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明治後期の社会思想と哲学館 利用統計を見る

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(1)

明治後期の社会思想と哲学館

著者

吉田 久一

雑誌名

井上円了研究

5

ページ

41-61

発行年

1986-03-31

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006775/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

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吉 田 久

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(東洋大学社会 学部  教授)

明治後期

社会思想と哲学館

(3)

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お立場があるんでしょ・つけど、円了先生が賛成でないということのために、折角もったいない宝が沢山あるのに、そ れが取り上げられないということは大変残念なことだと思うんです。高木先生、僕は来年三月辞めます.けれども是非 百周年の時には、東洋大学全体のオーソドックスな歴史か・ハノいけばアウトサでダーに違いないんだろうけれども、そ のことを是非残して学生諸君をも元気づけて下さい。これは遺言みたいな話になってきまして、申しわけありません。 具体的に申しますと、皆様よくご存じの「新仏教運動」という形をとってくるわけです。私三十何年前に新仏教運動 について妻きまして、今まで仏教なんて占臭いと考えていた人びとが、近代思想の中に仏教もそういう役割を果たし たのかということで、評判になった二とを覚えています.、たとえばその頃まだ仏教史をやっておりました家永三郎氏 などが宣伝してくれたり、あるいは東大の史料編纂の、非常に地味な人でしたけど伊藤多三郎という教授がおりまし て、長い紹介論文を書いていただいたり、いろんな若い頃の思い出でありますが、そういう明治後半期に果たしまし た哲学.館の人びとの役割みたいなことを申し上げたいと思っているわけです。 二  そ.〕で新仏教運動に焦占》があたるわけですが、この会は別に会長だとか、な・八だとかあるわけではございません.、 そこの一番〃首領格になろのはご存じの何代目の学長品、一んでしたか、境野哲、大きな学問的業績もある人ですが、境 野黄洋、次に∵般的に知三れ一、いますが、高嶋米峰と、高嶋米峰氏は私の国もとの人で、・米峰の「米」は米山の米か らヒっております..私は米峰氏の息子柵・」んなんかもよく存じております.この二人が中心で、あとは哲学館の哲学の 講師.かなんかしていた田中治六、我観とも申しましたけれども、まあ哲学館の卒業生たちが大部分と、それにこの人 たちの親友〔= この大学の教授もしておりましたけ/2一、渡辺海旭-こいう、兼任教授なんです。こういう人たちに朝日 43

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新聞に今でも名前が残っておりますが、杉村楚人冠、それから神道学者の加藤玄智氏、高木先生はご存じないでしょ う。僕たちは直接習ったです。こういう人が同人となっております。ですけれども、境野先生に三[わせれば、この新 仏教運動の本をつくった人というのは、明治思想史に将来きっと生き残ると思う占川勇、号は老川、.」の人は哲学館 じゃないんですけれども、いるんてす。この人は境野先生と生れた年が同じ年ですけれども、明治.一十七年に書きま した「懐疑時代に人れり」ヒいう論文があるんです。その二隈疑時代に入れり」という論文が、恐らーもう少し日本 の社会思想史の研究が進む】、必ず特筆大書シ、」れる論文だと思うんです。つまり、明治二十七年という日清戦争が起 りました時期は社会的にも転機てあoますけれども、思想的な非常に大きな転機で、その転機を呼び起す論文が、「懐 疑時代に入れり」で一つの役割を果たしているんです。清沢満之も二十七年からやがて近代信仰をつくっ一、いくわけ です。古川老川は.一十八歳で、明治一、一十二年というちょうど新仏教運動が誕生するときに亡くなってしまいます.、村 L専精、ずっと東大の教授をしていましたね、村上専精はご存じの通り「大乗非仏説」を掲げ、仏教統一論を論じた のもこの頃です・、こういう動きが二十二年にまだ新仏教運動と言いませんでしたが、「仏教清徒同志会」、「清徒」は無 論ピューり∨ンからレ一ってきているわけですが、仏教清徒同志会というものを作っていくわけです.、  二の同志会の背景におりますのが、これは本来ならば井上円了先生がなるべきだったと思うんです。だけど、先仁 は.つ時代が前で、「活仏教」ヒいうことを盛んにやっていたんです。つまり旧仏教というものを生かす方法を巷.えら れたわけですね。新仏教の人たちは文字通り新仏教なんで、新しい仏教をつくりあげるということですから、これは 行き方が違ってきますわけですね、そういうことを井上円了先生自身も書いていらっし巧、います.結局その新仏教運 動のバックになるのは、さっきの村L専精が学問的な、あるいは思想的なバックになっていきますし、また保護者み たいな形になるのはご存じの井ヒ円了先生と一緒に『日本人』をおこしました三宅雪嶺、だから新仏教運動のバトロ

