小 田 豊
先生(独立行政法人国立特別支援教育総合研究所理事長)木 下 勝 世
先生(千葉市幼稚園協会統合保育推進小委員会委員長・愛隣幼稚園長)赤 田 憲 一
先生(千葉県特別支援教育研究連盟理事長・千葉市立新宿小学校長)御 園 愛 子
先生(全国保育士会会長・みつわ台保育園長)青 山 春 美
先生(NPO法人「コスモスの花」理事長)記念講演・シンポジウム実施報告書
「障害のある子ども・気になる子どもへの
保育現場での支援のあり方を考える」
平成20年2月16日(土) 13時~16時30分
記 念 講 演 記念シンポジウム共に豊かに生きる社会実現を願い
<地域で共に生きる>
幼い子どもも高齢者の方も、学習上の障害や生活上の困難性のある人もない人も、共に豊かに生 きる社会の実現を願い、目指しています。福祉思想や社会観の進歩に伴い、障害等のある人たちを も包み込む社会を追究する気運が高まってきました。今日、地域で共に生きることを当たり前のこ とと認めるインクルージョンの質が問われる時代となりました。 質の高いインクルージョンを実現するには、社会の意識改革が不可欠です。障害者と障害者の家 族に対して、自立への努力義務を課す時代が長く続きました。障害のある人が、社会で自立的に生 きることは、義務ではなく権利です。この権利を保障するには、必要にして十分な教育的・福祉的 支援が欠かせません。この支援は、障害のある人、一人ひとりのニーズに応えられるよう進められ るべきです。さらに、社会における障害や困難性のある人の主体性が確保され、完全参加が保障さ れる社会の実現が究極の課題となるでしょう。<心の教育>
教育は、知育・体育・技育・徳育から成るといわれますが、知育をHeadの教育、体育をHealth の教育、技育をHandの教育とすれば、徳育はHeartの教育となります。感性を磨き、高める心の 教育とみることができます。感性の教育は、品性の教育に通じます。知育、体育、技育のいずれも 重要には違いありませんが、それにもまして、心の教育は大切で、Heartの教育こそ、4つのHの 教育の根幹と言えます。豊かな心を培い、感性を磨き、高めることを何よりも大切と考えます。 心の教育でいう心の原点は、人を思い、思いやる心と考えます。共に生きる人と感じ合い、分か り合い、支え合う心です。人の心の痛みにも、喜びにも共感し、共に生きる共存の心です。学生生 活・社会生活を通して、共に生きる心を培い、磨き、高めることで、豊かな人間性に基づく道徳心 も、高い倫理観もはぐくまれるものと考えます。質の高い学生生活・社会生活を通して、確かな道 徳心も倫理観も身につくものと思います。当初から、障害に関する専門性を身につけることを大切にしています。障害について学ぶことで、 子どもにも高齢者の方にも、やさしく対応できる支援者になれると確信しています。 本学では、教育・福祉の分野において、社会の発展に寄与する有意な人材の養成を目指していま す。将来、斯界での活躍が、即社会貢献に通じるものと考えます。今後は、植草学園大学(平成20 年度開学)とも協同して、地域・社会との交流・連携・協同の推進に努める所存です。本日の講師 小田豊先生(独立行政法人国立特別支援教育総合研究所理事長)はじめ、シンポジストの先生方、 ご参会のすべての先生方にお礼を申し上げます。 平成20年3月 学長
小 出 進
目 次
第一部 記念講演
「これまでの学校(保育所・幼稚園)、これからの学校(保育所・幼稚園)
新しい時代に対応した学校教育のあり方を考える」
1小 田 豊
先生(独立行政法人国立特別支援教育総合研究所理事長)第二部 記念シンポジウム
「障害のある子ども・気になる子どもへの保育現場での支援のあり方を考える」
14 コーディネーター(兼:シンポジスト)木 下 勝 世
先生(千葉市幼稚園協会統合保育推進小委員会委員長・愛隣幼稚園長) シンポジスト赤 田 憲 一
先生(千葉県特別支援教育研究連盟理事長・千葉市立新宿小学校長)御 園 愛 子
先生(全国保育士会会長・みつわ台保育園長)青 山 春 美
先生(NPO法人「コスモスの花」理事長)質疑応答
31植草学園短期大学 こんにちは。紹介にあずかりました小田でございま す。 今回、植草学園短期大学が、GPに選定されたわけ です。特色GPの“GP”というのは、グッド・プラク ティクス(Good Practice)と言うんですが、とてもよ い実践をやっている大学などに補助金を出しましょう という制度なのです。 全国の中でも七つしか選ばれなかった短期大学の一つが、この植草学園短期大学です。植草学園 短期大学が実行しようと思っていらっしゃる教育実践は、非常に現代の時流に合っているし、今後 の新しい教育への対応に向けて、かなり影響力があるのではないかという期待感を持って文科省が 選定したわけです。全国から私立の短大・大学、国立大学を含めて、たくさん応募していただいて いるのですが、その中から−短期大学のほうでは珍しいんですが−七つの中の一つであるというこ とです。 私は、もともとは幼児教育が専門です。臨床教育学を専攻してきて、長いあいだ文部省にいまし た。10年ぐらい文部省で何をしてきたかというと、全国にカウンセラーを置けるようにしたいと考 えていました。そして、平成15年までには、すべての小・中学校には、2校に1校ぐらいの割合で カウンセラーを置くことができるようになりました。ということで、一応仕事が終わって、次に幼 稚園にそういうものを置くかどうか考えました。しかし、実際には、幼稚園ではカウンセラーとい うものは必要ないのかもしれない。むしろ、保育アドバイザーみたいな人を求めているのではない かという考え方で、今は新しい方向へ行きつつあるということになっているわけです。 この保育アドバイザーというのは、発達スキルがわかる人が必要ではないかということもあっ て、気になる子どもたちや、いわゆる発達に障害を持っている子どもや、もちろん、他の障害のあ る子どもたちにかかわっての支援のアドバイスをします。しかし、それだけではなくて、健常な子 どもたち自身も含めて、すべての子どもたちに対して、子育てというかたちを含めて支援をしてい
「これまでの学校(保育所・幼稚園)、これからの学校
(保育所・幼稚園)、新しい時代に対応した学校教育の
あり方を考える」
国立特別支援教育総合研究所 理事長小 田 豊
先生記
念
講
演
