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在米日系商社による北米小麦の対欧輸出 ─一九三〇年前後の「国際小麦取引」 利用統計を見る

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在米日系商社による北米小麦の対欧輸出 ─一九三

〇年前後の「国際小麦取引」

著者

大豆生田 稔

著者別名

OMAMEUDA MINORU

雑誌名

東洋大学文学部紀要. 史学科篇

45

ページ

356(001)-312(045)

発行年

2020-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00012134/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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( 1) はじめに  三菱商事の在米支店(シアトル支店とニューヨーク支店)は、1920年代 半ばから30年代はじめにかけて、北米(アメリカ・カナダ)産小麦・小麦 粉の東アジアへの輸出、および北米小麦のヨーロッパへの輸出を展開し た。それらのうち、同社による、欧州市場への北米小麦の輸出を検討する ことが本稿の課題である。この取引は、仕入・販売ともに日本を含まない 外国間の貿易であった。なお、三井物産にも同時期、北米小麦の対欧輸出 の構想が存在した。  第一次世界大戦後、中国や日本など東アジアにおいては小麦需要が拡大 し、北米小麦・小麦粉の輸入が増加した。北米から東アジアに向けた、小 麦の新たな流れが形成されたのである。日本本国では大戦末期に米穀需給 が逼迫し、戦後も米不足が続いたため、米穀輸移入がすすむとともに、そ ば・うどんやパンなど小麦原料の食料消費が拡大した。また国内製粉業も 発達し、1920年代後半からは小麦粉の輸出が増加する。このため、1920年 代後半から原料小麦の輸入が急増することになった。輸入相手地域は、ま ず、1920年代はじめに米国、次いで同年代半ばからはカナダ、豪州が台頭 し、30年代に入ると米国・カナダが後退する一方で豪州が急増する。米国 は第一次大戦期に小麦増産をすすめて欧州に輸出したが、戦後は生産過剰 となり、新たな輸出先のひとつとして東アジア市場が台頭するようになっ た1  この対東アジア小麦輸出を担ったのが、三菱商事や三井物産、さらに鈴 三五六

在米日系商社による北米小麦の対欧輸出

──1930年前後の「国際小麦取引」

大豆生田  稔

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( 2) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ 木商店などの日系商社であった。1927年に鈴木商店が破綻し撤退すると、 物産・商事が対日北米小麦輸出の大半を担うようになった。太平洋岸北西 部やカナダの産地をひかえたシアトル支店の小麦・小麦粉取扱量は、1920 年代末にピークをむかえる2  このように、1920年代末において、北米小麦の対東アジア輸出は活発化 したが、三菱商事は、北米小麦のさらなる取引拡大をはかるため対欧輸出 を構想する。すなわち、北米小麦を、産地側のニューヨーク支店・シアト ル支店、需要地側のロンドン支店を通じて販売する取引である。北米のみ ならず、豪州やアルゼンチン小麦の対欧輸出をめぐり、当時、欧米に本拠 を置く有力穀物商社は厳しい競争を繰り広げていた。新規参入が難しい分 野であったが、その一角に食い込むため、シアトル支店は有利な取引を実 現するため産地に仕入活動を展開していく3。さらに1928年からは、ニュー ヨーク支店を元扱店、ロンドン支店を扱店(販売店)とする「国際小麦取 引」がはじまった。しかし、この取引は、開始後間もなく1930年代初頭に 中断され、再開されることはなかった。  両大戦間期における財閥系商社の外国間貿易は、三井物産が第一次大戦 期から1920年代に大幅に拡大させ、また三菱商事もそれに続いた。しかし、 リスクの高い取引であり4、それを克服する条件として、輸送業務におけ る日本船主との協調関係、およびリスク管理制度の整備が指摘されてい る5。また、外務省・商工省の1920年代半ばの調査から、「ステープルでバ ルキーな商品」、すなわち、大量かつ一般的に需要され、高度な制作品で はなく代替性があり、取引組織が発達して利幅が薄く、需要変動が大きく 投機的な国際的商品の取引に適した商社は米国には存在せず、三井物産や 三菱商事がそれに適していたという。しかし、個々の商品の取引について、 立ち入った具体的検討は限られており、本稿が対象とする北米小麦につい ても、東アジア向けと欧州向けとを合わせた検討にとどまっている6  本稿は、三菱商事による対欧小麦輸出について、同社シアトル支店の内 部資料7を用いて、特にニューヨーク支店・ロンドン支店間に展開した北 米小麦取引の構想・計画、およびその展開と限界をさぐり、早期に挫折し 三五五

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( 3) た要因を検討することを目的とする。 第1節 国際小麦取引の構想 1  北米小麦の対欧輸出 ( 1 )対欧取引の構想  三菱商事による北米小麦の対日・対中輸出は、大戦後、1920年代に拡大 するが、本店穀肥部は「国際商品」としての小麦に注目し、「国際小麦取引」 (対欧輸出)を構想した8。1923年 5 月、シアトル支店(当時は出張所)を 「買入店」、ロンドン支店を「販売店」とし、シアトル支店にカナダ小麦の 見込取引限度(米貨10万ドル)を許容して対欧輸出を試みた。しかし、こ の取引は一度も成約がなかった。その理由の第一は、シアトルの取引価格 とシカゴ取引所(定期市場)相場との相関関係が低く、太平洋岸北西部産 の小麦仕入をヘッジできなかったからである。また第二に、シアトル支店 が東アジアに輸出していた小麦は、欧米系の穀物輸出商が集荷した小麦 を、シアトルやポートランドにおいて比較的有利な条件で仕入れたもので あった。穀物輸出商は欧州市場を輸出先としたから、同支店が対欧輸出を はじめれば「競争者」となり、重要な仕入先を失うおそれがあった。  なお、1926年に三井物産ニューヨーク支店が、カナダ小麦の対欧輸出に 着手したことが同支店の考課状から確認できる9 小 麦  船 腹 先 極 メ ニ ヨ リ 期 初Canada物 欧 州 向 輸 出 ヲ 試 ミ、 次 デ Chicago Winnipeg両市場ノdisparityヲ狙フト共ニ、定期ノ建玉ノ転換ヲ 利シテ輸出商内ノ進展ヲ計リシモ、Chicago Winnipeg両市場相場殆ド 平行シ鞘ノ伸縮極メテ尠ク、季末聊カ有利ニ展開セシモ遂ニ確実ナル 輸出商内ノ地盤ヲ作成スルニ至ラザリキ 三井物産ニューヨーク支店は、シカゴ、ウィニペグ両取引所相場にヘッジ 可能な、大西洋岸積の小麦取引に乗り出したものと考えられる。しかし、 同支店は輸出取引の「確実ナ地盤」がないとして、翌年にはこの取引から 三五四

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( 4) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ 撤退する。三井物産は、北米小麦の対欧輸出の経験に乏しく、この新たな 取引には慎重であった。 ( 2 )元鈴木商店社員の採用  三菱商事の国際小麦取引は1920年代末に具体化する。本店は、鈴木商店 の元社員で穀類部長の経験がある篠原正次を、1927年に属託として採用し た。再度、北米小麦の対欧輸出を検討するため、鈴木商店の「小麦専門社 員」を採用して陣容を強化したのである10。篠原は同年 6 月、「世界的大 商品」である小麦の、「国際商品」としての有望性を次のように強調し た11。ただしその取引は「複雑」であり、大規模な取引組織、経営者の経験・ 才覚により利益の機会に恵まれると述べている。 小麦ハ其ノ生産分布極メテ広汎ニ亘リ産額大約 1 億噸ニシテ其ノ国際 貿易数量亦2,200万噸ヲ超エ貿易上世界的大商品ナリ、従テ其ノ本来 ノ生産消費需給ノ関係頗ル複雑ナルニ加へ、小麦ガ主要食糧品タル関 係上、各国政府ノ食糧政策ニヨリ支配サルヽコト多ク、是ガ商売上成 功ハ世界主要産地及ビ消費地ニ亘ル組織的一大取扱機関ノ完備ト、其 ノ取扱者各員ノ貴重ナル多年ノ経験ニ□ルモノト云フヲ得ベシ 然レトモ上記ノ如ク需給関係複雑ニシテ、従テ相場ノ変動多ク、又貿 易高巨額ナル丈其ノ取扱組織ト経営者ノ経験才幹ノ如何ニ依リテハ、 最モ利益ヲ挙グル機会ニ恵マレタル商品ニシテ、其ノ性質上大資本大 機関ヲ擁シテ大規模ニ経営スルコトニ於テ最モ妙味アリト云フヲ得ベ シ  さらに篠原は、「米価ノ騰貴ニヨリ小麦ノ消費量ハ漸次増加ノ傾向」が あると、日本の小麦需要の拡大を予想している12。このため、小麦輸入関 税を撤廃して米の「代用品トシテ其ノ普及ヲ計ルベキ」で、今後小麦輸入 は「漸次増加スル」と述べた。国際市場における有利な小麦買付は「吾ガ 国民経済上重大事」であり、また「貿易業者」には「真ニ興味アル問題」 としている。篠原は、その実現のためには、「吾製粉業者ノ為」、「吾国民 ノ為」、世界の産地や取引の事情に「通暁」し、「進ンデ直接国際貿易即チ 三五三