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ンということになれば、思想的にも若干経済的な意味でも村上専精と三宅雪嶺です。なお申し忘れましたけと、新仏 教運動と改名しますのは一、一十六年三月です。そこにお配りした「我徒の宣言」というのは一番の中心人物の境野黄洋 が書いたのですけれども、そこに六つあります網領が、結局新仏教運動の基本になっているわけですね。それをお読 み下さればよく分かるわけてすけれビも、まず社会の改善、自由討究、迷信の排除、宗教的制度を保持する必要はな い、政治上の干渉を排除等の六つが網領です。三十二年に仏教清徒同志会をつくって、三十三年に .新仏教』という 雑誌が発刊になります,これ図書館に保存されていますか。ときどき発売禁止になるわけです。その分がもし東洋大 学にあるとすればこれは大変な貴重なものになるわけで、発売禁止になったのはつぎの三号です。十一巻の九号、こ れは大逆事件の真ん中の出版ですが、それが発売禁止となるわけです。それから、二回目は、十四巻の十号、ご存じ のように日本ヒいうのは、刺客というか、首相かなんか刺すでしょう.、ああいうのが流行する国ですから、それに対 して正面から否定します。しかし刺客というのはかなり心情的に国民を湧きたたすときもありますんでね、それを真 正面から批判して否定するわけです、ちょうど十四巻か十五巻の頃がそういう事件がいくつかあって、それで国民感 情がそちらのほうに傾くとい・ぶ、・ふうな面もあった中でです。それで発売林示止。それから十五巻の五号も発売禁止です。 これは「平民擁護論」という論文によってです。私は、国会図書館でね、私らの若かった頃は出入りが自由で、今は やかましいんでしょうけども、それでかき回して、あそこには印刷物全部届けることにな〔,ているてし.ごつ.”その中 から三号出して補填をしたことを覚え〔、います、だから他にはないと思います。発売禁止ですから。もしここにあれ ばね、これは大変に貴重なものになると思います。なお、.一の「新仏教』という雑誌は、五・六年前に、その雑誌の 論文は復刻をされまして上・中・下と三巻出ていますけど、しかし残念なことには、むしろ雑録とかに大事な記事も あるわけなんですが、 つてれが入っておりません。 45

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 そこで、具体的にですね、明治後半期の社会思想に貢献したことを、哲字館の出身者だけに限三、、お話L申し上 げてまいります..この綱領からいきまし〔、、当然第一に考えられるのは国家との関係ですね。これには一新仏教』が 対決しなければならない問題…、ろあるわけで、一つはご存じの通り三十年代の始めに内地雑居というこ、二があ三、、 それにつれて仏教の公認教運動というのが展開されるわけですね。これは宗教法案-.)一緒に議論されるわけですけれ ども、この中でこれは円r先生と同じ大谷派が中心にな〔,てこの運動が進んでいーわけですけれども、これに対して 新仏教運動がキー-・スト教と仏教と平等なんだということを申しながら、その反対運動の先頭に立つわけです.、むろん 「新仏教」という雑誌のほかにも、さっき申し上げました渡辺海旭が、これは浄土宗なものですからそこで出ている 『浄F教報』、それから、ここ一週間ばかりNHKの第二で取り上げています『中央公論一、「中央公論」.はご存じの通 り本願寺の雑誌ですが、やはり一、中央公論』がこの時期に公認教反対を言うわけです。しかし.番中心になっている のは『新仏教 で、境野黄洋と高嶋米峰を中心にして展開されるわけです。  それから第二の場面では、三十九年六月九日に、文部省訓令第一号というのが出るわけですね.、これはご存じの通 り日露戦争が終りまして、そして日本が段々資本の輸出かなんかをしてずっと朝鮮、満州と出ていくわけですね。そ れにつれて本土の方を固’めなくちゃならないということもあって、まず社会主義運動の弾圧と、それからもうひとつ はむしろ文学の方に現われたんですけれども、例の自然主義文学ですね。現実を暴露する、つまり別の言葉で言えば、 日本で淳風美俗】してあつか .てきました家族や地域の相互扶助みたいなことを、それの護持という観点から文部省 訓令第,宕、というのがでてくるわけです。これに対しZ、正面からくってかか三、いくのは境野黄洋。彼が書きました 巻頭論文は一教えなき国 文部大臣の訓令を読みて」というものですが、とーに.」の中で黄洋が訓令の中にあります 極端なる社会主義という言葉にくってかかるわけで、これは社会主義全体を否定するのか、あるいは極端な社会主義 46

