〔個 人 研 究〕
中納言阿闍梨増俊につい
て
増
山
賢
俊
一. は じ めに 筆者はこ れま で 拙 稿におい て 勧 修寺大法房実任(一〇 九七~一一六 九)を取り上 げ、法 を 授けた師に つ いて 調査を 行 な っ て き た。実 任 に は 六 人 の 師 が 確 認で き た が、本稿 で は 、 そ の師のうち小 野六 流の一 つ と し て 知ら れる随心院流の祖 と さ れる中納言阿闍梨増俊 (一〇八四~一一六五ま た は一一六八)の事績 に つ いて 取 り 上 げ る 。 増俊 の伝記について は 既に柴 田 賢 龍 氏 の 研究が あ るが、 原 資料に よ れば い さ さか疑問な 点 も 見 ら れ る の で改め て 検 討 し て みた い 。 二. 増 俊 の 出 自 に つ い て 増 俊 は勧 修 寺 大 僧 都 厳覚 ( 一 〇 五 六 ~ 一一 二一 )よ り 付 法 を 受 け 、その 後 小野 曼荼 羅寺の 五 世と なっ て 随心院流の流祖となった人 物 で あるが、その資料は多 いとは言えな い。柴田氏は『血脈類集記 』と築島 裕 氏が翻刻された醍醐寺蔵本 『伝法灌頂師 資 相 承血脈』 の 記 事によっ て 源 国俊 (~ 一〇九九) の 子とされる。 ( 1) ( 2) 0123456789ab cdefc『血脈類集記』 の 厳 覚 付法 を 列 する記 事 には 咆 嚴 築 俊[ 中 笋 言阿闍梨 。堀川中 笋 言國俊 俑 息/師 主 。六十 受 隅 。三十] 永久 三年[ 乙 / 未 ] 五月 二十五日[昴宿/土 兪 ]勸 修寺 布 芭 院に於いて 之 を 授 く(後略) 。 * 引 用 の 中 、 割 書 き は [ ] 、 朱 書 は 『 』 、 傍 注 は 注 記 箇 所 の 横 に 《 ○ 傍 》 に よ っ て 示 し た 。 ま た 〈 〉 は 『 続 真 言 宗 全 書 』 校 訂 者 に よ る 校 異 、 【 】 は 『 続 真 言 宗 全 書 』 校 訂 者 に よ る 補 入 、 { } は 『 究 竟 僧 綱 任 』 に お け る 追 筆 、 〔 〕 は 醍 醐 寺 蔵 本 『 伝 法 灌 頂 師 資 相 承 血 脈 』 に お け る 割 注 ・ 傍 注 。 行 取 り は 改 め た 。 以 後 の 引 用 文 も 同 様 。 とある。醍醐寺蔵本『伝法 灌頂師資 相承 血脈』の勧修 寺流の記 事の 裏書に厳 覚付法 の 記 事 が 見 ら れ 、 そ の 中に記 さ れる増俊 の名前の 注記で は 、「 中納言阿闍梨 堀川中納言國俊 ― 」 と あり、 そ の脇に朱注 で 「永 久 三― 五― 廿五 ― 甲 午同 院 六口」とある 。 こ の「同院 」につ い てはその前の安祥 寺律師宗意( 一〇七 四 ~ 一一四八)の 灌頂受法場 所 が勧修寺 とあ る こ とか ら、それに並ん で 記される増 俊の場 合も勧修 寺 と 考えら れる。 ま た 、こ れらに 見 ら れ る 「 堀川 中納言 国 俊 ( 卿) 」という 人物が 、『公 卿補任 』 に 見 出す 事が出来な い こ とに より、柴田氏は 『 尊 卑 分脈』 の 醍醐源氏 の系図か ら 、 権大納言隆国(一〇〇四~一〇七七) の 息 の 大 納言俊明(一 〇四四~一一 一四)と国俊の 箇 所を挙げ て 醍醐 源氏 の条に よ れば 、大納 言 隆 国 ( 定賢 法務の父親) の子大 納 言俊 明(一 〇 四四~ 一 一 一 四) の 子 に増俊がい て 、俊明の兄弟 に国俊が見 え るの で あ る。 と 述 べら れて いる。 ま た柴田氏は そ の 『 尊 卑 分脈 』 の 頭注に つ いて も 「 中將 従三位、 恐ら く 誤 り有 り、 『( 本 朝)世紀』は 從五位上に作 る」とある こ とを指摘され て い る。その 上 で 、増俊が「中納言阿闍 梨」と呼 ば ( 3) ( 4) ( 5) cdec
れ る 理 由 と出 自 に つ い て、 「増 俊 は 国俊の 子 であ った が叔 父俊明の 猶子 になった と推測 す るの は十分 に 可 能 であ る」 と し て、そ の 理 由 を『 公 卿 補 任 』の 俊明 の 事 績 に 求 め 俊明は永 保二(一〇八 二)年正月に権中納言、永長二 (一〇九七)年(承徳元年)十二月 に権大 納 言 に任じ て いる か ら 、増 俊が 出 家 得度した 時 に 中 納 言と 称さ れた 事 と 何とか 符 号 す るの であ る。 と述べられ て いる。加 えて、 『 尊卑分脈 』の系図か ら 、弟に民部卿 僧都静観(灌 )( 一〇八五 ~一一五七) 、 叔父に醍醐法 務定 賢 ( 一〇二四~一一〇 〇) ・ 鳥 羽僧正覚 猷 ( 一〇五三~一一四 〇) がいる こ とも指摘され てい る 。 また柴田 氏によれば、増俊の生まれは永 保四/応徳元 (一〇八四) 年また は 応徳 三(一〇八六 )年と さ れる。 こ のた め、俊明の官 職名 で 「 中納 言阿闍梨」と 呼ばれたとするならば、俊明が権中納言に補任 さ れ た永長二年に増俊は十二 歳 か十四歳となる。十二~十 四歳の年齢 で 出家した とす るならば、柴 田 氏 の主張 されるように出家時の官職名 で 呼ばれる こ と になるだ ろう。 さ て 、 『 尊 卑 分脈』で 増俊の父とされる源俊明は 醍醐 源氏源高明(九一四~九八 二) の流れの 中にあ り 、 醍醐天皇(八 八五~九三〇 )―高明― 俊 賢(九五九また は 九六〇~ 一〇二七)― 隆 国 ― 俊 明と 続く。 そ し て 、『尊 卑分脈』 で は 俊 明 の右に 「 右衛門督 使別當 治部 卿 左衞 門督 按察 使 大 笋 言 正二 民部 俑 大宮大夫」 と ある。 『 殿暦 』 康 和三年十 月十日条には、 「 權大 笋 言民部 俑 源 咆 臣俊 明 」 と 見 ら れ 、『 公 卿 補任 』 の 記 事か ら 以 下のような経歴が知ら れる 。永承八/天 喜元(一〇五 三)年に従五位下となる。康平四 ( 一 〇六一)年に加賀守、 延久 六/承保元( 一〇七四)年左近衛中将・蔵人頭、承保二(一〇七五 ) 年六 月 十 三日に正四位 下 で 参議 に補 任、承保三( 一〇七六)年 に従三位 、さ らに承保四/ 承暦元(一〇 七七) 年 に 正三 位、 従二位とな り 、永保二 (一〇 八 二) 年に 権中 納言、永長二/承徳元(一〇九七)年に権大納 言 、 ( 6) (7 ) (8 ) 0123456789ab cdec
康和二(一一〇〇)年に大 納言ま で 至った人物 で ある 。 一方 で 、 血脈 類に増俊の 父 とされる国俊 は、 隆 国 の子 で 俊 明の 弟に あた る。 『尊卑分脈』 の 国 俊の右の注 記には 「 中將 從三位」 と記されるが、 頭 注 に て 「從五位上」 の誤記と指摘し て い る 。『 本朝世紀』 康 和元 年 三月十八日条 にある国俊卒 伝によれば、右衛門佐、民 部権大輔、備 後介、参河守 、陸奥守等 を 歴任して い る の み で あり 、参議にも昇 っ て いない。増俊が国俊 の 子 で あるならば中納言阿闍梨と称される こ と は ふ さ わしくない。ただ『尊 卑分 脈』で は 国俊の子とし て 仁 和 寺僧「俊 増」という 名 が見 ら れ る。しかし、 血 脈 類 等 に は この 名 は 出 て こな い 。 この こと は 『 尊 卑 分 脈 』 が 増 俊 を 間 違 え て仁 和 寺 僧 「 俊 増 」 と 記 し た 可 能 性が考 え られ る。また 俊増 と増 俊そ れぞ れ 別 の人 物 が おり 、血 脈類 がその 二 人の 名 を 間違 えそ の 父 を 誤 っ て 記 録した可 能性も考えられなくはない 。 た だし、 『 尊卑分脈』 が 単純に俊増と増俊の名前 を前後間違 えて 二重に記した 可能性もある 。 た だ そ の場 合二 人の増俊 をど のように考えるかはまた別の問題 で ある。 柴田 氏が挙げ られた資料以 外にも、俊明 を指し示す「 堀川中納言」 という称号と 、国俊の名前 が繋 げら れ て 記 さ れた 記 事 は、 『伝燈広 録』 (『 続真言 宗 全書』所 収 )、 『血脈類集記』 「 増 俊 付法」 (『真 言 宗 全書』所 収) 、 東 寺観智 院 金剛蔵『 真言付法血脈図』三本(湯 浅吉美氏翻 刻 、 『 成田山仏教研究所紀要』二九号~ 三 一号所収) 、 随心院所蔵聖 教の中「随心院流系図」 ( 第 五 二函 三六 号 )(米田真 理子 氏紹介、 『小野随心院 所 蔵の密 教 文 献 ・ 図 像調 査 を 基盤 と す る相 関的 ・ 総 合的 研 究 とその探 求 』 所収 )、 『諸門跡譜 』「 随 心院」 (『群 書 類 従 』 所収 )、 「[ 小野 曼荼 羅寺 ] 随 心院門跡 次第」 (『仁海僧正 九 百 五 十年御 遠 忌 記 念 随心 院 聖 教類 の研 究』 所 収 )、 「随心院代々 正 嫡 血脈 」・ 「小野曼 荼羅 寺 随心院門跡」 一 ・「小野曼荼羅寺 随心院門跡」 二 ( 以 上三本は 中山 一麿氏 の 研究に基づく。 『小 野随心院所蔵 の文献 ・ 図 像 調査を 基 盤 と する相関 的 ・ 総合 的研究 とその 展 開 』 所収 )、 玉島 實 雅 著 『 随心 院 史 略 』 第 十 二章 「本 尊、 殿堂 、 書 院の 現在 ご歴 代法 統略譜」 第 二 (9 ) cde c
