東北シャマニズムにおけるコミュニケーション行為 の諸相―宮城・山形両県の口寄せ巫女の共同祭祀を 題材に―
著者 平山 眞
学位授与大学 東洋大学
取得学位 博士
学位の分野 社会学
報告番号 甲第73号
学位授与年月日 2001‑03‑25
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00004063/
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懸 内 で ミコ のこ と を ど ん な 名 称 で 呼 ん でい る か を 一 応 たず ね て 見 た が、 次 の 結 果 を 得 た。
庄 内 地方 、 及 び 飽海 地 方− − ミ ゴ 、 又 は ミ ゴド 村 山 地方 、 最 上 地 方 一 一 オ ナ カ マ
置 賜 地方− ワ カ
以 上 の よ うに 邸内 だ け で も 三 種 の 全く 違っ た 呼 称 を もっ てい る が 、こ れ ら の ミ コ は 死 人 の 「 口 よせ 」 だ け で なく 「 神 よ せ 」 を も併 せ 行っ てい る。[ 同:18]
とい う 事 で あ る 。
そ の 後 、 庄 内 地 方 に 関 し て は 、 戸 川 [1952 、1954 (1986 )]、 佐 藤 ( 光 )[1958 、1988 ]、
岡 田 照 子 [1951 (1977 )、1952 、1961 ] が 、 内 陸 部 に 関 し て は 桜 井 ( 徳 )[1969b (1974 )]、
月 光 善 弘[1959 、1961 ]、烏 兎 沼 宏 之[1981 、1987 、1991(2000 )]、松 崎 憲 三 [1992a (1993 )]、
鈴 木 清 訓 [1994 ] 等 に よ っ て 研 究 が 蓄 積 さ れ て 来 た 。 と は 言 え 、 多 く の 課 題 が 積 み 残 さ れ て い る の が 現 状 で あ り 、 本 論 文 は そ う し た 情 況 に 一 石 を 投 じ る 目 的 も 持 っ て い る 。
と こ ろ で 、 第1 章 で 触 れ た 通 り 、 石 津 照 璽 等 に よ る 調 査 結 果 が 岡 田 重 精 に よ っ て ま と め
ら れ て お り 、 こ れ に 若 干 な が ら 県 内 の 巫 女 の 成 巫 過 程 や 業 態 が 示 さ れ て い る [ 岡 田 ( 重 )1977:230‑233
]。 こ の 資 料 は 、 確 か に 不 備 な 点 も 多 い の だ が 、 他 に 参 照 し 得 る 文 献 も 限 ら れ て い る の で 、 県 内 の 巫 俗 の 概 観 の た め に 、 同 報 告 書 の デ ー タ を 以 下 に 列 挙 す る 。 項 目 ・ 表 記 は 同 報 告 書 に ほ ぼ 従 い 、 そ れ ぞ れ 、 ① 在 地 ② 年 齢(≪)③ 入 巫 年 齢 ・ 時 期 ④ 修 行 期 間 ⑤ 前 行 ⑥ 入 巫 式 ⑦ 憑 神 ( 原 文 で は 憑 霊 ) ⑧ カ ミ オ ロ シ ⑨ 口 寄 せ ⑩ そ の 時 期 ⑨ 他 の 業 態 ⑩ 備 考
⑩ 筆 者 に よ る 注 記 で あ る 。「 − 」 は 記 載 無 し ま た は 意 味 不 明 を 示 す 。
【庄内地方】
S・F : ①鶴岡市②35 ③30 歳・1947 年④1 年⑤14 日⑥−⑦−⑧幣⑨数珠⑩半年過ぎ⑨ジ ュズ占、祓、オコナイサマ⑩弱視⑩−。
H・S : ①鶴岡市②34 ③16 歳・1935 年④1 年⑤21 日(参観)⑥死装束⑦−⑧扇、鈴⑨ジ ュズ⑩新口(葬直後)⑨ジュズ占⑩10 歳で失明⑩後述のように、在地は西田川郡温海町 小岩川が正しい。
【村 山 地 方 】
0・S : ①村 山 ②69 歳 ③− ④ − ⑤ − ⑥ − ⑦− ⑧ − ⑨ − ⑩100 日 過ぎ ⑨ − ⑩ −。
H・S : ①村山②52 歳③11 歳・1912 年④4 年⑤21 日⑥神つけ式、嫁姿⑦お十八夜⑧ジュ ズ、トトサマ⑨弓⑩−⑥−⑩−。
Y・某:①村山②19 歳③9 歳・1943年④5 年⑤ フ日⑥神っけ⑦一⑧トトサマ⑨弓⑩100 日 過ぎ⑨八卦占、祓、祈祷⑩−。
Y・N : ①村山②−③9 歳・−④2 年⑤21 日⑥−⑦お十八夜⑧−⑨−⑩−⑨−⑩−。
Y・Y : ①村 山 ②31 歳 ③9 歳 ・1930 年 ④4 年 ⑤7 口 ⑥神 つ け 式 、嫁 姿 ⑦ お 十 八 夜 ⑧ ジ ュ ズ 、 トト サ マ ⑨弓 、 ジ ュ ズ ⑩100 日 過 ぎ ⑥ 八卦 占 、 祓 、 祈 祷 ⑩ − ⑩ 後 述 の東 村 山 郡 中 山 町 の オ ナカ マ で あ る。
S・T : ①村 山 ②29 歳 ③11 歳 ・1935 年 ④5 年 ⑤100 日 ⑥神 つ け ⑦ − ⑧ジ ュ ズ 、ト ト サ マ ⑨ 弓 ⑩75 か ら100 日過 ぎ ⑥ 八卦 占 、祓 、祈 祷 ⑩ − ⑩ 後 述 の 寒 河 江 市 谷 沢 の オ ナ カ マ で あ る。
【置賜地方】
u ・某:①置賜②71 歳③8 歳・1889 年④−⑤−⑥神つけ⑦お十八夜⑧ジュズ⑨弓⑩−⑨
−84 −
−⑩−。
I・S : ①置賜②45 歳③11 歳・ 1919 年④2 年⑤100 日⑥神っけ式⑦−⑧ジュズ、幣⑨弓⑩
−⑥−⑩−。
庄 内 及 び 置 賜 地 方 の 事 例 が 少 な い の が 残 念 な の であ る が 、 庄 内 地 方 のH ・S 巫 女 が葬 儀 後の 口 寄 せ を 宮 城 県 北部 同 様 に 「葬 直 後 」 に 行 な っ てい た、 とい う事 実 は 見逃 す 寺 苧 宍 来 ない 。 こ れ は 、『 八 久 和 の 民 俗 』 とい う小 冊 子 に 、 東 田川 郡 大 泉 村 大 字 上 田 沢 字 八 久 和 で は「 ト モ ラ イ ( 弔 い : 筆 者 注 ) の 翌 日 に、 ミコ ヘ 行つ て きい た も の であ る が 今 は き か ない こ とが 多 く なっ た 。」[ 庄 内 民 俗 学 会 編 1953 →1954:107 ] とい う記 述 か お る 事 に よっ て も裏 付 け ら れ る。 こ の表 か ら 読 み 取 れ る 通 り、 山 形 県 内で は、 口 寄せ は 百 ヶ 日 過ぎ 、 とい うのが 一 般 的 な の で あ る 。
次 に 、 県 内 の 口寄 せ 巫 女 に 関 す る 唯 一 の総 合 的 な 調 査・ 研 究 と 言い 得 る、 烏 兎 沼 に よ る 全県 の巫 俗 の1987 年 当時 の 現 状 に つい て の 要 約 を 見る 事 に する 。
烏 兎 沼 は 、 県 内 の 「 口 寄せ 巫 女 は 、 私 の調 査 で は 、 昭 和 の始 め (マ マ ) に は一 四〇 人 ほ ど存 在 し て い た が、 現 在 で は わず か 一 〇 人 ( 下 記 資 料 に 拠れ ば12 名 : 筆 者 注) が 、 商 売 と 呼 ぶ巫 業 を 続 け て い る に 過 ぎ ず 、 絶 滅 に 瀕 し てい る 。」[ 烏 兎 沼 1987:136]、 と 述 べ て い る が 、 筆者 の 調 査 に よ れ ば 、2000 年 の 段 階 で は 更 に 減 り、5 名 (庄 内 地 方3 名 、 村 山 地
方2 名 ) が残 る の み で あ る。
烏 兎 沼 は 、 県 内 の 「村 巫 女 系 統 図 」 を 作成 し て い る が [同:138‑149]、以 下 、こ れ を ま と めてお く。O 内 は 、1987 年 当 時 巫 業 を 続 け てい た巫 女 の 人数 で あ る。
【村 山 地 方 】
1.上 山 系 ( オ ナ カ マ ) 6 名 (O)2 冲 山 ・ 山 辺 ・ 山形 系 ( オナ カ マ )20 名 (1)
3.谷 地 ・ 寒 河 江 系 ( オナ カ マ ) 29 名 (1)4.
東 根 系 ( オ ナ カ マ ・ ボ サマ ) 3 名 (O)5.
尾 花 沢 系 ( オ ナ カ マ ) 13 名 (2 )
【最 上 地 方 】
6.金 山 ・ 真 室 川 系 ( オナ カ マ サン )7.
戸 沢 系 (オ ナ カ マ サ ン )
10 名 (2 )7 名 (1 )
【 置 賜 地 方 】
8. 赤 湯 ・ 宮 内 系 ( ワ カ ・ ワ カ サ マ )15 名 (0 ) 9. 屋 代 系 ( 竹 の 森 ) ( ワ カ ・ ワ カ サ マ ) 7 名10.