植草学園短期大学 く必要があるだろう、という考えのうえにあるものなのです。単に心の問題だけを扱うような臨床 心理士のようなものをその幼児教育現場に置くのではなく、むしろ、あとから話しますが−幼児期 が最も人生の中で一番基礎を培う、人間が人間になっていくための基礎を培う時期なので、その 基礎を培う時期が−例えば臨床心理士ではなくて、もっとハートのある保育アドバイザーというか たちのものを置くべきではないかと思っています。保育アドバイザーは、すでに学校で任命されて いる−発達障害の子どもたちをつないでいく−特別支援教育コーディネーターに近いかもしれませ ん。特別支援教育コーディネーターでも特別支援学校教諭の免許状を持った人が多くいる訳ではあ りませんが、通常教育の免状しか持っていらっしゃらない人や地域等とつながりを持つというとこ ろをコーディネートするというのも必要だなと思うわけです。 しかし、日本の保育の世界では、特別支援学校教諭のような免許状が出ていないのです。これは 世界でも珍しいのです。世界中の今の主流はどちらかというといわゆる障害児にかかわる教員の免 許状を持った人が、幼稚園とか、保育所とか、小学校とか、中学校教育にかかわるというかたちに なっています。しかし、日本は違っていて、幼稚園や小学校や中学校の免許を持っていて、それを 基礎免に、障害に関する免許状を持つ制度です。 障害のある子どもたちの教育というのは一人ひとり違う。障害なども違うんですね。例えば100 人の障害の子どもたちがいるとすれば、100とおりの障害の数があります。これは、いわゆる同じ かたちというものがない、一人ひとりが違うということですね。そのことを学んでみると、あとで 詳しく説明しますけれど、幼児教育の一番のキーワードは何ですか?ご存じですか。 実は、幼児教育と障害のある子どもの支援というのは、共通する部分が多いのです。 さて、本日、学習指導要領の改定案を公表しています。でも、気になるのは、「小・中学習指導 要領」と出ていて、幼稚園のほうは、ちょこっと出ているだけなのです。実は、一昨日、保育所保 育指針の文書を、初めて国の告示行為として出した。幼稚園はずっと前から告示行為なんです。告 示行為というのは何かというと、国の法律なのです。保育所保育指針はこういう法律ではなくて、 今まではどちらかというと局長裁定と言って、厚生労働省の局長さんが「裁定しましたよ、これに 近いことをやってね」というのが裁定。告示というのは、大臣が伝達するものです。その幼稚園の 案も今日、出たんですね。 こういうところで一番に気になるのは、小学校では、「主要教科」という言葉が初めて出たんで す。今まではすべての教科が平等だった。どの教科が主要で、どの教科が主要ではないということ はあり得ない。しかし、初めて文科省も、とうとう使い始めた。 だから、主要教科の授業量が増すという視点で、そういうかたちで、国語、算数、理科という授 業数が従来よりも増す。従来よりも増すということは、10年前のレベルに移る。そういうことで、 この話をすれば、ずっと長くなるのであまりできませんので、ぜひ新聞を読んでいただければと思 います。 それで、先ほどの話を元に戻りましょう。一人ひとりと言うのも確かにキーワードです。幼児教
植草学園短期大学 育、いわゆる保育所にしても、幼稚園にしても、そういう教育施設としてのキーワードは、基本的 に一人ひとりです。一人ひとりという点では、非常によくわかるよね。だけど、幼児教育で一番大 事にしているキーワードというのは、「適当」という言葉です。知っていましたか。 保育所保育指針にも、幼稚園教育要領にも「適当」という言葉がありますが、この「適当」とい う言葉は、一昨年の12月、ちょうど1年たちますけれど、教育基本法が新しく変わって、幼児教育 が入ったんだけれども、その中にも「適当」という言葉が書いてある。 これは、幼児を最も大事にするキーワードなのです。幼児教育で言う「適当」という言葉が、実 はあとからちょっとわかったんだけども、障害がある子どもたちにとっても、すごい大事なキー ワードになる。教育だから、何となく「適切」と思いたいよね。国会でも何回も言われて、「適当」 という言葉を消せと。「適切」でしょうと、代議士さんに何回も言われたのです。 日本語の先生はこの「適当」を何と評価するかわからないが、全体の対応として見ると、幼稚園 の先生や保育所の先生、子どもを目の前にしている人たちにとっては、一番大事な言葉なんです。 だすら、「適当」という言葉がキーワードなんです。 裁判関係に出てくる先生も、いろんな先生も、えっという変な顔をしている。でも「一人ひとり を大切に」という言葉と、「適当」というのはイコールなのです。ここのところが一番大事な、今 日のメーンの話かもしれない。 今、教育全体が大きく変わろうとしている。今日も新聞に出ているように、幼・小・中・高等学 校も含めて、大きく教育が変わる。その大きく教育が変わるときに、去年1年間を考えてみて、教 育基本法というのが大きく変わっている。つまり、教育の憲法のようなものですね。そういう教育 にかかわる憲法のようなものも変わってきた。60年間も変わらなかったものが変わってきた。それ はなぜなんだということですね。 子どもの現状という、学校教育について言えば、これは幼・小・中・高の先生方に10年ごとに、 ランダムに学校に質問を出している。そして、学校の先生方に対して、「今の子どもたちに変わっ たことはありませんか」という質問を出している。それがずっと、明治の終わりのときから続いて いるんだそうです。文科省は続けているんですが、1960年に入るまでは、どちらかというと、あま り子どもが変わっていないというような感じでした。ところが、1960年代に入ってから、10年ごと に調査をすればするほど、子どもたちにこんなところが出てきましたよというふうに言われるよう になってきました。 一番最初に子どもが変わってきたなと思えるできごとは何かというと、1960年、非行ということ が変わってきました。非行と呼ばれるものは、60年代だけじゃなく、現代も続いているんです。考 えてみるとショックですが。この非行という問題ですね。いわゆる今までの非行というのは、明治 から1960年代になるまでの、そういう非行を起こしている少年たちや、少女たちをつかまえてみる と、どちらかというと大人に対して抵抗したい。ちゃんと悪いことだと知りながら、ちょっとやっ てみる。でも、すぐに反省はするという、子どもたちが何か悪いことをしても、「ごめんなさい」
植草学園短期大学 と謝るような雰囲気の非行の状況です。 ところが、1960年代に入ってからの非行は、謝るとか謝らないとか、悪いとか悪くないとかいう こととは違う方向に変わります。これは現在も続いているんだけど、“遊び非行”というかたちで、 例えば万引きした少年・少女たちをつかまえて、「きみ、この万年筆が欲しかったの」と聞くと、「べ つに」と言うんです。じゃあこんなことをしたの?「べつに」と言う。理由もない、何もない。「べ つに」という、理由もなく、何となくという感情で悪さをするようになる。そういう点が60年代以 降ですね。 それが70年代に入ると、今、最も文科省が困っている事例の一つでもある、不登校です。これは 現在も続いています。だけど今は、全面登校拒否ではないけど、3時間登校拒否というのが出てく る。なぜ登校拒否から、不登校という言葉に変わったんですか。ご存じありませんか。登校拒否と いうと、どちらかというと学校が一番偉くて、学校がすべてだ、どちらかというとね、そういうニュ アンス。 学校は何のためにつくったのかと言ったら、子どもたちの自由感あふれる唯一の生活の場とし て、学校がつくられたのです。子どもにとって自由な空間のうえに、学校はつくられた。だから、 子どもにとって最高の場所であるというのが学校だった。そうやってつくられて、ずっと来たにも かかわらず、子どもたちが学校へ行かなくなったということですね。 子どもにとって最高の場所、豊かに過ごせる場所は学校だということでつくったはずなのに、子 どもが来ないということで、それに対してみんなはどう考えたか。学校の先生方や大人は、登校拒 否をしていると言って、「こんなにいい学校なのに、俺たちはこんなにいい教育をしてやっている のに、あいつは学校へ来ない」という言い方で、登校拒否と言った。