昭和国民文学全集
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丹羽文雄集
丹羽文雄集
目 次藍 蛇 庖
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-一 六 = 官 ノ一、 ;tt. 年 主並 日日 久保田芳太郎2
中 村 完E
解 説 野 村 尚 吾 翠玉装
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丁 一問幅の廊下が、しぶい光沢でひかっている。表堀氏け のひかり方でなくて、板の内部からひかっていた。素人の 家の廊下とはちがう。白木の上にラックスをぬりこんで、 ひからせたのともち,かっている。オカラやヌカで、ながい 年月をかけてみがきこんだ廊下のひかりぐあいであった。 せんじ φ 料亭﹁ J J L 税﹂の、三十人からの女中の足うらが、おのれの 痛い経歴をこすりこんだ板の間であった。廊下の板の間に も、血がかよっている。 ぺ や か ぎ て 女中部屋から出て、鍵の手に凶しづた廊下を左にまがり、 三段ばかりの階段をおりると、板場であった。左にまがら ず右にまっすぐいくと、帳場があり、玄関につきあたる。 しぶぷきいろ 渋桁色の半のれんに、あかりがさえぎられて、ひかえの聞 の女中の顔を、影がやわらかにつつんでいた。三人の女中 が、客待ちをしている。 い た ま え ち ょ う ぱ 板前の山名の部屋は、帳場のとなりにあった。茶室まが い っ さ いの四畳半である。すえ床の茶がけは、一茶のものらしい。 庖 3 せ い じ 青磁のっぽに、白菊が二輪。床を背にした山名は、あつい 座ぶとんにあぐらをかき、たばこをくわえながら、朝刊を ひろげていた。出勤して聞がなかった。 朝刊は、高円寺の自宅で、すでに一度、目をとおしてい た。見おとした記事を、たいした興味もおぼえずに、ひろ っ て い た 。 帳場の時計が、一時をうった。 山名は、五日目ごとに、床屋にいった。顔は、毎日あた った。目が大きくて、鼻もがっしりとしていて、意志のつ ︿ ち び る よさをあらわしている。唇の形に、どこか女性的な感じが あった。五尺七寸はあるだろう、骨太のほうであった ο ア イロンをかけた半パックの髪は、いつも清潔であり、板場 という職場の精神を身をもってしめしていた。 ﹁ お 早 う ご ざ い ま す ﹂ ま さ 女中のお雅が、しきいに指をつけて、あいさつをした。 山名はだまって、うなずいた。夜が舞台であるこの世界で は、午後一時までは朝のうちであった。山名の目が、お雅 の上にそそがれた。 ︿ ぴ 髪をまん中から分けているお雅は、多すぎる髪を頚のす ぐのところで聡ねている。山名はことばをかけてみたい誘 惑を感じたが、だまっている。山名は無口な男とされてい と け ん た。へたに口をきくと、板前の泊券にかかわるといわんば かりである。本人の意志ではなかったが、周囲がよってた かって、板前とはそうしたものと作りあげた。山名は自分4 だけにわかっているながめ方で、お雅をみていた。 お雅はあいさつが終わると、板場にいそいだ。ながい廊 下を走るようにあるいた。小柄だが、お雅はひきしまった からだを感じさせた。きものの裾をける足首は、子供のよ うであった。削庄野は、八文七分であった。子供ではないか と、女中たちにからかわれるほど、お雅の足首には幼い形 がのこされていた。たれも、お雅の二十三歳を感じなかっ た 。 板場に下りると、三つも四つも火をつかっているので、 熱気がお雅をとりまいた。 ﹁ あ ぷ ね え ッ ﹂ ; r
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怜 ら れ て 、 ぉ 雌 川 町 山 尽 か す く ん だ 。 ず 加 の 三 次 が 、 ザ ﹂ う鉢巻で、大きな銅鍋をかかえている。 ﹁ お じ ゃ ま さ ま ﹂ 自分がじゃまだったのだと、お雅は気がついた。 ﹁なアに、煮えくりけえっているからさ﹂ 銅鍋を火の気のないところにうっすと、一ニ次はもう笑っ ていた。三次は、ダシをとっているところなので、気が立 っ て い る 。 板前の腕は、お搬の味で見当がつくと11
マ切る。ダシ のとり方に、神経をつかった。山名があたって(味わっ て)、気にいらなければ、首をたてにふらなかった。山名 の気にいるまで、重 h Hは何度もつくりなおさなければなら なかった。意地わるな板前は気にいらなければ、ものもい わずに流し場に銅鍋をあけてしまうのである。下 l苧なダシ はとれなかった。それだけに、煮方の三次は気が立ってい る 。 どのような場合にも、女中は職人をおこらせではならな かった。理由があろうと、なかろうと、ぁ刊誌らなければ ならないとされている。あやまれば、職人気質はさっぱり と し て い た 。 職人とは、大工、左官など、すべて手技にて物造るを生 紫とするものの総称であると辞書は説明をしているが、こ の世界では、板前と煮方までが職人とよばれた。煮方十年 といわれる。十年間も苦労をして、はじめて一人前の有元 ,となり、職人と呼ばれるようになる。板前の下に重刀があ り、その下に焼き方があり、その下に洗い方あり、またそ の下に雑役があった。皿洗いや飯たきの下働きが、﹁千樹﹂ には四、五人もいる。焼き方や洗い方では、まだ職人の名 にふさわしくないのであろう。 ダシをとるコツは、火加減にあった。鍋は湖付、内側が 自くぬってあるのがよいとされていた。ダシ見布は水から いれておき、煮たてて湯が沸騰すれば、カツオプシをいれ、 鍋を火からはずして、すぐに漉すのである。これだけのあ たりまえのことだが、沸騰の度合いとカツオプシをとおす 時間のかげんで、ダシの味がちがった。 お雅は、三次が器用な出 T わきで、カツオプシを漉し吹い るのを横目でみながら、戸慨に手をのばした。山名の箸箱丁 をとりだした。お雅は山名のひるめしのしたくにかかった。 きしみ ﹁カンパチのいいのがはいったから、刺身にしたよ﹂ 脇 板 の 勝 進 が 一 言 う 。 ﹁そうですか、すみません、板さん、カンパチが好きです か ら ね ﹂ と ひ っ 勝造に返事をしながらお雅は、黒塗りの小植にごはんを うつした。脇板とは、板前の代理をつとめる役どころであ ち ょ う し ど ま ず った。お銚子が一本、刺身に甘煮、イカの胡麻酢といった ぜ ん お 膳 で あ る 。 普通は、女中頭が板前の世話をする習慣になっていた。 料亭﹁千樹﹂では、それがお雅の仕事にされている。お雅 がなんとなく板前に気にいられているということが、わか っていたからである。山名の部屋にお騰をはこんだお雅は し ゃ ︿ 最初の一杯だけ酌をした。あとは山名のくせで、ゆっくり 手酌でのんだ。そのときの山名の顔いろから、お雅は二本 日をとりに立ってよいかどうかを判断する。山名は最初の 一杯の盃をあけると、じろりと膳の上をながめた。 山名の表情が、すこし変わった。山名は刺身のカツラを 一本ひきぬいた。その日がひかった。お雅は、息をのみこ んだ。自分の手落ちが発見されたようにお雅はおびえる。 山名の表情はもとにかえり、だまったまま手酌にうつった。 そのあいだに、お雅は山名の仕事着のはいった乱れかご をはこんできた。食事がすむと、板前はお雅の世話で、仕 つ っ そ で ゅ う き 事着ときかえるのである。仕事着は、倍付の結城のしまも 庖 5 か く お ぴ ので、角帯をしめ、足袋は自足袋ときまっていた。その上 か っ ぽ う ぎ から、白い割烹着をきた。割烹着は洗濯をしたばかりのも のであり、汚点一つついていない。お雅の責任であった。 したくができたからといって、山名は板場に下りるわけ ほ う ち ょ う ではなかった。気がむかなければ、山名は庖丁をもたなか った。板前の主な仕事は、配膳に目をとおすことと、明日 さしず の仕入れの指図だけですんでしまうのだ。 板前はほとんど、脇板の勝造にまかせている。勝進の腕 は、﹁千樹﹂で山名の脇板をつとめているとはいえ、他の 料亭にいけば、りっぱに板前としてとおるのである。また、 大きな料亭の煮牛刀であれば、小料理屋ではりっぱに板前と し て と お っ た 。 着がえをすませて、山名がいっぷくしているところで ぜ 日 げ に ︿ ﹁千樹﹂のおかみが、賛肉のだぶついた、白い顔をだした。 ﹁ 板 さ ん 、 お 早 う さ ん ﹂ おかみのほうから、あいさつに出向いてきた。それだけ の権威を、山名はもっている。山名個人のものでなく、板 前というものの見識であった。 ﹁おつかれさんでしたね、今日は﹂ というふうに、山名はあいさつを返した。 おかみは愛国婦人会のたすきをたたみながら、腰をおと して、たもとからたばこをとりだした。袋の底を指先では じいて、とびだした一本を神経質に口でくわえた。おかみ が町内からでた出征軍人をみおくりにいくことは、昨日か