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を否定するのか、これが論法のたて方です。ついでに申しあげますとこの頃の社会主義というのは非常にのんきな社 会・王義でして、片山潜という共産党をつーった人がご存じのように水道や電灯までつーる二とを社会主義だ・考えて いたんですから、むろ.ん境野黄洋のい・つ社会・下義というようなものも非常に穏健な社会・モ義なんでアけれども、それ まで否{疋するのかというのが、蓄二洋の、器一の払欄巳日であったようです。 その 他沢・山三柵文がありま「けれど・も、」又ぷ齢省訓 瓜遼弔一号というのは-入変.著名な訓へηですけれビも、二れが第二の場面です。  それから第、二の場面はよ・・、御存じの三教会同、これは四十五年}、月、二十五日、原敬内務大臣が主催でありますが、 大逆事件の直後に行なわれるわけですね..大逆事件ヒいうのは実は仏教の坊ふ・」んが三人はいっておりまして、そうい うことなどがあるもんですから、そこて.二教会同と、、二教というのは神、仏、基ですね.、妥、こで二皇運を扶選〔し、益㌘ 国民道徳の振興を図らんこと期す」ヒいうようなことを決議をいたすわけです.、まジ.」に{示教が政治に使われるわけで す.、政治の三小教利用とい     、、それに対して正面から批判をし、具体的な運動も起し、同時に決議文とい二、 ものを内務次官のところに持一.ていくというのが新仏教運動で、こ.}でも境野黄洋、高嶋米峰.とい㌧、線でやるわけで すね..たレ三んば、米・峰が『.新仏教一に書きます著名な論文は一内務省の宗教対策を笑う一というものですけれ≡、そ れだけにし二どまらないで、目六体的に社会運動として展開をしび、いくわけですね。神田あ.たりで宗教利用問題ぺ演説会 なんてい三ノのを開くわけです.、当然、神田警察の方で取り締り、ないしは警護し一、、そして目を光.らせている中でや るわけですが、このレ三・ミの黄洋が・大・変内容のある講演をしているわけです。一.国家と宗教」ですcそ31か・つ同志会が中 心になりまして、具体的にいうと黄洋、米峰ですが、仏教主義新聞雑誌記者会というものを結成いたしま寸,明治時 代の仏教雑誌というのはかつて数えたことがありますけれども、数百に達すると思います。今はいくらもありません ね。この新聞、雑誌記者のうち反対の人を集めてそういうものを結、成したりして、そしてそ愛記者会を代表して反対 47

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のは残A.心ですけれども、「馬たらず、馬をせめとり、人足らず、人を召しよせ、車足らず、車めしあげ、銭足らず、み つぎまた取る。」という具合です。詩としてもかなり美しい詩なんでしょうが、こういうものを出しているわけです。 史家の家永さんはこの詩の発見をよろこびましてね、ああいうタイプの人でしたから、これを方々に紹介して下すっ たことを覚えていますが、林古渓という人はここの出身者ですから、かなり宗教的な側面が濃厚な人だったと思いま す。恐らくそれは社会的な反戦論じゃなくて、むしろ宗教的な非戦論というものだと思いますけれども、よくぞこれ だけのものを書いたということで、言ってみれば驚きですね。  三番目は社会主義との関係を取り⊥げてみようと思います。むろん私は新仏教同志会は社会主義団体だと思いませ ん。今そうそうに結論を出すことはよいことじゃないかもしれませんけど、私はどう考えてもりベラル左派という線、 ぎりぎりのところまでいったとしても、それを超えないと思います、この運動が。だけれども明治後半期という社会 主義の苦しい場面のときに、よくぞ社会主義者たちと新仏教の人たちと交わりを続けて、その交わりを続けることに よって、社会主義者たちはまさに冬の時期を持ちこたえていくということで、これは新仏教の側だけじゃなくて、た とえば堺の平民社の側からもそういうことを書いているわけです。堺なんていう人は苦労人ですから、そういうこと を書いているわけです。そこで新仏教、とくに境野黄洋、高嶋米峰と親交を結んだ社会主義者を上げると、幸徳秋水、 それから堺利彦、西川光二郎がおります。それから哲学館をでました日本の代表的な社会主義者・無政府主義者です が、石川旭山(三四郎)がおります。私はこの人の晩年に何回かあったことがありますが、寝ているところで話した こともありましたけれども、やっぱり東洋大学出身者として堀り出しておく必要がありますね。社会主義を取るとか、 取らないとか、そういう問題じゃなく、学校ではやはり歴史としてきちんとしておくということが、非常に大事なよ うな感じがします。それから木下尚江ですね。こういう人たちが親交を結んでくるわけです。むろんさきほど言いま 49