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( 5) 欧州向輸出」を「敢行」すべきであるとする。国際貿易、対欧輸出とは、 北米小麦を欧州に輸出する外国間貿易であるが、これは、「小麦相場ノ大 勢ヲ窺知スルニ最モ必要」であった。国内製粉業者の注文に応じて口銭を とるだけの現状の取引は、国内製粉業を「奇禍ニ瀕セシムル」だけでなく、 国民に「高価ナル食糧」を「供スル事」になると評している。  篠原によれば、北米小麦の対欧輸出という外国間貿易に乗り出すこと は、「一見危険甚タ多」いが、輸入国が日本に代わり「一外国トナリタル ニ過ギ」なかった13。また篠原は、シカゴ、ウィニペグ、ブエノスアイレス、 リバプールなどの定期市場にヘッジすれば、「大シタ危険ナキノミナラズ、 大局ヨリ見テ危険ノ防止、利益ノ確保増進ヲ齎ス」と、きわめて楽観的な 見解を述べていた。 ( 3 )社内の意見  篠原の「私論」に続いて、1927年10月には、国際小麦取引の実施を説く 意見書が社内でも作成された14。それによると、小麦は国際貿易の「一大 重要商品」であるが、カナダ、米国、アルゼンチン、豪州の主産地と欧州 間の取引が72%を占め、また欧州内の取引は主にロンドンで行われてい た。日本の輸入は世界の3.1%を占めるに過ぎず、中国・日本市場に「地 盤ヲ開拓」する我社の取引量は「誠ニ微々タルモノ」で、「更ニ発展ノ余 地十分……前途誠ニ洋々」であった。米加豪産小麦の対欧輸出は「年来ノ 宿望」であり、ようやくその実現に向け「精進スルノ機ニ到達」したと述 べている。  この「意見」は、1923年の経験をふまえ、新たな取引組織・方法を提案 している。まず、ロンドン支店に「小麦取引専任ノ係員」1 名の設置が「絶 対必要ノ先決問題」であった。その理由は、小麦市場の情報は「世界的」 で「複雑ヲ極メ」、相場は「活溌不断ノ変動」があり、敏速な「operation」 を必要としたからである。取引の「複雑」さは、篠原も指摘しており、欧 米系の穀物輸出商社との競争には、専門的な知識・経験が不可欠であった。  次いで、米国・カナダ産小麦はニューヨーク支店を元扱店、ロンドン支 三五二

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( 6) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ 店を扱店とし、ニューヨーク支店に、まず2,400トン相当の見込限度を許 容している。取引方法については、①ニューヨーク支店は当日午後、電信 でファーム・オファー(回答期限付で、売手が買手に売値を提示)する、 ②これはロンドン支店に翌朝 9 時(現地時間)までに到着する、③同支店 はブローカーを通じて買手を求め16時半までに返電する、④これはニュー ヨーク支店に12時半∼13時(同)までに到着する、⑤同支店は到着後直ち にシカゴ、ウィニペグ両取引所に買繋ぐ(ニューヨークの13時はシカゴ・ ウィニペグの12時に当り、両取引所の閉場時間13時15分に間に合う)、と 定められた。1923年の計画とほぼ同様であるが、元扱店をニューヨーク支 店としたため、シカゴ、ウィニペグ両取引所によるヘッジが可能となっ た15  この「意見」は、篠崎の「私論」が構想する国際小麦取引に「至極同感」 としている。すなわち、「夙ニ之ニ着眼企画」したものの、機が熟せず今 日に至ったが、「堅実ナル方針」のもとで国際市場に乗り出す時機に「到達」 したと述べていたのである。 ( 4 )対欧取引の投機的性格  同時にこの「意見」は篠原の「私案」、すなわち鈴木商店が行っていた 取引方法の特徴として、次の 2 点を指摘している。まず第一に、大規模な 取引組織であり、小麦専門係員17名を神戸、シアトル、ポートランド、ニュー ヨーク、オーストラリア、ボンベイ、ブエノスアイレスなどに配置し、シ カゴ、ウィニペグ、シアトル取引所の会員となり、リバプール、ブエノス アイレス取引所を利用し、これを神戸本店が統轄するという「頗ル大仕掛」 なものであった。第二に、投機的な取引、すなわち 元々辰〔鈴木商店〕ノ企図セル商売ハ概ネ所謂投機ノ為メノ投機ニ陥 リ、時ニ或ハ金融其他ノ敵本的目論見アリシモノト観テ大過無カルベ ク という指摘であった。このような鈴木商店の取引に対し「意見」は、ニュー ヨーク、ロンドン両支店、もしくはロンドン支店のみに取引を一任して「支 三五一

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( 7) 配権ノ市場中心主義」を採用し、また「堅実ナル実需向売込ヲ本位」とす ることにより、その「必要ナル範囲ニ於テノミ」投機取引を限定すると主 張している16  ところで、篠原がかつて勤務した鈴木商店は、北米小麦の対欧輸出にと どまらず、インド産麻袋の対米輸出、米材の対欧輸出、欧州鉄材の対豪輸 出など外国間貿易の実績があり、これらの取引は国内の他商社とは「無競 争」の領域にあった。三菱商事は、鈴木商店破綻の「機会ニ乗ジ」て、そ の「利権」の「継承」を試みたといわれる。 鈴木商店の整理に伴うて、従来同店と取引上の関係あった会社その他 は着々鈴木の手を離れて、三井、三菱その他の貿易商と新たに取引関 係を締結するに至ったが、ひとり鈴木が多年内地輸出入業者に超越し て営業しておった外国港間の貿易、例えばポートランドの小麦を欧洲 に、インドの麻袋を米国に、米国太平洋岸の木材を欧洲に、又は英、 独、白の鉄材を濠洲等に輸送し、内地業者と無競争の地位にあったの は鈴木の貿易区域で、これによって昨年度の如き不況時でさえも尚 2 億 2 千万円の貿易外の受取勘定を見るに至った17  ところで、鈴木商店の「唯一の利益」は、これらの「思惑を含んだ外国 港間の貿易」といわれた18。実際に、鈴木商店の小麦取引は、「思惑」の「常 習犯」であると、同社破綻直後に評されていた。 外国小麦の買付けでは、かつて高田商会や鈴木商店が活躍したもので あるが、彼等に思惑があったために却て自からが自分の墓穴を掘るの 結果となった。何故かというに、大体三井、三菱、古くて鈴木、高田 などは、いずれも製粉会社の注文、即ち小麦及び何月何日の何処積み ということまで明示された上で買付を委託されるものである。それを 鈴木や高田は、この機会にというわけで自分の計算、即ち思惑をもこ めて委託されたよりも以上のものを買付ける常習犯であったのだ19  鈴木商店で外国間小麦取引に従事していた篠原の取引構想も、これと同 様の性格があった。したがって、篠原の「私論」による取引方法は、「危険」 を退けたというが、有力商社によるリスクを回避した方法と比較すれば、 三五〇

