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ミラー夫妻とその家系-香川大学学術情報リポジトリ

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ミラー夫妻とその家系

山 崎 怜 Ⅰい家系。ⅠⅠ.叔父と父と母と。ⅠⅠⅠト ジョン・ミラ−とマL−・ガレットクレ イグー生誕・結婚・出産・死−。 Ⅰ グラ−スゴクから約8マイルばかりへだてたプランタイア(Blantyre)教区で かなりの名望1Jをもってきこえたのがミラー一家であった。ミラー家は,代々, ミルヒ。−(Milbeugh)の地にその資産をもち,すくなくとも,宗教改革の時 代以ご,・そこの粉ひき場(mill)を経営したらしい。ミラー(Millar)の名は,こ の粉ひき場に由来する。レーマンの考証によれぼ,the‘mylne’ofMylnheugh ー急坂な土手が上からのしかかる狭谷の粉ひき場−・の歴史ほ,スコットラ

ンド王 Robert the BrIu〇e(1274−1329,在位1306−29)とそのバノックバ・− ンの戦い(柑14年)の時代にほじまるとい・う。1556−7年のある公叉書の証人

に.,‘JobnMyllaI・OfM.ylneh町yCbt’の名がみえ,また,1564年には,ある金

融上の取引関係人として,‘John MyLlaIOf Mylneheuch’の名が記録されて

1)名望家ではあったが,近隣のハミルトン,コルダーウッドのマックスク工ル家(the

Maxwells ofCalderwood),ないしほ,プランタイア卿(the Lords of Blantyre)の

尊称はもっていなかった。Cf。Wi11iamCい Lehmann,.JohnMillar qf Glasgow,1735

−ヱβ0ヱ.肪5エ去ノとα紹d rカβ〝gゐfα邦d戯5C卯かj∂捉如乃Sね5加わ旬妙㍑JA鋸めS査S,C・U・ P。,1960,p.10クレイグは,ホワイトモスでの生活における数すくない親交の相手

に,サー・クィリアム・マック.スウェル(SilWilliam MaxwellofCalderwood)の

名をかぞえ,その夫人とわがミラーの妻は.遠縁にあたるとい■う。ふたつのマックスクェ ル家は.かんけいがあるのだろうか。Cf・Johr!Craig,“An Accountof the Lifeand

WritingsofJohnMillar,Esq”in:Th30′iginofiheDistindionqf−Rank9,eicl,

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ミラー夫妻とその家系 ー・27− いるとのことである。ミラ−のタイりレほ,かかる明白な16世紀の資料をはさ んですくなくとも,15世紀にあらわれ,1602年にあたらしいタイりレとなった ようである。2) ところで,われわれには,残念にも,いまなお,わがジョン・ミラ−(John Millar,1735・−1801)にとって上記John MyllaI■がなにものにあたるか,いっ さい不明につつまれているため,こうした時代の系図を再現することほ不可 能である。ここで,たしかなのほ、,ミラーの祖父が同姓同名John Miilar・Of Milheughin Blantyreであるという事実のみであっ{:,それ以上のことほ, かれについても,やほり,闇につつまれている。そ・こで,その息子たち,すな わら,わがミラーーの叔父および父のことから,蟹をすすめよう。 ⅠⅠ 祖父ジョン・ミ.ラ・−は,ふたりの息子をもうけた 一品男ジョン・ミラーー (John MillユⅠ■,ト1785)と次男ジ.ヱ.イムズ・ミラ・−(.Jam∋S Millar,170ト85)で

ある。 長男の汐ヨンほ,・エディンバラで法律をまなび,弁護士把.なったが,そのう ちに,病気がちのため,この仕事をやめ,伝来の地ミルヒコ一に隠退した。8)か れは,生涯,独身であり,世間と没交渉,したがってJ遠慮ががちなは.にかみ屋 2)WいC.Leh皿ann・qク.citL,pp。10and410.あきらかなのは祖父をほじめとする 7人の.Tohn MillaIが中断することなくつづいたことである。 スコットランドさいしょの印刷璽Androw Myllar(fl1503−8),出版業主And工eW

Mi11ar(1707−68),医学者Jobn Millar,MrD”(1733−180う),医老James Millar, M・D(1762−182」7)は,みな,スコットランドうまれのかなり有名なスコットランド人

であったが,わがミラー家の血縁でほ.ないらしい。また1789年,医学博士となり,ロバ 一トクレグホ−ンのあとをついでグラ−スゴク大学薬物学の講乱 のちに教授となっ たRichard Millaf(?−−1833)も,ミラ−の身内でほないようである。ヅチャ一−ド・ミ

ラ一について−ほ,James Coutts,AHiStOY二yOfth2thliversityqf Glasgow:釣・Om

iis Foundoiionin Z451io1909,Glasgow,1909,p”496ff

3)J‖Craig,PP‖Cit、,p一iilただし,Ⅰ/−マンによれば,公刊された弁護士名簿には, かれの名はみえないとのことである。Cf..W。C.Lehmann,PP”Cii.,p.16n.

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香川大学経済学郊 研究年報 2 ヱ962 ーJ建一 であったらしいが,じつに,博覧強記の人物であった。4)その物心両面にわた る財産が,のらにみるように,その甥,すなわち,わがミラーにうけつがれ た。 次男ジ工イムヂの方ほ,グラ・叫スゴク大学のM・A・をとり(1720年),やが て,神学学位も取得,1726年,牧師資格をえた。ところで,ジェイムズにとっ て,ひとつの重大事が,待っていた。1728年,さいしょの任地ショツ教会に行 くと,ドアは閉ざされ,民衆が暴徒となってこわきかえっていたという。こ.れ は,新任の牧師自体への抗議でほなく,牧師選定にあたって民衆に相談など必 要なしとした幹部のやり方紅たいする抵抗であったとはいえ,旅宿の窓から説 教せざるをえなかったこ.の事件は,かれとその息子に,なにはどかの意味をも ちえたのでほないだろうか。ともかく,この反対をおさ.えて,10年間にわた り,ここに.在任,1787年,グーラスゴクから約11マイルのハミルトン第2教会 紅転じ,さらに,1766年,そ・この算1教会へうつり,Ⅰ785年の他界まで在勤し た。5)

かれほ,‘a man much respected forhis abilities,1earning,and purity of manners,とか,6)‘a man ofhighrespectabi王ity as a clergyman,equa11.y

distinguished by thestrength of his understanding as by his talentsin

his profession’だった7)と評されて:いる。おそらく,息子の職業選択にさいし てこの柔軟な態度も,そのひとつのあらわれであろう。 ジェイムズは,1734年,クエストバーンのア−チポーールド・ハミルトン

(Archibユ1dHamilton of Westburn)の娘アン(ATln)−−かのじょは有名

なウィリアム・カラン教授(WiIliam Cullen,17J0−90)の妻の本いとこにあた る−と結婚,翌年,わがジョン・ミ.ラ−がうまれた。しかし,家柄のちがい を理由にかのじょの家族ほこの結婚をみとめず,かのじょほ,終生,みずから の実家と絶交のまま,すごしたといわれる。8)このことも,また,象徴的な事 4),.Craig,掛Cii・,ppいV−Vi 5)WCい Lehmann,掛Cit.,pl11 6).l.C工−aig,砂C払,p・i 7)WC.Leユ1malm,砂(払,p・11 8)乃摘.,p.11.

