東南アジア研究 35巻4号 1998年3月
生命 の連 な りを未来 に
- 北 ビルマか ら中国雲南省 と北 タイにかけての 民族 間関係 と民族 ・国家 間関係 と民族 内関係 をめ ぐって
吉 田 敏 浩 *
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Thevastregionofmauntains,plateausand valleysextendingacrossnorthernThailand,Laos, Yunnan ProvinceofChina,northern Burma and northeastern India is hometo many ethnic groups,includingtheLahu,Lisu,Karen,Kachin,Sham,andChin.Theseethnicgroupsconstitutea minorityinseveralcountriesandareoftensuppressedbygovernmentswhichanethnicmajority controls.Asaresult,theysometimesfightagainstthesegovernment'scentralism andassimilation policiesinordertoprotecttheirownethnicity,identity,culture,language,andarea.InBurma, conflictbetweentheBurmesegovernmentandethnicminoritiesseekingautonomyorindependence hascontinuedsince1948.Thisisacaseofactivitybyethnonationalists.
Theethnicgroupshavelegendsandmythsabouttheiroriginsandclans,theirancestralki ng-domsandwarsofethnicresistance.Suchlegendsandmythsoftenbecomeelementsthatencour
-ageethnonationalism.
Whileethnonationalism hasplayedmajorrolein resistancestrugglesthatrequired ethnic unity,italsosometimesdisturbrelationswithinanethnicgroup.Forexample,inBurma,Kachin societywasdamagedbytroublethatoriginatedinanexcessofethnonationalism,whichupsetthe balanceofrelationsamongdifferentlinguisticgroupsofKachins.
Ithinkthatitisimportanttounderstandthatrelationshipsofcoexistenceofvariouslivesin naturehavealongerhistor.ythantheState,nationornationalism.
Ⅰ
国境 を越 えて初 め て ビルマ の 山岳 地帯 を訪 れた の は
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年 の雨季8
月で あ る。 タイ北 西部 の盆地 にあ る 国境 の 町 メホ ンソ ン近郊 の村 か ら北 へ ,2,
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メー トル を こす 山脈 を越 えて, ビルマ東 北部 ,8
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* ァ ジ ア プ レ ス ・イ ン ター ナ シ ョナ ル ; Asia PressInternational,2-13-32-402,Kamiosaki, Shinagawa-ku,Tokyo141-0021,Japan
-268-吉 田 :生命 の連 な りを未来 に 図1 北 ビルマ要図 -+ - 1ト 取材 ルー ト (1985-88年) 州境 -\)へ一 河吊 o i:.な都市や 町 シャ ン州 の南端 に足 を踏 み入れ た。 ビルマで少数派 の民族 と して, 自治権 を求 め軍部独裁 の政
府 と闘 うパ オ人(pa-Oh)の ゲ リラ組織 , パ オ民 族機構(p.N.0.)に同行 したの だ ったo 海外 に出
たの も,地つづ きの国境線 を越 えたの も初 めての経験 だ った。
タイ領 内の最後 の村 か ら,雨が降 りしきる密林の山 を泥淳 に足 を とられなが ら登 るこ と半 日,
東南 アジア研究 35巻 4号 あた りの丘 と丘 の間に さ しかか った。そ こが国境 で,地 図上 で は東西 に国境線が走 ってい るが, 壁 や鉄条網 に さえ ぎられてい るわけで もな く, ただ草 む らと木立 が風 に ざわめ き,雨 を吸 った 赤土 の山道があ るだけだ。 わた しは どこか拍子抜 けす る と同時 に,胸 の内が風通 しが よ くなるの を覚 えた。国境 とい う ものが人工 的 な制度上 の線 にす ぎな くて,空 も大地 も森 もそれ と何 ら関わ りな くあ るが ままに つ なが ってい る事実 を, この 日で確 かめ られたか らだろ う。 ここに来 る まで,パ スポー トや ビ ザ や出入国管理 や税 関 とい った何重 もの制度 の扉 を,否応 な く通 って こざるをえなか った。 そ の度 に,国家 とい う目に見 えない 「構築物」 の重 さ息苦 しさを感 じた。 しか しい ま,国家 や国 境 よ りも自然 の方が古 くか らあ り, いつ か もし国家が な くなった と して も, 自然 は永 くあ るだ ろ う, とい うことを肌 で感 じるこ とによって, わだか ま りも解 けてゆ くようだ。 そ して, 人 間 の世 界 もまた国境 を越 えてつ なが って い る。パ オ, シ ャ ン(Sham), カ レニ
(Karenni),カ レン(Karen),ラフ- (ラフ Lahu),リス- (リス Lisu),アカ(Akha)とい った,
ビルマの東北部 に住 む諸民族 は タイ北部 の山地や盆地 に も住 み,国境 をはさんだ同 じ民族 同士 の往 き来 もあ る。 この ように さまざまな民族が国境 を越 えて暮 ら してい る現実 は,両国の間 に だけで はな く, タイ, ラオス, 中国雲南省, ビルマ, イ ン ド,バ ングラデ シュに またが る広大 な山地 と高原 と盆地 の全域 に も見 られ る。 もともとかれ らがいた土地 にあ とで国境線 が引 かれたためであ る し,国境 がで きたあ とも, 焼畑 に適す る土地 を求めて山か ら山へ移住 し国境 を越 えて しまう人 び とが い るか らで もあ る。 あ るい は,革命 や戦乱 や時の政府 に よる弾圧 な どに よって,難民 と して国境 を越 え,移 り住 ま ざるをえない場合 もあ る。 わた しはゲ リラ兵士 たち とゆっ くり歩 いて国境 を越 えた。地面 に くっ き りと足跡 が きざまれ る。票海 の上 に シャン州 の山なみがつづ き, その果 て はかす んでいた。
Ⅱ
山の道が結ぶ世界
この とき,国境 か ら下 った谷 間 にあ るゲ リラ部 隊のキ ャンプ と,焼畑 と水 田 をい となむパ オ 人の村 を訪 ねた。それ以来, シ ャン州 を度 たび訪 れ, 自然 の リズム と天地 の恵 み に よって生 き る人 び との姿 にひかれ るようになった。そ こには,遠 い祖先 の時代 につ なが る ような, なつ か しい ともいえる時間 と空 間が息づ いていた。 そ もそ も, なぜ タイ北部 か らビルマ にか けての地域 に関心 を持 ったか とい えば,
『ヤポ ネシ ア序説 』[島尾 1977] とい う本 の なかで,文芸評論家,奥野健男 の次 の ような言葉 にふれたか らだ。彼 は こんな仮説 を述べ てい る。 876 -270-吉田 :生命の連なりを未来に 古代,揚 子江以南 の地で暮 らして いた人び とは,北 か ら来 た漢民族 に押 しや られ,西-南-雲貴高 原や イ ン ドシナ半 島方面 に移 った。 その なか には, タイ族 な ど平地 の水 田稲作 民 と山地 の照葉樹林帯 で焼畑 をす る ミヤオ族 やヤ オ族 な どがいて,モザ イク状 にな って い た。かれ らの一部 は九州へ渡 って きて稲作 を もた ら したので はないか・--。 それか ら, タイで会 った山地民族 につ いて こう語 ってい る [同上書
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]。 「タイで会 った ミヤオやヤ オの ひ とた ちは面 白いんです よ。自分 の領土 ,王 国が あ って, それ は雲 の上 だ とい う。 要す るに8
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メー トル とか,1,
