自由と幸福
― J・S・ミルの功利主義の検討(1)―
石 川 徹
19世紀を代表する英国の哲学者J・S・ミル(John Stuart Mill, 1806-1873)はその多方面にわたる業 績1によって大きな影響力を持っているにもかかわらず、哲学者としての評価は意外に高くない。 その理由はさまざまに考えられるが、彼の思想がいわば両立できないものを、つごうよく取り込ん でいる、折衷主義者のように見えるということも、その一因であろう2。 思想史的にはミルは、ベンサムを始祖とする功利主義を代表する一人である。ミルはベンサムの 快楽主義に修正を加えたとされるが、究極的な善が幸福であり、ある行為が幸福を増進し不幸を減 らすのに応じて、すなわち行為の有用性を規準にその善悪を判定するといういわゆる功利主義の原 理に関しては、一貫してゆるぎなく主張している。そして、功利主義において幸福とは、還元すれ ば、一人一人の快楽であるにしても、問題とされるのはそれの総和である。幸福の計算に関して 重要なのは、どう数えるかという難問は別にしても3、全体の総和なのであって、一人一人の幸福 ではない。一人の幸福は一人の幸福にすぎないのであって、何ものにも取りかえることのできな い「私」や「あなた」の幸福なのではないように思われる。もちろん、一人一人がみな幸福であれば、 全体の総和は大きくなるはずだが、一人一人の幸福が互いに独立に達成可能であるという想定は現 実の社会を考えるまでもなく非現実的である。よって、功利主義者ミルは、幸福の総和によって個 別の事例の善悪を測ろうとしているかぎりにおいて、個人より社会を優先的に考えているという解 釈の可能性を否定することはできない。 しかし一方で『自由論』4は通常古典的自由主義の古典と考えられており、このなかでミルは提唱 している個人の自由に強制的に干渉することが許されるのは、個人の行為に対して、その行為が他 者に直接的な危害を加える場合だけであるといういわゆる「他者危害の原則」を提示している。さ らには思想と言論の自由を論ずる際には、行為の領域よりもさらに自由な言論が許されるべきであ るとする。いわば、西洋の個人主義のよって立つ基盤となる自由の最大限の尊重がミルの基本的な 原理となっているように思われる。 ベンサム流の功利主義と、個人主義的自由主義は明らかに簡単には両立しがたいように思われ る。もちろん、ミル流の功利主義の修正があるにせよ、この不整合の理由についての一つの可能な 説はミルが折衷主義者であり、全体の理論的な整合性にはあまり注意を払っていないがゆえに生じ ているというものである。しかし、ミルの『自伝』5を読むとまず驚くのは、そこに述べられている 事柄の当否を別にして、彼の驚くべき知的誠実さである。このようなミルの性格を考慮すれば、こ 教育学部 人間環境教育講座
の不整合に見えるものを折衷主義と簡単に片付けるわけにはいかない。それゆえ、古来、この不整 合を何とか調停すべく解釈者たちは努力を続けてきた。 本論文での最終的な目的はそのような試みの一つではあるが、ミルの議論をできるだけ整合的な ものとして捉え彼の基本的な主張が成立するような仕方でミルの議論を理解するためには、何が必 要かを考えてみることである。そのように読解するためにはミルの説にはいくつかの欠落があるよ うに思われる。それを補えば、ミルの主張は整合的に見ることができ、そのうえで彼の主張の妥当 性を検討できるであろう。本研究はその前提を満たすことを目的とするものである。 そして、まず確認しておきたいのは、少なくともミルが主観的には、自らの主張が論理的な不整 合を持っているとは思ってないであろうということである。ゆえに彼自身がどう考えていたかが有 力なヒントとなる。そこで、まず彼にとって幸福観の大きな変化となったと思われるいわゆる精神 的危機を考察してみよう。 1 ミルは周知のように、学校に通わず、また同世代の子どもたちとの交流も持たずに、父親のジェ イムズ・ミルの個人教授によって極めて高度な教育を幼少期から受けた。ミル自身はこのことに対 して比較的肯定的な評価を与えているが、ともかく、ミルは父のこのような英才教育に十分ついて いき応えていたように思われる。