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( 8) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ きわめて楽観的であった20  ただし篠原は、北米小麦の対欧州輸出取引が複雑な手順を要し、高度の 専門性を必要とすることを、当事者として認識していた。前島は1927年11 月、その取引方法について篠原から聴取した覚書を作成している21。それ によれば、まず篠原・前島の両者は、見込取引のリスクを定期市場へのヘッ ジにより回避する方法を相互に確認している。そのうえで前島が、現実の 取引方法として、シカゴ、ウィニペグ両取引所の相場に、プレミアム(定 期相場と現物相場との差額)に翌日の騰落予想を加味した価格でロンドン へファーム・オファーし、ロンドンで売約が出来次第取引所に同量を売繋 ぎ、後日適当な時機をみて現物を買付け、定期を買い戻すという取引を提 示している。  ところが、これに対し篠原は、プレミアムの変動は大きく、また前島が 提示した方法は現物・定期ともに「終始注意」する必要があるため、「経 験上有利」とする別の方法を紹介している。それは、現物小麦のFOB相場 を基準にしてロンドン支店にファーム・オファーし、ロンドンで売約が成 立次第、現物小麦を買付けると同時に定期先物に同量売繋ぎ、後日時機を みて買い戻すという方法である22  両者の違いは、ロンドンで売約が成立した場合、前島案が直ちに定期市 場に同量売繋いだのちに適宜現物を買付けて現物買入れのリスクを回避す るのに対し、篠原案は直ちに現物を買付けて同時に定期市場に売繋ぎ、の ちに「好機」をみて定期を買戻すところにある。直ちに現物を買入るため、 逆鞘による「差損」が生じる可能性もある。この違いについて、前島の「問」 と篠崎「答」は次のとおりである。  問、 一、篠原案ニヨレバ倫敦ニテ売約シテ定期ヲ買フ代リニ現物ヲ買極 メ、差損アル場合ハ定期ヲ売ルモ好マシトノ事ナルガ、此場合ノ定期 売リハ保険繋ギニ非ラズシテ、定期ガ逆ニ動クトキハ現物定期共ニ損 トナルト思フガ如何  答、 三四九

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( 9) 保険繋ギニハ非サルベキモ、定期先物ヲ売レバ大抵相場ノ乗ル時アル ヲ以テ、其際適宜定期ヲ買戻セバ現物ノ損ヲ償ヒテ余リアル事トナル ベシ、即チ定期ヲ利用セザレバ甘味無ク、又三菱立案ノ方法モ結構ナ レド是レハ、プレミアムト定期相場ノ動キヲ最後迄監視スル煩アリ、 依テ臨機ニ右ノ両方法ヲ彼是取捨応用スル必要アルベシ23  ロンドンにおける売約後、現物の買付けにあたり、前島案は同量を定期 市場に売繋いだのち、好機をみて現物を買入れて定期を買戻すもので、定 期市場への売繋ぎは「保険繋ギ」となりリスクを回避するヘッジであった。 しかし、篠原案は売約後直ちに現物を買入れ、同量を売繋ぐものの、「好機」 があればそれを買戻すというもので、売繋ぎが「保険繋ギ」にならないこ とを認識し、相場の動向をみて利益の追求をはかる取引であった。現物取 引で逆鞘などによる損失が生じても、定期の「相場ノ乗ル時」に買戻せば 「損ヲ償ヒテ余リ」あり、そこに定期取引の「甘味」があったという。本来、 現物取引をヘッジするため定期市場への買繋ぎ・売繋ぎが行われたが、「好 機」、「相場ノ乗ル時」の先物取引の「甘味」を狙ったものであり、そこに リスクも生じたのである24 2 対欧輸出と定期取引 ( 1 )オプションベイシス取引  ところで、当時、北米小麦の対欧輸出は、「オプション・ベイシス Option Basis」という、現物売買に定期の売建や買建を付して取引する方 法が支配的であった(以下、「オプション取引」と略す)。国際小麦取引に 関する「意見」を作成した前島は、その実施後間もない1928年 8 月、その 取引方法について報告・説明している。なお、東アジア向けの取引には「フ ラット・プライスFlat Price」と呼ばれる、従来の方法が続いてた25。前島 は次のような例をあげて、オプション取引について説明している。 加奈陀 3 号品 8 月積 1 ドル20セント(屯40ドル)〔FOB〕の買注文を 受けたる場合 三四八

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( 10) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ 沙市支店は得意先にCash Premiumの引合をなしたる結果、Aよりウヰ ニペツク定期10月限の 3 セントoverにてofferを取りたりとすれば、沙 市支店は 1 ドル20セントよりプレミアム 3 セントと定期の手数料 1 / 4 セントを差引きたる 1 ドル16セント 3 / 4 以下にて定期を買ひ、 其定期をAに引渡すなり、即ち

Winnipeg Option $1.16- 3 / 4 + Cash Premium 3 c + Brokerage 1 / 4 c = F. O.B.$1.20  すなわち、シアトル支店がカナダ 3 号品を 8 月積で 1 ドル20セント(ト ンあたり40ドル)の価格で買注文を受けた場合(「出合取引」26)の例で ある。同支店が買手に引渡す現物を、オプション取引により、穀物商Aか ら仕入れる場合、まずキャッシュ・プレミアムCash Premiumの取引を行う。 これは定期相場と現物相場の差額であり、本例はウィニペグ定期市場10月 限の相場より 3 セント高とするシアトル支店のofferに、Aが応じたとす る。この場合、同支店はAに対し、プレミアムの 3 セント、および仕入量 と同量の定期小麦(買建)を引渡すことになる。なお、この定期小麦の引 渡価格はキャッシュ・プレミアム取決日の定期大引相場である。すなわち、 この取引は、取引対象となる現物の小麦を、同数量の定期小麦(買建)お よびプレミアム(現物と定期の差額)と交換するものであり、[定期相場1.16 ドル 3 / 4 + Cash Premium 3 セント+手数料 1 / 4 セント= FOB1.20ド ル]、の計算式で表現されている27  したがって、利益を実現するには、定期小麦の買入価格は、買注文価格 1 ドル20セントからプレミアム 3 セント、および定期市場の手数料 1 / 4 セントを差引いた 1 ドル16セント 3 / 4 以下である必要があった。つまり、 「定期ヲ安ク買ヘバ其レ丈買附値段ガ安キ訳」であった。このように、オ プション取引は現物・定期双方の相場をにらんだ取引であり、定期市場に おける有利な取引は利益確保の重要な条件となった28  この取引の利点は、次のように、現物の売買と同時に、売手から買手に、 売繋ぎのヘッジが「自働的」に受け継がれることにあった29 買約シタル現物小麦ヲ定期ニ売繋グガ為メニハ、現物買約トハ別箇ニ 三四七

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( 11) 定期ノ売建ヲナサヾルベカラザルガ、オプション・ベーシス買約ノ場 合ニハ現物買約ト同時ニ左ノ如ク自働的ニ定期ニ之ヲ売繋グコトヽナ ル すなわち、現物小麦の売手は手持小麦を定期市場に売繋いでいるが、それ を売却する場合は、その売建を保持する必要がなくなる。オプション取引 の場合、その売建を「手仕舞」するのではなく、当日の「大引相場」で買 手に譲渡することになる。また買手は、自動的に、「買約ト同時ニ定期ニ 之ヲ売繋ギタル結果」となったのである30  国際小麦取引に着手すると同時に、産地側のニューヨーク支店、シアト ル支店、およびロンドン支店は、このオプション取引を採用しており、現 物・定期両市場の動向に配慮しながら取引することになった。 ( 2 )現物取引と定期取引  穀肥部の解説によれば、ニューヨーク支店を元扱店とする国際小麦取引 は、出合取引は難しく「逆鞘」となる場合が多いとされた31。一般に穀物 など食糧品の輸出は競争が厳しく、出合取引は困難であった。米加小麦の 対欧輸出は、横浜の生糸価格がニューヨークより高いのと同様、常に逆鞘 であったという32。とりわけ、輸出がさかんな 8 ∼11月には逆鞘が「普通」 であった。リスクのない取引は「不可能」で、綿花や生糸の取引と同様、 定期市場へのヘッジの「巧拙」が取引の「成敗」を分けた。 紐育支店小麦対欧取引ニ伴フ定期ノoperationに就て  (一)逆鞘――取引上競走激甚ナル大商品ノ輸出ハ概ネ出合取引困難ニ シテ、米加小麦ノ欧州向輸出引合モ亦逆鞘ナル場合多キ事、恰モ横浜 ノ生糸相場ガ紐育パリテーヨリモ概ネ高キガ如シ、然ラバ其ノ逆鞘ノ 程度如何ト云フニ、其時々ニ事情ヲ異ニセルモ、 8 、 9 、10、11月ノ 輸出取引旺盛ナル時ニ於テハquarter 6 片内外、即チ、ブツシエル 1 セント半見当ノ逆鞘ヲ普通トス  (二)輸出業者ノ実際取引方法――然ラバ逆鞘ヲ原則ナリトスレバ、所 謂小麦輸出業ハ将シテ如何ニシテ大量取引ヲ継続シ居ルヤト云フニ、 三四六