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メー トルか ら上 だけが 自分 の王 国で, それ は もう中国か ら--・・ラオスなんて特 に多いんです け ど,ベ トナム とか タイ とか ビルマ とか,それか らもっ とヒマ ラヤ山脈 のず うっ とネパ ール, ブー タンか らカ トマ ンズ の方 まで そ うい う人たちが 山の道 をつか って連絡交流 してい る。下 界 には国境線 が あ るが, 彼 らにはない。
」
「で,みんな部族 が 中心 なんです け どね,そ して少数の部落 ご とに別れ住 み,焼畑 を追 っ て移動 してい る。 だ け どみんな同族意識 が あ って, ・--・中略--, 山の道 でみ んな往復 し ていて, 山の1,
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メー トルか ら上 は 自分 たちの領地 だ とい って, そ こに ひ とつ の架空 の 王 国があ って, や っぱ り救 済の メシアみ たい な もの を望 んでい るこ とになる。」 「ぼ くは 日本 国 とい うよ うなナ シ ョナル な もの に対 しもっ と東 アジア全体 の イ ンターナ シ ョナルな広が りが,発想 の転換 とい うか,展望が 開けかか った ような感 じを もった。 国 家の先 に部族が あ り,部族 同士 の連帯が あ るの じゃないか。それが東南 アジア を中心 とす るヤ ポ ネシアの発想 だ と。」 「ヤ ポ ネ シア」 とは,長 年,奄美大 島 に住 んだ作 家 の島尾敏 雄が提 唱 した言葉 で あ り,概 念 で あ る。
「もうひ とつ の 日本」 をイメージ させ る 「ヤポ ネシア」 は, 日本列 島 をポ リネ シアや ミクロネシア と同 じような太平洋 の島 々の一群 と して とらえ, この列 島 を 日本国家 とい う一元 的 な枠組 みか ら多元 的 な世 界の広が りへ と解 き放つ ため に発想 された。 奥 野の言葉 は,東南 ア ジアの山地民 の国境 を越 えたつ なが りを 「ヤ ポネシア」と結 びつ けて, 「ヤポ ネ シア」 の イメー ジ をよ り広が りのあ る現実 的 な もの に しよ うと してい る。 わた しは視 界が あ ざやか に開 けて,遠 くまで見渡せ るみ たいに感 じた。 国家の枠組 み に とらわれぬ 山の民 が, 国境 を越 えて どこまで もつづ く山の道 を自由 に往 き来 してい る とは, なんて素晴 ら しい こ とだ ろ う。 山の道 や高原 の道 が,木 の葉 を陽 に透 かす と見 え る葉脈 の ように, アジア大陸 を縦 横 に延 びてい る ら しいの だ。東南 アジア研究 35巻4号
Ⅲ 雲の上の国
そ れ か ら, タイ北 部 の 山地民 族 につ い て調べ た。 ラ フ一, ア カ, リス一, カ レン, メ オ (Meo/モ ン Hmong),ヤ オ (Ya°/ ミエ ン Mien),な どの諸民族が五十数万人 いる といわれ, 小 さな集落の竹 の家 に住 み,焼畑 をい となんでいる。 弓や先込 め銃 で狩 りもす る ら しい。かれ らは ビルマ, ラオス, 中国雲南省 の方か ら山地 を転 々 と しなが ら移 り住 んで きた。 い ま も同族 の多 くがそれ らの国々にいる。 キ リス ト教徒 になった人たち もい るが,伝統的 なアニ ミズム も 根強 く残 っている とい う。 『東南 アジアの少数民族 』[岩 田 1971:35-36]に, こんな文章があった。 私 はかつて北部 ラオスのヤ オ族 の村 をたずねた さいに,村 人か ら聞いた ことがあ る。 ヤ オ族 にはヤオ族 の国があ り, ヤオ族 の 「王」がい るのだ とい うことである。 ヤ オ族 は海抜 お よそ1,000メー トルの山地 に点 々 と村 づ くりしてい るのであ るか ら,かれ らの国土 は こ れ らの峰 々をつ らねた ところ,いわば雲 の上 に浮 かぶ国土 であ る。 雲 の下 にはカー族が住 み, ラオ族 の国土が ひろが ってい る。雲 の上 の国家 とい うの も奇妙 な ものであ るが,それ で も,ヤ オ族 の村 人 はヤ オ国の存在 を主張 し,ヤ オ族 の 「王」が雲南省の九江 のほ とりに いる とい うのであ る。 じっさい,ヤ オ族 の 「王」 と称す る人物が いる し, ヤオ族 と近縁 の メオ族 に も 「王」が い るとい う。 これ らの 「王」 は 日常 はその支配下 にあ る諸部落 にたい して と りたてて働 き か けるこ とはない。税金 を と りたてるわけで もな く,篠役労働 を徴募す るわけで もない 。 しか し, ときとして村 々に回状 をまわ し, ヤ オ族 ・--あるいはメオ族 ・-- としての心構 え を説 き,生活規範 の指導 をす るこ とが あ る。「王」 は部族 の メ ンバ ーに とって文化 的 ・倫 理的 な リー ダーなのであ る。 伝統 的な権威 の保持者 なのである。 ヤオ人 は各国に別 れわかれ に住 んでいて も,同 じ民族 だ とい う帰属意識,アイデ ンテ ィテ ィー を失 っていない ようだ。 わた しは ます ます山地 に住 む民族 の世界へ の関心 を深めた。雲 の上,雲海 の上 に,自らの 「王 国」の存在 を信 じる人 び とは, い ったい どんな世界像 を心 に描 くのだろ うか。 かれ らも,雲の下の平地 には多数派 の民族 を中心 とす る国家があ り,国家権 力 は軍隊 や警察 や役人 を通 じて支配の触手 を山地 に も伸 ば していることを知 ってい るはず だ。国民意識 を抱 か ず,国籍 も住民登録証 の ような もの も持 たない山地民 も,地図の上で は近代 国民国家の一部 と して囲い こまれているのである。 た とえば タイで は,ベ トナム戦争終結 か らまだ二年後の当時, イ ン ドシナ三 国で起 きた共産 878 -272-吉 田 :生命 の連 な りを未来 に 主義革命 の波 が 自国 に までお よぶの を恐 れ る政府が,北部 の山岳地帯 で タイ共産党 ゲ リラの鎮 圧 に力 を入れて いた。 山地民族 の組織化 をはか る共産党 に対 し,政府 は山地民族 の定住 ・同化 政策 を進 め,共産勢 力 の浸透 を防 ご うと してい た。 また, タイ軍 や国境 警備警察 に協 力す る, 中国国民 党残 党軍 の傭 兵 には, ラフ-やり (W a)な ど山地民 の若者 も雇 われて い た。山の民 も 現 代 史の荒波 に もまれ るこ とを余儀 な くされていたのだ。 その渦 中で, かれ らの共 同体 は どの ように して伝統文化 や言語 を守 り,祖 先 か ら受 け継 いで きた生命 の連 な りを未来 の世代 につ なげて ゆ くか, とい う問題 に直面 して いた。 Ⅳ 伝承 が支 える民族 の まとま り そ う した ときに, かれ らの心 を支 えるのが,雲海 の上 は 自分 たちの世 界で あ り, 国境 と国家 の枠組 み に とらわれ る こ とな く, 同族 のつ なが りを保 ってい る とい う思 い なのか も しれ ない。 その思 いの裏 には,長年つ ちか って きた独 自の歴 史 と伝承が あ る よ うだ。 かつ て揚 子江以南 の肥沃 な平 野 で稲作 をい となみ栄 えてい た ら しいヤ オ人 (揺族 )は,歴代 の 中国の王朝 に よる圧迫 や戦乱 をのが れて, 中国南部 の山地 に引 きこ もらざるをえな くなった とい う。 王朝 の統 治機構 に対 して度 たび蜂起 して抵抗 も したが,鎮圧 され, さ らに王朝 の勢力 のお よばない山奥 に移 った。 そ して安住 の地 を求 めて,東南 ア ジア まで山づ たい に移住 す る人 た ち もいた。 一方 で,漢民族 の文化 か ら強 い影響 も受 けた。漢字 を使 うようにな り,道教 を取 り入れて固 有 の シャーマ ニ ズム と祖 先崇拝 を洗練 させ た。 中国の皇帝 か ら, 山 々で 自由 に耕作す る権利 と 免役 ・免租 の特 権 を保証 す る 「評 皇券牒 」 とい う特 許状 を与 え られた こ と もあ る。 それ には, ヤ オ民族 の起 源神話 と中国南 部 にひろが り住 む よ うにな った経緯 が記 され, 自分 た ちの歴 史 と 伝 承 を知 るための古 文書 と もな って い る。 タイ北部 のヤ オ人の村 で も,「評 皇券牒 」が たいせ つ に保存 されてい る という 。 『東 南 ア ジアの少数民族』[岩 田