つまり、学校へ来ない子ども のほうが悪いという考え方だった。 だから、どうしたかというと、当時は先生方が登校拒否をしている子どもの家庭訪問をして引っ 張り出したのです。絶対に来いと言って引っ張っていったり、友だちを何人か行かせて、学校へ来 いと促したりするようなかたちでした。それは、登校を促せば促すほど、その子どもは行かなくな るという結果を生み出した。 それを、お医者さんやカウンセラーの方が、一人ずつ子どもに対して面接をしながら、子どもた ちによく聞いてみると、本当は学校に行きたい。学校を拒否しているんじゃなくて、子どもたちは 学校に行きたいけれども、学校に行こうとすると、頭が痛くなったり、おなかが痛くなったり、足 がすくんだりということがわかる。つまり、本当は行きたいのにもかかわらず、行けないという状 況。それは不登校の現象だったということになった。子どもは悪くなかったのですね。 でも、まだ今でも学校の先生の中では理解していない人がいて、「学校へ来ないやつは、けしか らん」と言って、引っ張ろうとする先生がいる。引っ張れば引っ張るほど行けない。しかし、子ど もはどちらかというと、本当は学校を愛している。学校に行きたい。先生方や友だちに会いたい。 でも、どうしても足がすくんで出ない。どこか、何か、それは学校恐怖症というのが正式な名前で
植草学園短期大学 す。 そういうかたちで、学校が変わってきている。学校が子どもにとって最高の世界の場所じゃない んではないかということを、ひそかに教えてくれているという意味では、不登校の子どもたちとい うのは、ある意味で把握して一人ひとりを見なければならないということに、最近になって気がつ いたんだけど、ずっと登校拒否児と言って学校へ来ない子は悪いという、こういう理論を絶対動か さない人もいたのですね。 でも何とか、不登校が話題になりかけたのは、1980年代が終わったぐらいからです。1990年代ぐ らいから不登校と呼ばれるようになったのです。今は、そういう子どもたちが少し翼を休めて、そ の子が本当に学校が怖くないという気持ちになったときに迎え入れようという方向に、もう変わり つつある。 でもまだ、そんなに変わっていないところも、実はあるんですね。不登校の問題は今も続いてい るわけですが、そうこうしているうちに今度は不登校ではなく、学校へ来てくれるのはいいが、そ の子どもたちが校内暴力を起こす。 今までは、学校さえ来れば、学校とは本当に子どもたちが自由に遊べる、子どもたちだけの世界 があった。子どもたちが唯一許される世界で、大人の手も入れない場所というかたちで、学校とい うのはできた。だから学校の先生を聖職と言いますね。神の手と言って、神から唯一許されている 人が先生だ。 今、そういう先生というかたちのものが、校内暴力を起こしたときに、先生というのはけられる わけです。「てめえ」と言われたり、「先公」と呼ばれたりする。今でも、不幸な人がいらっしゃる んでしょうね、中学校や何かには。そういう校内暴力が1980年代に始まるということです。 本来これをもっと追究すれば、もっといろんな課題があるんだろうと思います。実際に、こんな ことを起こしているのは、不登校と同じような潜在のものがあるんだろうということで、その次に 今度は1990年代に入ると、破壊行動や集団逸脱行動を起こす。そういうふうに学校が変わってきて いるんですね。 例えば今、学校ではこういうことが起きているらしい。この時代のことだけど、宿題をしてくる やつは、いじめに遭う。掃除をまじめにやると、いじめに遭う。こういう傾向にあるんですよね。 何か、ええかげんにしとったほうがええだとか、学校の先生の言うことは聞かんでもええ。学校 なんてどうでもいいんだ。試験のことばかり、尾崎豊の歌じゃないけども、校内のガラスを、があっ と割った歌があったじゃないですか。気持ちがいいだろうとは思うけどね。 だけど、そうやって一番自分たちが自由で、子ども同士が自由になれる場所を壊していく。破壊 行動をしていく。集団逸脱行動としては、真面目にやることがよくないことだというような考え方 に変わっていく。子どものほうからの言い方をすると、そうですね。 そうしているところを、学習障害、発達障害、子ども虐待、失感情言語化症候群というのが出て くる。この中でわかりにくいのは失感情言語化症候群。これは何かといったら、例えば、授業をし
植草学園短期大学 ていても、ものすごいおしゃべりな人が、ばあっとしゃべるわけ。実際にものすごいよくしゃべっ ていて、人の話は聞かないんだけど、しゃべっていて、「あ、じゃあ、わかった、わかった。じゃ あきみ、代わりにこの質問に答えてくれるか」と言ったら、急に言わない。 保育所や幼稚園の先生方が多いからわかるだろうけど、幼児の特徴じゃないですかね。子どもた ちに、「今日は楽しかった」と聞いたら、みんな「はあい」と手を挙げる。「じゃあ、楽しかった話 をしてくれるかな」と言ったら、「はあい」と手を挙げてくれるから、「はい」と当てたら、急に言 わない。言わなくなると先生は、「ああ、楽しかったんだよね、言ったね」。「うん」。「じゃあ、隣 の人に話してもらおうかね」と言って隣の子に当てたら言わない。 「じゃあ、もう1回話してくれる人、話せる人」と言ったら、みんな「はあい」と、さっき黙っ ていたのに、また手を挙げている。実際には話をしたい。おしゃべりで話したいのに、きちっと話 をすることができないというような、言語化がうまくいっていない状況なのです。ですから、幼児 期は当然、まだ言語化がうまくなっていないので、自分の思ったとおりにしゃべれないから、きち んとしゃべれないなと思ったときに緊張してしまう。 それが今、高校生以上の人たちの学校で、大学生にも多いですね、失感情言語化症候群。授業中 はめちゃくちゃしゃべるくせに、「はい」と当てたら言わない。おしゃべり上手の話し下手。しゃ べるのは、いっぱいするんだけど、実際には話ができない。それが失感情言語化症候群ですね。こ ういう子どもたちが増えてきている。 一般として、不定愁訴症候群というのは、朝からつまらない。何をやっても面白くない。「つま らない」「べつに」と言う不定愁訴症候群。いつも、いつも、学校のせいにしてとらえるのですね。 この中に混じって、今日のテーマの、学習障害とか、発達障害という子どもたちの問題が出てくる。 これが今日出ている新聞を見てください。はっきりこれが入っております。学習障害、発達障害 というものが、初めて学習指導要領の中に位置付くことになります。LD、ADHD、アスペルガー という言葉が初めて入ることになります。 この学習障害、発達障害というのは、よくご存じだと思うけど、LDとか、アスペルガーとか、 ADHDとか、ここまではよく知っているでしょう。実際もご存じですね、どういう症状か。本当 の専門家と言われている人は、ほとんど日本にいないのです。実際にはいないということですが、 でもみんなが知った気になってしまう。知っているような気になっちゃって、何となく、私たちは 気になる子だけを挙げてしまって、実は大変なことをしているよね。 一方では、教育を改革しなきゃいけないということで、教育というものは、まず制度化される ことで、きちっきちっとしていかなきゃいけない。そうなることで、アスペルガーや、ADHDや、 LDが目立つようになる。つまり、LD、学習時に障害がある子や、ADHD、いわゆる、じっとし ていない子どもたちとか、それから学習を受けないという、認定証の障害を持っているような子ど もたちというのは、ずっと昔からいたんですね、実は。これは新しい話ではないんです。 もう一つはっきりしなきゃいけないのは、障害と書いてあると言っても、確かに障害があると言