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したよノ、・に、新仏教運動は社会主義団体ではありません.り新仏教運動の革新性とか、自由討究、今でいえば言論の自 由という.一とでし.・二.か.。それから政治権力に対する非常な抵抗感というふうなものが先にたっ〔、いるわけですが、 社会主義者と゜親交があるもんですから、絶えず高嶋米峰などは尾行がついて、むろん境野黄洋もつきます”.高嶋米峰 という人は桔れたおも㌧ろい人てすから、私ども覚えていますときでも、・東洋大学の前に占本屋を開いて、丙午出版 社といいま㌧.∵、 、それで丙午出版社をやってながら東洋大学の学長にな.っ、たんじゃないですか▽そんな・ふうな大 変おもしろいノ、で、米峰.が探偵を連れて歩ーヒいって自慢している.文章がいくつかあります。探偵が尾行していると いって、得意になっていろふ,人章があります。しかしさきほビから申しておりますように、新仏教運動というのは社会 主義運動じ〉.ありません。社会主義運動というのは必ず、生活とか、労働とか、そういう問題の中に出てーるわげで すば、、れど㌧、、二れはヒ・一ーマニストです・+.、もし貧困の問題があったとしても、そういう貧困者に対すろ愛情とか同 陸旧ー二かそ二・いう問題でして、い任会をホ又革するということじゃない.、  それから、今ならそんな・ブリミティブなことは言わないけれども、この頃は社会主義運動にとっても初期の時代で すから、社会主義とい、’,と唯物論ですが、ところが唯物論は言うまでもなくキリスト教に対して出てくるわけですが、 ところが仏教というのは社会亡義者の側から.三口うと汎神論とみて、これは唯物論も唯心論も両・万をも二,ていると二ら, みるわけです、だからキリスト教より:わ)はるかにちかいと考えちゃうんでしょうね..これは今から≡目えはかなりナン センスな面があるとしても、その時期ではそういうふうに考えた.、そこで両方の「綱の引っ張りあいです、新仏「教の方 にすれば、おまえたちの方は精神の方が星りないんだから、おれの方に来いヒいうことを言いますし、それから社会 主義者の方は、キリスト教よりおまえたちに近いんだからおれの方に来い、そういう素朴な愉快といえば愉快な時代 だブ,たんでし.《うけど、そういうこレ一で『新仏教』の雑誌の中でもかなり長い論争が続きます、社会主義者と新仏教 50

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徒との。ですけ赤ども、この論争は両方ともやや楽しんでやっているというような感があります。主人公は、 一番の 中心はむこ・つは堺利彦、この人は枯れた人でおもしろい人ですから、こちら側としては哲学館の田中我観とか、それ から高嶋米峰とか、この間で論争がおきてくるんですけれども、ちょうど大逆事件前後にはいって社会主義が冬の日 に入っていー中で、むこうとしても大変楽しみだったらしいです・、この冬の日の間の両者の親交というのは、見落さ れている問題ですけれども、残しておー必要があるんじゃないか.、なお四十三年に大逆事件が起りますが、このとき 境野黄洋が一過渡時代と極端思想につい一、」という論文を書きます.、この論文がきっかけで結局発売禁止ということ になりますけれども、そういうことで社会主義運動との関係ということがあります。  それから四番目に取り上げてみようと思いますのは、社会運動との関係であります.これは御存じの現在の公害の 原点といわれZ二足尾鉱毒事件一、これに対する新仏教徒同志会の運動であります。むろん論文もたくさん新仏教誌の 中に書かれますし、それから具体的に募.金をしましたり、あるいは現.状調査をやりましたり、いろいろな動きをみせ ます。なお新仏教運動の大変有力な同人ですが、これは東洋大学の関係者じゃありませんけど、ご存じの伊藤左千夫 という歌人てすね。新仏教誌に出しました「鉱毒被害の民を哀れみて詠める歌」、これが有名な歌になりましたけれど も、新仏教誌に発表されたのが最初ということであります。社会運動としては足尾鉱毒事件が中心でしょうね.ただ もう一つ当然あるべき労働運動とい、つのは、これは論説などかなりありますけれども、⑪99いですね。それは仏教金体 が労働運動に対する答案をもっていない。これは一番近代の中での弱いところだと思いますが、新仏教運動も例にも れません。和田不可得、覚二といいましたが、この人が労働運動について論文を出しますけれども、東洋大学をまだ 出たばかりだと思います。申し忘れましたけれども、新仏教徒の大部分が二十代で、三十代が少しですね.、明治の人 はみんな早いですけれども、それにしてもすいぶん早・いですね。 51