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に よれ ば, ヤ オ人の社 会 は,村 々 に長 が いて, 数 力村 ご とに大首長 が いて,その上 に最高首長が いて,カ リスマ的権威 をふ るっていた とい う。 伝統 文化 に支 え られ た最高首長 には,民族 全体 の支持 が寄せ られていた よ うだ。 その最高首長 が 「王 」 と呼 ばれ, ヤ オ人の ま とま りの象徴 とな り,最高首長 を中心 に山の道 で結 ばれ る村落 共 同体 のつ らな りが, かれ らの心 の なかで 「雲 の上 の国」と して イ メー ジ され るので あ ろ うC平 地 の 多数 派 の民族 や国家 との乳標 が あれ ばあ るほ ど,「雲 の上 の 国」 は心 の よ りどころにな るのか もしれ ない。 ヤ オ人の 「王」 に似 た存在 は, ラフ一 人 (粒 枯族 )の間 に も見 られ る。 その王 に似 た存在 は, プ一 ・チ ャ ・ウ- (ChaEuh)とい う人物 で シ ャ ン州 に住 み, ラフ-の東南 アジア研究 35巻 4号 アニ ミズムの宗教 的 リー ダーで あ る。 い ま も存命 か ど うかわか らないが,1978年 の3月 に一度 だけ, タイか ら国境 を越 えてす ぐの ロェイ ・ラ ン村 で姿 を見か けた。 大柄 な色 白の 中年男性 で,黒 い民族衣装 をまとい, しぐさや 口調 もゆ った りと していた。キ リス ト教 に改宗 していない ラフ-の人 び とか らは,生 き神 さまと して敬 われ, 旧暦 の新 年 の祭 りの とき,遠 くは中国か ら も訪 ねて くるラフ-人 たち もい る とい う。 木 と竹 でで きた高床式 の家 の前 には,竹竿 に白布 をつ けた職 が はため き,頂部 を擬宝珠 みた い に彫刻 した柱 が立 て られていた。屋 内 には祭壇 があ り, プ一 ・チ ャ ・ウ-氏 は天地 の神 々 を 示巳り,焼畑 の豊作 や子孫繁栄 な どを祈願す る。 病気 な どの悩 み事 を持つ人の ため には,祈 祷 し てあげた りす る。 彼 は宗教 的 リー ダーであ る と同時 に,祭政一致 の カ リスマ的 な政治指導者 で もあ り, ビルマ 政府 の 中央集権支配 に抵抗す るラフ一人のゲ リラ組織 をひ きいて もいた。 また,身近 な ところ で は,村 人同士 の争 い事 の調停 な ど もお こな う。 彼 は ビルマ にお けるラフ一民族 の まとま りの 象徴 とな り, タイ と中国 に住 む同族 に も影響 をお よぼ していた。 その背後 にはや は り,「雲 の 上 の国」 の イメージが生 きてい るので はなか ろ うか。 ラフ一人 の原郷 は中国の票南 で, ヤ オ人 と同 じように中国の王朝 の圧 迫 を受 けて,160年 く らい前 か らビルマ に移住 しは じめ, タイには100年 ほ ど前 にや って来 た ら しい。「天 に一番近 く に住 む山の人 々」[小松 1997]に よれ ば,かつ て雲南 の盆地 にあ った ラフ一人の王 国 はムメ ミ メ といい,1800年代 に清王朝 の軍隊 に よって滅 ぼ された とい う。 かつ てムメ ミメがあ ったの は,現在 の雲両省西南部 ,抜枯族 の 自治県 となってい る潤槍県 の 県都, 潤槍市 か ら北 に行 った双江市 の盆地 の平野部 ら しい。 ムメ ミメは森 と川があ り,果物 も 動物 も魚 も豊富 で,水 田の稲 もたわわに実 る肥沃 な国 だ ったそ うだ。 ラ7-の人 び とは鉄砲 を持 つ清軍 に対 し毒 矢 だけ を武器 に勇敢 に戦 ったが,結局,敵 の奇略 に敗 れた とい う。男 たちが仕事 や戦 い に出てい る間 に,清 軍 は商人 に変装 して来 て美 しい笛 を 吹 き,笛 を欲 しが る女 たちに,家 にあ る矢尻 との交換 を持 ちかけ,矢尻 をだ ま しとってい った のであ る。か くて,男 たちは葉 っぱが落 ち るように死 んで い った。森 にか くれて闘 った英雄 は, 捕 ま り殺 されたあ と,見せ しめのため に内臓 をえ ぐ りとられた。 以後, ラフ一民族 の山地- の流浪の歴史が始 まった。人 口 も減 った。 ラフ一人の子供 たちは,必ず と言 っていい ほ ど祖 父母 か ら,かつ ての豊 かだ ったムメ ミメ と い う国の伝説 を聞か されなが ら育つ とい う。
Ⅴ 抵抗 と敗亡の伝 説
これ と似 た よ うな話 は,北 ビルマ と中国雲南 省 とイ ン ド東 北部 に またが って住 むカチ ン人 880 -274-吉 田 :生 命 の連 な りを未来 に (Kachin)の間に も伝 わ ってい る。 言 い伝 えに よれば, カテ ン人の祖先 たちは大 むか し,揚子江上流 の北方 か ら民族移動 して く る途 中, 中国人 (漢民族 ) と隣 り合 う土地 に住 みつ いた とい う。 やがて,祖先 たちが死者 を埋 葬す る とき,溝 でか こんだ大 きな円い墓 をつ くり,広 い土地 を使 うとい うことを きっか けに, 中国人 との間 に戦争が起 きた。 祖先 たちは勇敢 に戦 ったが,多勢 に無勢 で, とうとう退却す る はめ になった。逃 れのがれてい くと,大 きな河 に行 きあた ったので,竹筏 をつ くって向 う岸 に 渡 った。その直後,迫手がや って きた。 「これか ら先, おれたちは東岸 の地 には出ていか ない 。 だか ら,お まえた ち もこっちの西 岸 の地 には渡 って くるな。 この河 を境 に しよう じゃないか」 と,祖先 たちは叫 んだ。 中国人 もそれに同意 して,追 って くるの をやめた。 カテ ン人 に とって は, この河があ ったれ ば こそ,無事生 きのびるこ とがで きたのであ る。 これ にちなんで,サ ック ・クル ン河 とい う名前がつ け られた。 サ ック とはいのち, クル ンは 生 きる
。
「い の ち生 きる河」 とい う意味 だ。チベ ッ ト高原 に端 を発 し,雲南 省 の西端 とビルマ 東部 をつ らぬいて イ ン ド洋 にそそ ぐ,大河サ ルウ インこそ この河 なのであ る。 サ ルウ イン河が 山なみの狭 間 に峡谷 を きざむシャン州北部 の山村 で,1988年 の2月に, ビル マ政府 に対 し自治権確 立 を求 めて戟 うカテ ン独 立軍 (K.I.A.)ゲ リラの ンブ イ ・ガム大尉 か ら, 夜,焚 き火 にあた りなが らこんな伝説 を聞いた。 大 むか し, ウ ンボ ン (W unpawng, カテ ン人の 自称 )の祖先 たちの土地 に, 中国人の大 軍が攻 めて き王,戦争 になった。祖先 たちは険 しい山の上 に立 て こ もった。 山刀 と槍 をふ るい, トリカブ トの毒矢 を努 で射 た。 藤で編 んだ兜 と鎧 に漆 を幾重 に もぬ って固め,敵 の 刀や槍 や矢 をはねか え した。 兵力 は少 なか ったが,果敢 に戦 い,敵 をさん ざん苦 しめた。 しか し,攻 めあ ぐねた中国側 は好計 をめ ぐら した。あ る夜 ,山の まわ りにひそか に油 を まき,疲 れた祖先 たちが寝静 まってい るす きに火 を放 った。突然 の火攻 め に よって多 くの 死者が 出,敗 れた。 同時 に,獣 の皮 に書 かれた独 自の ウ ンボ ン文字 やい ろんな道具や装飾 品 も失 って しまった。それ以来, ウ ンボ ン人 は山奥 に しりぞ き,焼畑 を開 き,人 口 も少 な くて,文字 も持 たない生活 を送 る ようになって しまった---。 い まとなって は大 むか しの話 だけ ど,敗 れた先祖 は さぞか し無念 だ ったろ うな。 子供 の 頃,大人たちか らこの話 を聞か されて, くや しくて仕方 なか った覚 えがあ る よ--。 語 り終 えた大尉 は, じっ と焚 き火の炎 に 目を向 けた ままだった。小屋 の外, 山 をおお う闇 は 深 か った。火攻 めにあ って もだえ倒 れ る黒 い影 たちが,心 のなか に浮かんだ。耳 を澄 ませ れば, 敗 れ去 った ウ ンボ ンの祖先 たちの岬 き声 も聞 こえて くる ような気が した。東南 アジア研究 35巻4号 Ⅵ
カチン人 と漢族 ・中国の関わり
カチ ン人 には, かれ らの祖 先 が マ ジ ョェイ ・シ ンラー ・ポ ム (MajoiShingraBum, 自然 に 平 らな山, あ るいは共通 の根 源 の 自然 の山) と呼 ばれ る,世界 の中央 にそ びえ立つ とい う山か ら南 に下 って きて,い まの カテ ン州 の山岳地帯 に住 みつ いた,とい う伝承 があ る。マ ジ ョェイ ・ シ ンラー山 にはい くつ もの大河 の水源が あ る といわれ, それ らの大河 とは揚 子江 (金沙江 ), メコ ン河 (潤槍江 ),サ ル ウ イン河 (怒江 ), イラワジ河, ブ ラマ プ トラ河 なのだ と, カテ ンの 人 び とは言 う。神話 の こ とで もあ り,正確 な位 置 はわか らないが,先 にあげた大河 の源があ る とい う点か ら, い まのチベ ッ ト自治 区か ら青海省 にか けての高地 (青蔵高原 )の どこかで はな いか と考 え られ る。 伝承 によれ ば,カチ ン人の祖 先 たちはマ ジ ョェイ ・シ ンラー山か ら,揚子江,メコ ン,サ ル ウ イ ン, イラワジ とい った四つの大河 の源流地帯 を通 り,温 かい気候 と野生 の動植物 が豊富 で肥沃 な土地 を求 めて移 り住 んで きた ら しい。途 中,食べ られ る野生植物 を採集 し,狩 りを し,焼畑 を開 きなが ら,何 世代 もか けて移動 した とい う。 この民族移動 の旅 をカテ ン語 で, ギ ンルー ・ギ ンサ ー(GinruGinsa)と呼 ぶ。 その途上 で漠 族 (中国人 )の軍隊 との戦 いが起 きて, それが語 り伝 え られたのだろ うか。 一方, 中国の史書 にカナ ン人 ら しき民族 の名 が散 見 され る。