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( 12) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ 一言ニシテイヘバ広汎迅速ナル通信組織ヲ備ヘ、世界市場ノ趨勢ヲ研 究シ多年ノ経験ヲ利用シテoperateシ居ル事、綿・生糸ノ如キ商品ニ於 ケルト同一ナリ、要ハ全然危険ナク取引スル事ハ不可能ニテ、成敗ハ 定期ノ、ヘジノ巧拙ニ帰スル訳ナリ  また、外務省通商局は1929年10月、ニューヨーク駐在の商務書記官によ る国際小麦取引に関する小冊子を発行している。そこには、小麦取引をめ ぐる厳しい競争や、現物と先物の見込取引、取引実務におけるリスクなど、 「輸出取引の実例」としてメキシコ湾岸積と太平洋岸積の小麦取引が紹介 されている33  それによれば、「国際商品」小麦の買方は、世界の産地各国に、「自由に」 買注文を発することができたため、売方は「進んで売らんよりは買手の来 るを待つと云ふ立場」にあった。 8 ∼ 9 月積出の米国南部産小麦は 4 ∼ 5 月から取引がはじまり、秋季積出の北西部小麦の取引は夏季に行われた。 取引にあたる輸出商は、買付数量・積出時期・傭船契約など、「多大の危 険と労務を必要」としたが、輸出取引の「採る可き方針」として、次の 3 つの「方略」があげられている。  ①現物の小麦買付量と、CIF売・FOB売量との間に常に平準を保つ。  ②あらかじめ地方市場において現物小麦を買付けて定期市場に売繋いで おき、その後に現物の売取引を行う。  ③あらかじめ現物小麦を売渡して定期市場に買繋いでおき、その後に地 方市場において現物の買取引を行う。  すなわち、売注文・買注文を仲介する取引(出合取引)は存在しえず、 売買量のバランスを保ち、売取引・買取引の双方を定期市場にヘッジしな がら臨機に行うという取引である。次のように、刻々と変動する現物相場・ 定期相場をにらみながら、多様な手法により商機をさぐる、厳しい競争を 前提にした、経験と技術、専門的知識を必須とする取引であった。 実際ニ於テ現物買註文ニ対シ直ニ現物買付ヲ整フルガ如キハ事情之ヲ 許サヾルノミナラズ、売手方ノ競争ハ激烈ニシテ暫クモ買註文ヲ握ル ガ如キ場合ハ他ニ之ヲ奪ハルヽノ結果ナルヲ以テ、輸出商ハ常ニ(二) 三四五

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( 13) 又ハ(三)〔上記の②または③〕ノ方法ヲ市場ノ形成ニ応ジテ採用ス ルモノトス  このように、1920年代に行われていた北米小麦の対欧輸出は、相場の逆 鞘を前提に、現物・定期と関連させた、高度に専門的な取引であった。欧 米系の穀物輸出商社による、経験や専門的知識に支えられた見込取引が展 開していたのである。 第2節 国際小麦取引の展開 ―準備、着手、再検討 1  対欧輸出の方法と体制 ( 1 )穀肥部の取引案  ニューヨーク支店を元扱店、ロンドン支店を販売店とする国際小麦取引 は1928年 6 月からはじまり、 7 月には現物の成約があった。取引対象は大 西洋岸積米国、カナダ産現物小麦、およびシカゴ、ウィニペグ両取引所の 定期小麦であった。当初の見込限度は売買差額約30万ドル(7,000英トン) であり、同年 8 月から約50万ドル( 1 万英トン)に拡げられた。損益とも 5 %打切で手仕舞する規程であり、これは当時、三菱商事のすべての見込 取引に共通した原則であった34  1928年 5 月末に穀肥部が作成した「小麦対欧輸出取引具体案」35によれ ば、取引はニューヨーク支店取扱の大西洋岸積米加小麦、メキシコ湾積米 国小麦を対象とした。シアトル支店取扱の太平洋岸積小麦は、すでにみた ように、「適当ナルhedgeノ方法ヲ缺ク」36ため対象とならなかった。また、 「常ニ相当逆鞘」であったモントリオール積カナダ小麦も、「経験ヲ積ム迄 当分……見合セ」となった37。取引は「出来ル丈出合取引ニ拠ル」としたが、 現実をふまえ「必要ニ応ジ」てシカゴ、ウィニペグ両取引所の定期取引を 組み込んだ見込取引が認められた。なお、シアトル支店が取扱う太平洋岸 積小麦は、東アジア向けの買約小麦に転売の必要が生じた場合に限り対欧 輸出が認められた。また、同支店が試行する産地買付(「田舎取引」 三四四

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( 14) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ Country Buying)については38、ニューヨーク支店も同様に、対欧輸出の 経験を「相当得タ」ところで実施するよう、研究が指示された。  ロンドン支店は、「出来ル限リ」販売相手からビッド(買値)、もしくは カウンター・ビッド(修正した買値)を取るが、製粉会社・小麦商と「充 分聯絡」があり「最モ有力」なブローカーMitohelと取引することになった。 ただし、取引の「第一線」では、「是非共日本人係員ノ精励」により、「煩 雑ナル材料ニヨリ変動常ナキ市況ヲ判断」するよう定められた39 ( 2 )ニューヨーク支店の定期取引  穀肥部作成の同「具体案」は、ニューヨーク支店の実際の小麦取引方法 について、現物・定期を「臨機」に売買する多様なケースのうちから、次 の 4 例を提示している40  ①ロンドン売→定期買→現物手当。これは最も多いケースであり、ニュー ヨーク支店からロンドン支店にファーム・オファーし、ロンドンがアクセ プト(受諾)すれば、ニューヨークは、まずこれを定期に買繋ぎ、現物手 当が済むにしたがって定期を売外す。  ②定期買→ロンドン売→現物手当→定期売。まず定期の「好場」を買い、 ロンドンへファーム・オファーし、ロンドンがアクセプトすれば、「好機」 に現物を手当てして定期を売外す。  ③現物買→定期売→ロンドン売→定期買。まず現物を買付け、これを定 期に売繋ぎ、ロンドンにおいて売約後に定期を買埋める。  ④ロンドン売→現物買・・・定期売→定期買(または定期買→定期売)。ま ず、ロンドン向けに「旗売」(空売り)し、同時に現物を買付け、定期を 売(または買)ったのち、「好機」に定期を買埋める(売り抜く)。この方 法はロンドン・ニューヨーク間が「小逆鞘」の場合に適用し、ロンドンへ 売約後直に現物の手当てを済ませたのちの、「定期ノミノ鞘取リ」であっ た。他の方法のように現物・定期・プレミアムなど値動を「研究観測」す る必要はなく「頗ル簡単」で、現物の「値鞘」を回復し、さらに相当のマー ジンの獲得も「難事」ではないが、運用については「研究ヲ要ス」として 三四三

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( 15) いる。  ①∼④のうち、①∼③は現物取引を定期市場にヘッジするもので、外務 省発行の小冊子が紹介する、現実の輸出取引の型に該当している。ただし ④は、逆鞘など現物取引の損失を定期で補塡し、さらに利益を目指すもの であった。先にみた篠原案と同様に、現物の損失を定期取引で挽回しよう とする、リスクを含む投機的な性格があった。また、①∼③においても、 定期市場の取引が、その成否を左右する重要な要素であった。  こうして、ニューヨーク支店の対欧小麦取引は、オプション取引の採用 と、現物・定期の多様な組合せをともなうことにより、構造的に定期市場 との関わりを深めていくことになった。 2  取引方法の再検討 ( 1 )開始当初の成績  対欧輸出の開始から半年が過ぎた1929年 2 月、穀肥部長はロンドン支店 長に宛てて、「過去数ヶ月ノ経験ニ依レバ、之レガ進展大成ハ相当困難」 と述べたように、業務の進捗について懸念していた41。また、その半年後 の同年 8 月には、ニューヨーク支店長風間武三郎に対し、「相当ノ成績ヲ 挙ゲ得タルハ御同様欣快ニ耐エズ」と、一定の成果と「御尽力」を認めな がらも、「全般トシテハ未ダ試練時代ノ域ヲ脱セズ」、また「大成ニハ尚一 段ノ労力ヲ要」するため新たな「将来ノ方針」を必要とするなど、慎重な 姿勢を示している。また同月から見込限度を 1 万トンに引き上げたが、そ の運用は「飽迄漸進主義」により、「充分慎重御策動」による「本取引ノ 大成」を要請している42。対欧小麦輸出は開始されたが、その発展を期す るには、取引上の課題があることが判明したといえる。  また穀肥部は1929年 9 月、ニューヨーク支店に対し、対欧取引が「相当 利潤ヲ得テ漸次進展ヲ見ツヽアルハ御同慶至極」としながらも、同支店の 報告が「定期ノ部分ノミ判明シ、現物売買ノ損益ハ窺知スルコト不可能」 とその不備を指摘し、現物取引について、詳細な報告事項を指示した43 三四二