節「随心院歴 代法統略譜」 (玉島氏作成の随心院の歴 代 法統略譜の 部 分は以下、 「 随心院歴代法統略譜」と 省 略 す る ) に 見ら れ る 。 次 節で 扱 う 生 没 年 に も 違 い が 見ら れ る た め 、 以 下 に 列 挙 す る 。 ・ 『 伝 燈 広 録 』 城州 小野隨心院の 開 督 築 俊の 傳 十九の 督 築 俊。中 笋 言の闍梨と曰ふ。京兆の人、 太 常 俑 國俊 の 子 なり。童眞 に し て 出家す。四度 の法 業訖つ て 傳法の戒壇に登り灌頂の 職 位 を 受け嚴覺の燈光 を 嗣ぐ。 伴 し去て 一 方の幢を 樹 て 隨心院流と 號す。 來 ち 昿 荼羅 寺の一 院 なり。中古法盛 り にし て 亦 た 碼 光あり。所 以 に次序で 小 野 勸修寺・隨心 ・ 安と曰ふ。 (中略) 付法一人 顯嚴[隨心 / 院] ・『 血脈類集 記』 「増俊付法」 《○ 傍 勸。十 二 代。 嚴 學 弟 子 》 大法師 築 俊 [付 法一人。 隨 心 院と號す 。 長 哩 三年二 月 十一 日/ 示 寂 ] 裏書 築 俊の 事 堀川中 笋 言國俊息。嚴 覺大 遅 都灌頂の資。阿闍梨 顯嚴 [權 律 師 。 大 輔。 左 大 辨 宰 相顯 業 着 子。 實 は 助 辻 中原/廣忠息。壽永 二 年八月十四 日 入滅。 八 十八] 仁平四 年 正月十九日印信を與ふ。師主[七十一]受 隅 [三十九] ・東寺 観 智院 金剛蔵『真言 付法血脈図』 「 厳 覚 付 法の 弟子」 ( 10) ( 11) ( 12) 0123456789ab cdeec
増俊 [随心院 朝嚴と同 日 に 之 を 授く/ 阿 闍梨]― 顯 嚴 [僧都] 湯 浅 氏 によ れ ば 、東寺 観 智 院 金剛 蔵『真 言 付法血 脈 図 』 に は 氏が翻 刻 をさ れた 二 五 〇箱 三号の ほ かに一 一八箱四号 ( 別本) ・ 二九 〇箱六号 (又 別本) があり 、 湯 浅氏は こ れ ら の校合の 結果 を 報 告さ れ て いる。 そ れによれば二 九〇箱六号の 又別本には該 当箇所に 「はじめ 『阿闍梨 』 と 朱書し、 「中納言アサ リ堀川中納言 國俊息」と重 書」の注記が あるとされる 。 ・「 随心院流系図」 ( 影印版) 《 ○ 傍 中納 言 阿 闍梨 》 増俊[堀 川中納言/國 俊息] 《 ○ 傍 文久二 年 五月廿五 日勝福 院 に於い て 傳 授 、 受 者 三 十二、色 衆 六 人 、 仁 安 三 年 二月 九日 、 入 滅 八 十五》 ・『 諸門跡譜』 「 随心院」 築 俊阿闍 梨 。[ 隨心院 / 初 督 ] 中 笋 言國俊 俑 男。 嚴 覺 遅 綾 資。 ・「 [小 野曼 荼 羅 寺]随心院門跡次第」 (影印版) 阿闍梨増 俊[ 中納言國 俊子] ・ 「 随 心 院 代 々 正 嫡 血 脈 」 《○ 傍 随心院 初 祖 》 増俊阿闍梨[仁安三年戊子二月九日 入滅/ 中 納言国俊卿 男 厳 覚 僧都資/永 久 二年五月廿五日] ・ 「 小 野 曼 荼 羅 寺 随心院 門 跡」一 《○ 傍 『隨 流 始 祖 』》 阿闍梨 増 俊[堀川中 納 言國俊子 、 隨 心院流元祖 / 永久 二年五 月廿五日勧修 寺 勝福院 に 於 い て傳授 / ( 13) ( 14) ( 15) ( 16) ( 17) ( 18) ( 19) ( 20) ( 21) cfc
受 者 卅 二 人 、 色衆 六口 、仁 安 三 年 二 月九 日寂 ] ・ 「 小 野 曼 荼 羅 寺 随心院 門 跡」二(影 印 版) 阿闍梨 増 俊[仁安 三 年 二月九日化 / 隨心院流元 祖 ] 《○ 傍 『永 久 二 年五 月廿 五日 勧修寺 勝 福院に於 い て 傳 授 、 受 者卅 二 人 、色衆 六 口』 (朱 書カ) 》 《○ 傍 中納言 國 俊子 》 ・ 「 随 心 院 歴 代 法 統 略 譜 」 《○ 傍 隨心 院 初 督 》 築 俊阿闍梨 吉田中納言國俊 俑 息 嚴覺大 遅 正資 永久 三年五月 廿五日 勸修 寺 檜 芭 院に於い て 嚴 覺に 就き 傳法灌頂 職 位 を 受 く、法幢を 樹 て 隨心院流と號 す。 仁安三年二月 九日 示寂八十二 まず『伝燈 広 録』におい て は 、京都の 太常卿国俊の 子 で 童子にし て 出 家したとされ、随心院 流の流 祖 と なったとある 。「 太常 俑 國 俊 」 と あるが 、 国俊は太常卿 (神祇伯 ・ 治 部卿 ・ 式 部卿の唐名) に 昇っ て お らず 、 俊明が治部卿 に補任され て いる ため、この記 事も国俊と俊明 を 混 同 したの で あろう。 それ以外 にも国 俊 息 としながら国 俊の位 階 等につ い て 混乱の ある記事 は 、『 血脈類集記』 「増 俊付法」 ・ 東 寺 観 智院 金剛蔵 『 真言 付法血脈図』 別本 ・「 随心 院流系図」 ・『 諸 門跡譜』 「随心院」 ・「 [ 小野 曼荼羅寺 ] 随 心院門跡 次第」 ・「随心院 代々正 嫡 血脈」 ・「小野 曼 荼 羅 寺 随心院 門 跡」 一 ・「 小 野曼荼羅寺 随心院門跡 」 二に 見 ら れ る 。 こ れら の 記 事 は共通し て 「 中納言国俊」あるいは「堀 川中納言国俊」の息とし て 記 録 され る。 さ て 、「 随心院流系図」の 増俊 の名の右の注記に「文久二年五月廿 五日」とある が、 「文久」 は 江 戸 末 の ( 22) ( 23) 0123456789ab cfc
元号 で あ るの で 「 永久」の 間違い で あ ろ う。 最後に挙げた 玉島氏作成の 「随心院歴代法統略譜」に「吉田中納言國俊 俑 息」と 記 されるが、 何 を 根 拠 に記したかは不明 で あ る。 『尊 卑分脈』 によれば 藤原 氏高藤流の中 に吉田家があり、 そ こ に吉田国俊 ( 一三 〇八また は一 三一〇~一三 五八 ~)の名 が見 られる。右 に 「右 京大夫權中 笋 言」 とあり 、 時 代 が全 く異な って い る が 同 じ国 俊 の 名で 、 権 中 納 言 ま で 昇 って い る こ と から 混 同 さ れ た の で あ ろ う 。 増 俊 の 称 号 と し て の 「 堀 川 中 納 言」 につ い て は、 「堀 川」 につ い て は不 明 で あ る が、 こ の 頃皇 宮 と し て 使 われ ていた 高 陽院 が堀 川東 にあり 、 また 俊明 は「大皇 大后宮大夫」 となっ て いる 。おそ ら く俊明は「大 皇 大 后 宮大 夫 」 と し て 高 陽 院 に あ って 皇 宮 に 直 接 通 って い た こ と が 考 え ら れ る 。 そ う い っ た ところ か ら 、 俊 明 を 「堀川中納言」 と 称した可能性が考 えら れる。 『 公卿補任』 よ り こ の当時中 納言 で 皇 后宮 大夫になった 人物とし て 藤 原祐家(一〇 三六~一〇八 八)等がいる が、国俊はこのような立場 になっ て いな い。よって 「 従 三 位 」 「 堀 川 」 「 中 納 言 」 と い っ た 増 俊 を 指 す 呼 称 は 、 国 俊 で は な く 俊 明 に ふ さ わ し い 。 と こ ろで 増俊の名に続い て 「中納言阿闍梨」 という記 載のみ で 国俊息と記 載 のない資料とし て 、『 真言烈 祖表 白集』 ・ 湯浅氏が翻 刻 された東寺観智院金剛蔵 『 小 野 方血脈 抄 』( 杲宝撰) ・『 血脈 鈔』 (野 )( 『小 野方 血 脈抄 』の 別本 )・ 『諸流灌頂 秘蔵鈔 』「 小野 三流血脈 忸 高 野 中 院 流 血 脈 」 ・ 『 秘 密 儀 軌 随 聞 記 』 ・ 『 野 沢 血 脈 集 』 があるが、どれもごく簡略 な記事になっ て い るために 、必ずしも国 俊息 で は ない という伝承を伝える記 事 とは言い切れ ない。 以上か ら 、『 血脈類集記』 その 他におい て 、 なぜ俊明 息 で はなく国 俊息としたの か、 あるいは 俊明 を指 し 示 す 「 従 三 位 」 「 堀 川 」 「 中 納 言 」 と い う 呼 称 を 増 俊 に 与 え た の か 不 明 で あ る 。 「 国 俊 息 」 と い う 伝 承 と 「 従 三 位 」「 堀川 」「 中納言 」 という呼 称 の 伝承に つ いて 、も し 両 方 の 伝承共 に 正しいとす る なら ば、 柴 田 氏 の ( 24) ( 25) ( 26) ( 27) ( 28) ( 29) ( 30) ( 31) cfc