「西南夷」 と総称 された中国西 南部 の諸族 の うち,
「横」とい う字 をあて られた人 び とが そ うで はないか といわれ る。
「夷」とは, 漢族 か ら見 て辺境 に住 み,不 当 に も野蛮 と見 な された異民族 を意味す る文字 であ る。
『高地 ビ ルマの政治体系 』[リーチ 1987:270]に次 の ような記述 があ る。 350年 か ら1000年 にいた る さまざまな時期 に出版 された多数 の古 い中国の書物 には,
「野 生 的で手 に負 えない膿 b'uok諸族」- の言及が見 られ る。彼 らの任地 は明 らか に永 昌西方 の山々であ り, -・・-中略--・。 これはカテ ン山地住民 の こ とら しく, その言語 と文化 は変 化 したか もしれ ないが,横 とい う部族名 は一貫 して用 い られた。 『景頗族』[糞灰辺 1988]に よれ ば, 中国で景頗 族 (チ ンポー) と呼 ばれ るカチ ン人 の祖先 が古代 にいた とい う土地マ ジ ョェイ ・シ ンラー山は,青蔵高原 の どこかであ り, その一帯 には 中国の史書 に 「珪」 と 「完」 とい う名 で登場 す る人 び とが古 くか ら住 んでいた とい う。 それ ら のなか には,今 日のチベ ッ ト人 (蔵族 )や イ (葬 )語系諸民族 の祖先 もふ くまれていた ら しい。 景頗族 (カテ ン人 )は言語 的 に も地理 的 に も,「
氏」
「完」の人 び ととの関係 が密接 であ り,お そ ら く 「畠
」
「蒐」 の諸族 の集 団か ら分 かれてい ったのだ ろ うとい う。チベ ッ ト人 (蔵族 ) も イ人 (葬族 ) もチ ャ ン人 (克族 ) もカチ ン人 も言語学 的 には, 同 じチベ ッ ト ・ビルマ語族 に属 882 -276-吉田 :生命の連なりを未来に して い る。 ともか く, カチ ン人 は中国 の西南 の端 に も住 みつ い た こ とで,歴代 の 中国王朝 や 中華民 国や 中華 人民 共和 国 との関 わ りを避 け られ なか った。中華 人民 共和 国成 立以前 は,漠族 か ら 「野 人
」
や 「山頭 」 とい った侮 蔑 的 な名前 で呼 ばれ た。 かれ らは,サ ル ウ イン河 の西 側 にあた る,現 在 は雲両 省西南 部 の徳宏倭族 景頗族 自治州 にな っ て い る土地 に,14,15世紀 頃 に ビルマ の イ ラ ワジ河 上流 部 (い まの カテ ン州 )か ら移 り住 んで きた ら しい。 その共 同体 には,漠族 か ら 「山官 」 と呼 ばれ た世襲 制 の首長 がい たが, タイ族 出 身 の土侯 に よる間接 的 な支 配下 に もあ った。 そ して後年 , 中国現 代 史の荒波 を ま と もに受 け る こ とにな った。1949年 の 中華 人民 共和 国成 立 後,50年代 後半 か らは中国共産党 の政策 に よって農業 集 団化 を強 い られ た。伝統 的 な生 業 で あ る焼畑 農業 か ら水 田稲作- の転換 も進 め られ た。6
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年代 後半 の文化 大革命 の時期 には,伝統 的 な習俗 や文化 や宗教 - の弾 圧 をこ うむ った。 1978年末以 降 は, 中国共産党 の政策 が変 わ り,伝統 的 な アニ ミズムの宗教 儀 礼 も再 開 され る ように なった とい うが , 共産党 の路線 次 第 で は, いつ また厳 しい弾圧 が お こなわれ ない と もか ざらない。圧倒 的 な多数 派 の漠族 が実 権 を握 る中国 とい う国家 が, 「少 数民 族 」 と して位 置づ け られ た人 び との上 に重 くの しか か って い る よ うな状 態 は,本質 的 に は相変 わ らず だ。 そ ん な 状 況 の なか で, かれ ら もまた,生 命 の連 な りを どう未 来の世代 につ なげて ゆ くか とい う問題 に 直面 してい る。 Ⅶ 文革の荒波 と越境 したカチン青年 文化 大革 命 の荒波 に翻弄 されて, その人生行路 が大 き く変 わ って しまった幾 人かの カテ ン人 に会 った こ とが あ る。1985年3月か ら88年10月 まで, タイか ら歩 いて ビルマ北部 の カチ ン州 と シ ャ ン州 を旅 し,取材 した ときの こ とだ。 その ひ と りは, ラ ・ノンさん とい うカチ ン独 立 軍 の兵士 で,背 も高 く,背力 もあ るが っ し り した体 つ きの30過 ぎの男性 で あ る。 タイ ・ビルマ 国境 か らわた しが 同行 した, カナ ン独立 軍部 隊 の一 員 だ った。彼 は どち らか とい えば無 口な方 だが , た まに酒 が入 った りす る と, わた しに も日本 の こ とにつ いて話 をせ が ん だ りして人 なつ こい ところが あ った。 85年 の10月末, わた した ちは シ ャ ン州 の 山野 を行 軍 したあ とに, や っ とカテ ン州 にた ど り着 いて い た。 そ こは,雲 南 省徳宏 地 区 との国境 地帯 で, カチ ン人 とシ ャ ン人 と中国 人 (漢族 )な どが住 んで い る。 田んぼや焼 畑 で は稲 が実 り,稲 刈 りが お こなわれて いた。 あ る村 に泊 まって い た と き, ラ ・ノ ンさん は,瓶 に入 った納 豆 や漬物 の匂 いが漂 う土 間で,戸 口か らさ しこむ明 か りを頼 りに繕 い物 を して い た 。何 か考 え こんで い る風 だ った。
「ラ ・ノ ンは雲南 の村 にい る東南 アジア研 究
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巻4
号 かみ さんの顔 が見 たいんだけ ど, もう何年 も会 ってないか ら, 自分の ことを忘 れて しまったん じゃないか と心配 なんだ よなあ」。 ズケズケ もの を言 うのが癖 の,小柄 な兵士 ロー ・トンさんの冗談 めか した言葉 に,「そんな ことは気 に しち ゃいない よ。 ただ,今 回ち ょっと帰れた として も,みやげ も何 もないのが心苦 しいんだ。遠 くタイまで行 って きたのにな。その うち除隊 した ら,国境交易の商売 をやるか, 思 い きって ヒスイ掘 りにで もい くしかないか・・--」 と, ラ ・ノ ンさんは きま じめに返答 し,逮 中か らはひと り言の ようにつぶやいた。わた しは, シャン高原 で とぎれ とぎれに彼 か ら聞いた 話 を思 い出 した。 彼 は,中国雲南省徳宏俸族景頗族 自治州 の,近年 ビルマ との国境交易 で栄 えだ した端麗県, マ オ川 (シュウェ リ川 )流域平野のある村 に生 まれた。 カチ ン人のなかの言語集団の ひとつ ア ヅイーの村 で,戸数5
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戸 あ ま り,5
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人が住 み,水 田 とサ トウキ ビ畑 と茶 園 をい となんで いる。 す ぐ近 くには中国人民解放軍の駐屯地があ った。1
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年生 まれで,子供 の頃か ら田畑 の手伝 い を しなが ら,父母 と年が離 れた兄 と妹 と暮 ら し ていた。母語 はアヅ イー語 だが,同 じカテ ンの「言語集団」であるジ ンポーや シャン人の村 もあっ たので,それ らの言葉 も覚 えた。小学校 に5年 間通 ったので中国語 も話せ,漢字 もい まは忘 れ たが少 しな らわかる。 ビルマ語 はほ とん ど知 らない。 国境 のマ オ川対岸 の ビルマ領 内 に も同族が住 み, ビルマ政府 に対 して独立 をめ ざすゲ リラが 戦 っていることは,大人たちの話で知 っていた。同 じカテ ン人の国が もしか した らで きるか も しれない,そ うした ら,い まは中国人の共産党の下で暮 らさなければな らな くて も, いつかは 同族 とひ とつの国に住 め るか もしれない, もっとも,村が戦争 に まきこまれるのは御免 こうむ りたいが--・, と村人たちは関心 と共感 と不安 のい りま じった気持 ちで,国境 の向 こうので き ごとを眺めていた とい う。 しか し, まさか 自分がそのゲ リラ, 中国領 の カチ ン人の間で もカテ ン語で 「シャンロ ッ ト」 (shanglawt,独立解放 ) と呼 ばれ るカチ ン独立軍 に加 わろ うとは,夢 に も思 っていなか った。 ところが,1
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歳 になった年,一家の運命 を激変 させ る事件が村 を襲 った。1
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年,3
年前 か ら中国の中央で始 まっていた文化大革命 の荒波が,雲南 の辺境 まで押 しよ せて きたのだ。熱 い陽が乾 いた大地 を照 らす 4月頃, 中国人民解放軍の7