屋 代 系 ( 一 本 柳 ) ( ワ カ ・ ワ カ サ マ ) 7 名11.
米 沢 系 (58) 6名12.
白 鷹 系 ( ワ カ ・ ワ カ サ マ ) 2 名13.
川 西 系 ( ワ カ ・ ワ カ サ マ ) 4 名
【 庄 内 地 方 】 14.庄 内 系 ( ミ コ )
1
1
0
0
0
6 名 (3 )
(37)
最 後 ゛)ヽ 庄 内 地 方O ミJ に ゛l/^て はヽ 鶴岡 市(D 呂M 巫 女ヽS‑T 巫 女O 名 が 挙げ ら れ て い る 他 、 飽 海 郡 遊 佐 町 に は3 名(2 名 が 当 時 現 役) 、 東 田川 郡 余 目 町1 名 の 存 在 の み が示 さ れ てい る が 、 系 統 は示 さ れ てい ない[ 同:149]。 ま た 、こ の 中 に は、 以 下 で 筆 者 が 例示 する7 名 の巫 女 は 含 ま れ てい な い。
以 下 で は 、 日本 海 に 面 し た 有 数 の 穀 倉 地 帯 で あ る庄 内 地 方 と 、 内陸 の最 上 ・村 山・ 置 賜 地方 の 二 つ の地 域 に 分け て、 県 内 の 口 寄 せ 巫 女 と そ の共 同 祭 祀 の 事 例を 中 心 に 記 述 し てい‑
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く 事 に す る 。
2‑1‑2 県 内 の 村 落 構 造
同 県 内 の 村 落 構 造 につ い て も 触 れ て お き たい 。 前 述 し た よ うに 、県 内 の 「 契 約 講 」 に つ い て は 、 高 橋に よ っ て 「 近 隣 組 織 な い し 講集 団 」 的 な 要 素 が 強い 事 が指 摘 さ れ てい る [ 高 橋他 1978:173]。 ま た 、 庄 内 地 方 で は 契 約 講 は 殆 ど 見 当 た ら ず [ 高 橋 他 1981:36]、 西 田 川 郡 温 海 町 に 「契 約 姉 妹 」 とい う慣 行 が あ る 程 度 、 と さ れ る [ 高 橋他 1978:173]。 ま た 、 県 内 陸 部 に 関 し て は 、 南 部 で は 「 ム ラ 契 約 とみ な し う る 」 の だ が、「山 形 県 北 部 と中 部 で は契 約 講 の 組 織 や 機 能 に 相 違 が み ら れ 、 前者 が 葬 い 契約 (葬 式 講組 ) を 主 体 とす る の に対 し 、 後 者 で は 概 ね ム ラ 契 約 とし て 村 落 自 治 機 構 に な っ てい る。」 と し て 、 そ の 地 域 的 な 相 違 を 指 摘 し て い る [ 高 橋 他 1981:88]。 ま た 、 同 論 文 で は 前 節 で 触 れ た宮 城 県 牡 鹿 半 島 の 年齢 集 団 的 な契 約 講 の 存 在 に 触 れ 、 山 形 県 内 陸 部 につ い て はそ の傾 向 は 見 ら れ な い 、 とし てい る [ 同:89]。 更 に 、「契 約 講 の よ っ て たつ 原 理 は 成 員 た る 各 イ エ の 平 等 互 酬 性 に あ る が、 … こ うし たこ と は 、 戦 後 民 主 化 さ れ て そ うな っ た ので は な い こ とは 、 過 去 の 契 約 講 記 録や 近 世 文 書 から も充 分 に 窺 え る の で あ る 。村 落 構 造論 的 にい え ば契 約 講 の存 す る 社 会 は 、 概し て 対 等 平等 なイ エ が 横 の 連 帯 に よ る 互 酬 関 係 に よ っ て 構 成 され てお り 、 縦 の 上 下 的 な ヒエ ラ ル キ ー構 造 は 稀 簿 だ と み て よ か ろ う。 そ の 契 約 溝 が 、 従 来 同 族的 ヒ エ ラ ル キー の 濃 い 東 北 地 方 に 、 南 部 の 山 形 ・ 宮 城 を 中 心 と し て 分 布 す る こ と の 意 味 は 解 明 さ る べ き 問 題 を い ろ い ろ 含 む と考 え ら れ る。」[ 同:89] と述 べ ら れて い る。
ま た 、 中 村 た か を は 、 山形 県 村 山地 方 の 柏 倉 門 伝 村 内 の 礎 石 、 七 ツ 松 、 門 伝 とい う3 集 落 を 比 較 対 照 し て 、 礎石 に 同 族 型 村 落 、 門 伝 に 講 組型 村 落 、 七 ツ 松に そ の 中 間 形 態 と い う特 徴 を 見 出 し て い る。 そ し て 、 次 の よ うな 事 を 述 べ て い る。 即 ち 、「東 北 と い う と 何 だ か同 族 結 合 の こ と を 想 起し て し ま う。 確 か に、 そ う言 わ れ て もい い よ う な 或 る 種 の 親 族 組 織が 支 配 的 に 存 在 す る こ と は 事 実 か もし れ な い 。 し か し 、村 落 を、 就 中 、 そ の 運 営 、 統 合 の仕 組 に 於い て 類 型 化 し た場 合 、 固 有 の 意 味 で の同 族 結合 の村 落 と呼 ば れ る も の は 支配 的 で は ない か も し れ ない 。 現 状 に お い て はそ うで あ ろ う。」[中 村 1960:44] と。
明 治 大 学 社 会 学研 究 部 が 行 な っ た1969‑1970 年 の 調 査に よ れ ば、 尾 花 沢 市 「寺 内 にお い て は、 著し い 階 層 差 が み ら れ ない こ と は 上 記 し た が、 こ れ は『 同 族 制 村 落 』 に み ら れ る よ うな 強 固 な本 分 家 集 団 が 形 成 さ れ な かっ た 要 因 とお も ねれ る。 寺内 にお け る 親 族 関係 は 、 父系 を 単系 的 に た ど る ヒ エ ラ ル ヒー 的 本 分 家 関 係 よ りむ し ろ 、 婚 姻 を 媒 介 とし た 、 フ ラ ッ ト な親 族 関係 が 結 ば れ てい っ た と 考 え ら れ る。し か し 本 分 家 関係 の なご り とし(マ マ )く マ キ > がみ ら れ る。し か し < マ キ >は 集 団 と し て の 機 能 に とぼ し く ム ラ 人 の 意 識 も うす い 。」
[明 治 大 学 社 会 学研 究 部 編 1970:114] と さ れ る 。
尚 、 立柳 聡 は 、や は り 尾 花 沢 市の 毒 沢 で の 調 査 に 基づ き 、 同 地 にお い て 同 族 的 結 合 と講 組的 結 合 が 併 存 し てい る 事 を 示 し つ つ 、「 従 来 、 同 族 結 合 主 体 = 血縁 ・ 家 格 ・ 縦 の 秩 序 重 視型 の村 落 構 造 が 一 般 的 と 認 識 さ れ て き た 東 北 日 本( 地 方 )にお い て 、 原 理 的 に 相反 す る 契 約 が何 故 存 在 可 能 な の か 」、 とい う 問 題 を 立 て る。 そ し て 、 こ うし た 問 題 に つ い て の 先 行 研 究を ま と め 、 契 約 に 「共 伴 す る 同 族 の 特 色 」 とし て 、「本 家 の分 家 に 対 す る 統 制力 の 弱 さ」「同 族 の 結 合 力 の 弱 さ = 仲 間 的 結 合 原 理 」「 同 族 の 規 模 の小 さ さ」 を 挙げ て い る [ 立 柳 1998:138‑139]。 ま た 、 磯 田 が 指 摘 す る よ うな 、「 同 族 開 係 と擬 制 的 親 子 関 係 と の 『 相 補性 』」[ 磯 田 1955:86]は 同 地 に は 見 ら れ ない とし 、「 毒 沢 の場 合 は 、マ キは 存 在 す る が、
本家 の 顕 著 な 経 済的 優 位 性 は 認 めが た く 、ま た 、ム ラ 内 婚 的 嫁 入 婚 の 影 響 で『 タテ の秩 序』
は弱 体 で あ る 。 し か し 、 親 分 ・ 子 分 に 類 す る 関係 も 存 在 し ない 。つ ま り 、こ うし た 状 況 の 下で 契 約 組 は 、 経 済的 優 位 性 と は 異 な る 家 格 の基 準を 背 景 に 、 層 序化 と集 団 間 統 制 に 同 族 が本 来 内 包 し て い る 性 格 と も整 合 す る 独 自 な 仕 組 みを 発 達 させ て、 村 落 統合 を担 っ て き た こ と が理 解 さ れ る の で あ る 。」[ 立柳 1998:154] とま と めて い る。
と こ ろ で 、 先 述 の 明 治 大 学 社 会 学 研 究部 の調 査 で は 、 他 に も 、 同 じ 時 期 の 第1 次 予備 調 査の 結果 が 示 され て い る。 こ れ は 、 飽 海 郡 か ら 西 置 賜 郡 に か け て の17 集 落 とい う か な り 広範 囲 に わ た る も の で あ る。
そ の 中 で 、 例 え ば 、 庄 内 地 方 の 鶴 岡 市 田 川 で は 、「 本 家 、 分 家 の 間 に お い て 、 以 前 は 。
