明治のあゆみを赤レンガ館のある霞が関・永田町に辿り、
初の洋式庭園となった日比谷公園から瀟洒な街・日比谷を訪ねます。
○主役が代わった首相官邸から議事堂、そして憲政の歴史を学びながら、明治政府が描いた近代 国家の象徴としての「官庁集中計画」を霞ヶ関に辿ります。 ○日本初の「洋式庭園」として開園した日比谷公園、黄葉のイチョウ並木を歩き、明治のいぶ きを感じ、さらに歴史を変えた日比谷入江、幻の江戸前島を知ります。 ○明治の東京を散策しながら、戦後の歴史の一幕を覗き、平成の日比谷周辺と一筋裏のクリス マス・イルミネーション輝く瀟洒な通りをぶらりと歩き、日比谷シャンテでゴジラ像と有名 芸能人の手形を見て、宝塚で今年のツアーを締めます。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 1.首相官邸(千代田区永田町2-3-1外) ①正式名称は 法令上の表記は「総理大臣官邸」が使用されているが、公文書には「内閣総理大臣官邸」の 表記が使用されることもある。首相官邸は報道や官邸の公式ウエブサイト「首相官邸ホーム ページ」という表記が使用されている。 ・官邸敷地の沿革 江戸時代は越後村上藩内藤家中屋敷(旧首相公邸の中庭から出土した陶磁器から判明)など の大名屋敷であった。明治3年に鍋島家の所有となった。その後関東大震災後、復興局に売 却され、1926年(大正15年)震災復興に伴う中央官衙(かんが)計画の一環として、 1929年(昭和4年)総理大臣官邸(旧官邸)となった。 ② 新首相官邸 昭和4年竣工の旧官邸は、築後75年を経過しており老朽化が著しく、昭和50年代から建 替えの検討を進め、昭和62年に新官邸の整備について閣議了解し、平成8年度に設計(建 設大臣官庁営繕部)を着手し、平成11年5月22日に着工し、14年4月22日に竣工し た。デザイン面では、日本らしさを感じられるような簡素な美しさを追求。日本建築の素材 である「木」「石」「和紙」「ガラス」「土(壁)」の美しさを活かしたつくりになっています。 ③概要 ・敷地の広さ 46,000㎡ (13,915坪) ・建物延床面積 29,000㎡ (877坪) ・建物 地上5階及び地下1階建、 高さ35m ・総事業費(新官邸、新公邸)903億 ・屋上にヘリポートを設置。 ・官邸前の池も水を抜くと非常用の ヘリポートとなる。④旧首相官邸(新首相公邸に改修した。) 1929年(昭和4年)3月18日竣工、 鉄筋コンクリート4階建(地上3階・地下1階)、 延床面積7,000㎡、設計 大蔵省営繕管財局 ・建物は昭和初期に日本で流行していたデザインの 典型的な傾向(ライト風、アール・デコ、表現主義) を残した、自由で伸びやかな設計意図が感じられる 歴史的、建築文化的価値の高い建築物である。 ・五・一五事件、二・二六事件の現場。 ・旧首相公邸 旧公邸は旧官邸に隣接して同年に造られた平屋造り。 旧公邸完成以降の歴代首相は42人、旧公邸で暮ら したのは18人、「二・二六事件」以降戦前は入居 辞退の首相が相次いたのが少ない理由。老朽化が著 しいため、平成15年に取り壊された。 ⑤新首相公邸 平成15年10月に旧官邸を敷地南側へ50M移動し、外観等旧官邸の建築的価値の高い部 分は保存し、危機管理機能として24時間情報収集できる執務室、要人をもてなす客間や晩 餐会用のスペース、茶室等公邸としての機能を充実した。また首相の「住まい」としての居 住性を高めるため大規模な改修を行った。世界初住宅用燃料電池による発電・熱供給システ ムなど環境に配慮した設備が設置され、平成17年3月に完成した。小泉首相は4月26日 小泉政権発足4周年を記念して新公邸に入居した。 <参考> ・ライト風 アメリカの建築家であり、20 世紀を代表する巨匠であったフランク・ロイド・ライト(1867 ~1959)風のデザイン。ライトの設計により、大正 12 年(1923 年)に竣功した帝国ホテルのデ ザインに影響を受けて、日本で流行したデザインの傾向。 その特徴は、水平感の強調、スクラッチ・タイルと軟石の組み合わせ、タイル目地への金色 の使用やマヤの建築にルーツを持つ四角をモチーフにした幾何学的な装飾、壁で仕切らず床 や天井の高さを変えるなどして空間に変化を与えることなどである。 ・アール・デコ 大正 14 年(1925 年)にパリ万国装飾美術博覧会<通称アール・デコ博)のパビリオンに登場 し、1920 年代~1930 年代に欧米で流行した装飾様式。円や直線、ジグザグ模様など、幾何学 的なモチーフを用い、平面性を重視するものが多く、金属の質感を好んだもの。 ・表現主義 1910 年代、20 年代のドイツにおける新傾向のデザイン。 内面の情念(精神世界)を表現することを重視し、鋭角や自由曲線(曲面)を多用するのが 特徴である。日本の建築には、この様式が大正中期(1920 年代初め)から若手建築家の作品 を中心に見られ、半円の使用(窓に使われた例が多い)が多い。
2.国会議事堂 現在の国会議事堂は明治 20 年に議院建築予定敷地が決定 されて以来、政府は基本構想を練ってきたが、計画を実施 することはなかった。大正6年に「議院建築調査会」を 設置し、本議院の建築を懸賞競技とし、翌7年に公募し、 118 通の応募の中から 1 位当選した渡邉福三氏(宮内省の 技官)の案を基にし、臨時議院建築局が実施設計をしま した。伝統を離れた独創的な近世代の様式を採用し、左右 均斉の正面中央に角錐型屋根の高塔を建て、中央に帝室用 大車寄せ、左右に両院の車寄せを配して壮重な外観となっ ています。大正 9 年に着工した議事堂建設は、大正 12 年の 震災による被害も少なく、17 年にわたる工事期間を経て 昭和11年(1936 年)11月7日に竣工しました。 当時は日本一の高さを誇り、永田町の高台に美しい御影石 で装われた議事堂が「白亜の殿堂」と賞賛されました。 同年12月24日に召集された第70回帝国議会から使用 され、現在に至っています。 向って左側が衆議院、右側が参議院。 *建築費は当時の巡洋艦1隻建造費程度。 ○仮議事堂から現在の議事堂が建てられるまで 日本に議会が開設された明治23年(1890 年)から現在の議事堂が完成するまでの46年間、 第1回帝国議会から第69回帝国議会までは、木造の仮議事堂を使用していました。明治14 年(1881 年)10月12日、明治天皇から「明治23年を期し議員を召し国会を開く」旨の国 会開設の勅諭が発せられました。そこで、19年(1886 年)2月、内閣に臨時建築局が設けら れ、議事堂建築にあたることとなりました。不平等条約の改正に取り組む政府は、外交上の政 略等もあり、ドイツからベックマンとエンデを招聘し、官庁集中計画を作成し、議事堂の設計 がなされ、20年(1887 年)4月、閣議において議事堂建築予定地を麹町区(現在の千代田区) 永田町1丁目に決定しました。しかし多大の経費を要すること、議事堂のような大建築物を造 り上げるには帝国議会の開設があまりにも切迫していたことから、議事堂の本建築は中止され、 麹町区内幸町2丁目(現在の千代田区霞ヶ関1丁目経済産業省の区画)に仮議事堂を建築する ことになりました。仮議事堂は、2度火災で焼失したため、都合3回にわたって建築されまし た。 ①第一次仮議事堂 工期 明治 21 年(1888 年)6 月 21 日から 23 年(1890 年)11 月 24 日 構造 木造 2 階建、 建坪 2,562 坪、 工費 233,868 円 設計 ドイツ人建築家 アドルフ・ステヒミュレル、 臨時建築局技師 吉井茂則 明治 24 年(1891 年)1 月 20 日未明、漏電による火災によって焼失。 貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)→その後手狭なため帝国ホテル食堂、 衆議院は東京女学館(旧工部大学校)にて開催。 <建築概要> 構造 鉄骨鉄筋コンクリート造 地上 3 階(中央部分 4F、地下 1F) 資材 最高品質の国産品を使用 建築費 2,570 万円 工事人員 延べ 254 万人 敷地面積 103,001㎡ (31,157坪) 建物面積 13,358㎡ (4,040坪) 延床面積 53,466㎡ (16,173坪) 長さ(南北) 206,36m 奥行(東西) 88.63m 高さ(屋上) 20.91m 高さ(中央塔)65.45m