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部隊 と名乗 る軍人 たち (公安 関係 だった と思 われる)が,紅衛兵 とともに村 にや って来て,軍人の家族の身元調 査 をお こなった。 ラ ・ノンさんの家 も兄が入隊 していたので,一族 の出 自,生産 ・生活状況,思想傾 向,宗教 な どにつ いて しつ こ く調 べ られ た。彼 の家 は,祖 父 の代 まで グムチ ン ・グムサ ー・ドゥ-(GumchyingGumsaDu,首長 -山官 )だ ったので, 旧封建勢力 に属 す る反動分子 の家系 だ と
決めつ け られて しまった。
-吉田 :生命の連なりを未来に 実際 は,1950年 に雲南 省 で国民党 を破 り,辺境 支配 を確 立 した共 産党主導 の政治工作 に よっ て,53年,徳宏倭族 景頗族 自治 区が成立 し, それが56年 に 自治州 にな る とともに,伝統 的 な氏 族首長制 は解体 されて い った。 それ に続 く土地改革 を通 じて,首長 の土地領 有権 も廃止 されて いた。50年代半 ば に始 まった合作社方式 に よる農業集 団化, さらに58年 か らの 「大躍進 」路線 に よる人民公社化政策 を通 じて,村 は生 産隊 とい う単位 に組織 され,水 田や水牛 や午 な どは共 有化 されて いた。 ただ, 自家菜 園や豚や鶏 な どは私有が認 め られて いた。 に もかか わ らず,文革派 は
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「少数民族 」社 会で も,新 たな階級 闘争 の徹 底が必要 だ と叫 んだ。 かれ らの多 くは二十代 ,十代 の漠族 の若者 で,
『毛沢東語録 』を振 りか ざ し,狂信 的 な態 度 を とっ た。彼 の家 の 自家菜 園 や家畜 は接 収 され,銀細工 を した刀 や女性 の民族衣装 も没収 された。父 親 は富 農反動分子 を糾弾 す る集会で後 ろ手 に縛 られ,封建首長 の家柄 を利 して人民 を搾 取 して い るな どと批判 され, 罵声 とともにつ る し上 げ られた。 父親 は, 「首長 とい って も,他 の村 人 と比べ て広 大 な田畑 を所有 し小作 人 を使 って いたわ け で な く, 自分 たち も野 良仕事 を していた。 むか しは しきた りとして,村 人か らの年貢 や労働奉 仕 を受 けていたが, その分,祭 りの宴 を催す な ど して見合 った もの を返 して もいた0第一, そ れ は父親の代 までで, 自分 たちは もう10年以上前 か ら普通 の村 人 として暮 ら してい る」 と訴 え たが,耳 を貸 して もらえなか った。 とう とう,父親 は心労 とシ ョックで脳溢血 を起 こ し,死 ん で しまった。 文革 の嵐 は伝統文化 や宗教 も排 斥 した。 アニ ミズムの儀 礼や祭 りもで きな くなった。彼 の家 族 をは じめ村 にはキ リス ト教徒 が多か ったが,教会 での 日曜礼拝 もで きな くなった。父 を失 い, 村 で も息苦 し くて暮 しづ ら くな った一家,母 とラ ・ノ ンさん と妹 は難民 と して, ビルマ の シ ャ ン州北部 にい る同族 の縁者 を頼 って,1970年, ひそか に国境 のマ オ川 を渡 った。 身 を寄せ た先 で は焼畑 や水田 を手伝 いなが ら暮 ら した。 やが て, カテ ン独 立軍 の将兵 や独 立機構 の活動 家 らとも知 り合 った。かれ らの話 を聞 き, ど ルマ領 に住 む カチ ン人のあ り方 と内戦 と解放 区の現実 を知 るにつ れて,ビルマ や中国 とい った, 自分 たちの民族 か ら見て どう して も母 国 とはい えない国家 の政府 の力 に よって, 自分 たちの伝 統 にそ くした暮 ら しぶ りが変 え られ, 人生 の運命 が左 右 されて しま うこ とに我慢 が な らな く な った。 そ して1977年, カテ ン独立軍 に加 わ った。 「とにか く, 自分 た ちが住 んで い る土地 での暮 ら し方 は, 自分 た ちで決 め たい。遠 い ところ にい る中国共産党 や ビルマ政府 に,これ以上好 き勝手 に されて,俺 の,みんなの,人生 をめち ゃ くち ゃにか きまぜ られ るの は もうごめんだ,が まんな らない, と思 った し, い まも思 って るん だ よ。 か とい って, むか しの首長 の時代 に もどろ うとは考 えて ない。そ う じゃな くて,村 のみ んなで なん とか話 し合 って決めてい くのがいい。」 手 さ ぐ りす る ように してや っ と語 られ る言葉 を胸 に,彼 はゲ リラ生活 を続 けて きた。東南 アジア研 究 35巻4号 い まは中国領 のふ るさとの村 に帰 って住 む妻 と背が急 に伸 びて きた とい う十代半 ばの息子が 待つ家 まで, ここか らけっ して遠 くはない とい う事実が,危険 な行軍 を果 してほっ としたの も つかの ま,彼 の心 を再 びか き乱 してい るようであ った。 Ⅷ
国境 による民族 と地域の分断
この ときわた したちが いた地方 は, カテ ン語で ンシ ョン川, シャン語 で ワン川, 中国語で階巨 川 と呼ぶ川の流域 で シャン人が多 く住 む河谷平野 であ った。シャンとはビルマ語 による名称 で, 自称 はタイ(Ta主)。タイ系民族 のなかの- グループ と して,タイ ・ヌー(TaiNu)と称 してい る。 中国語で は倭族 という 。 ここでは便宜上, シャン人 とだけ記す。 かれ らがいつ頃か ら住 んでいるのか正確 にはわか らない。雲南 に7世紀半 ば,南詔王 国が成 立 し, この国 を構成す る一民族 であった タイ系民族 が,西-居住地域 をひろげ る過程で住 みつ いたので はない か と思 われる。 南 にほ ど近 いマ オ川流域 に栄 えた シャン人のム ン ・マ オ王国の 影響下 に, ム ン ・ワ ン土侯 国がかつて ここにあ った。 平野 には水 田 をい となむシャン人が,それ をと りま く山地 には主 に焼畑 をす るカテ ン人が住 んでいた。 カチ ン人の方が人 口は少 な く,農業生産力 も低 かったが,勇猛 な山地民 として武力 で は勝 っていた らしい。 よその平野や盆地- の交通 ・交易路 にあた る峠 を押 さえていた し,不 作 の年 はシャン人の村 か ら米 を奪 った りもした。 カテ ンの氏族首長 はシャンの土侯 の権威 に服 し,火薬 な どの貢 ぎ物 を納めて はいた ものの,シャンの村人 に対 して は優位 に立 ってお り,毎年, 米の年貢 を受 け取 っていた とい う。それぞれ,平野 と山地 に生活領域 を持 ち,住 み分 けていた のであろ う。 この ようにひ とつ の まとま りを持 った ワン川流域 の地域 を引 き裂 くように,国境線が引かれ たのは19世紀未 か らであ る。1886年 に ビルマ を植民地化 したイギ リスはやがて,清王朝 の治世 下 にあった中国の西南部 に も勢力 を拡張 しようとい う野望 を抱 いた。 ワン川流域- も密偵 や軍 隊 を送 りこみ,地元住民 と衝突 した。 ム ン ・ワンをは じめ とす るシャン人 の土侯 回が, 中国の王朝 の宗主権 を認 めていた こともあ り,問題 はイギ リス と清朝政府 の間で処理 されてゆ く。国境画定 に関す る協定 も結 ばれ は した が, イギ リス は領土拡張政策 を捨 てず,侵犯行為 を くりかえ し,帰属があい まいな土地 を占領 す るな ど した。 これ は, 中華民 国の時代 になって も続 いた。第二次大戦後,1948年 に ビルマ連 邦が独立,その翌年 に中華人民共和 国が成立 し,1960年,中国 ・ビルマ国境協定 の調 印 に よって, 国境 は現在 の線 に落 ち着 いた。 結局,国境 は古 くか ら住 んでいた同 じ民族 を分 断 した。地元 の意向 をかえ りみ ることな く, 国家 間で決め られた不 自然 な国境線 は,その両側 に分 かれて住 むこ とを強 い られた人 び との運 886 -280-吉田 :生命の連なりを未来に 命 を,歴 史の流 れの なかで左右 し,翻弄す るこ とに もな った。 ビルマ領 内で は,政府 の抑 圧 に 抗 して銃 を とる者 があ らわれた。村 人はいやお うな く内戟 に ま きこまれ た。 中国側 で は共 産主 義化 の波 を受 け,文化大革 命 の ときは伝統文化 や宗教 も弾圧 され た。 ビルマ側 に亡命 した シ ャ ン人の仏教僧侶 たち もい る。 河谷平野 には数 キ ロお きに建つ コ ンク リー トの標識以外, 国境 を思 わせ る もの は何 もない。 国境 の両側 で は,同 じワ ン川 の水 を引 いた田で,同 じ民族が稲 を育 てて食べ てい る。ところが, 不可視 の境 界線 を境 に して,時計上 の時 間 に差があ り,法律 や通貨 や度量衡 も別 々で,国家が 公用語 とす る言語 や文字 も異 な る。当然 ,社 会情 勢 も違 って くる。 村 は隣 り合 ってい るの に, それぞれ別 の遠 く離 れ た首都 に中心 を置 く, 国家権 力 に引 っ張 られてい る。 国境 をは さんで, 両 国の 出入国管理 局や税 関や警察 や軍 隊 や学校 とい った国家の 出先機 関が,相似形 で機 能 し, 「辺境 」 の領土 と住民 を掌握 してい る。 ワ ン川流域 の山や谷 や野 に降 った雨が,当然 ワン川 にそそ ぐように,本来, この地域 の 人 も 物事 も同 じひ とつ の歴 史の流 れ にふ くまれて ゆ くはずで あ る。 ところが, 国境 は まるで分水嶺 み たい な役割 を してい る。 隣 り合 う人や物事 は離 れ ばなれにな り, それぞ れ違 う国家 の歴 史の 遠 い本流へ と押 し流 されて しま うOこの地 の風土 も人び との暮 ら しもひ とつづ きであ ったのが, ビルマで イギ リスの植民地支配が始 まった時代 か ら,外部 の力 に よって揺 るが され,引 き裂 か れ たのであ る。 Ⅸ
