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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠--L.J.ツィークラーの見解を中心に---香川大学学術情報リポジトリ

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠

−L.J.ツイータラ、−の見解を中心に−

渡 辺 敏 雄 Ⅰ序 ⅠⅠ応用科学の独自性とその課題 ⅠⅠⅠ応用科学における目的の問題 ⅠⅤ 応用科学としての経営経済学の規定 Ⅴ 応用科学としての経営経済学の基礎科学としての経済学 ⅤⅠ応用経済科学としての経営経済学の問題点 Ⅵl結 Ⅰ ドイツの経営経済学の歴史のなかで何次にもわたって行われた方法論争にお けるひとつの主要問題は,経営経済学が純粋科学として研究されるべきかそれ とも技術論ないし応用科学として研究されるべきか,という問題であった。こ の問題に関して,経営経済学が応用科学であるべきだという基本的方向を根拠 づけつつ提示して,応用科学としての経営経済学に関する独自の見解を展開す る現代の研究者にツイPクラ1−(LotherJ。Ziegler)がいる。本稿にてわれわれ はツイークラーの提唱する「応用科学としての経営経済学」の構想を取り上坑 内容的に跡づけるとともに批判的に検討することとしたい。その際われわれが 取り上げるかれの書物は,『経営経済学と科学革命1)』(ββ最近ゐ相方γね吻鹿ゐゐγe 1)本書の副題は次のとおりである。 EugenSchmalenbachsBetriebswirtschaftslehrezumGed鼠Chtnis 本書を対象とした書評に次のものがある。 D”Schneider・,(Buchbesprechung),Ziegler,Lothar・J,,Betriebswirtschaftslehr・e undwissenschaftlicheRevolution”EugenSchmalenbachsBetriebswirtschaftslehre ZumGed批htnis,CEPoeschelVer・1ag,Stuttgart1980,in:ZfbF,34“.Jg,,SS107− 109

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J.郷

香川大学経済学部 研究年報 25

−Jαぎー

und wゐsenschaHliche Revoludon,Stuttgart1980)である。

ツイ、−クラ、−はその書物においてかれ自らの研究課題を限定して次のように 説く。かれは,経営経済学の若干の重要な根本問題(Grundpr・Oblem)として,経

営経済学的研究の目標設定の非独断的確定(undogmatische Festlegungder

ZielsetzungderbetriebswirtschaftlicherForschung)とこれと結びついた適切

な方法と研究路線の選択(Wahlgeeigneter’MethodenundFor’SChungslinien)

をあげ,すく“にこれらを換言するかたちで,経営経済学的研究の合理的再構成

の問題(Problem desrationalen Umbaus der betriebswirtschaftlicher.For’・

SChung)とこれと結びついた従来の伝統と隣接諸科学わけても理論的経済学と

最近でほ行動科学に対する最も実り多い関係の問題(Problemdesfruchtbar−

Sten Ver旭1tnisses zur bisherIigen Tradition und zu den Nachbarwissen−

schaften,insbesonderezurtheoretischenOkonomieundneuerdingSZuden

Verhaltenswissenschaften)をあげる2)。ここからわれわれが知りうるのは,か れの研究が,経営経済学の目標を非独断的に決定し,そう㌧て決定された目標 に適合する方法と研究路線3)を選択することをめざしているということなので あり,とりわけ方法と研究路線ということでかれが問題としようとするのが理 論的経済学と行動科学に対する経営経済学の関係であるということなのであ る。また,かれが経営経済学の従来の伝統の解釈をもってかれの説を根拠づけ る一・助としていくという態度もここからわれわれは窺えるのである。 経営経済学の目標設定が非独断的に行いうると考えるツイークラー・が,経営 経済学の目標として設定するものは,応用科学としての経営経済学(Betriebs・

Wirtschaftslehr・ealsangewandteWissenschaft)を営むということであって,

かれは経営経済学が応用科学として営まれるべき根拠づけをかれなりに非独断 的につまり出来る限り客観的に与えるべく努力を傾注することとなる。それ故 われわれにとって,こうした根拠づけが首肯しうるかたちで提示されているか 2)LJhZiegler,a a O”,SⅤ ブイ・−クラ・−が自らに課す課題についてはさらに次の箇所にほぼ同様の記述がある。 LJhZiegler,a ahO,S3uSS7T8 3) ツイークラーの言う方法と研究路線はこの箇所に関する限り同じ意味であるとわれわ れは解している。

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応用経済科学としての経営経済学の成立限拠 −JO9− どうかの検討が−・大関心事とならざるをえない。だがわれわれの関心事はこれ に尽きるわけではなく,応用科学としての経営経済学の展開という目標設定を 実現する手段としての理論的経済学と行動科学に対する関係を中心とする方法 と研究路線の選択がわれわれにとって首肯しうるかたちで根拠づけられている のかどうかの検討もまたわれわれの関心事となる。この方法と研究路線の選択 としてかれは,行動科学との関係を排除して,理論的経済学との関係に基づき 応用科学としての経営経済学を構想しているので,理論的経済学との排他的関 係をかれが選択したことがわれわれの検討対象となるということである。しか しながらこれらの2つの関心事に関する論述をほじめる前にわれわれは明確に しなけれはならないことがある。それは,ツイークラ、・−−・・の言う応用科学がいか なる特質をもつ科学なのかということである。かれは,応用科学を純粋科学か らはっきり区別し,応用科学には応用科学の独自性があるとする。それ故われ われは応用科学の独自性と課題を明確にする必要がある。さらに,応用科学の 特質の重要な側面として応用科学における価値の取り扱い方を明確にする必要 がある。この点に関してはかれは価値自由な応用科学を営もうとしているので, われわれほ,かれの見解における価値の取り扱い方に果たしてかれの言う価値 自由性が忠実に展開されているのかどうかを見ていきたい。 以上を要して本稿の進み方は次のごとぐである。われわれはまず,ツイ、−ク ラーの見解における応用科学の特質をその独自性と課題につき明確化し,次に その価値の取り扱い方につき明確にする。こうして,かれの考える応用科学の 重要な特質を明確にした後に,われわれは上述の最初の2つの関心事,つまり 応用科学としての経営経済学の規定に対する根拠づけの検討ならびに応用科学 としての経営経済学の基礎となる学問としての理論的経済学の選択に対する根 拠づけの検討をなすこととしたい。 ⅠⅠ われわれは,ツイークラーの言う応用科学がいかなる特質をもつのかを明ら かにするに際して,まずかれの見解における応用科学の独自性ならびにその課

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香川大学経済学部 研究年報 25 J一郷 −」リ℃− 題を明確にしておきたい。その際,かれは「応用関連的で理論形成を行う経営 経済学4)」(anwendungSbezogenetheor・eSierendeBetrIiebswirtschaftslehre)と いう構想の根底にある純粋科学と応用科学の関係のあり方に.関する説を批判す ることによって,かれの考える応用科学の独自性を示そうとする。「応用関連的 で理論形成を行う経営経済学」の根底にある説は,純粋科学対応用科学の対置 を見かけの問題(Scheinproblem)としてとらえる。これに対して,ツイ・−クラ・− はその対置を其の問題(echtesPr・Oblem)としてとらえる。こうしたとらえ方 既にツイークラーが純粋科学と応用科学を戟然と区別しようとしていもことを われわれは窺い知るのである。われわれは以下で,見かけの問題説(Schein− problemlehre)を批判しているツイ1−クラーの説5)を跡づけ,かれの考える応用 科学の独自性の意味を見たい。 見かけの問題説によると,良い理論(guteTheorie)ほど実践(Praxis)に役立 つものはない6)のであり,「応用科学のなかで良い理論をかたちづくることは, 最も良いかたちで理論と実践との関係を促進する7)」のであって,それ故,「純 粋経営経済学(r・eine Betr・iebswirtschaftslehr・e)という構想は決して−非実践的 (unpraktisch)でほない8)。」非実践的なのは,経営経済学のなかで理論形成を避 ける経営経済学的研究や,「中途半端な」理論形成(≫abgebremSte≪Theor・iebil・ dung)を弁護する説である。見かけの問題説にしたがえば,純粋科学としての経 営経済学(Betr・iebswirtschaftslehr・e als reine Wissenschaft)と応用科学とし