②第二次仮議事堂 工期 明治 24 年(1891 年)4 月 28 日から同年 10 月 30 日 構造 木造 2 階建て(建坪 4,845 坪)、工費 229,424 円+装飾費 25,129 円 設計 ドイツ人建築家 オスカール・チーツエ、内務技師 吉井茂則 大正 14 年(1925 年)9 月 18 日改修工事中の失火による火災により焼失。 ③第三次仮議事堂 竣工 大正 14 年(1925 年)9 月(不眠不休の工事が行われ、80 日あまりで完成) 工費 1,599,174 円、設計 営繕管財局 *昭和 11 年(1963 年)5 月 26 日閉会の第 69 回帝国議会までの11年間使用された。 3.茱萸坂(ぐみ坂) 坂の名の由来は、「新編江戸志」には「丹波家表門を見通し、内藤紀伊守殿、本多伊勢守殿中屋 敷の間、九鬼長門守殿屋敷前へでる小坂なり、両側にぐみの木がありし故の名なり」と書かれ ている。東京名所図会に「昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず、此所に花車の番付札ありて、 其の行列をあらためしよりいふ」と記されており「番付坂」ともいう。 4.永田町(町名の由来) 「永田町」の名前が正式に付けられたのは明治5年のことです。江戸時代、このあたり一帯は 武家地で、馬場のあった道筋に永田姓の旗本屋敷が並んでいたため「永田馬場」と呼ばれてい たことが、この町名の由来です。 5.国会前庭庭園 総面積は 55,000 ㎡ ①南庭園は和式庭園、江戸時代は摂州三田藩九鬼家の上屋敷、明治時代には有栖川宮邸、その 後霞ヶ関離宮があった。 ②北庭園は洋式庭園、江戸時代初期は加藤清正、その後彦根藩主井伊家の上屋敷となり、明治 時代は参謀本部、陸軍省があった。桜やハナミズキをはじめ、つつじ、椿など四季を彩るさま ざまな自然を楽しめます。 *ハナミズキ 明治45年(1912)東京市長であった尾崎行雄は日米親善のため桜の苗木をワシントン市に贈り、返礼とし米国 政府から大正4年(1915)ハナミズキの原木が東京市に贈られました。その後昭和 35 年尾崎記念館建設時に、 改めて米国政府からハナミズキの苗木250本が寄贈され、ここに植えられたものです。 6.大老井伊直弼上屋敷跡 この公園一帯(北庭園)は江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。 加藤家は二 代忠広のときに改易され、屋敷も没収されました。その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領 し、 上屋敷として明治維新まで利用しています。(歴代当主は、 掃部頭(かもんのかみ)を称しま した)幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月3日、この屋敷から外桜田門へ向か う途中、 水戸藩士等に襲撃されました。 7.江戸の名水『桜の井』 名水井戸として知られた「江戸の名所」で、井伊家表門外西側にあったが、加藤清正が掘った と伝えられています。
杯の水が汲め、江戸城を訪れる人々に水を提供して重宝がられました。 江戸名所図会にも紹介 され、安藤広重の 「東都外桜田弁慶桜の井」にも描かれています。昭和43年(1968)道路工 事のため、 交差点内から約10メートル離れた現在地に移設復元されました。 8.日本水準原点 東京都指定有形文化財 日本の地形図の基本はここが原点になる。明治24年5月(1891 年)に設置され、東京湾平均 海面 24.500m でしたが、関東大地震で沈下し 24.414m に改定されました。水準原点は標庫の 中にある大理石の台座に取り付けた水晶板に赤い線が刻まれている。建物は石造による小規模 な作品ですが、ローマ風神殿建築に倣い、トスカナ式オーダー(配列形式)をもつ本格的な古 典様式建築で、明治期の数少ない近代洋風建築として建築史上貴重なものです。標庫の設計者 はコンドルに教えを受けた工部大学校の1期生辰野金吾、片山東熊(とうくま)、曽禰達蔵と並ぶ 佐立七次郎(さたてしちじろう)で、現存する作品は、他に小樽市立博物館(旧日本郵船小樽支店) しか残っていない。 9.時計塔 昭和 35 年(1960 年)尾崎行雄を記念する尾崎記念館建設時に、その一環として噴水、花壇も設 けられた。高さは「百尺竿頭一歩を進む」という諺の努力の上に更に努力して向上する意味か ら百尺(30.3m)より高くして31.5mに設定された。