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( 16) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂  穀肥部は、元扱店ニューヨーク支店の報告から、当初 1 年間の成績を比 較的良好としながらも、同支店により詳細な報告を求めたように、事業の 全貌を把握しかねていたと思われる。1929年 9 月から、穀肥部とニューヨー ク支店・ロンドン支店間で、国際小麦取引の方法について再検討がすすむ ことになる。 ( 2 )ロンドン支店の要請  ロンドン支店は1929年 9 月26日付で、穀肥部長、およびニューヨーク支 店長に、それぞれ内容の異なる書面を発した44。まず、穀肥部に対しては、 国際小麦取引に「倫敦中心主義」の採用を要請している。その理由は、ロ ンドンは小麦取引の「取引中心市場」であり、「最大ノ消化力」(需要)、 通信・金融の「中心タル重要性」があるからであった。  さらにロンドン支店は、大西洋岸積小麦について、見込取引の「若干」 の「御認許」を求めた。その理由は、まず、第 1 に、ロンドン市場の小麦 取引においては、買人はまず「倫敦市場ニ照会」し、かつリバプール取引 所の「足取」を見て「漸ク決意ヲ固ムルコト多キ」ため、成約が13∼15時 の「最後ノ二時間」になること、さらに「往々ニシテ逡巡」し、シカゴ、 ウィニペグ両取引所の寄付き(夏時間15時半頃に第一報)とリバプール取 引所の大引けを待つこともあった。したがって、ニューヨーク支店ヘの返 電が間に合わず、「時間ノ切迫上空シクofferヲ紐育ニ返却セサルヘカラサ ル場合」も多かったとする。この場合、その更新「renewalを電請」して も「businessハ既ニcompetitorノ収ムル所」となるのが「百中ノ九十九」であっ たという。このような場合、「調談」の見込が「最モ確実」な取引につい ては、ロンドン支店の見込限度によりニューヨーク支店のオファーを引受 けられれば「商機」が広がることになる。またリスクはリバプール取引所 にヘッジして「迅速容易」に「予防」できるとした45  また、第 2 に、ニューヨーク支店のオファーに対してロンドン支店は、 大陸各地と「絶ヘズ電信電話ニテ連絡ヲ執リ」、各地の小麦の種類・数量・ 積付などの関心を総合し、「少々安過グル共firm bid」を返電しているが、 三四一

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( 17) その後に「当地市況反撥シ居ル」ことが「尠カラズ」あったとする。ロン ドン支店に見込限度が認められれば、「市価一杯迄counter offer」し、ニュー ヨーク支店が「引取ラレザレバ」直に定期市場に繋いでリスク回避ができ ると主張した46  さらに第 3 に、ニューヨーク支店のオファーがロンドン支店の要望と異 なる場合、ロンドンの競争者には自由裁量の決定権があるが、ロンドン支 店は、ニューヨーク支店による了解の返電を要するためビッドを取りにく いと訴えている。また第 4 に、毎週月曜日にニューヨーク支店からのオ ファー(土曜日の)がなく「拱手沈黙」のほかないが、ロンドン支店に見 込限度があれば、一般荷主のオファーや定期市場の相場を参照して「危険 ノ少ナキ値頃及ビpositionヲoffer」し、刻々とオファーを「調正」して成 約し、即刻定期に繋いでニューヨーク支店と打合わせができる。現在のま までは「一週間ニ五日営業スルニ等シ」いため、「不利益由々敷」く、一 般取引に与える「悪影響」の「印象」も「実ニ重大」とする。  この 4 つの理由からロンドン支店は、ニューヨーク支店を「援助スル程 度」、つまり 8 万ブッシェル(約2,000トン)までの見込限度を要求した。 なお、同支店に配慮し、その策動に「反抗スルガ如キ方針ニ使用スル事ハ 絶対ニ避クル」と付記している47。また、リバプール取引所は全世界の小 麦事情を反映し、シカゴ、ウィニペグ両取引所の相場を「魁クル様ノ傾向」 があると、そのヘッジ機能を強調している48。このように、ロンドン支店 は穀肥部に対し、欧州市場において同支店が果たしている機能を強調して 「倫敦中心主義」を唱え、一定の見込限度の認許を求めたのである。 3 ニューヨーク支店の対応と穀肥部 ( 1 )ニューヨーク支店長の反論  ロンドン支店は1929年 9 月26日、ニューヨーク支店にも同趣旨の書面を 送り理解を求めた49。ニューヨーク支店からは、しばらく返事がなかった ため、穀肥部長は支店長に意見を求めた50。同支店長は1930年 1 月 7 日付 三四〇

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( 18) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ で穀肥部長に回答した。まず、ロンドン支店が見込限度の必要を説く 4 つ の理由について、それぞれ反論している。  すなわち、第 1 の理由については、ニューヨーク支店もその事情をすで に承知しており、返電時間が迫り「折角進行中ノ見込アル商談」をやむな く中止する場合には、14時頃に「renewal」を打電、これは同支店に 9 時 頃(夏時は10時頃)に到着し、「気配如何」の「renewal」をすでに実施し ているとする。ただし、欧州の買手が「renewal」を要求するのはリバプー ル市場が「高寄リ」の場合であり、ニューヨーク支店は前日大引けの相場 を基準に「renewal」できず、またシカゴ、ウィニペグ両市場の動向を加 味することもあった。ロンドン支店の希望に沿いたいが、同支店が自らの 見込限度により単独に売込むと、シカゴ、ウィニペグ両市場が高値寄付き 「high opening」した場合にリスクが生じるとする51  第 2 についてロンドン支店は、小麦に限らずすべての国際取引に共通す ると主張した。相場が上昇している場合、ニューヨーク支店のオファー「値 段其儘」で売渡すのは「馬鹿馬鹿」しいので、「市場相当ノ値段」で買手 に「counter」し、それが拒否されたら直ちに同支店に打電を求めている。 ニューヨーク支店は、ロンドンでの売却を確認して定期を手配すればよい から、ロンドン支店に見込限度の必要はないと主張したのである。  さらに、第 3 についてニューヨーク支店は、「出来ル丈ケ豊富ニ」オファー を発しているが、国際小麦取引の開始から「日尚浅ク」、なお「欧州市場 開拓時代」にあり、「一々要求通リニ」オファーすることは「不可能」と 訴えた。むしろ、特に「interestヲ有スル」買手の要望にしたがってオファー できれば「ヨリ多ク効果ヲ」があるとし、ロンドン支店のいうように、「只 闇ニ鉄砲式ニ、又ハ百貨店式ニ」オファーしても効果は少ないと反論する。 また、ロンドン支店の「一々電照シ居リテハ間ニ合ハズ」との主張に対し ては、同支店は、実際には、しばしば 1 / 2 ¢ほど変更して売込み、また は積月を変更して商談に応じており、ニューヨーク支店はそれを「大概承 認」してきたと応じている。  最後に第 4 について、土曜にオファーしない理由は、1929年は相場変動 三三九