言われるよう に、国俊の息 と し て 生れた が 早くし て 俊明の 猶 子とな っ たために、 こ のように呼 ば れるこ と になったと考 える こ と が で き よ う。 しかし、筆者 は「中納言阿闍梨」と「堀 川中納言国俊 」の 二つのキ ーワードに着 目した 。 増 俊 が「中納 言阿闍梨」と 呼ばれ て いた こ と は間違い ない。一方 で 「堀川中納言」と「国俊」 は結びつかな い。結 び つ かない「堀川中納言 」 と「 国俊 」を 結 び つけ た「堀川中納言国俊 の 息」という伝承 よ りも、中 納言と な っ て い た俊 明 の 息と 考え る ほ うが より蓋 然 性は 高いで あ ろ う 。 柴田 氏の 言 わ れ る よ う な増 俊 を 俊明の 猶 子 と する資 料 も全 く見 られ ず 、 俊明の 息 であ った 可 能 性が考え られ る 。 柴田 氏の 言 わ れ る 国俊息 と し て 生れ 、 俊 明の 猶子 に な った 説の 根 拠 は「 堀 川 中 納 言 国 俊卿 息」と いう記事 で あ るが、 こ れ 自 体 をど こ ま で重視 でき るか 疑問が残る。それよりは単純に中納言に昇っ て い る 俊明の 息 とし て 見 るの で 良 いの ではない か 。 三. 生 没 年に つい て 増俊 の生年について 柴 田氏は 「 厳 覚 より伝 法 灌頂を 受 ける 事」 の中 で 猶 お 増俊 の生年に ついて 密 大 辞 「 増 俊」 の項には 「長寛三 (一一 六 五) 年二 月十一日 寂す。 寿 八十二 」 と云い、 是によれば永保四 (一〇八四) 年 ( 応徳元年) の 生れになるが、 右 『 類集記』 (注三参照) は 受者 増俊 の年令を 三十とする か ら 応 徳三(一〇八六)年 の 誕生となる。 とされ て いる 。「 入滅と付法の事」の記事 で も『血脈 類集記』 「増 俊」付法を挙げ ら れ て いる 。 そ こ に は 付 法の弟子に大 輔阿闍梨顕 厳 (一一一六~ 一一八三)の 名が 見ら れ、増俊が 顕 厳 に 法を 授 け た日が 仁 平 四 年 正月十九日 で 、 こ の時増俊 七十一歳、 顕 厳三十九歳とされる。 よっ て 、 増俊の生 まれは永保四 /応徳元 (一 0123456789ab cfc
〇八四) 年に なるが、 こ れ は 『 密教大辞典』 の説と同 じ で ある。 こ のように柴田 氏は、 『 血脈 類集記』 に 見 られ る 永 保四 / 応 徳元 ( 一 〇八 四 ) 年説 と 応 徳三 (一〇八六)年説の両論併記 さ れ て いる。 また、柴田 氏が指摘され て い ないが、 応徳元(一〇八四)年誕生説 を 伝える資 料が随心院聖 教に見ら れ る。没年 に違 いが見 ら れ る の で 以 下 に資 料 を 挙げ てい き た い。 「 随 心院流 系 図 」 で は 、厳覚付 法 の 弟 子 と し て 増 俊 の 名が 見ら れ、増俊 の名の左側に 「 文 久二年五 月 廿 五日勝福院に於い て 傳 授 受者三十二、色衆六人 仁安三 年 二 月 九日 入滅八十 五」とある。 こ の 記 事 に よれば永保四 /応徳元 (一〇八四) 年に生まれ、 仁安 三 ( 一一六八 ) 年 二月九日 に没した こ と になる。 「 随 心院流系図」 を紹介された 米田 氏によれ ば、おそ らく 金剛 王院 大僧 正静 厳( 一二 四 三 また は一 二四 五~一 二九九)あ た りま で と 推測される「旧記」 を 元に新た に そ の後の記録 を 補っ て 成 立したも のとされ、 そ の 時期は 奥 書 よ り永徳 四 /至徳 元 (一三八四)年と推測され て い る。その「 旧 記 」 と呼ば れ る 資 料も 増俊 滅 後に成立した もの で あ り、 同時代資料と は言えず、 『 血脈類集記』 と比べ て も特別信憑性が高 いとはいえな い で あ ろ う。 そ れ 以外の 「 随心院 代 々正 嫡血 脈」 、「 小 野 曼荼 羅寺 随心院門跡」 一、 「小野曼荼羅寺 随心 院門跡」二でも 同 じく没 年 が 仁 安三(一一 六 八)年二月九日となっ て い る。 また、玉島氏の「随心院歴 代法統略譜」 に よ れば、仁安三(一一六 八)年二月九 日に八十二歳 で 入 滅 し て い る こ とか ら、生まれは応徳四/寛治 元(一〇八七 )年となる。しかし、典拠 が不明なため あまり信 頼 に た るとは言い難い。おそ らく、他 の随 心院聖教が記 す 仁 安三(一 一六八)年没説に『血脈類集記』 の 増 俊付法記事か ら推定される生年を 組 み合 わせたも のだ ろう。 そ のため 、「随心院歴 代 法 統 略譜 」 を 生 没 年の 典拠とすることは難しいだ ろう。 さ て 、 こ れま で挙げた資料 か ら それぞれ 推測 できる増 俊の 生没年、 没日、没年時 の 年 齢 を 列挙 する。 ( 32) cfdc
・『 血脈類集 記』 「厳 覚付法」 応徳三 ( 一〇八六)年~ ・『 血脈類集 記』 「増俊付法」 永保四 / 応徳元(一〇八四)年 ~長寛三/永万元(一一六 五)年二月十 一日 入滅 八十 二 歳 ・「 随心院流系図」 永保四/応徳元 ( 一〇八四 ) 年 ~仁安三 (一一六八) 年二月九日入 滅 八十五 歳 ・ 「 随 心 院 代 々 正 嫡 血 脈 」 仁安三 ( 一一六八)年二月九日入 滅 ・ 「 小 野 曼 荼 羅 寺 随心院 門 跡」一 仁安三 ( 一一六八)年二月九日入 滅 ・ 「 小 野 曼 荼 羅 寺 随心院 門 跡」二 仁安三 ( 一一六八)年二月九日入 滅 ・ 「 随 心 院 歴 代 法 統 略 譜 」 応徳四/寛 治 元 ( 一〇八 七 ) ~ 仁安三 ( 一一六八) 年 二月九日入 滅 八十二 歳 ・ 『 真 言 烈 祖 表 白 集 』 二月九日入 滅 こ れ ら の資料 か ら 、生年・ 没年・没日・ 年齢につ い て 検討し て いく 。 生年につい て は、 まず 『血 脈類集記』 に 二説ある。 「 増俊付法」 の 記 事の 永保四 / 応徳元 ( 一 〇 八四) 年 説と 「厳 覚付法」 の記 事の 応徳三 ( 一〇八六) 年 説 で ある。 「 随心院聖教文書」 の 「 随心院流系図」 も 同じ く永保四/応徳元 (一〇八四) 年説 を取っ て いる。 ま た、 『血脈 類 集記 』 と 「 随 心 院 聖教 文書」 で 厳 覚 か ら の受法 の 年次 が 「 永 久 三年」 と 「永 久二年」 と 違 いが見 ら れるが、 「二 」 と 「三」 は 書 写 過程 で 間 違いやす い数字 で あり 、 『 血脈類集 記』もそれほ ど正確とは言 えないため 、 どちら の 記述 が正しいか断 定 で きない。 そのため 、 『 血脈類集記』 「厳 覚付法」 に見 られる「受 隅 。三十」 という記事も 三十歳前後と いう こ と で あ っ て 、実年齢 も三十歳 でな い可能性も考 えられる。そ の こ とか らすれ ば 、応徳三 (一〇八六 ) 年説 は 灌 頂 時の年齢 換算 から 出 て くるも の で 、 その 年齢自体が 確 実なも の とは言えない以上 、生年を特 定 でき る 根 拠 にはならない で あ ろう。 0123456789ab cffc
そのため 、同 じ『血脈類集 記』 でも没年 か ら 換算され る永保四/応 徳元(一〇八 四 ) 年生れの 説のほう が 可 能性 が 高 い よ う に 思われる。 ま た、玉島氏 の「 随心 院歴代法統略譜」は 典 拠不明の為、他の資料と 比 較し信頼性に 劣る で あ ろう 。した が っ て 、生年とし て は永保四/応 徳元(一〇八 四)年の可能 性が高いと 考え る。 没年・没日・入滅時の年齢 につい て は、 『血脈類集記 』 「 増 俊 付 法 」 の 記 事 よ り 長 寛 三 / 永 万 元 ( 一 一 六 五) 年二月十一日、 八 十二 歳 で 入滅とあり、 「随心院聖教文書」 で は 「 随心院流系図」 に 仁安三 ( 一一六八 ) 年二月九日に八十五 歳 で 入 滅とあり、他の「随心院聖 教文書」も「随心院流系図」と 同じく仁安三( 一 一 六八)年二月 九日入滅とな っ て いる。上 島享氏は、仁 安三(一一 六 八)年二月九日と され て い るが、 お そ らく 「随心院 歴 代 法統略譜 」 や 「随心院流系図」 に基 づくも の で あ ろ う 。「 随心院流系図」 の 記 事 を 完全に 信頼 でき る根 拠はないため 、 仁 安三 (一一六八) 年二月九日と特定 は出来ない で あろう。 「随心院代々正嫡 血脈 」、 「小 野 曼 荼羅 寺 随心 院 門 跡 」 一、 「 小 野曼 荼羅 寺 随心院 門 跡」 二は、 中 山氏に よ れ ば 近世初頭 に 作られた もの とされるが、 近世の も のだか ら と言っ て 「随心院聖教 文書」 の 説 を 否定 する根拠 は他にない。 寺内 の何ら か の古い伝 承を伝えて い る 可 能性は あ り、ど れ か一 つに決定す る だけの根拠は どこにも 認 め ら れ な い 。 増 俊 自 身の 事 績 そ の もの も不 明 で あり 、 特 に 晩 年 に 関 す る 事 績 は 全 く わ か っ て い な い 。 したがっ て 没 年に関し て は 『血脈類 集記』の長寛 三/永万元( 一一六五)年 と随心院聖教文書類に見 ら れる仁 安 三 ( 一 一六八 ) 年の 二説 とい う こ とになる 。そ れ に あ わ せ て 、増 俊の 享年 も『 血 脈 類集 記』の 八 十 二 歳と随 心院聖教文書 類 の八十五 歳 の両説となる。 没日につ い て 柴田 氏は、先 に挙げた『血 脈類集記』の 「増 俊」 付法より引用し て 、入滅 日 を二 月十一日 とされ て いる 。 さ らに 『真 言烈祖 表 白 集 』 の 「仲春 ( 二月) 第 九日 は小野 中 笋 言阿 闍梨 築 俊 舵 化の 日なり」 ( 33) ( 34) ( 35) cfc