チャイムが 10 時、13 時、17 時、 22 時の計4回鳴ります。三面塔星型は、立法、行政、司法の三権分立を象徴したものである。 10.憲政記念館(永田町1-1) 昭和 45 年(1970 年)にわが国が議会開設80年を迎えたのを記念して、議会制民主主義につい て一般の認識を深めることを目的とし、尾崎記念館を吸収して創立され、昭和 47 年に 3 月に開 館した。国会の組織や運営などを資料や映像によってわかりやすく紹介し、憲政の歴史や憲政 功労者の関係のある資料を収集して、展示をしている。館内には、尾崎行雄メモリアルホール もあり、衆議院から憲政の功労者として表彰され、名誉議員の称号を贈られた尾崎行雄の足跡 をしのんで、遺品・著作・書跡・写真などを集めて展示しています。 この記念館のある高台は、室町時代に大田道灌が「わが庵は松原つづき海ちかくふじの高根を 軒端にぞ見る」と詠んだ松原の一角に連なっていた景勝地であった。 ○尾崎行雄(咢堂) 安政 5 年(1858)11 月 20 日~昭和 29 年(1954)10 月 6 日 尾崎行雄は、真の民主政治と世界平和の実現にその一生を捧げた政治家である。 若くして自由民権運動に身を投じ、保安条例により東京退去を命じられ海外 (米国・英国)に渡るが、国会開設時(明治 23 年)に衆議院議員に選ばれ、 以来、議席にあること60年7ヶ月(連続当選 25 回)、世界議会史上の記録を打 ち立てた。素志は藩閥軍閥の打破、民主政治の確立にあり、あらゆる権力の弾 圧にも屈せず、常に民衆の側に立って闘った。その雄弁は天下に鳴り、憲政擁護 運動が起こると人は彼を「憲政の神」と呼んだ。また、軍国主義が一世を支配す るに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めるとともに、 三たび辞世を懐にして議政壇上に立ち、国論に警告することをやめなかった。 そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく「世界連邦」の建設 を提唱。議会政治の父と仰がれつつ一生の幕を閉じた。(享年 95 歳)
11.桜田門(外桜田門) 国指定重要文化財 正式には外桜田門と呼ぶ。これは内桜田門(桔梗門)に対する名称である。高麗門と渡櫓門の 間に枡形広場がある枡形門(15間×21間)で、現存の江戸城城門の中では最大規模のもの。 高麗門の扉や柱の表面に隙間を空けて、短冊状の鉄板を鋲で打ち付けてある。この形式を筋鉄 門(すじがねもん)という。当初は扉のない大きな門のみがあったといわれ、寛永13年(1636) に修築し、現在の形式になり、大正 12 年の関東大震災で破損をしたので、鉄網土蔵造りに改修 された。築造当時の遺構を残し「枡形城門」の形態が良く保存されていることから昭和36年 6月、国の重要文化財に指定されている。 *桜田門外の変 万延元年(1860 年)3 月 3 日、早朝から雪が降り続く午前9時頃、大老井伊直弼は将軍家に上己(じょうし)の 節句の御祝言上のため、駕籠で従者50余人に護られ、行列が桜田門にさしかかった時、路傍の雪の上に土下座 していた水戸浪士森五六郎が何事かを訴えるような風を装って「捧げます」と呼びざま、がばと立ち上がり先供 に切りつけた。銃声を合図に多数の浪士が大老の駕籠に突進した。薩摩藩士有村治左衛門が短槍で駕籠を襲い、 殺害した。供侍は雪のため雨合羽を着け、刀には柄袋をかけていたので、思うように防戦できず、死者8人、重 傷者10数人にのぼった。浪士側は自刃を入れて5人、4人が自首し、5人が逃走した。襲ったのは、安政の大 獄に始まる直弼の政策に反感を募らせた水戸浪士 17 名と、薩摩浪士 1 名であった。 12.上杉家江戸屋敷跡 関が原の戦いの後、家康によって出羽米沢 30 万石に移封されました。慶長 8 年(1603 年)に桜 田門外に建てられた上杉家の屋敷は「桜田屋敷」とよばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な 役割を果たしました。レリーフは米沢市が建てたもの。 13.旧司法省(法務所レンガ館) 国指重要文化財 明治19年に明治政府が官庁集中計画に着手し、計画立案のためドイツからベックマンとエン デを招聘し、司法省の庁舎として企画され、工事監理はベルリン工科大学で学んだ河合浩造が 担当し、明治21年に着工し,28年12月に竣工しました。