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ミ.ラー夫妻とその家系 ー29− 実であり,夫汐エイムズと息子ジョンになんらかの啓示をきざみつけずにおか なかったとおもわれる。 愛すべきふたりの兄弟ジョン芯ジェイムズが,ジ.エイムズの長男わがミラー・ にあた.え.たふかい情愛をかたるまえに,ふたりの兄弟愛についてこしるしてみよ う。 1784年,ジョンほ,まだ十分に改善の余地はあったが,もほや,年老いたか れに管ヨ盟する力もなく,かえって邪魔紅なることをさとって,すみなれたミル ヒュ∴−を去り,ハミル†ンの弟のうちにきた。その生涯を通じて愛しあったふ たりは,しばしば,ふたりがおなじころに死ねるといい,などと虫のいいこと をのぞんだらしい。ところが,この希望ほ実現したのである。翌年,汐ヨンは 弟のもとで死んだ。すると老牧師ほ,どうにか葬列にはくぁわったが,おちつ きがなくなり,ミルヒ.=ユ・一に行き,自分の幼年時代をおもいうかべ,わかいと きのかたくななこころののぞんだおおくのものがあらいながされたのをみて, よろこんだという。しかし,こころの動揺,不眠,酷暑のため,くたくたになり, ハミルトンに帰宅したときほ,すでに,炎症熟の徴候があらわれ,数日ご,愛 する兄のあとをおったのである。9)

わがミラ一にとって叔父にあたるジョンほ,つねに,‘most kind and at−

tentive to him〔his nephew〕’であった。10)まず,甥ジョンは,うまれて7才 に達するまで,ミ.ルヒ.ユ・−の叔父の家でそ・だてられた。こ.れほ母がその実家の 兄弟から離間されたことによるか,あるいは,限嗣相続法によって二,独身で子 なしの長子たる叔父紅あずけられたか,11)また,そのはかの理由にあるのか,12) いまのとこ・ろはっきりしないけれども,いずれにせよ,叔父がわが子のように 9)J.Craig,砂Cii。,Pp.1ⅩⅩ−1ⅩⅩiふたりの死んだ正確な日付はわからないし,叔 父の病名も不明である。 10)乃套dL,p..1ⅩⅩ 11)W.C小 Lehmann,砂cii.,p.11 12=、Craig,砂Cit”,p.i.でほ,家族がハミルトン(父の任地)に移住したとき,ミラーー ほミルヒ.ユーの叔父のところに行ったとかかれる。しかし,これは説明にはならない。 故意に理由をふせたともおもわれる。これほ甥クレイグによる伝記の欠点のあらわれで あり,V・−マンのいう‘some disadvantagesoffriendlybias’のひとつの証拠であろう か。CflW”CLehmann,砂cit小,p.7い ただ,わたしは,このことを承知しつつも, 家族の動静の記述である小論でほ,かなりの帯皮,クレイグに依存せざるをえなかった。

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香川大学経済学部 研究年報 2 ヱ962 ー30− 可愛がったのはたしかである。もし,弟のかなしい結婚のさだめから,そのみ どり児を救うためにひきとったとするならば,まことに,いい見であり叔父で あったといわなければならない。 7才まで,甥は,ハミルトンのグラマ・スクールにほいる準備のよみかき を,叔父からおそわった。そのご,紫ほ1J才で,グラ−スゴク大学に入学,牧 師になる勉強にいそしん・だが,途中,聖職を放棄したい気持にかられる。それ にほ,さまざまの理由が推定されないわけでほない。13)しかし,ひとつの重 大な感化ほ叔父に帰してよいだろう。14)7才までのことほ,あるいは.,潜在 的なものかもしれない。これを別としてこも,甥ほ,大学入学ごも,長い夏やす みやそのはかの槻会をとらえては,ミルヒ,ユ一にでかけて,そこ.に滞在した。 そうしたとき,祖国の歴史にかんするものほ,のこらず,知りつくして:いたと いわれる,また,同時代のさまざまの党派あらそいを,するどく,分析ずみで あったともいう叔父ほ,市民的=宗教的自由の熱烈な味方であり名誉革命とウ ィッグ党のほげしい擁護者でもあったのだから,その生涯を通じて.,かれ自身 その力づよい支特着であった独立感情を,わかい甥のこころに形成したこと

ほ,うたがわれないであろう。‘a man of excellentunderstandingand most

amiable mannerS’の叔父にとっては,歴史と政治についでは,スコットラン ド法が好きなテーマであったらしい。この愛好は,わかいときにうけた教育 と,もうひとつは,この精通のために同郷人間の治安判事になりえたこ.とによ るらしい。こうした叔父にそだてられ,その芳春時代に起居をとも紅して,日 夜,会話をかわした多感な甥が,職業選択の岐路にあたって,友\人たちのおど 13),14)たとえ.ば,欝1に,研究意欲のさかんなわかものほ,「既定の信仰箇条に拘束 されたくないとおもうであろうし,ヌコットランド教会は,自己の有能を知るわかもの の野心をあまり満足させない」(.T CI■aig,掛c鉦,p.Ⅴ)こと,第2に,1751年,母校 紅かえった敬愛する師アダム・スミスとの逝逼−その講義内容を追慕して−,‘tbe History of CivilSociety’とのべた(,.Millar,An mlSioricalView ofihe

Gβひβγ捌矧玖1803,Vol小 Ⅱ,p429.)−,第3に,急速に発展したスコットランドの 経済的・文化的発展,解4に,アメリカをふぐむ西ヨ一口ッパの諸事情がある。これら ほ,別稿の課題であるので,指括にとどめるが,もし,こうしたものの巨細な影響をみ

とめたのちにも,叔父の感化ほ,けっして,きえさらない。それは,むしろ,叔父の愛

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ニー粛−

ミラー夫妻とその家系

ろきをしりめに,法律で身をたてようと決意するのは,それはど,不可思議な t,とではない。甥ほ叔父を‘respected for his understanding 畠’hd、、1e度al

knowledge’の人物とみていた。15)

叔父の第2のおくりものほ,ホワイトモス(Whitemoss)農場であった。甥 ジョンほ,グラースゴクに居をかまえたのちの数年間,ハミルトンの父の家で 夏の大部分をすごすのがならわしであった。しかし,家族のふえるにつれ,と れは,ますます−,不便をきたした。そのとき,‘ever attentive to his〔nep−

h帥■’s二〕comfoIt’の叔父ほ,かれにグラ−・スゴクから約7マイルのキルプライ ド(KilbIide)村に近い小さな農場をおくったのである。16) ホワイトモス農場ほ,じつほ,周L土のよくないところによこたわる80・エーカ ーばかりの劣悪な土地であった。しかしわが甥は,この条件にもめげず,これ をたがやし,緑の沃野たらしめ,収穫をあげる工夫をこらしたという。かかる 工夫ほ,かならずしも,すべてが成功したわけでほなかったとはいえ,たいし た犠怯もなく,かれの閑暇をたのしませ,家のまわりの荒涼たる風景をかえた といわれる。17) 第8のおくりものは,博来の地,かのミルヒユ・−であった。王785年,叔父の 他界ほ,その財産を長子相続制によって,弟の長子たる坊のものたらしめたの であろう。ただ,事実上の相続の時期は,叔父の存命中か死ごであるか,明瞭 でほない。というのほ,さきにかいたように,死の前年に,叔父は,ミルヒ.ユ −をひきほらって.いるので,あるいほ,その折,すでに甥のものとなっていた 15)一丁.CTaig,卸.C≠f、,pp.Ⅴ−Vi 16)J鋸d,p・1ⅩViii… レ−マンは,グラースゴクから農場までの距離を約8ないし9マ イルとかいている。CflWuC.11ehmann,噌.cith,P27.ホワイトモス農場が,もと もと,どのような径路をへて,叔父のものとなったかは,いまのところ,不明である。 17)乃∠dl,pp.lxviii−1Ⅹix.また,「ホワイトモスでのかれの生活は,きわめて,変化 の乏しいものだったが,小農場の経営にいそしみつつ,研究にはげみ,家族にとりまか れて,まったく,けん怠もおぼえなかった」(乃ま■d,p.1Ⅹixl)と。この農場経営やつぎ にのべるミルヒ.ユ.−の改艮が,ケイムズをふぐむいわゆる地主指導の農業革命と,いか なるかんけいにあったかは,いまは,論定できない。