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 それから第五ですが、なんといったらいいでしょうか、風教問題とでもいいましょうか、ここは仏教のお箱なとこ ろですが、仏教はキリスト教からずいぶん遅れているわけですが、新仏教運動がここに狙いをつけていろいろ活動す るわけです。まず廃娼運動というのは明治の社会にとりましては非常に大きな出来事ですね。これはほとんどと言っ ていいほど、キリスト教なんですね。ところが新仏教運動は廃娼運動を正面から取り上げていくわけです。仏教とい うのはむしろ存娼へまわるんですね。それはなぜかと言いますと、やはり檀家があるわけですよ、吉’原の方に。ある いは方々に。廃娼では飯の食いあげということになるでしょうし、それから神社と寺院の近くに遊び場所があるとい うことも含めて、仏教は存娼論だと明治では一般に見られているわけです。新仏教の公娼廃止の理由ですけれども、 これは大変いいところを突いていると思うのは、やはり人身売買という、人道に反するということです。単なる倫理 とか風教だけじゃありません。つまり日本人がなかなかもちにくい人権とか、人道とかとの関連で人身売買だという ことから論を立てているわけですね。これはいいところを突いているわけです。具体的には明治三十三年、新仏教が できた翌年ですが、大日本廃娼会に加盟いたしますしね。  それからその次に禁酒禁煙運動ということですね。これはもっとも熱心なのが米峰で、大変おもしろい人で運動で は何時も先頭に立ってやる方の人でして、米峰自体熱心な禁酒論者であります。仏教の方の禁酒運動というのは、『中 央公論』のもとになる『反省会雑誌』、「反省会」というのの出発は明治二十年でしたか、そういう運動があるわけで す。米峰は反省会の会員でもありまして、一六三五号という監札をもっています。そういうことで生涯禁酒運動の先 頭に立ってやっておりますもんで、日本の禁酒運動史からいって米峰の位置は大変大きいわけで、禁酒運動史に必ず 米峰が出ているわけです。これもキリスト教が中心だったもんですから、仏教などが禁酒運動やるものかという風潮 の中で、新仏教、哲学館の皆さんがやはりそれを押し進めていく。禁酒運動の方は米峰が新仏教運動をつくるときに 52

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仏教清徒同志会と名乗りましたから、ピューリタンとして清徒と名乗ったからにはおれは煙草は辞めると、好きだっ たらしいけど、そのときはすばっと辞めて、以降禁煙論者です。  それからいろんな風教の改革というのは、お箱ですから、まずお葬式の改革ですね。葬風改良と、今のお葬式とい うのはお酒ばかり飲んで人が死んだのに悲しみもしないということです。それから米峰、黄洋共に茶代廃止会という、 お茶代ですね、これなんかいいところに目をつけましたね。茶代廃止会というのをつくってやります。それから年賀 状廃止会というのをつくります。それから雨天の際には雨傘の置場をつくるべきだという運動をはじめるわけですね。 その他こまかいのはいくつかありますよ。例えばこの頃は人力車が交通機関ですから、坂にかかったときは客は必ず 下車すべきだ、こんなことを言っています。乗り物では必ず老幼に席を譲る。今の先取りみたいな話ですね。それか ら車内の禁煙という運動もはじめます。なお、この他にかなり大きくなりました会としましては、新仏教徒も加わっ て風俗改め会という会をつくって、これは四十一年に発会をやりますけれども、主として女性の地位の向上ですね。 それから現在まだ残っている動物虐待防止会というのがあります。これは現在も渋谷の辺にあったと思いますが、こ れはもともと『反省会雑誌』11『中央公論』に関係しておりました広井辰太郎が言葉をかけてはじめるんですけれど も、米峰、黄洋も運動の中心になって動物虐待防止会というのをやります。  でも風教の点で最も後に残るのは乃木希典の殉死批判ということでしょうね。これなどよくぞやったと思いますが、 若くて情熱に燃えていたからだと思いますが、新仏教は、乃木がつめ腹を切って死ぬ、その批判が「乃木希典殉死批 判特集号」です。そして特集号の中心になっているのは、境野黄洋の論文です。境野さんはさきほどご紹介した杉村 楚人冠の関係もあったせいでしょうか、朝日新聞の論説委員もやっているんですね。それで大正元年九月十四日とい うのは乃木さんが自殺をしたつぎの日ですね、この日の『東京朝日』に境的黄洋が殉死の批判を書いているわけです 53

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 乙、しムP^ジユ又・工女こ    .ノ ジビ肩フf、「.ば 一.〔.・2 東洋大学の且.会福 らきているわけで 化当子科といいまし 下.yごニンベτ仁‘F.し︺よー.] ’∪         .c」ト ろ仏教社会事業㌧ ちよつヒ∵言はさ