それゆえ、ジェイムズ・ミルはベンサムを中心とした政治運動の 若き後継者として、子ミルを考えていたようであり、ミルもその理想を自らの理想として努力をし はじめていた。しかし、その彼を精神的な危機が襲う。ミルが20歳の時である。 そのときの様子を「自伝」においてはこのように記している。長くなるが引用する。 それは1826年の秋だった。私は誰でもときおり、陥ることのあるように、神経がどんよりした 状態にあった。快楽も快い興奮も感じなかった。別のときなら喜びと感じられる気分も、味気な くどうでもよいものになった。メソディストに改宗したものが最初の「罪の自覚」を感じて打ち 負かされた時に普通なるのがこの状態ではないかと思う。こういう精神状態のときに私は、次の ような問いを自分に直接に問うてみようと思いついた。「かりにおまえの生涯のあらゆる目的が 実現されたと考えてみよ。おまえの期待する制度や思想の変革がすべて、今この瞬間に完全に成 就できたと考えてみよ。これはお前にとって果たして大きな喜びであり幸福であろうか」そのと き抑え難い自意識がはっきりと答えた。「否」と。このとき、私の気持ちは自分の内部に沈み込 み、私の生涯を支えていたすべての基盤が崩れおちた。私の全幸福はこの目標を絶えず追い続け ることにあるはずであった。ところが、この目標が魅力を失ってしまった。してみれば、目的に 至る手段に、どうしてふたたび利益があるだろうか。もう私の生きる目的は何一つ残っていない ように見えた。(自伝第五章第二段落) 以上の引用で最も注目したいのは、自分の理想の社会が実現したという想定のもとに、自分が幸 福かという自問自答の部分である。ミルは、これに「否」と答えたことによって愕然とする。これ はいったい何を意味しているのだろうか。もちろん、単に精神的な鬱状態の一徴候と解釈すること も可能ではある。しかし、そのような影響があったとしても、功利主義の最も重要な概念である幸 福に関しての自問自答には重要な意味があると考えざるを得ない。この自問自答を字義どおりに受 け取れば、そこで重要なのは最大多数の最大幸福という功利主義の原理の実現と自分自身の幸福と の関係が一体のもの、予定調和的なものではないという認識である。功利主義ではあくまで総和が 問題である。一人一人はもちろん平等に考慮されるが、それは幸福(快)の担い手であるかぎりに
おいてであり、個人としての固有性においてではない。すなわち、先にあげた個人的自由主義と功 利主義の間の不整合にミル自身がここで気づいたという解釈が成り立つ余地が十分にあるように思 われる。 ミル自身は、これ以降、今まで疎遠であった文学や芸術に触れ、幸福における人間の感情の重要 さに気がつくことで、功利主義の基礎となる幸福観について変更を加えて行く。しかし、一方で、 功利主義自体は手放さずに擁護する6。したがって、彼の不整合は、単なる折衷主義の結果なので はなく、ミル自身の抱いた直観を手放さずに、功利主義を論理的に整合する体系へと仕上げて行く 努力の結果であると考えるべきであるといえる。では、この努力と考えられるもののおおよそのス ケッチを、描いてみよう。 2 功利主義者としてのミルの業績として、第一に挙げられるのは、ベンサムの量的な快楽主義に対 して、快楽に質のちがいを設けて、動物と共通して持つ身体に基礎を持つ快楽と、人間のみが持つ 精神的な快楽を区別し、後者の快楽をより高次であり質が高いものであるとしたことである。その ことによって、功利主義は人間の幸福を不当に低く見ているという批判にこたえようとしたのであ る。ミルによれば、「満足した豚であるよりも不満を持つ人間であるほうがよく、満足した愚か者 であるよりも不満を持つソクラテスであるほうがよい。そして、愚か者や豚がこれと異なる意見を 持っているとすれば、彼らがこの問題について自分たちの側しか知らないからである。比較されて いる相手方は、両方の側面をしっている。」(『功利主義論』7第二章第六段落) だか、このミルの言葉を字義通り受け止めるためにはいくつかの問題点がある。 第一に彼自身が述べていることではあるが、満足した豚であるより、不満足な人間がよいといえ るためには、満足と幸福を異なる概念として捉えなければいけない8。