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香川大学経済学部 研究年報 2 ヱ962 一息2− ないし,なったのかもしれないからである。18) クレイグによれば,けわしい斜面の丘にかこまれた盆地ミルヒ.,−の自然 は,美しさにみちていた。それは谷間をぬう小さな川コルターにくぎられたい くつかの草地であった。小川の岸に生えるかん木,家の近くに・たち樹陰をおと す亭々たる巨木の群。それでも,甥のやってきたときは,改善の余地が大いに あったらしい。かれほ,形だけの垣根をとりこわし,ふるい果樹園を家のまわ りの楽しい植え.こみにかえ,あちこちにちらばる岸辺のかん木ほそのままにし て,岸の上部にそって植林した。 甥ほ,かなりのあいだ,くる夏もくる夏もミルヒユ∴−の改良にほげんだよう である。植林とか伐採とかが,日々家族との相談ごとであった。かれの頭ほ, 経営のこ.とでいっぱいだった。そうして,うまくゆかないときには,植えたば かりのわかい木々をみやりつつ,未来の成長に,こ.ころをいやしたという。も

っとも,改良の完成につれで,次第に,ミルヒ,ユーほ,・その関心から遠ざか

っ ていったらしい。けれども,それほ,ミルヒユーに・たいするかれの愛着と思慕 を減じてこいったということなのではない。クレイグは,老いたわがミラ・一にと りミルヒユ−ほ.,「ひとつには,楽しい追憶にむすびつけられ,他方では,は とんどみずからのこ.ころの作品であるとしてもいいようなものだった」と記し ている。19) わがミラ−の第2の主著『歴史的考察』(A乃 ガ吉ぶねγ払が1れ紺=〃’〃わ

English Government,1787,2nd ed.,1790,reV.ed.,1808.)は,ホワイト

モスとミルヒ.ユーーでかかれた。それは,冬季でほ,他の仕事が読書や著作出版 の準備作業をさまたげるからであった。20)「みずからのこころの作品」は, 「みずからのこころの作品」たる土地から産出したというぺきであろうか。 18)さきにもふれたように,ミルヒ.ユーをひきはらう理由のひとつに,「邪魔になる」 (クレイグの説明)というのがあった。これは,ミルヒュー自体の改長の邪魔になると いうことなのだが,甥叱よる改艮をさまたげるともよめよう。もっとも,レーマンほ, ミラーがミルヒ.ユーで夏をすごすのは,1784年ののち,つまり,1785年からであるとし ている(W.C.Lehmann,OP.Cit一,p”27)。 19)J小 Craig,q夕.cit.,ppり1ⅩⅩi−1ⅩⅩii. 20)乃よd.,p.lxxiii.

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ミラー夫妻とその家系 一息ヲー 要するに,叔父ジョンは,物心両面にわたる「こころの作品」の滋味あふれ る貴重な種子をあたえたのだった。 弟ジーエイムズ,つまり,わがミラーの父も,また,兄におとらず,きわだっ た人物である。さいしょの赴仕事件にたいす’る沈着な処理と手腕は,人格の高 潔さをものがたるし,実家の猛反対をおしきって結婚する妻の態度から,信頼 紅たる毅然とした男性としての魅力もよみとれよう。 息子の職業選択にさいして,かれは,きわめて二,寛容であった。父は,自分 の誇りとする聖職により,大いなる幸福と尊敬とをかちえてこいたので,息子も これをつぐのがいいとかんがえてほいたが,まったく,こだわらなかったので ある。反対ほ.,むしろ,友人のするところだったという。21)こ.れは,いかにも, おどろくべきことである。息子の結婚にさいして,また,転じて.法学教師にな るときにも,父は,おなじ態度であたたかくみまもったことであろう。 弟ジ.エイムズほ.,スコットランド教会(長老教会)の牧師であり,長い在職 中を通じてグラースゴクおよび.エア宗教会議内で活躍,とりわけ注目されるの は,このグラースゴク宗教会議で1742−8年頃,近くのグムバスラングを中心 にスコットランドで活発だった汐ヨ−ジ・ホワイトフィ・−ルドの巡回説教戦術 に反対する運動を指導したことである。当時,おおくのものは,その戦術が地 方教区の生活を乱して.いるとかんじたらしい。22) ジェイムズの妻でありわがミラ−の母アン・ハミルトンの実家ほ,ラナ−ク レャでの相当の家柄であり,名望家ミ.ラーをはるかに凌いでいた。そうした家 庭にうまれたかのじょがどのような経過をたどって父ミラーと知りあい,周囲 21)乃よdリ pp■ Ⅴトvii.なお,のちに長男ジョンの継承しなかった聖職を次女アンの婿 ハチスンがついだ。注23)をみよ。

22)Henry MoncIeif董We11wood,Li.fb and WYitings qf−JohnEYISkine,Edinburgh, 1818,pp‖10−15and Notes..cit。in:W‖C.Lehmann,ゆ.ciiい,p。411.スコット ランドにおけるホワイトフィーールドの運動については,つぎのものが有益である。

Robert Chambers,Domesiic Amals ofScotland,1859−61,Vol.Ⅱ,p.606ff.; Charles Rogers,SocialLifbin Scoiland,1884−86,Vol.Ⅱ,pp.148−9.;Henry Grey Graham,TheSocialエifeofScoilandiniheEighieenth CentuYly,2nded, 1900,Vol.Ⅱ,p.109ff