ての経営経済学(Betriebswirtschaftslehr・e als angewandte Wisseschaft)の

うちのいずれかに賛成していずれかに反対サるという方法論争(Metho・

denkontroverse)で行われた説は誤り(irrig)であって,「応用科学において は良い理論形成なしに済ませられるわけではないのみならず,良い理論形成の 4)LJZiegler,Betriebswirtschdtslehnundwissensc郷Ii’cheRevolution,S20 5)見かけの問題説に対するツイ・−クラ・−の見解については次を参照のこと。 LJ.Ziegler,aa“0.,SSh4−51 6)ツイークラーは「良い理論はど実践に役立つものはない」というこの命題を「良い理 論の給付の命題」(SatzvonderLeistungguterTheorien)と表現している。 Vgl“LJ“ZieglerI,a a0,S4uS8 7)LJ.Ziegler,a a0,S“4 8)LJZiegler,a ahO,S4

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −」てエー みが経営経済学の科学目標の達成を確保するというのが真実である9)。」その 際,経営経済学の科学目標は,芸術のための芸術的な科学10)(L,artpourl,art− Wissenschaft)という目標ではなく,見かけの問題説に.よるならば,経営経済学 はつねに「応用関連的」(anwendungsbezogen)たらねばならないという目標を もつ。ツイークラ1−が紹介している限りでの見かけの問題説に説かれている「応 用関連的で理論形成を行う経営経済学」という構想を,科学目標としての純粋 科学の形成か応用科学の形成かということに関して言うと,その構想は,経営 経済学が応用科学でしかありえないと説く説に他ならない。そして,その構想 は,応用科学を営むためには良い理論形成が唯一・絶対の条件をなすと考えるの である。 ツイー・クラーは見かけの問題説を上のように理解したうえで,この説に潜む 問題点11)を追求している。かれによれば,見かけの問題説は,分離不可儲性説 (Nichtdiskriminierbar・keitsthese)ならびに退化説(Degener・ationsthese)なる 2つの疑問を抱かせる説を含んでいる。ここに,分離不可能性説とは,純粋科 学と応用科学の問に一・義的でどの時代にも妥当する境界線(eindeutigeundfiir

allZeitengiiltigeTrennungSlinie)を引くことは不可儲である,とする説であ

り,退化説とは,純粋科学の諸言明は実践的目的に対して利用できるようにす ることが可能であり,具体的応用の可能性が欠落するときには,応用科学は純 粋科学へと退化していく,とする説である。かれはこれらの分離不可能性説な

らびに退化説は科学の希釈化(Wissenschaftsverwasserung)つまり純粋科学

にとっても応用科学にとっても芳しくない作用をもたらすと説く。われわれほ, このうち分離不可能性説に対するツイークラーの批判の方に焦点を当でながら かれの見解を跡づけたい。なぜなら,分離不可能性説に対するかれの批判の方 には,純粋科学と応用科学との関係ひいては応用科学の独自性に関するかれの 9)LJZiegler,aa0,S5 10)LJZiegler,a a0,S5 11)ツイl−クラーは,見かけの問題説の代表としてラフェー(HRaffee)の見解をあげて いる。分離不可能性説や退化説とツイ・−クラーが呼んでいる説もかれがラフェーの見解 に見いだした説である。ツイークラーが参照を求めているラフェーの著書は次のもので ある。 HRaffee,Gnm砂YOblemederBetriebswirtschdtshhe,G8ttingen1974

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香川大学経済学部 研究年報 25 エ9β5 −JJ2− 見解がより明確にあらわれているからなのである。 分離不可能性説12)は,ツイ、−クラーに.よると,第1に,理論と技術論的規則

(technologische Regel)を混同し,第2に,科学的実験(wissenschaftliches

Experiment)と実践(Praxis)を混同し,第3に,真理性(Wahrheit)と効率

(Effizienz)を混同するという3つの混同(Konfusion)をおかしている。さらに, 分離不可能性説の背後にある見かけの問題説は,理論と応用科学とを同一L視な いし混同している。かれはここにあげられた4つの混同に対して批判を加え, 見かけの問題説を排撃しようと試みるのであるが,われわれの見解によれば, 応用科学の独自性をめくやるかれの見解は,上記第1の理論と技術論的規則の混 同,第3の真理性と効率の混同,最後の理論と応用科学の混同に特に明確にあ らわれている。それ故,これらの3つの混同に対するかれの批判を,理論と技 術論的規則の混同に対する批判,理論と応用科学の混同に対する批判,真理性 と効率の混同に対する批判の順でわれわれほ取り上げ,かれの説を跡づけかつ 検討することとしたい。 まず第1に,分離不可能性説ひいては見かけの問題説がおかす理論と技術論 的規則の混同は,理論を規則(Regel),指示(Instr・uktion),行為命令(HandlungS− anweisung)とみなす混同であり,ツイークラーは両者を同−・祝し混同する説は 大きな問題を含んでいると言う。この種の混同はより明確にほ,すべての技術 論的規則は理論のなかに見いだされるという説だと解され,かれはこうした説 に対して,「科学者として技術論的規則の獲得に関心をもつ者は,それ(技術論 的規則一渡辺)を自動的に(automatisch)理論に見いださない13)」と反論する。 かれによれば,理論と技術論的規則は同一ではないのであるが,ここで問題と なっているのは技術論的規則の獲得方法であると解されるので,これをめぐる かれの見解をわれわれは以下で敷術しておく。 ツイ、−クラ・一にとって問題となる技術論的規則は,科学的に根拠づけうる技 術論的規則(wissenschaftlichbegriindbar・eteChnologischeReg・el)であって, 12)分離不可能性説に対するツイークラーの批判については次を参照のこと。 LJZiegler,a a O,SSlO−14 13)LJZiegler,aa O,S10