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( 19) が大きく、日曜の「天候ノ如何」が月曜の相場に「大影響」を与え、「日 曜日ヲ越シテofferスルコト」が「余程危険」であるからであった。ただし、 最近はロンドン支店の要請を容れ、「事情ノ許ス限リ」土曜にもオファー しており、「此問題ハ目下ノ処論外」としている。  ニューヨーク支店長は以上のように反論し、「強テ倫敦ヘ限度ヲ設定シ テ引合ヲナスノ必要、特ニ緊切ナルモノアリトハ思ハレズ」と、ロンドン 支店に見込限度ヲ設定する必要性を認めなかった52。さらに同支店長は、 「相関」する両店が同一商品を見込取引すると、次のような問題を「全然 防止」できず、取引は「社外取引」とならずに社内売買にとどまり、国際 小麦取引の「真ノ発展」に反する結果になるとした53 同一商品ニ付、相関両店ガ思惑取引ヲナス事ニハ、一、店内売買ニ終 ル虞アルコト、即チ紐育売倫敦買ニテ社外取引トナラザル事、二、従 テ社内間ノ思惑掛引ガ嵩増シ小麦国際取引ノ真ノ発展ニ反スル結果ヲ 生ズル虞アルコト、ノ二ツヲ全然防止シ得ベシト思ハレズ  さらに、ニューヨーク支店長はロンドン支店に対し、当方発のオファー にできるだけ多くカウンター・オファーすることを、「最モ緊要ナル事柄」 として要請した。つまり、ニューヨーク支店による多量のオファーは、ロ ンドンの「競争者」より「割高」となることもあるが「割安」の場合もあ り、ロンドン支店から多数のカウンター・オファーを受電できれば、商談 成立の機会が「数倍スルノ結果」となるとしたのである。ニューヨーク支 店は、「当方ノ如クofferヲ出シ続ケテ一方的ニ買手ヲfavorシツヽアル者ハ 他ニ例ヲ見ズ」と自嘲的に述べ、ロンドン支店が買手と交渉して多数のカ ウンター・オファーを発すれば、成約を促進するとしたのである。これは、 ニューヨーク支店がロンドン支店に「屢々力説シ来リタル」ことであり、 「特ニ倫敦支店ノ協力ヲ希望スル次第」であった。  このように、ニューヨーク支店は、ロンドン支店の要請にはできる限り 応じており、見込限度の設定には反対の意向を穀肥部に伝えた。また、ロ ンドン支店には、できるだけ多くのカウンター・オファーを求めた。ニュー ヨーク支店は、現行の仕入地中心主義の枠内で、両支店の連携を深めるこ 三三八

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( 20) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ とにより、取引の拡大をすすめようとしたのである。 ( 2 )ニューヨーク支店の構想  ニューヨーク支店は、ロンドン支店の唱える「倫敦中心主義」について も、「仕入地中心主義」か「販売地中心主義」かは、いずれの商社も「再 三頭ヲ悩シタル事柄」で、「何レモ一長一短」があると応じている54。た だし、取引にはまず、市場の諸要素を参照して売値以下で仕入れることが 必要であり、資金の回転率を上げ(「Quick turn over主義」)、「目先ノ小変動」 を利用して「比較的安全確実」に取引するには、「仕入地」の「日々ノ出 来事」に「精進」し、定期相場・運賃・プレミアム(定期相場と現物相場 の差額)を「刻々注視」し、商機「現出」に「瞬間ニ迅速」対応すること が必要であった。このような「機敏ナル行動」は「仕入地現場」の支店に より「初メテ可能」であると、ニューヨーク支店は主張したのである。  またニューヨーク支店は、「未ダ経験浅キ吾社ノ立場」を強調している。 同支店によれば、有力な穀物商社ドレフュス(フランス)やブンゲ(アメ リカ)は、当初「仕入地中心主義」であったが、「現在」はパリ、アントワー プの本店に向けて各仕入地支店が日々打電し、本店はCIFを計算して市場 の「気配」をみて「売込」み、各地支店に現物・定期の売買を指示してい た。また逆に、コンチネンタル・グレイン(フランス)は、産地の「採算 値段」でオファーするが、欧州各地に展開する本支店がその販売にあたっ ていた。有力商社はいずれもヨーロッパを本拠とし、「各産地ノ事情ニ精 通シ」、また「産地ヨリノ報道」により「的確ナル判断ヲ下シ得ルノ経験 ヲ有スル首脳者」が「売込」にあたっているとの主張である。しかし同支 店は、我社は「試練時代」にあり、有力穀物商社の本店が有する機能はロ ンドン支店にはなく、「倫敦中心主義」に疑問を呈しており、「仕入地中心 主義」による方が「安全」と判断したのである55  さらに続いて1930年 1 月末、ニューヨーク支店長は穀肥部長に対し、同 月 7 日付では「考案中」であった新取引方法の具体案を提示した56。ただ し、同案の写しは、ロンドン支店には送られていない。この具体案に同封 三三七

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( 21) され、穀肥部長のみに送付された「打合事項」57は、 7 日付の提案を整理 したもので、ニューヨーク支店を元扱店、ロンドン支店を販売店とするも のである。元扱店には売買差額 1 万トンの見込限度を設定しているが、ロ ンドン支店には認めていない。ロンドン支店の業務として、①ニューヨー ク支店が許容する「権限内」の価格で「売込」をなし、②同支店の依頼に よりリバプール取引所で定期売買、現物小麦買埋を行い、③同支店と協議 して欧州各地の代理店と取引し、④紛争解決の重要事項については同支店 と協議することを定めている。また、ロンドン支店に許容された「自由裁 断」については、国際小麦取引の「特殊性質」から販売地でも「臨機」の 処置が必要であり、両支店は頻繁に「情報、意見」を交換して「十分ニ意 思ノ疏通」をはかり、「常ニ売込方針ヲ打合セ置」くものと位置づけている。 さらに、ニューヨーク支店の現物・定期売買は、その都度電報で、「詳細」 は書面で穀肥部に報告することとした。つまり、ニューヨーク支店の取引 構想は 1 月 7 日付の回答と同様に、「仕入地中心主義」に基づき、ロンド ン支店に一定の権限を認めるが、従来通り元扱店のみが見込限度を利用 し、取引全体を主導するというものであった。  ニューヨーク支店は、まず原則として、「flat price(固定価格)」のオファー の場合、ロンドン支店はその条件・価格を変更できないとする「仕入地中 心主義」を貫いている。ただし、次の 3 項(第六∼八)を付して、ロンド ン支店に一定の「権限」を与えている58 六、倫敦支店ハ紐育支店ヨリノovernight offerニ限リ市場ノ形勢ヨリ観 テ利益ナリト認ムル時ニハ、独断ニテ上記ノ採算原価ヨリ 1 ブツセ ル 3 / 4 ¢以内ノ値引ヲナシテ売込ヲナスコトヲ得 七、倫敦支店は紐育発電翌日ノ李浦〔リバプール〕寄付〔キ〕相場ガ 市俄古〔シカゴ〕、ウヰニペク前日大引値段ニ比シdueヨリ 1 d以上 下落シタル時ハ、 1 dヲ超過スル値下リニ相当スル金額ヲ採算原価 ヨリ差引キテ売込ヲナスコトヲ得  李浦寄付〔キ〕値段ガdueヨリ 1 d以上昂騰シタル場合ニハ、倫敦支 店ハ 1 dヲ超過スル値上リニ相当スル金額ヲ採算値段ニ加ヘテ売込 三三六

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( 22) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ ヲナスコト  但シ本条ニ規定スル加減ヲナシタル後、更ニ前条所定ノ控除ヲナス コトヲ妨ゲズ 八、Due値段計算ノ方法――李浦大引後ニ於ケル市俄古、ウヰニペク 取引所ノ正味騰落ヲT.T.Note ニテ李浦Basisニ換算シ、之ヲ其ノ日ノ 李浦大引相場ニ加減シタルモノヲ以テ、翌日李浦寄付〔キ〕due値 段ト見做ス すなわち、ロンドン支店は「独断」で 1 ブッシェル当り 3 / 4 セントの値 引ができ、またリバプール取引所相場が、シカゴ、ウィニペグ両取引所の 前日大引け相場に比し「due」より 1 d59を超えて上下した場合、それに相 当する額を「採算値段」に加減して売込みができた。  このように、ニューヨーク支店が作成した「打合案」は、同支店が次に 述べたように、ロンドン支店の見込限度設定は認めなかったが、一定の裁 量discretionを具体的に規定して、取引成立の増加を目指すものであった。 要スルニ本艸案ハ、双方ニ限度ヲ設置シテ両支店ガ対立スルコトナ ク、販売上値段其他ニ関シ出来ル丈ケノdiscretionヲ倫敦支店ニ与ヘ、 同支店ニテ従来経験シタル売込上ノ不便ヲ除去シ、商談成立ノ機会ヲ 増加セシメントスル趣旨ニヨルモノニシテ、……60 ( 3 )穀肥部の裁定  ロンドン支店が穀肥部に見込限度設定を要請し、ニューヨーク支店にも 了解を求めたのが1929年 9 月、それに対しニューヨーク支店が一定の裁量 を認めながらも「仕入地中心主義」を貫く方針を提示したのが1930年 1 月 であった。ところで、その間、1929年12月から、穀肥部は太平洋岸積の米 加小麦および豪州小麦の国際取引については、元扱店をロンドン支店と し、売買差額5,000トンの見込限度を設定している61。北米大西洋岸積以外 の対欧取引については、ロンドン支店を元扱店として見込取引が認められ たのである。  さらに、ニューヨーク支店の「打合案」に接したロンドン支店は、1930 三三五