6 らわかっていた。 ﹁ステーションは、大変なひとでね。たれがたれをおくり にきたのやら、わかんなくなっちゃった。板さんは、兵隊 の ほ う は ? ﹂ ﹁若いころに胸をやられたおかげで、今日までたすかって きてるんですよ﹂ ﹁再検査って、あるでしょう﹂ ﹁あぶないものだと、覚悟はきめてます。いっしょに検査 や つ をうけて、はねられた奴が、最近とられましたからね﹂ ﹁心配ね、大きな芦ではいえないことだけど﹂とおかみは ひざ 首をすくめる。すわっている膝が、小山のようにもりあが っている。﹁板場じゃ、ほかに兵隊さんは::?﹂ へ い し ゅ ﹁それがみんなからっきしだめでしてね。丙種野郎ばかり で す よ ﹂ おかみの笑いにさそわれて、お雅も笑った。お雅のだし たお茶をのみおえると、 ﹁私も、おひるにしようか。すっかりおなかが、すいちゃ つ た ﹂ おかみが腰をあげた。 お雅はお茶をいれかえて、山名のまえに出した。山名は 灰皿にすてられたたばこを見ていた。無意識なまなざしで あった。すると、お雅が、自分のたもとに用意してある山 名の好きなたばこをとり出した。 当然のことのように、おうへいなくらいに、山名はうけ とり、最初のけむりをうまそうに吐いた。 ﹁ お 雅 さ ん ﹂ お雅はびくつとして、膝を正した。用をいいつける時の 呼び方ではなかった。ふたりきりの場合の、板前と女中と いう差別のない、単なる男と女の場合の呼び方のようであ った。山名がお雅のそばに下りてきたときの呼び方であっ た。お雅は習慣的に、教室で先生から指さされた生徒のよ うに緊張する。山名は、何かいうつもりのようであった。 が、お雅の聞くなった顔をみると、割烹着のかくしから、 ' レ ふ り 般になった十円札をつかみだし、かぞえもせずにお雅にわ た し た 。 ﹁たばこ代だ。とっておきな﹂ その口調は、半ば命令であった。お雅は気をのまれたよ うに、うけとると、あたまを下げた。 女中の分際として、板前の世話係としては、なれなれし く金をつきかえすわけにはいかなかった。板前のことばは、 絶対的であった。おかみでさえ、一目おいているのだ。お 雅の役目は、ほとんど板前づきの女中であり、かゆいとこ ろに手がとどくようにふるまわねばならなかった。山名の くせは、のみこんでいなければならなかった。板前になん となく気にいられているということは、お雅の役目が完全 にちかく果たされているということになる。お雅は、それ が得意であった。 そのくせ、お雅は山名の胸の中のことは、何も知らなか
丁 った。そこには自分とおなじような心が息づいているのだ というふうには、一度も考えたことがなかった。 ││この娘は二十三というのに、まだまだ十六、七の子 供だ。私にはとても従順だが:::? その従順が、板前という権威に対する追従であることを、 山名は知っていた。山名はいらいらした。 , 、 " と ││これでは、まともに口説くこともできないではない か。おまえが好きだといえば、あまりのことに、この女は びっくりして、おそれるばかりだ。 山名は、板前という地位にしばられていた。板前という 意識が、知らず識らずのうちに、別の山名直規という人聞 をつくりあげたようであった。りっぱな人間になったとい う意味ではなかった。この世界につきものである道楽も、 さんざん味わっている。三十歳近くになりながら、いまだ に独身でいるのも、道楽から器用に転身ができないからで も あ っ た 。 ││私は、この女が好きだ。夫婦になってもよいと思っ ている。私は、まじめだ。 しかし、その真剣さをどういう手段でお雅に知らせばよ いのか、山名はとまどってしまう。いまさらまじめぶるこ とは、気がさしてできなかった。 そ の く せ 、 ﹁今夜、私について来い﹂ 命令をすれば、お雅がついてくることは明らかであった。 庖 7 板前上いう権威が、お雅を人形にしてしまうのである。討 さ 勺 よ だ ぢ 殺与奪の権力をもっていた。たとえその権威が一般社会に は適用はしなくとも、この世界だけには通用をした。 板前に対しては、ことに﹁千樹﹂のような大きな料亭の 板前になると、多くの女中は、信仰に近いおそれの気もち を よ せ て い た 。 お雅はもらった金を、帯のあいだにはさんだ。女中が板 L ゅ う 前から金をもらうなど、異例であった。客からもらった祝 ぎ 儀を、女中が板前にまわすことが、この世界のならわしに なっていた。異例なことを、お雅は複雑に考えてみる気も な か っ た 。 ﹁用があったら呼ぶから、下がっていいよ﹂ あわててお膳をかたづけるお雅を、山名はじっとながめ ている。手のうごかし方、腰のうごき、きりりとひきしま った肉体が、見ていて気もちよかった。耳の形、目を下げ ろわまぶた るときに大きくふくらむ上険、まん中から分けて、きつく 束ねた髪形、すべてが山名の気に入った。 し よ う ぎ ば ん 山名は仕事着になったが、自分の部屋でひとり将棋盤に ' ﹄ 占 むかつた。新問将棋をみて、駒をすすめていると、脇板の 勝造が、もりつけのすんだお勝をさしだして、あたまを下
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た 。 ﹁ お ね が い し ま す ﹂ 配膳に目をとおしてもらうのである。山名の許可があっ て、はじめて客のまえにはこばれるのだ。山名は勝造に目8 もくれず、新聞将棋に見入っていた。沈黙がつづいた。勝 造は板前の態度に、首をかしげた。いっそう神妙な顔つき になった。山名は、擦に銀をおいた。 ﹁今日のわしのめしに、刺身をつけてくれたな﹂ 目もくれなかった。勝造は、﹁へえ﹂とこたえた。 ﹁カツラは、おまえさんの仕事じゃないだろう?﹂ ﹁ へ ・ え ﹂ ﹁ た れ か ね 、 あ れ は ? ﹂ ぴしりと、今度は桂馬であった。 ふ さ き も ﹁ 房 吉 で ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁あの野郎、まだカツラも満足にむけないのか。あれは、 客に出せないよ﹂ た ん