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −JJ3− ここに言う科学的な根拠づ桝ま.,理論ないし法則的知識(nomologisches Wis− Sen)を転形(Tr・anSformation)することで与えられる。かれほ転形の内容を法 則的知識に同義反復的転形(tautologischeTransformation)を施すことである と考えている14)と解される。ここに同義反復的転形とは,今「Aならば,Bと いう事態が生起する」という原因結果関係を示す理論的な法則仮説をその情報 内容を変えず「Bという事態を生起させるためには,Aという手段をとれ」と いう手段目的関係の形に変えることを言うと解される。こうしてかれは,技術 論的規則の獲得方法については,これを法則的知識の同義反復的転形によって 獲得すると考えている。そうだとすると,技術論的規則を自動的に理論に見い ださないとするかれの見解に反して,すべての技術論的規則ほ理論のなかに見 いだされるのではないだろうか。もっとも,同義反復的転形のもととなる法則 的知識が理論には欠落している場合もありうるので,こうした場合に理論に含 まれている−・般的な法則的知識に基づきながらより具体的な法則的知識を発見 展開することまで応用科学の課題だというのならば,かれの言うように技術論 的規則は自動的に理論に見いだされないであろうが,かれ自身応用科学が現実 の法則性を発見していくという課題を決してもたないことを確認しているので ある。かれによれば,応用科学は法則の発見(Er・findung)でほなくその利用 (Verwendung)に終始するのである。それ故,かれはやはり理論のなかの既存の 法則的知識を同義反復的に転形して技術論的規則を獲得しようとしていると解 14)同義反復的転形(tautologischeTransformation)という言葉は次に見られる。 LJ.Ziegler,aa0,S6uS7 ツイークラーは転形として法則的知識の同義反復的転形を考えているが,理論ないし 法則的知識の転形を通じないで技術論的規則を得ようとしている研究者としてキルシ′ユ (WKir■SCh)をあげ,理論を通じて技術論的規則を得るツイークラー・的な方途をキル シュが−・種の否定的な言葉である「回り道」(Umweg)と表現したとして,yイークラー はキルシュの見解を批判している。このことに関するツイ・−クラーの見解はかれの次の 言葉に集約されていると考えられる。 ”Esverstehtsichdannvonselbst,da6der’WegiiberTheor・ieninderTechnologie− ProduktionseitensderangewandtenWissenschaftnichtalsein≫Umweg≪,SOndern

alsderftirdieangewandteWissenschafteinziggangbareWegangesehenwerden

kannunddarf“(L.JZiegler,aa”0,S35) なお,ツイークラ、−−−■が参照を求めているキルシュの著書は次のものである。 W Kirsch,DieBetYiebsu}iYisch鯛sh7hreals用hYungSlehre,Mdnchen1977

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香川大学経済学部 研究年報 25 J!げこ亨 −JJ4− され,この限りで,かれはすべての技術論的規則は自動的に理論に見いだされ るという説を承服せざるをえないこととなると解される。理論と技術論的規則 が異なるというツイ・−クラ・−の見解に関してほ,ある理論に含まれるすべての 言明に関して言えば−・般的に過ぎ法則的知識であっても技術論的規則ではない という言明があるという意味,つまり理論であって技術論的規則ではない部分 があるという意味での理論と技術論的規則との違いほあるであろうが,すべて の技術論的規則が自動的に理論に見いだされるわけでほないという,まさにか れが根拠づけて言おうとしていた理論と技術論的規則の違いはかれの見解にほ かえって見られないこととなっていると解されるのである。 第2に,ツイ、−クラーほ見かけの問題説がおかす理論と応用科学の同一・視な いし混同について次のように考える。かれによると,理論と応用科学は異なる。 応用科学は社会理論的研究15)の産物の向目的整序16)(FinalisierungderResul・ tate sozialtheoretischer Forschungen)をなす。ここに向目的整序とは,ひと つの目的の達成に役立つと思しき言明をひとつの理論から選抜のうえ同義反復 的転形を施し整理することを意味すると解される。そしてかれはまさにこの向 目的整序が理論と応用科学とを区別する応用科学的研究固有の行為だと考えて いる。「応用科学なしでほ科学ほ実践に程遠い理念論(praxisferne$Ideal)にと どまったままであり,そのことによって実践には容易に近接しえない17)。」「純粋 科学の諸々の言明は,応用科学の側からのみ様々な実践的目的のために利用可 能なものにされうる。純粋科学はそれ自らから発企してこのことをなすわけで はない18)。」こうして応用科学の固有の行為が存在し,これほ向目的整序である とツイークラーが考えていることが明白となった。応用科学の固有の行為とか れが考える向日的整序に関するわれわれの解釈を若〒付け加えておくと,向目 的整序の対象となる諸々の言明が含まれているひとつの理論には単一・の価値な 15)社会理論的という表現がとられているが,殊更この言葉が使われたという理由は見い だされず,それは文字通りには「社会科学的」という程の言葉と入れ替えてもさしつか えないと解される。 16)Finalisierungという言葉は次の箇所に見られる。 I T▲ r e e e g g g e e e Z Z Z TJ T−ノ 丁ノ L L L ヽ−′ヽ′〟 7 8 1 1 α‖β.0,S17,S24uS132 〃.α“0,S16 α.β0.SS13・14

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −ノブ5− いし目的ではなく複数の価値ないし目的が考慮されている可能性があり,それ らの複数の目的に対する影響が言明のかたちで考慮されている可能性があるの である。このことを前提すると,複数の目的を考慮している理論から単「・の目 的のもとに行う向目的整序によって完成した応用科学はもとの理論と同一では ないのである。われわれのこうした解釈が的を射たものだとするならば,理論 と応用科学の混同を批判するツイ・−クラーの説は妥当性をもつと考えられる。 ひとつの理論と応用科学が等しくなるのは,その理論が単一・の価値を選択原理 として言明をかたちづくり体系化している場合であると考えられる。その他の 場合には,ひとつの理論とひとつの応用科学は相互に.異なるのである。これが かれの説だと解されるのである。

さらに第3に,分離不可能性説ひいては見かけの問題説がおかしている真理

性と効率の混同に対してツイークラ・−ほ次のように批判的検討19〉を加える。か れによると,応用科学の関心は理論の発見に向けられるのではなく,純粋科学 が準備した法則認識に基づく技術論的規則の獲得に向けられていて,技術論的 規則はそれがもつ真理性にしたがって判断されるのではなく,効率にしたがっ て判断されうるのである。それ故,科学的理論の最大の現実接近性(diegr8Bte Realitatsnahe)ほ自動的に最も合目的つまり効率的な技術論的規則に導くわけ ではない。かれは,真理性と効率という2つの基準の混同に対しては随所で警 告を発するのであるが,かれは効率20)という基準を十分に明確化しているわけ ではないのである。それ故,われわれほこれらの2つの基準の混同に対するか れの見解についてこれ以上明確にすることに困難を感じるが,次のような解釈 もひとつの典型的な解釈例としてありうるであろう。ある理論のなかの原因結 果関係の表現をとる法則的知識ともうひとつ別の理論のなかの原因結果関係の 表現をとる法則的知識を比較してみることを考える。こうした比較が意味をな 19)VglLJZiegler,a a O,SS.13・14 20)技術論ないし応用科学における効率(efficiency)について,ブソゲ(M.Bunge)は次の ように表現している。 “Whattheappliedscientistissupposedtohandleistheorieswithhighefficiency, iewithahighOutput/Inputratio:theor■iesyieldingmuchwithlittle”(M“Bunge, 立去e乃J所c斤gseαγCゐⅠⅠ,NewYor・k1968,p125)

