑義には、北海道へ移住した後、転々と職を変える事例や、移住に際し戸籍 を移さないなど、後に徴兵検査において多発した、当年適齢の所在不明者を生む要因がすでに指摘され て い る。 「 一 定 ノ 生 業 ニ 従 事 シ 居 タ ル 者 其 生 業 ヲ 廃 シ、 更 ニ 他 ノ 一 定 ノ 生 業 ニ 従 事 ス ル カ 為 メ 其 準 備 ニ 着手セシ者」 や、 籍を他府県に残したままとされ る者は、 戸籍と現住地が一致していない可能性が高く、 こ う し た 者 た ち が 移 住 を 繰 り 返 す こ と で、 後 に 逃 亡 失 踪 者 と し て 扱 わ れ た と 考 え ら れ る。 「 転 籍 移 住 」 の解釈などは、まさにそうした者たちの存在を前提とした議論であった。したがって、これ らの要因を 解消することこそ、徴兵令施行後の北海道において、国民皆兵主義のもとで、一般兵役義務を成立させ るためになされるべき重要な施策であった。
二
徴集猶予の実態
徴 兵 検 査 に 先 立 つ 明 治 二 十 九 年( 一 八 九 六 ) 二 月、 『 北 海 道 毎 日 新 聞 』 に、 徴 集 猶 予 に 関 す る 興 味 深 い記事が掲載されている。まず「徴集猶予願に就て」と題する記事は、職業を口実として猶予願を出す 者が続出していることを報 じ 、本来猶予は検査官・主任官により判断され るものであり、出願者の中に は 却 下 さ れ る 者 も 多 い と 注 意 し て い る ( 16) 。「 一 定 の 生 業 に 従 事 す る 者 」 を 拡 大 解 釈 し、 猶 予 を 願 い 出 る者が多いことを示す記事であるが、その三日後に掲載され た「徴兵猶予に就て」によれば、五年間猶 予 の 特 別 法 を 設 け た の は、 「 殖 民 地 」 た る 北 海 道 人 民 の 産 業 を 害 さ ぬ よ う 留 意 し た 為 で あ る に も か か わ らず、これ を生業に就いている者は皆五年間猶予され 、五年猶予の後も徴兵の義務を免ぜられ ると誤解 す る 者 も い た と い う ( 17) 。 記 事 は、 こ う し た 状 況 に 対 し、 徴 集 猶 予 規 定 と は、 例 え ば 土 地 開 墾 や 漁 業 商 業などの生業を起こそうとする際、壮丁を徴集され ることにより起業が頓挫することが考えられ る場合 などに適用され、一家の産業を作る時間を与えるものであり、五年猶予の後は抽籤により服役の義務を 負 う も の で あ る と 述 べ て い る。 ま た、 「 徴 兵 嫌 忌 の 情 」 に よ り、 特 段 の 理 由 が な い に も 関 わ ら ず 猶 予 を 出願する者を「国家の不忠者」と批判し、自己の不利益を顧みない者とみなしている。ここでいう徴集 猶 予 に よ る 自 己 の 不 利 益 と は、 「 五 年 の 後 即 ち 本 年 の 適 齢 者 が 二 十 六 と 為 り し 暁 に は、 体 躯 は 常 業 に こ そ馴るれ兵役勤労には反て困苦を増すは事実の証明する所にして、家族の関係に於ても親は老い子は殖 え諸般の係累決して前日の比に非ず」というもので、さらに、徴兵令適用初年度は徴集人員を控えるこ と も 考 え ら れ、 「 少 々 無 理 に で も 家 産 の 程 度 に 依 り て は 猶 予 を 出 願 せ ぬ 方 其 身 に 便 益 に も あ り、 第 一 国家に対し一面目を開く訳なり」と記事を結 ん でいる。 初 の 徴 兵 検 査 を 前 に こ う し た 記 事 が 繰 り 返 し 掲 載 さ れ た こ と は、 「 一 定 ノ 生 業 ニ 従 事 ス ル 」 と の 条 件 が、当時の民衆にとって、何らかの職業に就けば対象となり、出願可能であると解釈され ていたことを 示している。しかし実際は、明治二十九年における第二条徴集猶予者は僅か九名に過ぎなかった。