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そういいながら、山名は勝造のさしだしているお踏を丹 念 に 見 た 。 ﹁けつこうだ。カツラ、これはおまえさんの仕事だね。見 れば、わかるよ﹂ ﹁へえ、あとで気がついたもんですから、私がむきなおし ま し た ﹂ ﹁そうかい、房吉の野郎、あくせく小金をためて、女中衆 に貸して、利息をとっているというではないか。切りいな仕 事もできないくせに、銭勘定ぽっかりしている。風上にお け な い 野 郎 だ ﹂ カツラは、皮をむいた大根を、厚紙のように幅ひろくむ きとって、それを糸のようにきざむのである。その場合、 薄刃庖丁をつかうのだが、庖丁全体にカがはいらないと、 太さがまちまちになった。刃味が細長いので、手前だけに カがはいりがちになり、わずかの狂いがあっても、同じ太 さで長くはのびないのである。どうせ刺身のツマではない かと、おうちゃくにかまえると、失敗をする。気をゆるめ ' し u a u a , L , . てはならなかった。素人が見たのでは、わからないが、板 前の目はごまかせなかった。機械でむいたように同じ太さ でないと、山名は承知をしなかった。閉じ太さにきぎむた めに、素人にもつかえる便利な器具があったが、山名はそ んな武器をつかわないことにしていた。 勝造は山名の許可をうけると、板場にもどった。入れか わって、焼き方の房吉が、しおれた顔で、山名のまえにす わ っ た 。 ﹁ す み ま せ ん で し た ﹂ 山名は、返事をしなかった。お雅がお茶うけをもってき た M M よ たとき、部屋には気まずい空気が漂っていた。五尺二寸の 川 崎 は も 房士口は、いっそう小さくなってみえた。禿げたあたまの鉢 が、ひらき気味である房吉の顔は、不均整のために、子供 っぽかった。が、目だけは三十二歳の年齢をごまかすこと へ び ができず、つめたくて、蛇を連想させる。 ひと言わびをいったきり、房吉はだまっていた。山名は 新聞の将棋欄に目をそそいでいた。それ以上わびをいうま いと、房士口は意地になっているようであった。お雅はだん だんと、いたたまれなくなった。その場をはずすのも、ぐあいがわるかった。 ﹁ 房 士 口 ﹂ 山名が、なぐりつけるように呼んだ。お雅が息をとめた。 ﹁おまえなんか、一人前の板前になろうなんて考えるな。 やめてしまえ。高利貸しが、人相応だ﹂ お雅が、背くなった。それでは、昨夜の自分と房士口との できごとを、板さんが見ていたのではないかと、からだが q る 震えた。房吉はうなだれたまま、石のようにだまっていた。 ゅうべの房台とのことが、お雅の記憶の中で逆流をはじめ た 。
ゆうべのこと
T 勝手口は人目が多いので、かえりにくかった。お雅は庭 ' レ 予 ‘ AJV レ のくぐり戸をすこしあげて、のぞいた。正面の客間の障子 があいていたならば、あきらめて、勝手の出入り口にまわ るつもりであった。客間の障子は、しまっている。気をつ けて静かにあけたが、くぐり戸のリンが鳴った。 せ ん じ ゅ あたりをうかがう表情で、お雅は一足料亭﹁千樹﹂の庭 にはいった。庭造伝によれば、この庭は、草の形の庭のつ くりであるという。一つの小さい山が中心になっていた。 お雅にはわからない。お雅が気にしているのは、そんなと も ど ころから戻ってきた自分が、料亭のたれかの目にとまりは がしら しないかということであった。女中頭のお由喜の目にでも 庖 9 触れたなら、大変なことになった。正面の客間の障子に北、 け は し ひと影がうつっていなかったが、宴会のつづいている気配 は、障子のあかるさでわかった。 ぬすみにはいった人のように、お雅は足音をころして-とうろう 月陰石のうしろをとおった。そこに大きな白太夫形の燈箆 があった。ゆっくり歩いているわけにはいかなかった。廊 下を、いつ、たれが通りかかるかしれないのである。お雅 が き は岩かげにかくれる小魚のようにして、そで垣にはいった。 もうだいじようぶである。たれにも見つけられなかった。 ﹁おふくろさん、かえったのかい﹂ 思いがけない男の芦が、守護石のところからあがった。 息をとめると、お雅の胸が急にどきどきと鳴りだした。 ﹁千樹﹂の使用人は、庭をむやみにあるいてはならないと っ き ぞ ま されている。築山のすそを、水道の水がチヨロチヨロと小 さい流れになっていた。たれかが先ほどから、ながれにの ぞんだ二段の守護石の一つに、しゃがんでいたらしい。 ﹁ た れ か と 思 っ た わ ﹂ 焼き方の一房一吉が、立ちあがった。お雅の胸は、まだ鳴っ ︿ちびる ていた。いまいましくなった。房一吉が、あつい唇で、笑い ながら、守護石をはなれて、そで垣にはいった。お雅と向 か い あ っ た 。 ﹁くぐり戸が鳴ったので、たれかと思ったよ。あんなとこ ろから、うちのものは出入りしないのだからな﹂ ﹁見のがしてよ、勝手口が、いやだったの﹂限じりが下がっていて、年齢のわりに房吉の禿げは、ひ どかった。後頭部のほうから禿げていて、全体にうすい髪 であった。鉢のひらいたあたま。首がみじかく、胴が長か た ぬ き った。手足がずんぐりと短い。イマド焼きの狸だと、女中 たちはかげ口をきいた。 ﹁房さんこそ、そこで何をしてたの﹂ ﹁何ということもしてないがね:::わしは、自分が焼き方 であることをわすれていたよ。あそこの石にうずくまって、 全身の神経をすませていると、この﹃千樹﹄というものが、 大きく、全体的に感じられるような気がするよ。いつもは、 板場で追いまわされているがね﹂ お雅は、半分もきいていなかった。左手のおや指をたて る と ﹁ は な 板 さ ん は ? ﹂ き 山名のことを訊いた。板前に対する愛情と尊敬の呼称で あ っ た 。 ﹁どこかのお座敷へよばれていってるよ﹂ 露骨にお雅は、ほっとしてみせた。 ﹁いそがしい最中にお母さんがくるんだもの、図ってしま う わ ﹂ ﹁だが、おふくろさんとすりゃ、あかるいうちには来にく かろうからね。それで、なにかい、朝鮮の姉さんからは、 たよりがあったのかい﹂ ﹁たよりがあれば、お母さん、 10 そうちょいちょいとやって 来 な い わ ﹂ 姉の子供を、母現かそだてていた。その母親のくらしを、 お雅が責任をもっていた。 ﹁姉さんにしたって、そうそう二度目の亭主にばかりかま けているわけじゃないだろう。金がおくりたくとも、おく れない事情があるんだろうよ﹂ そのいい方が、お雅の気にいらなかった。お雅は朝鮮に わたった姉を、うらみに思っている。前夫の子供を自分ら におしつけておいて、本人は楽しい結婚生活に夢中になっ た ず ているのだと、母親が夜にまぎれて訪ねてくるたびに、ぉ 雅は姉への腹立たしさを、新たにした。他人の一房吉が、姉 に同情した口をきく。胴長で、腹のつき出している房吉の けんお かつこうを、にわかにお雅は嫌悪した。 ﹁おふくろと子供をかかえたお雅さんに、わしは同情して るんだ。そういえば﹃千樹﹄ではたらいている女中衆は、 たいてい似たりよったりの苦労を背負っているがね。自分 の子供のためや、亭主のために苦労するのなら、しかたが ないが、お雅さんの場合は、姉さんの責任まで押しつけら れているんで、かわいそうだよ。若いのにね:::﹂ ﹁お金ばかりかかって、いやになってしまうわ﹂ ﹁ 気 の ど く だ ﹂ ﹁あんまりたびたびくるので、お由喜さんに、にらまれて い る の よ ﹂ 房吉はふかい調子で、うなずいてみせたが、あたりをう
γ かがい、芦の調子を変えた。 ﹁お雅さん、金のことだったら、すこしはあるから、使っ て お く れ よ ﹂ そのことばには、なんとなく底力が感じられた。お雅は w Lお 何かの匂いをかぎつけた犬のように、房吉をみた。そして、 暦の端を一方にくぽませたが、ひねくれた、腹立たしい表 情になった。胸につかえたものを、吐き出すふうにして、 コ房一さんのお金を借りたら、利息だけで、まいってしまう わ。せっかくのご親切はありがたいけど﹂ や ぽ ﹁わしは、お雅さんから利息をとるほど野暮じゃないつも りだ。遠慮なし、あるとき払い、催促なしでいいんだよ﹂ 急所にさわられたお雅のいかりは、ため息となった。胸 ﹄ ﹄ ぶ L をふくらませた。出争をにぎらせる。そして、おうへいなよ うすで、房一士口をみなおした。房一吉は微妙に、お雅のへこま された気もちを感じるらしかった。 ゅうずう ﹁なるほどわしは、仲間や女中衆に、小金を融通している よ。利息もきちんきちんと取り立てている。だがね、お雅 さん、わしにはわしなりの考えがあってやってることなん だの板場ではたらく人間らしくないのも、承知の上だ。板 か た g 前は庖丁をもっ腕さえりっぱなら、それでいい。職人気質 は、たいせつだ。その気質一つで生きているのだ。そうか もしれないよ。だが、わしにはそうとばかりは考えられな よ い ど さ ん ぴ ょ う いのさ。宵越しの銭はもたねえ、うつ、のむ、買うの三拍 し 子そろった道楽ものも板場にはたらく世界じゃあたりまえ 庖 11 のことになっている。腕さえ、よけりゃあそびっぷりのよ か ん ろ く さまで、その人間の貫禄になるのだ。おかしい風習だと、 わしは考えるのだよ。