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香川大学経済学部 研究年報 25 Jガ5 −ノブ6− すのは,前者の理論のなかの法則的知識における結果と後者の理論のなかの法 則的知識における結果とが程度は異なれ同一・の事態である場合である。これら の両者の法則的知識に.よってその事態を説明すると,前者の法則的知識に言う 原因をもってしては後者の理論のなかの法則的知識に言う原因よりも当該事態 のあらわれにより近い所まで迫ることができるとき,前者の法則的知識した がってそれの含まれる理論の真理性の方が後者の法則的知識したがってそれの 含まれる理論の真理性より高いと考えられる。ところが,前者の理論のなかの 法則的知識の原因結果関係に同義反復的転形を施して得られた技術論的規則と 後者の理論のなかの法則的知識に同様の転形を施して得られた技術論的規則を 比較する場合には,今度は真理性ではなく例えば手段の投入の費用に対する目 的の達成度の比率と解される効率が問題となり,より高い真理性をもつと考え られる前者の理論から得られた技術論的規則の方がより低い真理性をもつと考 えられる後老の理論から得られた技術論的規則よりも高い効率を約束するとは 限らない。それ故,「…実際には往々にして良い理論はど非実践的なものはない …21)」ということにもなるのである。 われわれは,見かけの問題説に対するツイークラ・−の反論の内容の検討を通 じて,技術論的規則の獲得方法に関してはかれの意図とほ逆に技術論的規則は ことととく理論のなかに見られると解されざるをえないこと,ひとつの応用科 学はひとつの目的のもとに理論の諸言明に対する向目的整序を経て成立する科 学でありもとの理論とは必ずしも−・致しないこと,高い真理性をもつ理論は必 ずしもより良い効率の技術論的規則の形成に導くとは限らないことを知った。 さて,われわれは今まで,技術論的規則の獲得ということを応用科学の課題 として当然のものとして考えてきたのであるが,次にツイ、−クラ、一自身の言葉 によって応用科学の課題を確かめておきたい。かれは次のような表現をとる。 「…かくて応用科学の課題と給付は,実践的日常知識ないし用具的日常知識を 理論的ないし科学的に基礎づけていくことないしそもそも用具的知識を間引い ていき科学的に根拠づけられた技術論的規則を豊富にしていくことである22)。」 21)LJZiegler・,aa0,S18 22)LJZiegler・,aa O,SS14・15

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −JJ7−

トsobestehtdieAufgabeundLeistungdera喝eWandtenWissenschafteben

dar・in,das praktische oderinstrumentale Alltagswissen theoretisch oder

Wissenschaftlich zu untermauern bzw‖ tiberhaupt dasinstr・umentale

Wissen zu durchforsten und mit wissenschaftlich begrtindeten techno・

logischen Regeln anzureichem)あるいほより端的にかれは,「手続規則の展

開23)」(EntwicklungVOnVerfahrensregeln),「技術論的規則の構成24)」(Kon−

StruktiontechnologischerRegeln)とも表現することとなる。こうして技術論

的規則を獲得していくことが応用科学の課題であることが確かめられたのであ るが,かれはこの課題を与えられた理論(gegebeneTheorie)をもって果たして いこうとする。この点に関しては,応用科学が理論の発見ではなく理論の使用 に終始するというかれの見解をわれわれは既に紹介しておいた。かれは,与え られた理論しかも複数ではなく単一・の与えられた理論の使用を主として念頭に おいているわけであり,かれにとってその与えられた理論とほ経済学(Okono− mie)特に微視経済学(Mikro−Okonomie)の理論25)である。かれは,応用科学が 使用する与えられた理論を展開している科学ないし端的に応用科学が基づく科 学を基礎科学26)(Primarwissenschaft)と称しているので,かれの提唱すること となる経営経済学をここに一言で表現するならば,「微視経済学を基礎科学とす る応用科学としての経営経済学」と言うことができるであろう。経済学として の微視経済学が何故かれの提唱する応用科学としての経営経済学の基礎科学と して選択されるのかに関してほ,われわれはかれによる選択の根拠づけを詳し く跡づける必要があるので27),この箇所ではわれわれはかれが経済学特に微視 経済学を基礎科学としているという確認を行うにとどめて,論を進めたい。上 23)LJ.Ziegler,aaO,SS123−24 24)LJ“Ziegler,a a0,S17uS111 25)26)VglLJZiegler,aa0,SllO4Fuf5noteその箇所でyィl∼クラ1−は次のよ うに言う。「『基礎理論』とは応用科学に先行し,第一・次的に技術論的に使用されるべき 科学(基礎科学)の理論のことを言う。経営経済学においては,これを応用科学として 理解する場合,基礎理論は経済学の理論である。」(文中傍点は渡辺)なおツイータラー の考える応用科学の基礎科学が経済学のうちでも特に微視経済学であることについては 次を参照のこと。 LJZiegler,a a O,S31 27)本稿第Ⅴ節「応用科学としての経営経済学の基礎科学としての経済学」を参照のこと。

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香川大学経済学部 研究年報 25 エ郷 −JJβ− 述より,かれの言う応用科学は,微視経済学をもってする技術論的規則の獲得 をなす科学であるということになり,技術論的規則の「獲得」の意味を合わせ 考えれば,微視経済学の理論に含まれる法則的知識を同義反復的に転形させて 技術論的規則の獲得をなす科学だということになる。それ故,技術論的規則の 内容ほ微視経済学の理論を超えることは決してない。このことに関しては,わ れわれは,ツイ、−クラ・−が理論に.基づき一層具体的な法則的知識を新規にかた ちづくりそれを転形して技術論的規則を獲得するという課題を応用科学の課題 にほ決して含ませていないことを既に紹介したので,技術論的規則の内容が微 視経済学の理論を超えないということは一層確かなこととなると解される。そ うだとすると,かれの考える技術論的規則は,微視経済学のなかで行われてい る程度の具体性を超えるものではなく,具体的な個別企業の個別的条件に見 合ったような技術論的規則を展開していくことまでは当然考慮にいれられてい ない技術論的規則だということになる。 本節を要約するに,ツイ・−クラーの言う応用科学はかれの弁によると純粋科 学に対する独自性をもつものであったが,理論と技術論的規則はかれが力説す る意味では異ならず,この両者の相違に応用科学の独自性は求められなかった。 これに対して,理論とそこから向目的整序を経てつくられる応用科学とは確か に異なり,また理論の判断基準としての真理性と応用科学の判断基準としての 効率とが異なると解され,これら2つの相違にわれわれは応用科学の独自性を 求めざるをえなかったのだった。かれの考える経営経済学は全体としてほ「微 視経済学を基確科学とする応用科学としての経営経済学」と規定されうるので あり,その際,応用科学とはひとつの目的のもとに向目的整序を経てつくられ る科学なのであった。それ故,われわれは次に,かれの考える応用科学におい て目的がどのように取り扱われているかについて特別の関心を寄せざるをえな い。こうしてかれの見解における目的の取り扱い方をはっきりさせるというこ とはかれの応用科学のひとつの特質を描き出すことにもつながるのである。

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −JJ9− ⅠⅠⅠ われわれは,ツイ・−・クラ、一の見解における応用科学の特質を明らかにするた めに,価値に対するかれの態度28)を見なければならない。応用科学における価 値の問題ほ通常ほ.研究対象の目的の取り扱い方の問題として議論されていると 解されるので,われわれは,かれの見解における目的の扱い方を見きわめたい。 ツイt−クラーほ,応用科学における価値に対するかれの態度を論じる際にも ラフェーの経営経済学説を自らの構想に対置している。ツイ・−クラーによれば, ラフェーほ応用科学にあるべき価値を明示的に導入し,真の規範的言明(echte− normativeAussage)を展開し,価値自由(wertfr・ei)ではない応用科学を営んで いる29)。ここに其の規範的言明とほ,一・種の絶対視が行われた価値ないし基本規 範を提示する言明ならびにこの絶対視された価値を具体的な研究対象において 達成するべき方法ないし特殊規範を提示する言明のことであると解される。 価値に対するラフェーのそうした態度とは対照的にツイークラーは,あるべ き価値を絶対規範として導入することを避け,価値自由な応用科学を企画する。 それ故,文字通りにはこのような企画をもつツイータラーの試みはかれの意図 通り展開されているのかどうかがわれわれにとって以下の関心事となる。 まず,価値自由な応用科学における価値の取り扱い方としてわれわれに直ち に想起されるのほ価値の仮言的設定(hypotetische Unterstellung)という方途 であり,まさにツイ、−クラーもこれについて次のように触れている。かれは, 準規範的科学(quasi−nOrImativeWissenschaft)ないし実践規範的科学30)(prak− 28)応用科学における価値に対するツイ1−クラ・−・の見解については次を参照のこと。 LJhZiegler,BeiriebswiYischa#sおhYeundu)issenschquicheReuolution,SS27・33 なお,ツイークラーが参照しているラフェーの書物については本稿の注11)を参照の こと。 29)LJ.Ziegler,aa0.,S27 30)準規範的科学ないし実践規範的科学としてツイークラーがさし示しているのは/、イネ ソ(EHeinen)の経営経済学の構想であると解される。ここで「準規範的」(quasi−nOr, mativ)ないし「実践規範的」(praktisch・nOrmativ)という言葉についてツイー・クラ1−は 直接に明確化しているわけではないので,われわれはハイネソの次の文章を引用してお きたい。