カチン人の ビルマ国家への抵抗
力テ ン人 とビルマ連邦 とい う国家 の関 わ りにつ いてふ れてみたい。 カテ ン人 とビルマ 人の本格 的 な関 わ りは1
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世紀 頃 に始 まる ようだ。 イラワジ河 の流域平 原 に 覇 を唱 えた ビルマ 人の王国が, カテ ン州 の平地 にあ った シャ ン人の土侯 国 を攻 め, ビルマ王 の 宗主権 を認 め させ た こ とが きっか けだった。 カテ ン人の首長 たちの一部が, シャ ンの土侯 に対 して もしていた ように,一族郎 党 を連 れて ビルマ王 の もとで傭兵 にな った りした。 しか し, カ テ ンの村 々に ビルマ王国の直接 支配が お よんだわけで はなか った。 その後,1
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年 に ビルマ を植民地化 した イギ リスはカテ ン州へ も侵 入 した。 カテ ン人は抵抗 したが,1
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年 頃 まで に抑 えこまれたC イギ リスは カテ ン首長 の地位 と権威 を認 め る懐柔策 を と り,カテ ン州 は シ ャン州 と同 じ く辺境 地帯 と して ビルマ本土 とは別の行政 系統 下 に置かれ た。 欧米 の宣教 師 に よる布教活動 で, アニ ミズムか らキ リス ト教- の改宗 が進 んだ。現在 , ビルマ にい るカテ ン人の9割 近 くが キ リス ト教徒 だ といわれ る。 イギ リスは ビルマ 人 を抑 えるため に,カテ ン人や カ レン人に植民地軍 に入 るこ とを奨励 した。 第二次 大戦 中 も,カテ ン人は連 合軍側 に協 力 的で,カチ ン部 隊が編 成 され,日本軍 と も戦 った。東南 アジア研究 35巻4号 日本軍が アウ ン ・サ ン将軍 ひきいる反英独立派の ビルマ独立義勇軍 を支援 していた ことも,反 ビルマ意識の強 いカテ ン人 な どを連合軍側 につかせ る要 因になった。 戦後, ビルマ人の間で は独立運動 が盛 りあが った。当時, カチ ン社会で政治力 を持 っていた の は首長 たちだった。かれ らはアウ ン ・サ ン将軍の説得 に応 じて
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年, 自治権 を保証 され るこ とを条件 に ビルマ連邦- の参加 を決め,パ ンロン協定 に調 印 した。1
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年, ビルマ連邦 は独立 したが, カ レン人, カ レ二人,モ ン人(
Mo
m)
な どはあ くまで 自ら の独立 をめ ざ して武力闘争 に入 り, 内戦が始 まった。 翌年 の2月, ビルマ政府軍第 1カテ ン ・ライフル大隊所属 の ノー ・セ ン大尉 は配下の部隊 を 連 れて, カ レン人たちの戦 いに呼応 して武装蜂起 した。 カチ ン人 の独立 をめ ざ したのだ。かれ らはカチ ン青年 に呼 びかけて, ボ ンヨン民族 防衛軍(P.N.D.F.)を結成 した。ボ ンヨンとは,棉 話 に出て くるカチ ン人の始祖 の名 に由来す る言葉で, カテ ン民族 を意味す る。 しか し, ビルマ 政府側 についた首長 や政治家 に敵対 されたため,首長 に影響 された住民 か らの協 力 を得 られず, さらにビルマ軍 に攻撃 されて,部隊 は四散 した。 ノー ・セ ンは部下 たち と1
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年, 中国 に亡命 した。 その後, カチ ン州 では,首長 たち を中心 に複数の政党が活動 した。 しか し,憲法で保証 され た 自治権 も限 られた ものであ り, 中央 の連邦政府 の権 力が よ り強 く, 自治権 はないが しろに さ れていった。 当然,連邦政府 の政権 をにな うビルマ人中心 の政党,反 フ ァシス ト人民 自由連盟 (A.F.P.F.L.)の州政界へ の影響力が強か った。1
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年 と5
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年,連邦政府 は本来 カテ ン州 に属す るウデ イ, ウガ, ライサ イ地方 をサ ガイ ン管 区に編入 し,1
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年 には ピモー, ゴー ラン, カ ンパ ン地方 を中国 に割譲 した。 どち らも住民 や 州政府 の反対 を押 しきってお こなわれたので,連邦政府- の不満 は高 まった。1
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年 には,仏 教 を国教化 しようとす るウ一 ・ヌ政権 に対 して, キ リス ト教徒 の多い カテ ン人 な どは反対 活動 を くりひろげた。 しか し,翌年,憲法 は改正 されて仏教 国教化 (後 に と りやめ)は強行 された のである。 ビルマ連邦政府 の中央集権 支配が強 まることに, カチ ン青年 の多 くは危機感 をつの らせ,5
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年代後半 か ら,教 師や学生 を中心 に政治 ・文化運動 が盛 りあが った。それ は次 第 に独立 をめ ざ す民族運動 の色彩 を強めた。バ ロ ン ・ゾ一 ・セ ンとバ ロ ン ・ゾ一 ・トウ-の兄弟 ,マ ラ ン ・ブ ラン ・セ ン,マ リズ ップ ・ゾ一 ・マ イ らが 中心 とな り,大学生,高校生,政府軍内の カチ ン人 兵士 や州政府 の カチ ン人公務員,教 師な どとひそかに連絡 を とって同志 をつ のった。1
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年2
月, カチ ン独 立機構 (K.Ⅰ
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)が発足 し, 同時 にその軍事 部 門であ るカチ ン独立軍 も創 設 され, 3月に武力闘争 を開始 した。町や村 の,カチ ン人音壮年層 か ら多 くの参加者があ った。1
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年3
月, ネ ・ウィン将軍 に よるクーデ ターが起 き,議会 も憲法 も廃止 されて軍事政権 が で きた。独立 あ るいは 自治権獲得 をめ ざす 「少数民族」ゲ リラ- の弾圧 も強 まった。1
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年, 888-2
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-吉田 :生命の連なりを未来に カテ ン独 立機構 は解放 区 において首長制度 を住民 の支持 を得 て廃止 した
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年 には,民族 自 決 ,民 主主義,民生 向上 の三本柱 を運動 の中心 に据 え るこ とを決 め,以後, 闘争 を続 けた。 Ⅹカチンの 「
言語集団」 と氏族
カテ ン人が ビルマ と中国で,国家 の なかの 「少数民族 」として位 置づ け られ,
「多数民族」(ど ルマ人 と漠族 )が実権 を握 る政府 や政党 か ら,伝続文化 や宗教 な ど- の弾 圧 を受 けた り,居住 地域 の帰属 に関す る権利 をないが しろに された りした こ とが あ ったの は事 実 であ る。 ビルマで は,政府 の中央集権支配 に抵抗 して,や は り生命 の連 な りを未来 につ な ぐため,独立 (その後, 自治権 の確 立 ) をめ ざす 闘争 を起 こ した。 それ は,
「少数民族 」 と,