確かに豚を満足させるより 人間を満足させる方がより難しく、多くのものがいるし、また多くの人間は満足した豚との生活よ りは不満足な人間の生活を選ぶであろう。しかし、不満足であることはある種の苦痛であると考え るのが快楽主義の一般的な考えである。それ故にプラトンは『ゴルギアス』において、快楽が善で あることを主張するカリクレスに対して、欲求が一種の苦であること、もって快と苦が切り離せな いことをソクラテスに主張させ、快楽主義を批判したのであった9。また古来さまざまな宗教で禁 欲的であること、欲求をできるだけ抑えることが、幸福への近道であることが述べられてきたのも 同様の理由であろう。ミルのいうように満足と幸福が違うとしたら、彼が考える快楽は具体的には どのようなものであるかが問題である。少なくとも欲求が満たされないということの苦をどう快楽 主義の中で評価するかが問題となる。この評価次第では、功利主義においても欲望を持たないこと によって、不幸を回避するという戦略も認められることになるからである。しかし、これは幸福の 追求を諦めることによって、幸福になるということである。しかし、ミルがこのような方策を認め ているようにはまったく思われない。 第二に、ミルが主張しているのは、精神的な快とは人間だけが持ち動物は持たない精神的な能力 を活用することで得られるものであるということのように思われる。確かにアリストテレス以来自 己の本性を実現することを幸福であると考える考え方は、幸福論における一つの有力な考えであ る。しかし、一般にはこれは快楽主義とは相容れないものと考えられている。さらには、ミルの叙 述は、精神的な快楽はそれだけで端的に動物的な快楽よりも善いものであるとしているように思わ れる。しかし、精神的な快楽のなかには、たとえば、他者への悪意や、権力への欲求など、それを 満たすためには精神的な能力を活用することが必須であるが、それらが快であるがゆえに善である という判断をくだすことには躊躇せざるを得ないものが多く含まれている。ミルは、尊厳の感覚
(a Sense of Dignity)や道徳感情がこのような精神的な快のなかで重要な位置を持っているというこ とを主張してはいる。たしかに、もしこのような感覚、感情が人間に普遍的に備わっているのであ れば、悪しき精神的な欲求は人間を幸福にはしないであろう。しかしながら、そのような説明はミ ルの叙述には存在しない。ただ、動物的な快と精神的な快の双方を十分に知っている人間はみな精 神的な快を選ぶという一種の仮想的な事実をもって、精神的快の優位を主張するだけである。しか し、精神的快の中の区別に関して同じような手続きによって、たとえば悪しき快と良き快の区別を 主張できるだろうか。尊厳や道徳感情に関してさらに別個の論証が必要になるように思われる。 第三には、第一に取り上げたことと関係するが、二つの種類の快を比較しているときに比較され ているのは、本当は何かという問題である。ミルの主張では、つねに必ず精神的な快が選ばれる。 しかし、快が結局において個人の内的な状態として実現しているものであるとすると(彼が基礎に しているのは、連想主義的心理学であるからそう考えざるを得ない)個々の人間が必ずそうすると 考えることには無理がある。とりわけ、個々の快は当然場合によって様々であるから、それらに関 する選択の場合には、経験的に見て、必ずしも精神的な快が選ばれるとは限らない。よって、精神 的な快が優位に立つというのは、個々の具体的な快ではなく、抽象的に考えられた意味での快であ るということになる。そして、それが個々人において選択されるということが実際にはどういうこ となのかをミルは的確には説明していない。それは結局において、彼が基礎と考えている連想主義 的心理学の立場からは快と苦に関して十分には説明できていないということによる。 第四に満足と幸福を区別することを受け入れたとして、また精神的な快と彼が考えているものに 関する価値評価がある意味アプリオリに与えられていることは問わないとして、それでも、なお、 ミルの説にはまだ疑問がある。彼が比較している快というのは現実的な快ではなく、可能な最大限 の可能的な快ということになるように思われる。