植草学園短期大学 えば障害だけれど、知的な障害とか、身体に障害があるとか、耳に聴覚の障害があるとかいう、私 たちの従来持っているような障害の範疇と、この人たちとは違うのです。 その方たちは障害と位置付けられていて、学校もきちっとあるんです。そうですよね。盲学校も あるし、聾学校もあるし、実際に受けるような学校であれば、知恵遅れの子どもたちを受け持った ときに、クラスによっては学級がありますよね、そうですね。そういうかたちになっているんだけ れども、この子どもたちは障害児として位置付けられている。特別支援教育に位置付けられる。 でも、この学習障害、発達障害の子どもたちは、従来言われていた障害のある子どもたちと同一 ではない。似て非なるところがある。そこが大きな問題なんです。 ここはわかりにくいところだと思うけれど、学習障害や発達障害がこういうふうになって出てき 始めたけど、これは非行や、不登校や、校内暴力とかと同じような背景の中から出てきているとい うことを理解してほしい。 一緒ではないだろうと思った人、何となく、LDとか、ADHDとか、アスペルガーとかは、最近 になって増えたんだなと思っている人が多い。それはあり得ないということですね。たぶん最後に、 人間がこの世の中に、地球上に生存してから、あとから気づいたわけです。われわれの学習障害や 発達障害が今、来たんです。 一番よく知っているのは、聖徳太子をご存じですか。9人の話をいっぺんに聞いた、そういう話 ですよね。これはどう考えてもLDですよ。LDじゃないかもしれないけど、アスペルガーか、発 達障害ですよ。 聖徳太子の最期はどうなったか知っていますか。聖徳太子の若いころの話は、素晴らしいという けど、生涯どうなったかは聞いていないよね。やっぱり聖徳太子も、ある種の差別を受けたんじゃ ないかな。人間としての素晴らしさで、人間としてどっちが正解かと言ったら、聖徳太子が人間的 で、われわれのほうが非人間的なんです。どういうことか、わかる? 例えばどういうことかと言うと、忘れるという力がありますよね。忘れるから人間は生きていけ ているんですね。忘れなかったら、とても生きていけないですよね。ところが、聖徳太子という人 は忘れていないんです。すべて聞こえたものは、全部聞こえてしまって、それが消えない。 人間が持っている脳というのは、実はいったん聞いたものは消えないと言われてはいるんです ね。もとはというと消えないとは言われているけど、実は人間は生きていくために、聞いても好き な人の話しか聞こえないなど、適当に忘れるという力を身につけている。 私たちは人間と言うけれど、実は、聞こえたら全部聞こえるほうが危険なのです。本当は。でも、 生きていくために、便利がいいほうに生きたために、徐々に、捨てたんです。全部を覚えている力 を捨ててきたということですね。 すごく大事なことだけれど、本当に、ここにいらっしゃる皆さんの中にも、大変失礼な言い方だ けど、たくさんLDはいらっしゃると思います。 私は今、特別支援教育総合研究所というところにいます。来年は幼稚園の先生や保育所の先生向
植草学園短期大学 けに、そういった研修を考えたいとは思っていますが、それは学習指導要領が変わってからです。 今度の学習指導要領では、特別支援教育は必ず幼・小・中・高、大学まで一貫してしなければいけ ないと書かれていますので、大変強い、いい学習指導要領ではあります。 私が勤めている隣に、筑波大学附属特別支援学校というのがあります。それが今は、高機能自閉 の専門になっています。3歳児から小学校6年生までの子どもたち、いわゆるコミュニケーション 障害の子どもたちです。 4月からの私の最初の仕事は何かと言いますと、この幼稚園と小学校の入園式と入学式であいさ つをするんです。でも、私のあいさつは必ず1分以内に終わらなければいけません。いきなり小学 校や幼稚園に突然連れてこられたわけですからね。だから、子どもたちは、必要以上にものすごく 緊張してしまって、パニックを起こすこともある。だから、1分ぐらいでやめてくださいと。「お めでとう。よく入ってきたね」と言って、子どもが、ぎゃあっと言ったときに、さっと逃げて、「は い、これで理事長先生のあいさつは終わります」という。 これが6月に入りますと、どのぐらいの時間あいさつできるでしょうか。15分ぐらいできます。 もうきちっと座っています。つまり、何回も言うけれど、この子どもたちはそういう意味の障害児 じゃないの。障害のある子どもたちの教育方法ができていないけれど、今一番できていないのは、 この発達障害と言われている子どもの教育の方法。 発達障害とか学習障害の共通項は、コミュニケーションの障害なので、他者に対して、どう自分 が許されているか、この言葉が入っていない。その中身は、一人ひとり全部違うのです。だから「適 切」では困るんです。 万引きをしてしまうある子どものエピソードです。私が引き受けていた子どもなのですが、カウ ンセラーの人が教育相談をしたいと申し出た。そこで、「一人ひとり違いますから、あなたが今ま で触れた、過去に持っていた経験を話さないでください。経験を押しつけないでくださいね」と 言った。しかし、実際には、今日を限りに万引きをやめなさいと、ずっと説得しちゃうんです。「や めなさい、やめなさい」と言って。 その子どもにやめなさいと言ってもやめられないだろうなと思ったけど、早く部屋を出たいもの だから、「やめます」と言って、指切りしちゃって帰る。それも指切りしたら、さっと帰る。その 先生が出てこられて、「ばっちりです。私も指切りしましたから、もう明日から何もしませんよ。 万引きしませんよ」。その日が一番危ないんですよ。すぐに万引きしてました。 いつもその子が「先生、万引きするのはよくないね」と言ったときに、私は、いつも、ああ、つ らいね、つらいよなって聞きました。それ以外はない。「つらいなあ」。「僕、わかりました」と言っ て帰れる。 1年7カ月ぐらいたったときに、私のところに来て、「先生、今日から万引きやめるわ」と。え えっと言ったんだけど、今のところやめています。その子が八王子の小学校の先生していると聞い た。ときどき電話してきます。もう結婚して子どもさんもおられます。父親になった。