表 2 は、 「 全 国 徴 兵 表 」 及 び 『 北 海 道 庁 統 計 書 』 に よ る、 明 治 二 十 八 年 勅 令 第 百 二 十 六 号 第 二 条・ 第 三 条 に よ 表2 明治28年勅令第126号による徴集猶予及び免除人員数 年 次 勅 126-2 勅 126-3 徴 22 明治 29 年 1896 9 237 5 明治 30 年 1897 3 330 4 明治 31 年 1898 3 173 8 明治 32 年 1899 9 221 11 明治 33 年 1900 8 159 21 明治 34 年 1901 22 139 23 明治 35 年 1902 26 112 32 明治 36 年 1903 28 24 41 明治 37 年 1904 37 − 48 明治 38 年 1905 15 − 40 明治 39 年 1906 19 − 19 明治 40 年 1907 14 − 29 明治 41 年 1908 5 − 33 合 計 198 1,395 314 註 明治33年の数値は『北海道庁統計書』にもとづく。 典拠:「全国徴兵表」、『北海道庁統計書』 る徴集猶予・免除者数と、徴兵令第二十二 条による「家族自活シ能ハサ ル者」に対す る徴集猶予規定の適用者数である ( 18) 。 表 2における徴集猶予者数の変化は、北 海道における徴兵令の適用範囲拡大や、猶 予・ 免 除 条 項 の 改 正 と 密 接 に 関 わ っ て い る。明治二十八年勅令第百二十六号は、明 治三十年に次の改正が行 われ た。まず、翌 明治三十一年一月一日より、残る天塩・北 見・日高・十勝・釧路・根室・千島七カ国 へ徴兵令を施行し、同時に「屯田兵ノ戸籍 内ニ在ル者」としていた第三条による徴集 猶 予 が、 「 屯 田 現 役 予 備 役 下 士 兵 卒 ノ 戸 籍
内ニ在ル者」と改められ た。これ により後備屯田兵とその家族に与えられ ていた免役特権は廃止され 、 現 役・ 予 備 役 の み が そ の 対 象 と な っ た が、 次 い で 明 治 三 十 三 年 に は、 「 但 シ 専 ラ 兵 村 ノ 業 務 ニ 従 事 セ サ ル者ハ此ノ限ニ在ラス」 、「前項ニ依 リ 徴集免除ニ属シタル者五箇年以内ニ其ノ資格 ヲ 失フトキハ徴集ニ 応セシム」との条文も追加され 、その範囲が狭められ た。さらに、屯田兵条例が明治三十七年に廃止さ れ た た め、 第 三 条 に よ る 徴 集 免 除 そ れ 以 降 は 適 用 さ れ て い な い ( 19) 。 表 2 に お い て も、 徴 兵 令 の 施 行 地 域拡大とともに第二条徴集猶予者数は増加しているが、その数が徴兵令第二十二条適用者を上回ること はほと ん どなかった。しかしながら、日露戦争中にあたる明治三十六年と同三十七年に最も多くの適用 者を出していることは、戦争を忌避して出願する者が多かったことを示している。この点については、 次章においてさらに考察する。 開拓者への特例としての徴集猶予適用者数が限定され たのは、その運用方法によるところが大きい。 明治二十八年勅令第百二十六号第二条と徴兵令第二十二条による徴集猶予規定の運用には多くの共通点 がみられ 、例えば徴兵事務条例第十一条によると、勅令第百二十六号第二条と徴兵令第二十二条による 徴集猶予の出願は、共に連隊区徴兵参事員により審議され、裁決の可否を徴兵官へ具申すると規定して い る。 ま た 明 治 二 十 八 年 勅 令 第 百 五 十 四 号 に よ る「 徴 兵 事 務 条 例 中 第 七 師 管 ニ 実 施 シ 難 キ 諸 件 」 に お い て も、 第 二 条 該 当 者 は「 其 ノ 移 住 年 月 日 及 生 業 ノ 状 況 ヲ 詳 番 シ 徴 兵 事 務 条 例 第 五 十 九 条 中 徴 兵 令 第 二十二条ニ当ル者ノ例ニ依 リ 毎年願出ヘシ」と定められている。この徴兵事務条例第五十九条によると さ れ た そ の 出 願 方 法 に こ そ、 適 用 者 を 限 定 す る 理 由 が あ る。 す な わ ち、 「 家 族 自 活 シ 能 ハ サ ル 者 」 が 徴 集猶予を出願する際には、同一徴募区内の徴集適齢者を持つ戸主二名の同意を必要とするだけでなく、