分家 が 家 を新 築 す る 際に 本 家 の認 可 を 必 要 と し た ほ ど 、 そ の 結 合 は 強 かっ た の で あ る が 、 現 在 は 、 意識 面 に お い て だ け 本 家 、 分 家 と い う概 念 が 残 っ て い る。」[ 明 治 大 学 社 会 学 研 究部 編 1970:13]と あ り 、村 山 地 方 の 寒 河 江 市 田 代 で も、「本 家 を < ホン ケ >、分 家 を <ブ ンケ > と 呼 んで い る が、 本 分家 関 係 は そ れ ほ ど 強 <な い。 <マ キ > とい う言 葉 は < 血 統 > を 意 味 す る だ け で あ る。」[ 同:16] とい う よ うに 、 全 般 的 に 本 分家 関 係 は 稀 薄 で あ る よ う に 見え る。 こ れ は 、 筆 者 自身 の 実感 で も あ る。
同 じ く 明 治 大 学 社 会 学 研 究 部に よ る 、 今 度 は1997 年 の 同 じく 山形 県 内 の 全23 集 落 に 及 ぶ予 備 調 査 資 料 か ら 、 県 内 の 本 分 家 の 呼 称 を 見 る と 、 最 上 ・ 村 山 地 方 (17 集 落 ) で は 総 じて ホ ン ケ・ ペ ッ カ が 用い ら れ 、 ペ ッ ケ ない しブ ン ケ とい う 呼び 方 が 散在 す る。 庄 内 地 方
(6 集 落 ) で はカ ミ ・ブ ン ケ 、 ホ ン ケ ・ エ モ チ 、 ホン ケ・ イ モ チ 、 イ ヤニ ・ イ モ チ 、 オ ヤ カタ ・ブ ン ケ な ど 多 彩 で あ る [ 明 治 大 学 社 会 学 研 究部 編 1999:11‑23]。
付 け 加 える な らば 、 こ の 報 告 書 は 、 非 常 に 重 要 な 記 述 を含 ん でい る。 即 ち 、 最 上 郡 戸 沢 村 の 「 松 坂 地 区 に お い て は 、 本 家 の こ と を 『 ホン ケ 』、 分 家 の こ と を 『 ペ ッカ 』 と 呼 ん で い る。 本 分 家 関 係 に 基 づ く 親 族 集 団 を 『 マ ギ』 と 呼 び 、 労働 面や 生活 面 に お け る 相互 依 存 は、 昔 は あ っ た も の の、 今 は ほ と ん ど ない 。 ま た 本 家 か ら 分家 へ の援 助 に は 、 土 地 を 分 け 与え た りす る こ と があ っ た。 ま た 本 分 家 関係 で 冠 婚 葬祭 の 座順 が決 ま り、 現 在で も本 家 に 対す る 意 識 は 強い よ う で あ る。」[ 同:76] とい う。 ま た 、「労 働 面 な ど の 実 質 的 な 本 分家 の 関係 の 機 能 が 弱 く な っ て き て い る こ と が改 めて い え る。 だ が冠 婚葬 祭 や 困 っ た とき の 助 け 合い な ど、 い ざ とい う とき に本 分 家 が 頼 り に な る の が こ の 結 果 か ら分 か り、 そ の 関係 が 形 骸化 し て い る と は 一 概 に 言 う こ と は で き な い 。」、 つ ま り 「松 坂 地 区 に お い て 、 本 分 家 関 係 は 決 し て 形 式 的 な も の で は なく 、 家 と家 を結 ぶ 重 要 な も ので あ り、 あ る 程 度 の機 能 を果
たし て い る 」、 と さ え 述 べ ら れ て い る [同:88]。
し か し 、「葬 式 の 準備 や 指 揮 は 、 現 在 で は 親 戚 が 行 っ て い る が 、 昭 和30 年 ごろ ま で は ダ ミの 親 方 が 行 っ て い た。 ダ ミ と は 葬 式 の 際 に 集 め ら れ る講 で あ り、 上 松 坂 公 民 館 の 近く に あ る ビ ニ ー ル ハ ウス の 辺 り を 境 に 川 端 と西 端 に 分 け ら れて い て 、 両地 区 に は そ れぞ れ ダ ミ の親 方 が い て 、 葬 式 の指 揮 を とっ て い た。 ダ ミ の 仕 事 と して は 、 死 の知 らせ を連 絡 す る こ とや 土 葬 の時 に 墓 穴 を ほ る と い う も の が あ っ た。」[ 同:99‑100] と あ る の で 、 同 地 は 講 組 型 の 集 落 と 見 た 方 が 良 い だ ろ う。 本 分 家 関 係 が、 形 骸 化 し冠 婚 葬祭 に お け る 座 順 や 、 年 始 の挨 拶 程 度 に な っ て い る事 は ど こ で も 見 ら れ る事 で 、 こ れ を もっ て 同 報 告 書 の末 尾 に 見 ら れ る よ うに 、「『 同 族 制 村 落 』の 色 彩 が濃 い 」、或 い は「東 北 日本 型 」農 村 で あ る[ 同:129]、
な ど と 結 論 付 け る 事 は 、 危 険 で あ る。
以 上 、 先 行 研 究 か ら 県 内 の 村 落 構 造 の 特 色 を 見て き た が、 こ こで は 山 形 県 内 で は全 体 と し て 同 族 的 結 合 が 稀 薄 な 事 、 ま た 同 じ 講 組 型 村 落 と言 っ て も、 戸 主 会 的 な も の、 葬 い 祖 的 な も の な ど が 存 在 す る 事 を 確 認 し てお く。 以 下 の 事例 の記 述 に お い て 、 村 落 構 造 に つ い て 逐一 触 れ る 事 で、 補足 し た い。
2‑2 庄 内 地 方 の 口 寄 せ 巫 女 と そ の 共同 祭 祀 2‑2‑1 同 地 方 の 巫 俗 概 観
ま ず 最 初 に 、 庄 内 地方 の巫 俗 に 関 す る4 人 の 論 者 の記 述 を 引 用し 、 そ の 概 観 を 行 ない た い。 こ こ で 注 意し てお き たい の は 、 こ れ ら の 記 述 が な さ れ た の が1950‑1960 年 代 初 頭 で あ り、 こ の 当時 の巫 俗研 究 が 必 ず し も 巫 女 の ラ イ フ ・ ヒ スト リ ー や 死 者 の 口 寄 せ に 主 眼 を 置 い て い な かっ た た め に 、 共 同 祭 祀 に 関 す る 貴 重 な 記 述 に な っ て い る とい う点 で あ る。 尚 、 図2‑7 に は 同 地方 の 地 形 図 を 掲載 し た 。
さ て、 前述 の 大川 は、 庄 内 地 方 の ミ コ に 関 し 、
個人 の家 で ミ ゴ を 頼む の は 定 期 的 に は春 秋 の 彼 岸 で あ り 、 春 の彼 岸 が 最 も 盛 ん で 、 他 は 随 時 頼む の であ る が 、 春 の 彼 岸 に は 必ず 一年 中 の家 の出 来 事 を 予 言 し て 貰 うこ と に な っ て お り 、 そ の対 象 は 大 体 は 死 人 で あ る。 神 様 を 願 う場 合 に は 、 神 遊 び を し て 喜 ばせ る だ け の よ う に 考 え てい る よ うに 思 われ た 。 神 様 は 大 神 宮 様 と か 水 神 様 と 決 まっ て い る よ う だ が 、 事 が あ れ ば 色 々 の神 様 が 出 る も の だ と い う。 然 し そ れ も大 体 は 家 の 神 ( 屋 敷 神 )
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山形県庄内 地 方 の 地 形 図 ( 国 土 地 理 院 、1/200,000 、1979 )
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で あ る こ と は 決 まっ て い る 。「神 よせ 」と「 死 人 の 口 よ せ 」を 一 緒 に や る 場 合 は 勿 論 「 神 よ せ 」 を 初 め に し た が 、「 神 よせ 」 に は お 神 楽 を あ げ る と 称 し 、 ミ ゴ は 一 月 か ら 十 二 月 迄 の 数 え 唄 を 唱 え る …。[ 大 川 1950:19]
と述 べ てい る。
こ れ で ほ ぼ 同 地 方 の 巫 俗 の あ ら ま し に 関し て は 言い 尽 く さ れて い る と も 言 え る のだ が 、 注目 す べ き な の は 、 次 の 記 述 であ る。
ミ ゴ の 参加 す る 公 式 の祭 は 手向 村 で は 字 岩 町 の 豆 腐 地蔵 様 が あ る。 こ の 地 蔵 様 は 岩 町 の 守 り 地 蔵 様 で あ り 、 他 の町 の 産 土 神 と組 織 は変 り ない 。 頭 屋 制 に よっ て年 二 回 、 四 月 二十 三 日花 見 ( 春 山 ) と十 二月 二 十 三 日 の オト シ ヤ を す る。 ミ ゴ の 参加 す る の は 四 月 二 十三 日 の祭 だ け で あ る が 、 こ の 日 は 町 内 中 の家 々 の 亭 主 が地 蔵 様 のお 堂 に集 まっ て ミ ゴ を招 い て 「神 よせ 」( 実 は 地 蔵 様 な の で あ る が こ ういっ てい る ) を な し 、 こ れ か ら 先 の 町内 の 出 来 事や 、 田 、 畑 の 上 、 不 作 を 予 言 し て 貰 う の だそ うで 、こ の予 言 又 は 予 定 日を
「ト ギ ツ ケ」 とい う。[ 同:19(● 傍点 筆 者 )]
更に はま た 、