彼の考えている高次の快楽を実際に手に入れるた めには、高度な精神的能力が必要であり、このような能力を実際に発現させるには、単に自然に任 せていればいいというものではなく、当然多くの精神的陶冶が必要になる。このような最大限の能 力を多くの人間は持ち合わせていない。また持っていたとしても維持することは簡単ではない。し たがって、実際に存在するすべての人間は同一の選択の機会があったとしても常に同じ選択をする わけではない。ミルによれば、そのような選択をしないとすればその人間は、そのような精神的な 快を味わう機会や能力を得ていないからであるということになる10。ここで一つの問題は、本当に このような能力をすべての人間が潜在的に持っていることを事実だとミルは考えているのだろうか ということである。 ミルのいうとおりであるとすれば、功利主義の原理である「最大多数の最大幸福」の一つの解釈 として、人間の潜在能力を最大限に伸ばすということが内容として含まれているということにな る。その点では個性を伸ばすことを重要視する『自由論』の立場と親和的である可能性がある。し かし、たとえば、肉体的な快楽は、ある意味それほどの「多様性」はないように思われる。この意 味での幸福を実現することには、動物に快適な衣食住の環境を提示することを考えればいいように 思われる。この意味での幸福に大きな個人個人の差異はない。もし、精神的な快もある理想的な状 態を設定しうるとすると、幸福の質的な差異においても、実際に最大幸福原理の実現を考える際に 個性はさほど考慮する必要がないことになる。精神的な快が、ミルの考えるような一定の能力の発 達を前提にするようなものであれば、高次の快というのも、つまり一定の人間のあり方を前提とし ていて、『自由論』で述べている個性の尊重というものは、「最大多数の最大幸福」を最大の善とし て前提とする限り、それほど重要ではないものとできる可能性があると思われる。 このように、『功利主義論』のなかで最も有名な節も、そのまま字義どおりには受け取るにはさ まざまな疑問が生じる。しかし、単純にこうした点を不整合とし、ミルを折衷主義者とすることは
簡単ではあるが、ミルの解こうとした問題そのものを回避していることになるだろう。 3 以上の疑問を踏まえると一番大きな問題は、ミルのいう快や苦が理論の中で実際にどのように機 能しているかが問題であるように思われる。その点をすこし考えてみよう。 まずミルの挙げているような精神的な快は、通常の意味での快楽主義とは対立するものと考えら れている。そしてミルがいうように満足と幸福を区別するならば、精神的な快は欲求とは異なる起 源を持つことになり、その正体は必ずしも明らかではなくなる。確かに満足と快楽を同一視したな らば、プラトンの快楽主義の批判がただちに当てはまることになる。しかし、一方で欲求の満足も 我々の実感では当然快である。確かになんとなく気分がいいとか、あるいは心の平静さのように、 具体的な欲望には結びついていないように思われる快がある。しかしながら、肉体的であろうが、 精神的であろうが、欲求の満足が快であるならば、それは幸福としてカウントされなければならな い。そして不満足は苦としてカウントされなければならない。この事実をどのようにミルは考えて いるのか、直接的な言及がない。先に述べたように、精神的な能力の行使や自己実現ということが ミルの言いたい、より質の高い快の中身だとするとミルの主張は人間の快のあり方を十分にはとら えていないということができるだろう。ただミルが、こう考えている理由は恐らく次のようなこと であろうと思われる。 通常快楽がある心理状態だとして、われわれはその快の状態をもたらす原因を考える。それは基 本的には欲求という人間を動かす動機があり、その結果としてもたらされたものに快を感じるとい うことである。しかし、それだけではなく、ある意識状態にあることそのもの、例えば、ある観念 を思い浮かべるだけで、快を与えることがある。それゆえ、欲求という動機を設定しなくても、と にかく快を与える対象そのものがあると考えることはできる。そう考えれば、欲求という心理現象 のほうを派生的なものとして考えることができる。