猶予を継続する場合は毎年同様の出願をしなけれ ばならなかった。したがって、徴集適齢者を持つ戸主 にとって、他家の適齢者の猶予に対して出願に同意することは、それ だけ自家の適齢者が徴集され る確 率が高くなることを意味する。い わ ばこの規定は、出願を地域の連帯責任とすることにより、出願を抑 制する機能を期待されていたのである。この徴兵令第二十二条の例をそのまま導入したことで、勅令第 百二十六号第二条による徴集猶予の適用者数が極めて限定され たのであった。 それゆえにまた、本来は『北海道毎日新聞』に述べられているような、出願者が相次ぐような状況は 表3 明治28年勅令第126号第2条 該当者数と猶予出願者数 年 次 該当者 出願者 壮丁数 明治 29 年 1896 1,478 9 4,944 明治 30 年 1897 1,230 1 5,410 註 明治30年の該当者・出願者数は札幌連隊区のみ。 典拠:「徴兵適齢者人員調査ノ件」、『新旭川市史』 起こり得ないはずなのである。同記事による出願者とは、徴集猶予規定とその出 願方法が十分浸透していなかったため、実際には正規の方法によらず、猶予を願 い出る者が多かったに過ぎないと考えられる。しかし、陸軍大臣が提出した理由 書で示され た開拓に配慮する姿勢は、こうした実際の運用状況と大きく矛盾して おり、 当初から第二条による徴集猶予を限定しようとしていたのか、 疑問が残る。 次の資料から、その一端を考察してみたい。 徴 兵 令 の 全 道 施 行 後、 陸 軍 省 と 第 七 師 団 と の 間 で、 「 徴 集 人 員 負 担 ノ 比 例 」 関 する意見交換がなされ ている。 まず明治三十一年二月、 陸軍省は第七師団に対し、 「(第二条・第三条該当者を)徴集人員配賦ニ当 リ 壮丁総員中ヨ リ 除算シテ比率 ヲ 定 ム ル 」 こ と を 通 知 し た ( 20) 。 こ れ は、 第 二 条・ 第 三 条 該 当 者 以 外 の 者 に、 兵 役 負担が集中することを避けようとした措置である。すな わ ち、現役兵・補充兵と して徴集すべき人員を徴募区へ配賦する際、その数はそれ ぞれ の徴募区に本籍を
有する壮丁の見込み数を基準とするが、第二条・第三条該当者を含む壮丁数を基準に配賦すると、実際 の適用者が増大した場合、 対象外の者が徴集され る確率が高くなることが予想され る。 その対策として、 壮丁数から第二条・第三条該当者を除いた上で、あらためて配賦数を調整し、兵役負担の均等化を図ろ うとしたのである。このことは、少なくとも陸軍省が、徴募区内の兵役負担の「比率」を調整しなけれ ばならない程度の数まで、徴集猶予者数を許容しようとしていたことを示す。こうした措置は、第一章 で指摘した「北海道常設隊」の編成をみれ ば、むしろ当然のことであるといえよう。 これに対し第七師団参謀長松永正敏は、第二条該当者中、徴兵令第二十二条適用者と同 じ く、猶予出 願の手続きを踏まない者は徴集すべきであり、さらに猶予の認否は生業の状況により確定され 、該当者 は 多 数 存 在 す る も の の、 実 際 の 出 願 者 は 数 名 に 過 ぎ な い こ と な ど を 理 由 に、 「 第 二 条 該 当 者 ハ 壮 丁 総 員 中 ヨ リ 除 算 セ サ ル ニ 至 当 ト 思 考 」 と し た ( 21) 。 表 3 は そ の 際 提 出 さ れ た 付 表 と、 徴 兵 令 施 行 四 カ 国 の 壮 丁 数 ( 22) で あ る。 こ れ に よ る と、 明 治 二 十 九 年 に お け る 第 二 条 該 当 者 は 一 四 七 八 名 と さ れ 、 壮 丁 総 数 の約三割を占めているのに対し、出願者は僅かに九名である。