東 田川 郡 大 泉村 の 皇 子 様 の祭 ( 湯 立 行 事 ) に も ミ ゴ の公 式 の 参加 が あ り 、 こ こ で は 判 然 と ミ ゴ が祈 願 の 主 で あ り 、 神 職 の 参 列 は 形 式 的 な も のと なっ てい る。 但 し こ の 村 一 般 に は 私祭 神 祠 の祭 は ミ ゴ の 主 管 す る と こ ろ で 、 神 職 は 呉ら な い こ とに なっ て い る こ と は 注目 し て よい が 、こ の 皇 子 様 の場 合 は 湯 立 の行 事 だけ に ミ ゴ の 参加 があ る よ うで あ る が 、 そ の 辺 は判 然 と し ない 。
宮 司 の 祝詞 奏 上 の 後 、宮 司 がミ ゴ に 向 か つ て 祈 祷 を 依 頼 す る とい う。 こ の 際 の ミ ゴ の 祈 願 は一 時 間 半も か か り 、 こ れ が 終 わっ て 笹 の 葉 を もっ て 舞 を す ると い う。 手向 の ミ ゴ も ト ギ ツ ケ が 終 る とい な ら ぶ 人 々 に 笹 の 葉 を もっ て 一 人 一 人 の 頭 上 を 撫 で て 歩 く とい う。( 観 音 経 を 唱 え な が ら )。( マ マ )[ 同:20( ● 傍 点 筆 者 )]
と、口寄 せ 巫 女 で あ る ミ コ の 関 与 す る「公 式 」の祭 祀 が 存 在す る 事を 述 べ てい る の で あ る 。 続 い て 、 戸川 に よ る 記 述 に 移 る。 戸川 は 、
庄 内 地 方 の巫 女 に は 村 の 公 の 祭 祀 に あ ず か る 神 ミコ と口 よ せ を 行 う町 ミ コ があ る。 前 者 は 昔 か ら そ の 数 が少 く 現 在 は さ ら に滅 (マ マ ) 少 し て 居 り 、 町 ミ コ も 年 々 減 じ つ つ あ る と はい え 現 在 ま だ 五 十 人(59)近 く 残っ て い る 。 彼 女 ら の 多 く は 盲 人 で 、 死 霊 を よ び だ
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し も のを き く た めに は 、 ま ず 神 あ そ び といっ て 祈 願 者 の 志 す 神 を まっ り 、 そ の託 宣 を き く な ら は し が あ る 。 こ の場 合 、 巫 女 は神 のお っ げ を 取 次ぐ の で は な く 、 神 が 彼 女 た ち に 乗 り うっ り 、 そ の 口を 借 り て 意 思 を 表 示 す る と い う形 式 を と る。 神 を あ そ ば せ る た め に は 、 ま ず 心 経 と 身 肺 の の り と を 読 み 、 こ の 地方 に名 の き こ え た 神 仏 や 国 々 の 大 社 に まっ ら れ て い る 神 々 を 招 請 し 、 六 根 清 浄 の祓 を 唱 え 、 自 ら 振 る 鈴 の 音 に あ は せ な がら 十 首 ほ ど の 神 楽 歌 を 追 分 の よ うな ふ し で う たい あ げ る と 、「 花 神 楽 の 心 血し 、 あ な 珍 ら し く 喜 ば れ る 我 は 某 の 神 で あ る 」と名 乗 り つ つ 神 が よ りま し て 予 言 を は じ め る。[ 戸 川 1952:32
( ● 傍 点 筆 者 )]
と、 同 地方 の 巫 俗 を 総 括 し て い る が 、 前 述 の 大 川 の 記 述 を 見て も 分 か る 通 り 、「 神 ミ コ 」 と「 町 ミ コ 」 を こ の よ うな 形 で 二 分 す る のに は 問 題 が あ る。 こ れ は 、 以 下 に 示 す 筆 者 の調 査し た 事 例 に よっ て も 、 明 ら か な ので あ る。
と は 言 え 、 戸川 の 示 し た 資 料 は 極 め て 重 要 な も の で あ る。 以 下 、 戸川 に よ る 、 ホ ト ケ オ ロシ の 前 に 行 な わ れ る 「 ″か みあ そ び// 」 に 関 す る 記 述 を 、や や 長 く な る が 、 引 用 す る。
彼 女 ら の 修 法 を み て い る と、 目的 の 霊 を よ せ る 前 に は ″か み あ そび// とい っ て 氏 神 と
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か稲 荷、 八幡 、 伊 勢 と い っ た よ う な 神 々 に 法 楽 を 捧 げ 、 ま ず そ の託 宣 を 聞く こ とに な っ てい る。・‥鶴 岡 中 道 のI ・M とい う巫 女 を 例 に あ げ る と 、 ふ だ ん は 常 人 と ま っ た く か わ ら ぬ 服 装を し てい る が ″か み あ そ び を 行 な う場 合 に は 、 そ の う えに ″ひ た た れ4 と 呼 ぶ、 修 験 の 用い る ″か ん ま ん// の よ うな 白 い 斎 服を か さ ね、 在家 の仏 壇 に 置 か れて い る も の と同 じ よ う な 小 さ な ″い んき ん// (打 ち な ら し )を た た き 、数 珠 を 押 し も み な が ら 、 開 経 偶 ・般 若 心 経 、 み そ ぎ の の り と、 な どを 誦し 、 続 い て 庄 内 地方 に 名 の 聞こ え た神 々 や 仏・ 菩 薩 の名 と 、 諸 国 の有 力 な 神 々 とを 呼 び よせ 、 そ れ が 終 わ る と 六 根 清 浄 大 祓 を 読 み 、 最 後 に 八 幡 な り氏 神 とい っ た 、 い ま 、 こ れ か ら遊 ばせ よ うとす る神 霊 に 対 し てい ろ いろ と 祈 祷 のお も む き を 述 べ る。 そ し て 、左 手 に は 白 扇 ( 中 啓 を 持 つ 巫 女 も あ る )、 右 手 に は鈴 を採 っ て シ ヤラ ・ シ ヤ ラ と打 ち ふ り な がら 、+ 首 ほ ど の神 楽 歌 を 追 分 け の よ う な ふ し ま わし で 歌 い 続 け る が 、 そ う し てい る うち に 、「 花 神 楽 の こ こ ろ づ く し 、 あ な め づ ら し く よ ろ こ ば れ る 、 わ れ は 八 幡 大 神 で あ るー 」 と名 乗 りつ つ 憑 り 来っ た 神 は 、 巫 女 の 口 を か り て 家 内 中 の 一 年 間 の 吉 凶 禍 福 を 予 言 し 、「 家 内 安 全 、 こ の 家 繁 昌 と守 ら せ 給 う、 こ ん に ち の 仰 せ 」 と 言っ て あ が っ て ゆこ うとす る。 こ の と きに 依 頼者 が だ まっ て い れ ば 、巫 女 は そ のま ま 正気 に か える ので あ る が 、そ の 機 を 逸 せ ず に 、 自 分 の 知 り た い と 思 うこ と を た ず ねる と、 そ れ に 対 し てい く ら で も 答 え て く れ る。
こ うし て巫 女 は 正 気 に か え る と、 こ ん ど は ″ひ た た れy を ぬ ぎ 、 ふ だ ん 着 の ま ま と な っ て 再 び ″い ん き んg を た た き 、 数 珠 を も み は じ め る か ら 、 依 頼者 は 、 自 分 の 志 す 死 者 の名 前 な り 命 日な りを 心 の 中 に 念 じ つ つ 茶 碗 に 入 れ た 水 を 手 向 け る。 そ う す る と 、巫 女 は 、 ま ず 懺 悔 の 文 を 唱 え 、 続 い て 延 命 十 句 観 音 経 を 誦 し 、 一 連 の神 楽 歌 を 前 と同 じ ふ し で 歌 っ てい る うち に 、 い つ し か 死 者 の霊 が の り うつ っ て 、 … 切 々 と し た 哀 調 で 語 引 まじ め 、 聞く 者 の 涙 を 誘 い 、 快 を し ぼ ら せ た の ち 、「 よ ろ こ び に 、 な お よ ろ こ び を ( が )、
か さ な り て 、 とも に う れ し き 、 き ょ う の よろ こ び 、 神 の よ ろ こ び 」 とい う神 楽 歌 を うた い 、 白扇 を 鈴 で か き な で な が ら 、「 払 い 給 え 、 清 め 給 う。 払 い 給 え 、 清 め 給 う。 払 い 給 え 、 清 め 給 う。 六 根 清 浄 な り。 払 い 給 え 、 清 め 給 う。」 と 唱 え て 終 わ る。 し か も、 ″か み あ そ びy の 際 の神 楽 歌 と 、 ″ほ とけ のく ち よ せ。 に うた う 神 楽 歌 に は 互 い に 共 通 す る も の が多 い 。[ 同:413‑414]
こ れ ら の 事 か ら 、「神 を 遊 ば せ る こ と と 、 ほ とけ の 口 を 聞 く 作 法 と の 間 に は、 根本 的 な 相違 は 認 めら れ な い 。 た と え ば 、 ″か みあ そ びy に行 な う呪 法 を ″ほ と け の く ち よせg に 用い 、 ″ほ とけ のく ち よ せW の 作 法 で ″か み 遊 び4 を し て も 、め ざす と ころ の ″か みg や 、 ほ とけ 。 は よ りま す の で ない か と い う疑 問 が 起 こっ て く る。 そ し て 、 こ の 疑 問 は お こ な い さま を 遊 ば せ て み る と一 層 深 く な る。」[ 同:415] とい う。