いまどき職人気質といったところで、 昨間にはとおらない。戦争も、どうなるかわからなくなっ てきてるんだ。そんな古い考えを後生大事にもっているの ではだめだと思うのだよ。だから、どんなに腕のいい板前 だって、つまるところは、使用人で一生を終わらなければ ならないんだ。板前だって、りっぱな事業家になって悪い ということは、あるまい。わしは、焼き方だ。煮方十年そ ゆろちょう してやっと板前になれる。そんな悠長なことを、わしは当 てにしてるんじゃない。わしは、料理屋が経営したい。い まはやりのレストランだとか、ホテルというものも、やつ だんむ てみたいのだ。わしだって、ひとから旦那とよばれる身分 になってみたいよ。これは、夢かもしれない。しかし、夢 の一つぐらいは、実現できないわけでもあるまい。ひとに 何といわれようと、そのためにわしは、せっせと金をため ているんだ。パクチの金を貸すんだから、利息はきちんと 取らなけりゃたまらない。お雅さん、わしだって、生きた 金の使い方をまんざら知らないんじゃないつもりだよ。お 雅さんにまで、高利貸しあっかいをされちゃ、わしは情け な い ・ : ﹂ ﹁房さん、すみません﹂ り ︿ つ お雅は、なんとなく心を打たれた。房吉の理窟そのもの に対するよりも、自分のような女中に、男が心の秘密をう
12 ちあけたということに、心をうごかされた。 ﹁わしは時々、いまみたいに、この庭にでできて、石の上 にしゃがんでいるよ。すると、いっときでも、焼き方の房 吉をわすれて、この大きな料亭を経営している且那の気も ちになれるような気がするのだよ。まったく笑いごとだよ。 だがね、わしが旦那になれないってきまりもないだろう﹂ ﹁房さんは、前からほかの人とどこかちがっていると思っ たら、そんな野心をもってたのね﹂ ﹁わらうだろう!わらってもいいよ﹂ ﹁わらわないわ。男なんですもの﹂ と L ﹁はな板さんは、わしより年齢が下だ。それでいて、もう りっぱな職人だ。腕じゃ、とてもかないっこない。とする とわしは何で板さんと対抗できるんだ。金じゃないか。金 だ け が 、 わ し の 大 そ れ た の ぞ み を 、 か 山 内 向 山 て く れ る の だ ﹂ ﹁やっぱり、房さんから、借りると、朋輩とおなじにしな ければ変じゃないの﹂ ﹁それが、うらめしいんだ﹂ ﹁ だ っ て : : : ﹂ 房吉はふところに手を入れて、しばらくふところでもそ もそとしていた。やがて、紙幣を何枚かとりだすと、かぞ えもしないでお雅の手におしつけた。ふところに手を入れ ていたあいだに、何枚か、房士日は数えていたらしい。お雅 は意志を失ったように紙幣をうけとった。そして、あわて た。とりかえしがつかないことになる。かえすなら、いま の う ち 、 早 く 、 早 く 。 ﹁ 困 る わ ﹂ と、お雅は紙幣をしっかりとにぎった。 ﹁恥をかかせるものじゃないよ。お雅さん、わしは:::﹂ 高いところから一思いにとび下りる気に、お雅はなった。 ﹁やっぱり、いただけないわ。たれかに見られると、うる さ い か ら ﹂ 紙幣を、おしかえした。房吉はからだをゆすぶって、う けとろうとしなかった。お雅はじらされた。無理にもとら え り せるのだ。割烹着の襟のすきまでさし入れようとしたが、 相手が身をひいたので、紙幣は地面に務ちた。お雅は、勇 気をもった。同時に、危険を予想した。男の顔を一ふムつ J ' キ d けたわけであった。二、三歩、用心のためにあと退りした。 全 身 で 、 房 吉 の 出 ょ う を 待 ち -つ け た 。 ﹁情けない、お雅さん、そいつは誤解だ﹂
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ろ 落ちた紙幣を、一枚ずつ、ちりをはらっ町一つ掌に重ね た。ぉ雅はほっとして、っきとばすように軽蔑した。 ﹁千樹﹂のどこかの座敷から、軍歌がきこえてきた。庭は 静まりかえっていた。小さい流れが、うすっぺらな水音を た て て い た 。 ﹁困ったときがあったら、いつでもいっておくれよ。わし はお雅さんのためを思っているのだからね﹂ ずんぐりとした白い割烹着が、板場の方へ消えていった。 ぎ つ ぜ ん すると、前然と、惜しいことをしたという気がお雅はした。くれるというものなら、もらっておけばよかったのだ。し かし、そうさせないものが、板場をおさえている山名の目 ぱ く ぜ ん であることを、お雅は漠然と感じた。しかも、それは正確 で あ っ た 。 その夜、お雅はもう一度、外にでた。客を送りながら、 常車どおりまでついていった。 手をのばせばっかめそうなひかり方で、足一がまたたいて いた。星の美しさを、ひさしぶりにながめるという気,かし た。幼いときの記憶が、きれぎれに浮かんだが、器用に一 つの光景としてはまとまって思いだせなかった。お雅はに ぎりしめていた掌をあけた。銀貨が二つ、掌にほの白くあ った。あるきあるき、銀貨をガ 7 グチにしまった。客のく れたチップであった。端のすりきれているガマグチである。 ﹁ ね え 、 後 生 だ か ら ﹂ という女の芦を、お雅はふいに聞いた。料亭﹁千樹﹂の 裏手のまがり角まできたとき、女の声がした。お雅は足を と め た 。 ﹁二十円、都合してよ。恩にきるわ﹂ 聞きおぼえのある声であった。 ﹁ 後 生 だ か ら さ 、 ね え ﹂ ﹁金のなる木をもってるわけじゃないんだからね。道楽一 つしないで、ためている金だよ。そう気やすくいってもら い た く ね え ﹂ け い れ ん お雅のからだに、小さい痘輩がはしった。﹁千樹﹂の庭 丁 庖 13 のそで垣のかげで、大それた野心を出品した男の声であっ た。その声をきいてから、何時間も経っていなかった。同 一の人間の芦だが、感情しだいで、こうも変わるものか。 ﹁だからさ、それはよくわかつての上でのお願いよ﹂ ﹁このまえに融通した三十円、その利子もはらってないん じゃないか。元利をきれいにもらった上なら、改めて相談 にのらないわけじゃないんだよ﹂ ﹁急場の金なんだよ。いますぐほしいんだよ。今度だけね、 これ、このとおり・・﹂ ﹁いやだね、オイチョのもとでを貸す金は、もってねえ よ ﹂ ど て す い き ょ う ﹁房さん、あたしは伊達や酔興で、オイチョに手を出して いるんじゃないよ。来年は川女学校に上がる娘を抱えている んだよ。それがいまの病気になってしまったの。ねえ、お ねがい。こうして働いているのも、気が気じゃないのよ。 うちへとんでかえりたいのよ。ね、後生だから、今月中に 借りてる分を、みみをそろえて、いっぺんに返すから﹂ ﹁ だ め だ よ ﹂ 立ちぎきしているお雅のほうが、だんだんと追いつめら れ た 。 ﹁ 房 さ ん ﹂ 急に調子の変わった声を、お咲が出した。 ︾ M r ' し e ﹁お雅さんになら、むりに貸す金はあっても、年増のあた しじゃ、こんなにたのんでも、だめなのかね﹂
息をつめていると、お雅の上に、いまにも星が落ちてき そ う な 恐 怖 が あ っ た 。 ﹁お咲さん、変なからみ方はよしてくれ﹂ ﹁からんだわけじゃないけど、年をとると、ひがみたくも なるじゃないかね。あたしが、現場をみたわけじゃないよ。 ひとにきいたのだよ﹂ 房吉の返事はなかった。 ﹁気をつけたほうがいいよ、房さん﹂ ﹁何をわしが、心配しなければならないのかね﹂ ﹁お雅さんは、はな板さんのお気に入りだからね。お雅さ んにチヨツカイをだしたら、どんなことになるか:::房さ ん、覚悟はあるだろうね﹂ ﹁ わ し は ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ ﹁はな板さんは、ひょっとしたら、本気でお雅さんに脚陥れ てるのかもしれないよ。本気で惚れてるから、かえって手 が出ないのさ。もっぱらあたしたちのあいだじゃ、そうい う評判だよ。はな板さんと、張り合ってみる気があるかね、 房 さ ん ? ﹂ ﹁ と ん で も な い 。 わ し は 、 た だ : : : ﹂ お雅は、あともどりをはじめた。そして、駆けだした。 大廻りをして、﹁千樹﹂の玄関脇から駆け