ここで示され た該当者がいかなる基準で 算 出 さ れ た の か は 不 明 で あ る が、 「 一 定 ノ 生 業 ニ 従 事 」 す る 徴 兵 令 施 行 地 へ 移 住 後 五 年 未 満 の 者 と 考 え られ る。これ は実際の出願者数が、第七師団の予想を大きく下回ったことを示すものと推測され る。そ の結果、陸軍省はあらためて「除算セ サ ルコトニ相成」と回答している ( 23) 。 以上の点をふまえると、出願主義が徴集猶予者数を極めて限定的なものとした一因ではあるものの、 そもそも第二条該当者からの実際の出願が予想外に少なく、これらの要因が重なったことで、特例が廃 止されるまでの十三年間で僅か一九八名の適用者しか生まなかったのである。
さらに、出願者が少ないという実態は、当年適齢の所在不明者が極めて多いという問題とも関 わ って いる。詳しくは第四章で述べるが、その直接的な要因には、戸籍を残したまま他地域へ移動し、行方不 明となったことがあげられ る。移住に際し、本人が転籍などの必要な手続きを怠ったがために、移住先 で徴兵検査を受検することがなく、本人の意思とは無関係に所在不明者として扱 われ たのである。つま り、第二条徴集猶予についても、同様にその手続きを行 わ ず、あるいは全く関知しなかったために、出 願者数が極めて限られ たものとなったと考えられ るのである。したがって、仮に出願を行 わ なかった該 当者が他地域へ移動した場合、転籍も行 わ ず、結果として所在不明者となる可能性は否定できない。第 二条出願者の数が極めて少ないという実態は、所在不明者の多発と、い わ ば表裏一体の関係にあったと 推測できるのである。 北海道における徴集猶予は、結果としてその制定理由で述べられ た「移住ノ奨励ト生業ノ保護」のた め、広く適用されることはなかった。その理由は、出願主義にもとづく運用方法のみならず、対象とな るはずであった開拓者の側にも存在していた。それ は、当初陸軍省としても想定外の事態であった。な ぜなら、徴集猶予該当者をあらか じ め壮丁総員から除算しようとしていたように、陸軍省が開拓に配慮 しようとしていたことも、また事実だったからである。 しかし明治三十一年、陸軍省は、開拓に配慮したがゆえに当初計画していなかった、徴兵令の全道施 行に踏み切る。そこには、次章でみるように徴兵令未施行地への転籍者の続出という、陸軍省にとって 座視し得ない事態が生 じ ていたからである。
三
未施行地への転籍
徴兵令の施行後は じ めての徴兵検査は、明治二十九年(一八九六)五月以降、道内各地で順次執り行 われ た。札幌外九郡における検査は五月三十日に終了し、翌日の『北海道毎日新聞』において「 始 ママ めて の 検 査 な る に も 拘 は ら す 其 成 績 は 他 府 県 に 毫 も 譲 る と こ ろ な か り し 」 と 報 じ ら れ て い る ( 24) 。「 各 地 徴 兵検査成績」と題し『小樽新聞』に掲載され た、豊平村における検査結果は次の通りである ( 25) 。 甲 乙 合 格 当 選 者 三 百 四 十 七 人、 他 徴 募 区 に 於 て 身 体 検 査 許 可 の 者 三 十 五 名、 疾 病 二 人、 裁 判 未 決 三 人、 令 第 二 十 二 条 徴 集 猶 予 者 二 人、 学 校 生 徒 二 人、 外 国 寄 留 一 人、 一 年 志 願 兵 出 願 の 為 め 徴 兵 検 査 未 済 の 者 一 人、 勅 令 第 百 二 十 六 号 猶 予 者 四 人、 逃 亡 失 跡 五 十 人、 事 故 不 参 三 人、 徴 集 免 除 七百七十三人、兵役免除六十八人、陸軍志願兵二人、合計千二百九十三人。 ここで特に注目すべきことは、豊平村を含む石狩・胆振両国を主な対象とするはずの勅令第百二十六 号第二条に該当する徴集猶予者が、僅か四名に過ぎないことである。