以 下 、「採 集 記 録 」 と し てI ・M 巫 女 が 「お こ ない さ ま 」 を 遊 ば せ る 祭 の 章 句 が 掲 載 さ れ てい る。 こ れ に つ い て 戸 川 は、「 こ こ に 採 集 し た託 宣 の こ と ば は 、 前 に も 書い た よ うに 一 九五 一 年 九月 三 十 日 にI ・M を た の ん で 、 お こ な い さ ま を 遊 ばせ 申 し た と き の も の の 中 か らお こ な い さま が 自 ら 自 分 の こ と を 語 っ た部 分 だ け で 、 吉 凶 禍 福 の 予 言 を 説 く こ とば は 省 い た も ので あ る。」[ 同:420] とい う。 後 述 のO ・M 巫 女 と は 師 弟 関係 に あ る と 考 え ら れ 、 また 極 めて 示 唆 に 富 む 章 句 な の で 、 資 料I − ⑧ に全 文 引 用す る。
こ の 詞 章 は 、「 我 昔 所 造 諸 悪 業 … 」 とい う文 句 で 始 ま る の だ が 、 そ の 後 、「 南 無 大 悲 観 世音 … 」 と 菩 薩 、 明 神 、 権 現 等 の 神 仏 名 が 唱 え ら れ 、「 そ も そ も 日 本 国 大 小 の神 祇 、 敬 白 と 国 内 の 神 々 、 更 に は 庄 内 周 辺 の神 々 の 名 が唱 え ら れ 、「鈴 の は じ ま り 」 に 関 す る 祭 文、 祝 詞 、「六 根 清 浄 」 と 続 き 、 筆 者 も 何 度 か 聞い た 事 の あ る 「 ご 祈 祷 に 、 今 日の み か ぐ ら、 ま い ら せ る 」(60)以 下 の 詞 章 が 現 われ る [ 同:424‑429]。
さ て 、 戸川 は 結論 と し て 、「 こ の よ う に み て く る と 、 こ の ″お こ な い さ ま// を 遊 ば せ る 祭 り の法 式 は、 ″か みあ そ びg と ″ほ とけ のく ち よせ// の 中 間 に あ る とい うこ とに な り、
こ の三 つ の 法式 の 間 に は 根 本 的 な 相違 は認 め ら れ ない 。 そ し て 、 こ こ か ら ま た 、巫 女 の性 格を う か が え る よ うに 思 え る の で あ る。」[ 同:429] と 述 べ て い る。 し か し な が ら、 問 題 は 戸川 が 語 り の 韻 律 に 触 れ て い ない 点 で あ り、「 ″か み あ そ び4 と ″ほ とけ の く ち よ せ// 」 が本 当に 「根 本 的 な 相違 」 を持 っ て い な か っ た の か ど うか は 不 明 な の で あ る。
と こ ろ で 、 戸川 は 、 ホト ケ オ ロ シ に 付 属す る の で は な く 、 単 独 で行 な わ れ る カ ミ オロ シ には 言 及 し て い な い ので あ る が 、 筆 者 が 見 聞し た 所 で は 、 こ こ に 書 か れ てい る よ うな 一 連 の章 句 は 、 そ の よ うな カ ミ オロ シ に も 共 通 点 が 多 い 。
戸川 は ま た 、 鶴 岡 市 で巫 業 を 営 ん で い たS ・T 巫 女 の ラ イ フ ・ ヒ ス ト リ ー を 記 述 し て い る。 そ れ に よ れ ば 、 同 巫 女 は 東 田 川 郡 羽 黒町 手 向 の 出 身 で 、 や は り 手 向 の 修 験 者 の 妻 で も あっ た 「梅 ケ 枝 」 とい う巫 女 の弟 子 と な り 、「 ゆ る し 」 を 受 け た 後2 年 間 の 「お 礼 奉 公 」 をし て か ら 生 家 で 開 業 、1937‑1938 年 頃 に 鶴 岡 に 転 居 、 終 戦 後 間 も なく 死 去 し た 、 と あ る
[ 戸川 1978:26‑27]。
ま た 、 や は り 鶴 岡 市 で 開 業 し て い た とい うI'M 巫 女 の成 巫 過 程 につ い て も若 干 の 記 述 があ る 。 そ れ に よ れ ば 、 同 巫 女 は 「 宮 篭 り 」(61) を 始 め る 前 に 師 匠 に 死 な れ た た め に 、 自 分だ け の方 法 で そ れ を 行 な っ た 、 と あ る。 普 通 は 宮 篭 り の 後 、「神 つ け 」 が 行 な わ れ 、 こ の中 で 「奥 ゆる し 」 と も 呼 ば れ る 「守 護 霊 の確 認 」 が な さ れ る。 そ うし て 、 こ の 後 花 嫁 衣 装を 付 け て の「 披 露 宴 」があ り 、「一 年 乃 至 二年 は お 礼 奉 公 とい っ て 師 匠 の 稼 業 を 手 伝 う」
事に な る とい う[ 同:27‑28]。
次 に 、 岡 田 ( 照 ) も 、「市 内 小 真 木 のO 某 女 が オ コ ナ イ 様 を 遊 ば せ る 」 行 事 に 関 す る 記 述を行 な っ てお り 、 そ の中 で … こ の 日 に集 る人 々 は … 村 か ら 町 へ 、 親 類や 近 所 の 人 々 を 誘 いあ わせ て一 つ の 団 体 を 形 成 し て や っ て き て 、そ れ ぞ れ に 神 遊 ば せ を し 仏 の 口よ せ を す る。
…そ の 時 に集 っ た の は 六 人 でO 兵 工 の 大神 宮 も ( 、: 筆者 補 ) と か 隣 り のお 稲 荷 様 も 頼 ま れて き た と か で 結 局+ 軒 分 ほ ど に な っ た 。」[ 岡 田 ( 照 ) 1951 (1977):37] と 述 べ て い る が 、こ れ も ま た 、共 同 祭 祀 と 見 な す べ き も の で あ ろ う。集 落 の境 界す ら超 え て い る 所 が 、 興 味 深い 。 尚 、 岡 田 (照 ) は 、 ど こ で 行 な われ た か 記 さ れ てい ない オ コ ナイ サマ ア ソ バ セ 中 の 「 十 二 ヶ 月 の 神 歌 の 如 き の も の 」(62) を 別 論 文 に 記 載 し て い る の で [ 岡 田 ( 照 )
1961:17‑18]、 参 考 の た めこ れ を 資 料I − ⑨に 引 用 し てお く 。
最 後 に 、春 日 儀夫 は 、1965 年 に 次 の よ うな 貴 重 な 記 述 を 行 な っ て い る の で 引 用 し よ う。
旧 鶴 岡 で 、い ま 、 も っ と もマ サ し い ( よく 当 る とい う意 味 ) 占い ミ コ は 旧元 曲 師 町 、 今 は本 町 三 丁 目 のY ・T さ ん ( 当 時 八〇 歳 ) で あ ろ う。 し か もT さ ん は森 の 山 に 縁 故 深 い 中 清 水 の 庄 屋 の 娘 とし て 生 ま れ た が 、 家 産 が 傾 き 目 を わ ず ら う な ど 不 幸 が 続 き 、 五 十 五 年 前 に 文 下 ( ほ うだ し ) 部 落 の ミ コ の師 匠 に つ い た。 当時 、お 弟 子 は 二十 人 ほ どい た そ うだ が 、現 在 は 栄 本 田 に 姉 弟 子( 八 六 )、酒 田市 浜 中 に 妹 弟 子( 六〇 ) がい るそ うで 、 こ の ほ か別 派 に 鶴 岡 市 紙 漉 町 と 桧 物 町 に 一 人 ず つ い る。[ 春 日 1965 (1986):40]
こ の 文 中 に は 固 有 名 が 示 さ れ てい な い のだ が 、 鶴岡 市文 下 と 浜 中 の ミ コ は以 下 の 事 例 に も登 場 す る。 こ の 後 の、Y・T 巫 女 の 甥M ・M 氏 の話 と し て、「 仏 ( ホト ケ) の 口を きく の は、 春 の彼 岸 を 中 心 とし て 二 月 末 か ら 四 月 末 ま で と、 秋 の彼 岸 を 中 心 とし た 九月 一 日 か ら 十一 月 末 まで に限 ら れ てい る。」とい い 、ま た 、「『 そ の 間 は 仏 の 口 は 一 切受 けつ け ま せ ん。
神 様遊 びや ジ ュ ズ の 占 い だ け な ん で す。 い ま で も オ コ ナイ さ ま ( オ クナ イ さ ま) を農 村 の 旧家 の人 が 背負 っ て き てお 祭 りを し て も ら い 、 家 に 帰っ て 大 ふ る まい を す る 慣 行 が残 っ て いま す よ』」[ 同:40] と 書 か れ てい る の も 興 味深 い 。
2‑2‑2 東 田 川 郡 三 川 町 と そ の 周 辺
同 町 猪 子 に 住む ミ コ サン 、0・M 巫 女 は 、 近 隣 の 余 目町 ・ 酒 田 市 迄 を 含 む 広い 範 囲 で 共 同祭 祀 に 関 わっ てい る。 そ こ で 、 こ こ で は 同巫 女 の司 祭 す る共 同 祭 祀 を 一 括 し て 扱 う事 に す る が、 そ の 前に ま ず 、 同 地 域 の 概 観 を 行 な う。 同 町 周辺 の 地 形 図 は 図2‑8 に示 し た。