を 引 用し て 、 二月九日説もあるこ と を 指 摘 さ れ、二 説 併記 され て い る。 一方 で 、 柴田 氏が指摘され て い ない、 随 心院聖教文書 類の 「随心院 流系図」 ・「 随 心 院代々正 嫡血脈」 ・「 小 野曼 荼羅 寺 随心院門跡」 一・ 「小野曼荼羅寺 随心 院門跡」 二・ 「随心院歴 代 法統略譜」 で は、入滅 日を 二月九日とす る。 こ れ は柴 田 氏 の指摘さ れた『真言烈 祖表白集』と同じ日になる 。 こ のように 没日に 関 し て は 二月九日 と二月十一日の二説が伝え ら れ るが、 九 日 入滅、 十 一 日 荼毘日とする可能性も考 え ら れ よう。 『真言 烈 祖表白集』 の 解題 に よ れば、 最 後に 唐橋大 僧 正親厳 ( 一一五一~一二三六) の名が 見 ら れ る た め、 成立の上 限は 親厳 の 没 年以 降 で あり、下 限につい ては わか らないとされ て い る。しかし、親厳の入滅後す ぐの成立 で あ るならば、 『 血脈類集記』 よりも早いの で 、 二月九日という没日 の 信憑性は高いの で はないか と考 えられる 。 以上か ら 、生 没年につい て は、 ・永保 四 /応徳元(一〇八四)年誕生 長寛三/永万 元(一一六五 )年 入滅八 十 二 歳 ・永保 四 /応徳元(一〇八四)年誕生 仁安三(一一六八)年 入滅 八 十 五 歳 の両説が 残る で あ ろ う 。どちら が 正 しいか判 断する材料がこ れ 以上 ない の で 、今後 の 課 題 と し たい。 四. 東寺 阿闍 梨職 補任 につ いて 柴田氏は 「東寺定額僧な る 事」 の項 で、 東寺百合文 書 ふ 函 「後七 日 御修法修僧 交 名」 に記さ れ て い る 「 天 仁三年後七日御修法修僧等 交名事」 に天仁三/天永元 (一一一〇) 年鳥羽僧正範 俊 ( 一〇三八~一一一二) が 後 七日 御修法を 修し たと き 、 伴 僧 の一人に 「 増 俊 阿 闍梨 [ 増益護摩 ] 」と確認 できるため 、 天仁三/天永 元 ( 一一一〇) 年には阿闍梨職に補任さ れ て い たと指 摘 され、 「 同 職 は東寺定額 僧 が専任され る 灌頂院十六 ( 36) 0123456789ab cfc
口有識 の 中 で あっ た ら しい」とされ て い る。 その理由とし て 『 東寺 長者補任』 の 安貞三/寛喜元(一 二 二 九 ) 年の 条 に 、成 就院 大僧 正 寛 助( 一〇 五七 ~一一二 五)が天 永四 / 永 久 元 ( 一 一一三)年十 二月十七日 に執り行った 灌頂におい て讃衆十人の一人とし て 名 が 挙 がっ て い る 。 そ こ には「 後 咆 讚 築 俊阿闍梨 辻 授」 とある こ とか ら 讃衆 十人 の僧名 と 配役 を具さ に 記し て 「 増 俊 阿闍 梨教授」 と 云 い (是は結縁 灌 頂 で 受 者 が 多 いから 複 数の教授がい る) 、 寛 助と増俊との間に 特別な関係も 認め ら れ ない 故に増俊が東 寺定額僧阿闍 梨 で あ っ た事は ほ ぼ間違い無い で あ ろう。 と述べられ て いる。 そ の理 由とし て 、「 当時醍醐系の 僧 侶が補任さ れる阿闍梨 職 とし ては東寺 灌頂院の 他に 曼 荼 羅寺三 口 、 上 醍醐円光院三 口もあった」と指摘 さ れ、横 内 裕 人 氏が翻 刻 された高山寺旧蔵『究 竟 僧 網 任』の「東寺 阿闍梨十六口 」の条には 東寺阿闍梨十六口 仁明天王御願 《○ 傍 八口 廣澤 僧 正 正 暦 五年奏 置 》 《○ 傍 八口 円堂僧 正 長承元 年 奏加》 《○ 傍 小》 《○ 傍 醍》 増俊 [中納言 ] 尊雅[ 太 政 大 臣雅實 息 ] 《○ 傍 醍》 《○ 傍 仁》 貞實[ 肥 後云々] 重助 [小納言云々] 《○ 傍 仁》 《○ 傍 醍》 實助 [ 小 納言云々] 源運 [摂 津云々/{大 僧都} ] ( 37) ( 38) cf c
《○ 傍 醍》 《○ 傍 仁》 宗命[内大臣宗能/息{僧都} ] 俊暁[ 大 蔵卿云々] 《○ 傍 醍〉 》 《○ 傍 仁》 源基 [ 摂 津云々] 賢海[ 常 教 房 ] 《○ 傍 仁》 《○ 傍 仁》 定慶[ 覺 定房云々] 行仁[寶 積房 云々] 《○ 傍 仁》 《○ 傍 醍》 信賢[ 宰 相云々/{ 已 潅頂} ] 祐海[近江 云 々] 《○ 傍 仁》 とあり、 「《 ○ 傍 小》 増俊 [中納言 ]」 と記され て い ること か ら 小 野 曼荼羅寺増俊が東寺灌頂 院 阿闍梨 で あっ た と 知れ、 同 阿闍梨 を 辞し て 本 寺 系の阿 闍 梨に就くこ と はあっ て もその逆はほとん ど無い で あ ろ うから、 増 俊 は半世紀以上の長 きに亘っ て 東 寺 阿 闍梨の職 に あったの で あ る。 と述べら れ、増俊が小 野曼荼羅 寺の阿闍梨を 辞 め 東寺 灌頂院阿闍梨 になっ た と さ れ て いる。 た だ 柴田 氏の 指摘は必 ずし も納得 できる も の で はなく 、 東寺定額僧 に つ い て 『 東 宝 記』 「廿一口定額 遅 を 永宣旨阿闍梨 に補任する事 」には ( 前 略) 右、 謹 み て 舊 記を 案 ず るに 、弘法 大 師、 去 ん じ 弘 仁十 四年勅を 給は り、 東 寺 始 め て 眞 言 の 蕈 場と 爲 る 。 こ れ よ り以降、前に五十 遅 申し置か らる 、後廿一口に 改め定め らる 。 其 の人 なり 。則ち 兩 部の 大 法 を受 け 、 四 種 の 護 庄 を 萼 行す。 遅 若し 闕有 ら ば 、次 第功 業 に 隨っ て 之 を補せ 、 て へ れ ば 是 れ ( 39) 0123456789ab cfec
則ち當 咆 根 本 密教の 始 め な り。厥の後 、 天台山惣持院 、 東 寺の例 に 因 り 准じ て、十六人の阿闍梨を 申 し 樽 はる。 近 代年來 他 宗の 寺々、 阿 闍梨 を申し置かる こと、 已 に七 十餘人 。 爰に根本眞言受く るの砌、 件 の 軄 位 に 預 か る 。其 の員幾 ば く 非 ず。 そ も そも 定額 遅 等、業を宗 と し心 を 學 び て しばしば三密 の 庭 に仕へ 、 行 を 萼 り身 を 帰 ひて 久 し く 五 智 の 門 に 疲 れる。 遙 かに 此 の 法 雲 灌 頂 の 位を 望み、 蘚 く彼 の 本 覺 圓 明の月に歸る。重ね て 事 菷 を案ず る に、去んし 承 和十一年十 一 月十六 日 、 檜 尾大 遅 都、 祓 請を 申 し立 てら れ て 偁く、 傳 法 阿 闍梨位 、 先 に 橇 家に奏し 、其 の勅答に隨 っ て 之 を授與さる。若し 堪噐 の 隅 有らば、員數 に限らずと云々。近 ご ろ則 ち香 隆寺 遅 正、 題 胡 ( 醍 醐) 大 遅 都 忸 びに 触 供奉 十 禪 師 安 艢 等に申し聽 さ る。 哇 照寺 大 遅 正 找 人の阿闍梨 を 申し置 か るの後、 當に定額 遅 の中、 安 筑 、 仁 恭 、 成 典 、 尋 菷 、 先 慶、 賢 壽 等を 任 ず 。 皆 專 寺 阿 闍 梨 と 爲す 。其 の 外 康靜 大 法 師を 五 臺 山阿 闍 梨 と 爲 す 。 相 壽 を 仁和寺 觀 薑 院の阿 闍 梨と爲 す 。 殘 り の 十一 人未だ 件の 軄 位 に預か ら ず。 伏して 以 んみ るに 廿一口 定 額 遅 、是 れ 灌 頂 の 時 の 持 金 剛 衆 な り 。皆 督 師相傳 の 蕈 具 を捧げ 、 共 に 祕 密 傳 法の 壇 場 に向か ふ 。 ( 後略) とあり、 こ れ によれば、遍 照寺僧正寛朝(九一六~九 九八)は東寺 定額僧の中か ら 六 人 を 東寺 阿闍梨と な し、康静 大法 師(生没年未 詳)を五臺山 阿闍梨 、 相寿 (生没年未詳 )を 仁和寺 観 音院阿闍梨 と 為 す 等、 東 寺以外の阿闍梨に補任し て いる。 ま た、 『東宝記』 「 廿一 口の内二 人 を 眞言 院有 熬 に補任せし む 事」 には、 「 宮 中眞言 院 に阿闍梨二 人 を 定 め置く」と記され、 東 寺定 額僧の阿闍梨 が宮中真言院 に補任され て いる。 増俊と関わりのある僧侶 で 東寺定額僧に なった勧修寺 法務寛信(一 〇八四~一一 五三)の事績 を 見 て い くと、 安 田弘仁氏が翻刻さ れた 『勧修寺 別当長吏補任等古記録』 「 法印権大僧都 寛信」 に よる と、 康和五 ( 一 一〇三)年十 月に勧修寺権 別当に補任さ れ、嘉承三/ 天仁元(一一〇八)年十月 に厳 覚より灌 頂を授 け ら れ 、 天 仁 三 / 天 永 元 ( 一 一 一 〇 ) 年 六 月 に勧 修 寺 別 当 を讓 られ てい る 。 天 永 四 / 永久 元 ( 一 一 一 三 )年中 ( 40) ( 41) cfc