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香川大学経済学部 研究年報 2 J962 ー・∂4− の蛾烈な反対をしりぞけで結婚する決意をもつにいたったかの委細はわかって いない。そのごの人生は.,実家との絶縁状態におかれたという事実とあわせ て∴ これほ,かのじよの勇気と信念の度合を知るに十分な事件である。かのじ ょは,ジ.‡イムズとのあいだに4人の子供をうんだ。2き) 1いJolln 1735年6月22日垂。洗礼命名日不詳。1801年5月30日死。 2一・拡ar思aret1739年1月生。洗礼命名日および死亡年月日不詳。幼少時死亡。 3.AnIle 1744年5月7日生。洗礼命名日および死亡年月日不詳。 4”Arehibald1748年11月5日生。洗礼命名日1748年11月13日。1776年死。子 なし。 ジョンほ.,こうした叔父と父母の薫陶をうけて成長した。家庭の空気と構成 ほ,かならずしも,調和のとれた安穏なものだったとはいえないようにもおも う。叫 しかし,そのために,個性的な8人の大人は,それぞれの意味で,ジョ ンの性格と行動のなかに継受されて行く品性と風格をそなえていたといってい いであろう。果断かつ堅固なジ ョンの非凡な人格は,家庭的にいっても,忽然 としてこあらわれたものではなかったのである。 ⅠⅠⅠ わがジョン・ミラー(John MillaI,1735・−180】)のうまれたのは,1735年6 23)W,C.Lehmann,q?”Cit”,p.411.4人のうち,i>ヨソをのぞけば,妹アンが重要で ある。かのじょはアリグザンダ.p・ハチスン(AlexanderHutchison,生没年不詳)と結 婚した。ノ、チヌンは,長男汐ヨンの継承しなかった聖職者として,さいし上は,義父の ハミルトン第2教会,ついでハミルトン第1教会に赴任した。また,かれは,当時の慣 例であった学外からの学部長として,1782−4年,1786−8年,1790−2年,1794−6年にかけ てグヲ、−スゴク大学に在兼した。Cfい 乃査d」,p.44nけ かかる義弟をえたジョンと父汐 エイムズは,後顧の憂をもたなかったであろう。 24)じつほ,わがミラーにたいする父母の感化紅ついて,奇妙にも,クレイグは,具体 的に記述しないし,ミラ、−の両親にたいするかんがえやおもいも,いっさい,記録する ところがない。叔父への言及に比し,あまりにも,そっけないあつかいをうけているう らにほ,なにかが秘められているのだろうか。レ−マンですらも,「かれほ,同時に 〔叔父の教育とともに〕,両親から聖雷の敬えとスコットランド教会の信仰教義をつちか われたであろう」と推察するにおわっている。Cf.W.C.Lehmann,PP”Ciiu,P.11小

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ミラー夫妻とその家系 ・−35− 月22日であった。この日何ほ,クレイグの侍記や墓碑銘など同時代の資料か ら知られるのであって,・エディンバラ戸籍登記所に保管されていたほずのもと の教区戸籍簿は紛失したらしく,受洗命名日ほ,げんざいのところ,不明であ る。うまれたところは,エディンバラとグラースゴクのはぼ中間にあるラナー クレャのショツ教会牧師館であった。26)かつての牧師館の1部であった長いへ いが,いまは,あたらしい牧師館のうしろにある庭のへいとなって,なお,現 存しているという。これは,1700年の日付をもつというから,ミラー生誕にゆ かりのあるはとんど唯一・の旧跡であるらしい。2$) 1746年,グラー・スゴク大学入学ごほ,じつに当代の巨人たちといわれる人物 と接しえたが,そのうち,血縁にあたるのは,ウィリアム・カラン教授であ り,親類のわかい学生ジョンほ,みずからの生活態度と教養の形成にあたって, 25)父ジェイムズのさいしょの赴任地でありわがミラーの孤々の声をあげたショツ教会 について:は,すでに記した赴任事件とともに,もうひとつの有名なエピソードが想起さ れなければならない。 宗教改革時代以ご,聖ざん式は,平日にとりおこなうことになったが,やがて,それ は日曜にあてられ,月曜日は感謝祭のためにのぞかれた。1630年6月20日,聖ざん式に あつまったショツ教会の群衆は,教団のやり方に抗議し,わかい牧師でのち紅有名紅な ったかのジョン・リグィングストーンの熱狂的な説教をきいて,その場をたち去らず, ついに夜をあかしてとどまったという。翌朝,.リゲイング.ストーンは,ふたたび,説教を 再開,500名の会衆はその卓抜な説教にひきつけられ,ようやく,その興奮からさめた といわれる。そのとき,聴衆のなかに・エディンバラに旅する3人のグラースゴクのわか ものがいて,朝食と属の休息のために,偶然,足をとどめたにすぎなかったのが,いた く感動してしまい,もはや,エディンバラでの旅行はおもしろくなく,ただちに帰郷し, 強烈なキリスト者になったという。この事件は,聖ざん式につづく月曜礼拝のさいしょ の事例であるとされる。この‘revival at the Xi【k of Shotts’については,R.

ChambeIS,掛cii.,Vol.Ⅱ,p.41ff.;C.Rogers,噌.cii.,Vol.I[,pp.127−81; G.D.Henderson,RehgiousLifein Sevenieenth−CentulyScolhnd,C.U‖P.,1937,

p小194‖ などをみよ。

まことに由緒ある場所に生をうけたのが息子ジョンであった。 26)W.C.Lehmann,ゆ.cii.,P.10.

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香川大学経済学部 研究年報 2 ヱ962 _β6− おそらく,教授夫妻の気品にうごかされたととであろう。27) 学生ミラーほ,勉学から解放される夕方には,しばしば,グラースゴウのク レイグ夫人の家紅やってきた。夫人の長男ほ商人でありながら,きわめてこ学問 好きで,その家には,さまざまの職業をめざしながらも共通して.研究心にとむ 青年たちがあつまり,討論をたのしんだという。ミラーーほ,足しげくかようう ちに,夫人の娘マL−ガVッ トクL/イグ(Margaret Craig,Cu1785−95)に・つ よくひかれるようになり,28)1759年10月10日,エディンバラで結婚した。29)とも に24才であった。80) そのころのミラーの様子は,じつは,十分に知られていない。】746−51年に かけての約6年間ほ,おそらく,グラースゴク大学の学生(Arts course)と しですごし,1760年の中頃に弁護士となるuスコットランド用語法のいわゆ る‘passingadvocate,一約2年まえ,1すなわち,推定ではⅠ757−58年(22才 または28才頃)の2年にわたり,スミ.スの紹介でかのダイムズ卿の家にすみこ み,その息子汐ヨ叫ジ・ドモランド・ホームの家庭教師であった。$1)とすれ ほ,1751年から1757年まではなにをしてこいたか。レ−マンの推測ほ,こうであ る。32)第1に,1751年には,こ.の年に母校にかえった論憩学教授アダム・スミ スの講義償出席したはずだし,翌年以どの道徳哲学講義も聴講したにちがいな 27)丁、CIaig,β♪cよf,pp.iトiii.また,別稿でみるように,カラン教授夫妻がその娘を 学生の長男たる同名のジョン・ミラーに嫁がせるのも,本人自身の俊秀やかれの祖母を とおしての姫府かんけいなどにくわえて,学生時代からめんどうをみた父親にたいして 厚い信頼をよせていたからでもあろうか。 28)Ibid‖,Pp。iiiand x 29)W=C.Lebmann,砂(∠fl,p・16 30)妻マ−ガレットの正確な年令は不明である。「かれ自身とはぼおなじ年令の女性」 というのが,クレイグやレーマンの記述である。「ほぼ」ほクレイグでほ‘neaI】y’,レ −マンでほ‘about,となっている。Cf.J.Craig,qP”eil,pnX;W小C”Lehrnann,砂 c査≠.,p.26い他方,かのじょの墓碑銘にほ,「1795年7月5日死去。享年60才」とある (ル柑.,p‖413一)。わたしほ,やむをえず,推測によって,ともに1735年うまれであると しておく。 31)乃i−d.,pp.11and16−7 32)J∂∠dい,pp.16−7