しかも『北海道庁統計書』による と、 同 年 に は こ の 豊 平 村 を 除 け ば、 石 狩 に お い て 猶 予 が 適 用 さ れ た 者 は い な か っ た の で あ る ( 26) 。 さ ら に、徴兵検査を受検すべき当年適齢の所在不明者である、逃亡失踪も五十人発生していることも注目さ れ る。加えて、次にみる『北海道毎日新聞』で指摘されているように、検査結果に現れない、徴兵令未 施行地域への転籍も行 われていたと推測される。これらの事例は、徴兵令施行当初の北海道において、 本人が自覚的であったか否かにかか わ らず、事実において兵役義務をい わ ば放棄する者が極めて多く、 一般兵役義務としての徴兵制度がいまだ成立し得ない状況にあったことを示す。徴 兵 令 施 行 を 一 カ 月 後 に 控 え た 明 治 二 十 八 年( 一 八 九 五 ) 十 二 月、 『 北 海 道 毎 日 新 聞 』 に「 本 道 に 於 ける不忠の臣民」と題する記事が掲載され た ( 27) 。 開拓使以降本道に移住せる人々の決心は、概ね拓殖の実行を挙げ北門の鎖鑰たるの重任に当たら ん とする忠義心に富めるものた れ ば、苟も不忠の臣民等は万々なかるべしと信ずれ ども、此頃徴兵 令未行地たる天塩、北見、釧路、日高、十勝、根室、千島の六 マ マ ケ国内に転籍するもの少なからず、 是れ 等は固より家政上の都合によるなるべしと雖ども、若し徴兵を免か れん との目的に出づるもの とせば、取りも直さず徴兵を忌避するものと云はざる可らず、今日に当り斯る不義不忠の臣民あら ん には、早晩之れ に対する制裁を設けざるべからずとて当局者は大に注目し居れ りという。 転 籍 に「 徴 兵 を 免 れ ん と の 目 的 」 が 示 唆 さ れ て い る の は、 「 固 よ り 家 政 上 の 都 合 」 に よ る 者 が 存 在 し ていたことは否定し得ないものの、徴兵令の公布後に転籍した者が多かったからにほかならない。この 記事からは、転籍する者が、実際に他国へ移住したのか、あるいは転籍のみなのかは確認できない。し かし翌明治二十九年九月の 『小樽新聞』 には、 徴兵忌避をより強く疑 わ せる事例が、 「壮丁転籍者に就て」 と 題 す る 記 事 で 報 じ ら れ て い る ( 28) 。 そ れ に よ る と、 明 治 二 十 八 年 九 月 か ら 二 十 九 年 七 月 ま で の 間 に 徴 兵令未施行地へ転籍した、小樽外六郡の徴兵適齢者に対し、送籍当時より実際の移住をともなっている のか調査したところ、現に移住せず転籍地への一時的な旅行に止まる者があり、こうした者の中にはす でに小樽へ帰郷した例も多いという。 この記事は、 転籍が徴兵忌避に他ならない事例の調査結果であり、 転籍の後一時的に移住や旅行する、その手法が述べられ ている。 し か し 転 籍 に よ る 徴 兵 忌 避 は、 い か な る 方 法 で あ れ 、 法 的 手 続 き を 経 な く て は な ら な い た め、 『 北 海
道毎日新聞』で「当局者は大に注目し居れり」と述べられているように、その把握が比較的容易であっ た。実際小樽外六郡の調査も、拓務省の指示で行 われ ている。道内の転籍については、すでにみた勅令 第 百 二 十 六 号 第 二 条 に お い て、 徴 集 猶 予 の 対 象 と な る「 一 定 ノ 生 業 ニ 従 事 ス ル 者 」 に、 「 転 籍 移 住 ノ 後 前条ノ区域外ニ転籍シ更ニ転籍移住シタル者ハ此ノ限ニアラス」と、本来猶予対象外の者が転籍を繰り 返すことにより、徴集猶予の対象となることを防ぐ但書が設けられていた。こうした点からも、当時の 北海道において移住の有無を問 わ ず、転籍が合法的な徴兵逃れ の最も効果的且つ簡単な手法であったと 理解できる。 転籍による徴兵忌避を防止するには、道内に残され た徴兵令未施行地を解消しなけれ ばならない。