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( 23) 年 2 月 6 日付で穀肥部長に書面を送った。同支店は、見込限度の設定を否 定したニューヨーク支店の「腹案」(前記の「打合事項」)を入手しておら ず、その内容は「当方全然前々不案内」としながらも、なお見込限度の設 定に期待している62。すなわち、ロンドン支店は、大豆油・雑穀類取引では、 元扱店と「並存」して見込取引限度が認められており、小麦も「趣旨ヲ同 ジクスルモノ」と理解していた。またそれは、特に「機敏ヲ要スル小麦取 引ニハ一層痛切」であり、「危険」は定期市場へのヘッジにより、大豆油 より「著シク緩少」であるとも述べている。  見込限度の設定を求めるロンドン支店に対し、一定の裁量に限定しよう とするニューヨーク支店の意見を受けた穀肥部は、同一商品小麦に対する 両支店の見込取引は「最モ慎重ヲ要スル」として、「種々考慮、研究」を 続けた63。その結果、「理論上」はニューヨーク支店の意見のとおりであ るが、「実際取引進展上」は販売店にも「幾分思惑ヲ加味」し、「店内間ノ 取引ヲ誘発スルカ如キ弊害」が生じないよう留意して実施すべきであり、 判断を「延引」することとした。しかし穀肥部は、検討の結果1930年 5 月 1 日付で、「吾社国際取引ノ現状」はなお「研究時代」にあり、しかも「昨 今ノ世界的財界不況ニ鑑」みれば、思惑取引はすべて「消極的方針ニ出ズ ルヲ可」とし、新規の「思惑限度」設定を見合わせると、慎重に判断した。  ところで穀肥部は、1929年 8 月には、ニューヨーク支店長に「相当ノ成 績」を評価していたが、この1930年 5 月の書面では、本取引は「今日迄 ……全体ヲ通ジテ見」れば「寧ロ順調トハ難申」と、解決を要する課題の 存在を示唆するようになった64。次に、1928年 6 月の取引開始から1930年 半ばに至る、国際小麦取引の実態を検討しよう。 第3節 国際小麦取引 ―その挫折 1  対欧輸出取引の展開と中止 三三四

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( 24) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ ( 1 )ロンドン支店の販売活動  国際小麦取引において、欧州市場で北米小麦の取引にあたるロンドン支 店は、その販売基盤が弱く「新参の我社が喰入ることは相当困難」といわ れた。また販売先を確保するためには、欧州各地に代理店が必要なことも 指摘されていた65。ただし、ロンドン支店は、慎重に取引をすすめ、その 開始当初の取引量・額は、1928年度( 7 月以降)に2,571トン(24,925ポン ド)、1929年度に28,530トン(318,000ポンド)、1930年度に41,300トン(375,000 ポンド)と順調に拡大した。このため、利益も着実にあがったといわれて いる。  すでにみたように、1929年12月にロンドン支店が太平洋側小麦の元扱店 となり、見込限度が認められたが、その理由として、このような事情が指 摘されよう。また、太平洋岸北西部の小麦を集荷するため、ロンドン支店 とシアトル支店との小麦取引もはじまった。  ロンドン支店は、国際小麦取引の開始当初、欧州のアントワープ、ハン ブルク、オスロなどの有力商人と接触し、またロンドン市場においても「一 流ブローカー」を通じて「着々地歩」を築いた66。ニューヨーク支店から 受電したオファーが有効なのは 3 時間ほどに限られたが、ロンドンからの 発電に対し、ニューヨークからは12∼13分で返電があったという。こうし て、ニューヨーク、ロンドンの両支店を介して、北米地と欧州各地との取 引が開始された。リバプール取引所の利用も「一分位デ売買成否ノ返事ガ 到着」して円滑であり、定期市場へのヘッジによりリスクを回避した取引 が可能であった。 ( 2 )小麦価格の暴落とニューヨーク支店  ところで、三菱商事が北米小麦の対欧輸出をはじめた1928年 6 月に、小 麦価格が下落した。その後回復に向かったが、29年半ばに再び急落した。 さらに同年10月からは、大恐慌の影響も加わって暴落が続いた(図 1 )。 1929年の小麦相場の急落により、ニューヨーク支店は、定期市場における 積極的な思惑が失敗して、大きな損失を出すことになった。 三三三

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( 25)  穀肥部長はニューヨーク支店長に対し、同支店の思惑についてしばしば 警告した。ニューヨーク株式市場大暴落の直前、1929年10月 4 日付の電報 では、同年 9 月限の「乗換」としてNY支店が買いすすめたシカゴ市場・ウィ ニペグ市場 5 月限の処分方法について、「今一段ノ低落ハ避ケ難キ事」を 伝え「強気警戒」の注意を喚起している67。同年半ばにいったん上昇した シカゴ定期相場は、9 月から再び下落したため、この10月の警告となった。  続いて穀肥部長は10月 9 日付で、同支店長に対し、確定利益残高を 1 万 3,000ドル前後と予想しているが、同支店の手持定期26万8,000ブッシェル が値下がりしており、利益は3,000ドルにまで激減していると注意を促し た68。その原因について穀肥部は、「直接現物取引ノ発展ヲ目当ニ失ハレ タルニハ非ズシテ、多クハ期ノ思惑ニ存スル」と思惑取引に注目し、特に 同年 7 月半ばからの、シカゴ取引所 9 月限の「買進」が「禍根」であると 断定した。同支店の「買進」について穀肥部は、電報により「一応卑見」 を伝えたが、「不幸ニシテ貴方ノ御賛同」をえられず、その後も「依然ト 三三二 図 1  シカゴ、ウィニペグ市場の小麦価格(定期・現物) 出 典:農林省農務局『小麦要覧』(1933年、1937年)、ダイヤモンド社『ダイヤモンド』(1927年3月1日、 1928年3月1日)。 注 :定期は1ブッシェル当り、現物は60ポンド当りの価格。小麦1ブッシェルの重量はほぼ60ポ ンドである。

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( 26) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ シテ……強気一方ヲ以テ終始」したと追及したのである。さらに穀肥部は、 このような取引は「所謂スペキュレータートシテハ、勿論思惑達成ノ一方 法」かも知れないが、我社は「現物引合ヲ主眼」とし、定期取引はその「手 段」に過ぎないと述べた。つまり、「強弱何レカノ一方ニ偏シテ相場ヲ張 ラントスルガ如キ、所謂思惑ノ為メノ思惑ハ絶対禁物」と、同支店の定期 市場における思惑取引に警告を発したのである。さらに、市況が「比較的 急速」に回復すれば「勿怪ノ幸」であるが、さもないと輸出取引は「高値 手持品ニ禍ヒサレ」て遂に商機を逸するから、「一挙巨利ヲ博セントスル ガ如キ事ハ差控ヘ度」と投機的取引を厳しく難じている。 ( 3 )穀肥部の警告とニューヨーク支店  しかし、ニューヨーク支店は穀肥部長の警告を容れなかった。小麦相場 の暴落が続く翌1930年 2 月10日にも、穀肥部長は同支店長に、その小麦定 期取引について「最モ慎重ノ取扱ヲ要スル」と「特別ノ御注意」を与え、 「強気一方ニ偏スル、而モ多額ノ思惑御敢行」を追及した69。しかし、同 支店の「賛同ノ跡」はなかったという。この間、1929年12月には、暴落後 の反騰により「大ナル損失無クシテ転売又ハ売繋ギ」ができる「好機」が 訪れた。しかし、シカゴ定期市場が12月に反騰したにもかかわらず、強気 のニューヨーク支店は売却しなかった。このため、その後の「相場ノ崩落」 に遭遇して、「全ク機会ヲ逸シタル状態ニ立到」ることになったのである(図 1 )。  これに対し穀肥部長は、1929年半ば以降「臨機御注意ヲ喚起」したにも かかわらず「誠ニ遺憾至極」とし、同支店長に対し次のように、「根本問題」 を提示した。本店の指令が容れられず、報告も遅滞しており、国際小麦取 引の実施は「不安ニ不堪」との意向を表明したのである70 根本問題トシテ以上ノ如ク本店ノ指令殆ド実行セラレズ、更ニ月末所 報告ノ如キモ御打合セ通リ御励行方再応書面申上居ルニモ不拘、12月 以降ハ一々当方ヨリ御照会申上居ル様ノ状態ニアリ、此儘ニテハ折角 ノ国際取引モ到底発展ハ望マレザルベク当方不安ニ不堪 三三一