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香川大学経済学部 研究年報 25 J.鎚清 叫J20一 tisch−nOrmative Wissenschaft)に関連づけて価値の仮言的設定について言う。

「特定の典型的な促進問題(ZeugungSpr・Oblem)ないし抑制問題(Ver−

hiitungsproblem)を解けるかどうか,ということに関して提案された手続

(Verfahren)を効率面(Effizienzgesichtspunkt)から評価する準規範的科学あ るいは実践規範的科学も,人が技術論的規則をもって達成ないし処理しようと している目標(Ziel)ないし問題(Problem)が『仮言的に与えられた』(≫bypothe− tischgegeben≪)ものとしでではなく,所与(gegeben)として設定されるなら ば,決して倫理助要求生産所(ethische Forder・ungSprOduktionsstatte)にはな らない印。」ツイークラーのこの言明から,われわれほ,かれの考える応用科学 にとって価値は「所与」であると考えられていることを知り,かれの考えでは 価値のこの所与性が応用科学の倫理的要求生産所化を回避し,また価値の仮言 的設定の方が倫理的要求生産所の形成に導くことになっていることを知る。か れは,価値の「『仮言的設定』という奇妙な考え32)」(seltsameIdeeder≫hypothe− tischenUnter・Stellung≪)とも表現し,かれはこの方途を決してとらないのであ るが,われわれにとって問題であるのほ,価値の仮言的設定ほいかなる意味で 応用科学を倫理的要求生産所化するかである。かれほ,倫理的要求生産所とい う言葉に絶対規範生産所ひいては価値自由を完全に破懐する機関という意味あ いをこめているものと解される。応用科学にとって価値が問題となるのは研究 対象の目的の取り扱いについてであることは上述の通りである故,研究対象の

,,Beziehen sich die Empfehlungen auf die Erreichung der Ziele einer Betriebs-

wirtschaft,diesichdieseselbst steckt,SO tragendiese Empfehlungen praktisch−

normativen Charakter.Die Zielvorstellungen der handelnden Menschen selbst

dienenalsGrundlagederModeユIformulierurlgDanebenk6nnenauchm6gliche,dh inderbetriebswirtschaftlichenPraxisnochkaumodergar・nichtvorfindbareZiele GrundlagederModellbildungseinGehteinebetriebswir・tSChaftlicheModellbildung indieserWeise von dener・fahrungsgemaL3feststellbaren oderalsAnnahmen un−

terstelltenZielenderBetriebswirtschaftenaus,SOSprichtmanvoneinerpraktisch・

normativen oder quasi−nOrmativen Betr・iebswirtschaftslehre“(EHeinen,Einf#h−

rungindieBeiriebsu)irtschdiゞおゐγe,8.,durchgeseheneAuflage,Wiesbaden1982,S

26)

31)LJZiegler・,a a O.,S27

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 _了以_ 目的の取り扱いに関して議論を進めると,われわれの知識33)では,確かに,仮 設された目的ほ現実に追求されている目的と−L致しなければならないという論 理的要請はないのであるから,研究老がある程度自由に任意の価値としての目 的を仮設し,この意味でこうした方途をとる応用科学が目的の「生産所」に・なっ ていると言えるのかも知れないが,応用科学が実践的葡用性をもつためには, 研究対象において事実上追求されているいくつかの目的を取り上げその目的を 仮設する必要があろう。この応用科学に対する実践的有用性の要請にしたがう ならば,仮設された目的は任意に生産された目的であるということにはならず, それ故,価値の仮言的設定の方途をとる応用科学が倫理的要求「生産所」化す ることに.は十分歯止めがかかると解される。また,さらに倫理的要求生産所と いう言葉にツイータラーがこめたと解される絶対的規範生産所という意味あい は.,そもそも価値の「仮言的」設定という方途にはないのである。以上を要す るに,目的の仮言的設定は,一・方で任意の目的を生産するというわけでもなく, 他方である価値を絶対視するというわけでほないと解される。それ故,われわ れには価値の仮言的設定に対するツイ・−クラーの態度ほ十分妥当性をもつもの とほ思えない。 ともかくこうして字面のうえでは価値の仮言的設定を排しながらツイ・−ク ラーは応用科学における目的に関して次のような議論を行っている。経営経済 学史における伝統的経営経済学(traditionelle Betriebswirtschaftslehr−e)はブ ルジョア科学(biirgerliche Wissenschaft)であることをかれは認め,ブルジ ア科学に特定の見方をとる共謀説(Ver・SChworungStheorie)に対してとられた ラフコニ−の態度からかれの議論を説き起こす。共謀説という見方においては, ブルジョア科学は支配者階級(herTSChendeKlasse)の用具(Instrument),資本 33)応用科学における仮言的価値判断に関するわれわれの知識は主として田島牡幸教授の 次の書物に基づいている。 田島牡辛,『企業論としての経営学』,税務経理協会,1984年,特に16ページ以下。 この書物のなかで田島教授は,仮言的価値判断の方向をとる応用科学ないし技術論の いくつかの問題点を指摘したうえで,そうした応用科学ないし技術論が,「規範論とは異 なって,科学的に成立しうるものであり,経営学を技術論として形成することも可能だと 考えられる」(前掲書,20ページ)とする。しかし念のため記せば,田島教授自身は技術 論の方向をとらないことが明記されている。

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香川大学経済学部 研究年報 25 J9β5 −J22− (Kapital)の用具であり,労働者階級の抑圧(UnterdrtickungderArbeitsklasse) の用具であるとされ,階級一面性(Klasseneinseitigkeit)をもつとされるのであ る34)。このような見方をする共謀説に対してラフェ叫はツイークラーの目から 見れば問題の多い反応(prIOblematischeReaktion)を示した。ラフェー・は,利害 均衡理念(Inter−eSSenauSg1eichsidee)をかれ自らの経営経済学説に導入し,その 理念に導かれつつ単一・の価値ではなく複数の価値を導入した。ラフェーはこの ようなやり方をとることによって共謀説に言う階級−・面性を克服でき,また階 級一・面性特にこの場合の支配老階級一・面性という特質に伴って行われる,伝統