陸 軍省は、すでに明らかにしたように、渡島・後志・胆振・石狩の四カ国へ徴兵令を施行した明治二十九 年 の 段 階 で、 「 北 海 道 常 設 隊 」 の 編 制 が 完 結 す る 明 治 三 十 六 年 ま で、 徴 兵 令 の 全 道 施 行 を 計 画 し て い な かった。しかし、四カ国への徴兵令施行前後から、未施行地への転籍が横行する状況が生まれ ていた。 こうした事態は、開拓の進捗に合 わ せて段階的に常設師団の設置=徴兵令施行地の拡大を考えていた陸 軍省にとっても、座視できないものであった。なぜなら転籍の横行は、国民皆兵主義にもとづく制度の 公正な運用を前提とする一般兵役義務の成立を揺るがしかねない問題であったからである。それ ゆえ、 転籍による徴兵忌避を非合法化すべく、徴兵令の施行に達しない地と評され た胆振・石狩以上に人口希 少 ( 29) な七カ国への徴兵令施行を含む、全道へ兵役を拡大する徴兵令施行を急いだのである。 この結果、 明治三十一年以降は、 勅令第百二十六号第二条と徴兵令第二十二条による徴集猶予のみが、 兵役を逃れ る合法的な手段となった。しかし第二章で明らかにしたとおり、第二条出願者数は陸軍省の
予想を大きく下回るものであった。にもかか わ らず、日露戦争が始まった明治三十七年の適用数は、全 道で三十七名にも上 っ た(表2参照) 。戦後その数が急激に減少したことをみれば、出願数増加の理由が 戦争の忌避を意図したものであったことは明らかである。こうした事態は、拓殖事業を阻害せ ぬ よう配 慮した第二条の制定主旨をむしろ踏みに じ るものであった。 こ う し た 状 況 下、 陸 軍 省 は 日 露 戦 争 後 の 明 治 四 十 年 に 行 わ れ た 徴 兵 事 務 条 例 及 び 同 施 行 細 則 改 正 の 際、明治二十八年勅令第百二十六号の第二条以下を削除し、北海道における徴集猶予・免除規定の廃止 に踏み切った。同時に東京府下小笠原島における徴集猶予を定めていた明治三十年勅令第二百五十八号 第 二 項 も 廃 止 さ れ 、 明 治 三 十 七 年 に 廃 止 さ れ た 沖 縄 県 に お け る 徴 集 免 除 規 定 ( 30) と あ わ せ、 特 定 地 域 に 対する徴兵上の特例はここに全廃され た。これ らの地域的な特例は、日露戦後の軍備拡張のもとで「今 日 存 続 ス ル ハ 頗 ル 適 当 ナ ラ サ ル 」 ( 31) と み な さ れ た が ゆ え に、 「 兵 役 義 務 均 等 主 義 ヲ 拡 張 ス ル ヲ 至 当 ト ス ル ニ 依 ル 」 ( 32) と の 理 由 で 廃 止 さ れ た の で あ っ た。 「 頗 ル 適 当 ナ ラ サ ル 」 と は、 軍 拡 に よ る 徴 集 人 員 の 増 大とともに、すでにみた日露戦時下の状況をふまえたものにほかならない。 明治二十九年当初、開拓に配慮し段階的に徴兵令を施行しようとした陸軍省の姿勢は、転籍による徴 兵忌避の横行で軌道修正を余儀なくされ 、さらに戦時下における徴集猶予出願者の増大により、事実上 放 棄 さ れ た。 加 え て 日 露 戦 後 軍 拡 は、 徴 集 人 員 数 が 第 七 師 管 だ け を 比 較 し て も そ れ ま で の 一 ・ 三 倍 に 増 加 し た よ う に、 よ り 大 き な 兵 役 負 担 を 国 民 へ 強 い た ( 33) 。 し た が っ て、 徴 兵 制 度 の さ ら な る 公 平 な 運 用 が求められ 、北海道やその他地域への徴集猶予は、兵役義務均等主義の下でその弊害とされ 、廃止に至 ったのである。ここに北海道は、沖縄・小笠原島とともに、他府県と同様の制度化に組み込まれ たので
あった。近代国家における一般兵役義務が、領域内の均質な兵役義務の上に成立すると仮定するなら、 日本における一般兵役義務は、この日露戦争後の明治四十年の時点において成立したともいえよう。 しかし北海道では、この時点においても徴兵検査を受検すべき当年適齢の所在不明者が、他府県に比 べ極めて多く発生していた。