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いうのは『本で最も早くできたわけです。できた理由には境野黄洋が学長だったヒいうことか 社会事業のこヒを申し述べてみたいと思います。自分がいるから言うわけじW、ありませんが、 ..因に今のマスコミ芦子科もそうで寸ね。あれも境野黄洋のときにできたものですね..あれは文 、ちょっと忘れました.、それで境野黄洋自体はむろ.ん社会事業の研究者じゃないが、彼の親友 辺海旭ですね。これが東洋大学の.教授で境野学長の親友です.から、これが中心になっていろ・い ふうなものを考える三わけです。この人は東洋大学でも非常に大事な人の一人でしトごつ.から、 すと、ドイツに十,年ほど留学しておりましたけビ、そのときロシア革命にぶつかってさかん ね。「乃、木大将白殺について-|日本の風教道徳の一考察ー」ですか、これはかなり理路整然とした論文ですが、情にお いてはとにかくして、理においてはレ一れないということを理路整然と書くわけですね。[口本全国あ.げて乃木.の追悼と いうことでL.ご・「、.、間治天皇の.後をおって、・奥さんといっしょに亡くなったヒいうことは、日本中が非常に情緒的に そろ.いうふうになっている中で書くわけですから、東京朝日がこれは投書でもろ、.大変なんですよね。東京朝日に全国 的な三〆ベルで書ーわけですが、同、時に新仏教誌がさっき言ったように特集を組んでいくわけです.、この中で黄洋の書 きましたもの.が.番光っており..ますけれども、しかしかなり激しい言葉がいくつか山山てくるわけで、さきほどの林古 蔭なんて人叫.ぽ詩人のせいもあるでしょうか、乃木大口付の自殺は殉死というけれども、総死や情死とかわりないという わけですね。これなジ一はよほど勇乞夙がなければできない話ですけど、そういう特佳木を組んでやる.∴仕ムム田心相心ばかりじゃ ∪ばノ∴.\[口本.の俗隔田生由人ない〆一にこのこー二時は鍵茂、してお㌘、ベンさです・.、

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にロシアの革命の志十たちと、ロシアに対する演説をやったりしている人です。そういう世界的な規模の人ですが、 帰ってきまして彼自体、日本の仏教社会事業の指導者にもなっていきますし、具体的には日本で=番最初の労働共済 会、労働者の栢互扶助の団体ですね.こういうものもつくっていくわけですね。それはち.+うビビスマルクの時期に 渡辺先生はむ.}ろ、・に留学していて、これを目三、きて、そLて日本に適用してみようというわけでしょうね.、なお「社 会事業」というのしオフィシャルに一番最初に使う人は渡辺海旭で、これは仏゜教社会事業研究会というのをつーるん です、、個人として使「、つ人は片山潜なビいますけ21ど・も、こういう.団体に名称をつけたのは渡辺海憧がはじめてであり ます.なお磯村英一氏にはきってもきれない恩師ですね。磯村さんが今の年にた三ノ一、.番思い出すのは渡辺海旭では ないで」ようか。私は直接お会いしたことはないわけですが、新宿の中村屋に海旭を記念Lて、海旭の巳・は壷の月と 書きまLイ’、三亜月声二けつニレ串しますか・っ、羊嚢というのをつ・・りまして、 らべております。ち.二、と官  伝めきますけれども、日本の社会福祉で羊嚢 になった人はこのメベしかいない。話がすこ し余談になった嫌いがありますが、プκ.三,い.つ意味で大変おもしろい人物ですね。二の人たちが結局、黄洋や米峰とい う親友たちに吹曳、}込んて、やがて大正十・年という年に、栗洋大学に社会事業科というものが日・本の先端を切ってでき るというこヒでしょうね...そこの科で、今歴史を編纂し一、いるから、やがて先生方のもヒへ抜曳・}刷りがいくんでし・酒 ・ノナー」ビも、       、一、 、ノギ吟リ\・7レつ、 ∀ ,.・]        しオ〜、  / 一一 ノ

       ・レ

リギリの線の人ばかりずらっと集めたんです。これは境野学長がいたからできた仕事だヒ思います。日本女子大とそ れから今の大正大学、元は宗教大学と申しましたけれビも、     、   、引江会事業科を置きはじめるん ですけれども、その講師やその他の顔ぶれから見る以ヒは、これは東洋大学はそういう意味での優秀な人を集めてお りま寸ね. ’D 一D