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ぬようにする と、女中部屋にはいり、水をのんだ。胸の動俸が静まらな か っ た 。 コ ﹂ 苦 労 さ ん 、 14 だいぶ酔ってらしたから、大変だったろう。 う ま く 帰 し て ? ﹂ は と ひ g b 女中頭のお由喜が、火の気のない箱火鉢に立腰をよせか けて、たばこの灰を溶として言った。 ﹁ええ、円たくにおのせしました﹂ いまはじめてお由喜がそこにいるのに気がついたという ふうに、お雅は女中頭をみる。 ﹁お咲さんを見かけなかったかね﹂ お 雅 は 首 を ふ っ た 。 ﹁どこへいったのか、ちょっとのあいだに、見えなくなつ ら ん た。すまないけど、﹃蘭の問﹄がお呼びなの。代わりにお 雅さんいっておくれ。押小路さんのお座敷だからい お由喜はのみさしのたばこを、灰の中におっつけると、 板場に立っていった。お雅は襟ぐあいをたしかめ、よくひ かる階段を上がった。階段は人間の上り下りする足音をす こしもたてなかった。お雅の胸の中には、ふろしき包みの むすびめをほどいたままで、手のつけられないような問題 が、大きく占めている。 ふ す ま し き い ﹁閣の問﹂の襖をあけて、お雅は闘のところで習慣的なおE
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-︿ じぎをした。それから膝で、部屋にはいった。芸妓と半玉 き か ず き ふたりにかこまれて、小柄な、ロ聞のよい押小路が盃を手に して、目をほそめていた。まっ白な頭髪が、年齢のわりに ふさふさとしていた。食通でとおっている、﹁千樹﹂の常 連のひとりである。 ﹁ お 雅 さ ん は 、 い つ み て も 、 ハ ツ ラ ツ と し て い て 、 ヤ マ メぴんしよう の敏捷さを感じさせるね﹂ ﹁ヤマメっておさかな、私、およいでいるところを見たこ ・ ど が ご ざ い ま せ ん け れ ど ﹂ ちょうし と、お雅は銚子をとりあげる。 ﹁いそがしそうだね、今夜も。お咲さんが番なんだろ う ? ﹂ ﹁ は い ﹂ ﹁まあ、誰だってよろしい。ときに、山名さんにちょっと 顔を出してもらいたいのだが。わしにも、用があるし、こ ね え あ のお姐さんは、さきほどからはな板さんに逢いたがってる ん だ か ら ね ﹂ ﹁ あ ら 、 オ ウ さ ん た ら ・ : : ﹂ ち ん ぷ お ん な つやっぽい、しかし陳腐な妓の声を背にきいて、 廊 下 に 出 た 。 お雅は 丁 料亭﹁千樹﹂の板場は、いそがしい最中であった。次か ら次に、料理がある。持ち場持ち場が緊張をして、いそが しく立ちはたらいている。じっと動かない白い割烹着があ るにしろ、それは焼けている魚から目をはなしていないか らである。気の立っている声が飛んだ。盛付けは、ことに いそがしかった。ちょっとした戦場である。 山名は、すでに板場にもどっていた。再び割烹着をつけ ふ き げ ん て、ぶすっとした顔をしている。不機嫌のようでもあった が、これは考えごとをしているときのくせであった。 庖 15 山名は帳場から、押小路のきていることをきいた。押小 路のために、気のきいた料理をと考えているところである。 押小路の食通には、山名はあたまを下げていた。押小路も、 山名の庖丁が気にいっていた。生活が急にゆたかになって からの、押小路の食通ではなかった。小さいときから、め ぐまれた環境にそだち、自然と身についた食通である。何 十年来もぜいたくしてきた人の食通である。そんな特別な 人間の食慾をみたすだけに板前が腕をふるうことの矛盾と どっけい治ん 滑稽感は、一度も山名のあたまに浮かばなかった。山名に た め すれば、押小路によって、いつも試されているような緊張 感があたえられた。庖丁をふるう甲斐があった。 す い わずかな食通のために、日本料理の粋が、かろうじて生 命をたもっているぐあいである。 ﹁ほんとうの料理のわかる日本人が、だんだんと少なくな っ て い く の だ よ ﹂ シ ナ ﹁支那料理や、西洋料理におしまくられて、日本人のくせ に、日本料理をだんだんとわすれていこうとしている。情 けないご時世だよ﹂ 料理組合の席上、そんな会話を、山名はたびたび耳にす る。非はすべて日本料理からはなれていこうとする日本人 さ び の側にあるという口ぶりであった。山名は淋しかった。そ れならどうすればよいか、という大きな問題になると、山 ち ぢ が ら 名の思考は縮んでしまうのである。そんなことを考える柄 ではないと、自分を卑下してしまう。自己卑下の下に山名
16 はかくれて、責任の転嫁を無意識にはたらかせた。 焼き方の房吉が、ぬうっと裏口からはいってきた。山名 は ち ら り と 凡 た 。 房士口は板前をみると、急におびえた顔になり、自分の焼 いた引板の上の鯛をながめて、心の動揺をふせいだ。 山名が、房吉のそばへきた。房吉は一足、さがった。山 名は引板の上にならんでいる鯛の塩焼きのうち、一枚だけ をつまみあげた。房吉は息をのんだ。 ﹁ 定 7 ﹂ ﹁ へ い ﹂ 皿洗いの定が、ゴム引きの前かけのままで、ぬれてあか くなり、ふやけた手をだらりと下げたまま、山名のまえに 出た。背ピレが焦げて、形がすこしくずれた鯛を、山名は さもきたないものをつまみあげるようにして、 ﹁この鯛を、ねずみにでもやるんだ﹂ ﹁へえ、ねずにくれてやるので?﹂ ﹁猫またもんだ。猫もほしくなければ、ねずみにくれてや るよりほかはないだろう﹂ 定は板前から鯛をうけとったが、房古口の顔をみて、処置 に こ ま っ た 。 ﹁早く、わしの目のとどかないところへ持っていけ﹂ 品 7 t ま ︿ 党幕におそれをなして、定は、洗い場の方へとんでいっ た。房吉は唇をかんだ。なみだを感じたものか、房吉はし きりとまたたいた。しかし、おのれの腕の未熟さだけを、 悲しんでいる表情とはうけとれなかった。反抗の気が、ず んぐりとした小柄なからだに感じられる。 山名はそんな房吉を黙殺して、ワキ板の勝造をよんだ。 他の人間も、ちょっと仕事から手をはなしてなんとなく山 名のまわりにあつまった。房吉の否定された、みじめな立 場に気づかないふりをした。 ﹁押小路の旦那に、何が出ているのか﹂ ﹁ええっと、まぐろの中トロをつくって出しました﹂ 勝造が思いだして言った。 た で ず な す し ぐ れ 轟 ﹁小アジの謬酢)茄子の時雨揚げ、うま煮ってところを、 わ ん ま 勺 た け とりあえず、お椀は松茸の椀感りにしておきました﹂ ﹁ 焼 き も の は 、 出 て な い の か ﹂ ヲ ま 焼き方の房吉が、風をのんだ。 ﹁ 鬼 ガ ラ を 出 し て お き ま し た ﹂ と 、 勝 造 が こ た え た 。 ﹁じやわしは、生け作りとしよう。それに口代わりを一口聞 出 し て み る か な ﹂ 山名はそういいながら、首をかしげ、板の前に立った。 い け す と い 洗い方の栄助に、生策から、中どこの鰹を一本あげてくる よ う に 言 い つ け た 。 ﹁ 徳 さ ん ﹂ も り 9 と、山名は盛付けの徳三を呼んだ。山名よりははるかに 年上であり、分別もあり思いやりもある徳三には、山名も さ ん 付 け に し て い る 。