つまり、欲求の結果が快なのではなく、人間が 快を求め、苦を避けるがゆえに欲求が生じるというように、考えの転換をすることができる。た だ、そのように考えた場合、快と苦は人間の意識の状態に相関的な存在者としてではあるが、単に 主観的な存在ではなく、より客観的な実在性を与えられているものように見える。人間が欲求する から快が生じるのではなく、快が存在するがゆえに欲求が存在するということになる。それ故皆が 快を望んでいるということから、快が望ましい唯一のものであるという結論を引き出すことには一 定の妥当性があるように思われるのである。そして、その際には快が結局において個人の内面的な 意識の状態であるという、多くの人が採用している立場を踏み越えているといえるだろう。しか し、多くの人が望んでいるから、それが望ましい唯一のものだという推論は、結局において循環論 になる。しかも、問題はさらにそれが倫理的な価値としうるのは何故かということになる。 例えば、我々は実際さまざまのことを望む。そしてそれらのさまざまな望み、あるいは欲求の中 で、ある具体的な場面では、何か特定の望みを実現させるように意志決定を行う。あるいは為され る。とすれば、我々が為す行為は(他から無理やり強制されたのではないかぎり)必ず、我々が望 んだものだということになる。しかし、我々は時に望んでいることではなくても、義務から行為を するということがある、少なくとも自分自身ではぞのように自覚している。先のことを前提として 功利主義の前提としている心理学から、この事態を整合的に理解するとすれば、我々が本当はいや だけれども義務だから行うという自覚のある場合も、実は我々は義務を実行することで快を得てい ると考えざるを得ない。このように解釈するときは、当人が実際に感じる、もしくは感じたことの ある快が人間を行為へと結び付けるという快楽主義の通常の前提を大きく逸脱することになるであ ろう。先に述べたように、ミルはこの解釈を取らずに持ち出すのは、尊厳の感覚である。これが何
であるかに関しては、明言しているわけではない。またこのような事例を説明するだけに使われて いるわけでもない。むしろ人間の生き方、精神的に高次の生き方を選択する際の決め手として挙げ られてくる。すなわち、豚の生き方ではなく人間の生き方、愚者の生き方ではなくソクラテスの生 き方を選ぶのは、尊厳の感覚によるというものである。これはしかし、先ほどの精神的な快のほう が身体的な快にくらべてよりよいという判断の説明(すなわち、二つの快の比較)とはまったく異 なる説明であるように思われる。すなわち、この比較による説明がそれが感じられる快どうしの比 較であるのに対して、上記のような生き方の選択をするのは、尊厳の感覚に反するからという理由 ならば、感じている快の比較というよりは、人間の生き方を選ばないことに対して、尊厳の感覚に 反してのいわば苦を感じるというのが、正しい理解であるだろう。確かに、現実の人間の生き方を 前提とすれば、事実としてはこのような説明は正しいであろう。しかしながら、このような説明 は、人間の幸福についてある種の客観的な価値を認めているように見える。先にも述べたようにこ のように客観的な価値の実在を認める立場は快楽主義とは相容れないように見える。そして、さら に後述する人間の個性が幸福の一要素として考えているということと不整合なように思われる。人 間のあるべき姿が予め定まっているとしたら、なぜ一人一人の独自なあり方であるはずの個性が幸 福を増大させるのか、その点についての疑問が残るからである。 4 ここまで、ミルによる功利主義の修正に関する疑問を述べてきた。ただし、先に述べたように、 ここでは理論的な不整合に見えるところを批判するのが目的ではなく、ミルの考える功利主義が実 際にはどのようなものであるかをまずはっきりさせること、そしてそこからミルの幸福観を取りだ した上で、ミル的な功利主義の可能性を探ることにあるので、その作業に取り掛かろう。 ミルは幸福を快によって定義しようとする。その意味では他の功利主義者と同じである。