さて 、 こ の 地 域 の 各 集 落 に 関 し て は 、 基 本 的 に 全 て 稲 作 中 心 の農 村 であ り 、 本 分 家 関 係 は ある と は 言っ て も 同 族 集 団 は 社会 的 機 能 を 殆 ど 有 し て い な い か 、或 い は そ の存 在 自 体 が 極 めて 稀 薄 であ り 、 葬 儀な ど は 「契 約 」 と 呼 ば れ る 地 縁 的 な 集 団 で 執行 す る事 が一 般 的 で あ
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ま た 、 宗 教 施 設 に つ い て は、 旧 村 社 規 模 の神 社 は ほ ぼ 大 字 単 位 に1 社 あ る の だ が、 全 体 とし て 、 唐 桑 町 で ウジ ガ ミ と 呼 ば れ る よ うな 神 職 不 住 の小 社 は 希 少 で あ る。 寺 院 は 曹洞 宗 が圧 倒 的 な 割 合 を 占 め、 ほ ぼ 大 字 単 位 に1 寺 院 の 割 合 で 存 在す る が 、 場 所 に よ り 、 相違 が 見ら れ る。
上 記 の よ うに 、 猪 子 に は ミ コ サ ン と 呼 ば れ る 口 寄 せ 巫 女0 ・M さん が 居 住 、 巫 業 を 営 ん でい る。 1923 年 に 同 地 に 生 れ た0 ・M 巫 女 は 、 高 等 小 学 校 の 頃失 明 し 、32‑33 歳 で 鶴 岡 市 宝町 中 道 の ミ コ サ ン(64)に 弟 子入 り 、 ま る2 年 の 修行 の 後、「ダ イ ジ ユ ル シ 」( =入 巫 式 ) を行 なっ て 成 巫 し た と い う。 守 護 神 は 「お 不 動 さ ん 」 で 、 所 持 す る ( オ コ ナ イ サ ンド65) はダ イ ジ ユル シ の 際 に 貰 っ た 覚 え が あ る と の事 で あ る。「ホ ト ケ オロ シ 」は2 、3、4、9、10 月 のみ で 、 午 前 中 は カ ミ サ ン 、 午 後 は ホ ト ケ サン をお ろ し てい た とい うが 、1991‑1992 年 頃に 病 気 を し て か ら は や めて い る と い う。 かつ て は1 日 に25‑26 人 の客 が あ っ た そ うで あ る。「 ナ マ ボト ケ 」 は お ろ し た 事 が な く 、 三 十 五 日 を 過 ぎ て ナマ で は な く な っ た ホ ト ケ を おろ し て い た。「 カ ミ ア ソ ビ 」 は 春 と 秋 で 、 春 につ い て は 以 下 に示 す の 数 多 く の 共 同 祭 祀 に関 わ る 他 、 初 午 の 行 事 に 出 向 い た り 、 秋 に は オ コ ナ イ サン を お ろ し て 貰 い に 来 る家 が あ るとい う(1998/7/2)。 未婚 であ る。
以 下 、0 ・M 巫 女 が 関 与 す る共 同 祭 祀 を 、 三 川 町 内 、 酒 田 市 内 、 余 目 町 内 の 順 に 列 挙 す る。
2‑2‑2‑1 三 川 町 の 事 例
庄 内 平 野 の ほ ぼ 中 央 、 鶴 岡 市 と酒 田 市 の 間 に 位 置 す る 三 川 町 の 総 人 口 は8,031 人 ( 男3,885 人 、女4,146 人 )、世 帯 数 は1,972 戸 、 世 帯 当 た り 人 数 は4.1 人 で あ る(1999 年7 月31 日)。就 業 別 産 業 人 口総 数 は4,438 人 で 、う ち 第1 次 産 業937 人(21.1% )、第2 次 産業1,705 人(38.4% )、 第3 次 産 業1,796 人 (40.5% )、 分 類 不 能O 人。 そ の うち 第1 次 産 業 は全 数 が 農業 と なっ て い る(1995 年 国 勢 調 査 )。経 営 耕 地 面 積2,303ha の う ち、田2,231 ha、畑50ha 、 樹園 地22ha で 、 総 農家 数737 戸 の うち 専 業38 戸 、 第1 種 兼業333 戸 、 第2 種 兼 業366 戸 であ る (1995 年 農 業 セ ン サ ス)。
そ の 沿 革 は 、 明 治22 (1889) 年 の 町 村 制 実 施 で 横 山 村 と 押 切 村 は東 田 川 郡 、 猪 子 の あ る東 郷 村 は 西 田川 郡 に 編 入 さ れ 、 町 村 合 併 が 盛 ん に行 な わ れ た 昭 和30 (1955) 年 に は3 村 が合 併 し て 三 川 村 とな り 、 東 田 川 郡 に 再 編 入 さ れ る。 昭 和43 (1968) 年 に は 町 制 施 行 し三川 町 と な っ た [ 三 川 町 1998 ]。
三 川 町 内 でO ・M 巫 女 が 関 与 す る 共 同 祭 祀 は 、 ① 猪 子 、 ② 成 田 新 田、 ③ 対 馬 、 ④横 山 、
⑤押 切 新 田 、 ⑤ 対 馬 、 ⑥ 土 口 の 計6 地 区 に 存 在 す る 。 以 下、 こ れ を 順 に 示 す 。
① 猪 子 地 区
同 地 区 は184 世 帯 、 男377 人 、 女423 人 の 計800 人 (1999 年7 月31 日 ) か ら な る 。 就 業 産 業 別 人 口 は 第1 次 産 業 が74 人 、 第2 次 産 業 が193 人 、 第3 次 産 業 が189 人 。 第1 次 産 業 は 全 員 が 農 業 で あ る (1995 年 国 勢 調 査 )。 経 営 耕 地 面 積 計19,593a の う ち 、 田18,734a 、 畑600a 、 樹 園 地59a で 、 総 農 家 数 は64 戸 、 う ち 専 業 農 家 は 無 し 、 第1 種 兼 業14 戸 、 第2 種 兼 業50 戸 と な っ て い る (1997 年 山 形 県 農 業 基 本 調 査 )。 概 略 図 を 図2‑9 に 示 す 。
互 助 組 織 と し て 「 ケ ー ヤ ク ( 契 約 )」 が 存 在 し 、 全 戸 か ら 「 契 約 積 立 金 」 を 毎 年 徴 収 し て い る 。 こ れ が か つ て の 葬 式 組 で あ っ た ら し く 、5‑6 人 ず つ が 組 に な っ て お り 、 各 組 で 死 者 が 出 た 場 合 そ の 組 で 火 葬 を し た そ う で 、 こ れ を 「 ノ バ 」 と い っ た 。 現 在 冠 婚 葬 祭 は 猪 子 在 住 の 親 戚 が 主 体 と な っ て 行 な い 、 例 え ばK ・T 家 を 含 む 約7 戸 の 親 戚 で 葬 儀 を 執 行 す る 場 合 に は 、 葬 儀 委 員 長 は 本 家 に し て い る と い う 。 ま た 、 猪 子 は 赤 川 の 上 流 の 家 々 を 「 上 」、
下 流 の 家 々 を 「 雫 」 と 分 け て お り 、 そ れ ぞ れ に 後 述 の 「 八 幡 講 」・「 地 神 講 」 が あ る 。 ま た 、「 町 内 会 」 は1 区 (57 戸 )、2 区 (44 戸 )、3 区 (37 戸 )、4 区 (44 戸 ) に 分 か れ て い る 。 宗 教 的 な 講 と し て は 、 他 に 「 観 音 講 」、「 地 蔵 講 」、「 道 元 講 」、「梅 花 講 」、「 大 網 講 」、
「庚 申 講 」、「 念 仏 講 」、「 金 峰 講 」 な ど が あ る 。 各 家 で 祭 っ て い る 屋 敷 神 は 大 抵 「 稲 荷 様 」 で 、 全 戸 が 必 ず し も 猪 子 地 区 内 に あ る 曹 洞 宗 ・ 洞 泉 寺 の 檀 家 で は な く 、 鶴 岡 市 や 横 山 地 区 の 寺 の 檀 家 も あ る 。 ま た 、 本 家 を 「 イ ー ヤ 」 と い い 、分 家 を 「イ モ ジ 」或 い は 「イ ー モ ジ 」。
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両者 を ま と め て [ オ ヤ ゴ] とい うそ うで あ る
(1922 年 生 )、 洞 泉 寺 住 職I・S 氏 (1947 年 生 )
八 幡 神 社
琴 平 神
(以上、K・T 町内会長(1941 年生)、S・K 氏 等の話をまとめた。 1998/7/2‑3)。
図2‑9 猪 子 地 区 の 概 略
旧 村 社 ・ 琴 平 神 社 は 、『 猪 子 のあ ゆ み 』 に よ る と元 々 は 普 門 院 、 或 い は 清 水 山 慈 眼 寺 と 称し た。 明 治10 (1877)年 同 境 内 の観 音 様 が 「神 仏分 離 令 (1866)」 に よ り 移 さ れ た た め。