に 「 東寺入寺 」 と あるが、 こ れ は 『 東寺 長者補任』 「 太政官牒東寺 應加補定額 遅 拾口事」 によれば 東寺 定 額僧に補任さ れた こ とがわかる。その後 、永久二(一 一一四)年十 月に維摩会講師、永久六/元永元 ( 一 一一八)年五 月に最勝会講師 を 勤め、保安二(一一二 一)年三月に勧修寺長吏、天治三/大治元(一 一 二 六)年五月に元興 寺別当、大治四(一一二九)年十二 月に律師、長 承三(一一三四)年六月に三会講 師 の 労により権少 僧都、永治二/康治元(一 一四二)年十 二月に東寺二長者に補任さ れ、権大僧都 に転じて い る。そし て 天 養二/久安元 (一一四五)年十月に東寺 長者に補任さ れ、久安二( 一一四六)年 一月に 法 務 を兼帯し、 久 安三(一一四 七)年一月に東大 寺別当となっ た こ とが わかる。 こ の ように寛 信は勧修寺別 当になっ て 後 に東寺定額僧 になりながら、保安二(一 一 二一)年に は 勧修 寺 長吏になっ て いる。 こ のよ うに、勧修寺 僧 で ある立場 を守りながら東寺定額僧に なっ て い る こ とが明ら か な例 で あ る。 また、 横 内氏が高山寺旧蔵 『究竟僧網任 』 の 解題 で 指 摘され て いるように、 『究竟僧網任』 で は多くの 僧 侶名の右の 注 記に所属寺院 が記され て お り、 「東寺阿 闍梨十六口」 にも記され ている。苫米 地 誠 一氏も 東寺 は、 実際 には独立した 教団組織 を 形 成し て い なか ったと考 えられ ( 中略) 、 他寺 (仁和寺 や醍醐 寺 などの真言宗 の寺社) の僧 が東寺長者 ( 東寺長者とは 、 空 海門流とし て の真言宗 の長者の意味 で あ る) や凡僧別当・定額僧などに 補任され て 東 寺の法会を 執 行し、真言宗 全体によっ て 運営 され て い た。 と述べら れ て いる。 こ のよ うに、定額僧 は他寺の僧が 補任されるもの で あるか ら 、増俊も東寺 定額僧に な った とし ても 小野 曼荼 羅寺 の 阿 闍梨 を辞 めた と は 考 え にくい。また 、小野僧正仁 海 ( 九五一~ 一〇四六) か ら 小野 曼荼 羅寺 を相伝し た 小 野僧都成 尊(一〇一二 ~一〇七四 ) は仁和寺僧 で あり 、さ らにそれ を 相 伝 した 範俊は興福寺僧 で あった 。 さ ら に範 俊付法の 厳覚 は 勧 修寺僧 で あるが、 その 師、勧修寺僧正信覚(一 ( 42) ( 43) ( 44) ( 45) ( 46) 0123456789ab cfc
〇一一~一〇八四)は 仁和寺僧 で あ っ て 、こ の時代小 野曼 荼羅 寺は仁和 寺系 の末寺にな っ て い た。 し た が って 増俊は 醍 醐 寺 系 の 僧侶とは言え ず、あくまで 仁和寺系 の勧修 寺 僧と して 東寺定額僧の中 の 阿 闍 梨 職 十 六口に補任さ れたの で あろう。 いつ阿闍梨職に補任さ れたか特定 で きないが、 天 永四/永久元 (一一一三) 年には 補任 され たの で は ない か。ま た 、寛信と 増俊は共に厳 覚付 法 で あって そ の 関 係は深 か った こ と が 予 想される。 五. 増俊 を取 り巻 く 人 物 1. 鳥 羽 僧正 範俊(一〇三八 ~ 一一一 二 ) 範俊と増 俊の 関係 につ い て 、柴田 氏は「 範 俊の 弟子な る 事」の 中 で以下の 点 を 指 摘 され て い る 。 まず 『野沢血 脈集』 に 成 尊 ― 範 俊―増俊 とある こ とか ら、 「範俊より直に増俊に 懸けるもの が あ る。 近世 の書なる故に 是だけ で は信憑性に疑問なしとしない」 と述べられ て いる。しかし 、先に取り上 げた東 寺 百 合文書ふ 函「 後七日御修法修僧交名」 を 挙 げ て 天仁三 ( 一一 一〇) 年 に権 僧正 範俊が同 法 ( 後七日御 修法) を 修した時、 「 増俊阿闍梨」 が伴僧とし て 増 益 護摩を 勤 仕 し た事が確認 で き る 。又 た『 覚禅 鈔』 の「 如法尊勝」に よれば、天 仁 二(一一〇 九 ) 年に 範俊 が同法を 修し た時に 増 俊が 伴僧 を 勤 めたと云う 。 従って 増 俊は 最初 範俊の 入 室弟 子 で あ っ た 事も 考えら れ る。 と述べられ て いる。 柴田 氏が指摘されるよ う に 、『野沢血脈集』 の み範俊―増俊とあり 、 他の血脈類には範俊か らの 付法は 見 つ か らない。 『野沢血 脈集 』が近 世 成 立 で あ る こ とか ら、多少の 疑 問が残 る 。 ( 47) ( 48) cfc
次に範俊勤修の「後七日御 修法」に増俊 が出仕した こ とを 示す記事 は、東寺百合文書以外にも『後七日 御修法部類』 ・『 御質抄』 ・『 覚禅 鈔』 「後七日 」・ 横井 清氏が翻刻さ れた永観文庫 所蔵の 『 御修 法記』 ・ 武内孝 善氏が作成さ れた「後七日御修法交名綜覧」等に同様 に見 ら れ る。 範俊が 修 し た 「如法尊 勝法」 で 増俊が伴僧を 勤めた こ とは、 『 覚禅鈔』 「如法尊勝 」 に 「 増俊阿 闍 梨 云 は く[天仁 伴僧 ] 天仁 二― 御修法」とあ る こ とか ら間違 い ない 。同 様の 記述 は『 四 巻 』・ 『 秘 鈔 問 答 』 にも 見 ら れる。 た だし、上川通 夫氏も指摘さ れ て いるが、 「如法尊勝法」 を 実際に勤 修したの は『覚禅鈔』に 天仁 二年 八月十八日、 遅 正範 俊 鳥 監 壇所に於い て 之 を 修さる。嚴覺手替りと云々、老爛に依るか。 汽 遅 八口 。( 後 略 ) とあるように 範俊が老齢 で あったためか 厳 覚 が手替り を勤 め て い る 。 加 え て 、増 俊 と 厳覚 の 接 触 は 遅くと も 天 仁二 (一一〇九) 年 八月で あるこ と がわ かる。また、 増俊が 「 如法尊 勝 法 」 に つ いて 意見 を 述 べて い るこ とは、 上 川氏・中野玄 三氏・真鍋俊照氏等 で 指摘され て いる。 こ れ ら の 記 事 から 増俊は、 「如法尊 勝法」が行なわ れ た天仁二 (一一〇九) 年 八 月 以 前に厳 覚 と接 触 し 、 範俊 (厳 覚手 替わり) が導師 を 勤めた天仁三/天永元 (一一一〇 ) 年の 「後七日御修法」 に出 仕し て い る。 そも そも範 俊 大 阿 の「後七日 御 修法 」に増俊が 出 仕 し て い るこ とは、 増 俊 と 範 俊 の関 係が 密接 で あ っ た こ と、すなわち直接の入室の 弟子 で あ るか確認 は出来な いが、その可 能性を 含 め て 少なくとも 同 じ寺家 ( 末 寺 を 含 む )に 所属し て いた こ と は言える で あ ろう。おそ ら く増俊が 厳 覚 か ら 灌頂 を 受 法したの は、範 俊 が 老 齢 の為、早 く亡くなった ため に直接受 法は出来なか った ことによ り、その 弟子 の 厳 覚より受 法したと 考 えるの が 妥当 であ ろう。 ( 49) ( 50) ( 51) ( 52) ( 53) ( 54) ( 55) ( 56) ( 57) ( 58) ( 59) ( 60) ( 61) 0123456789ab cfc
2 . 勧修寺 大 僧 都 厳覚( 一 〇 五 六~一 一 二 一 ) 柴田 氏は 「厳覚より伝法灌 頂 を 受ける事 」 の 項 で 、『 血 脈 類集記』 や醍醐寺蔵本 『 伝 法灌頂師資 相 承血脈』 を挙げ て 永 久 三(一一一 五 ) 年五月二 十 五 日 、 増俊は 朝 厳 と 同 壇 の儀にて 勧修 寺勝福 院 に於いて厳 覚 より 具 支 灌頂を 受 けた 。『 師資血脈』には 色 衆六口とも云う。 と述べら れ、 厳 覚 より灌頂 を 受 けたとさ れ て いる。 ま た 、『 御修法記』 の 「永久六年後七日御修法僧等交名事」 に は、 厳 覚 修法の後七日 御修法の 伴 僧 の一 人 に「 築 俊阿闍 梨 [息灾護 庄 ]」 とある。そのため、 「 永久六(一一 一八)年に権少僧都厳 覚が真言院後七日 御修法を 修した時、 増 俊阿闍梨は伴 僧とし て 息災護摩 を勤 仕 し てい る」 と 述 べ 、 厳覚 との 交流 を指 摘され て い る。こ れ は、 『後七日御修法部類』 ・『 御質抄』 ・『 覚禅 鈔』 「後七日 」・ 「後七 日 御修法交 名 綜 覧」 で も 同 様の 記述 が確 認 で きる 。 柴田 氏の 挙げ られた『血脈 類集記』や醍 醐寺蔵本『伝法灌頂師資相 承血脈』以外 にも、厳 覚か ら 増 俊 へ 授けた 伝 法灌 頂の 記事 は、 横山和弘・佐藤 愛 弓両氏が 翻刻された『 真言伝法灌頂師資 相承血脈 』や東 寺 観 智 院 金 剛 蔵『真言付法血脈図』 ・『 真言 附法本朝 血脈』 ・『勧修寺別当長吏補任 等古記 録 』に 見 ら れる。 ま た 「 随 心 院 流 系 図 」 ・ 『 東 寺 真 言 宗 血 脈 』 ・ 『 宝 鏡 鈔 』 ・ 高 山 寺 所 蔵 ( 『 血 脈 』 ) ( 第 四 部 第 一 四 八 函 一 九 号 六) ・『 真言血 脈 』・『密宗血 脈鈔』 等 や 坂 本正仁氏が翻刻された 『真 言相承諸流血 脈図』 「 秘密真 言 相承血脈」 、 「小野曼 荼羅寺 随心院門跡」 二、 随心院所蔵 「[小野曼荼羅 寺] 随心院門跡次第」 (第五二函三三号) ・ 随 心院 所蔵「 ( 随心院流血脈 ) 」(第 五二函 第 三五号 )・ 随 心院 所蔵『 ( 真 言 血脈) 』(第 二二函第 一一七号 )・ 随 心院所蔵 「随 心院門跡次第 」( 第五二函 三二号) ・『 安 流 伝授紀要』 ・ 随心院所蔵 『 安祥寺諸流 一 統血脈』 (第 ( 62) ( 63) ( 64) ( 65) ( 66) ( 67) ( 68) ( 69) ( 70) ( 71) ( 72) ( 73) ( 74) ( 75) ( 76) ( 77) ( 78) ( 79) ( 80) ( 81) ( 82) ( 83) ( 84) cfdc