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ミラー夫妻とその家系 −37−・ いが,わかきミ.ラ−は,すでに,AItS COurSeをおえていた。第2に,ミラ・− は.そのArts courseの修了ごに開講されたリンズィの法学講義に出席したとつ たえられる。33)滞3に,クレイグは,クレイグ夫人の家にやってきて「議論に花 を咲かせたミラ・−をその学生時代だとし,なお,その席上,かのウオットがあ らわれたとかいている。ウォットがグラースゴクに屈をかまえたのは,1754年 であった。また,第4に,当時は,ふつう,弁護士をめざすものほ,‘passing advocate’にさきだ/つて,すくなくとも,5年間,弁護士事務所で見習をやら なくてはならなかったほずで,わがミラ・−も,その例外ではなかったに相違な い。以上のことから,ひとつにほ.,われわれの利用しうる記録の示すよりも, もうすこし長期にわたってグラ・−スゴク大学でみずからの個人的勉強に・はぜん だということ,ふたつは,弁護士たるケイムズ家の私教師になったのは,1757年 ないし17さ8年より,いくらか,まえのことではなかったかということである。34) この推定がただしければ,給個当時のミラ−・は,・エディンバラの弁護士事務 所で訓練にほげむ青年であった。 そしてようやく,約半歳ごにおなじエディンバデで弁護士となったのだが, さらにその翌年,1761年6月2日,法学教授ノ、−キュ.リーズ・リンズィの死去に ょって,8週間とたたぬうちに,後任の椅子についた。36)わかき弁償士ミラ− の就任はど,グラースゴク大学法学講座にとって絶大な意義をになったものは・ なかったはずなのに,またもや,友人はおどろいてしまった。かがやける将来 を約束された有為の再年弁護士が,収入もすくなく,みはえのしない−・介の法 学教授に甘んずるとはなんたる野心の欠如であることか,とあきれかえったら しいのである。36)しかし,ミラ−の胸中にほかれなりにひそかな決意と期岸が

33)MS.,LetterbyDr‖Ja:n3S Wodrowtothe Earlof Buchan,9th May,1808

cit.in:David MuI工・ay,〃あ緋廉s0./一触OJd C∂Jゐgβ〃/■GJα曙0ぴ、S〃刑βC血ゆ物Si〝 班β月毎加.γ0.ト侮イ履脚・Sよ′γ,1927,p220n 3墾)この推定ほ,ケイムズ家にすみこむのは私教師のほかに,みずからの弁護士修練の ためだということをふくんでいるようにおもわれるが,レーマンほそのことにふれな い。 3う)J.Coutts,吼C紘,p・231”;W”CLehmann,砂・Cil‖,p…19 35)J.Craig,qうcith.pp.ix−Ⅹ.法学教授か椅子は,当時かbりばえのしない地紋にす

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−3∂− 香川大学経済学部 研究年報.2 ヱ962 あった−まず,いかに有能であっでも,わかい弁護士では家族を扶養するの

は困難であり,しかも,かれと

くなかった。法学教授の給料は,たしかに,おおくはないが,それでも,当分 のあいだは,この方が前者にまさって.いるのだし,自分が努力しさえすれば, 学生数もふえて.報酬もおおくなるはずである。それに,教授の椅子は,華麗で はないが,また,卑しいわけではない。むしろ,自分が,生来,愛好してきた 法と統治紅かんする思索そのものが本業となり,所得のみなもとや将来の信望 の土・台にもなるのだから,これはど幸福なことほないとかんがえた。37) 家族の扶養,および,趣味とパンの−・致のうち,いずれに重点があったかとい えば,両者だとこたえるはかなさそうである。後者はのちの生涯が如実紅もの がたっているし,前者についても,結婚ご10カ月たらずで,丁度,弁護士・になっ たころ,良男ジョンがうまれているから,あきらかに楽な経済状態でなかった はずである。あっけにとられた友人たちほ,じつは,かれの家族にたいするつ よい愛情,独立心,賢明な職菜選択力をみぬかない浅薄なやからだった。もは や,学生としでではなく,26才のわかわかしい青年教師として.,妻子をつれた かれは,ふたたび,グラーースゴクにかえって:きた。居をかまえたところほ,当 時の慣例である大学構内の教授宿舎の・一・角であったとおもわれるが,88)学期の ぎなかったが,弁護士から判事へのコースほ栄光の道であった。しかし,こうした世 間の通念とは別紅,グラースゴク大学当局(理事会)は,そのポストをきわめて重要な ものとみなし,リンズィの後任には有能な人物を,即刻にもむかえたいとねがってい た。Cf.J.Coutts,q♪”Cit,,ph231・;W.C、Lehmann,砂Cii.,p。19 37=一ノ Cはig,砂.df‖,pp・Ⅹ・Ⅹin 38)教授宿舎のなりたちについてほ,D・Murray,触,Cii,pp.134−35and?68ff. ミラー夫妻が,当初,いつどこにうつりすんだかほはっきりしない。グヲ−スゴク で,やがて,任命状もわたされ,教授就任の公開講義もなされ,宣誓もおこなわれたの だから,想像では.,1761年6月,赴任と同時にやってきたにちがいないともいえるが, 6月ほすでに夏休みにほ.いって−いるはずだから,単身赴任だったといえなくもない。 レーマンのあげている資料では,1764年3月8日(University Manuscripts,VOl 31,fo15,8MaI■ch176り に構内宿舎にすんでいたこと,マレイの記述では,1790 年3月13日に32才たらずで死んだ解剖学ウィリアム・ノ、ミルトン教授(William Hamil− ton,1758一釦)のあとをついで,1一宇儲乾すみついたことが知られる。この1号館は,

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ミラー夫妻とその家系 −39− ひらかれない長い夏やすみ叫毎年5月末から11月初旬まで−一には,はじめ は父のいるハミルトンの牧師館,さ9)っぎに例のホワイトモス農場,40)さらに1784 年以ごほミルヒ.ユ.−ですごすのがならわしであった。41) 教授としてのミラー・の名声は.,みずからの希望と決意常.そむかず,スコット ランドほもとより,イングランドやとおくヨ・−・ロッパ大陸紅・およんで行った。 その力づよさに・まけてはならじと,愛情あふれる家産のなかでは,はとんど, 毎年のよう軋乳児の泣きごえ.が,あたかもピアニソモからフォルタィレモにう つるオーケストラのごとく,くわえ.られた。マ・−ガレットほ.,さぞ,育児に.お われたことであろう。さきにうまれた長男ジョンをふくめて,都合,18人であ ハミルトンがその「蓋をまずしい病人や医学生のための施薬所として使用していたもの で,ひろびろとした便利な侶舎であったらしく,当時のならわし−ひとつ紅はグラー スゴク大学伝統の人間敦育,ふ七つには貧掲な教師の姶固をおぎなう収入源としての制 度(後者.こついて:は,.T C工aig,掛Cit一,p・lxvl;Gladys Bryson,Manand Societγ: 了ⅥβSニOffよ頭」両虎γツ0./紘=砲弾紳助Cヱ〝紬γγ,Pェinceton,19皇5,pい8.)}でもあ ったが,教授を慕う学生たちが寄宿した。メイトランド卿(Lo工d Maitland,第8代ロ− ダデイル伯),デイゲイッド・ヒ、ユーム(かのとユ−ムの甥)ともうひとりの学生,1799 年匿.は,かのウィリアム=フレダリック・ラム兄弟(第2代メルバ嶋・ン子爵,第3代メ ル′く−ソ卿)と別荘ふたりの学生が同宿したとい■う。寄宿生のあるものほ,窓ガラス紅 自分たちの名をきざみつけ,18ま8年から52年:こかけてここ紅すんだアラン・トムスン教 授(わがミラーの孫,専攻解剖学。別稿紅詳述)は,建物がこわされるときに,これを 保存するつもりだったのが,作業員があまりにほやく,とりのぞいてしまい,かれがや ってきたとき,ガラスはすでになかった。かれの行鞄は,祖父にたいする敬愛◆こよるの であろうか。Cf.D.Murray,qP”C紘,ppl22ト2う,397−98,45:)and55S.;WC. Lehmann,PP.cit。,pp.19and27 なお,マレイは,ローダデイル伯がヒュームや他のふたりの学生とともに,ミラーの 寄宿生になった期間を1777−79年としているが,ハミルトンほあきらか紅90年に死んで いるから,そのあいだは,別の宿舎だったのだろうか(Dr.M11r・工・∂y,0♪c∠才,pp.7, 176and556.Cf.JCoutts、砂.cii.,p‖500.)。 この記念すべき1骨盤をふぐむ教授宿舎とその生活,さらに,これと密接なかんけい をもった学生生活についてのべるべきことはおおいが,他の機会をえたい。 39),40)J.Craig,qP。Cit,p.1ⅩViii. 41)W.C”Lehnann,Obcii。,p.27.