つまり 人々が望むものは究極的には快であり、それ故それが人々の目的であり、望ましい唯一の善であ り、その善をできるかぎり増大させることが倫理的に正しいことである。この論理構造そのものは 共通のものである。しかし、上記の検討の結果、ミルが主張する精神的快と身体的快の区別を可能 にするためには、快をまさに或る時に感じる意識の状態であると考えることは難しい。それをいく らか拡張して快の記憶や、あるいは快が得られる見込みを含めたとしても、たとえば、現実の動物 的な欲求の満足と、現実化していない精神的な快の比較を簡単に為し得るとは思えない。まして、 当然存在すると思われる精神的な快の中での善悪の区別を認めるとすれば、それらの区別を単純な 快の経験を基準にして設けるわけにはいかない。したがって、十分な説明はないにしろミルはやは り特別な種類の快としての尊厳の感覚を持ちださなければならない。またそうすることで道徳に関 しても、単に快を与える与えないではなく、いわば道徳的に正しいほうを選択することがそれに よって快を与えるという道徳的判断の客観的な規準となるようなものが存在することになる。そし て最終的には誰かの中での或る意識状態という意味での快の総和ということだけでは説明がつかな い、ある種の客観的な価値が存在するかのように見える立場を主張しているように思われる。しか し、ミルが言いたいのは、結局においてこのような一見快楽を与えるように見えず、また個々の人 間の精神の感じに帰着させることが難しいように思えるものも、それが実際に人間を動かすために は何らかの意味で快を与えるものでなければならないということであると思われる。つまり彼はこ こでは一般に道徳的心理学においてはヒューム主義11という立場を取っているだけであって、普遍 的な事実主張をしているのではないと考えることができる。彼の為すべきことは、事実において必 ずしも行為者にとって快を与えるとは限らない尊厳の感覚や道徳感覚が、いかに個人の快から派生 して、行為を動かすある意味で客観的な力を獲得するに至ったか、そのメカニズムを説明すること
であったろう。それが欠けているがゆえに、客観的価値を都合よくとりいれただけのように見える のである。 5 しかし、この事態は逆に考えれば、ミルの思想の可能性を示しているように思われる。ベンサム 流の功利主義を取ったとすれば、当然必ずしもミルが理想としたような精神的快を優先させたり、 あるいは個性を尊重させたりする形になるという必然性はない。 たとえば、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』12において取り上げたように、ベンサムは刑務所 の改革案として、パノプティコンという建築物を提案する。フーコーはこの提案が、最初は外的で あった権力の視線を各人が内面化して取り込むことによって、謂わば一人一人が自主的に権力に従 属するようになるという近代における権力の様相を象徴的に示すものとして考える。このような提 案の示すものは、最大多数の最大幸福という理想を実現するのに、必ずしも、個々人の個性や自律 的な判断力などは必要がないということを示すものである。幸福が個々人が感じるものであり、そ の個々人のあり方が何を快と感じ幸福と見なすかを決定するとしても、その個々のあり方は操作可 能だとするならば(少なくともベンサムが採用した連想主義心理学はその可能性を否定するもので はない)個々の人間のあり方に合わせて環境や制度を整えるよりも、環境や制度に合わせて人間の ほうを変えるというほうが、より効率的に最大幸福を実現できる可能性がある。もちろんこの方法 は、ミルが『自由論』において禁じていた他者を幸福にするためという理由で他人の行動に強制的 に干渉することに等しい。問題はミルがなぜこのような方法を禁じているかである。 一つの可能性はミルが重視している精神的な快がどのように得られるかに関わることである。す なわち精神的な能力の行使が精神的な快を生み出すための条件であると考えるのであれば、そのよ うな能力の行使を十全に行うためには自発性が必要であると考えるのは無理がないだろう。した がって精神的な快を得るためには精神が自発的に活動し得るような状態に置いておくことが必要で あり、したがって、他者がいたずらに行為者の自発的な行為に関わるべきではないと考えられる。 