植草学園短期大学 出会った後、何か支援しようとしたとき、絶対わかってくる難しさがある。何かをおかしいと言 うのは、わりと簡単。しかし、治そうなんて思ったらもっと悲惨になるよね。 みなさんたちは、こういう研修会に聞きに来たときに、何かつける薬をもらいたいと思っている。 それをやると本当に困る。一人ひとりのことをどう受け入れてくれるだろうか。一人ひとりへの方 法がある。それを見つけるのが大変。コミュニケーションの方法は絵で示したり、言葉で示す場合 もあるし、身体を動かす場合もある。さまざまなんです。一人ひとりが全部違うんです。 一人ひとりが違うということは、「適当」ということです。「適切」にしちゃうと、一つ一つしか つくれない。子どもの適切なことを見つけることが教育になると、そこでは適切だけど、隣で適切 ではない。 幼児の教育はそうじゃない?発達がすごい、1カ月単位で進んでいる。ものすごく賢そうなこと を言ったら、次の日はもう???みたいことを言っていたりする。とんでもないね。幼児のときは 一気に夢の世界に入ったり、夢の世界から一気に科学的な世界に自分で入っていく。嘘もジョーク もない。 保育所、幼稚園の先生に聞くけど、「ここに大きな池があるよ。この池にはワニがいるわ」と言っ たら、子どもはひっくり返って、こうやって怖がる。言った瞬間からもう夢の中に入ってくれて、 その世界のファンタジーの世界に入っていく。言った先生は、そんなもの冗談だから、入ってこな い。そうすると子どもは、こいつは嘘つきだ。こいつは俺らの仲間ではない。必ずきちっと切れて いる。子どもって不思議なんですよ。 親御さんの大きな問題なのは、水たまりがあって、誰もつからないんだけど、子どもは水たまり があると、入りたくなるでしょう。だけど、賢い子どもがいて、「この水たまりに足を入れたいん だけど、いい」とお母さんに聞きます。お母さんを試すのですね。お母さんは一瞬ためらう。そん なの、わかっても、駄目、駄目というのが心の中にあったけど、いいのかと聞くと、「いいわよ」 とちょっと遅れて言う。息子は、全部読み取る。学習しているんですからね。本当は入れと言って いるくせに、本当は入っちゃいけないということを言いたいんだよ。子どもは入らないです。入ら ないでいる子どもを見て、親も「入りなさいっ!」と、いきなりわけのわからないことを言ってね。 幼児の教育というのはそうですね。障害を持つ子どもたちの教育も、そういうことまで行ったり 来たり、一人ひとり違う。本当に真摯にその子と向き合って、一人ひとりと付き合いがなければ、 できないはずですね。 繰り返しますが、学習障害や発達障害は昔からいたのです。40人学級か、どうやら50人学級ぐら いでもいたのです。クラスにいませんでしたか。勉強ができるけど、こいつがクラスにいるのは好 きだとみんなが思っている。こいつは勉強ができるけど、こいつがいるのは許せないというのもい る。今は許せないです。親御さんが許さない。こんなできの悪い子がいるから、私の子は駄目になっ た。勉強のできない子と一緒にされて、勉強ができないのがうつるからやめてと、ひどい話です。 千葉もそうなってくると思うけど、東京はひどいんですよ。小学校6年生の教室は、この2月に
0 植草学園短期大学 入って、がらがらです。中学校も同じです。賢い子は賢いところに入る。そうしたら、ますますこ の障害のある子どもは置いていかれるんです。 ここにいるのが好き、この場所にいるのが好き、この先生が好き、この学校が好きだから。勉強 できんけど来てよかったという思いがあるか。それが今はそうではなくなりつつある。認めてもら いたい、もっともっと見てよ、もっと見てよと言うんだけど・・・。 教育基本法の改訂や、あるいは保育指針の改定、特に危惧して心配していることがある。質の高 い教育をしていかなければならない。それはいいと。でも、はたしてどうなんだろうねというとこ ろがあるんですね。 学校は授業が中心で、学校の先生は尊敬されていた。確かに。だけど、尊敬されたのに、先生が 反省されなかったのですね。もっと先生は憲法を勉強すべきだったと思う。昔は勉強したんだけど ね。 そのために学校で、子どもたちが「違うで」と言いだした。このクラスにいるのは、できる子も、 できない子もいて、もっと違ういい世界をつくろうと思っているのに、おまえ、勉強できなきゃ、 授業を受ける権利はない、と。本当は学校でやるべきことは、−もちろん学力、知識を身につける ことだけど−でも、それとは違ったかたちで、ここにいるのが好き、みんなのところで遊ぶのが好 き、みんなでいろんなことをやるのが好きというのがあるんです。「好き」ということを概念とし て、クラスをつくったり、学校をつくってきたのです。 それがいつの間にか私たちは「適切」という言葉を使って、いつの間にかね、できるか、できな いかで判断するようになってきた。できるほうがいい、できないよりは、できたほうがいいという 言い方になって、学校の先生までもそう。「何をしているんだ、頑張れ、一生懸命頑張れ、やった らできる」。そればかりで、やってできますか、本当に。 一生懸命やったら大部分のことができますか? 100点だって全員で取れるわけがない。できる子 も、できない子もいる。でも、できる子も、できない子もいること、ここが教育の大事なところで す。できる子も、できない子も、みんな幸せになってねという、これが教育です。 できるか、できないかというかたちに当てがうと、障害がある子どもたちというのは、もう絶対 に中に入れない。そうでしょう。私たちは平気で子どもたちに、「結婚したら、どんな子が欲しい? 男の子、女の子?」なんて、ずいぶんオーバーに話すよね。ひどい話だね。『五体不満足』とい う本が売れるのもわかるよね。五体満足というのは、差別的ですね。健康な、どんな命でも、すべ ての命を輝かせるの場というのが教育の本質。 だから、その本質の一番原点になるのが、障害児の教育。障害児の教育が原点であって、一人ひ とりを大切にするために、教育の原点を考える。一人ひとりに「適切」なことを考えて、教育全体 は「適当」だ。そこのとらえ方がなかなかうまくいっていないですね。 なぜかというと、豊かさと少子化のこの先、教育の中に無縁なものが入ってきている。私たちは 今、本当に豊かだよね。電話持っていない人は少ないよね。昔は、ない家の方が多かった。私のう
植草学園短期大学 ちはお医者さんなので、緊急電話という電話がある。そのために電話を付ける場所が決まっていた の。玄関に付けなくちゃいけない。なぜ電話を玄関に付けるか、周りの15軒ぐらいの呼び出し電話 を引き受けて、私が走ってその人を呼びに行く。そういう人間の関係があった。貧しさじゃなくて、 幸福とはそんなものだった。 こんな実験があります。同じ親から同時に生まれたネズミの子どもを3匹で飼うのと、1匹だけ で飼うのです。1匹はすごい豪勢な冷暖房付きの中で育てました。3匹のほうは冷暖房なしで、狭 い。それをいわゆる小学校から中学校へかかるぐらいまでの年齢と思われる期間で育てるんです。 そして、脳の重さと、どの部分が大きくなったかテストしました。3匹の狭い部屋でぎゅうっとし て育ったほうが、よく育って、前頭葉部分が、いわゆる額の触れ合う部分があり、脳や心、思考が つくられているところがよく育っていくことがよくわかった。それに対して、一方のほうはうまく いっていなくて、気になる状態になっていたんです。 だから、教育的には、たくさんの人とたくさん付き合う、多くの中で育つということは大事だな とは思っているけど、多くの人はそう思っていない。やっぱり少なく産んで、うまくいこうという、 どっちかというと効率だよね。教育は無限だもん。効率があったって。 効率はとても大事ですよ。効率はとても大事だけど、幼児教育の中ではどうかな?昔の子ども はみんなひも靴だった。わらじを履く子がいた。今の子どもはどうなっている?マジックテープ きゅっとやるやつで、もう統一されています。あれは、ドイツの障害者の方たちのための靴だった のです。そのためにつくった。だからドイツでは、障害者だけに使われた。普通の人は使わせてい ない。 