一 〇 六 函第八二 号 )・ 随心院所 蔵「 (木食朝 意上 人所伝 血 脈) 」( 第七五 函 第七 号 )・ 随 心院所蔵「 ( 霊雲 寺開 山浄厳和上血 脈) 」( 第一四九函第一〇号 )・ 『 野沢血脈集』 ・ 随 心院所蔵 『小野 広 沢血脈 忸 東寺 長者醍醐座 主 次第 』( 第 七 五函第六号 )・ 随 心院 所蔵 「( 野沢十二 流 血脈) 」(第 六七 函第四四号) ・「 随心院 代 々 正 嫡 血 脈」 ・ 「小野曼 荼羅寺 随心院門 跡」一か ら、 範俊― 厳 覚― 増俊と繋がる法流 を 受 法し て い る こ とが わかる。 それ以外にも 、『 真言伝法灌頂師資相承血脈』 ・ 東寺 観智 院金剛蔵 『伝法灌頂相 承略記』 (兼意撰) ・『本朝 伝法灌頂師資 相承血脈』 ・ 随心院所蔵『安祥寺諸流一 統血脈』 (第 一〇六函第八 二号)か ら、 禅林寺大僧 正 深 覚 (九五五 ~一〇四三)―信覚― 厳 覚 ―増俊と伝わる法流も授け ら れ て い る こ とがわかる。 また 、東寺 観 智院 金剛 蔵『 小野方 血 脈抄 』 や 『血 脈鈔 』( 『 小 野方 血 脈 抄 』 の 別 本 )・ 『 諸門跡譜 』・ 『 本 朝 高 僧 伝 』 ・ 『 伝 燈 広 録 』 ・ 『 安 流 伝 授 紀 要 』 ・ 『 野 沢 血 脈 集』所収「門 跡相承次第」 ・「 安祥寺諸 流一統血脈」の 厳 覚 伝に付法の弟子と記 さ れ て いる。こ のうち、 『安 流伝授紀要』第二十七巻所収印信 の 中 で は、 「嚴覺 付 法中に 哩 信・宗意・增俊、 其の嫡傳は宗 意一人なり」 と厳 覚の正嫡 を 安 祥寺律師 宗意とし て い る。 こ れ ら の 記 事 から 柴田氏 の 指摘を 待 つま で も なく、 増 俊は厳 覚から永久三(一一一五)年五月 二 十 五 日 に勧修寺勝福 院におい て 伝 法灌頂 を 受法 し て いる。また 、 永久六/ 元永元(一一 一八)年の後 七日御修 法 に 伴 僧 と して 出 仕 して い る こ と が 確 認でき る 。 な お 、 増 俊 が 受 け た法 流 に ついて 詳 し く 見て いく と 、 範 俊 ― 厳 覚―増俊と伝えら れた 伝や、 信 覚― 厳 覚 ―増俊と 伝えら れ た伝 を そ れぞれ受 法し て い る こ とがわかる。 ま た 、 上 田霊城氏に よ れば、 『 仁王経法[祥] 』 所 収 「厳 覚僧都修法日記 」 の「仁王経法」について の 解 説におい て 、「元永元年四 月天下疫 祿 国土 飢饉 の災い を 攘う ために、 厳 覚 が禁 中麗景殿におい て 師 の範俊 の 手 替 り と な っ てこの 法 を修 した 」 と 述 べ られ 、そ の と き増 俊 が 「仁 王 経 法」の 法 会 に 出 仕 し 、 十 二 天供 を 修したと記さ れ て いる。 ( 85) ( 86) ( 87) ( 88) ( 89) ( 90) ( 91) ( 92) ( 93) ( 94) ( 95) ( 96) ( 97) ( 98) ( 99) ( 100) ( 101) ( 102) ( 103) ( 104) 0123456789ab cffc
3.少 輔 阿闍 梨良雅(~一一 〇 二~ 一一二二) 柴田 氏は、 良 雅か ら の 付法 につい て 「良 雅 ・ 静 誉 より 受法する事」 の中 で 『 血脈 類集記』 「八 通抄 太元 法相承次第」 に「成 筑 ―範俊 ― 良雅 ― 築 俊― 實 任 ― 」 とあ る こ とか ら、増 俊 は良 雅か ら受 法し た と 述べら れて い る 。 柴田 氏が指摘された以外に も 『野沢血脈 集 』に ― 布 覺――定 恭 * 該当 部 分 の僧 侶名 のみ を抜粋 。 傍 注 ・ 注 記等 は 省 略 し た。 ―良雅―― 築 俊 成 筑 ―― 範俊――嚴覺―― 哩 信 ―覺法 ―宗意 と記 され て い る。 他にも高山寺聖教第四 部 第 四〇 函第 二五号の 『太元 [ 良雅阿闍梨] 』 の 奥書 に 「 已上大 乘 院良雅、 中 笋 言阿闍梨 築 俊に授ける 」 とあり、 良雅 の 伝承し た 「 太元法」 を 増 俊に伝え た こ とが知ら れる。 また 、 上 田 氏 も 「 太元法」 を良 雅 が 増 俊 に伝 えた こと を指 摘さ れ て いるよ う に、 増 俊 は良 雅か ら 「 太元法」 を 受 法した こ とに間違いな い で あろう。 4.越前阿闍梨静 誉( 一〇七八~一 一一五~ ) 柴田 氏は、 静 誉か ら の 受法 につ い て 『諸 流灌頂秘蔵鈔 』「 勧修寺 ( 小野 ) 静 誉方 」 の 「小野 血 脈」 に成 尊 ―範 俊 ― 静誉 ―増俊 ― 禅 然 と伝わ る 血 脈を 挙 げ 、 静 誉から 受 法 し た と 述べら れ て い る。 ま た 、醍醐 寺 蔵 本 『伝法灌頂師 資相承血脈』 を引用し て 、「静 誉はまた 増俊より一年 遅れ て 永 久四 年四月に厳 覚 より灌頂 を 受 けて いて 、 静 誉 と 増俊 は 同 法で も あ る 」 と 指 摘 さ れて い る 。 ( 105) ( 106) ( 107) ( 108) ( 109) ( 110) cfc
柴田 氏は指摘され て いない が 、「 小野血 脈 」と同 様 の 血 脈が『諸流 灌 頂秘蔵鈔 』「 小野 三流血 脈 忸 高野 中 院流血脈」 に も記され て い る。 こ れ 以外 に資料 は 見 ら れない。 やはり増俊は静 誉 か ら 受法した の で あ ろ う。 5.小野阿闍 梨蓮 光房良勝(一〇七九? ~一一五九~(一一 六 一以降 か )) 柴田 氏の指摘 は 見 られない が、 『安流伝 授紀要』によ れ ば 《○ 傍 廣澤方 》 《○ 傍 隨心 院 始 祖 》 《○ 傍 大法 房 》 《○ 傍 土橋》 良雅 ――良 布 ――增俊―― 實任 ―― 筑 實 とあり、 良勝から 受法し て いる。 良 雅か ら 良 勝を 通じ て 増 俊に伝えら れ た法流は、広 沢方の法流と 見ら れ る。詳しくは拙稿で 述 べ た が、 良雅は 円 城寺僧正禎喜 (一〇九九~ 一一八三)か らも広沢方の 法流 を 受 法 し て おり、 良 勝が 良雅から受法した広 沢 方の法流と さ れる。 良 雅は禎喜からも広沢方の法流を受法して お り、 それは 良 勝が 良雅から受法した広 沢 方の法流とい うの は、禎喜 に繋がる法流 で な いかと思 われる。 良 勝を 通じ て 広 沢方の法流も受法した可能 性 がある。 6. 勧 修 寺 僧 正 信 覚(一 〇 一 一 ~一〇八 四 ) 信覚 か ら の 受 法 に つ い ても柴田 氏の 指 摘 は見 られ な い が 、 随 心 院 所 蔵『安 祥寺 諸 流 一 統 血 脈 』によ れ ば 成 筑 ―― 範俊―― 厳 覚 ――宗意 * 該当 部 分 の僧 侶名 のみ を抜粋 。 傍 注 は 省 略し た。 深 覚 ―― 信覚―――― ――増俊 ―寛信 ―良勝 ( 111) ( 112) ( 113) ( 114) 0123456789ab cfc
とあり、 深 覚 ―信覚―増俊と厳 覚 を 経由せずに授法さ れ て いる。 翻 刻された大橋 直義氏によれ ば、 『安祥寺 諸流一統血脈 』は江戸中期の 写 本とされ 、時代が下るため 疑問が残 るが、信覚か らも直接に受 法した 可 能 性が考 え られ る。信覚 は厳覚の前の勧修 寺長吏 で あり 、広沢方の法 流 を 相承し て いる。名前の 上か ら 見 て 厳 覚 は信 覚の入室 の弟子 で あろ う。 増俊が厳 覚から 受 法し て い ることは、 そ の信覚から の 法流 を 受 法 し た 可 能 性が考 え られ るし 、併 せ て 厳覚 を経 ずに信覚 か ら 直 接受 法した 可 能 性 も否定 は 出来ない。 他 に資料は 見つけら れなかった。 7.三宝 院大僧正定海 ( 一〇七四~ 一 一四九) 師弟関係 で は ないが、定海 との関わりも認め ら れ るか もしない。柴田氏は「定海 ・寛信の後七 日法伴 僧 を 勤 め る 事」 におい て、東 寺 百合文書ふ函収載の「真 言 院後七日御 修 法請僧 交 名 」 を挙げ、定 海 が後七日 御修法の導 師 を 勤 めた保 延 二(一一三六 )年・康治二 (一一四三)年に増俊が伴僧 を 勤めた こ とを 指 摘 さ れて い る 。 増俊 の配役について 柴 田氏は論 じら れ て いないが、 「 真言 院後七日御修法 請 僧交名」 ・『 御修法記』 ・「後七 日 御 修法交 名 綜覧」に よれ ば、 定海が導師 を 勤めた保延二(一一三六)年には息 災 護摩、 康 治 二 (一 一 四 三)年には伴僧 を 勤め て い る。 こ れ 以外 に定海と増俊 との 接点が認 め ら れる記事 は 見 当た らな い。 基本的 に 「後 七日御修法」 の 伴 僧 は 範俊の と ころ でも 述べたよ うに 、同じ寺家の 僧 が 勤め るもの で ある が、 必ずしも他 寺 僧が中に入 ら ないとは限ら ない。 定 海は 醍醐寺僧 で あ り、範俊、厳 覚は それぞれ興 福 寺 僧、 勧修 寺僧 という 仁 和 寺 系 の 僧侶で あ る。も し 定海 大 阿 の伴 僧を勤めた増俊が随心院の増俊 で あ る な ら ば、まさに他寺僧 で あ りながら 勤仕し た 可能性が推測される。 ( 115) ( 116) ( 117) cf c