「多数民族 」が実権 を握 る 近代 国家 との関係 の なかで生 じた政治 の現 象で あ る。 しか し一方 で,
「少数民族 」 と して位置づ け られ た人 び との なかで も,政治 の力学 が はた ら いて新 たな問題 が生 じる こと もあ る。 ビルマ に住 む カテ ン人の場 合,民族 内の 「言語集団」間 の関係 に まつ わ る葛藤が起 きた。 その こ とにふ れ る前 に,
「言語集 団」 につ いて説 明 してお きたい。 カテ ン人 の なか には, ジンポー(Jingh paw), マ ルー(Maru), ラ シー(Lashi), ア ヅ イー(Azi), ヌ ン(Nung), ラ ワ ン
(Rawang), リス- (Lisu)とい う7つ の 「言 語集 団」が あ る。 それぞ れ独 自な言語 や親族 名称
や子供 の名づ け方 や伝統 的 な衣裳 な どを持 ってい るが, マ ルー語 とラシー語 とアヅ イー語 は近 く, ヌ ン語 とラワ ン語 も似 てい る。 カテ ン州北部 の大部 分 で は
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「言語集 団」 ご とに居住 地域 も分 かれてい るが, カチ ン州 の他 の地域 や シ ャン州北部 で は混 じり合 ってい る。 ジ ンポー語が共通語 にな っていて,ふつ うカテ ン語 とい えば, ジ ンポー語 の こ とを指 す。 ジ ンポーの人 び とが カチ ン州 の中央部 に住 みつ き, 人 口 も多いか らだ と思 われ る。 カテ ンとは ビルマ語 に よる呼称 で, 自称 はウ ンボ ンとい うが, その ウ ンボ ンはジ ンポー語 に よる名称 であ る。 7つ の 「言語集団」が同 じ民族 の仲 間だ とい う意識 を持 ってい る理 由 として, まず,各 「言 語集 団」の間 を横 断す る ように してあ る,十数 グループの共通 の父系氏族 の網 の 目に よる結 び つ きが あげ られ る。 氏族 名 は各言語で異 なるが, ジ ンポ ー語 に よる名称 を介 して, どれ とどれ が 同 じ氏族 にあ た るかが わか る。主 な氏族 に, マ リ ップ(Marip), ラ トー(Lahtaw), ラパ イ(Lahpai),ンコム(Nhkum),マ ラ ン(Maran),タ ンパ か:Tangbau),カ レン(Kareng),ジ ヤセ ン ・ ラパ ン(JasenLabang)な どが あ る。氏族 はその なかで 多 くの支族 に, さ らに苗字 を持 つ家族 に
枝分 かれ してい る。
「言語集 団」が違 って も,お互 い同 じ氏族 に属 して カブ一 ・カナ オ(kahpukanau,兄弟姉妹 )
東南 アジア研究 35巻 4号 Da-ma)が い くつ も交 わ ってい るこ とで, 同胞 なのだ とい う思 い を共有 してい るのであ る。 異 なる 「言語集団」 の男女が結婚す るの も珍 しい こ とで はない。 また,各 「言語集団」の始祖 は,同 じ父母 か ら生 まれた7人兄弟 だった とい うカテ ン人の起 源神話 も語 り伝 え られている。父 は人間だったが,母 は太 陽の神 の娘 だった とい う。神話で は, その父 とい うのは,太古,大洪水 に生 き残 ってマ ジ ョェイ ・シ ンラー山に漂着 した兄妹 の直系 の子孫であ り,各 「言語集団」の祖先 たちはマジ ョェイ ・シ ンラー山か ら南下す る移住 の旅 を 共 に した と伝 え られてい る。 だか ら,元 をた どれ ば7つの 「言語集団」の根 っこは同 じだ と, カチ ン人たちは理解 しているのだ。 また,各 「言語集団」の居住地域 も隣 り合 った り,混 じり合 った りしてい るか ら,住民 同士 の交流 も自ず と生 まれて くる。焼畑農業 と狩猟採集 に支 え られた暮 ら しぶ りも同 じような もの だ し,神話 や アニ ミズムの儀礼 や慣 習 な ど文化面 で も共通性 が見 られる。 こう して
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「言語集団」とい う縦糸 と氏族 とい う横糸が編 み合 わ されて,ウンボ ン (カチ ン) とい うゆるやかなアイデ ンテ ィテ ィーがつ ちかわれて きたのであ ろ う。 ただ, ジ ンポー,マルー, ラシー, アヅ イーは混 じり合 って住 んだ り,結婚 し合 う関係が積 み重 なって,氏族 の網 の 目 ・杵 による結 びつ きも密 な もの になっているが,ヌ ン,ラワ ン,リス-の場合 は 自分 たち以外 の 「言語集団」 との姻戚 関係 も多 くな く, したが って氏族 の網 の 目 ・杵 に よる結 びつ きも密 で はな くて, カチ ン人 と しての一体感, アイデ ンテ ィテ ィーが薄い。 ラワ ンとリス一には,他 の 「言語集団」 と共通の氏族 もあるが,共通 か どうか不 明の氏族 や, まっ た く別の独 自の もの ら しい氏族 もある。 ラワ ンの人 び ととリス-の人 び とは, 自分 たちが カテ ン民族 に属 している とは深 く思 ってお らず,ふつ うカチ ンといえばジ ンポーを指す と考 える者が多 い。 た とえば リス-の人 び とは, カチ ン州 にいてジ ンポーやマルーな ど他 の 「言語集団」 と隣 り合 って暮 らしている場合 は, カ テ ンと しての同胞意識 を持 って も,シャン州 や中国や タイに住 んでい る場合 は,自分 たちはまっ た く別の独 自な民族 であ るとい う意識 を持 ってい る。共通の氏族 の網の 目もカチ ン州 にいる場 合 にだけあて は まるようだ。 中国で は傑傑族 と呼 ばれている。 共通の氏族 の網 の 目は, ラワンとリス一に関 して は充分 にお よんでいない (ヌ ンの人 び とに つ いて もかな り同 じこ とが言 える)。 だか ら, 自分 たちはそれぞれ別 の民族 だ とい う思 いが湧 いて くるの も避 け られない。 この ような点が, これか らふれ る, ラワン, ヌ ンの人 び ととカテ ン独立機構 ・独立軍 の間に 起 こった対立 問題の根底 に横 たわ ってい る。8
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-284-吉 田 :生命の連 な りを未来 に
ⅩⅠ
「言 語集 団」 に まつ わ る葛藤1
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年 の雨季8
月,焼 畑 で稲 や トウモ ロ コシや ウ リな どの作 物 が茂 り,村 人 は草 と りに精 を 出 して い る頃, カチ ン州北部 の 山岳 地帯 , イラ ワジ河 の上 流 にあ た るマ リ川
とその支流 クラ ン 川 に は さ まれ た, マ リ ・ク ラ ン ・ワ ロ ン地方 の村 々 とカチ ン独 立 軍 ゲ リラの 第 7大 隊 本部 の キ ャ ンプ を訪 ねた。 わた しは さ らに北方 の プ一 夕- オ地方 に も行 ってみ たか ったが , そ こが ビルマ政府 の支配 下 にあ る こ とと現 地 の複 雑 な政 治情 勢 が理 由で実現 で きなか った。1
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年 頃 まで は, カチ ン独 立 軍 第7
大 隊本部 は プ一 夕- オ盆地 の まわ りを転 々 と して い たが ,ビルマ政府 軍 の攻 勢 に よ り,
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年 頃チ ャイ川以南 - ,75年 頃か らマ リ ・クラ ン ・ワロ ン地方- と後退 す る こ とを強 い られた と い う。それ につ れ て,カチ ン独 立機構 が村 人 を組織 で きて い る解放 区 も北 の 方か ら失 われてい っ た。 ビルマ政 府軍 が地域 ご とに村 人 を自軍支 配 下 の土 地 に強制 移住 させ る作 戦 を と り, 多 くの 村 が消 滅 させ られて しまったか らだ。 この よ うに カチ ン独 立 軍第7大 隊が後退 して い った背 景 には, プ一 夕- オ, クラ ン川源流 , ンマ イ川上 流 の各地 にお け る, カチ ン独 立機構 とラ ワ ンや ヌ ンの 人 び ととの対 立 問題 が あ る。 複雑 な事情 が か らみ合 って い るが , かいつ まんで説 明す る と次 の ようにな る。 プ一 夕- オ地方 に は シ ャ ン人 (タイ ・カムテ ィ-, TaiHkmti)とカチ ン人が 住 んで い るO 人 口が よ り多い カチ ン人の側 は ジ ンポ-, ラワ ン, リス- とい った3つ の 「言語 集 団」
に分 け られ る。 ただ し, ラ ワ ンと リス-の 人び とは, 自分 た ちが カテ ン人だ とは深 く思 って お らず , ふつ うカチ ンとい えば ジ ンポ - を指 す と考 え る者 が 多い。1