日本に入ってくるとき、「いいじゃないの、ちょうど子どもに、すぐ外へ出られるから」と言わ れた。横を切って、すぐ脱げるじゃん。それは子どもにとって時間が少なくなるからいいじゃない か。実際、そういうことを効率化と言えるか。多くの場合、効率化を図ろうとしたら、実は、見習 うことを何回も何回もする。幼児の教育を見習ってみたら、いらいらするぐらい、みんな。でも、 幼児教育の中では無駄はないという。無駄でいいんですよ。 その中にあって、気になる子という言葉があります。気になる子どもたちをということは、さっ き言ったように、学習指導要領も変わるし、新しく特別支援学校の法律ができたし、それまでの教 育に対して非常に大きく個別になるように、発達障害を専門にするような教員養成をしようとして いる。とてもありがたいことです。 気になる子どもに対して、障害と判断、いわゆる普通の発達障害を含めてですが、直接、日々接 していれば、発達障害と学習障害というのは、本当の意味での障害児ではないから、障害児学校に 行けないわけです。通常の学校に行っているのです。 例えばこの通常の学校に行っている子どもが、特殊学級に通うことはできないか?それを今度、 特別支援という法律を変えて大きく枠を広げることによって、今まで特殊教育に限って見られてき たものを、特別支援の子どもたちも分けてくださいと。そして、養護学校なども、そういう子ども
植草学園短期大学 たちが通学できたり、アドバイスできたりするような学校に切り替えてくださいというので、特別 支援学校と名乗っていいですよと。一応、特別支援学校と呼んでもらっても、従来どおりの盲学校 とか言ってもいいですよというふうになったんです。発達障害の子どもはぜひ受け入れてほしいと 思うし、もともと育つ、きちっと教育したら充分にやっていける。 あるすごいパワーのある先生の話ですが、部屋はすごい。これで本当に住んでいるかなというぐ らい、資料が積み重なってる。でもこの先生に、「この資料、わからないんですけど」というと、 ズバッと出てくる。不思議なものです。 そういう人たちが、ちょっと変わっているけどいいよねと受け入れてもらえる世界が、自由が、 学校にはある。そのような教育の制度が充実するべき。一番大事なことは、どの子どもさんでも、 どんな子どもさんでも、一つの学校で、同じようなかたちの中で教育するのが理想だと私は思って います。発達障害には発達障害の学校が特別必要とは思わない。 しかし、どうも最近これが行き過ぎて、確かに大事なんだけど、幼児期に早く発見するというこ とが増えてきた。早期の発見の大切さは基本的に間違いない。しかし、一方で、ものすごく危険な んです。幼稚園の先生はすごくまじめだから、例えばこういう発達障害や学習障害の子どもたちの 特徴とか、勉強します。そうすると幼稚園の先生方はみんな、「うちにも一人います」と言います。 自己中心的なんですと言う。しかし、幼児期は自己中心的なんだ。自分が手がかかるあいだが幼児 期。幼い子はややこしいという。だから、「ややこ」なんですけどね。ややこってなぜかというと、 ややこしいから。大人はなぜ大人か。ややこしい子からおとなしくなった。本当ですよ。大人とい う字で「大人しい」と書くのですね。ややこしくてやかましい子どもだったものが、だんだんと世 渡りがうまくなって、おとなしくなってくるから、大人なんです。 だから、幼児期というのは、ややこしくていい。あまりこういう講義を聞いて、気になる子をた くさん探してもらっては困る。一歩、二歩とまず受け入れてほしい。一人ひとりが違うということ を学べるし、結構、これがすごく大事。 教育基本法や学校教育法が改正になったということですよね。そこで、ポイントだけをちょっと。 幼児期の教育というのが入った。「幼児」という言葉が入ったんです。すごいことで、ありがたい ような気はするが、今まで入っていなかった幼児教育と家庭教育が入って、新しい教育になった。 今までの教育の学校とは、小学校、中学校、高等学校、中等教育学校、特別支援学校、「及び幼 稚園」だった。大事ですよ。ここだけ覚えてください。幼稚園では独自性を強調した、小学校の教 育とは違いますよというのが、一番の特徴だったんです。だから、そういうかたちの特徴をなくさ ないでと何回もお願いしたんだけど、ついに負けて、ここへ入ることに同意した。今回の改正で、 「学校とは」という法律の文言で一番最初の学校は幼稚園になったんです。 保育所もとうとう、保育所保育指針というのを告示行為にした。幼稚園と同じことをやっていま すよという国の法制度が入ってきた。かたちのうえでは学校ではありませんけれども、それはこの せいなんですね。だけど、今までこれを見ているときには、とても豊かな幼児教育だったのが、こ
植草学園短期大学 れになると、ちょっと変わるんですね。改正前の学校教育法では77条によって「幼稚園は、幼児を 保育し、適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする」とあった。いいです か。「適当な環境を与えて」というのは、法律に書いてあるんですよ。それがこうなったのです。「幼 稚園は義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長の ために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする」と。 自分で言うのは嫌ですが、この「適当な環境を与えて」というのを残すことと、「その後の教育 の基礎を培うものとして」という、この文章を入れたのは確かに私なんです。これ、必死になって 入れたんです。死にものぐるいで。でも、最初は全然入れられなかった。「義務教育の基礎を培う」 ことだと書いてあった。つまり、幼稚園は義務教育のために存在する。それは困る。幼児は、人生 の中でも教育の基礎を培う一番大事なことなので、もちろん義務教育の助けというのはするけれど も、義務教育のために存在しているのではない。つまり、文字や数というものを早めにやることは 決していいことではないけれども、幼稚園と小学校の位置付けはこうなのですね。 私立の方々も多くおいでかと思いますが、親御さんは確かに文字や数をやったほうがいいと思わ れるかもしれません。しかし、やっても何の意味もない、必ず消えます。やってよかったと思うし、 やらなければもっとよかったと思うかもしれない。ということで、77条の第3章に幼稚園が入っ て、22条、学校教育法の一番最初に幼稚園を持ってきた。学校の先頭に立ったという点はすごい。 だけど、その先頭に立ったときのために、先生方は、たぶん義務教育のために、学校、小学校や何 かの準備のためにと思ったら困る。幼児期の教育として、やはり完結した、独立した教育機関なの ですね。そこをしっかりさせたい。幼稚園・保育所の果たす役割の大きさを再確認して終わりにし たいと思います。ありがとうございました。