「新 た に 、 ご 神 体 を 勧 請 し 琴 平 神 社 と なっ た。」 とい う [ 猪 子 の あ ゆ み 編 さ ん 委 員 会 編 1990:85]。 人 々 か ら 「太 夫 様 」(66)と 呼 ば れ る同 神 社宮 司S ・S 氏(1969 年 生 ) の 母S ・E さ ん(1936 年 生 ) の 話 で は 、「 かつ て は神 仏 両 方 し て お り、 明 治 維 新 で神 社 に な っ た。 現 宮 司 で20 何 代 目で 、 元 々 学 校 、 寺 子 屋 だっ た。」 と の 事 で あ る。 祭 神 は 大物 主 大 神 、 相 殿 は 天照 大神 で 、4 月23 日 の 例 祭 で は 「湯 立 舞 」 或い は 「太 夫 舞 」 が 行 な われ て い た と の 記 述があ る が、「い つ 頃 よ り行 なっ て い た か は 記 録 が ない 。」[ 同:87] とい う。 1999年 の 見 学 時に は 拝 殿 横 に 仮 舞 台 が 作 ら れ 、「弓 舞 ・ 鳥 居 舞 ・ 天 狗 舞 ・ 翁 舞 ・ 重 箱 舞 ・ 巫 女 舞 」 と思 われる 所 作 が 行 な われ てい た が 、 同 書 の 記 述 同 様 に [ 同:87]、 設 え ら れ て い た 鍋 に は 水 は 入っ て い な かっ た よ うで あ る 。 尚、 こ れ ら の舞 を 行 な う太夫 は同 郡 余 目町 よ り 、 巫 女 と献 幣使 は 酒 田市 から 来 て い た。 氏 子 は 猪子 の 全 戸 か ら な り、 神 社 役 員7 名 と氏 子 総 代3 名 が い る 他 、 毎 年 交 替 す る 「 当 屋 」( = 「神 宿 」) を 中 心 に 行 な わ れ る。 こ の 祭 典 へ の 口 寄 せ 巫女 の 関与 は な い 。
猪 子 に は、 そ の 他 に 規 模 の 大 き な 三 つ の 祭 祀 集 団 =講 があ り、 こ れら に はO ・M 巫 女 が 関与 す る。
a。 八 幡 講
同 講 は旧 無 格 社 ・ 八 幡 神 社 の 祭 祀 集 団 で 、 先 述 の 通 り 猪子 を 上 ・ 下二 つ に 分 け た 「下 」 のうち の60 戸 が加 入 す る。 基 本 的 に は 各 家 の 屋 号 、 即 ち 家 の 初 代 の男 性 戸 主 の名 が 後 述 の「人 名 録 」 に 記 載 さ れ て い る の だ が 、1999 年 に は 神 社 で の祭 典及 び 直 会 に は 女 性 も 少 なか ら ず 出 席 し て い た。
社 伝 に よ る と慶 長10 年 (1605) の 創 建 に な る ら しく [ 同:92]、 元 々 の 例祭 は 旧 暦4 月9 日で あ っ た が 現 在 は3 月19 日で あ る。 祭 神 は 玉 依 昆責 命 ・貴 田 天 皇 ・息 長 帯 姫 命。 同 社 は、聞 き 書 に よ れ ば 今 日「上 」のS ・Yo 家 ( 屋 号 )と 並 ぶ 旧 家 で あ る 、「 下」 のS ・Ya 家 (屋 号)の 、現 存 し な い 本 家 で あ る 佐 藤 八 郎 衛 門 の氏 神 で あっ た ら しい(S・K 氏 談 、1998/12/15)。
上 記60 戸 が5 軒 ずつ の12 組 に 分 か れ て お り、1 年 交替 で 各 組 が 当 屋 ( 或い は 当 組。 う ち1 軒 が 宿 元 。) に なる 。 例 祭 前 に はO ・M 巫 女 の所 で 託 宣 を 聞い て 来 る の だ が 、1999 年 には3 月3 日 に宿 元S ・Y 家 ( 屋 号 ) の 主 婦S ・M さ ん と も う一 人 の女 性 の 計2 名 で 聞 き に 行っ た そ う であ る (1999/3/19 の 祭 典 時 の 聞 き 書 )。 直 会 の席 で 配 ら れ る 「平 成 十 年 度 八 幡 神社 収 支 計 算 書」 記 載 の 託 宣 の 内 容 は 、 作 柄 ・ 災 難 のあ る月 ・ 注 意 す べき 方 位 、 生 ま れ 年 に 関す る も の で あ る。「 八 幡 大神 」 と 「 八 幡 太 郎 義 家 」 の掛 軸 と 共 に 次 の宿 元 に 渡 さ れ る 帳面 に は 会 計 報 告 の み が記 載 さ れ 、 託 宣 の清 書 は 行 な わ れ ない 。
さて 、 八 幡 講 の 宿 元 宅 に は 、 ま ず 容 器 とし て 「 大正 四年 四 月 九 日/ 奉 納 八 幡 大神 御掛 圖 東 郷 村 大 字 猪 子 /[ ・T】(67)と 蓋 の 裏 側 に 書 か れ た 掛軸 を 入 れ る箱 、「昭 和 参拾 四年 参 月 廿 九 日 / 八 幡 神 社 幟 箱 寄 贈者 猪 子 生 産 組 合」 と同 じ く 蓋 の 裏 側 に 書 か れ た、 塗 り の椀 を 入 れ る 箱 が 保 管 さ れ て い る。 文 書 と し て は 、「 昭 和拾 五 年 四 月 七 日改 / 八 幡 講 中 人名 録 」 及 び そ の 改 訂 版 で あ る 「 平 成 六 年 三月 再製 / 八 幡 講 中 人 名 録 」、「 昭 和 参 拾 四年 参月 貳 拾 九 日 / 八 幡 講 祭 典 宿 元 行 事 台 帳 」 の3 点及 び 、 特 に タ イ ト ル は な い 「 八 幡 神 社 祭 典 」 の 記 録 ( こ こ で は 便 宜 上 「 八 幡 神 社 祭 典 記 録」 と 呼 ぶ 。) と講 員 名 簿 兼 出 欠 調 べの、 計4 点 、 そ の 他 筆 記 用 具 等 の 入 っ た金 属 製 の 菓 子箱 が保 管 さ れ て い る 。 上 記 二つ の
「人 名 録 」 を 比 べ る と 、「第 貳 番 組 」「 第 拾 壹 番 組 」「第 拾 貳 番組 」 に 各1 名 の 異同 が あ る 他は、12 の 組 が あ る 事 、 そ れ ぞ れ5 軒 から な る 事 等 、 全 て同 一 で あ る。 そ の あ とに 記 さ れた 「講 中 委員 」 の メ ン バ ー も、12 名 か ら 日 名 に 減っ て い る のみ で 、 構 成 員 は変 化 し て い ない 。 尚 、最 新 の名 簿 、即 ち平 成11 (1999) 年 の 祭 典 出欠 表 にお い て は、2 名 が 減 り、7 名 の名 前 に 異同 があ る。
1999 年3 月19 日 の 例祭 は11:00 の 開 始 予 定 で あ っ た が 、s・s 宮 司 の都 合 が つ か な かっ たた めに 、酒 田 市黒 森 の 日枝 神 社 宮 司 で あ るS ・M 氏 (1924 年 生 ) が祭 主 とし て 呼 ば れ た のだ が 、 折 悪 し く 同 氏 が 何 か の 事 情 で 遅 れ た た め 、11:56 よ り 始 ま っ た。 参加 者 は 責 任 役 員3 名 及 び 世 話 役3 名 の 男性6 名 と 女 性8 名 で あ る。幣祓 い 、祝 詞 奏 上 、玉串 奉 寞 があ り 、12:18
に は 終了 し 、12:45 よ り公 民 館 に て 直 会 と なっ た。 参加 者 は 男 性25 名 、 女 性21 名 ほ どで あ っ た。 会 計 報 告 な どの 後 、13:20 に 乾 杯 、13:45 には ホー ル の 入 り 口 近く で 「 当 屋 渡 し 」が行 な わ れ る。 14:45 1こは人 がい な く な り 自 然 解 消。そ の 後 、16:00過 ぎ に 公 民 館 の 第1 、2
室で 宿 元 夫 妻 とそ の 他 の 当組 の 男性 と 世 話 役 ・ 責 任 役 員 の みに よ る 直 会 が行 な わ れ た。 以 前(10 年 以 上 前 迄 ) は そ の年 の 当 屋 の 家 で 行 な っ てい た とも い う(S・Ya 家 の 現 戸 主s ・s 氏 (1932 年 生 ) 談 。 1999/5/27)。
資 料 Ⅲ − ④に「平 成 十年 度 八 幡 神 社収 支 計 算 書 」記 載 の「 御詫 宣 」の 部 分を 示 す 。書 体 ・ 形式 等 を 示 す べ く 、 資 料IV − ② に は ハ ー ド ・ コ ピ ー も収 録 し た(6≒ 尚 、 昨 年 は 託 宣 が な かっ た た めか 、 会 計 に 「 ミ コ サ ン ヘ の 御 礼 」 の よ うな 項 目 が ない 。
こ の 講 中 に は託 宣記 録 が 存 在 し な い 事 は 前 述 し た が 、八 幡神 社祭 典 記 録 が残 さ れ てい る。
毎年 交 代 す る 宿 元 宅 に 保 管 さ れ て 来 た 箱 に 所 蔵 さ れ て い る 最 古 の 記 録 は 昭 和50 年(1975)
の もの で あ る。 こ れ も 資 料 Ⅲ − ④ に 記 載 す る。 こ こ で 興 味 深 い の は 、 平 成2 (1990) 年 か ら、「み こ を 聞 く 」 等 々 と い う 記 述 が 、 毎 年 な さ れ て い る 事 で あ る。 こ の年 の 「一 ヶ 月 」 とい う の は 意味 不明 で あ る が 、 翌 年 か ら の 日付 を 見る と、 祭 典 日の 前に 託 宣を 聞 き に 行っ てい る 事 が明 瞭 に 分 か る。平 成9 (1997)年 か ら ワー ド ・プ ロ セ ッ サ が 使 用 され 始 めた が、
それ 迄 少 し ず つ で はあ る が 変 化 し て 来 た 文 面 や 書 式 が 、 こ れを もっ て 一 気 に 定 式 化 さ れ て いる の が 、 見て 取 れ る 。
も う一 点 、「八 幡 講 宿 元 行 事 台 帳 」 の 昭 和34 (1959) 年 か ら 昭 和62 (1987) 年 迄 の変 化 を見 る た め に、 部 分的 に 抜 粋 し て 資 料 Ⅲ − ④ に 記 載 し た。 初 年 度 は 極 めて 長 い 文 面 な の で ある が 、 こ の末 尾 の 「 記 / 八 幡 神 社 例 祭 無 事 終 了 / 祭 典 要 具 一 式 全 部 申 / 送 りま し た/ 昭 和 参 拾 四 年 参 月 廿 九 日 / 宿 元 S ・Ya( 屋 号 ) / E ・H ( 屋 号) 殿 」 と い う 部 分 の形 式が 、 以 下 し ば ら く 継 承 さ れ る。 と こ ろ が 、一 回 り し てS ・Ya 家 が再 び 宿 元 を し た昭 和53