四
所在不明者をめぐって
転 籍 移 住 に よ る 徴 兵 忌 避 は、 あ く ま で 転 籍 と い う 法 的 手 続 き 経 た 上 で 未 施 行 地 へ と 移 動 し た 者 で あ り、徴兵忌避を意図する者が全て籍を移す わ けではない。第一章で検証した「転籍移住」の解釈に代表 され るように、本籍と現住地の不一致は北海道において決して稀な事例ではなかった。したがって、転 籍を行 わ ずに移住し、徴兵検査において所在不明として扱 われ る者も少なくなかったのである。豊平村 における逃亡失踪五十人とは、まさにこうした者たちを指している。さらに、徴兵令未施行地転籍によ る 徴 兵 忌 避 が 不 可 能 に な る と、 第 二 条 に よ る 徴 集 猶 予 の 出 願 が 難 し い 中 で、 「 逃 亡 失 踪 」 と な る 以 外 に 徴 兵 を 逃 れ る 手 段 は な か っ た。 す な わ ち、 軍 に と っ て は、 「 所 在 不 明 者 」 の 撲 滅 こ そ が、 北 海 道 に お い て一般兵役義務を確立する上で残され た最大の課題となったのである。 表4は、明治二十九年(一八九六)以降の、第七師管における当年適齢の所在不明者数と、当年適齢 の現役兵一人当たりの所在不明者数を全国平均と比較したものである。本来は当年適齢者に対する割合 を示すべきであるが、明治四十一年以前の当年適齢者数が不明であるため、現役兵と比較した。これ に極めて多いことも、また事実である。ちなみに明治四十二年における所在不明数は二五九人、これ は道 内当年適齢者数の二 ・ 五パーセントに当たった。 所在不明とされ た者が、故意に兵役から逃れ ようとした徴兵忌避者であったのか、あるいは本人の意 思とは無関係に、 行方不明者として扱 われ たのかを検証するのは極めて難しい。 しかし当時は容易に 「逃 亡 失 踪 」 と し て 扱 わ れ る 環 境 が あ っ た こ と が、 新 聞 に 報 じ ら れ て い る。 『 小 樽 新 聞 』 で は 明 治 二 十 九 年 の 徴 兵 検 査 の 状 況 を 記 し た 上 で、 「 本 道 の 悪 弊 は、 甲 地 よ り 乙 地 に 居 所 を ば 転 じ な が ら 更 に 届 出 を な さ 表4 現役兵1人当たりの所在不明者数 年 次 a b c 明治 29 年 1896 216 0.96 0.15 明治 30 年 1897 172 0.64 0.13 明治 31 年 1898 249 0.79 0.12 明治 32 年 1899 209 0.34 0.11 明治 33 年 1900 − − − 明治 34 年 1901 188 0.24 0.10 明治 35 年 1902 199 0.25 0.10 明治 36 年 1903 141 0.15 0.07 明治 37 年 1904 178 0.19 0.06 明治 38 年 1905 207 0.21 0.06 明治 39 年 1906 168 0.13 0.06 明治 40 年 1907 199 0.10 0.04 明治 41 年 1908 288 0.15 0.04 a:第7師管内当年発生所在不明数 b:a/第7師管現役兵数(当年適齢) c:bの全国平均 典拠:「全国徴兵表」 よると、明治二十九年から日露戦争期までの 所在不明者は、年平均二百名程度で推移し、 大きな変動はみられ ない。しかし、現役兵数 は、明治三十一年における徴兵令の全道施行 により、飛躍的に増加している。つまり、所 在不明者数そのものは減らないものの、徴兵 検査対象となる当年適齢者が増加しているた め、その割合は相対的に減少していく。例え ば、明治二十九年には、現役兵数と所在不明 者の比はほぼ一対一であるが、日露戦争後に は約十分の一まで減少している。それでもな お、全国平均と比較し、所在不明者の割合が