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 渡辺海旭はそれくらいにしておきまして、どうしても社会事業との関係で忘れてはならないのは加藤咄堂、今あん まり学内じゃ有名じゃないですか。最近社会教育の方で評価がでてきまして、加藤咄堂の研究というのが進んできて おりますね。私も上宮協会理事長を咄堂先生がやっているとき、しばしばお目にかかりましたけれども、この人が哲 学館の最後くらいの教員やっていたかな。東洋大学になってからも、明治期から有名な人です、加藤咄堂は。社会教 育・社会事業との関係で堀り出していかなくてはならない大事な人だと思います。境野黄洋自体も社会事業について いくつか論文を書きます。因に加藤咄堂は『朝思暮想』という、これは発禁本になって三十九年三月に。どうですか、 図書館の方で一つお調べになっては。なお社会事業の具体的運動としては明治三十年代のインド飢饅という大飢瞳が ありますけれども、このときの救済運動とか、それから日露戦争の終ります三十八年の東北大飢饅の救済運動とかい ろいろなことをやります。今日は別に目新しいことでもありませんけれども、申しあげたかった骨組みというのは.」 んなことであります。  最後に全体とりまとめていろんな評価があり得ると思いますが、私が見て、この運動というのはちょっと想像もで きないほど、抵抗感が濃厚です。ですけれども、どこか一本足りないというか、よくそういうことがあるんでし.〉う けど、すごく抵抗力があるという人はこれは必ずしも、魅力がないということもありますよね。この新仏教運動と同 時に生れてくる、ご存じの浩々洞という東洋大学の創立に関係した清沢満之の運動と比べたときに、浩々洞の方はこ れは近代信仰の確立ですから、内面に深く深くはいっていきます。この拡りはわずか真宗大谷派教団、それから東大 を中心とするインテリだけであんまり広まりません。でも明治後半期の思想的な魅力というのはどうしても浩々洞の 方に、私なんかひかれるというところがあります。なお浩々洞というのは東洋大学のすぐそばですから、西片ですか ら、あそこにもなにか記念碑くらい作っておくべきですね。明治の後半の思想界で非常に大きな影響を与えた人です 56

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から、ちょっと墓標ぐらいはあってもいいのではないか。浩々洞ほど深さが新仏教にないと思います。そして社会運 動といたしましても、これはさっき申しましたように社会改良という域を脱しないと思います。むろん社会主義運動 ではありません。自分たちも社会主義運動でないと言っているわけですから、個々別々では穏和な社会主義者だとい うふうに境野黄洋、その他が言いますけれども、これは社会改良ということだと思います。そして思想運動としては さっき申しましたように、めずらしいりベラル左派の線だと思います。「新仏教」という名前を出しましたように、やっ ぱり仏教を社会的な常識的な線にひきもどして、そこから教団権力その他と、あるいは国家権力と対立をしていくと いうことが、これを見逃すことができないのじゃないかと思います。なお新仏教運動が誕生します明治三十二年とい うのは境野黄洋が二十九歳、米峰が二十四歳とです。この研究会がはじめてなもんで、ふさわしい話になったかどう か分かりませんけれども、とにかく三十年前の研究だし、これから新しく勉強するといってもちょっと他のことが忙 しいもんですから、お茶を濁したような話になりまして大変申し訳ありませんでした。

質疑応答

 吉田 この人たちは村上専精、三宅雪嶺を立てるようですけれども、まだ二十歳代とか三十のはじめですから、こ の人たちの奥のところに井上円了のよき啓蒙家の面とか、在野的な面とかいろいろあるんでし・土うね。  なお境野黄洋の年譜をつけておきましたが、年譜としてはどちらかというと社会思想に偏っているかもしれません。 補填していただければいいと思います。  飯島 新仏教の参加者は真宗系ですか、それとも宗派にこだわらないですか。 57

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い気もす..るんです三まふ、・.二に花開くときに辞めち.やったわけ.だか・..リ、無論、・公 。♪、、・っ三この林古渓たちが中心になっイ.、。境野黄.洋は四年にはまだ運動.から.手 形で、あ.の.人が学長になるの.が、七年で雑誌辞め ∵、からま.もなくで..ア.ね.、 大巳子レ..︸いう・のは、 よくい江ム .一事件︰をおこ.します..ね、折忌子砧照事件とか.、垣]野昔パ洋

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    ン....      、「せんでし七已けれ川ど∠u、結口句大正四住‘八日り、上ー﹂ハ巻/ーハ[号で二廃.刊にたユるわけです∴、 えていきますか凸甲 言い分があ.るんで、後から整理じ一てみますと、 一つは外.部.の評論・家たちは信 ごとを三竺ノニ..」く・れますけども、較時中よくあり.まじたね、 二叩央公論』を読ん 〔、しょう、、だから」,新仏教』を取っているのはということで地方でマークを から中央.では尾行がついたりしています。こちらの方からいけば.まさに討死 、もう一方からいえば、やがてこの人たちが凹十代になり、あるいは三十代 ろのは早.いですね、四十いくつでμ子長にな・るんですから、ですからそういう あるんじゃないでしょうか、個々に即して考えれば。 過した大.正.四年でしたら、大.正.デモ杉/ニフシーが出イ..、くる、その波に乗ること んは浄土宗です.が、米峰さんはもと真宗.の・本願寺派の寺に生れ、まし 藤左千夫とか、それから絵描きさんで芸大の教授をしていました結 58