この観点はミルにとっては重要だと思われる。それは、フンボルトからの引用13や、セントアンド リュース大学の名誉学長の就任演説14などから窺うことができる。これらはヨーロッパ近代の知識 人が生み出した最も上質な内容だとは思われる。 しかし、これではミルが折衷主義的だという批判を否定するほど、功利主義との結びつきを強く は主張できないであろう。ベンサムのいうパノプティコンは、それが最も効率的に成功したなら ば、自発的な奴隷を生み出す装置と考えることもできる。そのような人間は言葉の真の意味での自 律はしていなくても精神的な快を得るための精神的能力の自発的な活用は可能であると考えられ る。よって精神的快の優位ということと最大多数の最大幸福という原理だけでは必ずしも、個性の 尊重やミルの考えるような意味での人間的な生の尊重ということは出てこない。よって功利主義と 個人的自由の尊重という原理、しかもミルのいうような精神的な能力の自己実現という意味での古 典的な自由主義の間にはなお懸隔が存在するように思われる。 6 ともあれ、ここまでの議論もう一度整理してみよう。 ミルの精神的危機の解釈の一つはミル自身が自身の幸福と社会全体の幸福の間の距離に気付いた ことにある。そしてまた、自らの幸福が得られないにもかかわらず、社会全体の幸福を追求する動 機がどこから生じるのかが問題である。功利主義を道徳論として見た場合、道徳的行為はそれが、 何らかの意味で自己の快(幸福)と結びつかなければ、行為の動機となりえない。功利主義の前提、
「人は幸福を望むがゆえに幸福が唯一望ましいものであり、それを望むべきである」からして、こ の条件が満たされなければ、功利主義は道徳論としては機能し得ない。ミルからすれば、功利主義 は少なくとも自分が良きものと考えるものを人生の目的として追求しなおかつ、それが幸福である と考えるものにしなければ、彼の問題そのものは理論的には解決しない。 このように考えたとき、ミルの考える善き生を構成するさまざまな精神的快を功利主義の中に取 り入れようとしたことは当然であろう。問題は、それが理論的な整合性をもったこととして可能か ということである。これについては前述したようにさまざまな疑念が存在する。しかし、このよう な疑念のうち、功利主義の真理性を前提としていないものはとりあえず、除いて考えると、少なく とも幸福とされる快の中には、単にその時の心地よい感じにとどまらない、快への記憶や期待、さ らには能力の発揮や、自己実現などの何か快いこと、それ故に人間の欲求の対象となりうるものを すべて含んでいると考えられる。しかし、だとしても、また精神的快を身体的快の上位に置くこと ができたとしても、精神的快のうちの善きものと悪しきものを区分することには困難が伴う。ミル のいう尊厳の感覚などに訴える議論は、循環論証ないし論点先取が疑われる。ミルはこの点につい て何の説明もしていない。これは明らかに欠陥ではあるが、ミルの立場に立っての回答は不可能と いうわけではない。たとえば、ヒュームがなした様に道徳の自然史的な視点を取り入れ、その発展 を描くことである。これはともに連想主義的心理学をベースに人間本性を考えているので不可能な ことではない。むしろ、功利主義が社会の進歩発展を考えているのに、このような視点が不足して いることのほうが不思議である。 かくして、ミルの立場をよりよく擁護できる可能性を一つ見出したと言うことができよう。こう すればミルのいうような価値を彼の功利主義に取り込むことは不可能ではない。しかし、これはま だ話の半分である、なぜなら、人間本性を改変して幸福になりやすいように、いわば幸福であるこ とを強制するという可能性をそれでも功利主義は持っているように思われるからである。これにつ いてはミルが幸福の一要素として不可欠のものと考えている個性についての更なる検討が必要であ るが、これについては稿を改め論ずることにする。 註
1 トロント大学出版局よりだされている全集は全33巻に及ぶ。Collected Works of John Stuart Mill, 33Vols., J.M.