T な し ﹁帳場へいって、梨を二つ三つもらってきて、皮をむいて、 女 、 い 奏の自にきってくんな。それから三次﹂ 煮方の三次である。 ﹁おまえは、栗をむいてくれ﹂ 徳三は無視されている房吉を、いたわるようにながめて、 帳場へ梨をとりにいった。徳三は、ワキ板の勝造のとっさ のとりなしを、ひそかによろこんでいる。押小路にだした 焼きものは、一廃合の焼いた鯛であった。勝造が、鬼ガラと 似をついて、房吉をかばったことになった。年をとった徳 三には、そんな小さいことも、心がしめつけられるように うれしいらしい。 徳三は廊下で、女中頭のお由喜と出会った。小古声戸でたの あ き ん だ O 押小路の席から、鯛の空皿をさげてくるように言っ た 。 -栄助が生策からあげてきた鰹を、山名は矧板にのせると、 ぬれプキンで、鰹の目のあたりを包んだ。庖丁の背で、鯉 をなで、フキンの上から、似のつかぬよう、形がこわれな たた い程度に、コツンと叩いた。鯉はぴたりと組板に吸いつい たように、微動もしなかった。自分が殺されたことが、鯉 にも合点がいかないうちに殺されている。 ウロコを一枚もはがさぬように皮をうすくはぎとって、 て u e わ 肉をつくり身にした。山名の手際は、あざやかであった。 つくり身は、井戸水で何度もさらされた。水道の水は、禁 物であった。井戸水でさらせば肉はちぢみぐあいがよくな 庖 17 り、味はおとろえなかった。さらしたつくり身を、ふたた びはぎとった皮の中に、生きた鰻のようにそっくりしまい こんである。ウロコも、もとのままだ。庖丁のあとは、き れいにかくされる。 さ し み ざ ら 刺身肌に台ワラ佐波形に敷いて、その上に鯉をもりつけ て、生きている仰がそのまま血の上に置かれているように し つ k う みえた。板場の人たちは、人体解剖を執万する教授の手も とに凝集する学生の目のように限を注いでいた。 じ よ う ゆ 鰹の生け作りは、サピ醤泊でたべてもよいのだが、山名 す み そ に お は酢味噌にする。酢味噌にすると、川魚独特の匂いが消え る 。 そのあいだに、徳三は梨の皮をむいて、饗の目にきって いる。べつに三次が、むいた栗を、塩と砂糖と水で、やわ らかくなるまで煮こんでいた。それをうら漉しにかけて、 あ アンのようにする。奏の目にきった梨を、その衣で和える と、梨のキントンになった。即席のかわった風味であった。 本式にすれば、梨を、、、リンかセリ│酒につけて、ゆで栗を み ず あ め うら漉しにして、砂糖と塩とミリンと水飴と、水を若干い れてながく煮つめるのであったが、山名はわざと略した方 法 を と っ た 。 料理ができ上がると、山名は自分の部屋にもどった。鯉 の生け作りは、番の女中のお咲が、押小路の部屋にはこん だ。山名は割烹着をぬぎ、手をあらい、これから押小路の 部屋へあいさつに伺うつもりであった。角帯をしめなおし
18 て い る と 、 ﹁押小路の旦那が、おまちかねです﹂ と、お雅がはいってきた。 ﹁いまね、一ぷくしてからお伺いしようと思ってたところ だ ﹂ お雅は、ぬぎすてられた割烹着をたたんだ。角帯のしめ ちれるのを待っていて、お雅はたもとから山名のすきなた ばこをとりだした。 ﹁なんでよく気のきく子だろう。お雅さんがそばにいてく れたら、わしは何もしゃべる必要もなくなる。かゆいとこ ぶ し よ う ろに手がとどくひとがそばにいると、本人を不精ものにし てしまうよ。困ったことだ﹂ ひ ょ う し たばこをうけとる拍子に、ふざけながら山名は両手でお 雅の手をつかんだ。 ﹁いつも気がきかないので、申し訳ないと思っています﹂ 山名は、手を放さなかった。ぉ雅はあかくなった。おそ れの気もちが生じた。 ││房さん、用心したほうがいいよ。お雅さんを、板さ んは好きなんだからね。 お咲の声が、思いだされたが、お雅にすれば、習慣的に、 おそれの気もちのほうがつよいのである。困っているお雅 を、山名はまぶしいようにながめている。 ーーそのできごとが、ゆうべのことであった。お雅にし てみれば、房吉に金をにぎらされたことから、二人のよう すをだれかに発見されたことも、すでに山名の耳にはいっ ているとしか思えなかった。 板前に対して、お雅はひけめを持つことになった。房吉 がうらめしかった。ますます山名が、こわい存在となった。
山名の履歴
はな板としては、山名直規は、めずらしい若さであった。 島 T L ろ 東京で十指にかぞえられる腕の持ち主だが、八代親方の自 で し 慢の弟子である。正月の庖丁式には、八代市松に代わり、 え ぽ し ひ た た れ 烏帽子直垂の装束で、園部流の庖丁をにぎるほどである。 仲 愉 れ ハ ァ , A F EL M 日本橋の料亭﹁花由﹂を、山名の父親が経営していた。 父親が亡くなってから、間もなく﹁花由﹂を、ひとにゆず り、母親の牧子と弟と山名は高円寺に移った。父の生存中 から、料理ということに山名は興味をもっていた。 ﹁もう一度﹃花由﹄をやりたい。私の目の黒いうちに、も う一度﹃花由﹄をやってみたい﹂ と、母親は口ぐせにしていた。﹁花由﹂のような料亭を 経営することが、しだいに、山名の人生の目的になった。 母親にねだられて、その気もちになっただけではなかった。 そのため、大学に進むのもやめた。 ﹁学問は、弟にさせる。私は、りっぱな板前になることが. まず目的だ。それから、﹃花由﹄の再建だ﹂ 山名は八代の部屋に、籍をおくことになった。丁 す も う 部屋といえば、角力の何々部屋というのに相当した。部 屋の親方は、腕のよい板前であり、家元とでもいえる古顔 であった。その親方の弟子や、ながれを汲むものが、その 部屋に籍をおくことになる。親方は、板前の周旋業をかね ていた。料亭から板前をたのまれると、その料亭の格に応 あ っ せ ん さ い じた職人を斡旋した。ある温泉場では、ひとりの親方の采 配によって、温泉旅館の主人の意志は無視されて、料理人 が出たり入ったりするほどであった。親方の部屋は、板前 たちのたまりになっていた。いつも四、五人から十人ちか い職人が、ごろごろとしていた。庖丁一つで、どこへいっ てもその日から食べられるといわれているのも、この組織 によってかれらの生活が保証されているからだ。部屋でご ろごろしているあいだの生活は、親方がめんどうをみた。 職場ができると、その板前の月収の一割は、分銭として親 方のふところにころがりこむ仕組みになっていた。が、実 際は、板前の実収から出るのではなくて、月収の一割に相 当する金額を、帳場が五分、女中衆が五分の割で、負担す る習慣になっている。客からもらう祝儀は、一応板前の手 も と に 納 め ら れ る の も 、 そ の た め で あ っ た 。 ・ . う わ さ 山名は、やがて八代親方の部屋を背負って立つ人間と喰 を さ れ て い る 。 山名は、八代親方のもとでばかり今日まで苦労をしてき たのではなかった。山名の仕事に場噌可市たえた洗謹や友 達は、いく人かあった。山名は、宗右衛門町の﹁菱富﹂で 庖 19 はたらいていた。奈良の﹁月日亭﹂や﹁むさし野﹂でも、 はたらいた。広島の羽島別荘、熱海の﹁出井﹂にも、しば っ る の や らくいた。東京でも、﹁金問中﹂や﹁鶴之家﹂ではたらい ていたことがある。いまだに独身をつづけていて、のむ、 うつ、買うは、ご多分にもれなかった。金づかいのきれい なことが、仲間でも評判がよく、年より連中にも目をかけ ら れ て い る 。 三ぴきちょう 木挽町の料亭﹁かもん﹂に、親方の八代は老齢をひっさ げて、板前をつづけていた。仕事にかまけて、山名は、八 代親方にたびたび会つてはいないのだが、血のつながりよ りも濃いものを、つねに八代市松に感じていた。八代が山 名をかわいがるのには、一つには、山名の先代と親しかっ たということにもよる。 いわば、山名直規は、成り上がりの料理人ではなかった。 その血の中には、料理人の血がながれている。宿命が感じ ら れ た 。
結婚披露宴