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香田大学経済学部 研究年報 2 J962 ー4〃・−・ った。42) 1=John 2巾J8meS 3∴Mary 4… Amn 5.William 6..Mary 1760年7月27日生。洗礼命名日不詳。1’797年亡命先のアメリカで死 去。48) 1762年6月10日壁。洗礼命名日1762年6月14日。1838年死。 1763年5月8日生。洗礼命名日1763年5月18日。幼少時死亡。 1764年6月15日生。洗礼命名日1764年6月23日。死亡年月日不詳。イ4) 1765年5月24日生。洗礼命名日1765年6月3日。1838年3月14日死 (白殺)。」う) 1766年4月11日生。洗礼命名日1766年4月24日。1791年夏死。 7.Aretlib81dlT67年1月26日生。洗礼命名日1767年5月9日。死亡年月日不詳。48) 1768年4月12日鐘。洗礼命名日1768年4月27日。死亡年月日不詳。 1769年6月1〕月生。洗礼命名日1769年6月19日。幼少時死亡。 1771年4月29日生。洗礼命名日1771年5月11日。死亡年月日不詳。 1775年11月21日生。洗礼命名日1775年12月1日。死亡年月日不詳。47) 1776年10月17日生。洗礼命名日1776年10月26日。死亡年月日不詳。48) 1778年4月29日生。洗礼命名日1778年5月13日。死亡年月日不詳。49) 8り Agnes 9い Gabriel lO,拡argaret ll.Janet 12u Ⅱelen 13 Je8n 第1メアリーとゲイプリアルをのぞく11人叫が元気にそだち成人しえたとい 42)乃査d.,pp.26−7and411ただし,死亡年のあるものは,筆名の第2次資料にもとづ く検証によるので,正確でないかも知れない。 43)JnG…Fyfe(ed.),ScofiishDiariesand Memoirs1746−]843,Stirling,19生2,p・ 315n.クレイグやレーマンほ,かれの死亡年に言及しない。 44)かのじょと末の3人娘ほ,クレイグの記述とレーマンの探査でほ,すべて未婚で, 父の死ごも,その道言によって,かれおよぴかのじょらの愛してやまなかったミルヒユ. L−・ですごした。CflJ.Craig,ObCiiい,p.CXXViin・

45)死亡年月日と自殺の推定は,Henry Mannes Chichester,William Millarin:

か畝軌沼の・.γ∂./入b抽乃α/βよog′〃♪ゐ.γ 紅よる。 46)ただし,クレイグの説明から,父の死ごも活躍したことほ,明白である。 Cf..一. Craig,姐 Cit,,pl・CXXViiIlい 4ノア),48),49)注4隻)をみよ。 50)11人のうち,長男ジョン(弁護士),次男ジェイムズ(グラ−・スゴク大学数単数授), 三男ウィリアム(イギリス砲兵連隊旅団長・陸軍中間),四男ア−チポクルド(弁護士), 四女アグニス(グラースゴク大学道志吾学数段ジェイムズ・ミルソと結婚),五女マーー

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ミラ一夫妾とその家系 ・−JJ一− うに.ぎやかな大家族に,家族間然の寄宿学生がつめかけたのだから,さしもの 1号館も,狭陰だったのか,子供たちのなかには大きくなるにつれて別の場所 に住居をもとめるものもいたらしい。叫 夏やすみになると,ハミルトン,ホワイトモス,ミルヒュ一に移住する大家 族の壮観がみられたことであろ・う。 ミラ・一夫妻は,こうした子供たちと学生群にかこまれて,すこぶる,串福だ った。夫は,自制心のつよい男でほあったが,快活できわめて家庭的な人物と いわれ,子供らの教育紅はひどく熱心で,かれらが成長すると,しぼしぼ,自 分の仕事の内実をうちあけた㌔)妻は,18年間に.18人の子供をうむといった健 気な気性をもつのみならず,‘high1yinteliigent’と‘many fine qualities of Character’とをかねそなえたまれにみる才媛であった。53) そこで,夫は,終始,「みずからの学問的著作にかんしてミ.ヲ一夫人の意見 をもとめるのをつねとした」し,批判能力をもつはどに.わが子の成長した第2 の主著『’歴史的考暴』をまとめるころ紅ほ,その草稿が「いつも家族の話題で あり,そこにふくまれるいっさいの所説と思想が自由に酷評された。…かれ は,折に・ふれて,もっともおもしろいさわりの節を家族によんできかせ,かれ らのさまざまの批評を注故ぶかくきいた。こうすることで,かれと家族のあい だに.絶えることのなかった相互信頼をつよめるのみでなく,かれみずからの思 索では眼のとどかなかったどんな小さなあやまりもみつけだし,子供たちの判 断力をやしないながら,試論をまとめたのであった。」54)これは,ホワイトモス やミルヒ.ユ.−でのたのしいひとこまだが,ハミノレトンや大学宿舎でもおなじ光 景がくりひろげられたことであろう。 また,1799年,寄宿生のひとり弟のラムは,晩年のミラー家のありさまを母 ガレット(エディンバラ大学外科学教授ジョン・トムスンと結婚)の6名が重要で,と りわけ,四男をのぞく他の5名が歴史的な意味をもつ。かれらにかんする叙述は,稿を あらためてなされる。 51)WいC.Lehmann,PP.cit”,p一,27 52)乃寝.,pい81 53)乃≠d.,p.26 54)J.Craig,q?.cit.,Pp.lxxiii−1ⅩⅩiv

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香川大学経済学雄 研究年報 2 J9∂2 ー42_ 宛の手紙でかいて.いる。66)一00 マレイの記述から推察して,おそらく,1号館 でのことであろうー。 「〔ここ.で昧卜すぺての女たち〔ミラーの娘たち〕が 哲学と学問へのあまりの熱病にうかされてこいます。こんなおろかものの−・団 に.であうなんて,まさか,ぼくの宿命なんぞでほありますまい。‖…1かのじょ らほ,おしなべて,哲学者なのです。」5¢)っづいて,かれほ.,娘のひとりが「も のすごい美人」であり,兄のラムが,いつもこうした娘たらに.詩をよんできか せていますとのぺたのち,「■ぼくたちは.,招かれて富裕な商人の家で家族のよ うに.食事をしたり,家では−・再ならずパーティをします。晩さん紅は乾杯し, お茶のときはケ−キを順次に.配ります。満腹したら,スプーンをコップにいれ