的経営経済学は道徳的に劣位の経営経済学(mor・alistisch minderwertige

Betr・iebswirtschaftslehre)だという誹誘をもかわすことができると考えたの だった。ラフェ・−のこうした態度に対してツイークラ・−は反発して,ラフェー のとるそのような態度ほ,マルクス主義者(Marxist)ならびに非マルクス主義 者(Nicht−Marxist)の両陣営から拒否されるだ桝こ終わると説く35)。なぜなら, ツイ・−クラーによるならば,マルクス主義者は社会主義的事態(sozialistisches Verhaltnis)の創造と労働者階級に対する科学の排他的連結(ausschlie61iche Bindung)によってしか満足しえないが,ラフェーの構想はこの方向には向かっ ていないからであり,非マルクス主義者の目から見ればラフコニ−の構想が誰に とっても都合よいわけではない科学となってしまっているからなのである36)。 ツイ、−クラーはラフェーの態度をこのように批判しているのではあるが, ツイータラーの批判はラフェーの見解の批判という事に力点をおいたというわ けではなく,主眼はむしろラフェーが問題の多い反応をしてしまった共謀説自 体に対する反論をなすことにおかれている。かれは共謀説自体の見方が誤りで あるとして次のように言う。「シュマーレンバッハによっても代表されるいわゆ るブルジョア応用科学(sog、biir・gerlicheangeWandteWissenschaft)はいわゆ る労働者階級の抑圧に役立つのではなく,単に理性(Vernunft)に,つまり人的

行為の合理性の高揚(HebungderRationalitatmenschlichenHandelns)に役

34)LJZiegler,aa0 35)LJZiegler,aahO 36)LJZiegler,aa0 S 29 S 29 SS29−30

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −J2ラー 立つのである37)。」「『ブルジョア.』科学者は真理性(Wahrheit)ないし効率(Effi・ zienz)に対してだけ義務を感じるのであって,上っ面だけで東側の科学がなし ているように階級利害に対して義務を感じるわけではない38)。」かれはこうして 共謀説の説くようにほ,伝統的経営経済学が階級一層性をもってはいないと考 え.,かれの構想する経営経済学もこの伝統的経営経済学の延長線上にある故に, かれの言う応用科学としての経営経済学も階級−・面性をもっていないと考えて いる。ここで,われわれは,かれの研究対象の目的の取り扱いの方法として, かれが目的ほ所与(gegeben)だとしていることを想起し,階級−・面性をまぬが れているとする所与たる目的ほ何かを次に問いたい。その議論のなかでのわれ われの関心事のひとつは,かれの言う目的の所与ということに閲し,果たして 応用科学の研究対象の目的ほかれの見解に言われているように所与であるかど うかを問うことである。 伝統的経営経済学ひいてはその延長線上にあると解されるツイークラーの経 営経済学説ほ,かれの見解においてほ,道徳的に劣位な経営経済学ではなく, かれはその理由を伝統的経営経済学の選択原理(Auswahlprinzip)あるいは構 成原理(Aufbauprinzip)の内容に求めている。かれが考えを受け継く小伝統的経 営経済学とは,シュマーレンバッハの経営経済学であって,伝統的経営経済学 の選択原潜あるいは構成原理とは共同経済性(Gemeinwirtschaftlichkeit)であ る39)。選択原理としての共同経済性が存在する故に伝統的経営経済学は道徳的 に劣位ではないと説くのがッィークラ・−の見解であり,かれはこのことを明ら かにするべく次のように論述する40)。経営経済学的研究の共同経済性への志向 は,応用科学としての経営経済学,つまり手続規則の供給者としての経営経済 学が道徳的な意味における災い(Unheil)をもたらすことを防止/するよう援助 するはずだ,ということを知るためにだけなら共同経済性という概念のいわゆ る操作化(Oper・ationalisierung)は必要ない。選択原理としての共同経済性が採 8 ︵‖0 2 2 2 3 S S S ︵U︵U︵U α 37)LhJ.Ziegler,aa 38)L”JZiegler’,a a 39)LJ.Ziegler,a a 40)VglLJZiegler, α0.SS32−33

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香川大学経済学部 研究年報 25 J9β5 −J24−

用されることで,背徳的で非人間的な経営経済学(unmoralischeundinhumane

Betr・iebswirtSChaftslehre)に対する効果的な防御装置がかたちづくられる。共 同経済性ほ.,経営経済学において収益性(Rentabilitat)がすべてのものの尺度 (Ma6stab aller Dinge)であることを防止することを通じてそうした防御装置 の役割を果たすのである。つまり,共同経済性が選択原理あるいほ構成原理と して選ばれることによって経済活動の規制原理としての収益性の承認をしたと しても,このことがすべての収益のあがっている企業やすべての収益促進的手 段を科学の方から支持したり正当化したりするのでほなく,科学的に根拠づけ

られ道徳的に代表される(sich moralisch vertr−etenlassen)収益促進的諸手段 のみを支持したり正当化したりすることとなる。この意味でかれは,収益促進 的手段を共同経済性促進的手段と共同経済性阻害的手段に分け,前者のみを勧 告していこうとするのである。われわれは,ツイ」クラ、−のこうした見解に関 して,まず伝統的経営経済学ならびにその延長線上にあるかれの経営経済学説 の選択原理としての共同経済性が階級一面性を克服できているのかどうかを検 討する必要がある。そのためにほ,伝統的経営経済学が非道徳的ではないこと を言うためになら操作化ほ必要ないというかれの説に反してとりわけ共同経済 性ということの意味を明確にする必要があると解されるが,かれはその意味を 多少とも限定してはいないのである41)。共同経済性を−・次的接近として限定し 「国民経済的な財貨の浪費の防止」というかたちで限定を加えてみると,共同 経済性の追求が特定の例えば支配階級の利益促進に−・方的に役立つとは考えら れないし,またそれ故に特に道徳的に劣位な経営経済学に.向かうわけではない ことをわれわれほ承服せざるをえないのでほ.ないかと考えられる。したがって 階級−・面性の克服についてはツイークラーの言うことは一応承服されるわけで ある。次に問題となるのほ,階級一∴面的利害の否定の証ないし道徳的で人間的 たることの証としての共同経済性は直接どの階級の価値を体現しているという 41) ツイークラ、・・−・の言う伝統的経営経済学としてのシュマ・∵レンバッハの経営学説におい ても程度の差こそあれ,共同経済的経済性の概念ほ必ずしも明確に規定されていない模 様である。田島社章教授の次の書物を参照のこと。 田島社章,『ドイツ経営学の成立(増補版)』,森山雷店,1979年,特に208ページ以下。

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −了お− わけでほないもののやはりひとつの価値をあらわしているのではないかという ことである。どんな応用科学としての経営経済学にとってもそれしかありえな い価値というものがあるのではなく,ツイークラーの言う所与の価値もまた「所 与」というわけでほなく,いくつかの価値のなかのひとつの価値なのではない だろうか。応用科学にとっての共同経済性という価値は,それしかありえない 所与の価値だと確信するツイ・−クラ・−は次のように言う。「それ(収益性がすべ てのものの尺度だということを否定すること一波辺)によって伝統的経営経済 学は倫理的方向へ向かうのではなく,応用科学としてのその特別の責任を意識 した一個の科学となるのである42〉。」しかし,われわれの見解によると,共同経 済性もこれしか選びようのない価値ではなく,この意味でその所与たる特質が 消え去るや,すぐに共同経済性はやはりひとつの選択された価値だということ になり,価僧の仮言的設定を排斥するかれの態度をもここで合わせ考えるに, かれの応用科学としての経営経済学には研究対象の目的が所与とされているわ けでは決してなく,かれ自身の弁とは裏腹に,倫理的方向へ向かう規範的色合 がかれの経営学説にほ見られるのではないだろうか。 ⅠⅤ われわれはこれまでの節において,ツイークラ・一の宮う応用科学の特質をそ の重要な側面に関して浮き彫りにした。ところで本稿の序でも明らかにされた ように,かれが自らの研究課題のひとつにあげているものに,経営経済学を応 用科学として規定することに対する根拠づけを行うことがあった。それ故,わ れわれはかれによるその根拠づけの議論43)を跡づけ,場合によってはさらに進 んで検討を施すこととしたい。 ツイークラ・−は,経営経済学の応用科学としての規定に対する根拠づけをな 42)L.LZiegler,a.a0,S.32 43)応用科学として経営経済学を規定することに対するツイークラ・−の見解については次 を参照のこと。