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( 27) さらに穀肥部は、①国際小麦取引は規程通り支店長自らが取扱う、②現物 取引の目的以外に「思惑ノ為メノ思惑」をしない、③定期取引は思惑限度 の 1 / 2 が目安であるが、なるべく少額・少量とする、④利益確保のため 相場に「執着」せず損益 5 %打切を励行する、⑤報告は遅滞なく打合せ通 り励行する、という取引の原則を再度ニューヨーク支店に伝えた。  続けて常務取締役の加藤恭平も1929年12月13日、ニューヨーク支店長に 打電して小麦定期取引による多額の損失を指摘し、穀肥部の再三の「注意」 を無視した取引は社規に反するとして、慎重な対応を求めた。 貴方小麦定期取引ハ現在不尠損失ヲ醸スベキ模様ナルガ、右ハ畢竟貴 方ガ兎角単ナル思惑ノ為メノ思惑ニ走リ、且ツ概シテ限度一杯ニ取引 サルルニ由ルモノト思フ、此点特ニ注意スベキ様最初ヨリ御打合致シ アルノミナラズ、其後穀肥部ヨリ再三注意シタルニモ不拘、貴方取扱 振リ依然タルハ如何ナリ、今後共充分御注意アリ度 尚申ス迄モ無ク取引限度並ニ損失五分打切リノ原則ヲ厳守セヌガ如キ 社規ニ反スルコトハ、重大ナル結果ヲ招クニ付、一層慎重ニ御取扱ア リ度   以上71 ( 4 )中断の指令  穀肥部長は1930年 7 月 4 日、予告なく突如、次のようにニューヨーク、 ロンドン両支店長に打電し、対欧輸出取引の中断を指令した72 国際小麦取引ニ就キテハ従来思惑運用上遺憾ノ点少カラズ、旁々此際 是ガ組織ト併セ徹底的ニ改善ヲ計リ度、目下考案中近々具体的ニ御通 知スル、就テハ夫迄新規取引ハ一切見合セ同時ニ貴方現在建玉並ニ現 物契約ハ当方ト相談ノ上、最善ヲツクシテ手仕舞ノ事トセラレ度  シカゴ、ウィニペグ両取引所の小麦相場は、定期・現物ともに、1930年 半ばにも続落した(図 1 )。すでに1920年代末から穀肥部は、金解禁にあ たり、「此際商品乃至為替ノ思惑ハ絶対必要ノ程度ニ止メ能フ限リ差控フ ル事」など、思惑を極力制限し、慎重・確実な取引を内外の支店に指示し ていた73。また、すでにみたように、穀肥部長は1930年 5 月、ニューヨー 三三〇

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( 28) 在米日系商社による北米小麦の対欧輸出││ 1 9 3 0年前後の﹁国際小麦取引﹂ ク支店とロンドン支店の業務を明確化し、ロンドン支店の見込限度設定の 要求を退けるなど、国際小麦取引の再編に着手した74。ニューヨーク支店 による多大な損失の発生という現実に対処し、取引を「徹底的改善」する ため、新規取引の「一切見合」わせを命じたのである。  穀肥部の中止指令に対し、比較的順調に事業を展開していたロンドン支 店は、「絶体ニ賛成出来ヌ」と返電し強く反発した75。新規取引は禁止され、 現物買入をヘッジした定期売建てを、現物の売却により買埋することもで きなくなったという76。突然の指示に、「仮令損失ニ帰スルトモ、此際至 急売払フコトヲ希望セラルヽモノナリヤ」と照会したが、「御回答ナク ……二重三重ノ困難」に直面した。  突然の中止指令についてロンドン支店は、国際小麦取引の「過去ノ商績 思ハシカラサル」ため、「根本的組織改革」によるものと推測した。しかし、 「突然一時」の「切断」は「取引ノ根本性質ニ反シ」、「不要ノ損失ヲモ招 ク所以」であるとし、事前に「貴案大体丈ケニテモ」開示して各支店・出 張所の意見を「斟酌総合」し、「貴我協調」することを要請している。さ らに、「苦心築キ上ゲタル得意関係」、および「市場ニ於ケル我社ノ地位ヲ 支持シ置ク事」が「絶対ニ必要」であり、「差当リ之ヲ傷付ケサル様、腐 心致シ居ル次第」であると結んでいる77  これに対し穀肥部長は、ロンドン支店が「相当好成績ヲ挙ケツヽア」る にもかかわらず、突然、「一時新規取引ヲ見合」せたことについて、 本店トシテハ特ニ慎重考慮ヲ要スベキ重大ナル根本問題アリ、将来大 成ノ為メニハ多少ノ犠牲亦已ムヲ得ズトシテ、臨機ノ処置ヲ執ルニ至 リタルコトハ貴方御推察ニ難カラズト思フ と述べた78。穀肥部は、「堅実ナル世界的小麦商人」の「地位ヲ確立スル」 ことを標榜し、「此上共失敗商社ノ徹ヲ履セザル様万遺憾ナキ準備ヲ整フ ルカ真意」と記したように、「根本問題」をはらむ取引の中断と抜本的改 革を急務としていた。ニューヨーク支店の思惑失敗による巨額の欠損を重 大視し、リスクを回避できなかった原因の究明と、取引方針の再検討がは かられたのである。 三二九

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( 29) 2 ニューヨーク支店長の弁明 ( 1 )取引の構造  しかしニューヨーク支店長は、穀肥部が「特別ノ御注意」を求めた1930 年 2 月10日付書面に対し、対欧小麦輸出にはそもそも思惑が不可欠であ り、また相場の暴落を予期するのは困難であったと回答し、「規定ニ反シ 見込取引ノ為ニ見込ヲナシタ」という同部の「御疑念」を否定した79  まず、損失を招いた1929年半ば以降の取引について、同支店は次のよう に説明している80。すなわち、同年 6 月以来、ロンドン支店の「熱心ナル 協力」により対欧輸出の「地盤拡張」は「着々」とすすみ、同支店の「督 促」に応じて「毎日缺サズ」多量のオファーを発した。またニューヨーク 支店は、オファーの成約と現物の輸出にそなえ、当時の「相場見込先高」 のもとで、定期を「買持チ置カザレバ危険」と判断した。このため、シカ ゴ取引所に 9 月限16万、ウィニペグ取引所に10月限 4 万ブッシェルを買建 てし、翌 7 月には穀肥部に、これが「純然タル思惑ノ為ノ思惑ニ非ザル」 ことを報告している。しかし、これがのちに「不幸巨額ノ損失ヲ醸成スル」 原因となった。ニューヨーク支店は、新たなオプション取引や、現物・定 期を組み合わせた対欧輸出取引をすすめるため、先高を見越して定期買建 を保持すべきと判断した。欧州市場の売約を予想し、また定期相場の上昇 を見越して定期小麦を多量に買建てたというのである。  しかし、欧州市場においては、「其後引続きoffer」したにもかかわらず、 「遂ニ商談成立スルニ到ラ」なかった。欧州市場は「買控固守」し、「商談 捗々敷成立スルニ至ラ」ないうちに1929年 8 月の新穀出廻りをむかえて相 場は下落に向かい、その後も「欧州買気」は「遂ニ実現セズ」に終わった のである81。11月の「惨落」の反動で12月に「反発」があったが、すでに みたように、ニューヨーク支店は欧州「買気」の復活を確信して「一層ノ 値上ヲ待」った。しかし下落はその後も続いたため、目論見は「画餅ニ帰」 すことになる。支店長は、「今ニシテ思ヘバ此ノ最後ノ好機ヲモ逸シタル ハ遺憾ノ至リ」と述懐している。1929年12月、シカゴ、ウィニペグ両取引 三二八

参照

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