また、施工中の24年に濃尾地 震が発生したことから、耐震性の強化にも力を注ぎ建設されました。完成した建物は、司法省 庁舎と司法大臣官舎という 2 つの機能があり、玄関口も 2 つありました。関東大震災にもほと んど被害を受けませんでしたが、昭和21年の戦災により、れんが壁と床を残し焼失してしま いました。その後昭和 25 年に改修され法務省の本館とし使用されていましたが、平成 3 年に復 原改修工事が始められ、平成6年に創建当時の姿に復原され、法務総合研究所及び法務図書館 として生まれ変わりました。建物は1階を低く抑え、2.3階を高くした3階建てで、屋根は スレート葺、外壁は赤レンガを基調に柱や窓回りに白い石材を用いています。 建物は本格的なドイツ・ネオバロック様式の外観に特徴があり、都市の景観上、貴重で歴史的 価値が高いため、赤れんが棟の外観は,平成6年12月に国の重要文化財に指定されています。 明治政府によって策定された官庁集中計画の一環として建てられた建物のうち,残存する唯一 のものであり,我が国の建築の近代化を象徴する文化遺産となっている赤れんが棟の建築技術 に関する史料などを展示しています。 14.「霞が関」の由来 奥州街道の関所として中世から東国の名所として知られており、貞冶3年(1364)の新拾遺和 歌集(しんしゅういわかしゅう)にも「徒らに名をのみとめてあずま路の霞の関も春ぞくれぬる」と詠
っていません。今のところ、霞が関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市 が考えられています。千代田区に霞が関があったとの説は、『武蔵野地名考』に「上古は荏原郡 に属す今は豊嶋郡にあり」という記述、『江戸名所図会』の「桜田御門の南、黒田家と浅野家の 間の坂をいふ。往古の奥州街道にして、関門のありし地なり」という坂の記述から導き出され ています。 また、名前の由来については、古くは、日本武尊が蝦夷に備え設けられたもので、雲霞を隔 てる地であったことからつけられたという説があり、平安期より歌枕の地として多くの和歌に 詠まれています。また江戸期以前、荏原郡の東境にあった奥州路の関名によるといい、『武蔵野 地名考』に「この場所から雲や霞の向こうに景色を眺めることができるため」と記されていま す。江戸時代には「霞ヶ関」と記したものもあります。明治 5 年、東京府の町名「霞ヶ関」と なり、昭和 42 年地名変更により、霞が関1~3丁目、永田町となりました。 15.霞が関(官庁)の歴史 <明治初期の官庁> 初期の外務省 慶應4年(1868)、江戸城の主役は「将軍」から「天皇」へと代わり、 大政奉還によって江戸城は新政府の管理下に入り、明治元年(1868) 10月に江戸城は東京城と改称し、同時に皇城(皇居)と定められた。 新政府は「天皇親政」の姿勢を内外に示すため、外務省(筑前福岡藩主 黒田家=松平美濃守上屋敷)、陸軍省(井伊家上屋敷)、大蔵省(酒井雅 樂頭上屋敷)、兵部省(鳥取藩池田家上屋敷)といったように諸官庁を 皇居周辺の大名屋敷や武家屋敷を利用して開設しました。 現在の霞が関に最初に開設されたのは、明治3年の外務省といわれています。 <官庁集中計画(明治初期~中期)> ①皇居への官庁集中計画 明治 3 年に太政官(内閣)は皇城内本丸跡に諸官庁を集中するよう大蔵省に命じましたが、実 際には着工されませんでした。その後明治 6 年皇城は焼失し、皇城の再営と本丸に諸官庁を集 中することを計画しました。しかし、地質不良の理由により計画は実現をみませんでした。 ②井上馨の欧化政策 明治政府にとって、治外法権を撤廃し、諸外国との対等な国交を樹立するための条約改正が大 きな課題でした。明治 19 年 5 月の条約改正会議を控えて、外務大臣井上馨は欧化政策をとり、 明治 16 年にはジョサイア・コンドルの設計で鹿鳴館が建設されました。さらに井上は近代的な 国会議事堂、裁判所、司法省を含む諸官庁建築が整備された姿を諸外国に示そうと計画しまし た。明治 18 年にはコンドルに官庁集中計画案作成させますが、井上とコンドルとの意見の相違 により実施には至りませんでした。 ③ベックマンの来日・・・図1 ヨーロッパに劣らない官庁街を建造するため明治19年(1889 年)にドイツの高名な建築家で, 共同の建築事務所を開いていたエンデとベックマンなどを招聘し、この二人の「お雇い外国人」 を中心に設計を依頼し、明治 19 年にベックマンが来日し、官庁集中計画を作成しました。本計 画は、東は築地本願寺から西は日枝神社に及ぶもので、中央には四角く博覧会場がとられ、日 本大通りが東西軸をなしています。また東からは、天皇通りと皇后通りが結集し、西へは国会 大通りが延びています。現在と同じ場所に計画された国会議事堂からはヨーロッパ通りが南を 走り、これらの道路沿いに官庁建築が配置されています。
④ホープレヒト案・・・図2 ベックマンが帰国した翌 20 年、ドイツ人技師ホープレヒト、エンデが相次いで来日しました。 ホープレヒトは、ベックマンの案に大幅に手を入れ規模縮小を図り、日比谷練兵場跡 60M 幅の 並木通りで囲んだ内側に諸官庁を並べ中心を庭園とするロの字型のホープレヒト案が生まれま した。その後具体的な官庁の配置とデザインはエンデに任されることとなります。 ⑤エンデ案・・・図3 エンデは地盤の問題からホープレヒト案の実行に不安を述べていたが、同案に建物を配置した エンデ案は一辺およそ 600m という広大な正方形の敷地にまとまりを与えるため、四隅に建つ内 務、大蔵、海軍、農商務及び文部の各省は同一形にして全体を一つの巨大な建物のように据え ていました。裁判所のみ起工しました。 ⑤山尾庸三案(現在の霞が関の基本形)・・・図3 明治 21 年山尾庸三が内務省臨時建築局総裁に就任し、ホープレヒト及びエンデにより立案され た日比谷練兵場跡の計画に従い、司法省を起工しましたが、敷地は劣悪を極めたため、計画の 全体を変更するに至ります。日比谷練兵場跡の海側半分を占める軟弱地は公園(現在の日比谷 公園)とし、司法省は残り半分の敷地の裁判所(起工済)の隣地に、残りの官庁は議院、参謀 本部、外務省、裁判所、司法省に囲まれた敷地へと変更しました。これが官庁集中計画の実現 案となり、現在の霞ヶ関官庁街の骨格となっています。この時代に建てられたのは司法省と裁 判所のみでした。 16.潮見坂 『新撰東京名所図会』には「潮見坂は霞ヶ関と三年坂との間の坂なり」とかかれています。中世 のころまでは日比谷公園のあたりが入江であったといわれています。坂も当時はもっと高く眼下 に海をのぞむことができ、それゆえにつけられた名です。 17.三年坂 霞ヶ関3丁目の財務省と文部科学省の間を日比谷公園の南脇まで下る坂で「淡路坂」「鶯坂」と もいう。この坂で転ぶと 3 年以内に死ぬためともいう。昭和39年ころまで坂の上部が二段三 段と曲折して、「栄螺(さざえ)尻」と呼ばれていた。その後曲折していたところは直線になった。 18.工部大学校跡(会計検査院のある所) 三年坂を上がった左側、金融庁(元会計検査院)のある所が「工部大学校跡」である。 工部大学校は、日本最初の工学の高等教育機関で、工業分野における人材育成を目的とした工学 校で、土木・機械・建築などの学科が、招聘された外国人教師によって教授されていました。明 治6年に最初の入学試験を行い、12年には卒業生を輩出した。卒業生は明治の殖産興業の中心 の人材となり、それを支えてきました。19年には東京大学と合併し、その工学部となりました。 校舎は残され東京女学館が関東大震災まで使用していた。 19.帝国議会議事堂跡(経済産業省別館) 霞ヶ関一丁目三番、経済産業省と日本郵政のあるところは、明治時代は内幸町二丁目でした、 ここに「帝国議会議事堂」がありました。明治 23 年(1890)ここに貴族院・衆議院両院が建て られ、11 月 25 日に第一回帝国議会が召集されたとき、貴族院議員は馬車で、衆議院議員は人力 車で登院し、そこに大勢の見物人が詰めかけていたといいます。わが国憲政発祥の地ともいえる。
<官庁集中計画>
図1.ベックマン案(明治19年6月)中心軸は築地本願寺の大屋根より霞ヶ関の丘を望み決めたもの。
図2.ホープレヒト案(明治20年5~6月) 日比谷練兵場跡へ、ロの字型に諸官庁を集める。
図3.エンデ案(明治20年5-7月)
ホープレヒト案に具体的建築を当てはめたもの、中庭の中心には明治帝の立像。翌21年9月裁判所のみ着工。
図4.山尾庸三案(明治21年9月)