8.勧修 寺法務寛 信( 一〇 八四 ~一 一五三) 寛信も定海と同様師弟関係 で は ないが、柴田氏は 増俊 との関係につ い て 述べら れ て い る。その 中 で 、 寛 信は後七日御 修法を 修 法した 永 治二/康 治元(一一四 二)年・康治 三/天養元( 一一四四)年 ・天養 二 / 久安元(一一四五)年に後 七日御修法を修し て い る。その法要に増 俊が出仕した こ と を 東 寺百 合文書ふ 函 収載の「真言院後七日御修 法請僧交 名」 を挙 げ て 指摘され、 増俊 の 後 七日御修法出仕の傾向につい て 増俊と 同 じく長期に亘っ て 東寺灌頂院阿闍梨 で あ っ た 長朝・賢円が大阿闍梨の本寺が 仁和寺・醍 醐 寺 の如何を 問わず伴 僧に 出仕し た のに対し て 、 増俊 の場 合は 醍醐(小野)系の大阿に限ら れ る の が注意 される。 と述べられ て いる。 次に柴田 氏は『権律師寛信 授灌頂於両人 記』 を挙げ て 、寛信が天承 二/長承元( 一一三二)年 十月十 六 日に安祥寺已 講念範 ( 一〇八八~一一三 二~) ・ 勧修寺慈 尊院開基 行海 (一一〇九~一一八〇 ) に 灌頂 を授 けた こ と を取り上げ ら れ て いる。そし て 、増俊がその 灌頂におい て持金剛衆十二人の一人 を 勤めたと 指摘 され て い る。 さ ら に柴田氏 は『覚禅鈔』 「仁王経」 を 挙げ、 「 天養二(一一四五 )年五月に権 大僧都法務寛 信が土 御 門 内裏 昭陽舍に於 て 公 家 御祈仁王経 御 修法 を 修 し た 時の 伴 僧 二 十 口の 中に 「 僧 俊 ( ママ) 阿 闍梨」 が 見え る 」 と指摘され て いる。 最後に柴田 氏 は『覚 禅 鈔 』「如法尊勝」 を引用し、 「 久安三(一一四七)年十月 十四日に白河 金剛勝 院 に 於 て 鳥羽上皇 御 祈 に寛信法 務が如法尊勝 法 を 修した時 の 伴 僧 二 十口 中にも増 俊阿 闍梨 がいた」 と指摘 さ れ てい る 。 ( 118) ( 119) ( 120) ( 121) 0123456789ab cfec
こ の よ う に柴 田 氏 は四つの 資料 を挙げ、 寛信と増 俊の 関わりにつ い て 述 べられ て いる。以下少 しく 見 て いき たい。 後七日御修法 に増俊が出仕した時の配役 は、 「真言院後七日御修法請僧交名 」・ 『御修法記』 ・「 後七日御修 法交 名綜 覧」から 見るこ と がで き る 。こ れら の記 事によれば 、 永 治 二 / 康治 元(一 一 四二 ) 年 に伴 僧 、 康 治三/天養元 (一一四四)年に増益護摩 、天養二/久 安元(一一四 五)年に息災護摩 を 勤 め て いる。 寛信が念範 ・ 行海に授けた 灌頂に増俊が 持金剛衆の一 員とし て 参加 した こ と は、 『権律師寛信 授灌頂於両 人記 』 の 記 事 から 柴 田 氏 の 指摘 され た通りで ある 。 配 役 に ついて 柴 田氏 は 述 べられて いな いが、 『 権 律 師寛 信授灌頂於両人記』 に 増俊 が護摩 を 修した 記 事が 見 ら れ、 「請僧交名」 にも 「 築 俊阿闍梨 [護 庄 ] 」 と あ る 。 『 血 脈 類 集 記 』 「 寛 信 付 法 」 に 記 さ れ る 行 海 ・ 念 範 に 対 す る 灌 頂 の 記 事 に も 、 「 築 俊阿闍梨 [ 護 庄 ] 」 と 記 さ れる。 こ の こ とか ら、増 俊 は寛信が執り 行った 灌 頂に おい て 護 摩 導 師 を 勤めたの で あ ろう。 また 、 柴 田 氏 は灌頂が行な われた 日 付につい て 天 承二/長承元 ( 一 一 三二) 年 十 月 十六日とさ れ て い る 。 『血脈類集記 』「 寛信付法 」に記される 行海・念 範に 対する灌頂の 記事 では十六 日となっ て い る。しかし、 『権律師寛信 授灌頂於両人 記』に「長承 元年十月十六 日 癸卯天 役 れ。 明 日 大 法 師念範 ・ 行 恭 等、 共 に 灌 頂 の大道 を 受く べし (割書 き は省略) 」 と あり、 後 に記された灌頂の 請僧交名にも十七日とある こ と か ら 、 天 承二/長承元 ( 一一三二) 年 十月十七日 で あろう。 『 権 律師寛信授灌頂於両人 記 』 は 『 真言宗全書』 の解題 によれば、寛 信によっ て 天 承二/長承元 ( 一一三二)年十月十六日 に書かれた も の で あり、きわ め て 信 憑 性が高い。時 代の下った『 血脈類集記』の 記 事 は 誤記 で あ ろう。 次に 『覚禅鈔 』「 仁王経」 の記 事に つい て 見 て い く。 寛信が天承二/長承元 ( 一一三二) 年 に内裏昭陽 舍 に て 「仁王経」 を 修した こ とは 『仁王経法勤例』 にも 記され て おり 、 間 違いない で あ ろう。 ま た 『 血脈鈔』 ( 122) ( 123) ( 124) ( 125) ( 126) ( 127) ( 128) ( 129) ( 130) cfc
(野 )に 天養 年中に 〈 ○ 朱 康治二年 イ 〉 法 務 ( 寛信) 仁 王 經 法 を 勤仕す。 【 補 入 ○ 朱 天養 年中に 如 法 筑 布 法 を 勤仕す】 增俊其 の 時 汽 遅 たり。 ( 後略) *( )は 著 者 に よ る 注 。 とあり 、 別本 の東寺 観 智院 金剛 蔵 『 小野 方 血 脈抄 』 に もほ ぼ同 様の 記述 がある。 『 大 正 蔵 』 所 収の 『覚 禅鈔 』 「仁王経」の 請僧 交名 に記される「僧 俊 」とは、主 に 増上寺本を 底 本とする『大 日本仏教全書 』や 『大 正 蔵』が主 に底 本とする勧修 寺本その もの では「増 俊」 となっ て おり 、柴田 氏の指 摘 されるよ う に 増 俊 の単 なる誤植 で あ ろ う 。 な お、 『血脈 鈔 』 の イ本に 「 康治 二年」 と あるのは、 寛 信が康治二 ( 一一四三) 年 に宮 中におい て 「 如法尊勝法」 を修し て おり 、その時増 俊 が出仕し て い た こ とか ら混同したため で あ ろ う。 最後に後七日御修法におけ る寛信と増俊の関わりに つ い て 見 て いく と、 増俊が出 仕した時の後 七日 御 修 法 の 導 師 は 「 醍醐(小 野)系の大阿 のみ」と述べら れ て い る。しかし、小 野 の法流を 伝え る 安 祥寺・ 勧 修 寺・随心院 は こ の 当時 す で に仁和寺の 末 寺 と なっ てお り 、 信覚 は仁 和寺僧 で あり 、寛信、厳覚 も同 様で あ る。小野 曼荼 羅寺も仁和寺 僧成 尊が仁海 より相伝した 時か ら 仁 和寺 の末寺となっ て い る。安祥寺も同様で ある。した が っ て 小野 三流 は仁和寺系 に よ っ て伝 えられた 小野の 法 流 で あり 、醍 醐寺 に伝 えられた醍醐三 流とは異なっ て い るの で 、 醍醐と小野 を 一緒にするの は間違い で あ る。よっ て 、 範俊・厳 覚・ 寛信は 小 野 仁和寺系僧 で あり、 定 海の みが醍醐寺系 で あ る た め、 「醍醐 ( 小野) 系 の大阿の み」 とはいえない。 増 俊 は 醍醐僧 で ある定海の「後七 日御修法」に も出仕し て お り、小野仁和寺系僧・醍醐僧の両方と関 わり を 持 っ ていた と 言 え る だ ろう 。 ( 131) ( 132) ( 133) 0123456789ab cfc
9.伝授の弟子 柴田 氏は 「入滅と付法の 事 」 におい て、 先に挙げた 『 血脈類集記 』「増俊付法」 と醍醐寺蔵 本 『伝法灌頂 師資相承血脈 』「 随心院流」の増俊付法 に 阿闍梨増 俊― 顯嚴[ 大 輔 権小僧都 左大 弁宰相顯業猶 ―] 『仁 平四―正―十 九―印信を 与 ふ。 年卅 九 / 嘉承二―八 ― 十四―入― 〔 六十八 〕』 とある こ とか ら、増俊は大 輔阿闍梨顕 厳 に仁平四/嘉 応元(一一六 九)年一月十 九日に灌頂( 印信)を 授 与したと述べ ら れ て い る。 柴田 氏は、そ れ以外 に も醍 醐寺蔵本『 伝 法灌頂師資 相 承血脈』より 、醍醐寺妙法 院阿闍梨覚暹 (生没 年 未詳) ( 重受 )、 仁和寺三河 阿 闍梨勝円 ( 生 没年未詳) 、 仁和寺 大 法 師 観鏡 (生没 年 未詳) の 三人の 付 法 の 弟 子がい た こ と を 指 摘 さ れ て いる。 「 覚暹(重受) 」と記 さ れ た のは、 覚 暹 の 名の 下 の 割書き に 「前に靜譽 よ り受く、また 宗觀より受く」とあるため で あ ろう。 増 俊 の 顕 厳へ の 付 法の 記事 は、柴田 氏が 挙げ られた 資 料 以 外 に も『 血 脈 類集 記』 の 「 顕 厳付法 」 に 《○ 傍 十三 代。 增 俊 弟 子 》 權大 遅 綾 顯嚴 [ 付 法一人 ] 裏書 顯嚴の 事 左大 弁辨宰相顯業の 着 子。 實は助 辻 中原廣忠の子なり。隨心院と號す。阿闍梨增俊の 付 法。壽 永二年八月十四日卒[八十八] とあり、付法の 弟 子に唐橋 大僧正 親 厳( 一一五一~一 二三六)の名 が見 られる。 他にも顕 厳が増俊の付 法 の弟子と記す資料は、 東寺 観智院金剛蔵 『真言付法血 脈 図 』 ・ 『 真 言 附 法 本 朝 血 脈 』 ・ 東 寺 観 智 院 金 剛 蔵 『 小 ( 134) ( 135) ( 136) ( 137) cfc