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香川大学経済学部 研究年報 25 エ郷 −J26− すに際して,この規定そのものを直接取り上げ横棲的にそれを根拠づけるので はなく,この規定とは対立すると考えられる2つの立場を明示的に提示しそれ ら2つの立場を批判的に検討し,それらの立場の妥当性の欠如を示すことに よって応用科学としての経営経済学の規定の妥当性を間接的に結論づけるとい う消去法的議論の進め方をする。経営経済学の応用科学としての規定に対立す るそれらの2つの立場とは,経営経済学を理論的経済学の補助科学(Hilfswis−

senschaftdertheor・etischenOkonomie)として規定する立場と,経営経済学を

理論的に自律的な科学(theoretisch autonome Wissenschaft)として規定する

立場である。それ故,われわれは,これら2つの立場に対するツイークラ・−・の 批判的態度を跡づけかれの議論の特質を描き出したい。 このうち,まず,経営経済学を理論的経済学の補助科学だとする立場につい て,ツイ・−クラ・−は経営経済学の伝統に対する解釈を中心にしつつ次のように 考える44)。まず経営経済学成立期の論争45)で,経済大学(Wirtschaftshoch− SChule)ないし商科大学(Handelshochschule)における私経済学的研究(privat− WirtschaftlicheUntersuchung)は,経済学的理論の救済(Rettungder’8kono− mischen Theor・ie)のために総合大学で行われるはずであった私経済学的研究 と同様に科学(Wissenschaft)としてみなされうることが確認された。かれの見 方によれば,これらの2つの私経済学的研究のうち,経済大学や商科大学にお ける私経済学的研究ほ科学的技術論(wissenschaftlicheKunstlehr・e)であって, この科学的技術論としての私経済学的研究のみが経済学の方からは受け入れら れた46)。それに対して,経済学的理論の救済のための私経済学的研究,つまり経 済学的理論構成をより実証主義的になそうとする目的をもった実証主義にかぶ 44)経営経済学を理論的経済学の補助科学だとする立場に関するツイー・クラーの見解につ いては次を参照のこと。 LJZiegler,aa O,SS.52・53 45) ブイークラーはここに言う経営経済学成立期の論争を「シュマーレンバッハとワイ ヤーマン=シューニッツとェーレンベルヒとディールとの間にて行われた論争」(die Schmalenbach・Weyermann/SchOnitz・Ehrenberg・Diehl−Auseinandersetzung)だとし ている。 46)LJZiegler,a‖β0,S,53

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −J27一

れた経済学者47)の研究企画上のひとつの要請(eine progTammatische ForIde−

rungvonvompositivismusinfiziertenOkonomen)として当初ほあらわれた

理論的経済学の補助科学としての私経済学的研究は,経済理論家(Wirtschafts− theor’etiker)の批判のなかで,経済学的理論形成を決定的には発展させなかっ

た実り少ない研究営為(unfruChtbares Forschungsunternehmen)だと判定さ

れた48)。経済理論家のこのような判断を基礎としてかれは,理論的経済学の補助 科学としての経営経済学の実り少ないことを説くのであるが,成立期の経営経済 学的研究についてかれはさらに次のように言い,理論的経済学の補助科学とし ての経営経済学の排撃を試みる。「世紀の変わりめ頃には,明らかに,純粋科学 の理論体系特に経済学において,特殊私経済学的理論形成ないし特殊経営経済

学的理論形成(spezifisch privatwirtschaftliche bzwbetriebswirtschaftliche

Theoriebildung)をもってふさがなければならなかった間隙(Liicke)はひとつ もなかった49)。」さらにこれに続けてかれは次のように言う。「しかし,その当時

からこの方,科学的に基礎づけられた技術論(wissensChaftlich fundierte

Kunstlehre)すなわち応用科学ないし応用経済科学(angewandteWirtschafts−

Wissenschaft)の方には需要(Bedarf)bミあった50)。」

理論的経済学の補助科学としての経営経済学の排撃のためにここで用いられ た根拠づ桝も 第1に,経営経済学の成立期には経済学においては私経済学的 研究でふさがれるべき間隙はなかったこと,第2に,応用科学としての経営経 済学の方には需要があったが補助科学としての経営経済学の方は経済理論家に よって受け入れが行われなかった,ということを提示しつつ行われている。だ が,ここで第1の根拠づけにおける「間隙」とは−・体何を意味するのだろうか。 ツイークラーはこの言葉の意味を何ら明らかにしてはいないが,補助科学のな そうとした事を明確にするかたちで間隙の意味を推論すれば,われわれの見解 47)ツイークラーは,実証主義にかぶれた当時の経済学者として,エ、−レンベルヒ(R Ehrenberg),ワイヤーマン(M.Weyermann),シェーニッツ(HSch6nitz)の3名をあげ る。(LJZiegler,aa0,S53) 48)LJ.Ziegler,aa 49)LJZiegler,aa 50)L.JZiegler,αα 3 3 3 5 5 5 S S S O Oα

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香川大学経済学部 研究年報 25 J鎚75 ーJ2β− では,その言葉の意味は,経済学によっては解き明かせない私経済的現象の把 捉のために,経済学から出発しつつも場合によってはその前提とその他の言明 の双方にわたっで多少の修正を加えて得られる認識によってうめられるべき理 論上の空白部分であると解される。かれの議論は,かれが言及する経営経済学 成立当時この意味での間隙がなかったということを論証ぬきで示すことによっ て理論的経済学の補助科学としての経営経済学の否定を行おうとしているに過 ぎないのである。こうしたかれの態度は,認識進歩の観点から補助科学の不必 要性を論じるかれの議論に強く根ざしていると解されるが,そうした議論につ いては,われわれは,この後理論的に自律的な科学としての経営経済学へのか れの態度を見る時に取り上げる。さらに現代においてこうした間隙について− 体どのように.考えることができるかについてもまた一切かれの触れるところで はないのである。次に,第2の根拠づけにおいてほ,理論的経済学の補助科学 としての経営経済学が受け入れられず応用科学としての経営経済学の方が受け 入れられたという歴史的事実が単に指摘されるにとどまり,この歴史的事実が あったからといってこのことが理論的経済学の補助科学としての経営経済学の 積極的否定につながらないのではないかと解される。 さて,次にわれわれは,経営経済学を理論的に自律的な科学だとする立場に 対するツイークラ・−の見解51)を跡づけなければならない。かれによるならば, 理論的経済学の補助科学としての経営経済学は歴史の流れのなかで実り少ない ことが決定されたが,理論的に自律的な科学とし七の経営経済学の必要性(Not・ Wendigkeit)と可能性(M6glichkeit)は再三主張されている。かれにとって問題 となるのはこれらの必要性と可儲性を根拠づけることができるかどうかであ り,かれの結論を先取りすれば,そうした経営経済学は不必要であり不可能だ というのである。 ツイークラーはまず理論的に自律的な科学としての経営経済学の不必要性の 方に関すると考えられる議論を次のように展開する。従来「経営経済学的」(be− 51)経営経済学を理論的に自律的な科学だとする立場に関するツイークラーの見解につい ては次を参照のこと。 LhJZiegler,aa0,SS54・57