植草学園短期大学 ご紹介をいただきましたみつわ台保育園の御園と申し ます。 みつわ台保育園は、この近くにあります動物公園の隣 の保育園でございます。昭和51年に開園をいたしまして、 現在ちょうど32年目になります。本日のシンポジウムの テーマであります「障害のある子ども・気になる子ども への保育現場での支援のあり方を考える」ということで、 私は「障害のある子どもに学ぶ」というテーマにさせていただきました。 いつから私の園で障害のある子どもの保育を始めたのかと考えたときに、そういえば、最初から 気になる子どもたちもいたというように感じます。私は保育という視点で子どもを見ています。で すから、障害のある子という視点では見ていない。保育という視点で子どもを見ていますと、その 子の発達の中で、少し手をかけなければいけない子、配慮を必要としている子ということで見えて きます。 先日雪が降りましたね。3年ほど前にも雪が降った日のことです。私は、少し遅れている子と言 われている子どもから、すごく大きな学びをしました。園庭に出て、みんなで雪遊びをしていまし た。その子が、植木鉢の雪を払ってくれていたんですね。植木鉢の雪を払っていて、あっと声を出 した。近くにいた私を呼びにきて、ぱっと指を指しました。その雪を払った植木鉢の中に、小さな 小さなチューリップが緑色の芽を出していました。「先生、これ、これ!」と。「ああ、チューリッ プの芽だね、これが大きくなってお花が咲くといいね」と私が言いました。そうしたら、その子は、 私の顔をふんとこう見て「芽が出ただけでも偉いでしょう」と言ったんです。 大人は少しでも先、先と言ってしまう。だけど、子どもは、こんなに雪が降って、植木鉢いっぱ いに積もっていた雪を払ったら、緑色のちっちゃな、本当にちっちゃい芽が出ていて、それを見つ けた。それが本当にうれしかったのに、その思いに気づかず、私が「もっと大きくなって花が咲け ばいいわね」と言ったので、この先生は何なんだろうというふうに思ったのですね。私たちは、日々
「障害のある子ども・気になる子どもへの保育現場での支援のあり方を考える」
「障害のある子どもに学ぶ」
●シンポジスト 全国保育士会会長・みつわ台保育園長御 園 愛 子
先生記
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植草学園短期大学 の保育の中でそういうことが本当にたくさんあるように思います。子どもにとって、“今”が大切 なことを学びました。 保育の中でちょっと気になる子ということで、一人ひとりを大切にするということが大切です。 それは今、私たちがおこなっている保育が、できる子とか、強い子とか、目立つ子によって動かさ れていたとしたら、それはもう本当に保育としては成り立たないと思うんですね。何かに困ってい る子とか、あるいは混乱している子、遅れている子、できない子、弱い子、愛を求めている子、そ ういう子どもたちが大事にされているかどうかということが、とても大切なことであると思いま す。 私の園は朝の7時から夜の8時まで、13時間開いています。その中には産休明けのお子さんもい ます。DVで来ているお子さんもいます。いろいろな子どもたちがいる中で、夕方の6時までが通 常保育です。でも、障害があるお子さんたちも、親の都合で夜の8時までお預かりしています。長 い保育時間の中で、この健常の子がどうだ、この気になる子がどうだということではなく、一人ひ とりの子どもに合った個別配慮が必要なのです。この子は夕方になると、とても疲れてくるから、 ここで少し配慮をしようと、そういう視点を持ちながら、一人ひとりを大事にする保育実践をして います。 先ほど小田先生のお話でもありましたが、私たちも保育の目標を持っています。この保育の目標 は、「子どもは豊かに伸びていく可能性をその内に秘めている。その子どもたちが、現在を最もよ く生き、望ましい未来をつくり出す力の基礎を培うため・・・」というようなことをうたっています。 現在を最もよく生きる、これは幼児の最善の利益ということだと思うんですね。望ましい未来を つくり出す力の基礎というもの。子どもの持っている受動的な権利と能動的な権利というものを、 この目標の中にうたっています。その子どもたちが求めているのは、現在を最もよく生きるため に、自分のために尽くしてくれる人に保育園で出会うこと。それが保育園の役割として大切なこと です。 例えば、あるとき園外保育で、歩いていくのに(この子は手帳を持っている子で、あまり歩くの が上手じゃないんですが)年長さんの子が手をつないであげました。その子がマンホールのところ でしゃがんでしまって、ずっと下を見ている。そのマンホールの穴から出たり入ったりしているア リにすごく興味を持って、じいっと見ていて歩こうとしませんでした。 保育士が「お散歩に行くけど、ここで見ていたいの」と聞くと、「うん」と頷きました。そうし たら、その手をつないでいた子が「僕が、先生、少し一緒に見てる」と言ってくれた。「じゃあ、 少しだけ。ちょっと向こうにみんな送ったら、迎えに来るからね」と言って。そして、年長の子は そこで一緒に見ていてくれました。 子どもたちは、保育士がいかに一人ひとりの子どもの思いを受け止めて、その子の求めているも のに対してどのように対応しているのかということをちゃんと見ていますよね。だから、保育士が やるように、子どもも友だちに対してまねていくということがあると思いますね。そういう意味で
植草学園短期大学 私たちは、障害のある子、この子は健常な子という分け方は、私の園ではしていません。 確かに配慮はしなければならない子どもはいます。機能的なもので歩行が難しい子とか、嚥下が 難しい子とか、そのような子どもには細心の注意を払います。 特に行事への参加等につきましては、配慮は必要ですよね。行事のときの個別的な配慮というの は、とても大事だと思うんですね。特に発達障害の子どもにとって、達成した喜びというよりも、 それまでの何かをしたことの苦しみとか、つらかったこととか、そういうものが記憶に残っている ような気がすることがあるんです。なぜなら、保育士は障害児保育の専門家ではないんです。保育 なんですね。ですから、そういう視点から見たときに、そのように見えるなと思っているんですね。 次に、障害のある子どもが生活していく場こそが指導の場なのだととらえるということ。それは、 先ほどもお話ししましたように、クラスの一員として、その子がいかに保育園の中に位置付いてい るかということ。このことが何よりもとても大事なことかなと思うんですね。 ですから、そういう子たちが、本当に生き生きと楽しく暮らせているかということ。手助けが必 要な友だちがいたら声をかけ、手を貸してあげる。そして、自分たちで和解ができないとき、応援 が必要なときには友だちを呼ぶ。あるいは保育士に知らせる。そういうことができるような、クラ スの中ですべての子どもたちのことが丸く輪のようにつながれるような関係をとても大事にしてい ます。 保育士はいつも子どもたちのそういうところをつなぐジョイントの役割を持っているように思う んです。保育士の姿をよく見ているということ。ですから、先生がちょっとしたことでも、「偉い わね、ありがとう」とほめる。あるいは、そういうふうにすることによって、その子どもたちもみ んな同じように見ているような気がしてならないんですね。 日常保育の中で私たちが大切にしなければならないことは、子どもたちが安心・安全に過ごす生 活の場としての保育園の役割です。朝は7時から夜の8時、13時間の中で、親の都合で必要な時間 を利用されるわけですよね。ですから、その中で日常の保育がよくなければ、障害児保育というの が成り立たないんです。そのためにも、保育者の連携、保護者とのパートナーシップを大事にして います。 ですから、保育園の中で子どもたちが、1日をあたりまえに、朝来て、帰るまで、楽しく1日過 ごせるということ。このあたりまえに過ごせるということはすごく大事なことだと思っています。 そして、保育士は子どもにとって楽しい人、必要な人、いつも一緒にいたい人であるということ。 これは先ほどのお話にもございましたが、保育所保育指針の改定が告示になりまして、平成21年の 4月から施行され、20年度は定着を図るために、研修が行われます。その総則「保育所の役割」の (4)に、「保育所における保育士は、児童福祉法第18条の4を踏まえ、保育所の役割及び機能が適 切に発揮されるように、倫理観に裏付けられた専門的知識、技術及び判断をもって、子どもを保育 するとともに、子どもの保護者に対する保育に関する指導を行うものである」とあります。 これはもう義務です。これをやらなければならないということになります。この中で、新たにこ