ます。それほ,ハトフィールド,

イートン,グムブリッジでのぼくたちのふる まったやり方と,まったく,おなじです。ぼくの気づいたもので,他紅みられ ないはとんど唯一・のやり方がありますが,それはいたるとこ・ろでとりいれられ るぺき立派なものです。チ・−ズのあと,かれらほケィスキ−やブランディを順 々にデ−プルに配り,座のものは,男も女もいっしよに,酒欽にひたります。 これは,非常に愉決で容易に気分をうきたたせ,しばしば,さまざまのおどけ をいざないます。ことば軋ついても,かれらはニュ∴−カスルでよりもはるかに すばらしいイギリス語をはなしますので,ずっとたやすく,理解されます。」 いかに.も学者の家産らしい理窟っぼさと談笑が,16〕年・をすぎた東洋のわれ われの浪に.はうふつとしてくる。専門の法学はもちろん,歴史や古典,詩や自 55)WC”Lehmann,Obcii,pt82・手紙の筆者をレー・マンlこしたがって弟のフL/ダリ ック・ラムとしたが,マレイほ,兄ウィリアム・ラムだとかく0 前者は,芋版の出所 (脇伽αγ〝ブタゆク㌢・・ゞ,p.5)をあげるが,後者ほ指示しない0後者に欠落している詩をよ む兄の滴写は,あきらかに,弟でないと不可龍なことであるが,前者の引用は,手紙の 前半からなかはどにくわしく,後者は,やや後半紅忠実なので,わたしのはんやくは, 両者に依存した。Cf‖D…MuI工’ay,β♪・C才J・,p398・ 56)レ−マンは,娘たちが学問熱のあまりコチコチで台なしだというラムの嘲笑紅つい て,「この‘おろかもの’をあまりに字義どおりに解してほならないこと,そのような ‘哲学,がこの巨大家族の生活から,いっさいの湯気さをうほったのでないことは,つづ いての観察湛示される」(WClLehmann,砂Cil一・p”82)という。たしかにそう紅 ちがいないが,われわれほ,むしろ,ここにミラ−の娘たちの生夷面目すぎる生態を垣 間みて,その父母の性格や教育方針を連思するたのしさをうしないたくない。

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ミ.ラー兵嚢とその家系 −イ3一・ 然科学と,該博な知識と教養をもつ父親ミラーの話術は,あるときは,−・同の 耳をそばだたせてしずまりかえらせ,また,あるときには,満座の爆笑をさそ ったであろう。「ミラー氏ほ,かれのまわりの連中との親交になみほずれてう まかった。子供たちにたいしてサら,もっともたのしい仲間に.なった。」ら7) しかしこの幸福そうなミラ・一家にも,第1の不幸がまちうけてこいた。1791年 の夏,三女メアリが,結核で死んでしまったのである。∂8)35才の娘をうしなっ た両親と兄弟姉妹のなげきは大きかった。あるいは,すくなくともひとつの理 由は,この悲歎をいやすためだろうか,翌年の5月初旬紅,講義をおえたかれ は.,すぐさま,妻と娘アンをともない,ロンドンに旅だった。59)かれは,両院 での論争をまのあたりにみ,まえまえから畏敬してやまず『歴史的考察』と 『クリトクの手紙』をささげたフォク.スや反対党の領袖とはじめて.接したり, かつての弟子ロ−ダデイルやクィリアム・アダム,終生の友ジョン・ム−アに 再会しえた。こうした顔ぶれからかんがえても,この旅行は,愉快きわまるも のだっただろうが,60)妻と二女をつれて首都を案内する夫として,また,父と 57).lい Cr扇g,噌.c∠f,p.XCiii. 58)ル摘,p.CXXiv 59)撤d”,P.ⅩCil;WいC。Lehmann,OP.cii.,27−8.ミラー ほ,その生涯紅おいて,グ ラースゴクとその周辺から,あまり,歩をのばさず,このロンドン行も2度のうちのひ とつ紅すぎなかったし,当時の著名な学者として−ほ,めずらしくも外国旅行もしなかっ た0さいしょのロンドン行ほ,1774年で,2カ月間の滞在中,もっぱら観光見物にすご したらしく,グムブリッジに小旅行したり,帰途,オクスフォ−・ド紅3週間,足をとど めた0 これは,有名大学の現状をみること,故国ではその著沓を吟味する機会のなかっ た若干の近代初期ヨー・ロッパ史の著者たちを訪問することが,目的だったという。これ 紅くらべれば,今回のロンドン行ほ,目的も成果も前回をほるかにしのぐものであり, ミラーと妻子にあたえた意義は,はかりしれなかったとおもわれる。 60)とりわけ,ロンドン在住の医者ム−アとの再会は,旧交をあたためるということば紅 ふさわしい。ム−アとミラーは,わかい時分から友だちであり,しかも,両名の安同志 も,すでに結婚まえに友人であり仲間だったので,たとえば,ムーアが大陸旅行中,ム −ア夫人は,しょっちゅう,大学宿舎のミラ」一家をたずねてきたり,ミラ」−がその息子 たちの教育指導にたずさぁるとか′帰国したム−アがグラ−・スゴクにやってきたら,ミ ラ−とすごし,前者がロンドンに.移住すればたがいに手紙をかわすなど柵ミラーは, ほとんど,だれとも,仕事のこと以外紅は,手紙をかわさなかったが,唯一・の例外はム

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香川大学経済学部 研究年報 2 _JJ__、 ヱ.962 してのよろこびも,格別なものだったであろう。 だが,一・薙さって.また一・灘のことわざのように.,さらに,第2の不運がつづ いた。妻の病気である。61)それは.くるしみにみらた長い闘病であったらしい が,かのじょほ弱音ひとつはかずに,上きげんでたえぬいたという。6j)1795年 7月5日,83)看病むなしく,かのじょは逝いた。かれに.とって−,生涯の伴侶で あり34年のあいだ全面的信頼とほげしくもこまやかな愛情とをよせたマ′−ガレ ットの死は,クレイグによれば,はりさけんばかりのふかいかなしみだった。 「こ.のいたましいできごとの翌日,かれをたずねると,例によってみずからの 〔.たかぶる〕こころをおさえ.ようとしていた。かれほ,かなしげなおももちな がらも,毅然とて二,わたしに妻の死をかたった。かれは,あたかも,大いなる 仕あわせをうばわれても,いたずらに・おもいわずらわず,さりとてストア風の 無関心を自負するのでもなく,いままでどおりその家族と友人たらの愛につつ まれて事受してこいる慰撫にお礼をいう男のようであった。」朗) じつほ,妻の死のかなしみもつかのま,第3の悲報一亡命先での長男ジョ ンの急死〟がもたらされたが,それは別稿にゆずり,かれ自身のさいごにつ いてこのべよう。 わがミヲ−ほ,もともと,活気あふれる健康そのものの人物だった。「そ の顔つきほ,おどろくはど生気にみち表情にとんでいた。身長はふつう。から だつきほ,上品というよりは強健で講動的な筋骨賀の」「闘士タイプ(athletic −プとのやりとりであった一夫安ともども,すこぶる親しかったのだから,ミラ−ほ むろんのこと,妾マーガレット・のよろこびもひとしおであったと推察される。Cf〝1J. Craig,OP.Cit,pp.XCii一ⅩCiiiu 61)いつごろ病気拓かかったかはわからない0クレイグは,三女の死ご,‘notlong af・ teI’とかいているが,翌年にはロンドン旅行があったのだから,常識的にほ,旅行ごに 躍病したとかんがえられる。しかし,旅行中すでにおもわしくなかったのかも知れない。 なお,病名も不明。Ci.J.Craig,咋Cit,p・CXXiv小 62)一丁.CI■aig,郎=勇,p.CXXiv・ 63)乃g♂い,pいCXXiv..は1795年夏とかいているのみなので,やむをえず,日付は墓碑銘 紅よった。死んだ場所もわからないが,死亡日からすれば,あきらか紅夏休み中のミル ヒ.ユ∴−であり,長わずらいから察してもミルヒコ.−であっただろう。 64)乃よd・,pp.CXXiv・CXXV小