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もZ・ラですけれゾご㌧. 飯島 二れは新仏教の機関誌の内容を分析すれば分かることだと思いますが、円フJシ・」んが旧仏教の活性化ヒいうか たちで、旧仏教の教えの内容を生≧、一た形でうけとめようという方式をとったのに対し〔、、今度は全く別に新仏教と新 Lいものを創出しょうということだとすると、新仏教の教義内容といいますか、こういうこレ一についての考え方はど うだったんだろ弓かと……っどうし内容よりももっはら外形か・…:。 吉田 そうですね、そういう感じは否めませ人ねぐ 高木  ∴…小教制度を保持する必要を認めずLという……, 飯島 外形的なもの、それから社会的な関係、そ’.ちの方に重占…があったようで、新仏教にふン・一わしい中身の方を どう考えていたのか、 高木 外形ては信仰運動にならないでし、土うね。宗派もなければ、教学もない.、それではヒューマニズム中心の活 動になっ二しまう 吉田 円ゴ先主は新仏教の人ひ㌧二に、君たちの方は新しいレ三口わずに、まことの真ですね、自信があったら真仏教 と名乗一,てみプ㍗、二=口,一、います、円.ー先生の方は活仏教です。 飯島 廃娼運動などの風教Lの運動のほとんどは雑誌にのっていますか、 吉田 そうですね.、廃娼運動の加盟は会として、それから禁酒運動は米峰が主だけれども、かなり多くの人が、渡 辺海旭な、二£、そ.・,ですね、運動形態をレニ,.ているものは会とし一、やっているわけですけれビも。 高木 会の母体とい二,も・のはビこかにあったんてし.本う乙 吉田 教団の中にうってで一、勝負しようヒいうことまではいかないよ・つですね.教団の側でもだいたい新仏教の講 59

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演会というのは場所を貸さないんですね。だから講演会の会場というのも、ユニテリアン、どっちかというとキリス ト教寄りですよね。だからユニテリアンを使うわけですね。ユニテリアンは新仏教に対して非常に親しみを感じてい ましたけれども、結局仏教のお寺やなんか借さないもんだから、そこで……。  針生 渡辺海旭はドイツでなにを勉強したんでしょうか。  吉田 【番やりましたのは、やっぱり業績としてはチベット語やなんかでしょうな。本当はサンスクリットをやり にいったんです。  海旭のは小さい寺ですけれども、深川の方の。よくその頃国際テンプルといわれ、インドの独立の士、その他がぞ ろっと来ていまして、それでボースなどは中村屋にかくまわれていて、中村屋が淀橋の警察にとりまかれたこともあ りましたね。ボースという人はとうとうかくまれきれなくて、自分の家の御婿さんにしたわけでし.▲う、中村屋の。  松岡 さきほど社会主義とのまじわりについてお話がありましたが、どの程度の交わりですか。  吉田 両方とも月例会がありますね。それに参加しあうという、そういうことですね。お互いに慰めあっていたん でしょうね、多分。  針生 大逆事件について境野黄洋なんかが論陣を張ったというのですが、円了のところで書生をしていた内山愚童 なんかについては書いていないんでしょうか。  吉田 私の大逆事件研究はちょっと私のいさみ足のところもあって……。確かに愚童と円了は距離的には近いんで すよね、長岡と小千谷と。それで愚童の弟が「円了先生のところに兄貴がご厄介になっていた」ということを、その まま鵜のみに信じたのですが、それが本当かどうかというところまで、詰めていないんです、私自体。そこんところ 円了側はどうですか。 60

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 高木 郷土史家の話で、その関係をよく知っている人がいるということで、長岡の真言宗の寺へ調べにいったんで す。伺ったところが、その方が亡くなった直後で、それでなにも分かりませんということでした。  針生 そのことについては熊本で『遺言』という雑誌に柏木という人が書いていました。その人は岐阜の方にいる とか。  吉田 私は愚童の弟が小千谷におり、甥が柏崎におりまして、たずねております。三十何年まえに、弟さんからの 聞き書きをそのまま信じたところがありますね。       (昭和六十年十一月二十八日の第二十七回研究会における報告  文責 三浦) 本文中で発禁処分をうけたと指摘された雑誌等について、東洋大学図書館における所蔵関係を調べたところ、 第一四巻第一〇号と第一五巻第一〇号のこ冊は所蔵されていることが確認された。 『新仏教』 61

参照

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