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −J29− triebswirtschaftlich)だとみなされてきた理論は,経営経済学以外で展開され てきた他学科の理論(fremde Theorie)であるということが容易にわかるとい う認識に立脚しながらかれは次のように考える。経営経済学は自らの学問基盤 (Boden)をもつ場合にのみ.この学問基盤を発展させることができるのであっ て,これをもたず他学科の理論に基づく研究ほ他学科のその理論を一層発展さ せる権利をもたない52)。ここに他学科の理論を借りそれを一層発展させようと する研究とは,かれの用語法における既述の「理論的経済学の補助科学として の経営経済学」という時の補助科学に相当すると解される。なぜなら補助科学 とは参る学科の理論を借り,場合によってはその前提とその他の言明に多少の 修正を加えつつ営まれる科学だと解されるからである。地学科の理論を借りそ れを一層発展させようと努力する研究としての補助科学に対してかれが与えた 剰窃科学(Plagiatwissenschaft)という表現53)をここで生かすとするならば, かれのここでの主張は,実体は剰窃科学でしかない補助科学的研究は他学科の 理論を一層発展させる権利をもたないということになる。ツイ・−クラーは,当 該の理論をつくった学科を創始科学(Urheberwissenschaft)と称し54),剰窃科 学が創始科学の理論を一層発展させる権利をもたない理由を次のように考えて いる。すなわち,剰窃科学は創始科学の批判を大幅に免れているからであり, このことほ,創始科学からの隔絶がその創始科学の注目をあびる機会を少なく させているということでもあり,こうして,ツイ、−クラーの見解によれば創始 科学に.まともに相手にされない剰窃科学ほ,創始科学の研究や議論に対して決 して,実り多い,つまり認識進歩をもたらす関係(fruchtbarer,erkenntnisfort・ SChr’ittstr良Chtiger’Zusammenhang)にないからなのである55)56)。このことが理 52)LJhZiegler,aa O,S“54 53)LJZiegler−,aa O,S.55 54)LJ.Ziegler,αa O,S.55 55)LJ.Ziegler−,aa O,S55 56)ツイークラーは剰窃科学的な「理論的に自律的な科学」としての経営経済学の典型と してグーテンペルク(EGutenberg)の経営経済学説をあげ次のように.論じる。「(理論 的)科学としての経営経済学ほ,60年釆経済学および他の重要な理論的社会科学の後を のろのろ付いてきたのであって後を何とか付くことのみで既に一大問題であって,グー テンペルクによって規定された経営経済学的研究の最終目標(Endziel)つまり企業ない

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香川大学経済学部 研究年報 25 エ9β5 −J3クー 由とされているわけであるが,われわれがここで注目しなければならないのほ, 剰窃科学が創始科学の理論を発展させる権利をもたないその理由が,まずは剰 窃科学の創始科学からの隔絶に求められてはいるものの,このことは一・応表面 的理由であって,最終的理由ほ,隔絶されていることによって剰窃科学が創始 科学に実り多い関係にないことに求められ,この場合しかも実り多い関係とほ 認識進歩をもたらす関係のことが意味されているのであるということ.なのであ る。そして,このことが剰窃科学の不必要性に.導くとツイークラーほ考えてい るのである。つまり剰窃科学が創始科学の理論を−・層発展させる権利をもたな い最終的理由ほ剰窃科学が創始科学に対して認識進歩をもたらさないというこ とに求められているのである。そしてこのことにかれほ剰窃科学の不必要性の 理由を求めようとしているのだと解される。 このように,創始科学に対する不必要性を論じることによってツイ・−クラー は剰窃科学の不必要性を説くのであるが,われわれの見解では,理論的に自律 的な科学としての経営経済学の不必要性の議論ほ,理論的に自律的な科学と称 しつつも従来はその実体は補助科学ないし剰窃科学としてあらわれた経営経済 学の不必要性をめく“る議論というかたちで行われているのであって,〕翌論的に 自律的な科学として本来含意されている経営経済学の不必要性が論じられたわ けではない。ここに理論的に自律的な科学として本来含意されている経営経済 学ということにおいてわれわれが考えているのは,他学科の理論の補助科学的 模倣ではなく,そうした理論とほ全く別個の前提とそこから導かれた言明を伴 う斬新な体系である。理論的に自律的な科学としての経営経済学の不必要性で ほなく不可能性を論じるときにはツイークラ・→ほこうした理論的に自律的な科 学として本来含意されている経営経済学をめくヾって以下のように議論する。そ

し『経営経済』の経営経済学的理論(einebetriebswirtschaftliche Theorieder Unter.・ nehmungbzw≫Betr・iebswirtschaft≪)(の完成一波辺)はさらに一層遠くなってしまっ ているのである。」(LJZiegler,a a O,S。55)しかし,グーテンペルクの研究努力を 剰窃科学であるとし,したがって不必要な研究努力であり,完成すらしていないと見な すツイークラ、−のグーテンペルクに対する評価は極めて厳しく,ある意味で極めて特異 な評価であり,また本稿のⅤⅠ節でわれわれが剰窃科学の不必要性に関するかれの論述に 疑いを差し挟むことを先取りすれは,妥当性を欠く評価である。

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応用経済科学としての経営経済学の成立根拠 −J3J− してその際にもかれは認識進歩の観点を一層明確にうち出し,その観点からそ うした科学の成立の不可能性を論じようとするのである。 理論的に自律的な科学としての経営経済学の不可瀧性を論じるツイークラー がかれ自らの議論・の根拠となすものほ巨大科学(greatscience)の『研究規則』 (≫Bearbeitungsvorschr′ift≪)である。ここでわれわれほこの研究規則そのもの に先立って,かれが用いる巨大科学という言葉について触れておきたい。なぜ ならば,かれにとって純粋科学は巨大科学を意味し,応用科学も純粋科学を基 礎科学としてこれに基づいて展開されるのであるから,巨大科学は重要な意味 をもっているからなのである。しかしながら,巨大科学という言葉については, かれはポ/く−・(K“Popper)がその著書『研究の論理』で再構成を試みた科学的研 究という以上に限定を施してはいない57)。われわれの解釈によれば,ツイ、−ク ラーの著書における文脈から,かれが純粋科学の唯一・の研究形態として考えて いる巨大科学という言葉の意味は,広範な研究対象領域における現象を統一・的 な諸前提をもちつつ説明していくことのできる科学のことであると解され,か れは経済学を巨大科学のひとつだと考えているのである。こうした意味をもつ 巨大科学の研究規則に話を戻すと,「巨大科学研究の『研究規則』によるならば, 個別断片せ摘出し,そこをつつきまわし,そこをめぐってひとつの『壌論』を かたちづくり,あるいは理論の維持を,ひとつの摘出された断片の把捉がうま くいくか失敗するかに委ねることほ許されないのである58)。」(Die ≫Bearbei−

tungsvorschriften≪dergreatscience・For・SChungnachistesunzulえSSig,Sich

einzelneBr・OCkenherauszugreifen,daraufrumzuhackenunddarumeine≫

Theorie≪zubastelnoder・dieBewahr・ungeiner・Theorievoneinergelungen

Odermi61ungen Umfassung eines herausgepickten Brockens abhangig zu

machen.)ツイ1−クラーによると,これらのことを許さないというこの研究規則 によって,問題領域(Problemfelder)の細分化(Zer’fur・Chung)が妨げられ,科学 的進歩(wissenschaftlicherIFor・tSChr・ift)に対する問題領域の豊富さ(FruCht− 57)LJ.Ziegler,a a O,S6FuBnoteポパーの著書『研究の論理』は次のものである。 KR Popper・,Logik derEbYSChun8,Wien1934 58)LJZiegler,a a O,S56

参照

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