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年 にで きた カテ ン独 立機構 の指導 者 や 中核 とな った メ ンバ -, カテ ン独立 軍 の ゲ リラ将 兵 には,ジ ンポ ーが比較 的 多 く,ほか にマ ルー とラシー とアヅ イーが それぞれ 同 じ くらいい た。 その理 由 と して は,7つ の 「言語 集 団」中,ジ ンポ ーの人 口が最 も多 い こ と,ジ ンポ ー,マ ルー, ラ シー, ア ヅ イーが混住 して い る シ ャ ン州北部 で組織 が生 まれ, や は り同 じような状 態 の カチ ン州南 東部へ まず 活動 をひろめて い った点が あ げ られ る。 そ のせ いか,組織 の英語 名で は カテ ン とい う言葉 が使 われ たが, カテ ン語 (共通語 で あ るジ ンポー語 )名 で は,
「ジ ンポ ー ・ム ンダ ン ・シ ャ ンロ ッ ト ・プ ン」(Jingh paw MungdanShang・ lawtHpung, ジ ンポー国独 立 機構 ) とされ, カテ ンのか わ りに ジ ンポ ー とい う言 葉が 用 い られ たの だ った。 カテ ン独 立軍 の部 隊が初 め て カテ ン州北部 にや って来 たの は,1
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年 で あ る。 村 人の 間 に支 持 をひろげて,志 願 兵 をつ の った と きも,それ に まず応 じたの はジ ンポ ーが 多 く,次 いでマ ルー や ラシーの 人た ちが加 わ った。 プ一 夕- オ盆 地 に入 ったの は,1
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年 にな って か らで, この と きが ,プ一 夕- オ地方 ,クラ ン川源 流地方 ,ンマ イ川上流地 方 にだ け住 む ラワ ンや ヌ ンの村 人 と,東南 アジア研 究 35巻4号 カチ ン独 立機構 ・軍の初 めての本格 的な接触 だ った。 「プ一 夕-オ地方 で真 っ先 にゲ リラを支持 したの はジ ンポーの村 人で,多 くの若者 が志願 し ま した。 リス-か らの参加者 は少 なか ったけれ ど, いい関係 がで きそ うで した。 リス-の人た ちはカチ ン州 の南東部 や シャン州 に も住 んでいて, カテ ン独立軍 の ことはすで に知 って ま した か らね。問題が起 きたのは ラワンの人 び ととの間で した。 もともと, ラワンとジ ンポー, ラワ ンと リス-の関係 は,村 の土 地 の境 をめ ぐる争 いや有 力者 同士 の反 目な どに よって よ くはな か ったんです。 しか も, カチ ン民族 の同胞 とい う気持 ちが どち らか といえば薄い ラワンの人 た ちは, カテ ン民族独立軍 はジ ンポー中心 の組織 であ り,硯 にカチ ン語で "ジ ンポー国独立軍 '' と名乗 ってい る, もし自分 たちが参加 して もジ ンポーの下 に置かれ るだけだろ う, と考 えたわ けです。」 第
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大隊長, ウラ ・ノー大尉 は重 い口を開いて語 った。 カテ ン独立軍 に対 す るラワンの人 び との心理が微妙 に揺 れ動 くなか,問題 に火 をつ けたのは, 相互不信 に もとづ くスパ イ処刑事件 だった。 ビルマ政府 に意 を通 じた り,政府 にそそのか され た りした者がスパ イをはた らいた場合 と,ゲ リラ側 の誤解 に よる人 まちが いの場合 の両方 あ っ たが, カチ ン独立軍 の手で ラワ ン住民 が処刑 され る事件 が相次 いだ。 それ を機 にラワンの人 び とは ビルマ政府側 につ き,反 ゲ リラの姿勢 をかためてい った。 自らの勢力がお よぶ地域 において,否応 な くひ とつ の政治権力 ・制度 と して機 能 して しまう 反政府 ゲ リラ組織 の,過剰反応 とで もい うべ き処刑 策が ボ タンのか けちがい となって, この よ うな展 開 を招 いた ともいえる。 1964年末か ら65年 5月頃にかけて, プ一 夕-オ, ンマ イ川上流 , クラ ン川源流 の各地方 で, カチ ン独立軍 とラワ ン, ヌ ンの住民 の間 に武力衝突が起 きた。双方合 わせ て数百人 ともい う死 傷者が出 る深刻 な事態 になった。村 人が ビルマ軍 に協 力 して努や先込 め銃 や小銃 でゲ リラを殺 した こ とへ の報復 に, カチ ン独立軍 は敵対 す る村 を焼 き打 ち した り,捕 えた男 たち を処刑 した りもした。両者 の関係 はす っか り険悪 になって しまった。 以後,大半 の ラワンとヌ ンの人 び とはず っ とビルマ政府側 につ いてい る。政府 もカチ ン民族 自決運動 を分断す るため に, ラワ ンを利用 してい る面があ る。かれ らを, プ一 夕-オに駐屯す る ビルマ政府軍第46大隊や警察 や民兵組織 な どに数多 く採用 して優遇 し,反 ゲ リラ活動 に積極 的 に参加す る よう仕 向 けてい る。 そ して,政府側 とラワンの指導層 は,ラワ ンはジ ンポー中心 の カチ ン民族 に属 して はお らず, 言語的 ・文化 的 ・歴史的 に見 て も別 の独 自の民族 であ り, む しろ ビルマ人 と近 しい関係 が あ る とまで唱 え, い まやその考 えは住民 の間に もひろ ま りつつ あ る とい う。それ には, ビルマ国民 と しての国民意識 の浸透 も伴 ってい るか もしれない。 「こ う して ラワ ンとヌ ンの住民 か ら支持 を得 れ なか った こ とは, カテ ン独 立機構 に とって大 892 -286-吉 田 :生命の連 な りを未来 に きな痛手で した。1969年 に,=ジ ンポー国独立機構" とい うカチ ン語の組織 名 を,…ゥ ンボ ン国 独立機構" と改めたの は,その ことへ の痛切 な反省か らなんです よ。」 ウ ンボ ンとは, カチ ン人の起源神話 に語 られる,
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人兄弟 として生 まれた各 「言語集団」の 始祖 の父親,つ ま り民族 の始祖 の名前 に由来す る。 遠い祖先 を同 じくし,共通の氏族 の杵で結 ばれた民族 とい う意味 をふ くんでいる。 ともすれば, ジ ンポー中心主義 にな りが ちだった傾 向 を正 し,7
つの 「言語集団」全体 に運動 の輪 をひろげるのが 目的だった。 「言語集団」
間の連帯 を強 め るため に,政治 ・文化 ・歴 史についての学習活動 が, ゲ リラや 解放 区住民 の間でお こなわれた。それ を もとに, ラワンや ヌンの住民 との関係修復 も再三試み られた。 しか し,衝突が残 した傷 は深 く, もつれた糸 は解 きほ ぐせ ていない。 「当時, ビルマ軍 と戦 うため に早 く解放 区 をひろげなければ とい う性急 さが,われわれの側 にあったのは確 かです。それが誤解 と不信 を招 いて,あんな結果 になって しまい ま した。69年 以来,誤 っていた部分 は改めて きま した よ。で も, ビルマ政府が ラワンの一部有力者 をた きつ けて, ウンボ ンの血のつ なが りを分断 しようとしたのが一番 の原因なんです。そ こか ら何 もか もこ じれて しまい ました。 しか し, カテ ン独立軍 に参加す るラワン青年だ ってわずかだけ どい ます。い まもプ一 夕-オ地方 の ラワン住民 と関係 をよ くす るために,接触 の試みは続 けて るん です よ。 難 しくて,時 間のかか ることなんで しょうが-・-。」 ウラ ・ノー大尉 は, 目の落 ち くぼんだ顔 に苦渋 の色 を浮かべ た。 20年 ほ ど前 に起 きた流血 の衝突 は,深 い亀裂 をもた らした。その傷 はい まだに癒 されず,双 方 に苦悩 の後遺症が残 されてい る。 そのかげでほ くそ笑 んでい るのは, ビルマ政府である。対 立問題の事実 を知 ったわた しも,暗塘 たる思い を抱 か ざるをえなか った。Ⅶ
む す び カテ ン人やパ オ人や シャン人や ラフ一人な ど,ビルマ とタイ と中国に住 み,国家の なかで 「少 数民族」 として位置づ け られ る諸民族 は,国境 を越 えて同族 とのつ なが りを持 っている。 伝統 文化 ,固有の言語,神話 な どをよ りどころに して,祖先 とのつ なが りを意識 し,国家の枠組 み を越 えて民族 のアイデ ンテ ィテ ィーを保 ち,それぞれの国での国民意識 は薄い。
ビルマでの よ うに, 中央集権支配 と同化政策- の抵抗運動 も起 こ して きた。 かれ らは,国家 による国民統 合 (軍事力 も伴 う) とい う 「中央」か ら 「辺境」 を支配 しよう とす る力 に対 し,雲の上の国や過去 の王国伝説や生 き神や 「言語集団」の起源神話や氏族 の杵 とい った,民族 の まとま りの象徴 ・イメージを活か して支配 され まい とす る。 ただ,カテ ン人の例 に見 られるように,
「多数民族」が実権 を握 っている国家 に抵抗す る 「少 数民族」
の内部で も,政治の力学が はた らき,多数派 と少数派が形成 され,葛藤が起 きた りす東南 アジア研 究 35巻4号 る現実 もある。 カナ ンの場 合,独立 ・自治権運動 に積極 的 な 「言語集団