夜ふけになってから、雨がふりだした。山名は、床の中 あ け が た できいていた。晩方になって、少しうとうととした。弟の 賢が、母親に起こされて、せきたてられるように中学校に でていったのを、山名は知っていた。 ﹁ムあんまり気をつかって、からだでもこわすといけないよ ﹂ 起きてきた山名に、母親は言った。山名は、ほおをなで て 、 苦 笑 し た 。 ﹁今夜は﹃千樹﹄にとまりこみだ﹂ を そ う ﹁そんなに思いつめなくても:::おまえの腕なら、粗相の あるはずはないと信じているよ﹂ ﹁相手がわるい。押小路さんだから、緊張してしまう。押 小路家の一代の宴会だ。これが普通の結婚披露宴なら、気 もちも楽だけど、味のわかる人を三十人だけ選んで、私の 料理を食べようというのだから、気が撞くなる。大きな試 験をうけるようなものだ。三十人の舌はごまかせても、た ったひとりの押小路さんの舌は、ごまかせられないから な ﹂ ﹁気のせいか、おまえの目がすこしくぼんだみたいだよ﹂ やがて山名は、母親と朝の食卓をかこんでいた。 ﹁千樹﹂の板場では、あれほどの権威をみせる山名も、母 親のまえでは、子供のようである。母親の料理を、だまっ て食べている。家庭にあっては、山名は庖丁をもたなかっ た。まずい料理もあり、はがゆくなることもあったが、山 名はその味の中に、母親を感じている。母親もまた、料理 がんこ に関しては山名の助言をもとめなかった。頑聞なくらいで あ る 。 ﹁ほかの連中は、みんな﹃千樹﹄にとまりこみで、 を し て い る ﹂ 20 したく 三か月まえに押小路からこの話があった。結婚式は東京 会館一ですませ、一応の披露の宴もすませてから、押小路の 趣味にあった三十人だけを、あらためて、﹁千樹﹂に招待 か ぶ き をするというのである。清元やお茶や歌舞伎の友達であっ た。金にいと目はつけぬ、三十人の食通をうならせてくれ というのだ。そのため結婚式ということには、こだわら ぜ ん ず、脂の形式にも、くふうをこらせというのである。山名 は、酒をやめた。誘われでも、花札に手を出さなかった。 あたまの中では、三か月先の料理がつくり出されたり、消 されたり、器物の制べから宴会場の模様まで、描いたり、 つくりなおしたりして、神経をつかった。 その日が近付くと、山名はいっそう口が重くなった。お 雅はそばについていて、おどおどとしている。山名の呼吸 に、ついていくことができなかった。ぉ雅の手をにぎって、 い ち ず 冗談をいったときの山名とは、別人になっている。一途に、 と ん ど て 献立のとりこになっている、こわい板前の鬼であった。 山名が高円寺の家を出ょうとしたとき、母親が思いだし て 一 一 百 っ た 。 ﹁ゆうべは、わるい夢をみた﹂ 縁起でもないと、山名は母をかえりみた。 ﹁おまえが、兵隊にとられた夢だった﹂ 山名は、苦笑した。 ﹁いまに来るか来るかと、赤紙の恐怖におびえているから だ。だいじようぶだ、お母さん、私には覚悟がついてい
丁 る ﹂ それは、どういう覚悟だったろうか。問いただされると、 山名はこまってしまうのだ。うろたえたところで、兵隊を のがれられる方法があるわけではなかった。覚悟とは、あ きらめと同じ意味であった。顔いろをかえず、うろたえな いだけの覚悟を、山名はもっていた。 その夜、山名は﹁千樹﹂にとまった。たびたびとまった 経験があるので、この四畳半の居間にも、ねどこにも慣れ ているつもりであったが、あさい眠りをくりかえした。 ぽ ん た ん は ら 明日をひかえての万端の用意は、できていた。吐もきま っている。熟睡ができるはずであったが。 -1 自分はまだ人聞ができていないのか。 の う り こんなときに限って、お雅の顔が脳裏にうかび上がるの も、皮肉である。色が白くて、ほりのふかい顔立ちである。 気性がはっきりとしている。多少意地わるなくらいの、勝 ち気なお雅。そのお雅が、へんに官能的に思い出された。 山名は腹ばいになって、枕を胸の下にあてがった。枕もと の朱塗りのスタンドに、あかりをつけた。たばこをくわえ た 。 庖 -│お雅は、大勢の女中の中で、もみくちゃにされて眠 りこけているだろう。 にお 女中部屋には、いつも、一種いいようのない複雑な匂い がこもっていた。複雑な履歴からくる匂いのようでもあっ た。お雅だけは、その匂いになかなか渉まないであろうと 21 山名は考える。自分かってな想像であった。 -1 i たいせつな明日をひかえて、どうしてこうもお雅の ねすがたが気にかかるのか。 気のせいか、想像にうかぶお雅の顔が哀愁を帯びていた。 それが山名の胸を、しめつける。修業中のゆく先々の料亭 で交渉のあった女の顔を、思いだした。それらの女とお雅 は、まるでちがっている。山名は、﹁千樹﹂の数多い女中 のなかの誰とも、今日まで、秘密な交渉をもたなかったこ とを、あらためてうれしいと思った。それだけ純粋に、お 雅のことが考えられるのが、うれしかった。 雨はあがっていた。なんとなくいつもの料亭﹁千樹﹂の 感じとはちがっているような気が、山名はした。三十人ぐ らいの申し込みなら、慣れっこになっている﹁千樹﹂であ る。山名ひとりの気のせいであろう。歯ブラシをくわえて、 すでに掃除のすんでいる庭を、そで垣越しにながめている と、背後の洗面所で、にわかに水立 H e かした。ふりかえると、 たすき 擦がけのお雅が、洗面器に水をみたしているところであっ かっぽうぎ た。割烹着のお雅はひどく家庭的な感じであった。小柄な からだを、きびきびと動かしている。あたりにはだれもい なかったので、山名はふっと、高円寺の家庭のような錯覚 をした。割烹着のすがたは見慣れていた。 た の ーー・ひそかな愉しみとして、お雅を家庭に置いて空想し て い る か ら か 。 ﹁ お 早 う ご ざ い ま す ﹂
22 ﹁ お 早 う ﹂ 山名が、顔を洗いにかかると、お雅がうしろにまわって、 ゅうき 山名の結城の袖をつまんだ。 ぬ ぐ 顔 を 拭 っ て 、 ﹁ お 雅 さ ん ﹂ 山名は、うしろめたい気がした。﹁はい﹂と、次の用を 待ち・つける表情で、お雅が緊張する。ぴんと糸を張ったよ うに張りきった、それでいてつやのある、白い小さい顔で あった。ゆうべは眠れないまま、この小さい肉体の上に、 な ぷ わがままな、さまざまな夢をかけて、弄りものにした。い としさのあまりとはいえ、お雅の意志を無視した、男の放 縦な夢であった。そのときの官能のたぎりが、山名の胸に のこっていた。申し訳がなかった。 当てがわれた自分の部屋にもどると、あとからお雅が、 かみそり 安全剃刀の道具をすえ床の地袋にしまいにはいってきた。 次に、山名のまえでお茶をいれるまで、お雅は口をきかな か っ た 。 し か
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叱りつけられると、いつもびくびくしているような お 雅 だ ! 茶をのみながら、山名は不思議そうにお雅をながめる。 ふ ぎ よ う せ き し ん この女に向かっていると、自分のこれまでの不行跡が、辛 艇に思いだされるのも妙であった。自分だけがすれっから していたわけではなかった。この世界のたれもがやってい ることを、自分もやっていたにすぎないのである。新しい 女ができれば、前の女のことを忘れてしまった。また次に、 新しい女ができた。板前の修業は、女の上の遍歴だったと いわれでもしかたがなかった。料亭にはたらく女たちは、 むすばれるのも簡単であったが、別れることもまたあっさ りとしていた。その世界だけに限られているむぞうさであ った。放縦なくせに、それなりに一つの秩序ができている。 その世界でいままで無反省にすごしてきたことがらが、急 に痛く思われるようになったというのも、おかしかった。 ││お雅には、不思議な力がそなわっている。 お雅は、あまりにも清浄な鏡抗ったようである。少しぐ らい曇っているのなら、それに映る自分の阪に、山名はそ れほどうろたえはしなかったはずである。 ﹁ 今 日 が す ・ き た ら 、 わ し の 肩 も か る く な る ﹂ お雅がお茶をいれかえながら、 r ん な ﹁押小路の日一那には、はな板さんの苦労がよくおわかりと 思 い ま す わ ﹂ ﹁さて、どこまで日一那がわかってくれるか、心配でもあり、 たのしみでもあるよ﹂ ﹁おかみさんも、とても気を入れていられます﹂ ﹁そうだろう、戦争がうるさくなっできたら、二度と今度 のような料理はできなくなるかもしれないからね。おかみ さんの胸にも、そんな気もちがあるのだろう﹂ ﹁この戦争、どうなるのでしょうか。いつおしまいになる んでしょうね﹂﹁わしには、わからないよ。わかっていることは、なんだ か、のべつ戦争をやってきたような気がする。ものごころ のついたころから、戦争ばかりだった。戦争になると、景 気がよくなるから、料理屋じゃ福の神だろうが、今度の戦 争はいつものやっとちがっているらしい。