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ミラー・夫妻とその家系 ー45−・ f0Im)であった。」β5)かれは,年令にふさわしからぬ機敏さと克己心,行動力 をもっていたのである。だから,友人たちほ,当然ながら,かれほ長生するに ちがいないときめこんだという。68) 事実,かれほ,「虚弱体質やなまけた習慣紅よる小柄,生活のたのしさを減 じつつ人々を老いこむ小病」軋は,いっさい,無縁であって,「つねに精力的 かつ敏捷,元気いっぱいなので,風さいほわかわかしく,体力は.−一向に‥おとろ えをみせなかった。」即) そうしたさしものかれにも,くるときがきたのである。1799年もおしせまっ た年の暮,象徴的に.もわが18世紀のまさに.終焉ちかく,きわめてこ危険な炎症に かかった。けれども,数週間の大病もすぎ,「かれはかんぜんに恢復したよう にみえた。かれの様子を注意ぶかく心配する人々ほ.,その足どりには〔すで に〕わかわかしい弾力のうしなわれたこと,もはやl無理ほできないからだだ とかんづいたが,他のものには,いままでどおり,壮健で楕力的に∴給もわれ た。」¢8) こうして,−・時,小康をたもったかれは,1801年5月のある日,健康状態申 すぐれてよかったためか,「天候の変イヒからくる悪質な結果を懸念することな く,軽卒に.も,みずからを数時間紅わたって:暑い太陽下にさらした。」69)それ は,かれにとっては,自分のしなれたなんということもない行為紅すぎなかっ たといわれる。70〉 しかし,こんどは無事紅すまされなかった。「その夜,かれ は病床にふした。病状は,やがて二,もっとも物騒な肋膜炎の徽候を呈した。わ たしは,かれのそばにいるべくもっともつよくのぞんだとき,たまたま,グラ −スゴクからかなりほなれたところ紅いた。わたしは,かれの危篤を耳隠する や,ただちに,ミルヒユL一に急いだ。だが,5月30日,わたしのつく前日,か 65)1bidL,pp∴ⅩCiiiand cxxvii.こうした精博さは,レ−マンの近著の冒頭にかかげ られたタッシ一作の円形浮彫の肖像からも十分に察知しうる。 66)Ibid,pp。CXXVii 67),68),69)Ibid小,pp.CXXViiトcxxviii 70)乃査d.,p.CXXViii.このとき,1799年の大病ごに憂慮する周囲のもののみぬいた老 化現象や,いまだ病ごの技労からす分に脱していなかったからだの衰弱を,かれは不党 にも意識しなかったか,もしくは軽視したのであろう。

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香川大学経済学部 研究年報 2 ヱ962 −46一 の友人は」あのなつかしい最愛の地に.死んだのである。「その終始かわらざる 友情ほ,わたしの記憶にいつまでものこるであろう。」71) クレイグ自身ほ,臨終に.まに.あわなかった。しかし,さいわいに・も,その苦 悩の場にん、あわせた女婿ジエイムズ・ミルソ教授の談話をかれは.ったえる。 − “家族に.とりまかれて:,かれは苦痛と死の予感からくるほげしい試練とた たかったのです。この試練に.かれは勇敢にもたえ.ました。死紅ぎぁの様子は, 生前においてかわることなくもちつづけた才幹に,まったく,ふさわしいもの でした。かれを死においやったひどく不意うちの病状悪化の直ごでしたが,死 を予知したかれほ従容として.これをまちました。焦慮や恐怖のきざしはすこし もみえなかったのです。かれほ,冷静そのものでした。ただ,とも紅長いあい だ清純このうえない幸福をあじわった家族たち,かれらの仕あわせに・とってか れの生涯ほそんなにも大切だった家族たちとの訣別をおもうと,こころいたん だようでした。’72) 人も知るように.,かつて病気ひとつせず老いてますます墾轢というたちの人 間は,ともすれほみずからの年令をわすれがちとなり,その健康を過信して:不 摂生となる。俊敏気鋭の老ミラー(65才)も,やはり,長所を欠点としてもつ 人間らしい人間であった。 死ご約1週間,『グラ−スゴク・アドグァタイザー』紙(CJα∫g8紗A(ねβγ一 放βγ,いまのGJα∫郎紺ガβγαJd)ほ,6月5日,つぎのようなあっさりした死 亡広告をかかげた。73) ‘‘弁護士でグラ−.スゴク大学法学教授ジョン・ミラー氏,ついに30日,ミル ヒ.ユ・一に・て死去。”また,死ごまもなくの『スコッツ・マガ汐L−ン』誌(5c〃fぶ 肋gαg去〝♂)には,わがクレイグの筆紅なる略博のついた死亡告知文がでた。74) この方ほ,当然ながら,死去を意味づけるいささか内面的な記事をふくむもの であった。 その一・節に.,r5)“その死に.より, 家族ほすぐれて慈愛のこもった父を, 71),72)Ibid,,pp,CXXViii−CXXix。 73)W.C.Lehmann,妨ciiい,pP28−9 74)釦血」挽那加略 Vol..lⅩⅠⅠⅠ,1801,pp,.527f 75)Ibidい,p小528.cit.irl:W.C.Lehmann,OP.cii.,p.29.

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−尋7−・ ミラ、一夫穿とその家系

友人たちほ.その交流における生命と魂とを,大学ほその光栄ある−・員を,そし

て,国民はその自由の確固とした進歩的擁護者をうしなった。”

1795年置かなしみのうちにわかれたミラー夫妻は,ここにふたたび,永却の

契をかわすことに.なった。いまおな変すべきミルヒユ−からすこしあるいたと

ころの,ハイ・プランタイアに位置するふるい墓地に行くと,みどり濃い天人

花のかん木や杉木立を背景にして,地面よりはどよくたかめに,平な銘刻の墓

石が水平によこたわっている。右半分にほ,かんたんに,“弁護士・グラ・−・ス

ゴク大学法学教授ミルヒ。.−のジョ∴/・ミ.ラーの霊に。1735年6月22日うまれ

1801年5月30日死去。”7¢)左半分に,ややくわしく,賞讃のこころをこめなが

ら,“マーガレット・クレイグの霊に。ジ′ヨン・ミラー・ミルヒユ−の畏敬し

た最愛の妾であり,13人の子のやさしくもさちおおき母。とりのこされた10人

の子らと夫ほ,かれらの至上の恩人かつ最愛の友のとりかえしのつかない死を

なげきかなしむ。1795年7月5日死去。早年60才。’⊥77)

76)W”C.Lehmann,OZ,.Cii‖,pl29・

77)乃摘.,p.413・みられるように碑文のミラーにかんする内容ほ・,要のものに比して,

あまりにそっけないものである。それは,夫ミラ−の政治的信条への顧慮によるか,た だたんに,婦人礼讃のしきたりによったものなのか不明である。もし,碑銘の作者がク レイグであれば,みずからの血縁であるマ−ガレッt・をたたえることも十分ありうると はいえ,それもかれの上来のべたようなミラL一にたいする態度からみて,うなずけない。 作者および墓石建.立時の経繚が判明すると,なぞはおのずからとけるはすである○

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