Robson general ed., University of Tront Press and Routledge, 1965-81
2『ミル自伝』(1960年、朱牟田夏雄訳 岩波文庫)の解説で仲正昌樹はミルの著作が「一見相反する二つの性 格、すなわち、総合、集大成、完成とみなされるそれと、折衷、寄せ集め、解体と見なされるそれを与える」 (p.294)ものと述べている。しかし、これは二面性ではなく、試みが成功すれば、総合であり、失敗と見なさ れれば、折衷と呼ばれるものであろう。つまり、このような評価はミルの試みが必ずしも成功と見なされて いないということを物語るものであろう。 3 ベンサムは周知のように快の持つ強度等の外的な基準を基に幸福の計算することを提唱するが、実際に数値 化しているわけではない。しかし、このことはだれのどのような幸福であっても考慮すべきであるという、 功利主義のプラスの側面を示すものでもある。
4 On Liberty, (1859)本論文ではテキストとしてJohn Stuart Mill, On Liberty, Utilitarianism and Other Essays (Oxford
World’s Classics, 1991)を使用する。
5 Autobiography (1873),ミルの死後、ほどなく養女の手によって出版されたが、後に初期草稿が発見されるな
どしていくつかの版がある。本論文においてはこれらの版の細部にわたる異同には議論は関係しないので、 もっとも普及している上記のテキストによる。
時期に出版されている。
7 前掲書のテキストを使用している。
8「幸福と満足という二つのきわめて異なった観念」(『功利主義論』第2章第6段落) 9 プラトン『ゴルギアス』(加来彰俊訳)495b-497d
10『功利主義論』(第2章第7段落。
11 ヒューム主義についてはMichael Smith “The Humean Theory of Motivation” in Reason, Emotion and Will ed, R.Jay
Wallace (Ashgate1999)を参照せよ。 12 ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(訳田村俶 新潮社 1977年) 13『自由論』の扉にフンボルトから「本書で展開される議論はすべて、重要な基本原理に帰着する。それは人間 の多様性がもっとも豊かに発展していくことこそ、絶対に重要だという原理である」が引用されている。 14 J・S・ミル『大学教育について』竹内一誠訳 岩波文庫 2011年 註記載以外の参考文献 J・S・ミル『評注ミル自伝』 山下重一訳註 御茶ノ水書房 2003年 杉原四郎・山下重一・小泉仰編集『J・S・ミル研究』 御茶ノ水書房1992年 内井惣七『自由の法則 利害の論理』 ミネルヴァ書房 1988年
Liberty and Happiness -An Examination of J.S.Mill’s Utilitarianism-
Toru ISHIKAWA
Abstract
John Stuart Mill is one of the greatest philosophers in 19th century. But his thoughts is often criticized as eclecticism. Almost the same time, he wrote two books On Liberty and Utilitarianism. The former is a classic masterpiece of individualistic Liberalism, in the latter he defends his version of utilitarianism. Usually it is thought that Liberalism and Utilitarianism are incompatible . But many critics attempt to reconcile them. We also try to unite them.
First we think one of the causes of his mental crisis in youth is his recognition of the inconsistency between his beliefs. So we would like to interpret his development of thoughts as dissolution of this inconsistency. Secondly after examination of his concept we show, his distinction between bodily pleasure and mental pleasure has some defects but could be amended by some sorts of natural historical explanation of Mill’s higher pleasure,
Thirdly we claim that this way of thinking is effective but not completely,. In order to finish our attempt we have to rethink his concept of individuality and make it clear how relate it to his concept of happiness.