そんな気事かする よ ﹂ 山名は、高円寺の家を出がけに母親の言った惑い夢を思 い出していた。老人が戦争をかたるのとはちがっていた。 いつ自分が官り出されるかしれないからであり、戦争に対 する考え方には、追いつめられた人間のぎりぎりのものが あ っ た 。 ぜ ん 朝のお騰を、お雅がはこんできた。 ﹁おかみさんは、園部流の型をとったのだと言っています けど、どういう型ですか﹂ ちぞわん 山名は、茶碗をもったままで、 ﹁徳川時代、幕府がもっぱら使った型だよ﹂ それでは、お雅に興味のあろうはずもなかった。山名は 笑 っ た 。 ﹁園部流といったところで、お雅さんにはわからないだろ う。式法には、いろいろとあるんだよ。生間流とか、四条 め ま え ほ う と う 流とか、また芽官会の庖刀とか、いろんな流儀があるよ。 いつか明治神宮に奉献した日本料理は、たいしたものだっ た ね ﹂ ﹁ お 正 月 に 、 丁 庖 23 えゴ L ひたたれ はな板さんが、烏帽子直垂で、庖丁式をして いるところを、ちょっと見たことがありますわ﹂ ﹁板場でやっているようなぐあいには、いかないものだ。 固くなってしまってね﹂ ﹁はな板さんでも、固くなるということがありますの﹂ ﹁大勢に見られていると思うと、つい、あがってしまうん だ よ ﹂ ﹁堂々としていて、りっぱだと、みんなほめていました わ ﹂ そ で 大きなマスクをあて、直垂の袖をまくりあげ、山名は庖 は し た い 丁と、ながいマナ箸をつかって、鯛を料理した。右手の庖 丁をつかうにも、いちいち型にはまらねばならないのであ ひざ る。立て膝になるにも、型があった。庖丁式の山名は、ま ったく別人になった ω ﹁徳川幕府時代、毎年三月、勅使が江戸にやってきたのだ きょうおう よ。その勅使を饗応したお膳部の型が、園部流だ。押小路 の旦那に、園部流そっくりそのまま出すんじゃない。それ を軸にして、考えたのだが、本膳から五の膳まで、必ずハ マグリを一品つけて出すつもりだ。ハ γ マ グ リ の い わ く が 、 日一那にわかってもらえるか、たのしみにしている﹂ ﹁ハマグリに、どんな意味があるんですか﹂ お雅と話をしていることは、たのしかった。お雅は、全 身でぶつかってくるようである。子供が、なぜ、どうして ‘ ぎ -ど訊く場合、全身が疑問形につつまれているぐあいであっ た 。
24 ﹁お雅さんは、料理の神さまを知っているか﹂ ﹁そんな神さま、いるんですか﹂ b o り ゐ こ と ﹁いるよ、りっぱにいるよ。ムハ雁の命という方だ﹂ ﹁きいたこともありません﹂ ﹁そうだろう、だいぶ昔のことだからね。なにしろ景行天 皇の御代だ。中学校のとき、歴代の天皇の名まえを暗記さ せられたものだ。記憶力をつけるための暗記だったが、そ んなものを正確におぼえていたとこで、どうにもならない のだが:::神武天皇からはじまって、十二番
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の 天 皇 だ 。 たしか十二番目とおぼえているが﹂そういって、山名は中 学校時代の記憶を口にだした。 ﹁ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コ ウアン、コウレイ、コウゲン、ヵィヵ、スジン、スイニン、 ケイコゥ、:・:ニントク、リチュゥ、:::あつははは﹂ & υ 会 e 呆れて、お雅は笑わなかM
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﹁その十二番目の天皇が、上一総にいかれたときだ。抽帽の浮 島の宮から、猟に出かけられたのだよ、お供のなかに、六 雁の命というのがいた。これがいまの板前の先祖だね。海 をわたっていく烏をみて、天皇が六雁の命に、あれを捕え と命令された。が、鳥はにげてしまった。責任重大だ。が っかりして、ふと足もとをみると、大きなハマグリがいた んだね。これだと持ってかえって、ナマスにしたり、煮た り、焼いたりして、天皇に出した。天皇が、とてもよA
い い んでね。それからというものは、六雁の命が、お膳部の頭 に任ぜられたというのだよ。子々孫々膳部頭をつとめたっ てわけだ。話によると、明治維新まで、その子孫がつづい ていたということだ﹂ 山名は、にゅっと腕を出して、ききとれているお雅のほ おを、かるくっついた。思いがけない強い手ごたえであっ た。すると、お維の表情が、ふだんの調子にもどった。 ﹁はな板さんは、大学校にはいる方だったそうですね﹂ ﹁たれがそんなバカなことをいった﹂ お雅は微笑しただけであった。 押小路家の結婚式の時間になった。 山名がお雅の手で、仕事着をつけて板場にあらわれたと き、ワキ板の勝造と盛付けの徳三を中心にして、総がかり で、重詰めをつくっていた。 ﹁ご苦労さん、粗相のないようにしてくれ﹂ 異口同音に、﹁へい﹂と、こたえた。 山名は、二階の宴会場をいま一度みてあるいた。 さんぎう 祝儀の三宝をか.さつた松竹梅や、鶴亀や、祝い鯛、それ に床の間をかざる花にいたるまで、すべてがむきものでで きていた。山名の仕事であった。山名はひっそりとした大 広間に、自分をわすれたように立っていた。むきものとは、 大根、人参、芋などが主な材料であり、それらの野菜をむ いて、それぞれの形につくるのである。でき上がったもの さ い ︿ も の をみると、それらが野菜の細工物とはおもえなかった。一 流の彫刻師の手になった、りっぱな芸術品であった。﹁これらがみんな、はな板さんの仕事とは、夢のような気 が し ま す わ ﹂ いつの間にか背後に立っていたお雅が、感動した芦を出 した。山名は、ふり向きもしなかった。 山名は、広間をあるいた。広聞は水をうったように、空 しず 気を鎮めている。普通の宴会前の空気とはちがっている。 厳粛なものを感じるのは、ここから、やがて第二の人生が はじまる若い男女をおくり出すからであろうか。山名は お雅をかえりみた。お雅は、床の間のかざりに見とれてい る 。 丁 ││この厳粛な予感は、なにも他人の身の上だけではな い の だ 。 ひ ろ う 仰々しい結婚披露のしたくに、子供のようにおどろいて いるお雅が、いじらしかった。自分にはまるで縁がないこ とと、人種の相違のように考えているらしいお雅。 ﹁ 下 へ お り て い こ う ﹂ 階 段 の と こ ろ で 、 ﹁私たちも、そろそろ着がえをしなければなりませんわ﹂ ﹁いつもの座敷着とは、ちがうんだってね﹂ ﹁おかみさんも、大変ですわ。まだ美容院でしょう﹂ 山名は、板場におりた。 じ ゅ う さ も 勅使饗応は、三汁十一菜であり、本膳から六の膳まであ った。山名は本勝だけを食いきりにして五の膳までにした。 三汁も一つ少なく下して、本膳に二の汁までつけた。四の 庖 25 膳は、死に通じると、禁物であった。二の膳以下は、松の ま げ 巴 も の 曲物で、押小路家のリンドウグルマの紋をつけた三重のお 重 に し た 。 げいぎ 酒は、灘の花田から直接にとりょせた。客三一人に、芸妓 がひとりの割でつく。 二の勝の松の重詰めには、にらみ鯛をあしらい、ツマに はむきものの松、それに焼き ρ マ グ リ を 二 個 つ け た 。 ﹁はな板さん、写翼屋さんが来ましたよ﹂ 女 中 頭 の お 由 喜 が 、 師 酬 を 出 し た 。 ﹁写真屋?おかしいね、呼んだつもりはないよ。どこか のまちがいだろう﹂ ﹁押小路さんにたのまれて来たのですって﹂ 結婚披露宴の記念写真であろうと、想像された。 ﹁それなら、まだ時間が早すぎる﹂ ﹁そうですわね、私も時間が早すぎると思った﹂ お由喜がひっこむと、間もなく、お雅がいそいで板場に や っ て 来 た 。 ﹁お客さまに出す前に、料理を一つのこらず写真にとって おいてほしいと、押小路の旦那からたのまれてきたのです っ て : : : ﹂ 山名は、はっと息をのんだ。次の瞬間、胸にあふれでく るものがあった。板場のならわしとしては、いくら板前が 精魂をこめてつくったにし九、食べてしまえば、あと形も さ AaL なくなるものであった。残骸だけが、みにくく残るだけで