(1978)年 から 、記 述 が 詳 細 な も の に な り、 こ れ が昭 和61 (1986) 年 迄 継 承 さ れ、 昭 和62
(1987) 年 に 再び 簡 略 化 さ れ た形 式 に 戻 っ て い る。 輪 番 制 を とる 講 形 式 の祭 祀 集 団 で は 、 祭神 を 勧 請 し た と も言 わ れ る 旧 家 の 権 威 は ご く 一 時 的 なも のに と どま る事 が 、 見て 取 れ る であ ろ う。
b。 地 神 講
同 講 が 祀 る堅 牢 地 神 は、明 和2 (1765)年 、前 述 の 旧 家S ・YO 家 の 創 建 とさ れ る[ 同:97]。
「上 」 の54 軒 (1998 年 迄 は55 軒 ) か ら な る 講 中 が あ り 、5 軒 ず つ の11 組 に 分 か れ てお り、 そ の うち の1 組 が順 番 に 当 屋 (ま た は 当 組。 や は り うち1 軒 が宿 元) に な る。3 月21
日に 地 神 講 が行 な わ れ る が 、 そ の 前 に0 ・M 巫 女 に 託 宣を 聞き に 行 き 、 これ を印 刷 し た も のを 当 日 配 布 す る。
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1999 年 の宿 元K ・S 氏(1939 年 生 ) の 妻 (生 年 不 明) 及 び 母(1921 年 生 ) の 話 で は 、 印 刷し て 配 布 す る よ うに な っ た の は1994‑1995 年 の事 で 、 そ れ 迄 は 直 会 の 席 で 司 会 者 が 口 頭 で 読み 上 げ て い た とい う。 筆 者 が 見 学 し た1999 年 の 直会 で もそ う であ っ た が 、 印 刷 さ れ る よ うに なっ て か ら は 読 み上 げ る 事 は なく なっ た よ う だ。1999 年 は 託 宣 は2 月28 日 に 当 屋 の5 軒 の 主 婦 各1 名 ず つ 全 員 で 聞 き に 行 き 、「託 宣 」 の 部 分 の み を 録 音 し て 来 て あ っ た ので 、 聴 か せ て 頂 い た。 但 し 、 後 に なっ て テ ープ 起 こ し を 行 なお う と し て 、 ダ ビ ン グを 頼 んだの だ が 、既 に別 の も の を 上 か ら 録 音し て し ま っ た ら し く 、叶 わな か っ た 。ここ か ら は 、 録音 さ れ た 託 宣 は あ く ま で もF 記 録 」 の 為 に 用 い ら れ た一 時的 なデ ー タ で あ り 、 さ ほ ど 重 視し てい ない 事 が 読 み 取 れ る。
祭 典 は ま ず 当 屋 の み が 集 ま り、 宿 元 宅 に てs ・s 氏 を 祭 主 とし て9:20 よ り 始 ま り 、 幣 祓 い、 祝 詞 奏 上 、 玉 串 奉 莫 が行 な わ れ 、9:31 に は 堅 牢 地 神 の鎮 座 地 へ 移 動 す る。 幣 祓 い 、 祝 詞奏 上 を し 、9:40 に は 終 了。10:00 に は 一 同 公 民 館 へ 移 動 す る 。 直 会 の 準備 は 当 屋 の み で 行ない 、12:00 に は 始 ま る 。 13:00に 八幡 講 と 同 じ 形 式 で 当 屋 渡し が 行 な わ れ た。 当 番12 名( 宿元 は 親 子 二 代 が 夫 妻 で 参加 ) の 他 、 男 性27 名 、 女 性7 名 位 が 参加 し てい た。 14:30 には 自 然 解 消 し 、16:10 頃 か ら 当 屋 の方 々 の み の 直 会 が 公 民 館 の 第1 、2 室 で 始 ま る。 18:30 には 全て が 終了 し た。
さ て 、 当 日 配 布 の も の は ワ ー ド ・ プ ロ セ ッ サ を 用い て 印 刷 さ れて お り 、「堅 牢 地 神 講 御 託宣 」 と 題 さ れ 、 八 幡 講 の も の よ り か な り詳 し く 書 か れて い る。 同 文 書 の ハ ー ド・コ ピ ー を資料lV − ② に 収 録 し た。 こ れ は 後 に 「堅 牢 地 神 講 御 託 宣 」 と 表 紙 に 書 か れ た 帳 面 に 墨 書 にて清 書 さ れ 、 会 計 を ま と め た も のや 掛 軸 と共 に 次 の宿 元 に 渡 され る 事 に な る 。
現 存 す る資 料 は 、「明 治 四 拾 三 年 / 地 神 講 / 納 S … 」 と 書 か れ た 箱 に 入 っ てい る 。 表紙 が あ る も の は 「明 治 二 拾 二 年 堅 牢 地 神 資 本 金 利 子 取 立 帳 二 月 廿 一 日 」、「 昭 和 四 十四年 堅 牢 地神 講 三 月 二 十 一 日 改 ム 」、「平 成 元 年 堅 牢地 神 講 三 月 二 十 一 日 」、「堅 牢地神 講 御詫 宣 」 の4 綴 り で 、 表 紙 が なく 昭 和43 (1968) 年 の 「堅 牢 地 神 御 詫 誼(69)」 を 先頭 に 置く 一 綴 り の 計5 点 あ る。 ち な み に 、「堅 牢 地 神 講 」 と書 か れ た会 計記 録 の 最 古 の ものは 明 治13 (1880) 年 の年 号 を も っ て い る。 難 読 の た め 、内 容 は 省 略 す る。
こ れ ら の 資 料 の うち 託 宣記 録 を 資 料 Ⅲ − ⑤に 記載 し た。 最 古 の 託 宣記 録 につ い て は 、 年 号の明 ら かな も の と し て は 少 な く と も 大 正7 (1918) 年 の も の が 存 在 す る。 以 後 、 第2 次 世界 大 戦 を 経 て そ の 記 述 は 次 第 に 簡 略 化 し 、 昭 和34 (1959) 年 の も の は 農 産 物 に 関 す る 記述 と火 難 のみ が扱 わ れ てい る。 そ の後 徐 々 に 記 述 が 詳 細 な も の に な り 、平 成11 (1999)
年 の も の が、最 長 で あ る。以 上3 点 につ い て は、資 料lV − ②に ハ ー ド・コ ピ ー を 収 録 す る 。 ま た 「 堅 牢 地 神 講 御 託 宣 」 と表 紙 に 書 か れ た帳 面 に は 昭 和44 (1969) 年 以 後 の 託 宣 記 録 が、 毎 年 もれ なく 編 年 順 に 収 め ら れ て い る (そ れ 以 前 の も の も収 めら れて い る が 、年 号 は不連 続 で あ る。)。 表 紙 の ない も う一 分 冊 に は 大 正10 (1921) 年 か ら 昭 和43 (1968) 年 分迄が 、 ば ら ば ら な 年 号 順 に 収 め ら れ て い る 。 字 体 に 関 し て も 注 意を 促し て お く と 、 当 初 は叢 書 乃 至 は行 書で あ っ た も の が 次 第 に 楷 書 化 し 、 筆 者 に とっ て は 読み や す い 形 に 変化 し てい く 事 が 見 て 取 れ る し 、 文 体 に 関 し て 言 う と 、 特 に 平 成11 (1999) 年 の も の はO ・M 巫 女 の 口調 に 極 め て近 く な っ て お り、 極 め て 詳 細 か つ 散 文 的 に な っ て い る の が分 か る。 こ れ は、 結 局 録 音す る よ うに な っ た、 と い う事 が 一 因 で は ない か と 考え ら れ る の だ が、 そ れ は そ れと し て 、 託 宣を しっ か り と伝 え よ うと い う意 志 が はっ き り と出 て い る事 に 注 目 せ ね ば なら な い。
c。 大 神 講
琴 平 神 社 境 内 の 天 照 皇 大 神 を 祀 る 祭 祀 とし て 「 大 神 講 」 が あ り 、200 年 以 上 続い てい る とされ る[ 同:96]。講 員 は20 名 で 五 つ の 組 に 分 か れ 、上 下 両 方 の世 帯 を 含 み2 区 か ら 約10 軒、3、4 区 か ら そ れぞ れ約5 軒加 入 し て い る 。 平 成8 (1996) 年 の名 簿 を 見る と、 こ れ を 八幡 講 ・ 地 神 講 の名 簿 と 照 ら し合 わ せ る 事 に よっ て 、 同 講 の20 軒 中13 軒 が 八 幡 講 と の 重 複、7 軒 が 地神 講 と の 重 複 加 入 で あ る 事 が 分 か る 。 こ の年 の宿 元K ・T 氏 (1915 年 生 ) に よると 、 大神 宮 は 先 述 のS ・Ya 家 の 「 ウ チ ガ ミ ( = 氏 神 )」 であ る らし い 。 し か し 、S・Ya 家 の分 家 は1 軒 も 入 っ て い ない とい う。 祭 日 は3 月16 日 と なっ てい て 、「 当 番 」( ま た は‑