植草学園短期大学 の中に入ったことが、技術及び判断、保育士が判断を求められていること。このことは、私たちが 現場で日々これから保育をしていく中で、自分が子どもに対して、親に対して瞬時にどう判断して いくのかということが、とても重要になってくるということですね。 そういう意味で、いろんな研修を積んだり、あるいは先ほどのお話にもございましたように、科 学的な根拠と言いましょうか、いろいろな視点の学びが求められます。保育はエビデンスに基づい ていないとよく言われます。しかしながら、そうではなくて、私たちは、目の前の子どもの姿と、 そのエビデンスとの両方を学びながら、実践を通して、実践から学び、実践に返していくというこ とが、とても日々の保育の中で、今大事なことではないかなと思っています。 保育士が子どもにとって楽しい人、必要な人、いつでも一緒にいたい人であることということに 関連して申し上げるのであれば、保育士が思いやりや気配り、優しさ、温かさ、誠実さ、あるいは 我慢強さ、責任感、そういうものを備えた、人間性が豊かな人でありたいと思います。誰よりも早 くできること、たくさんできること、きちんとできることというような、能力を高めることに子ど もたちを追い込んでいったとしたら、子どもは保育士から離れていって、そばにいてほしくない人 になってしまうと思います。子どもにとっても、保護者にとっても、いかに魅力のある存在である か、自分を見つめ直してみる必要がとてもあると思います。 今、私たちには、子育て支援という役割が今回義務付けられるようになってくると思います。私 の園でも、実は平成3年に公民館で、そちらにいらっしゃる青山先生とご一緒に、教育委員会の育 児講座に地域の保育所や幼稚園、いろいろな専門機関が協力し3年間、地域を対象に育児講座をお こないました。 その3年間が終わったときに、障害のあるお子さんを抱えた保護者の方が私のところにみえまし て、これから行くところがない。だから、どこかで講座をやってほしいと。それで、私の園で平成 6年から始めました。そして、その日からずっと経過が流れてきて、現在子育て支援センターを運 営しています。 特に障害や、少し気になる子どもを抱えているお母さんというのは、とてもつらい思いをしてい るということを、まず先に思ってしまうんですね。だから、それに対してどのようにかかわればよ いのか。子どもを前向きな気持ちで育てていけるようにどうしたら支えられるのか保育士が寄り 添っていく方法。その場をどのように提供していくのかなど、保育所にいる障害のある子や気にな る子だけではなく、地域すべての家庭をも支援する役割が求められています。 最後に申し上げたいのは、先ほど幼児教育のお話がございましたが、「小学校へのなめらかな接 続」です。年長児の親にとっては、今とても不安感を持っています。特に障害のあるお子さんを持っ ている保護者の方はとても不安なんです。このときに、私たちが、小学校へ、どういうようななめ らかな接続をしてあげられるのかな、とても今悩んでいるところです。 子どもたちの育ちを支えるための資料が、保育所から小学校へ送付されることというのが、今度 は保育所保育指針の中にうたわれています。小学校に行って、その子が戸惑うことなく、保育所に
植草学園短期大学 いたときと同じように学校生活ができるようにするための資料であればいいのではないだろうかと 思うのですが、今いろいろと悩んでいるところです。 そのようなことで、資料の送付については、校長先生がいらっしゃいますので、そのへんをぜひ うかがいたいなとも思っているんですが。やはり子どもの不安感を少なくするために何をしたらい いのかということは、とても大事だと思っています。 そういうことで、今、子育て、保育、教育、そういうものをめぐる親の、あるいは社会の意識と いうものは、本当に私たち現場の人間が思う以上に速いスピードで動いているんですね。そういう 中で、すべての子どもたちが愛されて、大切にされるということ。このために、やはり私たちは頑 張っていかなければならないと思います。以上で、まず最初は終わらせていただきます。
植草学園短期大学 千葉市のちょうど真ん中へんあたり、そごうに一番近い学校と言っ たほうがいいのかな、新宿小学校という学校がございます。そちら のほうに勤務をしております赤田といいます。 私は小学校にずっと勤務していますので、どうしても話の中心が、 いわゆる気になる子になります。本日は、普段、自分の学校の先生 たちに話をしていること、あるいはお願いしていることを中心に話 をさせていただきたいなと思います。というのは、小学校であって も、幼稚園、保育所であっても、基本的にその支援のあり方という のは大きく変わらないだろうという本音があります。 まずは、子どもが安心できる場づくりということですけども、これも言葉を変えれば、われわれ の側がどういうふうに環境を整えてあげるかということになるだろうと思っているんですね。小学 校の現場で、気になる子どもたちを見ていて感じていることは、これは何の根拠があるわけではな く、感覚的にそう感じているんですけども、子どもを見て、あ、この子はいつも注意が必要な子ど もだな、配慮が必要な子どもだな、この子はときどき配慮すればいい子どもだな、この子はあまり 配慮しなくてもいいだろう、そういう感覚ではないです。 ある子どもが、あるときはとても配慮を必要とするし、あるときはほとんど配慮を必要としない 状態になる。そういう、いわば灰色の中の濃い部分と薄い部分、白に近い部分、黒に近い部分。こ こらあたりを行ったり来たりしている。その行ったり来たりする要因というのは、先生であったり、 友だちであったり、両親であったり。いわゆる彼を取り巻くそういう環境の中で、すごく配慮が必 要になったり、あるときはそれほど必要でなくなる。こういう濃くなったり薄くなったりする−そ のような感覚で感じています。たぶん幼稚園等でも同じなんじゃないかと思うんです。 ある年、あるクラスに入ったときには、すごく大変な、配慮が必要な、いろんな人がそこのとこ ろにサポートに入らなきゃいけないという状態が、次の年になって担任が変わり、学級も解体して、 そこに何となく学級としての秩序みたいなものがきちんと整うと、その子に対する配慮も、そんな にしなくて済むように徐々になっていく。これは、学校の中では結構よく目にし、耳にすることな んですね。