野方血脈 抄』 ・『 血脈 鈔』 ( 野 )( 『小 野方 血脈 鈔』 の別本) ・「 随心院 流 系図」 ・ 随心 院所 蔵 「( 随 心 院 流 血 脈) 」・ 随心院所蔵 『(真言血脈) 』・ 『安流伝授 紀 要』 ・ 随 心 院 所蔵 「( 木食朝意上人 所 伝 血脈) 」・ 随 心院所蔵 「( 霊雲 寺開山浄厳 和上血脈) 」・ 『 伝 燈 広 録 』・ 『野沢血脈集』等に 見 ら れ る。 覚暹、 勝 円 、 観鏡の名 は、 「随心院流系 図」 にも見 ら れる。 「 随心 院流系図」 に 記された覚暹の右 側には、 「妙法院阿闍梨醍醐重受」 とあり、勝円 の下の割書 き に「 務 書也」 と あって 右 側に「三河阿闍梨仁和 寺 」 とある。観鏡の 下 の割書 き には「仁和寺 」 と 記され、醍醐寺蔵本『 伝 法灌頂師資 相 承血脈』と 相 違点は 見 られ ない 。た だ勝円 の 下の 割 書 きに「 務 書也」とある意味は 不 明 で ある。 それ以外にも、 増 俊は 実任・禅然(生没年未詳)に対し て 授法し て いる。 勧修寺 大 法房 実 任 への 授法 は、 詳細 は拙 稿に記したの で 省くが、 『 血 脈類集記』 の 「範俊付法 」、 『 安流伝 授紀要』 「広沢方血脈」に 記され て おり 、 『 血脈類集 記』には仁海 ―成 尊 ― 範俊―良雅―増俊―実任と繋が る随心院流血 脈が載せ ら れ て い る。一方 で 『 安流伝授紀要』 で は 良 雅―良勝―増 俊 ― 実任と繋 がる良雅相 伝の 広沢方 と さ れ る法流 を 実 任 に 授 法し てい る。 禅然への 授法 は、 先に静 誉 か ら の受法 で 挙げた 『 諸流 灌頂秘蔵鈔 』「 小野 三流血脈 忸 高野 中院流 血 脈」 ・『 諸 流灌頂秘蔵鈔 』「 勧修寺 ( 小野 ) 静 誉方 」 の 「小野血 脈」 に、 成 尊 ― 範 俊―静 誉 ―増 俊― 禅然 と伝えられる 法流が見 られ る。 また 、『 密教大辞典 』 の随心院流血 脈によれば禅 然の 伝える法 流は随心院流の傍流とされ てい る 。 以 上 か ら 、 増 俊 は 厳 覚 、 良 雅 、 静 誉 、 良 勝 、 信 覚 か ら 法 を 授 け ら れ 、 法 流 授 受 の 記 事 は 認 め ら れ な い が 、 範俊と密 接な 関係 を持っ て いる。また 、 寛信との 関係 も認め ら れる 。定海 と の 関 わり も認め ら れるかも し れない。顕 厳 、実任、禅然 、 覚暹、勝円 、観鏡に法 を授け て おり、 こ の中 で 顕 厳のみ受法の年 次 が判 明し ( 138) ( 139) ( 140) ( 141) ( 142) ( 143) ( 144) ( 145) ( 146) ( 147) ( 148) ( 149) ( 150) ( 151) ( 152) 0123456789ab cfc
てい る 。 六. 増 俊 の 住 房に つ い て 増 俊 時 代 の随 心院 につ い て当時の資料 は見つかっ て お ら ず、 その様子は明 ら か でない。上島氏 は 、 先 行 研究とし て 玉 島氏 の『随心院史略』と林亮勝氏 の 執筆 された『国史大辞典』 「随 心院」 を 挙 げ ら れ て い る 。 なお、 二 つの 先行研究が典 拠とし て いる 『諸門跡譜』 の随心院歴代院主の 記 事 は 、「 顕 厳 」 と 「親厳」 の項 目に間 違 いが見 ら れると指 摘 さ れ て いる。 そ のため 、「 『 諸門跡譜』をはじめ と する随心 院院主次第 は近 世に 作成されたもの で 、江戸時代の歴 史 認識を反 映し た史料で あり、記載内容の扱 い には慎重でなけ ればならな い 。『 諸門跡譜』 な ど後 代の史料を参 照しつつも、 でき る限り同時 代 史料に基づき、 歴 史を 叙述 す る 必 要 が あ る」 と述 べ ら れ て い る 。 また、上島氏は『仁和寺御日次記』 、 『 東寺長者補任』に記 さ れた 親厳の 記 事か ら「建 保 四(一二一六 )年、随心院 は朝廷の 祈願 所となり、阿闍梨 が設置さ れ、その後 も加増され、 親 厳の時 代 に は 随心院へ計 五 口の 阿闍梨 が 置かれた」 こ と を 指摘さ れ 、「 阿闍梨の 設置 は、 随 心院 で の 後継 僧 養 成 が 公的 に認め ら れた こと を 意 味し 、それ は 随流 が祈願 所 随心 院 を 拠点とし て永く 継 承 されるべき 法 流とし て 公 認 された こ とを示し て い る」 と述べら れ て いる。 また 、『 野沢 血脈集』 「第 十六成 尊 」 に は、 「『 杲寶血 脈 鈔』 に云はく、 隨 心院 は小野 曼 荼羅寺 の 一院なり。 中 笋 言阿闍梨 築 俊の 住坊な り 。後九條の 唐 橋へ渡し了 ん ぬ 。 親嚴 遅 正を 唐 橋 の 遅 正と 云ふは 此 の故な り 。 其の 後 當 寺の 隨心院 へ 渡 る なり」 と 記さ れ て い る 。上 島 氏 は『野 沢 血 脈 集 』 に引 用さ れた 『杲 宝血 脈 鈔 』 に引かれた 記事 を挙げ、 「厳覚の資増俊は 曼荼羅寺近く に住 房を 構え、 それが 随心院と呼ば れた といえ よ う 」 と 指 摘 さ れ て い る 。加 え て 、当 時 の 唐 橋 は 東 寺 の 近 辺 で あ る と 推 定 さ れ た う え で 、「 後 九 條 の 唐 橋 へ 渡 し 了 ( 153) ( 154) ( 155) ( 156) ( 157) cfdc
んぬ」 と され て い ると ころから、 親 厳が随心院そのもの を 九条唐橋 に移転したものと理解され 、「 杲宝が指 摘するよ うに 、随心院 は増 俊の 住房 を起 源とし て おり 、親厳が東寺 長者になり東 寺近辺 に 移 転 した とす る なら 、 こ の段階で は、 随心院は 本尊や 堂 宇を 有す 寺院 という よ りは、 「 唐橋房」 と記 される よ うに住 坊 とし て の 性格が強 かったと考 え ら れ る」と述 べら れ て いる 。そし て 、親 厳 の 時代にお い て も「未だ独立し た 寺 院 と して 確 立 し た と は い い が た い 」 と さ れて い る 。 そ の 根 拠 と して 、 一 条 実 経 ( 一 二 二 三 ~ 一 二 八 四 ) 息 で 随 心院門跡 で あ った 金剛 王院大僧正静 厳が、随心院 大僧正 厳 家( 一二七三~一 三〇六)に堂 宇・聖教 ・ 本尊・道具・門跡領等 を譲 る譲状 を 出すま で 譲状が存 在しなかった こ と を挙げ、静 厳 時代にな っ て 随 心 院 が「独立した 寺院 とし て 確 立」した と述 べ ら れ て いる 。随心院 が親 厳の東寺 長者 就任にともな い、唐橋へ 移転 し た のは、 寺 院と し て の機能が 不十分で あっ たために 起き たとされ て い る。 以上の こ とか ら、 「増 俊 ・ 顕 厳 段階 では 、 随 心院 は一 住房 にすぎ ず 、 法 流の 拠点 とし ても、 ま た寺院 と し ても 、そ の 実 態 は 乏 し か っ た 」 と 指 摘さ れ て い る 。 中山氏も 上島氏 の 説を 受け て 、『小 野曼荼羅 寺略 縁起』 の 「當 寺第 五世 增俊阿 闍 梨、 之 を 補す。 爾 れ從 り 以降三 台 槐門の 筑 胤を 樽 ひ累代一山の法 務 を崇む。 是れ を隨心院御 門 跡と稱 す 」 を 挙げた上 で、 「 こ れなど は明 らか に近 世の寺 伝 認 識 に基づ い て作 成さ れ て いる 。増 俊の 住房 が随心院の 起 源と成 っ た こ と は 間違い ないにし て も 、法流とし て 認め ら れ 、 寺 領も整備され だす のが親厳の代 で あ り、摂関家子息の入寺は 静 厳 が初 め て で あ る こ とは、既 に上島論によ っ て 明 ら かにされ て い る。従っ て 『 略縁 起』 の 記 述は随流始 祖 増 俊とする門跡 伝類等の 記事 に基づくもの で あ り、増 俊 の事績 を 強調 した 記述 をし て い る」と述 べられて い る。 その上 で 、「 随心院流系図」 の 増俊に つ い て 「扱いが非常に 寂 しい」 と し、 親厳に つ い て は 「 誰の目 に も 留 まる ように 書 か れ て い る 」 と 述 べられて いる。 ま た、 『 野 沢血脈集』 「 随心 院門跡相 承 次 第」 を 挙 げ、 「『 杲 ( 158) ( 159) ( 160) ( 161) 0123456789ab cffc